2022年8月21日礼拝メッセージ
『洗礼を授けていたのはイエス自身ではなかったとは?』
【ヨハネ4:1~8】
はじめに
礼拝では7月からヨハネの福音書を開いて、この書では天にいるイエス様が見えているという話をしています。マタイ・マルコ・ルカの福音書は地上のイエス様を描いていますが、ヨハネの福音書は地上に来る「前」と「後」の、天にいるイエス様を描いています。つまり、私たちはマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四つの福音書から、イエス様が地上に来る前、地上にいる時、天に帰った後のすべての時代のイエス様を知ることができます。きょうはヨハネ4章の最初の8節に見えている天のイエス様について話します。
きょうの中心聖句はヨハネ4章2節です(週報p.2)。
バプテスマ(洗礼)を授けていたのはイエスご自身ではなかったとは、どういうことでしょうか?このことを説き明かしつつ、次の3つのパートで話を進めて行きます。
①聖霊を受けた弟子と預言者たちの中にいる天のイエス様
②ステパノ迫害と北王国の不信仰に失望し疲れたイエス様
③多様な視点と通信手段を得て見えて来た天のイエス様
①聖霊を受けた弟子と預言者たちの中にいる天のイエス様
先週は十字架の場面のマタイ・マルコ・ルカとヨハネの描き方の違いから、マタイ・マルコ・ルカは目に見える地上のイエス様を描き、ヨハネは目に見えない心の中のイエス様を描いていることを話しました。マタイ・マルコ・ルカは女性たちが十字架を遠く離れた場所から見ていたと書きました。
これが2千年前の地上で実際にあったことでしょう。でも女性たちの心の中にはイエス様がいて、彼女たちはイエス様と一緒に苦しんでいました。この、心の中のイエス様を描いたのがヨハネです。ヨハネ19:25は女性たちが十字架のそばに立っていたと書いていますが、これは心の中のことです。
このようにマタイ・マルコ・ルカの福音書は目に見える地上のイエス様を描いています。一方、ヨハネの福音書は私たちの心の中に現れて下さる天のイエス様を描いています。この両方がイエス様です。イエス様はもともとは天の父と共に天にいて、モーセやエリヤなどの預言者たちに聖霊を遣わし、聖霊を通して父のことばを預言者たちに伝えていました。その天のイエス様が2千年前に地上に遣わされてヨセフとマリアの子として地上に生まれました。大人に成長してからはペテロやヨハネたちと同じ時を過ごし、十字架に付けられて復活した後に天に帰られました。そうして、天に帰った後は今度は弟子たちに聖霊を遣わして弟子たちの中に現れました。そして、現代の21世紀の私たちの中にも現れて下さいます。
私たちは2千年前の地上にいたイエス様にお会いすることはできませんが、心の中に現れて下さる天のイエス様にはお会いできます。天のイエス様は私たちの心の中に聖霊を通して入って下さり、天からのことばを私たちに伝えて下さいます(ただし「天」とは現代風に言えば異次元です。「天」は雲の上ではなく、もっと身近に存在するのでしょう)。
ヨハネの福音書は、預言者たちや弟子たち、そして私たちの心の中に入って下さる天のイエス様が主役です。きょうはヨハネ4章でそのことを見て行きましょう。まず4章1節と2節、
ここにはペンテコステの日以降のパリサイ人と弟子たち、そして天のイエス様のことが書かれています。
7月の最後の礼拝では、ヨハネ2章のガリラヤ人の弟子たちが参加したカナの婚礼の場面を開きました。ここからは、ペンテコステの日にガリラヤ人の弟子たちに聖霊が注がれた時の天のイエス様が見えています。母のマリアが「ぶどう酒がありません」と言ったことは、旧約の時代の終わりを表し、きよめの水がぶどう酒に変わったことは、水ではきよめられなかった心の内が、イエス様の血によってきよめられるようになったことを表すことを話しました。
そして、先週開いたヨハネ3章ではイエス様がニコデモに聖霊の話をしている場面を読みました。ニコデモはユダヤ人ですから、ここからはペンテコステの日にガリラヤ人たちの次にユダヤ人たちにも聖霊が注がれた時の天のイエス様が見えています。このようにヨハネ2章から4章に掛けては使徒の働きに書かれている出来事が順番通りに並んでいます。まずガリラヤ人の弟子たちに聖霊が注がれ、次にユダヤ人たちに聖霊が注がれたことで教会が誕生し、教会は急成長しました。しかし、ステパノが石打ちにあって死んだことをきっかけにして教会は迫害を受け、弟子たちはエルサレムから散らされて行きました。そして散らされる中で例えばピリポはサマリアでイエス様を宣べ伝えました。
