平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

聞き続けよ。だが悟るな(2015.5.6 祈り会)

2015-05-07 14:06:08 | 祈り会メッセージ
2015年5月6日祈り会メッセージ
『聞き続けよ。だが悟るな』
【イザヤ6:8~13】

6:8 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」
6:9 すると仰せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』
6:10 この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返っていやされることのないように。」
6:11 私が「主よ、いつまでですか」と言うと、主は仰せられた。「町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果て、
6:12 【主】が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所がふえるまで。
6:13 そこにはなお、十分の一が残るが、それもまた、焼き払われる。テレビンの木や樫の木が切り倒されるときのように。しかし、その中に切り株がある。聖なるすえこそ、その切り株。」

はじめに
 先週はイザヤ6:8から、主の「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」という御声に、私たちの一人一人が「ここに、私がおります。私を遣わせてください」と応答しなければならないのではないか、ということを語らせていただきました。世の中の動きが不穏になり、平和が脅かされている今、主は多くの働き人を必要とされていることと思います。私たちの一人一人で働き方は異なりますが、主の御声に耳を澄まして、それぞれの働き方で主の召しに応答したいと思います。
 さて今日は9節以降を見ることにしますが、8節からの流れで9節以降がありますから、8節も含めて、ご一緒に読みました。
 
新約聖書に多く引用されている箇所
 9節と10節は、新約聖書の非常に多くの箇所で引用されています。マタイ・マルコ・ルカの福音書では「種まきのたとえ」で引用されていますし、その他にもヨハネの福音書と使徒の働きとローマ人への手紙でも引用されています。それらの書のどの節で引用されているかは、下の脚注を見ていただくとわかるようになっています。9節についての脚注ですから、「9」の①を見ていただきますと、引照がたくさん書いてありますね。後でこの中の一つの使徒の働きをご一緒に読みたいと思いますが、その前に、11節から13節までを先に見ておきたいと思います。
 11節でイザヤは主に、「主よ、いつまでですか」と聞きました。この「いつまでですか」というのは、9節の主のイザヤへの命令の、『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』と民に言うことを、いつまでするのですか?ということです。このイザヤの質問に対する主の答えは、11節の続きと12節の、

「町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果て、【主】が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所がふえるまで。」

でした。これは、まずは人々がバビロンに捕囚として引かれて行き、そこから解放されるまでと取ることができるでしょう。しかし、続きがあります。13節、

6:13 そこにはなお、十分の一が残るが、それもまた、焼き払われる。テレビンの木や樫の木が切り倒されるときのように。しかし、その中に切り株がある。聖なるすえこそ、その切り株。」

 この「切り株」とは捕囚の残りの者ともメシヤとも、どちらの意味にも取れるとのことですが、私はメシヤの到来の預言と私は受け取りたいと思います。そのほうが、この箇所を引用している新約聖書の箇所ともよく整合すると思うからです。ですから、「切り株」がメシヤとすれば、「いつまでですか?」はイエス・キリストがこの世に来る時までということになるでしょう。しかし、ご存知の通り、ユダヤの人々はイエスがどのような存在であるかが、わかりませんでしたから、イエスを十字架に付けて殺してしまいました。

聞き続けよ。だが悟るな
 このことを念頭に置いて、改めてイザヤ6章の9節と10節が何を言わんとしているかを、ご一緒に考えてみたいと思います。9節と10節を交代で読みましょう。

6:9 すると仰せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』
6:10 この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返っていやされることのないように。」

