<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

何時でも何処ででも始められそして止められる精神統一

2017年07月30日 09時10分56秒 | Weblog

振りをするのである。姿や形を似せてそれらしく振る舞うのである。そしてその気になるのである。右へ倣いして真似事をするのである。嘘者で我慢するのである。

一日駅長さんのように、帽子と服とを借りて来て着込んで、即身成仏する。いやいや、その振りをする。ただちにこのままで仏に成ったという気持ちになる。そこのところを想像してみる。「我は大日如来なり」を誇示喧伝する。もちろん一人密かに。己の内側で。そして成りきって見る。宇宙一杯に広がってみる。涅槃の境地に入り込んで息をしてみる。すると落ち着くのである。しばらく安らげるのである。

気分を繕って陀羅尼を唱える。アビタウンケンバザサラサトバーンの陀羅尼を発声する。目を閉じる。瞑想をする。息と姿勢とこころの脈拍を整える。そして成りきって見る。1cmくらいの深さだろうが、10cmを装ってみる。ちょっと無理があるかもしれないけれども。これは児戯に等しい。まあそれでも、児戯に同じだが、自足すればいいだけの話だ。

自己暗示なのかも知れない。わたしは大日如来の仏弟子なりという暗示を掛けて、図々しくなってみる。それで加護されている己を味わってみる。安上がりと言えば安上がりだ。お金は掛からない。何処ででも出来る。いつでも始められるし、いつでも止められる。道具は要らない。なにより一人でできる。そしてにんまりができる。

精神統一を図るが、各地で何度も豪雨が襲い堤防決壊して、寸断される。それでもお構いなし。それもこれも一連のプロセスと見做すのだから。愉快な見做し遊びなのだから。

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仏がわたしにお入りになる わたしも入って行く

2017年07月30日 07時22分13秒 | Weblog

為我現身 入我我入 仏加持故 我証菩提 以仏神力 利益衆生         「舎利礼文」より

いがしんしん にゅうががにゅう ぶっかじこ がしょうぼだい いぶつじんりき りやくしゅじょう

我が為に身を現して、我に入りたまふ 我をして入らせたまふ 仏の加持したまふが故に、我は(仏の)菩提を(我が身に)証せり 仏の(この不可思議な)神力を以て、衆生を利益せむ

大日如来が修行者のわたしのもとに仏身を現してくださって、わたし(の三密)にお入りになり、わたしを(仏の三密に)入らしめてくださったので、わたしはこの通り大日如来と一体化してその仏智をこの身に頂いて加持されたのである。この上はわたしが仏の神力に動かされて(苦悩の)衆生を利益(りやく)救済していこう。

(いい加減さぶろうのいい加減な解釈)

三密とは仏の持つ三つの蜜のハタラキを言う。人間の思議の及ばないところだから蜜という。具体的には身・口・意のハタラキを言う。口にすることばとこころの思いとその実践実行とを言う。人間のそれは三業とも言う。

三密でもって仏は修行者を加持するので三密加持という。加持とは仏が不可思議な神力で衆生を加護すること。

三密加持の行がある。これは人間の三業と仏の三密を一体化させる行である。三密相応とも三密瑜伽ともいう。修行者の三業が大日如来の三密と本質的には同一であることを修行によって体験していく。(以上は辞書に拠った)

経文を舌の上に遊ばせて味わうと、さぶろうはしだいに涙になる。嬉しくなる。有り難くなる。ほかほかに体温心温が温度上昇する。修行者でもないから、本来はそうあってはならないのだが、そうなる。偲んでみるのである。ふりをして遊ぶのである。真似事である。真似事は幼児期のままごと遊びに似ている。

入我我入。にゅうががにゅう。仏がわたしに入って来られ、わたしが仏に入っていく。そうするとわたしは仏と同一することになる。こんなことがあっていいのか。逡巡するがそうなっている。仏の加護は常に密である。秘密裏である。それを布団干しのように表に出して来て、あたたかさに触れるとよろこびになる。 

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人は意思の力で生きている

2017年07月30日 07時06分23秒 | Weblog

人は意思の力で生きている。生きようとする意思の力で生きている。己の内にこれが強く働いている。これを強めることで逆境を生き延びることが出来るはずだ。西瓜の蔓が畑に長く伸びているように。西瓜の蔓は、あれは生きようとする意思の蔓なのだ。昨日見舞った友人のこころの畑に西瓜の蔓が長く長く延びていきますように。

 

