2018年7月11日祈り会メッセージ
『共に苦しむ主イエス』
【詩篇69:1~4、13~18、32~36】
はじめに
先週の後半から今週の始めに掛けて、西日本各地で大雨による甚大な被害が出ました。先週の水曜日の祈り会で私たちは、台風7号の影響により前線が活発化する予報が出ていたことから、前線が掛かる地域が大雨の被害から守られるようにお祈りしました。しかし、想像を絶する規模の大災害となり、今朝11日(水)の昼のNHKニュースの時点で、今回の西日本豪雨の被害による死者は162名、安否不明者は56名だそうです。
突然起こる地震とは異なり、今回の大雨は、降水量は予想を上回る多さだったかもしれませんが、大雨が降ること自体は予想されていたことです。その中で私たちは主がそれらの地域を守って下さるようにお祈りもしました。それなのに、このような大災害になったことに私たちはどう向き合って行ったら良いのでしょうか。
私自身は大変に戸惑っています。特に、きょうの祈祷会のメッセージでは何を語ったら良いのか非常に戸惑いました。日曜日の礼拝メッセージは大雨の被害が出る前から準備していた説教でしたから、大雨には関係ないメッセージでしたが、準備していたものをそのまま語らせていただきました。しかし、きょうの水曜日のメッセージは、いったいどうすれば良いのか、悩みました。私はこの教会で語られたメッセージは礼拝メッセージでも祈り会メッセージでも、教会内部の問題に関すること以外は、基本的にブログに載せて一般に公開しています。教会の将来の問題で伝道の働きがほとんどできていないという現実がありますから、せめてブログでメッセージを公開することで伝道の働きをしたいという願いがあります。そうしてブログを続けて来て、毎日100名以上の方がコンスタントにブログを訪れて下さいます。その中にはクリスチャンでない方々も多いのではないかと推測しています。
ですから、私がこの教会の祈り会と礼拝で取り次ぐメッセージは教会の皆さんに向けてであると同時に、教会の外にいる方々に向けてのメッセージでもあるということを、私はいつも意識しています(ただし、この春のメッセージのいくつかは教会の問題に関わることでしたから、公開は控えました)。そういう中で、今回のような西日本豪雨の大災害の直後に、いったいどんなメッセージを語ったら良いでしょうか。私は大いに悩みました。そうして思いを巡らす中で、いくつかの詩篇が示されました。
人から神へのことばが綴られている詩篇
詩篇の多くには、詩人の悩みが綴られています。困難の中にある詩人が主に救いを求めて、祈ります。詩篇以外の聖書の記事の多くは神から人へのメッセージが中心です。しかし、詩篇は人から神への祈りと賛美が綴られています。もし聖書に詩篇がなかった場合のことを思い巡らすなら、詩篇がいかに重要な役割を担っているか、よく分かると思います。もちろん詩篇以外にも人から神への祈りや叫びは収録されていますが、神から人へのメッセージに比べると、あまり目立ちません。ですから、もし詩篇が無かったなら、聖書は神から人への一方通行の書のような印象を私たちは持ってしまうかもしれません。しかし、詩篇があることで、聖書は人から神へのことばも含まれている書であることに私たちは気付きます。
さて、いくつかの詩篇が示された中で、きょうは69篇を開くことにしました。ダビデは深い泥沼に沈み、もがき苦しんでいます。ここでダビデは実際に泥沼の中に沈んでいるわけではないでしょう。ダビデが置かれている状況が泥沼のようであるということでしょう。しかし、この情景は大雨による水害で泥水が流れ込んだ地域の状況に似ています。きょう、ここを開くことにしたのは、この泥沼の中にはイエス・キリストもまたいて、ダビデと共に苦しんでいることに思いを巡らしたいと思ったからです。
使徒の働きには、ペテロが詩篇を引用した時に次のような言い方をしたことが記されています。
使徒1:16 「兄弟たち。○○については、聖霊がダビデの口を通して前もって語った聖書のことばが、成就しなければなりませんでした。」
