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<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

病は阿弥陀仏の来迎ではないのか

2015年12月23日 16時12分00秒 | Weblog

来迎という思想がある。阿弥陀仏が死者を迎えに現れて来るという思想だ。「山越えの阿弥陀」という絵もある。多くの菩薩衆を伴って死者のもとに現れて浄土までの引率をしてくれることになっている。藤原道長は阿弥陀仏の手に糸を掛けてそれを己の手に巻き付けて来迎を待った。

得度をした僧侶は来迎を待たない。悟道を果たしているから一人で浄土まで行き着けるのである。「他の人のところに回って下さい」と言えるのである。

病というのは阿弥陀仏なのではないか。

唐突だが、そんなことを思ってしまった。

病は病魔と呼ばれたりして忌み嫌われる。魔扱いをされてしまう。

だが、病は阿弥陀仏なのではないか。阿弥陀仏の来迎なのではないか。

そのときが来たということではないか。わたしを信じていいという表明をされているのではないか。

わたしは病という姿をしているがこれは変化身(へんげしん)だと。

人は死ななければならないのだ。病はその一つの実行手段ではないか。

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「従容として死に就く」そのときを知らせて来たのではないか。

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仏陀を仏陀と見ることは容易である。だが、仏陀を信じうる者は病をも信じうるのではないか。仏陀の来迎と見ることができるのではないか。

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生老病死は生命のコンベヤーである。生まれた者はやがて老いて病んで死ぬのである。どんに逆らったところでこの流れが逆向きになることはないのである。

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老いた者は病むのである。病む者が死を迎えるのである。病は死を迎えてくれる同胞である。彼なくして死ぬことはできないのである。

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死に得た者のみが先に進んでいけるのである。新しいいのちへ進んでいけるのである。仏界、真如界に招き入れられる資格を得るのである。

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病は敵ではなくて味方なのである。死が見えて来る範囲まで生きた者の場合なのだが、そういう者にとって病は魔ではないはずである。

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それを仏陀として受けていいのではないか。それを仏陀の来迎として受け入れてもいいのではないか。

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それが死の尊重、尊厳になるのではないか。病から逃げ惑い、死から逃げ惑ったところで逃げおおせるものではないのだ。

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死に胸を張らせてあげたいと思うのだが、いざとなったらそうはいかないのかもしれない。逃げ惑って逃げ惑って慌てふためいて、最後まで阿弥陀仏の来迎を魔にして鬼にしてしまうのかもしれない。

 

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主君のため、国家のためになった死

2015年12月23日 14時32分38秒 | Weblog

かって武士は主君のために、藩のために死ぬことを誇りにした。(あるいはさせられた) 

戦争のときにはお国のためにとか天皇陛下のために、あるいは残された家族の安全を守るために、死ぬことを名誉にしたり、させられたりした。殉死という死もあった。

死という高価な犠牲を払って国家の繁栄に貢献することもできた。誰かの幸福に役だったりもした。死が高い価値を持っている場合があった。

そういう死のあり方は否定された。誰かのためになるような死はあり得なくなった。

100才以上が日本中に一大勢力を張るようになった。いまは誰かのためになるような死を死ぬことはない。

(生が誇りになっても)死が誇りになることもないし、名誉になることもない。そういう付加価値はつかない。

付くべきではないというイデオロギーが重きを成している。

死は援軍を持たない。誰かのために、或いは正義を通すために、有効に使えるという重量はない。付着物は一切つかない。そういう時代背景はない。

己の生命尊重と延命が至上命令をなしているので、そこにすべてのエネルギーが集約さっる。そして死ねばそこですべての価値が自動消滅をする。

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現代という時代は平和で自由である。そして向かうところ急激な高齢化社会である。生命尊重の医療制度は進歩するばかりだ。

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擦り切れるところまで延命をして、最後は死に対する抵抗すらも自覚できないで、自滅的に滅びて行く。そういう死が圧倒的に多く幅を効かせる時代になって来た。

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それは素晴らしいことなのである。理想的でもある。

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だが、自分のために擦り切れるまでとことん使い込んでしまったので、それが他に向かって働くパワーもエネルギーも、社会的価値も、薄っぺらになってしまっている、と言えなくもない。

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チューブに繋がれて無意識下に置かれていれば、己の死を自覚することもない。お金をふんだんに持ち合わせている老人の場合なのだが。

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人は己一人のために生きていたのではない。他者のために生きているとも言えないかもしれないが、他者のためには生きられないということもない。

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生がそうであるように、死もまたそういう性質を帯びているのではないか。自利のみの生、自利のみの死ではなく、利他をする生、利他をする死という役割もあったのではないか。

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他に働きかける死はある。親密な者たちに痛烈な悲しみを与えている。残された者達に、生きることがどういうことなのか、死ぬということがどういう意味を持っているのか、しきりに問いかけてくるからである。

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医療が進歩を辿るごとに一方的に生の尊厳が強く叫ばれているが、他方、死の尊厳がないがしろにされてもいけないのではないか。死というのはもっと力を内包して他に働きかけているのではないか。そういう利他の性質を持っているのではないか。

