平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

聖霊がペテロに与えた力(2016.7.17 礼拝)

2016-07-18 09:11:53 | 礼拝メッセージ
2016年7月17日礼拝メッセージ
『聖霊がペテロに与えた力』
【使徒2:14~24】

はじめに
 先聖日は聖餐の恵みに与ることができ、私たちの信仰を整えることができましたから、とても感謝でした。
 今週からまた、使徒の働きの学びに戻りたいと思います。今日から2章の学びに入ります。学びのペースとしては、一つの章の学びにだいたい2回ぐらいを掛ける感じかなと思っています。使徒の働きは28章までありますから、単純計算では56回の学びになります。また、一つの章に3回ぐらい掛ける時もあるかもしれませんし、先聖日のような聖餐式礼拝や召天者記念礼拝、宣教聖日礼拝、またクリスマスやイースターの前後には、使徒の働きを離れると思いますから、だいたい1年半ぐらいの学びになるでしょう。すると、来年のクリスマスの頃までということになりますから、使徒の働きのおしまいのほうを学ぶ頃には、新しい礼拝堂で礼拝を守るようになっていたい、というのが私たちの願いです。

五旬節の日に降った聖霊
 さて、きょうは2章の前半を学びます。聖書朗読では14節からを司会者に読んでいただきましたが、1節から見て行きましょう。1節、

2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。

 この日はイエス・キリストが復活してから50日目のペンテコステの日で、みなが一つの場所に集まっていました。「みな」というのは、1章の13節から15節に掛けて書かれている人々のことでしょう。

1:13 彼らは町に入ると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。
1:14 この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。
1:15 そのころ、百二十名ほどの兄弟たちが集まっていたが、ペテロはその中に立ってこう言った。

 ここから、集まっていた「みな」とはガリラヤの人々であったことがわかります。イエスさまはガリラヤで宣教を始めて、12弟子を任命しましたから、彼らはガリラヤ人でしたし、イエスさまの母マリヤもイエスさまの兄弟たちもガリラヤのナザレの人々でした。

 2章に戻ります。2節、

2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。

 これは聖霊が天から降って来た時の描写です。聖霊は神の霊ですから、これは霊的な世界の話で、響きというのも魂への響きが家全体への響いたように感じたのかなと思ったりもするのですが、6節には「この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た」とありますから、霊的な世界の音だけでなく、実際に耳に聞こえる大きな音が生じたようです。
 神様は何でもお出来になる方ですから、これは大勢の人々を集めるために、音を立てて聖霊を遣わしたのかなと思います。
 続いて3節と4節、

2:3 また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。
2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

 これもまた、人々が興味を引くように、神様がされたことでしょうか。色々と興味は尽きませんが、きょうはペテロに注目したいと思っていますので、先へ進むことにします。  

旧約聖書を引用して説教したペテロ
 きょうの聖書箇所の14節へ飛びます。14節と15、16節、

2:14 そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。
2:15 今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。
2:16 これは、預言者ヨエルによって語られた事です。

 「酔っているのではありません」とは、いま飛ばした13節にあるように、「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ」と言ってあざける者たちもいたからです。そしてペテロは、旧約聖書のヨエル書を引用しました。17節と18節、

2:17 『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
2:18 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。

 旧約の時代には、聖霊は預言者たちだけにしか注がれませんでした。しかし、すべての者に聖霊が注がれる日が来ることを、ヨエルは預言していました。ヨエル書をご一緒に見て確認しておきましょう(旧約聖書p.1495)。ヨエル書2章の28節と29節を交代で読みましょう。

2:28 その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。
2:29 その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。

 ペテロは、このヨエル書をそらんじていたのでしょうか。この後でペテロは詩篇のダビデの詩も引用します。使徒の働きに収録されているペテロやパウロの説教を見ると、旧約聖書からの引用が数多く見られます。パウロの場合は、わかります。パウロは律法の学びを熱心にしていましたから、旧約聖書に通じていても少しも不思議ではありません。一方、ペテロは漁師でしたから、少し不思議な気がします。
 しかし、これこそが聖霊の働きだと言えるでしょう。ペテロはイエスさまに付き従っている間に様々な学びをして、ペテロの内に様々な知識が蓄積されて行ったのだと思います。それらは断片的な知識であり、聖霊が注がれるまではペテロの中でもイエス・キリストと上手く結び付いてはいなかったことだろうと思います。使徒の働きの1章の学びの時にも指摘しましたが、使徒1章6節で彼らは、こう言っていました。

