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<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

なんでもおいしい

2015年12月14日 19時09分19秒 | Weblog

なんでもおいしい。食べるものがなんでもおいしい。なんとありがたいことだろう。口にするものがほんとにどれもおいしく感じられる。食べる前からそう自己暗示して食べ始めるわけでもないのに。こうだ。食べ終わってこうだ。おいしかった。大根のおひたし。里芋とホウレン草と豆腐の白ぬた。ブロッコリーの蒸しもの。ハツの油炒め。一合の熱燗。デザートにしたサツマイモの焼き芋。不思議にどれもこれもおいしかった。これで今日の夕食も満足した。不平も不満も文句もない。どうしてだか分からない。今夜も引き続き、どうしてこう満足した食事がとれたのか、分からない。

そうだよなあ。働きもしない70才の男が無条件で戴いている食事だもんなあ。ケチを付けられたらどんなにでもケチが付くはずの、食べてはならぬと命令されたって抗弁が出来ないほどの、その無価値な男が価値を与えられて食べている食事だもんなあ。これだけどうしようもない男が、あろうことか、ぬくぬくとして夕食を戴いたんだものなあ。

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人世不可解には可解も含まれている

2015年12月14日 18時48分27秒 | Weblog

「人生不可解」といって滝壺に身を投げた人がいたが、この「人生不可解」には、実は必然的に「人世可解」も混入しているのである。なにせ、答が出せないといっているのだから、何が混じり合っていても削除は出来ないはずである。固定がないのだから、どの答にも平等にイエスとしか言いようがないではないか。その代わり、断定が出来ない。答は是一つしかないとはしないというだけである。それとも「人世不可解」という「可解」に行き着いたというのか。だったら、不可解なぞという立場には立てないはずである。いや、「不可解」は自由の範囲が広い。未だし、不可解だから、今後は可解も流れ込んできておかしくない。いや、正解は一箇ではない。地球人口の70億の70億箇通りにその人独自の正解があるのである。その人にはそれが正解なのであるから。不可解不可解は答を出すのをただただいたずらに延長しているだけかもしれない。この女性が、あるいはこの男性がわたしのベターハーフだと決めてしまえない優柔不断がますます多く募っているように。さぶろうなんか節操がないから、何度でも結婚しているようなものだ。この答でいい、この答なら満足させてくれそうだ、この答がベストだなどとこれまでおよそ幾通りの答を並べ立てて来たことだろう。

 

 

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元気で何より

2015年12月14日 14時44分19秒 | Weblog

「元気でなにより」「なによりなにより」。われわれはこう言い交わす。この挨拶言葉に力が籠もる。実感がそうさせるから。でも、そうそう元気いっぱいでいられるわけでもない。でもやはり同じくこう言い交わす。「元気でなにより」「なによりなにより」。これは我が身だけのことを言っているのではない。人様のことをそんなふうに眺められるようになっているからだ。「元気な人が元気でいる、それが一番ですよ」「まわりの人もそれで元気をわかしますからね」という具合に。年を取るとそうなる。自分が元気でないときでも、人が元気を保っていることで嬉しい気持ちになっている。そういうこともある。ゆるやかになってきたせいかもしれない。嬉しいを感じる幅がひろくゆるやかに延び縮みできるようになっているせいかもしれない。境界がうすぼんやりと霞んでしまってきた証拠かも知れない。

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ハイネの美しい処女の詩

2015年12月14日 14時14分17秒 | Weblog

「なにゆえにこう悲しいのか」   ハインリッヒ・ハイネ(1797~1856)

なにゆえにこう悲しいのか/われながらわけもわからず/いにしえの語り伝えが/こころについて離れない

風冷えて、たそがれを/静かにラインは流れゆき/沈む日に照り映えて/かの頂きはかがやきたつ

あやしく高みに座るのは/まことに美しい処女(おとめ)/金の飾りをきらめかし/黄金(こがね)の髪をくしけずる

黄金(こがね)の櫛に髪を梳き/処女(おとめ)は歌をくちずさむ/その調べにこもる/ふかしぎの力・・・

小舟を操る舟人は/悲痛の思いに/心をうばわれ/波に隠れる岩を見ず/ただに高みを見るばかり

こうしてついに舟人は/船もろともに波に呑まれる/これはあの歌の調べで/かのローレライのなすしわざ

(1824年発表。「ローレライ」の副題がついている)