ヨハネ4章1節でヨハネはイエス様がバプテスマ(洗礼)を授けていたと書いています。マタイ・マルコ・ルカの福音書によれば、イエス様が地上にいた時代にバプテスマを授けていたのはバプテスマのヨハネだけでした。イエス様も弟子たちもバプテスマを授けていませんでした。ですから、続く2節でヨハネが「バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであった」と書いたのは、ペンテコステの日以降の使徒の働きの時代のことであることが分かります。ペンテコステの日以降、天のイエス様は聖霊を受けた弟子たちの中にいました。ですから、弟子たちがバプテスマを授けていたことは、イエス様がバプテスマを授けていたのと同じことでした。
ペンテコステの日以降、教会には多くの弟子が加えられました(使徒2章)。4章1節の「イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている」とは、使徒たちの時代にエルサレムの教会が急成長していた様子を表しています。
このように、ヨハネの福音書は聖霊を受けた人々の中にいる天のイエス様が主役の書であり、地上のイエス様を描いたマタイ・マルコ・ルカとは視点がまったく異なる書です。ですから、マタイ・マルコ・ルカを読むのと同じ目でヨハネを読まないように注意しなければなりません。このことを頭に入れていただいて、次のパートに進みます。
②ステパノ迫害と北王国の不信仰に失望し疲れたイエス様
3節と4節をお読みします。
ペンテコステの日に誕生したエルサレムの教会は、その後急速に成長しました。その急成長の最中に、使徒の働きによれば、ステパノが石打ちに遭って殺されました。そして教会に対しても激しい迫害が起こりました。聖書交読でも読み、週報p.2にも1節と5節を載せましたが、使徒の働き8章は次のように書いています。
従って、ヨハネ4章4節でサマリアを通って行ったイエス様とは、ピリポの中にいた天のイエス様です。ピリポも聖霊を受けていましたから、ピリポの中には天のイエス様がいました。
さてしかし、永遠の中にいるイエス様はどの時代にもいることができるお方ですから、使徒の働きの時代にいると同時に旧約の時代にもいます。ここからヨハネ4章は舞台が移動してイエス様が北王国のエリヤの中にいるイエス様を描き始めます。エリヤも聖霊を受けた預言者でしたから、イエス様はエリヤの中にもいました。5節から7節に掛けては地理的な舞台は同じサマリアです。しかし、時代的な舞台は使徒たちの時代からエリヤの時代に移ります。この辺りの舞台移動はスマホを持つ21世紀の私たちだからこそ、見えるものなのでしょう。5節から7節。
7節でイエス様はサマリアの女に「わたしに水を飲ませてください」と言われました。この場面で天のイエス様は、エリヤがツァレファテのやめもに「水を飲ませてください」と言った時代のエリヤの中にいました。列王記第一17章10節です(週報p.2)。
この場面の時代的な舞台が使徒の時代ではなくて旧約のエリヤの時代であることは、8節からも分かります。8節、
弟子たちは使徒の時代にいました。彼らは人間ですから天のイエス様とは違って旧約の時代に同時にいることはできません。それで弟子たちは旧約の舞台から退場しました。弟子たちは、舞台がまた使徒の時代に戻った時に、町から戻って来ます。このことは9月の礼拝で話します。
さて6節には、「イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた」とあります。ここにはイエス様が疲れていたことが記されています。このイエス様の疲れは、使徒の時代とエリヤの時代の不信仰から来る疲れでしょう。イエス様は人々の不信仰に失望して疲れていました。
使徒の時代においてはステパノが石打ちで死に、教会が激しい迫害に遭って弟子たちがエルサレムから散らされました。この激しい迫害はユダヤ人たちがイエス様を信じない不信仰によるものですから、イエス様はひどく失望していたことでしょう。
そしてイエス様は旧約の時代の北王国の不信仰にも失望していました。今年の5月から6月に掛けて、エリヤの時代の北王国の不信仰を共に学びました。イスラエルの王国は、ソロモン王の不信仰によって北と南の二つの王国に引き裂かれました。そうして北王国は初代のヤロブアム王が、北の国民が南のエルサレムの神殿に礼拝に行かないようにしました。このことで北の人々の不信仰の度合いが増して行き、七代目のアハブ王の時代には本当にひどいことになっていました。天のイエス様はこの状況に失望して、疲れていたのでしょう。
天のイエス様が見えるようになったことで、私たちは地上のイエス様だけでなく、その前の時代と後の時代の天にいるイエス様も、この世の状況に失望して悲しむ様子が分かるようになりました。ヨハネの福音書でイエス様が最も悲しんでいる場面は11章35節です(週報p.2)。
この11章の涙を流しているイエス様については、何週間か後でまた改めて説明します。覚えておきたいことは、天におられるイエス様は、今の私たちの2022年の状況も悲しんでおられるということです。私たちは、このことをしっかりと感じ取りたいと思います。そうすれば、この世はきっと、もっと良い方向に向かって行くと思います。
