平和への道

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罪・義・さばきについての世の誤り(2021.9.26 礼拝)

2021-09-26 12:45:25 | 礼拝メッセージ
2021年9月26日礼拝メッセージ
『罪・義・さばきについての世の誤り』
【ヨハネ16:7~11】

はじめに
 先々週まではヨハネの福音書の「最後の晩餐」の場面を13章から順番に見て、イエス様のことばに耳を傾けて来ました。そうして15章の半ばまで進みましたが、先週は13章に戻り、また19章の十字架の場面、さらに21章も見て、イエス様が愛しておられた弟子、すなわち愛弟子とは私たちのことでもあることを話しました。

 来週の聖餐式礼拝では旧約聖書のヨシュア記を開くことにしています。また10/31は静岡聖会のDVDの説教をご一緒に視聴する予定にしています。説教箇所はヨハネ15章とのことです。というわけで、順番通りにはいかなくなっていますから、これからアドベントの前までは、ヨハネの福音書の13章以降をページの順番にとらわれることなく行き来することにしたいと思います。そうしてアドベントに入ったら、マタイとルカのイエス様がお生まれになった頃の箇所を開きます。アドベントの直前まで最後の晩餐と十字架、そして復活の場面を見ておくことで、イエス様がこの世に生まれたご聖誕の恵みが、どんなに素晴らしいものであったかが、いっそう分かるのではないかと期待しています。

 きょうは16章の7節から11節までのイエス様のことばに耳を傾けます。この箇所のイエス様のことばはとても難しいです。でも私たちは6月の初めからずっと、「最後の晩餐」のテーブルに座ってイエス様のことばに耳を傾けて来ました。ですから、この難しい箇所も分かるようになっていることと思います。助け主である聖霊の助けをいただきながら、ここでイエス様が何をおっしゃっているのかを、しっかりと分かち合いたいと思います。きょうの中心聖句は16章8節です。

ヨハネ16:8 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。

 そして、きょうは次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①悪魔が世を罪で縛って生じさせる誤解
 ②罪で見えない「イエスは神の御子である」
 ③罪で見えない「イエスはキリストである」

①悪魔が世を罪で縛って生じさせる誤解
 早速、7節から見て行きましょう。

ヨハネ16:7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。

 きょうの箇所は、とても難しいと先ほど話しましたが、この7節は一見するとそんなに難しい箇所ではないように見えます。なぜなら、イエス様は助け主の聖霊の話を既に何度もしているからです。この礼拝メッセージでも、14章26節を何度も引用して来ましたね。14章26節、

14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

 助け主の聖霊は、私たちにすべてのことを教えて下さり、イエス様が私たちに話したすべてのことを思い起こさせて下さいます。それゆえイエス様は16章7節で、ご自身がこの世を去って行くことは益になるとイエス様はおっしゃっているのでしょう。でも、後で話す8節から11節のことを踏まえると、どうもそれだけではないようです。イエス様のこの7節のことばの行間には、もっと重大なことが見え隠れしています。

 それは、イエス様が弟子たちの前から去って、天から助け主を遣わすまでの間には、十字架と復活があるからです。7節でイエス様は十字架と復活のことは飛ばして、聖霊の話をしていますが、十字架と復活のことをしっかりと踏まえた上で8節以降を読むべきでしょう。では、8節以降を見て行きます。まず、きょうの中心聖句の8節、

16:8 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。

 助け主の聖霊が来ると、罪と義とさばきについて、世の誤りを明らかにするとイエス様はおっしゃいました。罪・義・さばきの三つです。どうして、この三つなんでしょうか?先ほど引用した14章26節では、聖霊はすべてのことを教えるとイエス様はおっしゃいました。すべてのことを聖霊が教えて下されば、世にはたくさんの誤りがあることが分かるのではないでしょうか。どうしてこの三つなんでしょうか?