ダビデは聖霊を受けていましたから、詩篇のダビデの詩は、ダビデの内にいる聖霊がダビデの口を通して語ったことばだとペテロは言うのです。ここに、三位一体の神の神秘があります。旧約の時代、まだ御子はこの世に生まれていませんから、天の御座に父と共にいて、聖霊を受けた預言者に神のことばを伝えていました。そうして神のことばが預言者の口を通してイスラエルの民に伝えられました。たとえばモーセがイスラエルの民に語った神のことばは、聖霊がモーセの口を通してイスラエルの民に語られたものです。このモーセの場合は、比較的分かり易いと思います。
しかし、ダビデの詩の場合は、ダビデから神に向けたことばです。モーセのような神から人へのことばではなくて、人であるダビデから神に向けてのことばがダビデの詩です。このダビデから神へのことばが、聖霊がダビデの口を通して語られたことばであるということになります。ここから、聖霊を受けたダビデの内には御子がいて、御子がダビデと共に苦しんでいる様子を思い描くことができるでしょう。ですから、現代の私たちクリスチャンもまたダビデと同じように聖霊を受けていますから、私たちが泥沼の中で苦しんでいる時、イエスさまは私たちと共に苦しんで下さっています。このことに思いを巡らしながら、詩篇69篇をご一緒に見て行きたいと思います。
泥沼の中でもがき苦しむダビデとイエス
1節から4節までを、もう一度、交代で読みましょう。
69:1 神よ私をお救いください。水が喉にまで入って来ました。
69:2 私は深い泥沼に沈み足がかりもありません。私は大水の底に陥り奔流が私を押し流しています。
69:3 私は叫んで疲れ果て喉は渇き目も衰え果てました。私の神を待ちわびて。
69:4 ゆえなく私を憎む者は私の髪の毛よりも多く私を滅ぼそうとする者私の敵偽り者は強いのです。私は奪わなかった物さえ返さなければならないのですか。
ダビデは泥沼の中でもがき苦しみ、そして御子もダビデと共に苦しんでいます。
しかし、長い詩篇69篇の全部の節が、苦しみを綴ったものではありません。トーンが段々と変わって行きます。これは、ダビデと共にいる御子がダビデをある方向へと導いているということでしょう。そしてダビデは、神に祈り始めました。13節から18節までを交代で読みましょう。
69:13 しかし私は【主】よあなたに祈ります。神よみこころの時にあなたの豊かな恵みにより御救いのまことをもって私に答えてください。
69:14 私を泥沼から救い出し沈まないようにしてください。私を憎む者どもから大水の底から救い出してください。
69:15 奔流が私を押し流さず深い淵が私を吞み込まず穴が私の上で口を閉じないようにしてください。
69:16 【主】よ私に答えてください。いつくしみ深いあなたの恵みのゆえに。あなたのあわれみの豊かさにしたがって私に御顔を向けてください。
69:17 あなたのしもべに御顔を隠さないでください。私は苦しんでいます。早く私に答えてください。
69:18 私のたましいに近づきこれを贖ってください。そうして私の敵から私を贖い出してください。
この詩篇の最初のほうでは、ダビデは必死でした。しかし、今読んだ箇所は、わずかながら心に余裕が出て来たように感じます。それは、御子がダビデと共にいて励まして下さっているからではないでしょうか。
心に余裕が生じたダビデ
そして、この詩篇の最後でダビデはもっと変わります。32節から36節までを交代で読みましょう。
69:32 心の貧しい者たちよ 見て喜べ。神を求める者たちよ あなたがたの心を生かせ。
69:33 【主】は貧しい者に耳を傾け 捕らわれたご自分の民を蔑まれない。
69:34 天地よ 主をほめたたえよ。海とそこにうごめくすべてのものも。
69:35 まことに神はシオンを救いユダの町々を建て直される。彼らはそこに住みそこを自分たちの所有とする。
69:36 主のしもべたちの子孫はその地を受け継ぎ御名を愛する者たちはそこに住む。
この詩篇の最初のほうではダビデは自分のことだけで精一杯でした。しかし、この32節でダビデは、他の者たちに向かって呼び掛けています。「心の貧しい者たちよ 見て喜べ。神を求める者たちよ あなたがたの心を生かせ」。御子が共に苦しんで下さっていることで、ダビデの心にはこんなにも心の余裕が生じていました。
