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<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

さぶろうのための大悲心呪

2015年12月11日 19時04分16秒 | Weblog

これはさぶろうのための講座であるから、他の人がこれを正式だと思っては間違いになる。これはあくまで迷妄の中に在るさぶろうを諭したものである。

「大悲心陀羅尼」    禅宗経典より

オーン。光り輝く観世音菩薩よ、光り輝く知恵を持つ菩薩よ、世間を超脱せるものよ、おお、獅子王よ。偉大な菩薩よ。真言を憶念したまへ。唱えたる真言を成就したまへ。勝者よ、偉大な勝者よ。真言を受持したまへ。自在の力を発揮したまへ。汚れなきものよ。垢(く)を離脱せるものよ。穢れなき身体を持つものよ。来たれ。世自在なるものよ。幸いあれ。スヴァーハー。  (一部の抜粋)

陀羅尼は梵語のダーラニーである。呪文の呪である。真言マントラである。仏さまの国の言語である。だから、本来、その音韻だけが、響きだけが伝えられる。ここでは敢えてその意味が加えられているものを拾った。大悲心を持つ菩薩、すなわち観世音菩薩への語りかけになっている。この大悲心呪は「なむからたんのとらやあやあ なむおりや」のダーラニーで始まっている。読経の際はもちろんこのマントラが厳かに唱えられる。

さぶろうはこれを唱える。ダーラニーをそのままに復唱することもあるが、ときにはその意味を拾ってみることもある。声に出しての朗読、音読である。音の響きを楽しんでいる。音韻のエネルギーを拝んで戴いている。そして読み終えるとこの真言マントラがたちまちに成就してエネルギーが己が身心に充満しているのを感じる。玄妙である。

経典というものはどれもいつも語りかけである。仏からの語りかけである。摩訶不思議、不可思議だからそれを思議したってどうにもならない。語りかけを聞いて素直になっているしかない。「さぶろうを守るぞ」「さぶろうを導くぞ」「さぶろうを助けるぞ」「さぶろうを仏にするぞ」「さぶろうを安心させるぞ」と語りかけてくる菩薩の言葉、仏の言葉に逆らわず感謝して頂くばかりである。さぶろうの懐疑が仏陀の智慧を超えようたって超えられるはずはないのだから。

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深い深い森

2015年12月11日 17時15分18秒 | Weblog

「髪の毛」   ルミ・ド・グールモン(1858~1915) 入沢康夫訳 フランス名詩集より

君は蜜の匂い/牧場の草原を/さまよい歩くいのちの匂いがする/君は土と川の匂いがする/君は愛の匂い/火の匂いがする/シモーヌよ/君の髪毛の/森の中には/大きな謎が隠れている

(30行あるうちの最後の6行を抜粋。この詩の中でシモーヌはとにかく匂いに溢れている。)

(ここからはさぶろうの感想)

シモーヌは干し草の匂いがする。石の匂いがする。

革の匂い。小麦の匂い。林の匂い。パンの匂いがする。

木苺の匂い。蔦の匂い。灯心草の匂い。羊歯の匂いがする。

柊の匂い。苔の匂い。雑草の匂いがする。

刺草とエニシダの匂い。クローバーの匂いがする。

ミルクの匂い。ウイキョウとアニスの匂いがする。

胡桃の匂い。熟れた果物の匂い。シモーヌは柳と菩提樹の匂いがする。

どうです、シモーヌは匂い匂い匂いでしょう。これだけ官能的な女性。そしてまた最後の6行にもまたまた様々な匂いが目白押しだ。

これだけの匂いがするのだから、そりゃ、謎に満ちているだろう。シモーヌの髪はなにしろ森を為しているのである。

詩人は一人の女性シモーヌからなんと多くを空想するだろう。これだけの匂いを発散するシモーヌを克明に追っていくだけでもうそこは深い深い森だ。詩人はこれだけの深い森にシモーヌ一人を住まわせているようだ。

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フカネギ

2015年12月11日 16時58分15秒 | Weblog

スコップを使って畑のフカネギを掘り上げた。土を盛っていたところが白く長くなっている。上出来。成長している茎葉が黄緑になっている。やわらかそうだ。これをうどん屋さんで出されるように細かく輪切りにしておく。すると丼物に使えるので重宝するのだ。水洗いして土を落とすとぬるぬるとした粘液が流れ落ちる。これが人間を元気にする元素なのだろうか。

十月末に他界した弟がこれが好きだった。我が家を訪れてくると決まって畑に行ってフカネギをねだった。弟はすき焼き類や鍋類に加えて食べていたようだ。今月の20日に49日忌を迎える。仏前にこの白葱を供えてあげよう。「白葱だけでは食べられないぞ。湯気の上がるものはないか」と抗議するかもしれない。

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友人の訪問

2015年12月11日 13時57分15秒 | Weblog

友人がひょいと尋ねて来た。中学校時代の仲間だ。さっそく上がってもらった。元気にしている仲間、病気をしている仲間の話になった。朝、焼き上げた焼き芋を食べてもらった。この芋がほっそりしているのである。お店に出ているような立派な物とはほど遠い。しかし、それでも捨てきれないのである。育てていると愛情が湧いているから、基準以下だからといってやたらと捨てられないのである。中身は基準以上と同じくらい甘くておいしい。我が家で食べる分はこれですます。人様に上げる分はこうはいかない。基準以下では失礼になるからだ。でも、今日の場合はしようがない。彼は、「捨てられて当然のようなこんな粗末なものを食べているのか、ここでは」と思ったことであろう。彼はその痩せ細った芋を1箇食べてくれ、蜜柑を2箇食べてくれた。友人だから、仲間だからそこを理解してくれるに違いないと踏んだが、身勝手だったかもしれない。「温泉にでも行こうじゃないか、たまには」と誘ってくれたが、さぶろうは誘いに乗らなかった。好意を無にしたことを詫びた。いっときして彼は辞去して行った。

