生きている間にすることは死んだ間にすることではない。バイスバーサ。死んだ間にすることは生きている間にすることではない。お互いにそれは差し引けばいい。それぞれ独自であっていい。生きている間に、死んだ後にすべきことはしないでいい。つまり今ここではただ一方的に生き生きしていればいいことになる。明るい昼に暗い夜のことをすることはない。ひたすらひたすら明るいことをしていればいいのである。明るくなることをしていればいいのである。といっても、死んでみればそこですることもやっぱり己を明るくすること、もっともっと明るくすることだったりするかもしれないが。ところで生き生きの反対語は死に死になんだろうか。死んだ後も新しくますます明るく生きるのだから、やっぱり同じ生き生きかもしれない。
ひとしきり眠った。とろりとろり溶けて。ダム決壊の予報を聞いて目が覚めて、部屋のライトをつけると、まだ日境峠も越えていなかった。仕切り直しというところ。ふうう。とりあえず放水をして来る。下腹が萎んですっきり。けちをしてなければ、今頃は二回目三回目の硫黄温泉しているところなのに。お金を惜しんだばっかりに、ぼんやり一夜。何事もなし。さあてこれからどうやって過ごせばいいのやら。
讃美歌「アメイジング・グレイス」は深い。含蓄のあることばが鏤(ちりば)められている。さぶろうは仏教徒だが共鳴する。作詞はJohn Newton(1725-1807)。ゴスペルソングだ。
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「Amazing Grace」の冒頭のみを読んでみる。
Amazing grace how sweet the sound
That saved a wretch like me.
I once was lost but now am found,
Was blind but now I see.
アメージング・グレース
何と美しい響きであろうか
私のような者までも救ってくださる
道を踏み外しさまよっていた私を
神は救い上げてくださり
今まで見えなかった神の恵みを
今は見出すことができる
(これはよく分かる訳だ。さぶろうの訳ではない)
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I once was lost but now am found, Was blind but now I see
ぎくっとすることが述べられている。「わたしはかって道を踏み外してさまよっていたが神はそのわたしを救い上げてくださった。わたしはこれまで神の恵み(アメイジング・グレイス)が見えずにいたが、今はこれを見出すことができる」と。彼は敗者から勝者になっているのだ。「わたしはwretch(悪党、ならず者、気の毒な人間)だった。 それがこうして救われているのだ。神の恩寵のなんと深いことか。やさしいことか。」歌はそう歌っている。力強く堂々と。そして多くの人に愛好されて歌い継がれている。日本の流行歌にこの種のものがあるだろうか。無知なさぶろうは知らない。
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勝者になる朝が来るのなら、敗者の夜を幾晩重ねたっていい。神に見いだされるのなら。神を見出す日が来るのなら。
ヒラリー・ハーンのヴァイオリン演奏を聴いています。モーツアルトのコンチェルトNo5です。夕食と団欒が終わりました。しばらくは音楽にお守りをしてしてもらいます。こうするとお風呂の時間を故意に遅らせることができます。就寝時間がこれで遅くできます。するとトイレに起きる回数が減らせます。年寄りの夜間滞空時間は嫌になるほど長いのです。ですから、なるだけ起きていた方がいいことになります。
今日の昼間、サイクリング途中で立ち寄った友人宅の奥様の言によると、百年庵の裏手にある仁比山神社の紅葉がいま見頃を迎えているのだそうです。百年庵が開園している間は不評だったと聞いています。明日、晴れているなら、行って確かめてこようと思います。自然の美の完成加減を。午前中は客人が来る予定だから、午後からでも。天気予報では雨。小雨くらいなら敢行してみましょう。
暗くならないうちに、とんとんと早じまいしました。庭仕事をしていたけれど、集中力、根気が続かなくて。もともとが怠け者。焼き芋をぱくつくながら、テーブルに腰かけてゆっくり新聞を読みました。お昼はサイクリングをしました。ちょっと遠出だったかな。友人宅に立ち寄って手作りの甘酒を頂きました。おいしかったあ。我が家では作ってもらえないからなおさらに。
甘酒はやたら糖度が高いから、血糖値の高い者は御法度になっています。でも、女房殿に頼み込んで頼み込んで今日はやっと許可が下りました。今晩仕込んで、明朝には出来上がるらしい。にんまり。これでこの先1週間は、限定1日湯呑一杯分ずつ嗜めることになるぞ。楽しみだあ。(さぶろうは安上がりな男だ。これで当分にんまりしていられるんだから)
「光の空」 作詞 さぶろう
光の空が笑ってる/笑ってごらんと言うように/光の空が言うのなら/頬をゆるめて少しだけ
光の空が笑ってる/そこに大きな意思があり/意思がわたしに向かってて/誘いをかけているのなら
光の空が笑ってる/ここへおいでと言うように/無限を教えてあげようと/誘いをかけているのなら
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さっきの「肩たたき」を唄っているうちに詩を書きたい気持ちが起こりました。即興で作ってみました。でもなんだか硬そうですね。「無限」が硬いですね。「無限に広いところへと」としても同じかなあ。ともかく童謡唱歌にはなりそうもないな。