そして34節では、「天地よ 主をほめたたえよ。海とそこにうごめくすべてのものも。」と言って、すべての被造物に対して主をほめたたえることを勧めています。さらに35節と36節では救いがもたらされた様子が綴られています。この詩篇の最初と比べて、何とトーンが違うことでしょうか。あまりにも変化が大きいですから、これは短い間に急激に変わったのではなく、時間を掛けてゆっくりと変化したのかもしれません。しかし、時間が掛かろうとも、やがて神を賛美し、他の者たちにも、この賛美に加わるように勧めるほどにダビデの心は回復しています。
三位一体の神の神秘
これは正に三位一体の神の神秘だと言えると思います。父・子・聖霊の三位一体の神が、絶望の底に沈んでいる者を、神を賛美する者へと変えて下さいます。御子も聖霊もいなくて天の父だけであったら、これほどの変化が起きるでしょうか。天の父だけであったら聖霊のように人の心の内にまで深く入って、人を変えることができるでしょうか。旧約の時代には預言者だけにしか聖霊が与えられませんでしたから、エルサレム滅亡とバビロン捕囚という悲劇に向かって行ってしまいました。ですから、このダビデのような回復の恵みは、三位一体の神だからこそ、もたらすことができると言えるでしょう。
被災地の方々は、いま苦しみの真っ只中にいます。町を覆った泥が取り去られ、やがてインフラが復旧して日常生活が取り戻されたとしても、心の復興にはなお時間が掛かることでしょう。東日本大震災で被災された方々も、先日いただいたシオン教会のボランティア報告のまり子先生の文にもあったように、今なお深い悲しみや痛みを心に抱えているということです。そのようなことをお聞きしている中で、今回の西日本の豪雨で多くの方々が被災しました。この報道に接して私は戸惑い、どのようなメッセージを語るべきか、なお分からない中にあります。しかし、父・子・聖霊の神が共にいて下さり、ダビデの場合には、次第に心の復興へと向かって行ったことを心に刻んでおきたいと思います。聖霊が一人一人に与えられることの恵みの大きさを覚えながら、なお主の語り掛けに耳を傾け、自分たちにできることに取り組んで行きたいと思います。
お祈りいたしましょう。
『共に苦しむ主イエス』
【詩篇69:1~4、13~18、32~36】
はじめに
先週の後半から今週の始めに掛けて、西日本各地で大雨による甚大な被害が出ました。先週の水曜日の祈り会で私たちは、台風7号の影響により前線が活発化する予報が出ていたことから、前線が掛かる地域が大雨の被害から守られるようにお祈りしました。しかし、想像を絶する規模の大災害となり、今朝11日(水)の昼のNHKニュースの時点で、今回の西日本豪雨の被害による死者は162名、安否不明者は56名だそうです。
突然起こる地震とは異なり、今回の大雨は、降水量は予想を上回る多さだったかもしれませんが、大雨が降ること自体は予想されていたことです。その中で私たちは主がそれらの地域を守って下さるようにお祈りもしました。それなのに、このような大災害になったことに私たちはどう向き合って行ったら良いのでしょうか。
私自身は大変に戸惑っています。特に、きょうの祈祷会のメッセージでは何を語ったら良いのか非常に戸惑いました。日曜日の礼拝メッセージは大雨の被害が出る前から準備していた説教でしたから、大雨には関係ないメッセージでしたが、準備していたものをそのまま語らせていただきました。しかし、きょうの水曜日のメッセージは、いったいどうすれば良いのか、悩みました。私はこの教会で語られたメッセージは礼拝メッセージでも祈り会メッセージでも、教会内部の問題に関すること以外は、基本的にブログに載せて一般に公開しています。教会の将来の問題で伝道の働きがほとんどできていないという現実がありますから、せめてブログでメッセージを公開することで伝道の働きをしたいという願いがあります。そうしてブログを続けて来て、毎日100名以上の方がコンスタントにブログを訪れて下さいます。その中にはクリスチャンでない方々も多いのではないかと推測しています。
