平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

福音が全世界に宣べ伝えられてから(2018.10.21 礼拝)

2018-10-22 08:20:28 | 礼拝メッセージ
2018年10月21日礼拝メッセージ
『福音が全世界に宣べ伝えられてから』
【マタイ24:14、ルカ10:38~42】

はじめに
 先週は静岡聖会でいただいた恵みを分かち合い、ペテロの手紙第一とヘブル人への手紙、そしてマタイの福音書を開きました。マタイの福音書ではマタイ11章28節の、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」に注目しました。
 クリスチャンであるかないかを問わず、私たちの多くは重荷を負い、疲れているのではないでしょうか。イエスさまは疲れている私たちに向かって、「わたしがあなたがたを休ませてあげます」と言って下さっています。しかし、このイエスさまの声が自分に向けられていると感じる人はクリスチャンであっても、それほど多くはないようです。それはどうしてでしょうか。きょうはまず、このことを考えてみたいと思います。

なぜ「休ませてあげます」が届いていなかったか?

 先週の繰り返しになりますが、静岡聖会の講師を務められた小平先生は、牧師になって10年目の1995年に、牧会しておられる西宮で阪神淡路の大地震に遭いました。そして、ご自分の教会の心配をするだけでなく関西地区で被災した教会を支援するネットワークの事務局を務める中で疲弊して行き、燃え尽きたようになった正にその時に、マタイ11:28のイエスさまのことばの「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」が目に入り、その時に初めて、このみことばが自分に語られていると感じたということでした。この小平先生のお証しに私は深く共感しました。私は牧師になってから6年目の今年の元旦に、この「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」というみことばが自分に語り掛けるのを感じました。
 どうして、小平先生も私も、このイエスさまの声が響いて来なかったのでしょうか。休むことが下手なのでしょうか?

『うつ病九段』
 今月の教報の聖宣神学院報の巻頭言で院長の河村先生が『自己ケア九段』というタイトルの文章を寄せていました。先生は最近、『うつ病九段』という本を読んだということで、その本の紹介から文章を始めておられました。実は、私もこの本を最近読んでいたのでした。この『うつ病九段』は今年の7月に出版されて話題になっていました。単に話題になっているだけなら、新刊本をわざわざ買って読まなかったと思います。私は大抵は中古本を買うことにしていて、新刊本はあまり買いません。出版から1年も経てば中古本で安く買うことができるからです(出版されてから2~3ヶ月では中古本の値段はあまり下がらず送料を入れたら新刊本と値段は大して変わりません)。しかし、この『うつ病九段』はすぐに読んでみたいと思い、新刊本を買って読みました。なぜかと言うと、この夏、私はもしかしたら、自分がうつ病の初期状態にあるのではないかと思っていた時期があったからです。教会の将来について色々と考え、幹事の皆さんと様々なことを相談して教団に提案するのですが、いろいろな事情があってそれらの大半が却下されましたから、気分的に低調になりました。それでもしかしたら、自分はうつの初期にあるのではないかと思い、うつ病のことをもっと知りたいと思ったのです。
 それまで私がうつ病のことをまったく何も知らなかったわけではありません。出身教会では、うつ病を患った経験のある方が何人もいて体験談も聞いていました。また、私が応援している佐々部清監督が撮った映画『ツレがうつになりまして。』がヒットして私も劇場で観ていましたし、原作の細川貂々さんの同じ題名の漫画『ツレがうつになりまして。』も買って読んでいました。それで、うつに関してまったく何も知らなかったわけではありません。ただ、私自身は自分自身がうつ的になっていることを感じたことなど、一度もありませんでした。それが、自分もひょっとしたらという気になったので、『うつ病九段』の新刊本を買って読みました。
 この『うつ病九段』は将棋のプロ棋士の先崎学九段が書いた本です。将棋の棋戦の解説などで私もテレビやネットで何度も見たことがあった有名な棋士です。今年になって、ふと、そう言えば最近見ていないなと思っていたら、うつ病で約一年間休養をしていたということでした。原因は、あまりに働き過ぎていつの間にか脳がダメージを受けていたということのようです。
 将棋界は今でこそ高校生棋士の藤井聡太プロの中学生の頃からの大活躍などで大いに盛り上がっていますが、その少し前までは不正疑惑問題で大揺れになっていました。不正疑惑とは、プロの棋戦の対戦中に頻繁に席をはずしていた棋士が、こっそりとスマホを使ってAIの指す手を参考にしていたのではないかというものでした。スマホ自体にはそれほどの計算能力はありませんが、自宅のPCに計算させてスマホでそれを見ることはできるわけです。その疑惑を週刊誌に書かれて対応を迫られた将棋連盟は、結局、その棋士のタイトル戦への出場を認めずに、別の棋士がタイトル戦に出場しました。しかし第三者調査委員会が出した結論は不正は行われていなかったというものでした。この不正疑惑によって疑われた棋士はタイトル戦を戦う機会を逃しただけでなく名誉を著しく傷つけられ、また対戦料の収入も得らませんでしたから、結果的に対応を誤った将棋連盟は各方面から厳しく批判されることになりました。そういう中で『うつ病九段』を書いた先崎学九段は将棋界の建て直しと将棋人気回復のために休みなく働き続け、気付かないうちに、うつ病を発症していたのでした。以前読んだ『ツレがうつになりまして。』になったツレさんにしても、出身教会の兄弟たちの話を聞いても、休みなく働き続けることは、うつ病発症の大きな要因となるようです。
 そうして思ったことは、どうも私たちはクリスチャンであってもなくても休むことが下手なようである、ということです。

