2016年11月13日礼拝メッセージ
『ヨベルの年の恵み(2)』
【レビ記25:23~28】
はじめに
きょうはヨベルの年の恵みの学びの2回目です。このシリーズは来週までの3回のシリーズの予定です。
きょうの前半は先週の学びの復習をします。そして後半はレビ記の次の民数記を見て、イスラエルの民が神様の愛に全く応答することができていなかった様子について、ご一緒に学ぶことにしたいと思います。
神の愛がたっぷりと含まれている律法
では、まず先週の学びの復習を簡単にします。
使徒の働きの学びを中断して「ヨベルの年」について学ぶことにしたのは、来年の月定献金の献金袋に、教会の設立50周年にちなんでレビ記のヨベルの年についてのみことばを刷り込むことにしたからです。レビ記25章10節には、「あなたがたは第五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である」とあります。このレビ記25章のみことばを刷り込んだ献金袋は12月に献金袋をお返しする時に一緒にお渡しします。
ヨベルの年の説教を3回のシリーズにするのは、1回だけだと、たまたまその日に礼拝を欠席した方と、ヨベルの年の恵みについて分かち合うことができなくなってしまうからです。
そして先週はまず、律法には神様の愛がたっぷりと含まれているという話をしました。この神様の愛を感じるなら、律法もまた神様がイスラエルの民に与えた素晴らしい恵みであることがわかります。例えばレビ記の1章には次のような記述があります。
「若い牛は、【主】の前でほふり、祭司であるアロンの子らは、その血を持って行って、会見の天幕の入口にある祭壇の回りに、その血を注ぎかけなさい。また、その全焼のいけにえの皮をはぎ、いけにえを部分に切り分けなさい。」(レビ記1:5-6)
このような、いけにえについての細かい命令は、この部分の表面的な字面だけを眺めていても恵まれることは決してないでしょう。しかし、主はイスラエルの民を愛していましたから、人々がご自身から離れてしまうことがないように、一つ一つの命令に愛を込めて人々に与えました。ですから、膨大な数の律法の命令には神様の莫大な愛が含まれています。このことを私たちは是非とも、感じ取りたいと思います。イスラエルの民の信仰はまだ幼いものでしたから、ちょっと目を離すとすぐに迷い出てしまうような者たちでした。そんな信仰の幼いイスラエルの民に対して神様は幼子に言い聞かせるように、愛を持って多くの律法を与えました。
神の恵みの中で生きるイスラエルの民
レビ記25章の命令でも、神様はご自身の民が神様から離れることがないように、神様の恵みの中を生きることができるようにと、7年目には収穫をしてはならないと命じています。25章の2節から4節までをお読みします。
25:2 「イスラエル人に告げて言え。わたしが与えようとしている地にあなたがたが入ったとき、その地は【主】の安息を守らなければならない。
25:3 六年間あなたの畑に種を蒔き、六年間ぶどう畑の枝をおろして、収穫しなければならない。
25:4 七年目は、地の全き休みの安息、すなわち【主】の安息となる。あなたの畑に種を蒔いたり、ぶどう畑の枝をおろしたりしてはならない。
では、収穫がない7年目はどうしたら良いかというと、それは20節から22節までに書いてあります。
25:20 あなたがたが、『もし、種を蒔かず、また収穫も集めないのなら、私たちは七年目に何を食べればよいのか』と言うなら、
25:21 わたしは、六年目に、あなたがたのため、わたしの祝福を命じ、三年間のための収穫を生じさせる。
25:22 あなたがたが八年目に種を蒔くときにも、古い収穫をなお食べていよう。九年目まで、その収穫があるまで、なお古いものを食べることができる。
7年目に収穫を得なくても6年目に7年目の分までたっぷりと収穫を与えてあげるから心配するなと主は仰せられます。畑の収穫物はイスラエルの民が自力で得るものではなく、主が与えて下さるものです。こうしてイスラエルの民は主の恵みの中で生きることができます。
ヨベルの年の恵み
そして、この7年のサイクルを7回繰り返して49年が経った翌年がヨベルの年になります。少し飛ばして10節、
25:10 あなたがたは第五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰らなければならない。
ヨベルの年には人も土地もリセットされます。49年の間に、いろいろな事情で人が奴隷になってしまっていたり、土地が人手に渡っていたりしても、50年目のヨベルの年にはリセットされて人も土地も元に戻ります。それは、人も土地も全ては主に属するからです。
23節で主は「地はわたしのものである」と仰せられています。23節、
25:23 地は買い戻しの権利を放棄して、売ってはならない。地はわたしのものであるから。あなたがたはわたしのもとに居留している異国人である。
主の下ではすべての人は平等です。ですから色々な事情で特定の人が富み過ぎたり、貧しくなり過ぎたりしたとしても、主は50年ごとにリセットして、平等にして下さいます。これがヨベルの年の恵みです。このヨベルの年を学ぶと、律法には神様の愛がたっぷりと含まれていることがさらに良くわかると思います。