ですから、私がこの教会の祈り会と礼拝で取り次ぐメッセージは教会の皆さんに向けてであると同時に、教会の外にいる方々に向けてのメッセージでもあるということを、私はいつも意識しています(ただし、この春のメッセージのいくつかは教会の問題に関わることでしたから、公開は控えました)。そういう中で、今回のような西日本豪雨の大災害の直後に、いったいどんなメッセージを語ったら良いでしょうか。私は大いに悩みました。そうして思いを巡らす中で、いくつかの詩篇が示されました。
人から神へのことばが綴られている詩篇
詩篇の多くには、詩人の悩みが綴られています。困難の中にある詩人が主に救いを求めて、祈ります。詩篇以外の聖書の記事の多くは神から人へのメッセージが中心です。しかし、詩篇は人から神への祈りと賛美が綴られています。もし聖書に詩篇がなかった場合のことを思い巡らすなら、詩篇がいかに重要な役割を担っているか、よく分かると思います。もちろん詩篇以外にも人から神への祈りや叫びは収録されていますが、神から人へのメッセージに比べると、あまり目立ちません。ですから、もし詩篇が無かったなら、聖書は神から人への一方通行の書のような印象を私たちは持ってしまうかもしれません。しかし、詩篇があることで、聖書は人から神へのことばも含まれている書であることに私たちは気付きます。
さて、いくつかの詩篇が示された中で、きょうは69篇を開くことにしました。ダビデは深い泥沼に沈み、もがき苦しんでいます。ここでダビデは実際に泥沼の中に沈んでいるわけではないでしょう。ダビデが置かれている状況が泥沼のようであるということでしょう。しかし、この情景は大雨による水害で泥水が流れ込んだ地域の状況に似ています。きょう、ここを開くことにしたのは、この泥沼の中にはイエス・キリストもまたいて、ダビデと共に苦しんでいることに思いを巡らしたいと思ったからです。
使徒の働きには、ペテロが詩篇を引用した時に次のような言い方をしたことが記されています。
使徒1:16 「兄弟たち。○○については、聖霊がダビデの口を通して前もって語った聖書のことばが、成就しなければなりませんでした。」
ダビデは聖霊を受けていましたから、詩篇のダビデの詩は、ダビデの内にいる聖霊がダビデの口を通して語ったことばだとペテロは言うのです。ここに、三位一体の神の神秘があります。旧約の時代、まだ御子はこの世に生まれていませんから、天の御座に父と共にいて、聖霊を受けた預言者に神のことばを伝えていました。そうして神のことばが預言者の口を通してイスラエルの民に伝えられました。たとえばモーセがイスラエルの民に語った神のことばは、聖霊がモーセの口を通してイスラエルの民に語られたものです。このモーセの場合は、比較的分かり易いと思います。
しかし、ダビデの詩の場合は、ダビデから神に向けたことばです。モーセのような神から人へのことばではなくて、人であるダビデから神に向けてのことばがダビデの詩です。このダビデから神へのことばが、聖霊がダビデの口を通して語られたことばであるということになります。ここから、聖霊を受けたダビデの内には御子がいて、御子がダビデと共に苦しんでいる様子を思い描くことができるでしょう。ですから、現代の私たちクリスチャンもまたダビデと同じように聖霊を受けていますから、私たちが泥沼の中で苦しんでいる時、イエスさまは私たちと共に苦しんで下さっています。このことに思いを巡らしながら、詩篇69篇をご一緒に見て行きたいと思います。
泥沼の中でもがき苦しむダビデとイエス
1節から4節までを、もう一度、交代で読みましょう。
69:1 神よ私をお救いください。水が喉にまで入って来ました。
69:2 私は深い泥沼に沈み足がかりもありません。私は大水の底に陥り奔流が私を押し流しています。
69:3 私は叫んで疲れ果て喉は渇き目も衰え果てました。私の神を待ちわびて。
69:4 ゆえなく私を憎む者は私の髪の毛よりも多く私を滅ぼそうとする者私の敵偽り者は強いのです。私は奪わなかった物さえ返さなければならないのですか。
ダビデは泥沼の中でもがき苦しみ、そして御子もダビデと共に苦しんでいます。
しかし、長い詩篇69篇の全部の節が、苦しみを綴ったものではありません。トーンが段々と変わって行きます。これは、ダビデと共にいる御子がダビデをある方向へと導いているということでしょう。そしてダビデは、神に祈り始めました。13節から18節までを交代で読みましょう。
