1
来迎という思想がある。阿弥陀仏が死者を迎えに現れて来るという思想だ。「山越えの阿弥陀」という絵もある。多くの菩薩衆を伴って死者のもとに現れて浄土までの引率をしてくれることになっている。藤原道長は阿弥陀仏の手に糸を掛けてそれを己の手に巻き付けて来迎を待った。
2
得度をした僧侶は来迎を待たない。悟道を果たしているから一人で浄土まで行き着けるのである。「他の人のところに回って下さい」と言えるのである。
3
病というのは阿弥陀仏なのではないか。
4
唐突だが、そんなことを思ってしまった。
5
病は病魔と呼ばれたりして忌み嫌われる。魔扱いをされてしまう。
6
だが、病は阿弥陀仏なのではないか。阿弥陀仏の来迎なのではないか。
7
そのときが来たということではないか。わたしを信じていいという表明をされているのではないか。
8
わたしは病という姿をしているがこれは変化身(へんげしん)だと。
9
人は死ななければならないのだ。病はその一つの実行手段ではないか。
10
「従容として死に就く」そのときを知らせて来たのではないか。
11
仏陀を仏陀と見ることは容易である。だが、仏陀を信じうる者は病をも信じうるのではないか。仏陀の来迎と見ることができるのではないか。
12
生老病死は生命のコンベヤーである。生まれた者はやがて老いて病んで死ぬのである。どんに逆らったところでこの流れが逆向きになることはないのである。
13
老いた者は病むのである。病む者が死を迎えるのである。病は死を迎えてくれる同胞である。彼なくして死ぬことはできないのである。
14
死に得た者のみが先に進んでいけるのである。新しいいのちへ進んでいけるのである。仏界、真如界に招き入れられる資格を得るのである。
15
病は敵ではなくて味方なのである。死が見えて来る範囲まで生きた者の場合なのだが、そういう者にとって病は魔ではないはずである。
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それを仏陀として受けていいのではないか。それを仏陀の来迎として受け入れてもいいのではないか。
17
それが死の尊重、尊厳になるのではないか。病から逃げ惑い、死から逃げ惑ったところで逃げおおせるものではないのだ。
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死に胸を張らせてあげたいと思うのだが、いざとなったらそうはいかないのかもしれない。逃げ惑って逃げ惑って慌てふためいて、最後まで阿弥陀仏の来迎を魔にして鬼にしてしまうのかもしれない。