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一粒のタイル2

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

洗礼を授けていたのはイエス自身ではなかったとは?(2022.8.21 礼拝)

2022-08-22 05:44:52 | 礼拝メッセージ
2022年8月21日礼拝メッセージ
『洗礼を授けていたのはイエス自身ではなかったとは?』
【ヨハネ4:1~8】

はじめに
 礼拝では7月からヨハネの福音書を開いて、この書では天にいるイエス様が見えているという話をしています。マタイ・マルコ・ルカの福音書は地上のイエス様を描いていますが、ヨハネの福音書は地上に来る「前」と「後」の、天にいるイエス様を描いています。つまり、私たちはマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四つの福音書から、イエス様が地上に来る前、地上にいる時、天に帰った後のすべての時代のイエス様を知ることができます。きょうはヨハネ4章の最初の8節に見えている天のイエス様について話します。

 きょうの中心聖句はヨハネ4章2節です(週報p.2)。

ヨハネ4:2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──

 バプテスマ(洗礼)を授けていたのはイエスご自身ではなかったとは、どういうことでしょうか?このことを説き明かしつつ、次の3つのパートで話を進めて行きます。

 ①聖霊を受けた弟子と預言者たちの中にいる天のイエス様
 ②ステパノ迫害と北王国の不信仰に失望し疲れたイエス様
 ③多様な視点と通信手段を得て見えて来た天のイエス様

①聖霊を受けた弟子と預言者たちの中にいる天のイエス様
 先週は十字架の場面のマタイ・マルコ・ルカとヨハネの描き方の違いから、マタイ・マルコ・ルカは目に見える地上のイエス様を描き、ヨハネは目に見えない心の中のイエス様を描いていることを話しました。マタイ・マルコ・ルカは女性たちが十字架を遠く離れた場所から見ていたと書きました。

マタイ27:55 そこには大勢の女たちがいて、遠くから見ていた。ガリラヤからイエスについて来て仕えていた人たちである。

 これが2千年前の地上で実際にあったことでしょう。でも女性たちの心の中にはイエス様がいて、彼女たちはイエス様と一緒に苦しんでいました。この、心の中のイエス様を描いたのがヨハネです。ヨハネ19:25は女性たちが十字架のそばに立っていたと書いていますが、これは心の中のことです。

ヨハネ19:25 イエスの十字架のそばには、イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。

 このようにマタイ・マルコ・ルカの福音書は目に見える地上のイエス様を描いています。一方、ヨハネの福音書は私たちの心の中に現れて下さる天のイエス様を描いています。この両方がイエス様です。イエス様はもともとは天の父と共に天にいて、モーセやエリヤなどの預言者たちに聖霊を遣わし、聖霊を通して父のことばを預言者たちに伝えていました。その天のイエス様が2千年前に地上に遣わされてヨセフとマリアの子として地上に生まれました。大人に成長してからはペテロやヨハネたちと同じ時を過ごし、十字架に付けられて復活した後に天に帰られました。そうして、天に帰った後は今度は弟子たちに聖霊を遣わして弟子たちの中に現れました。そして、現代の21世紀の私たちの中にも現れて下さいます。

 私たちは2千年前の地上にいたイエス様にお会いすることはできませんが、心の中に現れて下さる天のイエス様にはお会いできます。天のイエス様は私たちの心の中に聖霊を通して入って下さり、天からのことばを私たちに伝えて下さいます(ただし「天」とは現代風に言えば異次元です。「天」は雲の上ではなく、もっと身近に存在するのでしょう)。

 ヨハネの福音書は、預言者たちや弟子たち、そして私たちの心の中に入って下さる天のイエス様が主役です。きょうはヨハネ4章でそのことを見て行きましょう。まず4章1節と2節、

ヨハネ4:1 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、
2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──

 ここにはペンテコステの日以降のパリサイ人と弟子たち、そして天のイエス様のことが書かれています。

 7月の最後の礼拝では、ヨハネ2章のガリラヤ人の弟子たちが参加したカナの婚礼の場面を開きました。ここからは、ペンテコステの日にガリラヤ人の弟子たちに聖霊が注がれた時の天のイエス様が見えています。母のマリアが「ぶどう酒がありません」と言ったことは、旧約の時代の終わりを表し、きよめの水がぶどう酒に変わったことは、水ではきよめられなかった心の内が、イエス様の血によってきよめられるようになったことを表すことを話しました。