 それは、世の誤りは突き詰めればこの罪・義・さばきの三つに集約されるからなのかもしれませんね。果たしてそうなのか、世の誤りは突き詰めれば罪・義・さばきの三つに集約されるのか、確かめることにしたいと思います。

 イエス様は、まず罪について語りました。9節です。

9 罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。

 イエス様を信じないことが罪であることは、イエス様を信じる私たちにとっては当たり前のことです。でも、それだけで片づけてしまうと、次の10節の義と、11節のさばきについての誤りをどう解釈するか、行き詰ってしまいます。罪と義とさばきは、バラバラに考えるのではなく、三つをセットにした三点セットで考えるべきものです。

 そこで参考になるのが、ヨハネの手紙第一の3章8節です。ヨハネの福音書で分からないことがある時は、ヨハネの手紙第一を参考にすると分かる場合が多いことを、これまで何度か話して来ました。今回のヨハネ16章7節から11節までの箇所も、まさにそのような箇所です。第一ヨハネ3章8節をお読みします。

Ⅰヨハネ3:8 罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。その悪魔のわざを打ち破るために、神の御子が現れました。

 以前、「最後の晩餐」の背後には「神vs悪魔」の対決の構図が隠されていることを話しました。ヨハネが13章2節という「最後の晩餐」の早い段階で「悪魔」に言及しているからです。この、背後の「神vs悪魔」の対決の構図を念頭に置きつつ、今の第一ヨハネ3章8節を参考にするなら、ヨハネ16章8節にある、「罪・義・さばき」の世の誤りの三点セットは、悪魔のことを考慮に入れて解釈すべきでしょう。

 世の人々が誤った考えに捕らわれてイエス様を信じないのは、悪魔が世の人々を罪で縛っているからです。その悪魔のわざを打ち破るために、神の御子が現れました。

 このヨハネの福音書には「力ある神」としてのイエス様が描かれています。「最後の晩餐」の後でイエス様を捕らえに来た人々は、イエス様に圧倒されて地に倒れました(ヨハネ18:6)。それは、イエス様が悪魔のわざを打ち破るために遣わされたからだったんですね。悪魔は世の人々を罪で縛って誤った考えを植え付けます。その悪魔のわざを打ち破るために「力ある神」である御子のイエス様が遣わされました。

②罪で見えない「イエスは神の御子である」
 世の人々は悪魔が植え付けた罪によって誤った考えに陥っていましたから、「義」についても誤っていました。次にこのことを見ます。10節をお読みします。

10 義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。

この10節が一番難しいです。イエス様が父のもとに行き、弟子たちがイエス様を見なくなるから、義について世は誤っているとは、どういうことでしょうか?イエス様が父のもとに行くことと、義についての世の誤りとの間に、どういう関係があるのでしょうか?

 こういう困った時に頼りになるのが、やはりヨハネの手紙第一です。ヨハネの手紙第一を読むと、こう書いている箇所があります。第一ヨハネ2章29節です。

Ⅰヨハネ2:29 あなたがたは、神が正しい方であると知っているなら、義を行う者もみな神から生まれたことが分かるはずです。

 神が正しい方、すなわち義なるお方であることは、ユダヤ人であれば誰でも知っていることです。弟子たちに限らず、パリサイ人ももちろん神が正しいお方であることを知っていました。でも、イエス様を迫害していたパリサイ人たちには分かっていないことがありました。それは、イエス様が神の御子であるということです。パリサイ人たちは悪魔のわざの罪によって、目が曇っていました。それゆえイエス様が行っていることが正しいことだと分かりませんでした。イエス様は安息日に病人を癒していましたが、パリサイ人たちはそれを批判しました。パリサイ人たちはイエス様が安息日に病人を癒したことを律法に反する罪だと考えましたが、罪に陥っていたのはパリサイ人たちの方だったんですね。

 イエス様は正しいことを行っている神の御子です。世の人々は誤っていたために、このことが見えていませんでした。しかし、イエス様が十字架の死から復活して天の父のもとに帰り、助け主の聖霊を遣わして下さったことで、正しいことが分かるようになりました。それがイエス様が10節でおっしゃった、

10 義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。

ということではないでしょうか。

 義とは正しさのことです。イエス様は神の御子ですから、もともと天の父のところにいて、正しいことを行っていました。そうして、地上に遣わされてからももちろん、神の御子として正しいことを行っていました。世の人々は誤っていたためにその正しいことが分かりませんでした。しかしイエス様は十字架で復活した後、天に帰って助け主の聖霊を遣わして下さいましたから、その誤りが明らかになりました。

③罪で見えない「イエスはキリストである」
 3番目の「さばき」について、イエス様はこうおっしゃっています。11節、

11 さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。

 「この世を支配する者」とは、悪魔のことです。悪魔は世の人々を罪で縛り、正しいことが見えないようにしていました。しかし、イエス様が十字架の死からよみがえって悪魔に勝利しましたから、悪魔はさばかれました。そうして助け主の聖霊が遣わされたことで、さばきについての誤りも明らかになりました。