詩人ハイネと聞いただけで身が竦んでしまう。彼はあまりにも深遠な真理の海の、潜水艇操縦者だから。でも、この詩はドイツの国の伝説に基づいていて、さぶろうにも比較的分かり易くなっている。ふっふっふ。詩は分かり易いのがいいね。さぶろうのようなぼんくら凡庸にもね。

なにゆえにこう悲しいのか。それはこの世にこの世ならぬ美しい処女(おとめ)がいるからである。

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鼻歌で歌う「ローレライ」

2015年12月14日 13時58分29秒 | Weblog

「ローレライ」     訳詩:近藤 朔風

なじかは知らねど心わびて
昔のつたえはそぞろ身にしむ
さびしく暮れゆくラインのながれ
いりひに山々あかくはゆる

うるわしおとめのいわおに立ちて
こがねの櫛とり髪のみだれを
梳きつつくちずさぶ歌の声の
くすしき魔力(ちから)に魂(たま)もまよう

こぎゆく舟びと歌に憧れ
岩根もみやらず仰げばやがて
浪間に沈むるひとも舟も
くすしき魔歌(まがうた)うたうローレライ

ローレライ(Loreley)は、ドイツの作曲家フリードリヒ・ジルヒャー(Friedrich Silcher1789-1860)による1838年作曲のドイツ歌曲。歌詞は、ドイツの著名な詩人ハインリッヒ・ハイネ(Christian Johann Heinrich Heine/1797-1856)による詩が用いられた。日本では、明治42年の『女声唱歌』に掲載された近藤朔風氏による訳詞が広く知られている。

若い頃にヨーロッパを旅したことがあった。ライン川の船旅をして遊んだ。瀬が幾分狭くなったところで、船上にこの音楽が流れた。舟の最上部に上がって岸の大岩を眺めた。ローレライは行き交う船を待ち受ける岩の名。それが悲恋の娘にいつのまにかすり替わって、伝説が生まれた。音楽の教科書に採用されているので、日本では馴染みの曲になっている。さぶろうもよく鼻歌で歌っている。ハイネの詩も「なにゆえにこう悲しいのか」のタイトルでドイツ名詩選に載っている。

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野菜を宅急便で

2015年12月14日 13時28分04秒 | Weblog

昨日畑に行って掘り上げた里芋(赤芋と白芋)を洗った。まずは泥を、それから毛皮をごしごし擦って取り去った。ゴム手袋をしていたのに、あんまり擦り上げたので、親指の付け根に肉刺ができてしまった。今もひりひりしている。

それから土をこんもりかけて堆くしている畝からフカネギ(根深白葱)を抜いた。スコップを深く刺して。栄養がよくてすんすんしている真緑色のを。これも根株を切り落として、うっすらしている皮膜を剥いだ。それがすむと中国菜のターサイを幾株か間引きした。ここまででさぶろうの午前中は幕を下ろした。

家内も東北にある畑から大根、白菜、キャベツ、ブロッコリ-、蕪大根、ホウレン草、小松菜を収獲して、一輪車に乗せて運んで来た。これを大型の林檎箱に梱包して東京にいる孫たちに送るのである。もちろん、里芋、根深葱もいっしょに。干し柿を試しに食べてみたらもうすっかり渋みが抜けておいしくなっていたので、この2紐の16箇も加えた。

「東京で買った方がきっと安く付くだろうけど」と家内が言う。「そうだろうな」と頷く。「でも新鮮だから」「それに無農薬で安全だから」と言い足す。「なにより孫たちがよろこぶからね」「それを見るためのようなものね」二人は会話しながら箱詰めを終えた。とても全部を詰めるのは無理だった。「干し柿をいっしょにしたら黴が生えてきそうだからこれだけは別便にした方がよさそうね」と家内が心配顔をするので、そうすることになった。宅急便の送料が高く付きそうである。