69:13 しかし私は【主】よあなたに祈ります。神よみこころの時にあなたの豊かな恵みにより御救いのまことをもって私に答えてください。
69:14 私を泥沼から救い出し沈まないようにしてください。私を憎む者どもから大水の底から救い出してください。
69:15 奔流が私を押し流さず深い淵が私を吞み込まず穴が私の上で口を閉じないようにしてください。
69:16 【主】よ私に答えてください。いつくしみ深いあなたの恵みのゆえに。あなたのあわれみの豊かさにしたがって私に御顔を向けてください。
69:17 あなたのしもべに御顔を隠さないでください。私は苦しんでいます。早く私に答えてください。
69:18 私のたましいに近づきこれを贖ってください。そうして私の敵から私を贖い出してください。
この詩篇の最初のほうでは、ダビデは必死でした。しかし、今読んだ箇所は、わずかながら心に余裕が出て来たように感じます。それは、御子がダビデと共にいて励まして下さっているからではないでしょうか。
心に余裕が生じたダビデ
そして、この詩篇の最後でダビデはもっと変わります。32節から36節までを交代で読みましょう。
69:32 心の貧しい者たちよ 見て喜べ。神を求める者たちよ あなたがたの心を生かせ。
69:33 【主】は貧しい者に耳を傾け 捕らわれたご自分の民を蔑まれない。
69:34 天地よ 主をほめたたえよ。海とそこにうごめくすべてのものも。
69:35 まことに神はシオンを救いユダの町々を建て直される。彼らはそこに住みそこを自分たちの所有とする。
69:36 主のしもべたちの子孫はその地を受け継ぎ御名を愛する者たちはそこに住む。
この詩篇の最初のほうではダビデは自分のことだけで精一杯でした。しかし、この32節でダビデは、他の者たちに向かって呼び掛けています。「心の貧しい者たちよ 見て喜べ。神を求める者たちよ あなたがたの心を生かせ」。御子が共に苦しんで下さっていることで、ダビデの心にはこんなにも心の余裕が生じていました。
そして34節では、「天地よ 主をほめたたえよ。海とそこにうごめくすべてのものも。」と言って、すべての被造物に対して主をほめたたえることを勧めています。さらに35節と36節では救いがもたらされた様子が綴られています。この詩篇の最初と比べて、何とトーンが違うことでしょうか。あまりにも変化が大きいですから、これは短い間に急激に変わったのではなく、時間を掛けてゆっくりと変化したのかもしれません。しかし、時間が掛かろうとも、やがて神を賛美し、他の者たちにも、この賛美に加わるように勧めるほどにダビデの心は回復しています。
三位一体の神の神秘
これは正に三位一体の神の神秘だと言えると思います。父・子・聖霊の三位一体の神が、絶望の底に沈んでいる者を、神を賛美する者へと変えて下さいます。御子も聖霊もいなくて天の父だけであったら、これほどの変化が起きるでしょうか。天の父だけであったら聖霊のように人の心の内にまで深く入って、人を変えることができるでしょうか。旧約の時代には預言者だけにしか聖霊が与えられませんでしたから、エルサレム滅亡とバビロン捕囚という悲劇に向かって行ってしまいました。ですから、このダビデのような回復の恵みは、三位一体の神だからこそ、もたらすことができると言えるでしょう。
被災地の方々は、いま苦しみの真っ只中にいます。町を覆った泥が取り去られ、やがてインフラが復旧して日常生活が取り戻されたとしても、心の復興にはなお時間が掛かることでしょう。東日本大震災で被災された方々も、先日いただいたシオン教会のボランティア報告のまり子先生の文にもあったように、今なお深い悲しみや痛みを心に抱えているということです。そのようなことをお聞きしている中で、今回の西日本の豪雨で多くの方々が被災しました。この報道に接して私は戸惑い、どのようなメッセージを語るべきか、なお分からない中にあります。しかし、父・子・聖霊の神が共にいて下さり、ダビデの場合には、次第に心の復興へと向かって行ったことを心に刻んでおきたいと思います。聖霊が一人一人に与えられることの恵みの大きさを覚えながら、なお主の語り掛けに耳を傾け、自分たちにできることに取り組んで行きたいと思います。
お祈りいたしましょう。