入ることが保証されている約束の地
この土地に関する命令で注意しなければならないことは、このレビ記の段階では、イスラエルの民は、まだ約束の地に入っていないということです。25章2節をもう一度お読みします。
25:2 「イスラエル人に告げて言え。わたしが与えようとしている地にあなたがたが入ったとき、その地は【主】の安息を守らなければならない。
「わたしが与えようとしている地にあなたがたが入ったとき」とありますから、この土地に関する命令は、約束の地に入って初めて実行することができるものです。
モーセの十戒の第一の戒めの「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」というような命令でしたら、今すぐに始められることです。しかし、土地に関する命令は、その土地に入らなければ始められないことです。ですから、約束の地に入ってから与えても良さそうなものです。それにも関わらず、主が前もってイスラエルの民に土地に関する命令も与えたということは、主は必ず約束の土地を与えて下さるということです。
主はこれらの律法の命令を、シナイ山のふもとでモーセを通じて人々に与えました。レビ記の最後の27章34節に書いてある通りです。27章34節、
27:34 以上は、【主】がシナイ山で、イスラエル人のため、モーセに命じられた命令である。
このシナイ山に至るまでの道中では、主は数々の奇跡を行って下さいました。一番派手な奇跡は、海を二つに割って、乾いた場所を歩くようにして下さったことでしょうね。その後で主は海の水を元に戻してイスラエルの民を追って来たエジプトのパロの軍勢をすべて流してしまいました。或いはまた人々が水が欲しいとつぶやけば岩から水を出して下さり、おなかがすけば、天からマナを降らせて下さり、腹を満たして下さいました。こうして目に見える形で奇跡を行って、約束の地のカナンへと導こうとして下さっています。そして、さらに先ほど見たように、まだ約束の地に入る前から土地に関する命令をイスラエルの民に与えました。つまり、約束の地には必ず入れるということです。
不信仰なイスラエルの民
しかし、このレビ記の後の民数記で、イスラエルの民はどうしたでしょうか。既に何度も見ていますから、皆さんご存知だと思いますが、もう一度簡単に見ることにしましょう。
民数記の13章の1節と2節を、交代で読みましょう(旧約聖書p.252)。
13:1 【主】はモーセに告げて仰せられた。
13:2 「人々を遣わして、わたしがイスラエル人に与えようとしているカナンの地を探らせよ。父祖の部族ごとにひとりずつ、みな、その族長を遣わさなければならない。」
主はイスラエルの民の族長たちに、約束の地のカナンを偵察に行かせました。そして、偵察から戻って来た族長たちは言いました。27節と28節を交代で読みます。
13:27 彼らはモーセに告げて言った。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてこれがそこのくだものです。
13:28 しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。
続いて30節と31節を交代で読みます。
13:30 そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」
13:31 しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」
このようにカナンを偵察して来た族長たちは、ヨシュアとカレブを除いて、カナンの地に入ってそこに住むことは無理だと決め付けました。そうして全会衆は泣きました。14章の1節から4節までを交代で読みます。
14:1 全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。
14:2 イスラエル人はみな、モーセとアロンにつぶやき、全会衆は彼らに言った。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。
14:3 なぜ【主】は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。」
14:4 そして互いに言った。「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう。」
このイスラエルの民の不信仰ぶりは本当にひどいなあと、いつここを読んでも思うわけですが、ヨベルの年の箇所を読んだ後では、格別にそれを感じます。主は、約束の地のカナンに入る前から、50年ごとのヨベルの年についての命令までをもイスラエルの民に与えていました。カナンの地に入っても、すぐにまた先住民に奪い返されたり、他の民族に奪われたりすることなく、末永くカナンの地に安住できるのだということをイスラエルの民に伝えていました。しかも、これらの命令を与える前には多くの奇跡をも見せて下さっていました。ですから、主がカナンの地を与えて下さることは確実なことでした。