 そして、先週開いたヨハネ3章ではイエス様がニコデモに聖霊の話をしている場面を読みました。ニコデモはユダヤ人ですから、ここからはペンテコステの日にガリラヤ人たちの次にユダヤ人たちにも聖霊が注がれた時の天のイエス様が見えています。このようにヨハネ2章から4章に掛けては使徒の働きに書かれている出来事が順番通りに並んでいます。まずガリラヤ人の弟子たちに聖霊が注がれ、次にユダヤ人たちに聖霊が注がれたことで教会が誕生し、教会は急成長しました。しかし、ステパノが石打ちにあって死んだことをきっかけにして教会は迫害を受け、弟子たちはエルサレムから散らされて行きました。そして散らされる中で例えばピリポはサマリアでイエス様を宣べ伝えました。

 ヨハネ4章1節でヨハネはイエス様がバプテスマ(洗礼)を授けていたと書いています。マタイ・マルコ・ルカの福音書によれば、イエス様が地上にいた時代にバプテスマを授けていたのはバプテスマのヨハネだけでした。イエス様も弟子たちもバプテスマを授けていませんでした。ですから、続く2節でヨハネが「バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであった」と書いたのは、ペンテコステの日以降の使徒の働きの時代のことであることが分かります。ペンテコステの日以降、天のイエス様は聖霊を受けた弟子たちの中にいました。ですから、弟子たちがバプテスマを授けていたことは、イエス様がバプテスマを授けていたのと同じことでした。

 ペンテコステの日以降、教会には多くの弟子が加えられました(使徒2章)。4章1節の「イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている」とは、使徒たちの時代にエルサレムの教会が急成長していた様子を表しています。

 このように、ヨハネの福音書は聖霊を受けた人々の中にいる天のイエス様が主役の書であり、地上のイエス様を描いたマタイ・マルコ・ルカとは視点がまったく異なる書です。ですから、マタイ・マルコ・ルカを読むのと同じ目でヨハネを読まないように注意しなければなりません。このことを頭に入れていただいて、次のパートに進みます。

②ステパノ迫害と北王国の不信仰に失望し疲れたイエス様
 3節と4節をお読みします。

3 ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。
4 しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。

 ペンテコステの日に誕生したエルサレムの教会は、その後急速に成長しました。その急成長の最中に、使徒の働きによれば、ステパノが石打ちに遭って殺されました。そして教会に対しても激しい迫害が起こりました。聖書交読でも読み、週報p.2にも1節と5節を載せましたが、使徒の働き8章は次のように書いています。

使徒8:1 その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外はみな、ユダヤとサマリアの諸地方に散らされた。
5 ピリポはサマリアの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。

 従って、ヨハネ4章4節でサマリアを通って行ったイエス様とは、ピリポの中にいた天のイエス様です。ピリポも聖霊を受けていましたから、ピリポの中には天のイエス様がいました。

 さてしかし、永遠の中にいるイエス様はどの時代にもいることができるお方ですから、使徒の働きの時代にいると同時に旧約の時代にもいます。ここからヨハネ4章は舞台が移動してイエス様が北王国のエリヤの中にいるイエス様を描き始めます。エリヤも聖霊を受けた預言者でしたから、イエス様はエリヤの中にもいました。5節から7節に掛けては地理的な舞台は同じサマリアです。しかし、時代的な舞台は使徒たちの時代からエリヤの時代に移ります。この辺りの舞台移動はスマホを持つ21世紀の私たちだからこそ、見えるものなのでしょう。5節から7節。

5 それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。
6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。時はおよそ第六の時であった。
7 一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。

 7節でイエス様はサマリアの女に「わたしに水を飲ませてください」と言われました。この場面で天のイエス様は、エリヤがツァレファテのやめもに「水を飲ませてください」と言った時代のエリヤの中にいました。列王記第一17章10節です(週報p.2)。

列王記第一17:10 エリヤは彼女(ツァレファテのやもめ)に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」

 この場面の時代的な舞台が使徒の時代ではなくて旧約のエリヤの時代であることは、8節からも分かります。8節、

8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。

 弟子たちは使徒の時代にいました。彼らは人間ですから天のイエス様とは違って旧約の時代に同時にいることはできません。それで弟子たちは旧約の舞台から退場しました。弟子たちは、舞台がまた使徒の時代に戻った時に、町から戻って来ます。このことは9月の礼拝で話します。

 さて6節には、「イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた」とあります。ここにはイエス様が疲れていたことが記されています。このイエス様の疲れは、使徒の時代とエリヤの時代の不信仰から来る疲れでしょう。イエス様は人々の不信仰に失望して疲れていました。

 使徒の時代においてはステパノが石打ちで死に、教会が激しい迫害に遭って弟子たちがエルサレムから散らされました。この激しい迫害はユダヤ人たちがイエス様を信じない不信仰によるものですから、イエス様はひどく失望していたことでしょう。

