一人で 多数の人に 何かを教えなければならない時、
マニュアル(あるいはテキストなど)は 役に立つだろうが、
すべての 人に合うわけではないし、不足な面を
補うには、マニュアルだけでは 足らない。
文字や図で書かれたものには 限界がある。
画像、映像でも 同じだと思う。
情報として 役には立つが、その情報が
その人の「腑に落ちる」までには、
他の人の様子を観察したり、疑問に思う事を
具体化して 自分でマニュアルとは違う方法を試したり、
そういう事が必要だと思う。
数や大きさや面積の理解をするには、
教科書や ドリルや タブレットだけでは
足りない何かがあると思うし、他の学習でも同じだと思う。
生活しかり、仕事しかり。
私は 料理を 本や レシピを見て作ったことがない。
結婚前には 料理をすることは ほとんどなかったので、
結婚して 初めて 三度のご飯を作る事になり、面食らったが、
以前食べたものの味を思い出し、「あれは カツオだしとみりんじゃないか?」
「味噌汁は 煮干しだったけど、夫は煮干しでも大丈夫かな」と
試行錯誤しながら 覚えていった。
夫の母や 祖母とも料理をしながら、
「あ、この野菜は こう切るんだ」など、見た事を
自分で やってみて、失敗を重ねながら
少しずつ 自分で 一家全体の 献立が立てられるようになった。
見よう見まね、が功を奏する事もあるし、マニュアルは万能ではない。
料理くらいなら まだいいが、育児や 介護など、
マニュアルだけでは 表せない「その人独自の個性を尊重する事」や
「目の前の人の快・不快を 察知してあげる事」が 大事な場面が
家庭や 社会では あると思う。
私は 学歴もなく、資格もなく、何も誇れるものはないけれど、
「目の前の事態に 考えるより先に 体が動く」というその一点で、
これまで起きた困難を乗り越えてきた。
あれがいいか、それともこれがいいか、と悩んだ事はあまりない。
身体能力は 平均以下だけれど、本能とカンで 動いているので、
悩む、という能力が欠落していると思う。
とりあえず 今が よければいいのである。
忙しかろうが、睡眠を取る時間がなかろうが、
たとえ 数分でも時間があれば、楽しみを見つけて満足する。
そこで 用ができて 中断しても、次の場面に気持ちと体が動くので、
あまり イライラしないで済む。
逆に 子育てが終わり、介護が終わり、病気で仕事よりも通院が優先の
日常になってからの方が、楽だけれど 余計な事を考える事がある。
便利で 楽な 日常と引き換えに、失うものもあるのだなあと感じた。
忙しくて めまぐるしい毎日を 送っていた時は、ほんの少しの休息が
嬉しかった。今は いつでも休めるし、好きな事の時間も取れる。
その事の ありがたさを 忘れずに暮らしていきたいと思う。
私に その環境を 与えてくれ、何もできない「でくの坊」から
進歩する機会を与えてくれた夫に 深く感謝である。
夫が 「お前じゃできないから」と なんでもさっさと 自分でこなす人だったら、
私は 自分の中の資質に気づかず終わっただろう。
夫は意識して そうしたわけではないが、私にとっては
夫との結婚は 良い学びの場であり、充実感や幸せを得る場所にもなった。
こうした縁に恵まれた事を ありがたい、と思う。
マニュアル(あるいはテキストなど)は 役に立つだろうが、
すべての 人に合うわけではないし、不足な面を
補うには、マニュアルだけでは 足らない。
文字や図で書かれたものには 限界がある。
画像、映像でも 同じだと思う。
情報として 役には立つが、その情報が
その人の「腑に落ちる」までには、
他の人の様子を観察したり、疑問に思う事を
具体化して 自分でマニュアルとは違う方法を試したり、
そういう事が必要だと思う。
数や大きさや面積の理解をするには、
教科書や ドリルや タブレットだけでは
足りない何かがあると思うし、他の学習でも同じだと思う。
生活しかり、仕事しかり。
私は 料理を 本や レシピを見て作ったことがない。
結婚前には 料理をすることは ほとんどなかったので、
結婚して 初めて 三度のご飯を作る事になり、面食らったが、
以前食べたものの味を思い出し、「あれは カツオだしとみりんじゃないか?」
「味噌汁は 煮干しだったけど、夫は煮干しでも大丈夫かな」と
試行錯誤しながら 覚えていった。
夫の母や 祖母とも料理をしながら、
「あ、この野菜は こう切るんだ」など、見た事を
自分で やってみて、失敗を重ねながら
少しずつ 自分で 一家全体の 献立が立てられるようになった。
見よう見まね、が功を奏する事もあるし、マニュアルは万能ではない。
料理くらいなら まだいいが、育児や 介護など、
マニュアルだけでは 表せない「その人独自の個性を尊重する事」や
「目の前の人の快・不快を 察知してあげる事」が 大事な場面が
家庭や 社会では あると思う。
私は 学歴もなく、資格もなく、何も誇れるものはないけれど、
「目の前の事態に 考えるより先に 体が動く」というその一点で、
これまで起きた困難を乗り越えてきた。
あれがいいか、それともこれがいいか、と悩んだ事はあまりない。
身体能力は 平均以下だけれど、本能とカンで 動いているので、
悩む、という能力が欠落していると思う。
とりあえず 今が よければいいのである。
忙しかろうが、睡眠を取る時間がなかろうが、
たとえ 数分でも時間があれば、楽しみを見つけて満足する。
そこで 用ができて 中断しても、次の場面に気持ちと体が動くので、
あまり イライラしないで済む。
逆に 子育てが終わり、介護が終わり、病気で仕事よりも通院が優先の
日常になってからの方が、楽だけれど 余計な事を考える事がある。
便利で 楽な 日常と引き換えに、失うものもあるのだなあと感じた。
忙しくて めまぐるしい毎日を 送っていた時は、ほんの少しの休息が
嬉しかった。今は いつでも休めるし、好きな事の時間も取れる。
その事の ありがたさを 忘れずに暮らしていきたいと思う。
私に その環境を 与えてくれ、何もできない「でくの坊」から
進歩する機会を与えてくれた夫に 深く感謝である。
夫が 「お前じゃできないから」と なんでもさっさと 自分でこなす人だったら、
私は 自分の中の資質に気づかず終わっただろう。
夫は意識して そうしたわけではないが、私にとっては
夫との結婚は 良い学びの場であり、充実感や幸せを得る場所にもなった。
こうした縁に恵まれた事を ありがたい、と思う。
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