福音は正しく宣べ伝えられているか?
 ここで、きょうの聖書箇所のマタイ24:14をご一緒に読むことにしたいと思います。

24:14 御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。

 このマタイ24:14をきょうのメッセージの聖書箇所にしたのは、水曜日の祈り会でその次のマタイ24:15を取り上げた時に、とても気になったからです。マタイ24:15をお読みします。

24:15 それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立っているのを見たら──読者はよく理解せよ──

 このマタイ24:15を取り上げたのは、教会員から、この「読者はよく理解せよ」はどういうことですか、との質問を受けたからです。それで、この質問を祈り会のメッセージで取り上げて私なりの解答を話してブログにアップしました。ごく簡単に言えば、「読者はよく理解せよ」とは「ダニエル書を読者はよく理解せよ」ということだと思います。ただしダニエル書は旧約聖書ですから、ユダヤ教的な読み方とキリスト教的な読み方とがあります。イエス・キリストの福音について書いているこの福音書の読者は、そこらへんのところをよく理解せよ、ということではないかという話を水曜日にしました。この問題については、これ以上話すときょうの本題からはずれますから、これぐらいにしておきます。
 きょうマタイ24:14を取り上げたのは、一つ後の15節について思いを巡らしている時に、この14節がとても気になったからです。もう一度、14節をお読みします。

24:14 御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。

 イエスさまは、御国の福音が全世界に宣べ伝えられて、それから終わりの時が来るとおっしゃっています。いま世界各地に宣教師が入って行って伝道活動が行われているのも、また世界のあらゆる言語で聖書が翻訳されるように活動が続けられているのも、このことのためです。私たちは、このことのためにお祈りし、また自分にできることをしなければなりません。
 しかし、このマタイ24:14について思い巡らしているうちに、私たちクリスチャンは福音を正しく伝えているだろうかということが段々と気になって来ました。日本にも多くの教会があり、表面上は確かに福音が宣べ伝えられています。しかし、もしクリスチャンが休むことが下手で、イエスさまの「わたしがあなたがたを休ませてあげます」がクリスチャンの心にはそれほど響いていないとしたら、果たしてクリスチャンは福音を正しく宣べ伝えているのだろうか、と思ってしまいました。

一番大切なのは聖霊を受けること

 ここで、ひと頃よく開いたルカの福音書10章のマルタとマリアの箇所を、改めてご一緒に読んでみたいと思います。ルカ10章の38節から42節までです。

10:38 さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。
10:39 彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。
10:40 ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」
10:41 主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。
10:42 しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」

 この箇所を読むと、マリアの姉のマルタはあまりにも忙しくしていたために、霊的ではなくなっていたことが分かります。妹のマリアは霊的に整えられていましたが、マルタは霊的ではなくなっていました。
 ここで改めて御国の福音とは何かを考えたいと思います。御国には、どういう者が入ることができるのでしょうか。御国に入れるのはイエスは神の子キリストと信じて聖霊を受け、神の子とされて永遠の命を受けた者です。
 御国には聖霊を受けてきよめられなければ入ることができません。ですから、聖霊を受けることが最も大切なことです。極端なことを言えば、イエスさまは私の罪のために十字架に掛かったと信じたとしても、イエスは人であって神ではなかったと思っているとしたら、聖霊は与えられないでしょう。聖霊を受けるにはイエスは神の子キリストと信じる必要があります。ですから、自分はイエスの十字架の贖いを信じているクリスチャンであると思っていても、実は聖霊を受けていないかもしれません。