それなのに、イスラエルの民は一晩泣き明かした後で言いました。
「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう。」
これでは主がお怒りになるのは当たり前ですね。このことで、イスラエルの民は40年間、荒野を放浪することになってしまいました。
次の50年も保証されている
さて、今の時期に私たちの教会の礼拝で、50年目のヨベルの年について説教することに導かれたことについて、先週は、こんな話をしました。
私たちの教会は、教団の100を越える教会の中でも貧しい部類に入ります。そして会堂も、普段の生活の場を礼拝の時に礼拝堂として使う教会は、今はもう少ないです。そんな私たちの教会でも、50年になるのを機会に、主は他の教会と平等になるように専用の礼拝堂を与えて下さろうとしているのではないか、というような話をしました。
そして、きょうの礼拝メッセージを準備する中で思ったことは、次の50年のことです。先週の礼拝後の会堂問題勉強会の中でも共に考えましたが、私たちは会堂建設のために融資を受けた場合に、将来返済ができなくなることを心配しています。10年後には返せなくなってしまっているのではないか、そんな心配をしています。しかし、今回、ヨベルの年について学んでいて、主は50年先のことまで保証して下さっているのではないか、そんな気がしています(50年経つ前に主の再臨があるかもしれませんが、それはそれで良いわけです)。
レビ記25章23節を、もう一度お読みします。
25:23 地は買い戻しの権利を放棄して、売ってはならない。地はわたしのものであるから。あなたがたはわたしのもとに居留している異国人である。
主は、「地はわたしのものである」と仰せられています。この地球上の土地は、すべて主の土地です。しかし一応は、人間の地主が存在します。そんな中でも、この教会の土地は、法務局の登記においても、イムマヌエル綜合伝道団沼津基督教会が所有者になっていますから、確かに主の土地になっています。ですから私たちは既に約束の地の中に入っています。そういうわけですから、むこう50年間は保証されているのではないか。今の時期にヨベルの年の学びに導かれたことで、いま私はそんな風に思っています。
おわりに
皆さんはどう考えるでしょうか。いま私たちは隣の土地への会堂の建設をどのようにすべきか、判断をしなければならない大切な時期の中を通っています。一人一人が霊性を整えて、主の御声がさやかに聞こえるようにしたいと思います。
お祈りいたしましょう。
『ヨベルの年の恵み(2)』
【レビ記25:23~28】
はじめに
きょうはヨベルの年の恵みの学びの2回目です。このシリーズは来週までの3回のシリーズの予定です。
きょうの前半は先週の学びの復習をします。そして後半はレビ記の次の民数記を見て、イスラエルの民が神様の愛に全く応答することができていなかった様子について、ご一緒に学ぶことにしたいと思います。
神の愛がたっぷりと含まれている律法
では、まず先週の学びの復習を簡単にします。
使徒の働きの学びを中断して「ヨベルの年」について学ぶことにしたのは、来年の月定献金の献金袋に、教会の設立50周年にちなんでレビ記のヨベルの年についてのみことばを刷り込むことにしたからです。レビ記25章10節には、「あなたがたは第五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である」とあります。このレビ記25章のみことばを刷り込んだ献金袋は12月に献金袋をお返しする時に一緒にお渡しします。
ヨベルの年の説教を3回のシリーズにするのは、1回だけだと、たまたまその日に礼拝を欠席した方と、ヨベルの年の恵みについて分かち合うことができなくなってしまうからです。
そして先週はまず、律法には神様の愛がたっぷりと含まれているという話をしました。この神様の愛を感じるなら、律法もまた神様がイスラエルの民に与えた素晴らしい恵みであることがわかります。例えばレビ記の1章には次のような記述があります。
「若い牛は、【主】の前でほふり、祭司であるアロンの子らは、その血を持って行って、会見の天幕の入口にある祭壇の回りに、その血を注ぎかけなさい。また、その全焼のいけにえの皮をはぎ、いけにえを部分に切り分けなさい。」(レビ記1:5-6)
このような、いけにえについての細かい命令は、この部分の表面的な字面だけを眺めていても恵まれることは決してないでしょう。しかし、主はイスラエルの民を愛していましたから、人々がご自身から離れてしまうことがないように、一つ一つの命令に愛を込めて人々に与えました。ですから、膨大な数の律法の命令には神様の莫大な愛が含まれています。このことを私たちは是非とも、感じ取りたいと思います。イスラエルの民の信仰はまだ幼いものでしたから、ちょっと目を離すとすぐに迷い出てしまうような者たちでした。そんな信仰の幼いイスラエルの民に対して神様は幼子に言い聞かせるように、愛を持って多くの律法を与えました。
神の恵みの中で生きるイスラエルの民
