日本のキリスト教は「文系の信仰」と「理系の信仰」の二つがあると感じます。海外のキリスト教をほとんど知らないので「日本のキリスト教は」と書きましたが、恐らく海外のキリスト教は日本のような文系・理系の分化はないと想像します。海外では日本ほど文系と理系の断絶が深くないという次の記事があるからです。『文系と理系はなぜ分かれたのか』(星海社)の著書がある隠岐さや香氏へのインタビュー記事です。冒頭部分を引用します。
日本は海外に比べて文系、理系の断絶が深い
(聞き手)文系、理系に分けるのは日本だけと言われますが、そうなのでしょうか?
(隠岐)言葉の意味がずれていると思います。大学で自然科学と人文・社会科学を二つの文化に分ける発想があるのは、英語圏やドイツ圏、フランス圏でもそうです。中国や韓国など東アジアでは、文系、理系という言葉で理解してくれます。
ただ、海外では、日本のように断絶が深くありません。日本では大学入試の時に文系、理系に分かれたままですが、海外では分かれていても越境する仕組みがあります。海外では文系、理系という区別がないように見えるのです。
文理融合の学部をつくった教授が言っていましたが、日本では大学受験の段階で「自分は文系なので」「理系なので」というアイデンティティーを持ってしまうようです。大学入試が自己イメージを縛ってしまうのです。外国人留学生だと、そういうことはあまりありません。(朝日新聞EduAより)
なぜ日本ではキリスト教が広まらないのか、もしかしたら文系・理系の断絶の深さも要因の一つかもしれません。個人の感想ですが、文系は理系よりも疑い深い人が多い傾向があるように感じます。一方、理系はそれほど疑い深くはないものの、日本の教会の多くで語られる「文系の信仰」にはあまり興味がなさそうな気がします。その結果、文系も理系もキリスト教を信じるに至らない、そういう構図があるかもしれません。
ここで、私がイメージする「文系の信仰」と「理系の信仰」を表にしてみます(あくまでも個人の印象です)。
文系 | 理系 |
---|---|
イエスに 心を寄せる |
創造主に 心を寄せる |
個人の救い を重んじる |
世界の救い を重んじる |
人間関係に 目を向ける |
自然や宇宙に 目を向ける |
高い視座は 望まない |
高い視座を 望みがち |
讃美歌で言えば、「文系の信仰」は「いつくしみ深き」(教会福音讃美歌432)でしょうか。
いつくしみ深き 友なるイェスは、
罪とが憂いを とり去りたもう。
こころの嘆きを 包まず述べて、
などかは下さぬ、負える重荷を。
2
いつくしみ深き 友なるイェスは、
われらの弱きを 知りて憐れむ。
悩みかなしみに 沈めるときも、
祈りにこたえて 慰めたまわん。
3
いつくしみ深き 友なるイェスは、
かわらぬ愛もて 導きたもう。
世の友われらを 棄て去るときも、
祈りにこたえて 労りたまわん。
そして「理系の信仰」は「つきぬ喜びを注がれる主よ」(教会福音讃美歌11)でしょうか。
つきぬ喜びを 注がれる主よ
栄光の神よ 愛のお方よ
罪と悲しみの 雲を溶かして
まことの光で 満たしてください
2
世界に満ちたる すべてもものは
神の輝きを 映して歌う
花咲く野原も さえずる鳥も
歓びの歌に われらをまねく
3
赦しといのちを 与える神は
歓び満たして 愛を教える
信じる者らは 家族とされて
清い交わりに 引き上げられる
4
息あるものみな ここに集まり
あかつきをさます 歌声あげよ
神の愛により かたく結ばれ
われらは進んで 勝利にいたる
一般の信徒の頃の私は創造主である天の父に心を寄せる一方で、イエスに心を寄せることが、なかなかできずにいました。いま考えると、それは私が日本の理系出身だからのような気がします。人間関係の機微に疎かった私がイエスに心を寄せることができなかったのは、自然なことだったのかもしれません。そして、その人間関係への疎さは文系と理系の断絶が深いという土壌によって育てられたもののように思います。この深い溝が埋まって文理融合が進むなら、日本でもキリスト教がもっと理解されるようになるのではないか、そんな風に思い始めています。