 

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このさびしさは耐えられない

2015年12月11日 10時15分33秒 | Weblog

いざ行かむ行きてまだ見ぬ山を見む このさびしさに君は耐うるや    若山牧水 (昭和22年 作曲家古関裕而が曲をつけた)

このさびしさに耐えられない男がいる。牧水だ。このさびしさとは日常に襲ってくるさびしさだ。これが何処にも行かないで居座っている。そこで、この男の方が出ていくことになるのである。「まだ見ぬ山があるから」とは理屈だ。つけた理屈だ。兎も角此処を出て行かねばならない。彼は出て行った。するとそこにまだ見ぬ山があって、彼の理屈は浄化されたのだ。冬の山は雪を被っていた。凍り付いた峠を抜けて行くと山間に湯が上がっていた。彼は此処でしばらく逗留をした。さびしさに見つけられないように見つけられないように心配りをしたが、ついに見付かってしまった。彼は此処もまた後にしなければならなくなった。牧水の作品にさびしさは付きもののようだ。よほどこの相手にこまやかな意識を配っていたのであろう。

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立脚点を新しくすることもできる

2015年12月11日 09時54分42秒 | Weblog

で、先へ行ってちょうだい。

分かったからその先へ進んでちょうだい。

そこにいつまでもとどまることはありませんから。

そうだった。先へ進むことができるんだった。

いまここもおいしいけど、おいしさは千億通り万億通り。

次へ行けば次の新しいおいしさに出会える。

おいしさごとに、世界が広がっているよ。

冬の夜の冬の星座がきらきらして誘って来る。

地球という青い水の星の、このきらきらを味わい尽くしたら、そっちへ行くからね。

10

悲しみの暮らしの座標、そうではない座標が、先の先にではなく、同じ平面のすぐ隣の座標にあるかもしれないけど。

木枯らしの中で、そんなことを小鳥たちが語り合っていた。さぶろうは、小鳥たちの哲学ごっこがなんだか面白そうに聞こえて来た。そこに留まっているのがいいのか、悪いのか。迷うところだ。だが、留まっていなければならないということはない。先へ進んで行ってもいい。それは理解が出来た。

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2015年12月11日 09時38分40秒 | Weblog

冬の鳥狙った通りを嘴(くちばし)に    李白黄

冬の鳥は機敏だ。敏捷だ。すばやい。木の上にいたかとおもうと素早く身を翻して嘴に青い虫を銜えている。尖った嘴で蠢く生き物がいる。やつの狙いはあやまたぬ。緑色をしたキャベツの葉っぱにいる青虫をあれだけの高い木の梢にいて狙い澄ましていたのだ。お見事! 寝ぼけ眼のさぶろうがこれではっきり目を覚ました。この世は過酷、この世は峻烈。食いつ喰われつを生きているんだぞ。   

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鍋料理

2015年12月11日 09時26分45秒 | Weblog

私の灰汁掬っても掬っても    佐賀市 横尾信雄   新聞の読者文芸川柳欄 入賞作品

冬は鍋の季節だ。牛しゃぶ豚しゃぶ。鯛ちり河豚ちり。火がたってくると汁の表面に灰汁が浮き出て来る。これを掬って退(ど)ける。退けたと思うとまた浮き上がってきて表面に広がる。また掬う。ふっと「おれのようだな」と矛先が己に向いてきた。社会という鍋、会社という鍋、村落という鍋、家族という鍋。そこへ己の悪が浮き上がってくる。殺そうとしても殺そうとしてもあくどく。毒としていないそれが毒となって滲み出る。

さぶろうは作品のよしあしは分からない。共鳴を起こしたのである。ああ、おれのことだなと思ったのである。

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漬け物

2015年12月11日 09時13分40秒 | Weblog

漬け物も多くは要らず重石(おもし)三つつかって拾いし川にもどしぬ   吉野ヶ里町 土井敏明  新聞の読者文芸短歌欄入賞作品

作品の出来がどうこうは分からない。読んだら声を掛けられたような気分になる作品、これがそうだった。白菜漬けがおいしい季節になった。我が家でも畑の白菜が一夜漬けになって朝餉にならぶ。どの家庭でも今は少人数。多くは漬けない。漬け物桶も重石もわずかですむ。作者はこの漬け物の重石の石ころを川から拾って来てまた戻してやったと言う。自然と一体となった暮らしぶりが覗われてなんだか長閑でおだやかで、争うことがなくほっとする。白菜漬けも高菜漬けも小松菜漬けもその日に漬けて明朝に取り上げて、膳いっぱいに香りが香って、一口目に喉が捕らえる香りがおいしい。

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夜長

2015年12月11日 09時03分06秒 | Weblog

好きな事出来る一人の夜長の灯     唐津市 宮崎孝子

新聞の読者文芸俳句欄入賞作品。さぶろうには作品のよしあしは判じられない。イメージが湧いたら目が止まるだけである。「夜長」が季語だろうか。冬の夜は長い。飽き飽きするほど長い。老人のさぶろうはほとほと持て余してしまう。だが、作者はここをさっと切り返して味方につけておられるよう。夜長は好きなことが一人でできるチャンス。しかも朝までも続く長いチャンスのトンネル。抜けるとそこに明るい朝が来ている。彼女は何をしておられるのだろう。おこたに入って毛糸の編み物だろうか。読みかけの読書だろうか。はたまた短編小説でも手掛けておられるのだろうか。いずれにしても一人がさみしくないようだ。

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