なんでそうなるのか

青森県八戸市で公務員試験塾オクトを主催する岡政也のブログです。

ルーツ

2020-06-20 15:03:19 | 日記
ケンカの際、あの時ああ言った、こうだった、を持ち出すと収まりがつかなくなる。双方に言い分がある。
現在の状況を忘れ、過去の遺恨に振り回される。


今の問題は、今のものだ。過去との関連はあっても、現在の状況に即した解決をするしかない。
大きな紛争から小さな諍いに至るまで、みなそうだ。過去を持ち出すとこじれて解決不能になる。


歴史は研究の対象だ。交渉の道具、政争の武器ではない。広告のネタでもない。
ルーツはあっても今の自分はそれらから独立した存在だ。未来を築く弊害にするなら、ご先祖様も草葉の陰で泣いている。


足腰

2020-06-19 18:41:42 | 日記
   踏み出す勇気が必要だ。
そして、それと同程度、あるいはそれ以上の、踏みとどまるための足腰の強さ、も必要だ。


何かを始めるには、とりわけ、まだやったことのないことを始めるには、どうしたって勇気が必要になる。
あれこれ計画を練り周到に考えても、やってみなければわからないこと、始めてから決めなければならないことが多い。
不確定なことを承知の上で始めるには、勇気を持って始める以外ないのだ。
そして、はじめの一歩、二歩はビビりながらふらつきながら、でも100歩200歩で当たり前になって、1000歩の頃には、物足りなくなるかもしれない。

その時、踏み外してはならない一定の領域がある。そこを、踏みとどまることができるか。精神の「足腰」が強いこと、つまり、自らにガイドラインを設定するのは信条、信念だ。

持ち合わせていない、と嘆く必要はない。これからでも間に合うはずだ。


わからないということ

2020-06-18 19:26:51 | 日記
あのころはわかっていた、と最初に感じたのはいつだっただろう。確か、小学生時分だったと思う。ごく幼いころには不思議な全能感があって、あのころならすべてわかっていたのに、とぼんやりと思ったものだ。あれから半世紀近くたって、別の意味で、「あの頃は分かっていた」と思うことは多々あるのだが、その多くが単純な老いからくるものであることも確かだが、それだけでもない。経験が増え、情報が増えるとわからなくなることがある。状況が変わり、予想が当たり、あるいは外れると、わからなくなることがある。
子どもの頃は、大人になれば何でも分かるようになる、くらいに思っていた。どうやら、そうではないらしい。むしろわからなくなることも多いのだ。
でも、だからこそ、いろいろと学ばねばらなないことがあり、しっかり考えて判断せねば、という気なる。わからないからこそ、目を見開いていなければならないのだ。

キンベン

2020-06-17 17:42:48 | 日記
辛いときは休んだ方がいい。
休むことができる世の中にすべきだ。


それは全くその通りなのだが、少ししんどい、というだけでいちいち休んでいたら碌なもんではない、というのもまた事実だ。
病気だから、あるいは病弱だから休む必要があるのか。
それとも体はぴんぴんしていて、心も弱っているわけではない、けど、怠けたい楽したい、だけで休んでいいのか。


頑張れば、一生懸命やれば疲れだってたまる。
しかし、少々のダルさは体を動かしているうちに忘れるし、事実そのようにして働く人たちによって世の中は回っている。


社会制度として、個人の健康を犠牲にするようなものは改訂されるべきだろう。
しかし、個人の信条として勤勉を貫くことは悪いことではなく、やはり、尊重すべきだ。


楽しいこと

2020-06-16 17:18:56 | 日記
遊ぶことは楽しいことか、と問えば、それは人によるだろう。
外で元気に飛び回るのが好きな子、もいれば家で過ごす方が好き、という子だっている。多数派は前者、なのかもしれないが、少数派も無視できない程度に存在する。
その他大人がする遊び、飲みに行く、ゴルフをする、人付き合いをする、おしゃべり、映画を見る、旅行、様々、「楽しい」とされていることがあるが、それらを無前提に楽しい、と考えるのは危険だ。しかも、それを他人ではなく自分に押し付けるのはもっと危険だ。なのに無意識のうちにやっている。しんどいこと、乗り越えなければならないこと、果たさなければならないノルマ、などが場合、どうしても気持ちは「楽しいこと」の方に逃避したがるが、なぜかそのような場合、使い古されたいわゆる「楽しいとされていること」にすがってしまう。
自分がやってみて楽しくなければそれは楽しいことでも何でもない。楽しさ、を人に対しても自分に対しても、素朴に規定してしまうのはやめにしたい。