③多様な視点と通信手段を得て見えて来た天のイエス様
きょうの中心聖句のヨハネ4:2に改めて目を留めます。
このヨハネ4章2節の時代はイエス様が地上にいた時の時代ではなく、ペンテコステの日以降にエルサレムの教会が急成長していた時代のことだと話しました。このことは21世紀になってから分かったことです。もっと前に気付いていた人もいるかもしれませんが、記録は残っていません。ヨハネの福音書が書かれた1世紀の終わりごろの読者はこのことを知っていたと思いますが、ヨハネの福音書はいつの間にかマタイ・マルコ・ルカと同じ地上のイエス様を描いた書として読まれるようになりました。
でも、それは仕方のないことです。マタイ・マルコ・ルカの三つの福音書があって、その次にヨハネの福音書があれば、誰だってヨハネの福音書は地上のイエス様のことを書いた書だと思うでしょう。そうして私たちはマタイ・マルコ・ルカを読むのと同じ目でヨハネの福音書も読んで来ました。
でも20世紀以降、私たちは様々な異なる視点を獲得しました。ロケットで宇宙に行けるようになり、宇宙から地球を見ることができるようになりました。それまでは地球上から地上を見ることしかできませんでしたが、宇宙からの視点を獲得しました。そうして20世紀の終わりに国際宇宙ステーションが建設されて、21世紀に入ってからは、いつも必ず誰かが宇宙に滞在するようになりました。しかも宇宙飛行士だけでなく、今や民間人もお金を払えば宇宙に滞在できます。そうして、宇宙に滞在する人々が発信する動画や写真を手元のスマホやパソコンで見て、コメントや質問を地上から宇宙に送ることもできます。宇宙だけでなく世界中にいる知人や家族、会ったことがない人ともスマホやパソコンで通信できるようになりました。こうして私たちは従来の物事の見方から解放されて来ました。
ですから私たちは、20世紀までの福音書の読み方から解放されて、21世紀の目で福音書を読みたいと思います。マタイ・マルコ・ルカの福音書は従来通り、地上のイエス様を描いた書として読んで良いですが、ヨハネの福音書は、地上の時代の前後の天にいるイエス様が主役の書として読むべきです。
21世紀の目によってヨハネの福音書の天のイエス様が見えるようになったことは、現代の人々に聖書に興味を持ってもらうことにも、つながります。なぜなら現代人の多くが聖書とは古臭い読み物であって、そこから新たに得られるものなど無いと思い込んでいるからです。しかし、科学技術の発達、特に通信手段の発達によってヨハネの福音書の天のイエス様が見えるようになりました。このことは今まで聖書に興味がなかった方々に聖書を知っていただく大きなチャンスの時が来たことを意味します。私たちは、このチャンスを無駄にすることなく活かしたいと思います。
おわりに
2022年の今の世は、本当にひどい事になっています。コロナ禍、異常気象、戦争、天のイエス様はこの状況を悲しんでおられます。そして、私たちも多くの不安を抱えて生きています。良い事がぜんぜん無くて、悪い事ばかりが起きているようにも感じます。でも、実は今、素晴らしいことが起きているんですね。それは、今までは見えていなかった天のイエス様がハッキリと見えるようになったということです。これは本当に素晴らしいことです。ヨハネ4章の1節と2節を、もう一度、お読みします。
この4章1節と2節のイエス様とは、天のイエス様のことだということが、ハッキリと見えるようになりました。そうして、使徒の働きの時代のことを、そのまま今の私たちの時代に当てはめることが容易になりました。
ここに集っている私たちの多くが、かつてそれぞれの教会の牧師から洗礼を受けました。私たちそれぞれに洗礼を授けて下さった牧師の中にはイエス様がいて、イエス様が私たちに洗礼を授けて下さいました。そうして、お一人お一人に聖霊が注がれてイエス様が私たち一人一人の中に入って下さっています。
このことは21世紀になる前から分かっていたことですが、21世紀になって天のイエス様が見えたことで、いっそうハッキリしました。私たちは単に信じているのではなく、天のイエス様がハッキリと見えているのですから、確信を持ってイエス様のことをお伝えすることができます。以前からも確信をもってお伝えしていましたが、見えているのと見えていないのとでは、確信の度合いが大きく違います。
21世紀の今を生きる私たちは1世紀の地上のイエス様にお会いすることはできませんが、聖霊を通して天のイエス様にお会いすることができます。その天のイエス様は見えないお方ではなくて、ヨハネの福音書にハッキリと見えているお方です。ですから私たちは、確信をもってイエス様のことをお伝えすることができます。