「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興して下さるのですか」

 この時点では、まだペテロたちはイエス・キリストがどのようなお方かが分かっていませんでした。しかし、聖霊が注がれた時に、これまでイエスさまを通してバラバラに学んで来た断片的な事柄が一瞬にして整理統合されて、よく理解できるようになったのでしょうね。何とも不思議な気がしますが、これこそが聖霊がペテロたちに与えたイエス・キリストの証人になるための力であると言えるでしょう。
 聖霊にこのような力があることは、CS教師の経験がある方々はご存知のことと思います。人に聖書について教えることが自分にできるだろうかと、あまり自信がなくても、その役割が与えられると不思議とできるようになる、ということを味わっておられるのではないかと思います。イエス・キリストの証人にならんとする者には、聖霊によって不思議な力が与えられます。

堂々と説教をしたペテロ
 さてしかし、ペテロの場合には、聖書知識のこと以外にも、もう一つ不思議に思うことがあります。ルカの福音書の、イエスさまが逮捕された時のペテロの様子を、ご一緒に読みたいと思います。ルカの福音書22章の54節から62節までを交代で読みましょう(p.165)。

22:54 彼らはイエスを捕らえ、引いて行って、大祭司の家に連れて来た。ペテロは、遠く離れてついて行った。
22:55 彼らは中庭の真ん中に火をたいて、みなすわり込んだので、ペテロも中に混じって腰をおろした。
22:56 すると、女中が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て言った。「この人も、イエスといっしょにいました。」
22:57 ところが、ペテロはそれを打ち消して、「いいえ、私はあの人を知りません」と言った。
22:58 しばらくして、ほかの男が彼を見て、「あなたも、彼らの仲間だ」と言った。しかしペテロは、「いや、違います」と言った。
22:59 それから一時間ほどたつと、また別の男が、「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから」と言い張った。
22:60 しかしペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません」と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。
22:61 主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う」と言われた主のおことばを思い出した。
22:62 彼は、外に出て、激しく泣いた。

 そして、この後で、イエスさまは十字架に付けられて殺されてしまいました。その三日後に復活したとは言え、ペテロが受けたダメージは相当に大きかった筈です。そんなペテロが、どうして立ち直って、こんなにも堂々と説教できるまでになったのでしょうか。
 その秘密は、やはりヨハネの福音書21章にあるのでしょうね。きょうは、聖書をあちこち開くことになってしまいました。申し訳ありませんが、最後にヨハネの福音書21章をご一緒に読むことにしましょう(新約聖書p.225)。

すべてをイエスに明け渡したペテロ
 ヨハネ21章の15節から17節までを交代で読みましょう。

21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」
21:16 イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
21:17 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

 このイエスさまとペテロとのやり取りの中には、いろいろと注目すべきポイントがありますが、きょうはペテロが言った「私があなたを愛することは、あなたがご存じです」という言葉に注目したいと思います。
 最後の晩餐でイエスさまはペテロに言いました。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」
 そして、実際にその通りになりました。ペテロは、イエスさまに「あなたは三度、わたしを知らないと言います」と言われた時、決してそんなことはないと思っていました。しかし、その通りになってしまいました。このことによってペテロは、イエスさまは自分の心の中を全部ご存じなのだということを知りました。
 そのイエスさまに向かってペテロはヨハネ21章で「私があなたを愛することは、あなたがご存じです」と言いました。ここで私は、ペテロが自分の心のすべてをイエスさまに委ねたのだということを感じます。自分は確かにイエスさまを愛している。しかし、自分の中には自分でもコントロールできない領域がある。それをも含めて自分の心のすべてをイエスさまに明け渡してお委ねする、ペテロはそのような気持ちでイエスさまに答えたのではないでしょうか。この時のペテロは決して強がってはいませんでした。ペテロのプライドや自分をよく見せようという心は一度完全に粉々に粉砕されましたから、強がることなどできません。だからこそペテロは自分の心の内のすべてをイエスさまに完全に明け渡すことができました。
 イエスさまを三度知らないと言った時のペテロは、まだイエスさまに自分を明け渡してはおらず、自分の心を自分でコントロールしようとしていました。もしこの時のペテロが自分のすべてをイエスさまに明け渡していたなら、自分を支配しているイエスさまのことを知らないなどとは決して言わなかったでしょう。しかし、このみじめな失敗を通してペテロの心は粉々に粉砕されましたから、ペテロは自分のすべてをイエスさまに明け渡すことができました。

すべてを明け渡した者に与えられる聖霊の力
 聖霊の力は、このようにイエスさまに自分の心のすべてを明け渡した者に最大限に働きます。自力で何とかしようと思っている者には、聖霊の力はなかなか働きません。すべてをイエスさまに明け渡した者に、聖霊は大きな力を与えて下さいます。
 ペンテコステの日に聖霊が注がれたペテロが旧約聖書を自在に引用しながら人々に力強く説教することができたのは、ペテロが自分の心のすべてをイエスさまに明け渡したからです。私たちもそのような者となって、イエスさまの証人になり、イエスさまのために働きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

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