レビ記25章の命令でも、神様はご自身の民が神様から離れることがないように、神様の恵みの中を生きることができるようにと、7年目には収穫をしてはならないと命じています。25章の2節から4節までをお読みします。
25:2 「イスラエル人に告げて言え。わたしが与えようとしている地にあなたがたが入ったとき、その地は【主】の安息を守らなければならない。
25:3 六年間あなたの畑に種を蒔き、六年間ぶどう畑の枝をおろして、収穫しなければならない。
25:4 七年目は、地の全き休みの安息、すなわち【主】の安息となる。あなたの畑に種を蒔いたり、ぶどう畑の枝をおろしたりしてはならない。
では、収穫がない7年目はどうしたら良いかというと、それは20節から22節までに書いてあります。
25:20 あなたがたが、『もし、種を蒔かず、また収穫も集めないのなら、私たちは七年目に何を食べればよいのか』と言うなら、
25:21 わたしは、六年目に、あなたがたのため、わたしの祝福を命じ、三年間のための収穫を生じさせる。
25:22 あなたがたが八年目に種を蒔くときにも、古い収穫をなお食べていよう。九年目まで、その収穫があるまで、なお古いものを食べることができる。
7年目に収穫を得なくても6年目に7年目の分までたっぷりと収穫を与えてあげるから心配するなと主は仰せられます。畑の収穫物はイスラエルの民が自力で得るものではなく、主が与えて下さるものです。こうしてイスラエルの民は主の恵みの中で生きることができます。
ヨベルの年の恵み
そして、この7年のサイクルを7回繰り返して49年が経った翌年がヨベルの年になります。少し飛ばして10節、
25:10 あなたがたは第五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰らなければならない。
ヨベルの年には人も土地もリセットされます。49年の間に、いろいろな事情で人が奴隷になってしまっていたり、土地が人手に渡っていたりしても、50年目のヨベルの年にはリセットされて人も土地も元に戻ります。それは、人も土地も全ては主に属するからです。
23節で主は「地はわたしのものである」と仰せられています。23節、
25:23 地は買い戻しの権利を放棄して、売ってはならない。地はわたしのものであるから。あなたがたはわたしのもとに居留している異国人である。
主の下ではすべての人は平等です。ですから色々な事情で特定の人が富み過ぎたり、貧しくなり過ぎたりしたとしても、主は50年ごとにリセットして、平等にして下さいます。これがヨベルの年の恵みです。このヨベルの年を学ぶと、律法には神様の愛がたっぷりと含まれていることがさらに良くわかると思います。
入ることが保証されている約束の地
この土地に関する命令で注意しなければならないことは、このレビ記の段階では、イスラエルの民は、まだ約束の地に入っていないということです。25章2節をもう一度お読みします。
25:2 「イスラエル人に告げて言え。わたしが与えようとしている地にあなたがたが入ったとき、その地は【主】の安息を守らなければならない。
「わたしが与えようとしている地にあなたがたが入ったとき」とありますから、この土地に関する命令は、約束の地に入って初めて実行することができるものです。
モーセの十戒の第一の戒めの「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」というような命令でしたら、今すぐに始められることです。しかし、土地に関する命令は、その土地に入らなければ始められないことです。ですから、約束の地に入ってから与えても良さそうなものです。それにも関わらず、主が前もってイスラエルの民に土地に関する命令も与えたということは、主は必ず約束の土地を与えて下さるということです。
主はこれらの律法の命令を、シナイ山のふもとでモーセを通じて人々に与えました。レビ記の最後の27章34節に書いてある通りです。27章34節、
27:34 以上は、【主】がシナイ山で、イスラエル人のため、モーセに命じられた命令である。
このシナイ山に至るまでの道中では、主は数々の奇跡を行って下さいました。一番派手な奇跡は、海を二つに割って、乾いた場所を歩くようにして下さったことでしょうね。その後で主は海の水を元に戻してイスラエルの民を追って来たエジプトのパロの軍勢をすべて流してしまいました。或いはまた人々が水が欲しいとつぶやけば岩から水を出して下さり、おなかがすけば、天からマナを降らせて下さり、腹を満たして下さいました。こうして目に見える形で奇跡を行って、約束の地のカナンへと導こうとして下さっています。そして、さらに先ほど見たように、まだ約束の地に入る前から土地に関する命令をイスラエルの民に与えました。つまり、約束の地には必ず入れるということです。
不信仰なイスラエルの民
しかし、このレビ記の後の民数記で、イスラエルの民はどうしたでしょうか。既に何度も見ていますから、皆さんご存知だと思いますが、もう一度簡単に見ることにしましょう。
民数記の13章の1節と2節を、交代で読みましょう(旧約聖書p.252)。
13:1 【主】はモーセに告げて仰せられた。