21世紀の今は悪い事ばかりのように思えますが、天のイエス様が見えているという素晴らしいことが起きています。このことを覚えて、私たちはマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの4つの福音書が記すイエス様をお伝えして行きたいと思います。地上にいた時のイエス様のことと、地上に来る前と天に帰った後のイエス様のことをお伝えして行きたいと思います。しばらく、ご一緒にお祈りしましょう。

視点を変えると、ヨハネの福音書の風景が全く異なって見え、天のイエス様が見えて来ます。
聖書は本当に面白いです。
『洗礼を授けていたのはイエス自身ではなかったとは?』
【ヨハネ4:1~8】
はじめに
礼拝では7月からヨハネの福音書を開いて、この書では天にいるイエス様が見えているという話をしています。マタイ・マルコ・ルカの福音書は地上のイエス様を描いていますが、ヨハネの福音書は地上に来る「前」と「後」の、天にいるイエス様を描いています。つまり、私たちはマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四つの福音書から、イエス様が地上に来る前、地上にいる時、天に帰った後のすべての時代のイエス様を知ることができます。きょうはヨハネ4章の最初の8節に見えている天のイエス様について話します。
きょうの中心聖句はヨハネ4章2節です(週報p.2)。
ヨハネ4:2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──
バプテスマ(洗礼)を授けていたのはイエスご自身ではなかったとは、どういうことでしょうか?このことを説き明かしつつ、次の3つのパートで話を進めて行きます。
①聖霊を受けた弟子と預言者たちの中にいる天のイエス様
②ステパノ迫害と北王国の不信仰に失望し疲れたイエス様
③多様な視点と通信手段を得て見えて来た天のイエス様
①聖霊を受けた弟子と預言者たちの中にいる天のイエス様
先週は十字架の場面のマタイ・マルコ・ルカとヨハネの描き方の違いから、マタイ・マルコ・ルカは目に見える地上のイエス様を描き、ヨハネは目に見えない心の中のイエス様を描いていることを話しました。マタイ・マルコ・ルカは女性たちが十字架を遠く離れた場所から見ていたと書きました。
マタイ27:55 そこには大勢の女たちがいて、遠くから見ていた。ガリラヤからイエスについて来て仕えていた人たちである。
これが2千年前の地上で実際にあったことでしょう。でも女性たちの心の中にはイエス様がいて、彼女たちはイエス様と一緒に苦しんでいました。この、心の中のイエス様を描いたのがヨハネです。ヨハネ19:25は女性たちが十字架のそばに立っていたと書いていますが、これは心の中のことです。
ヨハネ19:25 イエスの十字架のそばには、イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。
このようにマタイ・マルコ・ルカの福音書は目に見える地上のイエス様を描いています。一方、ヨハネの福音書は私たちの心の中に現れて下さる天のイエス様を描いています。この両方がイエス様です。イエス様はもともとは天の父と共に天にいて、モーセやエリヤなどの預言者たちに聖霊を遣わし、聖霊を通して父のことばを預言者たちに伝えていました。その天のイエス様が2千年前に地上に遣わされてヨセフとマリアの子として地上に生まれました。大人に成長してからはペテロやヨハネたちと同じ時を過ごし、十字架に付けられて復活した後に天に帰られました。そうして、天に帰った後は今度は弟子たちに聖霊を遣わして弟子たちの中に現れました。そして、現代の21世紀の私たちの中にも現れて下さいます。
私たちは2千年前の地上にいたイエス様にお会いすることはできませんが、心の中に現れて下さる天のイエス様にはお会いできます。天のイエス様は私たちの心の中に聖霊を通して入って下さり、天からのことばを私たちに伝えて下さいます(ただし「天」とは現代風に言えば異次元です。「天」は雲の上ではなく、もっと身近に存在するのでしょう)。
ヨハネの福音書は、預言者たちや弟子たち、そして私たちの心の中に入って下さる天のイエス様が主役です。きょうはヨハネ4章でそのことを見て行きましょう。まず4章1節と2節、
ヨハネ4:1 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、
2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──
2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──
ここにはペンテコステの日以降のパリサイ人と弟子たち、そして天のイエス様のことが書かれています。