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そんなことをさぶろうは考えてみた。理路整然としていないけれども。時代がどう推移していこうと、死は本来的に生に勝るほどパワフルなのだということを思ってみた。

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生命の舞台で、生と同様、胸を張っている死があるべきだと思うのだが。「誰かのためになる死」を否定したけれども、それに代わる肯定的役割を与えることはできているのだろうか。

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帰宅しました

2015年12月23日 13時56分36秒 | Weblog

9時40分にホテルをチェックアウトして、帰宅したのは13時20分。4時間弱ほどの運転でした。途中一カ所道の駅に寄り、牡蠣、小海老、姫章魚、クチゾコなどの有明海土産とお昼の弁当を買いました。合わせて3000円。お弁当は帰宅後にひとりで食べました。

運転中ずっとNHKラジオを聞いていました。お昼までの特集番組のテーマは「一人暮らし」。「孤独死」「未婚者の孤独」「老いを乗り切る」「あの世との遠距離恋愛」などの話題が続きました。

連れ合いをなくして一人になって寂しい。親を見送って寂しい。理解者を失って寂しい。一人を選んで一人でいるが回りの賑わいが寂しい。その寂しさをどうやって凌いでいるのかというようなお便りが朗読されていました。

いずれみながそうなります。先に死ぬか後に死ぬか。周囲の親しい者を置いてけぼりするか、されるか。誰にも寂しさが募ってきます。身につまされるような内容でした。さぶろうにも寂しさが次第次第に、否が応でも、深まって行くようです。

運転中はずっと雨でした。帰宅するまで降っていました。いまは雨は止んでいます。ベランダに置いているミヤコワスレが幾鉢もあります。雨や夜露を受けないところなので埃で白くなっています。これから外へ出してあげようと思います。

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文学は飾りの芸の術

2015年12月23日 09時01分50秒 | Weblog

文は飾る。文学は飾りを学ぶ術。美しく美しく見せる術。美しくないものが、これで体面を保つ。美しくないものはそのままでいながら、見る人の目が錯覚をしてくれる。黄泉の国のイザナミ、イザナギのように真実を見ればたちまち大騒ぎになってしまう。女は美しい、それでいい。乳房は美しい、それでいい。穢土は美しい、それでいい。文学が飾ってくれる。ことばで着飾ってくれる。

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濁りに濁るばかり

2015年12月23日 08時34分31秒 | Weblog

死ねばまっさらになるのだ。であれば、気色張って、今此処でまっさらをしてみせることもあるまい。此処でのそのまっさらはてらい。化粧。偽物。死ねば真如界。そこは清浄界。此処は穢土の苦界。闇路を歩いた者には浄土の明るさが身に染むだろう。足取りを速めることはない。濁りの河を濁って泳いで、それで当然。むしろ自然。敢えて巧むこともあるまい。まっさらの時を待つ楽しみに賭けていい。煩悩の濁り、欲望の濁り。悪世の濁り。俗世の濁り。腹の濁り。行いの濁り。さぶろう濁りに濁るばかり。

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待つ者もいまい

2015年12月23日 08時13分42秒 | Weblog

雨。冬の雨。空はしぶき山々が煙る。温かい。貰って来た分の金は尽きた。帰るしかない。湯を浴びて湯を浴びて湯を浴びて4日。何事もなく、熱も出さず腹も下さず、贅沢なぐうたらをして過ごした。有り難い。この雨では、しかし、帰ったところで、畑には出られまい。さぶろうは厄介者。非生産者。ごくつぶし。帰りを待つ者もいまい。

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浅はかを好む

2015年12月23日 02時43分47秒 | Weblog

ただ念仏のみぞまことにておわしましける。まことなきさぶろうなれば、念仏を授けたまふ。授けたまふに、なほ念仏せず。まことなしを続けむとす。あさはかなり。あさはかを好んでついに終るまでまことあることなし。あさはかを好むさぶろうなり。仏を好まず、念仏を好まず。ただただあさはかを好むさぶろうなり。そらごとたわごとを好む。

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恥ずべしを恥じざる我が身なり

2015年12月23日 02時21分48秒 | Weblog

よろずのこと、みなもて、そらごと、たわごと、まことあることなし。と、読む経典にあるが、よろずのこと、みなもて、そらごと、たわごと、まことあることなしは、我が身なり。このさぶろうなり。ことばにまことなし。行いにまことなし。煩悩の盛んなるさぶろうなり。甚だしく盛んなればまことなし。火宅無常は我が身であった。恥ずべし。恥ずべし。恥ずべし。

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もう目覚め

2015年12月23日 01時57分22秒 | Weblog

目が覚めちゃった。なんだ、まだ真夜中じゃないか。部屋には小さな時計が掛けてある。2時だ。一日中、ぐうたらして、朝寝、昼寝、夕寝しているのだから、そうそう長くは眠られまい。暖房は切ってある。そろそろ寒さが戻って来たようだ。でもこの寒さが新鮮で気持がいい。今日は休日だ、祝日だ。道理で昨日のレストランの、夕食の客が俄然増えていた訳だ。さぶろうに帰郷心が湧いている。畑の里芋が気掛りだ。掘り上げてしまわないと霜害を受けて腐りそうだ。まだどっさり残っている。

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