 イエス様は、ヨハネ5章24節で、このようにおっしゃっています。

ヨハネ5:24 まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。

 イエス様のことばを聞いて、父を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがありません。それは、イエス様の十字架と復活によって、悪魔が打ち負かされてさばかれたからです。悪魔はイスカリオテのユダの心を操ってイエス様を裏切らせました。そして、パリサイ人たちと民衆の心をも操ってイエス様を十字架に付けて殺しました。悪魔はイエス様が神の御子であることを知っていましたから、悪魔にとってイエス様は邪魔な存在でした。そのイエス様を十字架で殺すことができましたから、悪魔は勝利した筈でした。

 しかし、悪魔が神に打ち勝つことはありませんでした。神はイエス様をよみがえらせて悪魔に勝利しました。こうして、イエス様の十字架と復活によって悪魔に勝利したことで、悪魔のわざである私たちの罪も赦されて、永遠の命を得ることができます。ですから、イエス様は救い主です。イエス様は救い主のキリストです。

 ここで、ヨハネが20章の最後に、この福音書の執筆目的を書いていることを思い出したいと思います。ヨハネはこの福音書の執筆目的を、このように書いています。

ヨハネ20:31 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。

 もう一度お読みします。ヨハネがこの福音書を書いたのは、このことのためでした。

ヨハネ20:31 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。

 イエスが神の子キリストであると信じることと、きょうの中心聖句の16章8節とは、密接に関係しています。

 もう一度、きょうの中心聖句の16章8節をお読みします。

8 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。

 「罪」から解き放たれて「義」が分かると、「イエス様は神の御子である」ことが分かります。そして、「さばき」が分かると「イエス様は救い主のキリストである」ことが分かります。つまり、「罪」から解き放たれると、「イエスは神の子キリストである」ことが分かります。そうして、「イエスは神の子キリストである」と信じるなら、永遠のいのちがあたえられます。

 つまり、きょうの中心聖句の16章8節でイエス様はキリスト教の中心的な教理を教えたことになります。キリスト教の中心的な教理と言えば、ヨハネ3:16のことも思い起こしますね。ヨハネ3:16は「聖書の中の聖書」とも言われています。この1節の中に聖書のすべてが詰まっているとも言われています。

ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 きょうの中心聖句の16章8節は、聖書の中の聖書と呼ばれるヨハネ3:16とも密接に関係しています。助け主の聖霊が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。悪魔は私たちを罪で縛って正しいことを分からなくしています。正しいこととは、イエス様が神の御子であり、人々を罪から救い出すキリストであるということです。イエス様は十字架に掛かって死に、復活することで悪魔に勝利しました。このことを信じる私たちは罪が赦されてさばきにあうことがなく、死からいのちに移って永遠のいのちが与えられています。

おわりに
 静岡県に発令されている緊急事態宣言は今月一杯で解除される見込みです。この宣言下で私たちは様々なことに縛られて制限されています。礼拝も制限された形でしか行えません。旅行も自由にはできません。東京の家族にも会えません。家族以外のお世話になった方々や友だちにも会えません。本当にいろいろなことに縛られています。

 そして、罪も私たちを様々な形で縛ります。罪は正しいことを分からなくします。イエス様は神の御子であることを分からなくします。イエス様は救い主のキリストであることを分からなくします。それ以外にも罪は、様々な正しいことを分からなくして、私たちが誤った行動をするように導きます。

 しかし、十字架のイエス様を信じて、イエス様は神の子キリストであると信じた私たちは、この罪の縛りから解放されました。素晴らしい恵みです。緊急事態宣言による縛りが解かれようとしている今、この罪の縛りから私たちは解き放たれていることをイエス様から教わることができました。このことを、心から感謝したいと思います。

 イエス様を信じる私たちは既に罪から解き放たれています。でもイエス様から目を離すなら、罪はしつこくまとわりついて来ます。このことをしっかりと覚えておきたいと思います。イエス様から離れるなら、罪はたちまち私たちに絡みついて来て、私たちを罪で縛ります。私たちはイエス様から目を離すことなく、信仰の道を歩み続けたいと思います。

 来週は聖餐式礼拝を行う予定です。静岡県の緊急事態宣言も解除されることと思いますから、皆さん、この会堂でお会いしましょう。そうして、聖餐式の恵みに共に与りましょう。お祈りいたします。
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