 そしてイエス様は旧約の時代の北王国の不信仰にも失望していました。今年の5月から6月に掛けて、エリヤの時代の北王国の不信仰を共に学びました。イスラエルの王国は、ソロモン王の不信仰によって北と南の二つの王国に引き裂かれました。そうして北王国は初代のヤロブアム王が、北の国民が南のエルサレムの神殿に礼拝に行かないようにしました。このことで北の人々の不信仰の度合いが増して行き、七代目のアハブ王の時代には本当にひどいことになっていました。天のイエス様はこの状況に失望して、疲れていたのでしょう。

 天のイエス様が見えるようになったことで、私たちは地上のイエス様だけでなく、その前の時代と後の時代の天にいるイエス様も、この世の状況に失望して悲しむ様子が分かるようになりました。ヨハネの福音書でイエス様が最も悲しんでいる場面は11章35節です(週報p.2)。

ヨハネ11:35 イエスは涙を流された。

 この11章の涙を流しているイエス様については、何週間か後でまた改めて説明します。覚えておきたいことは、天におられるイエス様は、今の私たちの2022年の状況も悲しんでおられるということです。私たちは、このことをしっかりと感じ取りたいと思います。そうすれば、この世はきっと、もっと良い方向に向かって行くと思います。

③多様な視点と通信手段を得て見えて来た天のイエス様
 きょうの中心聖句のヨハネ4:2に改めて目を留めます。

ヨハネ4:2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──

 このヨハネ4章2節の時代はイエス様が地上にいた時の時代ではなく、ペンテコステの日以降にエルサレムの教会が急成長していた時代のことだと話しました。このことは21世紀になってから分かったことです。もっと前に気付いていた人もいるかもしれませんが、記録は残っていません。ヨハネの福音書が書かれた1世紀の終わりごろの読者はこのことを知っていたと思いますが、ヨハネの福音書はいつの間にかマタイ・マルコ・ルカと同じ地上のイエス様を描いた書として読まれるようになりました。

 でも、それは仕方のないことです。マタイ・マルコ・ルカの三つの福音書があって、その次にヨハネの福音書があれば、誰だってヨハネの福音書は地上のイエス様のことを書いた書だと思うでしょう。そうして私たちはマタイ・マルコ・ルカを読むのと同じ目でヨハネの福音書も読んで来ました。

 でも20世紀以降、私たちは様々な異なる視点を獲得しました。ロケットで宇宙に行けるようになり、宇宙から地球を見ることができるようになりました。それまでは地球上から地上を見ることしかできませんでしたが、宇宙からの視点を獲得しました。そうして20世紀の終わりに国際宇宙ステーションが建設されて、21世紀に入ってからは、いつも必ず誰かが宇宙に滞在するようになりました。しかも宇宙飛行士だけでなく、今や民間人もお金を払えば宇宙に滞在できます。そうして、宇宙に滞在する人々が発信する動画や写真を手元のスマホやパソコンで見て、コメントや質問を地上から宇宙に送ることもできます。宇宙だけでなく世界中にいる知人や家族、会ったことがない人ともスマホやパソコンで通信できるようになりました。こうして私たちは従来の物事の見方から解放されて来ました。

 ですから私たちは、20世紀までの福音書の読み方から解放されて、21世紀の目で福音書を読みたいと思います。マタイ・マルコ・ルカの福音書は従来通り、地上のイエス様を描いた書として読んで良いですが、ヨハネの福音書は、地上の時代の前後の天にいるイエス様が主役の書として読むべきです。

 21世紀の目によってヨハネの福音書の天のイエス様が見えるようになったことは、現代の人々に聖書に興味を持ってもらうことにも、つながります。なぜなら現代人の多くが聖書とは古臭い読み物であって、そこから新たに得られるものなど無いと思い込んでいるからです。しかし、科学技術の発達、特に通信手段の発達によってヨハネの福音書の天のイエス様が見えるようになりました。このことは今まで聖書に興味がなかった方々に聖書を知っていただく大きなチャンスの時が来たことを意味します。私たちは、このチャンスを無駄にすることなく活かしたいと思います。

おわりに
 2022年の今の世は、本当にひどい事になっています。コロナ禍、異常気象、戦争、天のイエス様はこの状況を悲しんでおられます。そして、私たちも多くの不安を抱えて生きています。良い事がぜんぜん無くて、悪い事ばかりが起きているようにも感じます。でも、実は今、素晴らしいことが起きているんですね。それは、今までは見えていなかった天のイエス様がハッキリと見えるようになったということです。これは本当に素晴らしいことです。ヨハネ4章の1節と2節を、もう一度、お読みします。

ヨハネ4:1 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、
2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──

 この4章1節と2節のイエス様とは、天のイエス様のことだということが、ハッキリと見えるようになりました。そうして、使徒の働きの時代のことを、そのまま今の私たちの時代に当てはめることが容易になりました。

