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一粒のタイル2

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

貧困に苦しむ人々を支援した勝海舟とクラーク(2023.3.2 祈り会)

2023-03-07 04:19:42 | 祈り会メッセージ
2023年3月2日祈り会説教
『貧困に苦しむ人々を支援した勝海舟とクラーク』
【マタイ25:41~46】

マタイ25:41 それから、王は左にいる者たちにも言います。『のろわれた者ども。わたしから離れ、悪魔とその使いのために用意された永遠の火に入れ。
42 おまえたちはわたしが空腹であったときに食べ物をくれず、渇いていたときに飲ませず、
43 わたしが旅人であったときに宿を貸さず、裸のときに服を着せず、病気のときや牢にいたときに訪ねてくれなかった。』
44 すると、彼らも答えます。『主よ。いつ私たちは、あなたが空腹であったり、渇いていたり、旅人であったり、裸でいたり、病気をしていたり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
45 すると、王は彼らに答えます。『まことに、おまえたちに言う。おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。』
46 こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」

 E.W.クラークが書いた『Katz Awa(勝安房)』の私訳を最近終えたので、3月の祈り会では部分的に引用しながら、クラークの信仰と勝海舟の信仰を紹介したいと思います。

 今ご一緒に読んだマタイ25章は、クラークが『Katz Awa』の中で引用している箇所です。この前の段落の、有名な40節「これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです」もクラークは引用していますが、その後の41節以降は忘れられがちとして、45節も引用しています。

 この『Katz Awa』の存在は一部では知られていましたが、一般にはほとんど知られていません。この本はもっともっと知られるべきだと思います。特に日本のクリスチャンには、もっと知ってほしいと思います。この『Katz Awa』という本の良さは、一言では言い表せないので、今日を含めて3回に亘って紹介できたらと思います。そうして、この説教の準備を通して、私自身も『Katz Awa』が日本の伝道にも役に立つことを確認したいと願っています。もし日本の伝道の役に立つとしたら、クラークは静岡学問所の教師だった人ですから、静岡の伝道には、もっと役に立つことと思います。

 きょうはクラークが、この『Katz Awa』を神様から強い促しを受けて書いたこと、そして、そんなクラークに、勝海舟についての取っておきの情報を提供した者がいたことなどを紹介したいと思います。

 その前に、『Katz Awa』全体の簡単な説明をしておきます。『Katz Awa』は全部で95ページの小さな本で、1章から4章まであります。1章は序文で、2章は勝海舟の若い時期について、3章は勝海舟が日本の海軍の基礎を築いたこと、また幕末に江戸城の無血開城に尽力した時のことなどが記されています。そして、最後の第4章には、勝海舟が静岡から東京に移って以降のこと、特に家庭生活と、晩年に彼がキリスト教の信仰を受け入れたことなどが書かれています。

 この『Katz Awa』は全体を通して興味深い箇所があちこちにありますが、最後の方は特に印象に残る箇所がいくつもありました。最終盤で勝海舟は亡くなり、葬儀に関することが書いてあります。勝海舟の葬儀は国葬で、明治天皇がこの葬儀のために多額の費用を送ったが、勝の遺言で葬儀は必要最低限の質素なものとして、残った費用は貧しい人々に与えられたのだそうです。クラークがそう書いているので、事実かどうか調べました。実は『Katz Awa』にはクラークの記憶が曖昧で、ところどころで不正確な記述があるからです。すると、勝海舟の葬儀に関して、当時の東京朝日新聞の記事を紹介しているネットのサイトがありました。記事には次のように書いてあります。

「その儀式は先生平生の遺言により総て質素を旨とし生花造花放鳥等の寄贈を謝絶するは勿論新聞紙への広告等も一切なさず、又会葬者の弁当及び車夫等への弁当料をも一切廃して其の費用を赤坂区内の貧民救助の一端となし其の手続きを赤坂区役所に一任したり。」
[明治32年(1899年)1月23日付東京朝日新聞]