 私たちは自らの霊的な理解力を総動員して全力で、この箇所と向き合わなければならないと思います。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな』とは、一体どういうことでしょうか。主はご自身の民が悟ることを望んではおられないのでしょうか。そんな筈はありませんね。主は、ご自身の民を愛しておられますから、民が悟ることを望んでおられるはずです。では何故、『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』などとおっしゃるのでしょうか。
 それは、主のことばを本当に理解するには、結局は聖霊の助けが無ければできないからではないでしょうか。イザヤの時代には、聖霊が誰にでも注がれるわけではありませんでしたから、人々が主のことばを深く理解するのは無理なことでした。時が満ちてイエス・キリストが来られて、十字架の死の後に復活して天に上り、天から聖霊が注がれるようになるまでは主のことばを理解することは無理なのだ、イザヤ6章の9節と10節はそういうことを言っているのだと理解すべきではないでしょうか。
 ただし聖霊が注がれるためには、イエスが神の子キリストであることを本気で信じる必要があります。ですから、たとえペンテコステの日以降に誰にでも聖霊が注がれるようになっても、イエスを信じないのであれば、主のことばを理解することはできません。

パウロの嘆き
 このことについては、パウロの嘆きが使徒の働きに書いてあります。9節の脚注にもある使徒28章の26節と27節ですが、その前から見てみたいと思います。使徒の働き28章の16節を、まず見て下さい。ここにパウロやルカたちがローマに入り、パウロは番兵付きで自分だけの家に住むことが許されたことが書かれています。そして17節から、パウロがユダヤ人の主だった人たちを呼び集めて、パウロがどうしてローマに来ることになったのかを説明したことが書かれています。すると集まったユダヤ人たちは言いました。少し飛ばして22節、

28:22 私たちは、あなたが考えておられることを、直接あなたから聞くのがよいと思っています。この宗派については、至る所で非難があることを私たちは知っているからです。

 続いて23節と24節、

28:23 そこで、彼らは日を定めて、さらに大ぜいでパウロの宿にやって来た。彼は朝から晩まで語り続けた。神の国のことをあかしし、また、モーセの律法と預言者たちの書によって、イエスのことについて彼らを説得しようとした。
28:24 ある人々は彼の語る事を信じたが、ある人々は信じようとしなかった。

 24節に、パウロから話をユダヤ人たちはイエスを信じた者たちもいたけれども信じようとしなかった者たちもいたことが記されています。そして25節、

28:25 こうして、彼らは、お互いの意見が一致せずに帰りかけたので、パウロは一言、次のように言った。「聖霊が預言者イザヤを通してあなたがたの父祖たちに語られたことは、まさにそのとおりでした。

 パウロはこう言ってイザヤ6章を引用します。26節と27節です。

28:26 『この民のところに行って、告げよ。あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。
28:27 この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、その目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って、立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』

 パウロはこう言ってから神の救いの御手が異邦人に向けられたことを告げます。28節、

28:28 ですから、承知しておいてください。神のこの救いは、異邦人に送られました。彼らは、耳を傾けるでしょう。」

 こうして現代に至るまで、多くの異邦人が救われました。

新たな問題
 しかし、新たな問題も生じています。それは現代のアメリカが抱えているような問題です。アメリカにはクリスチャンが多くいて、聖書に何が書いてあるかを知っている人々は大勢いますが、イエス・キリストを本気で信じて聖霊が注がれ、神のことばを霊的に理解できているアメリカ人がどれだけいるでしょうか。どれだけの割合なのかわかりませんが、そんなに多くはいないのではないかと思います。つまり、パウロが嘆いた状況は、現代においても未だ続いているということです。
 日本においては、もっと悲惨です。日本はただでさえクリスチャン人口が少ない上に、その数少ないクリスチャンの中でも、神のことばを霊的に理解できているクリスチャンがどれだけいるのかを考えるとき、本当に心もとなく思います。聖霊が注がれている人であっても、マルタとマリヤの姉妹の姉のマルタのように忙しく過ごしているなら、霊的なことは理解できないからです。
 けれども絶望しているわけには行きませんから、私たちは主の「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」ということばに「ここに、私がおります。私を遣わしてください」と応答して、一人一人に与えられた役割を果たしたいと思います。そのためには、先ずはイエスさまの御声に耳を傾けたいと思います。

おわりに
 最後に、日曜日にも開いた箇所ですが、ルカ10章の38節から42節までを交代で読んで、メッセージを閉じたいと思います。

10:38 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
10:39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
10:40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
10:41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

 お祈りいたしましょう。
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