 ここに集っている私たちの多くが、かつてそれぞれの教会の牧師から洗礼を受けました。私たちそれぞれに洗礼を授けて下さった牧師の中にはイエス様がいて、イエス様が私たちに洗礼を授けて下さいました。そうして、お一人お一人に聖霊が注がれてイエス様が私たち一人一人の中に入って下さっています。

 このことは21世紀になる前から分かっていたことですが、21世紀になって天のイエス様が見えたことで、いっそうハッキリしました。私たちは単に信じているのではなく、天のイエス様がハッキリと見えているのですから、確信を持ってイエス様のことをお伝えすることができます。以前からも確信をもってお伝えしていましたが、見えているのと見えていないのとでは、確信の度合いが大きく違います。

 21世紀の今を生きる私たちは1世紀の地上のイエス様にお会いすることはできませんが、聖霊を通して天のイエス様にお会いすることができます。その天のイエス様は見えないお方ではなくて、ヨハネの福音書にハッキリと見えているお方です。ですから私たちは、確信をもってイエス様のことをお伝えすることができます。

 21世紀の今は悪い事ばかりのように思えますが、天のイエス様が見えているという素晴らしいことが起きています。このことを覚えて、私たちはマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの4つの福音書が記すイエス様をお伝えして行きたいと思います。地上にいた時のイエス様のことと、地上に来る前と天に帰った後のイエス様のことをお伝えして行きたいと思います。しばらく、ご一緒にお祈りしましょう。

ヨハネ4:2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──


視点を変えると、ヨハネの福音書の風景が全く異なって見え、天のイエス様が見えて来ます。
聖書は本当に面白いです。
コメント

十字架の真下が狭い門(2022.8.14 礼拝)

2022-08-15 11:30:45 | 礼拝メッセージ
2022年8月14日礼拝メッセージ
『十字架の真下が狭い門』
【ヨハネ3:1~16】

はじめに
 先週はマタイの福音書の「山上の説教」の場面から、「神の国」のことと「狭い門」について、講師の先生が語って下さいました。これらのことについて以前よりも考えを深めることができましたから、とても感謝でした。

 きょうは先週の説教の「神の国」と「狭い門」のことも踏まえて話をします。きょうの中心聖句は1つの節ではなく、3つの節にまたがります。ヨハネ3章14節から16節です。

ヨハネ3:14 「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。
15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 ヨハネ3章16節は「聖書の中の聖書」とも呼ばれるほどに、聖書の中にあって重要とされる聖句です。このヨハネ3:16は単独で引用されることが多いですが、実はこの聖句の背後にはモーセの時代の荒野が色濃く存在しています。ですから14節からのセットで引用すべき聖句だと思います。そのこともまた、分かち合いたいと思います。

 きょうは、次の三つのパートで話を進めて行きます(週報p.2)。

 ①御霊の風が時代を超えて吹く壮大な場面
 ②遠くで眺めず十字架の真下で主を見上げる
 ③狭い門のイエス様は一人ずつしか通れない

①御霊の風が時代を超えて吹く壮大な場面
 このイエス様とニコデモの会話の場面の舞台は小さな部屋だと思いがちかもしれません。でも実は、この場面の舞台はもっと壮大です。御霊の風はモーセがいた荒野で吹き、同じ風がそのまま時代を超えてニコデモの時代にも吹き、さらには21世紀の私たちの時代にも吹いて来ています。モーセの時代の御霊の風と21世紀の私たちの時代の御霊の風は別の風ではなく同じ風です。なぜなら御霊は一つだからです。8節でイエス様がおっしゃっているように、「風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」私たちは、このことを不思議に思わずに、そのまま受け入れたいと思います。すると、大きな恵みに包まれます。

 1節から見て行きましょう。まず1節から3節、

ヨハネ3:1 さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。
2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」
3 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

 ここでイエス様は「神の国」に言及しています。先週の河村先生の説教で開かれたマタイ6章のイエス様も、神の国について話していましたね。マタイ6:33です(週報p.2)。

マタイ6:33 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。

 神の国は目に見えない世界です。この見えない世界を大切にすべきであることを河村先生は行っておられましたね。ヨハネ3章のイエス様はニコデモに、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」とおっしゃいました。つまり、人は新しく生まれることで、神の国を見ることができます。でも、ニコデモはこのイエス様のことばを理解できませんでした。4節、

4 ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」

 ニコデモはこのように頓珍漢なことを言っています。でもニコデモが分からなかったのは当然です。この時のニコデモはまだ御霊を受けていないからです。御霊のことは御霊を受けなければ分かりません。5節、

5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。

 人は水と御霊によって生まれるなら、神の国に入ることができます。バプテスマを受けて御霊が注がれ、新しく生まれるなら、永遠の命を得て神の国に入ることができます。次に6節と7節、