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味わうのは舌だから 味わうことは出来る

2017年07月30日 06時17分41秒 | Weblog

味わうのは舌だから、舌が元気な活動をしてくれたら、味わうことは出来る。昨日は友人を見舞った。たとい身心に重い病を病んでいたとしても、今日ただ今を生きているというこのおいしさを味わうことは、舌には出来るはずだ。

病人はこのおいしさを味わってはならないという法令は発布されてはいないのだから。たといそういう法令があったとしても、自由だろう。舌はそんなことにはお構いなしだろう。今朝も僕は友人のことを思っている。

人はそれぞれに重い。重い荷物を肩に担いでいる。でもその重さを悔やまないことだろう。恨まないことだろう、我が身の不幸を嘆かないことだろう。そうした途端にこの世の一切が腐ってまずくなる。そう分かっていても引き摺られてしまうかもしれない、いざそういう境遇に落ちてしまったら。でも昨日見舞った友人は悔いなんかおくびにもしなかった。

悔いて生きるのはつまらない。一瞬一瞬はそんなことのために提供されているのではない。切り替えたら、身心の病も切り替えが起きる可能性が大になるはず。一段元気の方へ、健康の方へギアチェンジがされる可能性が大になるはず。味わうのは身心の一部分の舌なんだから。この部分が活動をしてくれていたら、今日ただ今を生きているというこの新鮮なおいしさを味わうことは許されているはずだ。

健康な人の舌と病を患っている人の舌は違う舌だろうか。もしかしたら違っているかも知れない。当てずっぽうは言えないかも知れない。置かれている境遇が舌を造っているだろうか。生きているおいしさを味わう舌はどちらの方が敏感なんだろう。

夏の朝の6時半。支柱に結ばれているトマトの幹が伸び上がって伸び上がって、溌剌としている。そろそろ3m近くあるだろう。2m半くらいのところに青い実が3個実っている。深い草藪にはさまざまな虫の鳴く声がする。コノヨニ・イキテイル・オレハ・イマヲ・ウレシク・イキテイルという声がする。トマト畑からも草藪からも。

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油蝉が夏の朝を連れてきた

2017年07月30日 05時47分39秒 | Weblog

油蝉が夏の朝を連れて賑やかな林に遊んでいる。まだ6時にもならないというのに。眼前の庭には濃紫の朝顔が幾人(いくたり)もいてはっきりと目覚めている。長い夜が去って行った。夢だらけの沼地をようやく抜けられたという感じがする。夢映画館は毎晩新作がずらりとならぶ。それをみんな見せられるのでへとへとだ。今日は日曜日だった。家族はまだ起きて来ない。蒸し暑い夜に浸っていたので汗が粘りついている。風呂場へ行って朝シャンをしよう。ところが朝シャンというのは朝シャンプーのことらしい。僕には頭髪はないから、朝シャワーしかできないけど。老いた全身を海にする石鹸の泡は清々しい。グノーのアベマリアの曲が霧の池を滑ってしずかに流れてきた。YouTubeを聞いている僕のいる窓辺へ黒揚羽が来て「わたしもお仲間に入っていいかしら」というゼスチャーをする。僕は首を縦に垂れる。さて、今日をどう生きていこうか。生きている今日をどう生きたら、それが味わえるのだろう。そのおいしさに舌鼓が打てるのだろう。夏草の生い茂る城原川の河原を横目に見ながら南下してサイクリングをするのがいいかもしれない。このところずっとやっていない。僕は猿のナマケモノ以上にだらしがないのだ。暑い夏はわけても。

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メロン栽培は失敗 とほほほほ

2017年07月29日 20時53分01秒 | Weblog

同じく、不器用さぶろうの畑にタイガーマスクメロンが6個なりついた。シメタとほくそ笑んだ。蔓も枯れてきたので収穫をしてみた。大きい方から3個。1個は熟しすぎて畑で既に腐っていた。気が付くのが遅かったのだ。包丁を立ててみた。黄色い果肉が顔を見せた。ところがこれが固い。熟れてなかったのである。食べてみたが、甘さがまるでなかった。胡瓜のようだった。失敗作である。瓜の塩漬けにもなりそうになくて、捨てられてしまった。大きさは十分だったのに内容が伴っていなかった。そこは畑の主のさぶろうそっくりだった。残りは仏壇に預けてある。お尻が甘い匂いをさせるまではとにかくお預けとなった。皮が厚い。肥料配分方法に間違いがあったのかもしれない。

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畑の大玉西瓜🍉が熟れていた お見事!