 このように勝海舟は、貧しい人々のことを、とても気に掛けていました。クラークの『Katz Awa』によれば、勝は大晦日には変装して貧しい人々の家を訪ねて、お金が入った包みを黙って手渡していたそうです。その包みには正月用のお餅を買って、なお少し余るぐらいの金額のお金が入っていたそうです。

 クラークがどうしてこんなことまで知っていたかと言うと、彼はアメリカ人同士の独自の情報網を持っていました。当時、東京の勝海舟の屋敷の敷地内には、アメリカ人のホイットニーの一家が住んでいたそうです。ホイットニーは務めていた学校との契約が打ち切りになって困窮していたのを見かねた勝海舟が屋敷の敷地内に住居を与えたそうです。そして、勝が変装して貧しい人々にお金を配っていたことはホイットニーの娘のクララが少女時代にそれを目撃していて、クララがクラークに情報提供したものでした。

 クラークがこの『Katz Awa』を書いて出版したのは1904年です。当時は日露戦争が始まって多くの戦死者が出ていて、戦死者の未亡人と孤児たちが困窮しているという話を聞いてクラークは心を痛めて、本の売り上げをその未亡人と孤児たちの支援団体に寄付するために、この『Katz Awa』を書きました。その際に、クララ・ホイットニーにも情報提供の協力を求めたようです。クララは少女時代から勝海舟の身近にいて彼のことを良く知り、また大人になってからは海舟の三男と結婚しました。その後、勝の死後に子供たち、すなわち海舟の孫たちとアメリカに戻りました。孫にはアメリカで教育を受けさせたいという勝の希望もあったようです。そういうわけで、クララ・ホイットニーはアメリカ人でありながら、一般の日本人では知り得ない海舟の家庭での姿をよく知っていたんですね。

 クラークは『Katz Awa』の最終章の4章で、この本を書くことにした時の思いを、マタイ25章を引用しながら、次のように書いています。

ここで主人ははっきりと宣言している。「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです」(マタイ25:40)。一方、この聖句に続く次のことばは、忘れられがちだ。「おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。」(マタイ25:45)この警告を無視すれば,泣き叫び,歯ぎしりすることになることを主は示されたのだ(マタイ25:30参照)。

 日露戦争で戦死した兵士の家族が苦しんでいるのを見て、何もしないとしたら、それは冒頭のマタイ25章41~46節のような者になってしまう、とクラークは強く思い、試みられていると感じます。それゆえ、クラークは勝海舟についての小さな伝記を書く承諾を勝の生前に得ていたので、今こそがその時であると奮い立ったのですね。主に強く促されたと言っても良いでしょう。そうして、かつて東京の勝海舟の屋敷の敷地内で暮らしていたことがあるクララ・ホイットニーにも協力を求めたということのようです。

 勝海舟が大晦日に変装して貧しい人々の家を訪ねて正月用のお餅を買うためのお金を配って歩いていたことをクララが情報提供したのも、日露戦争で困っている人々を助けるという目的に共鳴して、このようなエピソードが出て来たのだろうと想像します。別の目的であれば、また勝についての別のエピソードが出て来たのだろうと思います。

 クラークは、この本の冒頭で、勝海舟について、次のように書いています。

(勝安房は)、確かにクリスチャンではない。それにも関わらず、へりくだったナザレ人(イエス・キリストのこと)の本質的な人間性が彼の中にはある。私はこれまで世界を3周したが、このような人に出会ったことがない。
 勝安房の柔和と忍耐、言い表せないほどの自己犠牲、誤解されがちで不人気な道義への献身、危険な中での勇敢さ、苦難の中での沈黙、死を恐れず、それでいて慎重な統率、云々・・・

 このように、クラークは勝海舟の中にイエス様の姿を見ていました。このクラークが日露戦争で戦死した兵士の家族を助けるために書いた本の『Katz Awa』が、もっと多くの日本人に、とりわけ静岡の方々には広く知られるようになって欲しいと思います。お祈りします。

マタイ25:45 すると、王は彼らに答えます。『まことに、おまえたちに言う。おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。』
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