7月の最後の礼拝では、ヨハネ2章のガリラヤ人の弟子たちが参加したカナの婚礼の場面を開きました。ここからは、ペンテコステの日にガリラヤ人の弟子たちに聖霊が注がれた時の天のイエス様が見えています。母のマリアが「ぶどう酒がありません」と言ったことは、旧約の時代の終わりを表し、きよめの水がぶどう酒に変わったことは、水ではきよめられなかった心の内が、イエス様の血によってきよめられるようになったことを表すことを話しました。
そして、先週開いたヨハネ3章ではイエス様がニコデモに聖霊の話をしている場面を読みました。ニコデモはユダヤ人ですから、ここからはペンテコステの日にガリラヤ人たちの次にユダヤ人たちにも聖霊が注がれた時の天のイエス様が見えています。このようにヨハネ2章から4章に掛けては使徒の働きに書かれている出来事が順番通りに並んでいます。まずガリラヤ人の弟子たちに聖霊が注がれ、次にユダヤ人たちに聖霊が注がれたことで教会が誕生し、教会は急成長しました。しかし、ステパノが石打ちにあって死んだことをきっかけにして教会は迫害を受け、弟子たちはエルサレムから散らされて行きました。そして散らされる中で例えばピリポはサマリアでイエス様を宣べ伝えました。
ヨハネ4章1節でヨハネはイエス様がバプテスマ(洗礼)を授けていたと書いています。マタイ・マルコ・ルカの福音書によれば、イエス様が地上にいた時代にバプテスマを授けていたのはバプテスマのヨハネだけでした。イエス様も弟子たちもバプテスマを授けていませんでした。ですから、続く2節でヨハネが「バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであった」と書いたのは、ペンテコステの日以降の使徒の働きの時代のことであることが分かります。ペンテコステの日以降、天のイエス様は聖霊を受けた弟子たちの中にいました。ですから、弟子たちがバプテスマを授けていたことは、イエス様がバプテスマを授けていたのと同じことでした。
ペンテコステの日以降、教会には多くの弟子が加えられました(使徒2章)。4章1節の「イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている」とは、使徒たちの時代にエルサレムの教会が急成長していた様子を表しています。
このように、ヨハネの福音書は聖霊を受けた人々の中にいる天のイエス様が主役の書であり、地上のイエス様を描いたマタイ・マルコ・ルカとは視点がまったく異なる書です。ですから、マタイ・マルコ・ルカを読むのと同じ目でヨハネを読まないように注意しなければなりません。このことを頭に入れていただいて、次のパートに進みます。
②ステパノ迫害と北王国の不信仰に失望し疲れたイエス様
3節と4節をお読みします。
3 ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。
4 しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。
4 しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。
ペンテコステの日に誕生したエルサレムの教会は、その後急速に成長しました。その急成長の最中に、使徒の働きによれば、ステパノが石打ちに遭って殺されました。そして教会に対しても激しい迫害が起こりました。聖書交読でも読み、週報p.2にも1節と5節を載せましたが、使徒の働き8章は次のように書いています。
使徒8:1 その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外はみな、ユダヤとサマリアの諸地方に散らされた。
5 ピリポはサマリアの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。
5 ピリポはサマリアの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。
従って、ヨハネ4章4節でサマリアを通って行ったイエス様とは、ピリポの中にいた天のイエス様です。ピリポも聖霊を受けていましたから、ピリポの中には天のイエス様がいました。
さてしかし、永遠の中にいるイエス様はどの時代にもいることができるお方ですから、使徒の働きの時代にいると同時に旧約の時代にもいます。ここからヨハネ4章は舞台が移動してイエス様が北王国のエリヤの中にいるイエス様を描き始めます。エリヤも聖霊を受けた預言者でしたから、イエス様はエリヤの中にもいました。5節から7節に掛けては地理的な舞台は同じサマリアです。しかし、時代的な舞台は使徒たちの時代からエリヤの時代に移ります。この辺りの舞台移動はスマホを持つ21世紀の私たちだからこそ、見えるものなのでしょう。5節から7節。