板敷の5畳の縁側には高い窓から日がいっぱい差し込んでいてサンルームになっています。ここへ来るとぽかぽかです。お布団が干されているのでここに寝そべりました。「お縁側には日がいっぱい」が唄になって声に出てきました。ごろんごろんは無料です。自慢はなんにもありませんが、ゆっくりひとりでいられます。
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「肩たたき」 西條八十作詞 中山晋平作曲
1番: 母さんお肩をたたきましょう/タントン タントン タントントン
2番: 母さん白髪がありますね/タントン タントン タントントン
3番: お縁側には日がいっぱい/タントン タントン タントントン
4番: 真っ赤な罌粟が笑ってる/タントン タントン タントントン
5番: 母さんそんなにいい気持ち/タントン タントン タントントン
(大正15年5月の作品)
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8・5・4・4・6のリズムです。4・4・6は繰り返しになっています。でも、よおく情景が見えてきます。親子の情愛たっぷりになっています。ちょっと白髪が混じりかけた母さんが肩をたたいてもらっています。いい気持ちをしています。唄っているとこっちまでいい気持ちに誘われます。いい詩だなあ。メロデイーもいいのだなあ。両者、さすがだなあ。今日は12月。罌粟の花は笑ってはいませんが、同じくらいに光の空が笑っています。
なんのことはない。さぶろうは怠け者しています。神尾真由子のヴァイオリン名曲集を聴いて。うっとりして。そしてついふらりとこっくりこっくり炬燵朝寝をして。ふふ。もうお昼。お天気がよさそうだ。朝早く、客人があったので、外へ出て行きました。お野菜をもらって行ってもらいました。その人は欲しいだけしかいらないって、少しだけ。手にぶら下げられる程度を。それからしばらく外仕事。外に出るとあれこれが目について作業にかかります。でも、長くはしませんでした。思い切って湯治旅に出ようと考えたのですが、ちょっと待った、実行資金があるんだっけと思案しました。するともうそこで思いたちがぱちんと音をして消えて行きました。空にあげた風船が薔薇の棘に刺さって消えるように。お金というのはささやかに、暮しに必要なだけでいいのですが、ないと計画すら立てられなくなります。これからおうどんを食べに行きます。片道8kmのサイクリングをして。掻揚げうどんが420円。これくらいならポケットにあるようです。お金、もうちょっとだけ多めに僕のところにも回ってこないかなあ。それに見合う社会貢献をしていないから、しようがないのかなあ。さみしさの限度の三日間だけ、硫黄温泉湯治をしてくるんだがなあ。怠け者しているのは、ふてくされたからではありませんが、結果は似たようなものです。
A Memory William Allingham
Four dacks on a pond/ A grass bank beyond/ A blue sky of spring/ White clouds on the wing/ What a little thing/ To remember for years--/ To remember with tears ! /
池にはアヒルが4羽/岸辺には緑なす草/よく晴れた青空を/白い雲が漂っている/それっきりのこと/それが思い出されてならない/どうしてだろう/長く生きているとそれっきりのことで/涙があふれてくる 「イギリス名詩選」より抜粋。
(これはさぶろうのいい加減な訳)
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作者ウイリアム・アリンガム(1824~1889)はアイルランドの生まれ。素朴で静謐な詩は日本の和歌のそれを思わせる。
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それっきりのことなんだ、草土手があって池があって、池には野鴨が泳いでて。それっきりのことなんだ、春になれば青い空が広がってて、白い雲が流れてて。百年を生きてもそれはそれっきりのことなんだ。涙とともに思い返してみても。世の荒波を越えて来たとしても。
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What a little thing ! 生きていることはそれっきりのことでしかないのだ。ささやかなことなんだ。威張ることでもないし蔑むことでもない。この枯淡な境地は日本の禅の文化みたいだね。
都忘れが花芽をつけている。日の当たらない裏庭で。もう開きかけているのもある。よおく見ないとわからないほどだけど。微かなれど、やはり濃紫だ。お正月には飾れるほどになるのかもしれない。偉い偉い。何が偉いか。理由を聞かれても即答はできないけれど。そうだなあ、こうしてひっそりと生きてひっそりと花を着けているところ、そこも偉い。濃紫の色合いの見事さ、これを染め上げたところも偉い。
人さまに差し上げたい。この偉さをさぶろうひとりで独り占めする気はない。といって、通りがかる人に訴えることも不自然だし。でも、賞賛してほしくもある。じっと見て見つめてその濃紫にじいいんとしてももらいたいのである。この世にいっしょに生きている同胞を、その同胞としての都忘れを好きになってもらいたいのである。毎年、ほしがる客人には持ち帰ってもらっているが、さぶろうを訪ねてくる客人はたかが知れている。