6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。

 そして8節、

8 風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」

 御霊は天のイエス様が天の父のもとから遣わします。この、天におられる父とイエス様は、地上とは全く違う時間の中におられます。14節でイエス様はモーセの時代の荒野のことをおっしゃっていますから、御霊の風はモーセの荒野の時代にも吹いており、同じ風が21世紀の私たちの時代にも吹いています。御霊は一つだからです。このように時代を超えて吹く御霊の風がどこから来て、どこへ行くのかは人知を超えたことですから、私たちには分かりません。分かりませんが、そのまま信じて受け入れたいと思います。信じて受け入れるなら、その人は聖霊で満たされて、大きな恵みに包まれます。でも、パリサイ人たちは、信じていませんでした。少し飛ばして12節と13節、

12 わたしはあなたがたに地上のことを話しましたが、あなたがたは信じません。それなら、天上のことを話して、どうして信じるでしょうか。
13 だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。

 3章1節にニコデモはパリサイ人であったことが書かれていますから、「あなたがた」とは、パリサイ人のことでしょう。先週の説教もパリサイ人について語られましたね。パリサイ人は律法の行いを重視します。モーセの律法を厳格に守ることで人は救われると信じています。しかし、行いを重視する人が霊的なことを理解するのは難しいようです。行いは自分でするものですが、御霊は受けるものだからです。自分の行いへのこだわりを捨てなければ御霊は受けられません。御霊を受けなければ霊の世界は見えません。ですから霊の世界が見えるようになるためには、新しく生まれる必要があります。新しく生まれるなら、このイエス様とニコデモの会話の場面も、御霊の風が時代を超えて吹く、壮大な場面であることが見えるでしょう。そうしてイエス様がスケールの大きな壮大なお方であることが見えるでしょう。私たちが心を寄せるイエス様が壮大なお方であるからこそ、私たちは深い平安をいただくことができます。

②遠くで眺めず十字架の真下で主を見上げる
 目に見えない霊の世界のことをことばで伝えることは、とても難しいことです。イエス様でさえ苦労しておられました。ヨハネもまた苦労していたのでしょう。そんなヨハネに神様は霊感を与えてヨハネの福音書を書かせたのだと思います。この福音書は、目に見えない霊の世界のことを何とかしてことばで伝えようとしている書です。そして、このヨハネの福音書の中で最も霊の世界がはっきりと見えるようにしているのが、きょうの中心聖句のヨハネ3章14節から16節でしょう。この箇所はヨハネ3:16が単独で引用されることが多いですが、14節から16節までをセットで読むことで、霊の世界がはっきりと見えて来ます。14節から16節をお読みします。

14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。
15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 イエス様は16節に先立って、まず14節でモーセが荒野で蛇を上げた民数記の時代のことを話しました。この3章14節はヨハネの福音書の中で唯一、ここにいるイエス様が旧約の時代にいる天のイエス様でもあることを具体的にはっきりと示している箇所です。それ以外の箇所では透けて見えているだけです。

 たとえばヨハネ1章のナタナエルの記事からは創世記のヤコブの時代にいる天のイエス様が透けて見えています。ヨハネ2章のカナの婚礼の後で、過越の祭りの牛や羊をイエス様が追い出した宮きよめの場面からは、出エジプトの過越の時代にいる天のイエス様が透けて見えています。また、きょうのヨハネ3章のイエス様とパリサイ人のニコデモとの会話の場面では、神様がイスラエルの人々に律法を授けた時の天のイエス様が透けて見えています。律法が授けられたのは過越の恵みによってエジプトを脱出した後ですから、ちゃんと時代順に並んでいます。

 そして、律法の授与の後でモーセが荒野で蛇を上げた民数記の時代の出来事がありました。このヨハネ3:14では天のイエス様がはっきりと見えています。透けて見えているのではなく、むき出しになっています。

 このように、ヨハネの福音書は目に見えない霊の世界を私たちが見ることができるようにしてくれています。この霊の世界の大半は透けて見えているだけですが、ヨハネ3:14は唯一むき出しの形で、民数記の時代の天のイエス様が見えるようになっています。

 ここで、聖書交読で読んだ民数記21章の4節から9節までを、もう一度見ましょう(旧約p.277)。この場面では荒野を放浪していたイスラエルの民が神とモーセに逆らって不平・不満をぶつけていました。この神様に逆らうイスラエルの民の姿は、私たちの姿でもあります。私たちもかつては神様に逆らっていたからです。彼らは言いました。「パンもなく、水もない、われわれはこのみじめな食べ物に飽き飽きしている。」そこで6節、

