一休禅師は臨済禅の禅師である。徒〈ただ〉者ではないのである。誰もが簡単に明け渡すところをすらりと抜け出てしまうのである。それでなんともないのだ。一律ではないのである。死んだら死ぬとは限らない。一夜明けて空も海も山もすらりと晴れているようなものだ。
何処にも行かぬ。そう決めて、慌てふためかない。別に浄土を設けてはいない。不動だ。彼岸の浄土はもうとっくに行き着いて帰って来ている。利他しか頭にない。おれがここにいないと迷い人が困るだろう。にこにこして此処にいて道案内をしておると。
一休禅師は臨済禅の禅師である。徒〈ただ〉者ではないのである。誰もが簡単に明け渡すところをすらりと抜け出てしまうのである。それでなんともないのだ。一律ではないのである。死んだら死ぬとは限らない。一夜明けて空も海も山もすらりと晴れているようなものだ。
何処にも行かぬ。そう決めて、慌てふためかない。別に浄土を設けてはいない。不動だ。彼岸の浄土はもうとっくに行き着いて帰って来ている。利他しか頭にない。おれがここにいないと迷い人が困るだろう。にこにこして此処にいて道案内をしておると。
死にはせぬ どこにも行かぬ ここにおる 尋ねはするな ものは言わぬぞ 臨済宗 一休禅師
死んだらどこへ行きますかと問われた一休さんの答がこれである。
俺は死なない。死んだりするような低い料簡を通り越しておられた。肉体を去っても生き生きして生き通しなのだ。それが修行の証である。溌刺たるものだ、さすがに。
無畏施とは畏れなきを施すという布施のことである。心配しなくていいんだよ、恐がらなくていいんだよと言い聞かせてあげることである。別名、法施とも言う。仏さま、菩薩さまの得意業である。僧侶もこれをなさっておられる。でも自然界の多くもこれをしている。空も雲も光も、海も山も川も、木も草も花もこれをしている。鳥も魚も昆虫もこれをしている。それで癒される。安心させられる。
だから、できる限り、われわれも会う人を恐がらせないようにしなければならない。まわりを不安がらせないようにしなければならない。
命の流れは一度も途絶えてはいない。みなわたしへ注ぎ込んでいる。川の流れの先端のわたしの中で生きている。過去に途絶えず未来にも途絶えない。背後に背後に連なっていて守り育て養い導いている。やがて先端としてのわたしの役目が済むとわたしもこの列に加わることになる。わたしが守られたようにわたしも守る側に付くことになる。わたしが導びかれたようにわたしも導びく側に付くことになる。そしていのちの全体で向上を果たして行くことになる。
アセンデッドマスター達の語り掛けが続く。さぶろうの耳元へ。さぶろうはそれを文字化する。今日はこんな文字遊び、言葉遊びをしている。ほんとうかどうかは知らない。どこまでがまことしやかでどこからが遊びしやかなのか分からない。
いのちの連続性をしきりに説いている。断絶がないことを強調している。彼等ももう一段階高いところにいる存在から教えられたことのようで、いわば中継の継手のようだ。
サイクリングにも行けない。お蜜柑でも食べようっと。
こうして変化して止まない。いのちは変化して止まない。
新しくなることは恐がることではない。恐がらないでいい。新しくなることを恐がらなくていい。
形態をどんどん変えながら進んで行く。生と見せて死と見せて。
肉体を失うと見せて、肉体に宿ると見せて。
形にして見せたり、形をほどいたり。
形に現して見せたり。隠れたり。いのちは変幻自在だ。宇宙いっぱいの命だら変幻自在だ。
新しくなるのを止めることはできないのに、止めようとする。そしてそれが止められなくて悲しむ。
新しい方へ新しい方へ、高い方へ高い方へ、よろこびへよろこびへと進んでいるということが信じられなくて。
今日は21日。月曜日。あっという間だろう。お正月までは。
12の月を回ると始めの1の月に戻る。13月はない。
戻るというのはいい。われわれもそうなる。終ると始まる。
だから、終らないと始まらない。始まるための終りだから。
いのちのことだ。いのちは循環する。だから水に等しい。水も循環する。
雨になって降り、土に沁み、溜まり、流れ、注ぎ、凍り、固まり、解け、蒸発し、蒸気になり、空に昇る。雲になって漂い、やがて雨と降る。
その度に新しくなる。時間も空間も、物質も。非物質も。こころも、魂も、霊のスピリットも。
お正月が来る。新しくなるためのお正月が来る。では、さぶろうも新しくなるとするか。どんなさぶろうになるのだろう。
どんな新しいさぶろうになるのだろう。楽しみだ。
珠子に遭いたい。美しい珠子に。絵のように美しい珠子に。この世にいない珠子をこの世に引き込んで来て、ロープで縛りつけて来て、遭いたい。非実在でなければ、しかし、さぶろうの愛する珠子にはなれない。あくまでも。美しい瞑想を造ってからでないと、遭えない。しばらく瞑想に入る。
妙法蓮華経の観世音菩薩品には音がある。声がある。この世にある音、この世にある声である。慈しみの音、清らかな音、同目線の位置で聞いてくれる労りのある音、一日一日よい方へ進むことを確信する安らぎの音、繰り返し繰り返し聞こえて己を正してくれる音である。音は皆な声である。観音の声、真理の世界の声である。
聞いて聞いて聞いて聞くことができるように。音に満ちている。声に満ちている。妙音。梵音。観世音。勝彼世間音。海潮音。音に包まれている。音に護られている。音に導かれている。
おかしなさぶろう。勇気もないくせに。口だけは一人前。ぷ、だ。
でかい身体をしてる割には行動が貧しい。いつも引き込む。蟹の穴を深く掘る。
からっきし勇気というものがない。ほっそりした心は可愛いいあの娘にだって一度も声をかけなかった。美しい首筋を見ているだけだった。そして老いた。もうしっかり。
雨が止んだぞ。はっきりとして来たぞ、風景が。光が射して来たぞ。ヤツデの葉の露が円い。藪では冬鳥が騒ぐ。
責めるな。ほっておいてやろう、さぶろうを。