2017年07月29日 20時27分53秒 | Weblog

我が家の畑で育った大玉西瓜🍉をとうとう真っ二つに切った。だが恐る恐ると。熟れ具合が外からでは分からなかった。なにしろデカイ。重さは9.8kg。収穫して仏壇にお供えして3日が立った。もうよかろうということになった。包丁を降ろす隙間から赤が覗いた。果たして上々の熟れ具合だった。何をさせても下手くそなさぶろうのうちでこれだけの上出来が食べられるとは、奇跡に近かった。さっそく8分の1に割って、試食してみた。甘かった。糖度がかなり高くなっていると判断された。次いで家族の者も食べてみた。高い評価が返ってきた。残りはラップをして冷蔵庫に収まった。冷えて益々おいしくなるだろう。明日が楽しみになった。それにしても不器用さぶろうの手になったものにしては、まことに上々の出来である。西瓜畑には後続も太ってきている。黒皮西瓜と黄色西瓜と大玉西瓜と小玉西瓜と4株が所狭しと蔓を這わせている。カラスやイノシシ類の被害対策も講じておいたので、被害もない。何だか神さまにしきりにお礼が言いたくてたまらない。明日はともあれお礼の追肥を撒くことにしよう。

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友人を見舞った後、青い夏の海に出てみた

2017年07月29日 19時09分20秒 | Weblog

今日は友人を見舞った後、海に出てみた。友人は、病と戦っている者でありながら、そういう暗さ悲壮さ重さは影を潜めていた。明るかった。そのように努めているというところも見受けられなかった。高校時代の話に興じた。お昼時で弁当類を買って行ったが、しかし、彼の箸が全く動かなかった。飲む水の量も制限されているようだった。玄関に出て出迎えてくれた。帰りも玄関まで見送りをしてくれた。疲れさせてはいけないので、長居はしなかった。手を握り締め合って別れた。姪浜海岸線の生の松原がすぐ近くだった。そこから海岸線沿いに車を走らせた。砂浜には海水浴をする家族連れの人たちも見受けられた。車を降りて、何処までも続く青い風景を眺めた。眺めていても、風景の中にさっき別れてきた友人が現れて来て、ぼそりぼそり、ゆっくり噛みしめるように、あれやこれやの話の続きをしているようだった。

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人間容積はどうやって測定できるか?

2017年07月29日 18時01分38秒 | Weblog

立方体の容積は縦x横x高さで求められる。縦40cmx横50cmx高さ60cm=12000立方cmという具合に。文字式に変換すれば、Y=AXBXC。

人間の容積はどうやって求められるのだろうか? もしも立方体に等しいとすれば、その計算式に当てはめたらいいだろう。

横というのは長さなのかもしれない。つまり何年生き長らえたかである。では、横幅は? 知識や智恵の学習量だろうか、それとも体験の量だろうか、それとも自己錬磨の量だろうか。高さとは深さと言い表してもよさそうだ。どれだけ深く人生を味わったか。どれだけ深く苦しみ得たか、悲しみ得たか、喜び得たか。どれだけ高い境地に達し得られたか。或いはどれだけ深く安らぐことができたか。或いは自己執着を離れてどれだけ深く他者に愛情を注ぎ得たか、どれだけ多く他者を喜ばせ得たか。

同じく80年を生きたとしても、縦が2倍で深さが3倍だとすれば? 表の寿命だけでは測定ができないことになる。たとえ短命で死を迎えたとしても、BやCの違いに拠っては、その人の人間容積容量Yは、長命の人のそれを凌駕しているかもしれない。天才的な音楽家とか天才的な画家、小説家、哲学者、数学者、物理学者で短命に終わった人は多い。

でもこの計算式にもう一つの条件Dを加えたとしたらどうだろう? しかもD=0としたらどうなるか? そうするとたちまちにしてすべての人が0となってしまう。0とは人間の錯覚である。空であり無である。宗教はそういう計算式を立てるところがある。人間の錯覚Dという因子とは、神或いは仏の側から見た測定値と言い換えてもよさそうだ。

0というのが如何にも如何にも空しい話だとすれば、1としてもいい。この世を生きたすべての人の人間容積は一定である、と。

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一人寂しいくらいがいいのかなあ

2017年07月29日 09時58分20秒 | Weblog

一人寂しいくらいがいいのかなあ。世界中を強制的に不穏に陥れたり、戦闘に巻き込むよりはずっとずっとましだものなあ。一人をつまらなくしているくらいがいいのかなあ。人を脅して己の利益を貪るよりは、ずっとましだものなあ。一人の内側で済んでいるものなあ。一人が立てた波が遠くまで行かないうちに消えてしまうくらいの小規模な暮らし方に甘んじているということは、あながち責められることでもないのかもしれない。

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