5 それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。
6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。時はおよそ第六の時であった。
7 一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。
6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。時はおよそ第六の時であった。
7 一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。
7節でイエス様はサマリアの女に「わたしに水を飲ませてください」と言われました。この場面で天のイエス様は、エリヤがツァレファテのやめもに「水を飲ませてください」と言った時代のエリヤの中にいました。列王記第一17章10節です(週報p.2)。
列王記第一17:10 エリヤは彼女(ツァレファテのやもめ)に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」
この場面の時代的な舞台が使徒の時代ではなくて旧約のエリヤの時代であることは、8節からも分かります。8節、
8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。
弟子たちは使徒の時代にいました。彼らは人間ですから天のイエス様とは違って旧約の時代に同時にいることはできません。それで弟子たちは旧約の舞台から退場しました。弟子たちは、舞台がまた使徒の時代に戻った時に、町から戻って来ます。このことは9月の礼拝で話します。
さて6節には、「イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた」とあります。ここにはイエス様が疲れていたことが記されています。このイエス様の疲れは、使徒の時代とエリヤの時代の不信仰から来る疲れでしょう。イエス様は人々の不信仰に失望して疲れていました。
使徒の時代においてはステパノが石打ちで死に、教会が激しい迫害に遭って弟子たちがエルサレムから散らされました。この激しい迫害はユダヤ人たちがイエス様を信じない不信仰によるものですから、イエス様はひどく失望していたことでしょう。
そしてイエス様は旧約の時代の北王国の不信仰にも失望していました。今年の5月から6月に掛けて、エリヤの時代の北王国の不信仰を共に学びました。イスラエルの王国は、ソロモン王の不信仰によって北と南の二つの王国に引き裂かれました。そうして北王国は初代のヤロブアム王が、北の国民が南のエルサレムの神殿に礼拝に行かないようにしました。このことで北の人々の不信仰の度合いが増して行き、七代目のアハブ王の時代には本当にひどいことになっていました。天のイエス様はこの状況に失望して、疲れていたのでしょう。
天のイエス様が見えるようになったことで、私たちは地上のイエス様だけでなく、その前の時代と後の時代の天にいるイエス様も、この世の状況に失望して悲しむ様子が分かるようになりました。ヨハネの福音書でイエス様が最も悲しんでいる場面は11章35節です(週報p.2)。
ヨハネ11:35 イエスは涙を流された。
この11章の涙を流しているイエス様については、何週間か後でまた改めて説明します。覚えておきたいことは、天におられるイエス様は、今の私たちの2022年の状況も悲しんでおられるということです。私たちは、このことをしっかりと感じ取りたいと思います。そうすれば、この世はきっと、もっと良い方向に向かって行くと思います。
③多様な視点と通信手段を得て見えて来た天のイエス様
きょうの中心聖句のヨハネ4:2に改めて目を留めます。
ヨハネ4:2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──
このヨハネ4章2節の時代はイエス様が地上にいた時の時代ではなく、ペンテコステの日以降にエルサレムの教会が急成長していた時代のことだと話しました。このことは21世紀になってから分かったことです。もっと前に気付いていた人もいるかもしれませんが、記録は残っていません。ヨハネの福音書が書かれた1世紀の終わりごろの読者はこのことを知っていたと思いますが、ヨハネの福音書はいつの間にかマタイ・マルコ・ルカと同じ地上のイエス様を描いた書として読まれるようになりました。
でも、それは仕方のないことです。マタイ・マルコ・ルカの三つの福音書があって、その次にヨハネの福音書があれば、誰だってヨハネの福音書は地上のイエス様のことを書いた書だと思うでしょう。そうして私たちはマタイ・マルコ・ルカを読むのと同じ目でヨハネの福音書も読んで来ました。
