平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

罪を墓に葬り去る(2018.10.10 祈り会)

2018-10-11 14:10:48 | 祈り会メッセージ
2018年10月10日祈り会メッセージ
『罪を墓に葬り去る』
【申命記21:22~23】

21:22 ある人に死刑に当たる罪過があって処刑され、あなたが彼を木にかける場合、
21:23 その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木にかけられた者は神にのろわれた者だからである。あなたの神、【主】が相続地としてあなたに与えようとしておられる土地を汚してはならない。

はじめに
 前回は申命記8章3節の「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべての生きる」に注目しました。きょうは21章ですから、だいぶ飛ぶことになります。それは、この聖句がたまたま目に留まったからです。ですから、もしかしたらまた戻ることもあるかもしれません。いずれにしても、きょうは21章の22節と23節に目を留めます。

木にかけられた者は神に呪われた者
 特に23節の、「死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木にかけられた者は神にのろわれた者だからである。」に注目したいと思います。
 この掟は、ヨシュアの時代にしっかりと守られていたことがヨシュア記を読むとわかります。下の脚注の引照にも出ていますが、ヨシュア記8章29節には、次のように記されています(旧約聖書p.394)

ヨシュア8:29 ヨシュアはアイの王を夕方まで木にかけてさらし、日の入るころ人々に命じた。それで彼らはその死体を木から降ろし、町の門の入り口に投げ捨て、その上に大きな石塚を積み上げた。今日もそうである。

 また、ヨシュア10章26節と27節には次のように記されています。

10:26 その後、ヨシュアは王たちを討って殺し、五本の木にかけ、夕方まで木にかけておいた。
10:27 日の入るころになって、ヨシュアは命じて彼らを木から降ろし、彼らが隠れていた洞穴の中に投げ込んだ。その洞穴の口には大きな石が置かれ、今日に至っている。

 イスラエルの民にとって、木にかけられた者は神にのろわれた者でした。ですから、イエスさまが木の十字架にかけられて死んだ後で、使徒たちがイエスこそがイスラエルが待ち望んでいた救い主キリストであると説いてもユダヤ人たちは信じようとしませんでした。パウロが同胞のユダヤ人たちがイエスさまを信じようとしないことを嘆いていることは、ご承知の通りです。

その日のうちに墓に葬られたイエス
 そして、この申命記21章23節の掟は、イエスさまが十字架にかけられた後に、その日のうちに十字架から降ろされたことの根拠にもなりました。ヨハネの福音書の19章31節を、ご一緒に読みましょう。

19:31 その日は備え日であり、翌日の安息日は大いなる日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に死体が十字架の上に残らないようにするため、その脚を折って取り降ろしてほしいとピラトに願い出た。

 翌日の安息日は、過越の祭りの中での安息日で、一年の中でも最も大切な日でした。そんなに大事な日に罪人の死体を残して、相続地として与えられた土地を汚すわけにはいきませんでした。しかし、この十字架刑はユダヤを統治していたローマによる刑でしたから、ユダヤ人たちの判断で死体を降ろすことはできませんでした。ですからローマの総督のピラトに願い出ました。ピラトがそれを許したということは、ユダヤ人たちがよっぽど必死で頼んだからでしょうか。或いはユダヤ人たちが暴動を起こすことをピラトが恐れたからでしょうか。いずれにしてもピラトはイエスさまの遺体を十字架から降ろすことを許して、イエスさまはアリマタヤのヨセフたちによって墓に埋葬されました。
 今回私は、この申命記21章23節の掟とイエスさまの十字架との関係を思い巡らしていて、もしこの申命記の掟が無ければ十字架のイエスさまはどうなっていただろうかということに思いを馳せました。
 この申命記の掟が無ければ、イエスさまは死んだ後でも十字架にそのまま付けられていたでしょう。すると、たとえ復活しても、誰も復活とは考えないで、実はイエスは死んでいなかったということになるでしょう。死んだように見えたけれども、実は生きていたんだということになるでしょう。
 しかし、イエスさまは十字架から降ろされて墓に埋葬されました。すでにローマ兵たちによってイエスさまが死んだことが確認されていましたが、アリマタヤのヨセフやニコデモたちがイエスさまの遺体に亜麻布を巻きましたから、そのことによっても確かにイエスさまは死んだことをしっかりと確認することができました。もし死んだことがはっきりと確認できていなかったら、復活しても実は死んでいなかったということになってしまいますから、復活の希望も語れません。ですから、この申命記21章23節の掟は、イエスさまの十字架と復活のために備えられていたと思えるほどです。或いは単にそう思えるというのでなく、実際に神様のご計画の中で、イエスさまの十字架と復活のために備えられていた掟なのかもしれません。