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全宇宙に平伏していたい

2015年12月14日 09時31分14秒 | Weblog

「三帰」   

一切恭敬 自帰依仏 当願衆生 体解大道 発無上意

いっさいくぎょう じきえぶつ とうがんしゅじょう たいげだいどう ほつむじょうい

仏・法・僧の三法身に帰依いたします。我は一切に恭しくして一切を敬いたてまつる。自ら仏に帰依すれば我は仏なり。まさに願うところは我等衆生の法発心(ほうほっしん)。僧は仏道を我が身に解して大悟し、ただちに無上意を発(おこ)す。  (さぶろう用のいい加減な解釈)

我はこの世の一切に恭しくして、この世の一切を敬いたてまつる。この帰依行が仏道に違いない。大道を体解した姿かもしれない。

「帰」は「帰依」である。帰依は南無である。仏に依拠して我を空しくすることである。帰るべき処に帰って行く姿である。

さぶろうは、しかし、相も変わらずふしだらである。いい加減な暮らしぶりである。心もだらしなく行いもだらしない。ときおり偶にこの「三帰」に戻って来て、大空と大地と全宇宙に平伏している。

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カラスの大群襲来

2015年12月14日 09時03分59秒 | Weblog

どうでもいいようなことを書いてらあ。書いても書かなくてもいいようなことを書いてらあ。いまにカラスのことまで書くんだろうなあ。

昨日畑に一人いて畑仕事をしているときに、突然空が薄暗くなった。があがあがあがあの声がしている。嘘寒くなった。見上げてみるとカラスの大群だった。渦を巻きながら、台風の目を作りながら、遠くから遠くから押し寄せて来ていた。誰かが威嚇の鉄砲を撃ったのかもしれない。あれだけの集団で襲ってこられたら、こりゃ、ヒッチコック監督の映画もどきだ。不安が過ぎった。憎い人間を襲って来そうな雲行きだ。刃向かう力のないさぶろうを血祭りの1号にするかもしれない。格好が悪いが、そうそうに逃げ出した方がいいぞと思った。頭蓋骨なんかあの鋭い嘴だと砕いてしまいそうだ。があがあがあがあがあが続いた。

どうでもいいことまで書いてしまった。やれやれ。軽減税率のことを書いたらよかったのだろうか。生鮮食品は軽減の対象だが、酒の肴のお刺身は除外品目になりそうだ。お偉い先生方が眉を顰めて長期にご検討に及んでいる新しいオリンピック・ロゴマークの話題だったらどうだっただろう。

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逆でなくてよかった

2015年12月14日 08時50分38秒 | Weblog

おお、さんさんと光が降って来る。あんまりさんさんとさんさんと降って来るので、おおおお、おおおおと叫びたいくらいだ。その逆、降ってこないところを想定してみると、よく分かる。夜が明けているのに光が差し込んでこないところには立っていられない。不安で立っていられない。逆でなくてよかったと思う。光が濡れ縁にも紙障子にも射している。畳にも延びている。どこも「嬉しい桜」の、花片を敷いたように明るく華やかだ。さぶろうという小悪党にも平等に分け隔てなく降る光。場違いのようにさんさんとした光。それを悪びれずにいるさぶろうの平気な顔。おお、さんさんと降り続く光。

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土の力が籠もったごつい里芋

2015年12月14日 08時37分34秒 | Weblog

今日の仕事ができた。昨日畑で掘り上げた里芋の泥を落とす。作業用の分厚いごつごつのゴム手袋がここで役に立つ。あらかたはその手袋で擦って落とし、それから外の洗い場で水を流してごしごし擦り落とす。ついでに四方八方に伸びた白い鬚根も落とす。(これはごつごつのゴム手袋ではやりにくい) これが今日のさぶろうの仕事。仕事はないよりあるがまし。その日の生きる張り合いが出て来る。赤芋がでかい。白芋は小さいが数が豊富だ。どちらも土に合っていたと見える。力が籠もっている。でも掘り上げたのはわずか1株ずつだった。これに子芋、孫芋、曾孫芋がついてきた。北の畑にはまだ赤芋1列、白芋1列が残っている。一日掛かりだ。霜が降りると腐ってしまうから、掘り上げを急がなくてはならない。

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