でも20世紀以降、私たちは様々な異なる視点を獲得しました。ロケットで宇宙に行けるようになり、宇宙から地球を見ることができるようになりました。それまでは地球上から地上を見ることしかできませんでしたが、宇宙からの視点を獲得しました。そうして20世紀の終わりに国際宇宙ステーションが建設されて、21世紀に入ってからは、いつも必ず誰かが宇宙に滞在するようになりました。しかも宇宙飛行士だけでなく、今や民間人もお金を払えば宇宙に滞在できます。そうして、宇宙に滞在する人々が発信する動画や写真を手元のスマホやパソコンで見て、コメントや質問を地上から宇宙に送ることもできます。宇宙だけでなく世界中にいる知人や家族、会ったことがない人ともスマホやパソコンで通信できるようになりました。こうして私たちは従来の物事の見方から解放されて来ました。
ですから私たちは、20世紀までの福音書の読み方から解放されて、21世紀の目で福音書を読みたいと思います。マタイ・マルコ・ルカの福音書は従来通り、地上のイエス様を描いた書として読んで良いですが、ヨハネの福音書は、地上の時代の前後の天にいるイエス様が主役の書として読むべきです。
21世紀の目によってヨハネの福音書の天のイエス様が見えるようになったことは、現代の人々に聖書に興味を持ってもらうことにも、つながります。なぜなら現代人の多くが聖書とは古臭い読み物であって、そこから新たに得られるものなど無いと思い込んでいるからです。しかし、科学技術の発達、特に通信手段の発達によってヨハネの福音書の天のイエス様が見えるようになりました。このことは今まで聖書に興味がなかった方々に聖書を知っていただく大きなチャンスの時が来たことを意味します。私たちは、このチャンスを無駄にすることなく活かしたいと思います。
おわりに
2022年の今の世は、本当にひどい事になっています。コロナ禍、異常気象、戦争、天のイエス様はこの状況を悲しんでおられます。そして、私たちも多くの不安を抱えて生きています。良い事がぜんぜん無くて、悪い事ばかりが起きているようにも感じます。でも、実は今、素晴らしいことが起きているんですね。それは、今までは見えていなかった天のイエス様がハッキリと見えるようになったということです。これは本当に素晴らしいことです。ヨハネ4章の1節と2節を、もう一度、お読みします。
ヨハネ4:1 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、
2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──
2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──
この4章1節と2節のイエス様とは、天のイエス様のことだということが、ハッキリと見えるようになりました。そうして、使徒の働きの時代のことを、そのまま今の私たちの時代に当てはめることが容易になりました。
ここに集っている私たちの多くが、かつてそれぞれの教会の牧師から洗礼を受けました。私たちそれぞれに洗礼を授けて下さった牧師の中にはイエス様がいて、イエス様が私たちに洗礼を授けて下さいました。そうして、お一人お一人に聖霊が注がれてイエス様が私たち一人一人の中に入って下さっています。
このことは21世紀になる前から分かっていたことですが、21世紀になって天のイエス様が見えたことで、いっそうハッキリしました。私たちは単に信じているのではなく、天のイエス様がハッキリと見えているのですから、確信を持ってイエス様のことをお伝えすることができます。以前からも確信をもってお伝えしていましたが、見えているのと見えていないのとでは、確信の度合いが大きく違います。
21世紀の今を生きる私たちは1世紀の地上のイエス様にお会いすることはできませんが、聖霊を通して天のイエス様にお会いすることができます。その天のイエス様は見えないお方ではなくて、ヨハネの福音書にハッキリと見えているお方です。ですから私たちは、確信をもってイエス様のことをお伝えすることができます。
21世紀の今は悪い事ばかりのように思えますが、天のイエス様が見えているという素晴らしいことが起きています。このことを覚えて、私たちはマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの4つの福音書が記すイエス様をお伝えして行きたいと思います。地上にいた時のイエス様のことと、地上に来る前と天に帰った後のイエス様のことをお伝えして行きたいと思います。しばらく、ご一緒にお祈りしましょう。
ヨハネ4:2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──

視点を変えると、ヨハネの福音書の風景が全く異なって見え、天のイエス様が見えて来ます。
聖書は本当に面白いです。