イエスの証人になる力を与える聖霊
 その人が聖霊を受けた人かどうか、分かりやすい人もいますが、分かりにくい人もいます。分かりやすい例は、聖霊を受けてイエスさまに似た者にされた人ですね。
 そして、もう一つの分かりやすい例は、イエス・キリストの証人となる力が与えられている人です。この力が与えられると少々のことではへこたれない強さが与えられます。それゆえ使徒たちは力強くイエス・キリストを宣べ伝えました。
 ここで今一度、小平先生の証しについて考えてみます。先生は牧師になって10年目に阪神淡路大震災で燃え尽きそうになるまでは、イエスさまの「わたしがあなたがたを休ませてあげます」が自分に掛けられたことばだと思ったことはなかったと証しされました。それはつまり、それまでの10年間の先生はずっと聖霊の力によって強められていたということではないでしょうか。それが、あまりにも忙しくなってしまったために、霊的ではなくなってしまった。それゆえに聖霊の力を十分に受けることができなくなって疲れ果ててしまった。そのような気がします。しかし、そういう時にこそ、イエスさまは「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」という声を掛けて下さり、励まして下さいます。
 ですから、このイエスさまの声は、霊的に渇いて脱水状態になっている時にこそ響いて来ると言えるでしょう。そうして、このイエスさまの声に応答するなら、聖霊が新たにまた注がれて、再び元気を取り戻すことができます。

神の子キリストであるイエスに応答する
 では、まだクリスチャンになる前の聖霊を受けていない人が、もし今イエスさまのこの声を聞いて応答したら、聖霊を受けることができるでしょうか。私はできると考えます。なぜならイエスさまは今は地上にはいませんから、もしイエスさまの声を聞いたとしたら、それは神の子イエスの声を聞いたことになるからです。その神の子イエスに応答するなら、その人は聖霊を受けるでしょう。そうして、その人は御国に入ることが約束されます。
 教報の聖宣神学院報で『自己ケア九段』を書いた河村先生は、今年の4月から神学院の院長だけでなく神学院教会の主任牧師も務めるようになりましたから、大変だったようです。『自己ケア九段』で先生は次のように書いています。
 「春から奉仕環境が変わり、仕事量よりは心を用いる範囲が広がったという意味で忙しい4か月を過ごしました。仕事はこなしたものの今までとは何か違うなと感じ、メンタルなバランスと自己ケアに心を用いました。あらためて、人間は弱いと感じました。お祈りに支えられたと思います。」
 先生は、忙しさの中で自分がメンタルなバランスを崩しかけていることを感じたようです。そうして弱さを素直に認めています。そして続けて、次のように書いています。
「恵みに生きるとは、自分の弱さを認めていることです。もっと霊的ぶらないでいいんじゃないか。もっと正直でいいんじゃないか。神の国にエリートはなじみません。人の上に立つのではなく、人の気持ちと弱さに寄り添える、『自己ケア九段』でありたいと思います。」
 忙しさの中でメンタルなバランスを崩しかけた先生もきっと、無意識の中ではあったかもしれませんが、イエスさまの「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」という声を聞いたのではないかなと私は感じています。

おわりに
 私たちが弱さを認める時、イエスさまは強めて下さいます。パウロもコリント人への手紙第二に、そのことを手紙に書いていますね(週報p.3)。

12:9 しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

 パウロをキリストの力がおおったのも、聖霊の力によるものです。聖霊には疲れて弱っている者に力を与える働きがあります。聖霊は神の子キリストであるイエスの声に応答する者に与えられます。そうして聖霊を受けた者は御国に入ることが約束されています。
 このような御国の福音を伝えて行くべきなのだろうと思います。そうして、全世界で福音が宣べ伝えられてから終わりが来るとイエスさまはおっしゃいました。
 この聖霊の恵みに感謝して神の子キリストであるイエスさまと共に歩んで行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

24:14 御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。
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