13:2 「人々を遣わして、わたしがイスラエル人に与えようとしているカナンの地を探らせよ。父祖の部族ごとにひとりずつ、みな、その族長を遣わさなければならない。」
主はイスラエルの民の族長たちに、約束の地のカナンを偵察に行かせました。そして、偵察から戻って来た族長たちは言いました。27節と28節を交代で読みます。
13:27 彼らはモーセに告げて言った。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてこれがそこのくだものです。
13:28 しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。
続いて30節と31節を交代で読みます。
13:30 そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」
13:31 しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」
このようにカナンを偵察して来た族長たちは、ヨシュアとカレブを除いて、カナンの地に入ってそこに住むことは無理だと決め付けました。そうして全会衆は泣きました。14章の1節から4節までを交代で読みます。
14:1 全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。
14:2 イスラエル人はみな、モーセとアロンにつぶやき、全会衆は彼らに言った。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。
14:3 なぜ【主】は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。」
14:4 そして互いに言った。「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう。」
このイスラエルの民の不信仰ぶりは本当にひどいなあと、いつここを読んでも思うわけですが、ヨベルの年の箇所を読んだ後では、格別にそれを感じます。主は、約束の地のカナンに入る前から、50年ごとのヨベルの年についての命令までをもイスラエルの民に与えていました。カナンの地に入っても、すぐにまた先住民に奪い返されたり、他の民族に奪われたりすることなく、末永くカナンの地に安住できるのだということをイスラエルの民に伝えていました。しかも、これらの命令を与える前には多くの奇跡をも見せて下さっていました。ですから、主がカナンの地を与えて下さることは確実なことでした。
それなのに、イスラエルの民は一晩泣き明かした後で言いました。
「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう。」
これでは主がお怒りになるのは当たり前ですね。このことで、イスラエルの民は40年間、荒野を放浪することになってしまいました。
次の50年も保証されている
さて、今の時期に私たちの教会の礼拝で、50年目のヨベルの年について説教することに導かれたことについて、先週は、こんな話をしました。
私たちの教会は、教団の100を越える教会の中でも貧しい部類に入ります。そして会堂も、普段の生活の場を礼拝の時に礼拝堂として使う教会は、今はもう少ないです。そんな私たちの教会でも、50年になるのを機会に、主は他の教会と平等になるように専用の礼拝堂を与えて下さろうとしているのではないか、というような話をしました。
そして、きょうの礼拝メッセージを準備する中で思ったことは、次の50年のことです。先週の礼拝後の会堂問題勉強会の中でも共に考えましたが、私たちは会堂建設のために融資を受けた場合に、将来返済ができなくなることを心配しています。10年後には返せなくなってしまっているのではないか、そんな心配をしています。しかし、今回、ヨベルの年について学んでいて、主は50年先のことまで保証して下さっているのではないか、そんな気がしています(50年経つ前に主の再臨があるかもしれませんが、それはそれで良いわけです)。
レビ記25章23節を、もう一度お読みします。
25:23 地は買い戻しの権利を放棄して、売ってはならない。地はわたしのものであるから。あなたがたはわたしのもとに居留している異国人である。
主は、「地はわたしのものである」と仰せられています。この地球上の土地は、すべて主の土地です。しかし一応は、人間の地主が存在します。そんな中でも、この教会の土地は、法務局の登記においても、イムマヌエル綜合伝道団沼津基督教会が所有者になっていますから、確かに主の土地になっています。ですから私たちは既に約束の地の中に入っています。そういうわけですから、むこう50年間は保証されているのではないか。今の時期にヨベルの年の学びに導かれたことで、いま私はそんな風に思っています。
おわりに
皆さんはどう考えるでしょうか。いま私たちは隣の土地への会堂の建設をどのようにすべきか、判断をしなければならない大切な時期の中を通っています。一人一人が霊性を整えて、主の御声がさやかに聞こえるようにしたいと思います。
お祈りいたしましょう。