民数記21:6 そこでは民の中に燃える蛇を送られた。蛇は民にかみついたので、イスラエルのうちの多くの者が死んだ。

 神様に逆らう罪深い者は滅びます。しかし、この罪を彼らは悔い改めました。7節、

7 「私たちはとあなたを非難したりして、罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるように祈ってください。」モーセは民のために祈った。

 すると8節と9節、

8 するとはモーセに言われた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる。」
9 モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に付けた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きた

 神様に逆らう重大な罪を犯したイスラエルの民でしたが、モーセが荒野で上げた青銅の蛇を仰ぎ見ると、彼らは死なずに生きました。これはまさに、かつて神様に逆らっていた私たちのことですね。私たちも滅びるしかなかった者たちです。しかし、そんな私たちでも、イエス様を信じて、十字架の真下に行ってイエス様を仰ぎ見るなら、私たちは罪が赦されて滅びることなく、永遠の命を得ます。

 もう一度、ヨハネ3:14~16に戻ります。ここで注意したいのは、この14節から16節に掛けては民数記のモーセの時代からニコデモの時代、そして21世紀の私たちの時代にもまたがる壮大な場面であるということです。それゆえイエス様は、モーセの時代にもニコデモの時代にも私たちの時代にもいる壮大なお方です。この壮大さは、十字架の真下までイエス様に大胆に近づいて初めて実感することができるものでしょう。十字架を遠くから眺めているのではなく、イエス様に大胆に近づいて、十字架のすぐ下からイエス様を仰ぎ見る必要があるでしょう。



 週報p.2に東京スカイツリーを下から見上げている写真を載せました。去年の秋、東京スカイツリーに行き、写真を撮って来ました。スカイツリーの高さは634メートルです。高さを覚えてもらいやすいように、ちょうど634(むさし)にしたそうです。634メートルは、人の身長を1.6メートルとすると400倍です。人の400倍の高さは下から見上げると圧巻で圧倒されます。でも、遠くから眺めるなら、高さに圧倒されることはありません。周囲の建物よりも高いことは分かりますが、遠くからでは小さく見えているだけです。圧倒されるのは、下から見上げた時だけです。同じ様に、もし私たちがイエス様を遠くから眺めているだけならイエス様は小さくしか見えません。ですから私たちはモーセの時代の人々が青銅の蛇を見上げたように十字架の真下に行って、イエス様を見上げたいと思います。

 イエス様は天の父と一つのお方であり、同時に御霊とも一つのお方であり、アブラハムが生まれる前の天地創造の初めの時からおられ、現代にもおられ、終わりの時にもおられる壮大なお方です。これほど大きなお方に守られているからこそ、私たちは大きな平安を得ることができます。

③狭い門のイエス様は一人ずつしか通れない
 先週の午後は「狭い門」について語られました。週報p.2のマタイ7章13節と14節をお読みします。

マタイ7:13 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。
14 いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。

 マタイの福音書とヨハネの福音書を合わせて読むなら、この狭い門とはイエス様のことでしょう。なぜなら、ヨハネ10章でイエス様は「わたしは門です」と言っておられるからです。ヨハネ10章9節です(週報p.2)。

ヨハネ10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。

 門であるイエス様を通って神の国に入るには、イエス様の十字架のすぐ下にまで行く必要があります。すると、そこは意外と広い門であることが分かるでしょう。スカイツリーも遠くからではマッチ棒や針のような細い棒でしかありませんが、近づくなら人が余裕で通れる広い門があります。門であるイエス様も近くに行けば広い門です。ただし、イエス様の門は一人ずつしか通れません。一人一人がイエス様と出会って、イエス様に通していただく必要があります。ですから、もし急に「終わりの時」が来て、人々が殺到してしまうと、狭い門になってしまいます。でも普段の時なら余裕で門の中に入れていただくことができますから、まだイエス様と出会っていない方には、早く出会っていただきたいと思います。

 先週の午後の説教のサブタイトルは「狭い門はスッと通る」でした。講師の先生は、狭い門をスッと通れるのは、自分は無力で小さな者だと自覚する者だとおっしゃっていました。自分を無力で小さい者だと認めない者はイエス様から遠く離れていますが、弱さを認める者はイエス様に近づいて行きますから、門は大きく広がります。この「遠い・近い」は、もちろん心の中の話です。人間同士の場合でも、隣にいる人でも心は離れていることがありますね。イエス様も同じです。イエス様はいつも私たちと共におられ、すぐ近くにいて下さいますが、私たちの心がイエス様から離れていれば、イエス様の門は狭い門になります。

