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<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

Chi activation 気力の向上術

2015年12月26日 09時05分34秒 | Weblog

YouTubeで、さっきからChi activation music を聴いている。Extremely powerful と注意書きが添えてある。気を活用した音楽である。

1時間を超えている。もうこれで十分に上気して、気が満ちたはずだ。

やる気もその気も気である。空気も天気も気象も気である。気位も気性も気前も気である。気であふれている。気はそこらへんにざらざらしていて、あまり珍しくはない。

なにしろ電気だって、病気だって、気品や色気だって気の一種なんだから。活用しない手はない。

人気を集めるのが上手になると、ちやほやされるし、スターにもなれる。気立てがいいと美人の度が増す。

じゃ、どうやるんだ。それを知らなくても常時使っている。使いこなしている、といっていい。気心が知れているのである。

相撲も空手も柔道剣道も気を抜きにしては稽古が出来ない。東洋は気を尊重する。熱気が昂じて、狂気になることもある。

さぶろうは山に入ると気を感じることにする。大きな岩の巌に手を押し当てて感じることもある。草や木に感じることもある。青空に手を広げて感じることもある。感じるとそこに存在している。

気は目には見えない。形はない。しかし、見えないものでわれわれは支えられている。守られている。養われている。だから応援部隊だ。四方八方から応援が入っている。そういうことを肌で感得する。

人は気を持つ「気持ち」だ。なかなかこれが曲者でもある。機嫌を損ねさせたりもする。機嫌を取ると大はしゃぎする。いい仕事をしてくれることもある。歌を歌って慰めたりもしてくれる。

気はプラーナとも呼ばれている。スシュムナーは気の管である。からだに張り巡らされている。血管のようなものだ。ここを通って気が流れている。すると元気があふれて気力が旺盛になる。

人体にはチャクラが7つあってここから外気が流入する。流入するのは宇宙エネルギーだ。これでパワーが加わる。「人」ではできないようなことを、人は、このパワーによって、いとも簡単にやってしまっている。

どこまでを「わたし」とするか。人体の範囲が「わたし」なのか。チャクラが開くとその「わたし」が何千倍何万倍にも拡大する。宇宙全体をも「わたし」とするようになる。「わたし」を狭くも広くもすることが出来る。気はなんとも不思議なものだ。

 

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勝手を言う

2015年12月26日 08時47分06秒 | Weblog

勝手を言ってらあ。自分勝手過ぎやしないか、はらはらするほどだ。

大丈夫。これくらいは十分許容される範囲だ。

土台、それぞれがそれぞれなのだ。それぞれの勝手を決め込んでいるだけなのだ。

それぞれがはみ出しているのだ。勝手にそこを領土として地主を言いだしているが、所有権なんてものもいい加減なのだ。

ことばは攻撃に用いるものか、守備に用いるものなのか。どうなんだろう。

攻撃するのもこの勝手が通用するし、守備するのも同じだ。

声高に叫んだ方が勝ちになる。だから勝手というのだろう。

説き伏せる。その気にさせる。攻め落とす。ものにする。組み伏せる。籠絡する。

これは何も文学だけの世界にとどまらない。政治の駆け引きにもこれを活用する。武器に仕立て上げて。

今日もその種の国際間紛争ニュースが入って来た。

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ことばは酒だ チョコレートだ

2015年12月26日 08時20分04秒 | Weblog

ことばを飲んで運転するのは要注意だ。言葉は酒だ。アルコール度が強いのがある。酔う。ふらふらする。糖度が高いのも要注意だ。糖尿病を引き起こす懸念がある。ことばの発する音、こいつも要注意だ。音響が甘い。メロデイーまで付着するとなおさらだ。チョコレート級で、お菓子屋さんに列べていてもよさそうである。中には辛い針を持つのもあって刺すこともある。

作家は醸造屋さんである。酒作り、味噌造り、醤油造り、酢作りをする。これを食膳に列べさせて、人世の味を深くさせる。料理長にもなる。日本料理だのイタリア料理、フランス料理、中国、韓国料理だのをさまざま提供して、「生きていることは美味い美味い」と言わしめる。

なんと逃げを打とうと、ここは男と女としかいないところだ。人間という共通項はあるが、人間という生き物はいない。いるのは男と女である。いや、どちらでもない、おれは人間だなどと嘯く人もいるが、厳密には3種類は存在していない。その2種類がことばを媒体として交じり合う。風にその役割をお願いしている植物、虫や鳥にお願いしているもの、水にお願いしているものとがあって、いずれ子孫繁栄を図っている。男と女はそれを言葉に担当させているので、ことばはそれを呑み込んでうんと甘くして双方を酔わせるのである。ことばの発する音はジアスターゼだ。

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やっと冬らしい冬の到来だ

2015年12月26日 08時07分15秒 | Weblog

ほう。やっとだ。やっと冬だ。冬らしい冬だ。屋根瓦の霜の張りようが凄い。真っ白だ。雪のようだ。庭に繁殖していたオリヅルランはぐにゃりとなった。もう枯れるしかあるまい。白菜、キャベツ、大根、人参、フカネギは近づく寒さに備えていたのであろう、なんのそのという顔をしている。体内に糖分量を増やすと凍り付かないのだ。キイキイ鳴いているのは冬の鳥だ。寒さで全身シャキッとなったという感じの鳴き声だ。さぶろう老人はというと、ざまあない。ぶるぶる震えている。ねんねこのちゃんちゃんこを着込み、暖房を付けてその上炬燵に入っている。ガラス窓は室内室外の温度差に揺すぶられて露滴を流している。今日はもう26日。年の暮れもそろそろ押し詰まる。天気予報では明日は雪が降ると報じている。雪の銀世界も悪くはない。

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問題提起

2015年12月26日 07時53分57秒 | Weblog

人はどうして人の書いたものを読むのだろうか。共鳴の輪に入るとそれで安心の波紋が広がるからなのだろうか。共鳴も同調もしないものは手にとっても読み続けられないような気がする。興味、関心があるというだけでも本を読もうという気にはなるが、それでもそれが途中で止むことがある。共鳴しなかったからではないか。やはり読む人にもそれに類似した周波数の波長が発射されていて、それと書き手のそれが馴れ合うと同じサイクルの輪が生まれて互を味方とするのではないか。それでほっとしてそこを住み心地のよい場だと判断して棲み着くのではないか。推論だけで申し訳ないが、ふっとそんなことを考えてしまった。問題提起にとどめておこう。

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