聖会の恵みの分かち合い
 さて今日は最後に、この十字架のイエスさまのことと、今週の静岡聖会でいただいた恵みとを絡めて、分かち合うことにしたいと思います。聖会の講師の先生は基督兄弟団の西宮教会の牧師で、教団の理事長も務めておられる小平牧生先生でした。私は今回初めて小平先生の説教をお聞きしました。聖書はペテロの手紙第一が開かれて、三回の説教とも前半はまずみことばの解説が為されて、後半は聖会Ⅰと聖会Ⅱでは小平先生のご自身の体験のお証しが、宣教会では例話が語られました。
 聖会Ⅰと聖会Ⅱでの小平先生のお証しを聞き、そして、こちらに戻った後できょうの聖書箇所の思い巡らしをする中で、小平先生は過去の罪深い自分をしっかりと十字架に付け、その罪の息の根を止め、そして十字架から降ろして墓にしっかりと葬り去ったのだなと感じました。
 それに対して私のほうは、なかなか自分の罪を墓に葬り去ることができていないなと感じています。私の中には昔からプライドの罪が根強くあります。このプライドが葬り去るべき罪であることを知ったのはクリスチャンになってからですが、自分の中にはあまり好ましくないプライドがあることは教会に通う前の昔から知っていました。このプライドの罪を私は聖宣神学院に入学して、神学生として過ごすうちに葬り去ることができたと感じました。私は職場を辞め、自宅も売却し、持っていた家財の大半を処分して、ごく少ない持ち物だけ持って聖宣神学院の寮に入りました。このことだけでも、だいぶプライドが削ぎ落とされたと思いますが、寮に入ってからの学びと奉仕、また実習先の教会での経験を通して、自分の中に根強くあったプライドを葬り去ることができたと感じていました。しかし、神学院を卒業して姫路教会の主任牧師の任命を受けてからは、一旦は葬り去ったはずのプライドが再びよみがえって来ました。神学生の時には、基本的には上の先生の言うことを聞いて行動するのが良しとされていました。ですから先生の指示に従順に従うことで謙虚さも培われて、プライドもどんどん削ぎ落とされて行きました。しかし、自分が主任牧師になり、教会の運営を任されるようになると、上の先生の言うことを聞くのではなくて、自分で考えて行動しなければなりません。もちろん、お祈りしながら神様の導くを仰ぎながらの行動ではありますが、何かを決めなければならない局面が随所で出て来ます。特にインマヌエルの場合は監督制ですから、教会の責任は自分が負います。そういう中で、またしても私の中ではプライドがよみがえって来ました。それは今日のメッセージを例えに使うなら、十字架に付けたプライドが一旦は死んだように見えても実は死んでいなかったということです。そして、このプライドは十字架から降ろされることなく、いつまでも十字架に付けられたままで生き続けています。いつまでたってもしっかりと墓に葬り去ることができないのです。

自分の罪を墓に葬り去る
 それに対して、聖会の講師を務められた小平先生はご自身の罪をしっかりと墓に葬り去ることができたのだなと感じました。一日目の聖会Ⅰで小平先生は、牧師の息子としてのご自身の経験の証しをされました。この先生の証しは次の聖日でも分かち合いたいと願っていますが、きょうも短く分かち合いたいと思います。
 小平先生は基督兄弟団の西宮教会の牧師を務めておられますが、この教会は先生のご両親が開拓された教会だそうです。ですから子供の頃から、この教会で過ごしておられました。大学時代と神学生時代には、西宮を離れましたが、1986年に牧師の任命を受けてからは、再びこの西宮教会に戻って来たそうです。そうして牧会を始めてからの10年間は、とにかくご両親が建て上げた教会が縮小してしまうようなことだけはあってはならないと、懸命に働いて来たそうです。しかし、10年後に阪神淡路大震災によって様々なことが崩れ去って先が見えなくなり、燃え尽きたようになってしまったということです。
 そして、その時に訪ねた先の教会の看板にマタイ11:28のみことばの「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と記されているのを見て、先生はこのみことばが「私に語られている」と初めて思ったそうです。先生は、このみことばは人生において失敗した人や心の弱い人に語られていると思っていたそうです。自分はこういうみことばが当てはまらない生き方をする人間であると、何となく思っていたそうです。しかし、この時、先生は「神様、私は疲れました」と言ったそうです。そうして、この時から自分が癒されていくのがわかったということでした。
 先生は、かつてのご自分が、人生に疲れた人の気持ちをまったく理解できないままにイエス・キリストを宣べ伝えていたことを素直に告白されました。このお証しを聞き、先生はご自身の罪をしっかりと十字架に付けて、葬り去ったのだなと思いました。そして、私もそうありたいと思いました。なかなか難しいことですが、主に祈り、お委ねして、そういう者になりたいと思わされました。

おわりに
 イエスさまは私たちの罪を負い、十字架に掛かり、完全に死んで私たちの罪を墓に葬り去って下さいました。このことを覚え、きよめの道を歩んで行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
コメント