 イエス様が十字架に付けられた時、女たちは「遠く」から見ていたとマタイ・ルカ・ヨハネの福音書は書いています。たとえばマタイ27:55(週報p.2)、

マタイ27:55 そこには大勢の女たちがいて、遠くから見ていた。ガリラヤからイエスについて来て仕えていた人たちである。

 マタイだけでなくマルコとルカも、女たちはイエス様の十字架を遠くから(マルコ15:40)、或いは離れた所から見ていた(ルカ23:49)と書いています。しかし、ヨハネは女たちが十字架の「そば」にいたと書いています。

ヨハネ19:25 イエスの十字架のそばには、イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。

 どちらが実際にあったことでしょうか?もちろんマタイ・マルコ・ルカのほうでしょう。十字架は見るに耐えない残酷な死刑ですから、女性が近くで見ることができたとは到底考えられません。特に母のマリアには耐えられないことだったでしょう。では、なぜヨハネは女たちが十字架のそばに立っていたと書いたのでしょうか?

 それは、ヨハネの福音書がイエス様との遠い・近いの距離を肉の物理的な距離でなく、心の距離、霊的な距離で書いた書だからです。そうしてヨハネは読者が十字架のイエス様に霊的に大胆に近づくことができるようにしました。マタイ・マルコ・ルカの女たちも物理的な距離は離れていましたが、心は十字架のイエス様のすぐそばにいて、イエス様と一緒に苦しんでいました。ヨハネはこの心の中を描きました。そうしてヨハネはこの福音書によって読者が単にイエス様と出会うだけでなく、十字架に大胆に近づいて狭い門から神の国に入ることができるようにしました。そうして、イエス様の十字架の真下に大胆に近づいた読者はイエス様の門を通って滅びを免れ、永遠の命をいただくことができます。

おわりに
 最後にもう一度、きょうの中心聖句に戻ります。ヨハネ3章14節から16節です。

ヨハネ3:14 「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。
15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 14節と16節は切っても切れない深い関係にあります。14節の「モーセが荒野で蛇を上げた」とは、民数記21:9の出来事のことです(週報p.2)

民数記21:9 モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に付けた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きた

 ここからはイエス様がモーセの時代にもいて、ニコデモの時代にもいて、21世紀の現代にもいる永遠の中におられるお方であることが、はっきりと見えています。イエス様が永遠の中におられるお方だからこそ、イエス様を信じる私たちは永遠の命をいただくことができます。

 この永遠の中におられるイエス様を遠くから眺めるだけの針のような小さなお方にすることなく、十字架の真下まで大胆に近づいて、スカイツリーよりももっと大きなお方として仰ぎ見て、イエス様の門の中に入れていただきたいと思います。

 しばらく、ご一緒にお祈りいたしましょう。

ヨハネ3:14 「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。
15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
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天のイエスに会える福音書(2022年7月の礼拝説教のまとめ)

2022-08-02 04:44:27 | 礼拝メッセージ
天のイエスに会える福音書

 7月の5回の礼拝説教で伝えたかったことを、短くまとめておきたいと思います。

 20世紀まで見えていなかった天のイエスが、21世紀になって何故か急に見えるようになりました。たとえるなら土砂の流入で濁っていた海の水が澄んで透き通るように、21世紀になってヨハネの福音書が透き通って来て、天のイエスが透けて見えるようになりました。

 なぜ急に透けて見えるようになったのか?このことを通して、神様は現代の私たちに向けてどのようなメッセージを発しているのか?神様のメッセージが分かれば、コロナ禍、異常気象、戦争などで悪くなる一方の今の世を、正しく歩んで行くことができるはずです。

 私が強く望んでいることは、まずは天のイエスが透けて見えている事実を多くの方々と共有することです。天のイエスを共有できれば、神様が今どんなメッセージを発しているのかについての意見交換ができます。

 しかし、大半の人が20世紀までの読み方で福音書を読んでいます。すなわち、ヨハネの福音書もマタイ・マルコ・ルカの福音書と同じ様に地上生涯のイエスを描いた書であると思い込んだ上で読んでいます。それゆえ、ヨハネの福音書の中にいる天のイエスに気付かないようです。先ずはこの現状が変わって、ヨハネの福音書の中にいる天のイエスに会ってほしいと強く望みます。

 このことを望みながら、7月は次の5回の説教を行いました。

・7/3「わたしは決して追い出しません」(ヨハネ6:27~32)
・7/10 「わたしのことばは霊であり、いのちです」(ヨハネ6:60~69)
・7/17 「いまだかつて神を見た者はいないとは?」(ヨハネ1:18)
・7/24 「古い自分から解き放って下さるキリスト」(ヨハネ1:43~51)
・7/31 「あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました」(ヨハネ2:1~11)

