ヨハネの福音書の存在が神の存在証明になる、最近そんなことを考えています。
理屈は単純です。
ヨハネの福音書は写本が実在するので、原本を書いた記者も必ず存在します。記者が誰かは諸説ありますが、誰であれ、この記者が神であれば神は存在することになります。そして、実はヨハネの福音書の記者は神です。そのカラクリはヨハネの福音書の本文で説明できます。
ヨハネ4章1-2節は次のように書いています。
ヨハネの福音書の記述は多くの点でマタイ・マルコ・ルカの福音書と異なりますが、このヨハネ4:1-2もマタイ・マルコ・ルカと大きく異なります。マタイ・マルコ・ルカの福音書でバプテスマを授けていたのは洗礼者ヨハネだけです。イエスと弟子たちはバプテスマを授けていません。しかし、ヨハネ4:1は「イエスが…バプテスマを授けている」と記しています。
この食い違いは、ヨハネの福音書のイエスはマタイ・マルコ・ルカのイエスとは異なる時代にいると考えることで説明できます。マタイ・マルコ・ルカが描いたイエスは十字架に掛かる前のイエスです。一方、ヨハネが描いたイエスは復活して天に昇った後、天から聖霊を遣わしているイエスです。
五旬節の日に天のイエスが地上の弟子たちに聖霊を遣わして以降、弟子たちはエルサレムの人々にバプテスマを授けるようになりました。この状況を説明しているのがヨハネ4:2「バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが」です。聖霊を受けた弟子たちの中には天のイエスが居たので、弟子たちがバプテスマを授けた行為はイエスがバプテスマを授けたのと同じことでした。
これと同じことがヨハネの福音書の執筆についえも言えます。ヨハネ21:24によれば、この福音書の記者はイエスの弟子です。
この弟子が誰であれ、記者が聖霊を受けていたことは間違いありません。聖霊について詳しく書いたヨハネの福音書を、聖霊を受けていない者が書くことは不可能だからです。するとヨハネ4:1-2から、ヨハネの福音書はイエスが執筆したことになります。聖霊を受けた記者の中には天のイエスが居たからです。天のイエスは神ですから、ヨハネの福音書の記者は神です。従って、神は存在します。
理屈は単純です。
ヨハネの福音書は写本が実在するので、原本を書いた記者も必ず存在します。記者が誰かは諸説ありますが、誰であれ、この記者が神であれば神は存在することになります。そして、実はヨハネの福音書の記者は神です。そのカラクリはヨハネの福音書の本文で説明できます。
ヨハネ4章1-2節は次のように書いています。
ヨハネ4:1 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、
2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──
2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──
ヨハネの福音書の記述は多くの点でマタイ・マルコ・ルカの福音書と異なりますが、このヨハネ4:1-2もマタイ・マルコ・ルカと大きく異なります。マタイ・マルコ・ルカの福音書でバプテスマを授けていたのは洗礼者ヨハネだけです。イエスと弟子たちはバプテスマを授けていません。しかし、ヨハネ4:1は「イエスが…バプテスマを授けている」と記しています。
この食い違いは、ヨハネの福音書のイエスはマタイ・マルコ・ルカのイエスとは異なる時代にいると考えることで説明できます。マタイ・マルコ・ルカが描いたイエスは十字架に掛かる前のイエスです。一方、ヨハネが描いたイエスは復活して天に昇った後、天から聖霊を遣わしているイエスです。
五旬節の日に天のイエスが地上の弟子たちに聖霊を遣わして以降、弟子たちはエルサレムの人々にバプテスマを授けるようになりました。この状況を説明しているのがヨハネ4:2「バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが」です。聖霊を受けた弟子たちの中には天のイエスが居たので、弟子たちがバプテスマを授けた行為はイエスがバプテスマを授けたのと同じことでした。
これと同じことがヨハネの福音書の執筆についえも言えます。ヨハネ21:24によれば、この福音書の記者はイエスの弟子です。
ヨハネ21:24 これらのことについて証しし、これらのことを書いた者は、その弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている。
この弟子が誰であれ、記者が聖霊を受けていたことは間違いありません。聖霊について詳しく書いたヨハネの福音書を、聖霊を受けていない者が書くことは不可能だからです。するとヨハネ4:1-2から、ヨハネの福音書はイエスが執筆したことになります。聖霊を受けた記者の中には天のイエスが居たからです。天のイエスは神ですから、ヨハネの福音書の記者は神です。従って、神は存在します。