 ヨハネの福音書を読む上で最も大事なことは、この福音書がマタイ・マルコ・ルカの福音書と同様の書であるという先入観を捨てて読むことでしょう。記者のヨハネもわざわざ「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)という極めて独創的な書き出しを用いてマタイ・マルコ・ルカとは根本的に違う書であることを明示しているのですから、素直にヨハネ独自の世界に入り込むべきです。

 まず先入観を捨てて、その上でこの福音書を始めから終わりまで何十回か読むなら、天のイエスが地上の預言者たちや弟子たちに聖霊を通してことばを伝えている様子が段々と見えて来るでしょう。詳しくは7月の5回の説教を読んでいただきたいのですが、簡単に言えば、ヨハネの福音書のイエスは多くの場合、父(神)と共に天にいて、天から地上に聖霊を遣わしています。そうして聖霊を通して父のことばを旧約の時代の預言者たち、そして新約の時代の弟子たちや私たちに伝えています。従って、旧約聖書の神のことばは天のイエスが聖霊を通して預言者たちに伝えたものだと、記者のヨハネは書いています。

 つまりヨハネの福音書は天にいるイエスを描いている書であり、地上のイエスを描いているマタイ・マルコ・ルカの福音書とは根本的に異なる書です。そして、このことが分かって天のイエスが見えた読者は、天のイエスに会ったことになります。私たちは地上での生涯を終えて天に召される前から、天のイエスに会うことができるのです。そうして、心の深い平安を得ることができます。

 多くの人が天のイエスに会って心の平安を得て、そうして神様からのメッセージを受け取るなら、この世は平和になるはずです。今の悪くなる一方の流れから方向転換して、良い方向へと向かう筈です。このことを信じて、もうしばらくの間はヨハネの福音書からの説教を続けることにしたいと思います。


澄んで透き通っている沼津・大瀬崎の海。対岸の山は愛鷹山と富士山(2018年7月20日筆者撮影)
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あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました(2022.7.31 礼拝)

2022-07-31 15:50:08 | 礼拝メッセージ
2022年7月31日礼拝メッセージ
『あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました』
【ヨハネ2:1~11】

はじめに
 今の悪い時代の中を正しく歩んで行くために、正しいお方であるイエス様の導きの声を今まで以上にはっきりと聴くことができるように私たちは心(或いは霊性)が整えられた者にならなければなりません。そのために、礼拝の説教では今月からヨハネの福音書を開いて、イエス様に心を整えていただいています。

 先週はヨハネ1章のナタナエルの箇所を開いて、ここからは創世記のヤコブの時代が透けて見えることを話しました。イエス様に心を整えていただくと福音書が沼津の西浦の大瀬崎の海や沖縄の海のように透き通って見えて、イエス様が地上にいた時代以外の天にいるイエス様が透けて見えるようになります。

 きょうはヨハネ2章から透けて見える天のイエス様を通して心を整えていただきたいと思います。きょうの中心聖句はヨハネ2章10節の宴会の世話役のことばです。

ヨハネ2:10 「みな、初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころに悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました。」

 そして、次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①霊的な成長が切実に求められている(いた)時代
 ②イエス様の血が罪をきよめて永遠の命を与える
 ③天のイエス様にお会いして終わりの時に備える

①霊的な成長が切実に求められている(いた)時代
 もう何度も話していますが、今の2022年はとても悪い時代です。去年も一昨年も悪かったですが、今はもっと悪くなっています。この悪い時代に求められていることは、霊的に成長してイエス様の導きの声がはっきりと聴こえるようになることです。正しいお方であるイエス様に導いていただければ悪い時代でも正しい方向に歩んで行けます。そのためにはヨハネの福音書がとても役に立ちます。なぜなら、ヨハネの福音書が書かれた時代も、霊的な成長が切実に求められていた時代だったからです。

 ヨハネの福音書が書かれたのは1世紀の末の紀元90年代とされています。マタイ・マルコ・ルカの福音書が書かれたのが(諸説あるものの)大体紀元60年前後から70年前後に掛けてですから、ヨハネの福音書はマタイ・マルコ・ルカの福音書よりも20年~30年後に書かれました。90年代、教会は深刻な問題に直面していたことでしょう。それは、地上のイエス様と実際に出会った生き証人の大半が天に召されてほとんどいなくなってしまったという問題です。イエス様が十字架に掛かったのは紀元30年か33年、その辺りです。ヨハネの福音書が書かれた90年代はイエス様の十字架からおよそ60年が経過していました。当時の寿命を考えれば、生き証人は少ししか残っていなかったことでしょう。

 これは今の私たちの時代の、第二次世界大戦の生き証人が少なくなって来ている問題を考えれば、その深刻さが分かるでしょう。今年の夏で終戦後77年になります。77歳以下の人は先の大戦の時代を知りません。それで、ビデオなどで証言を残す作業が行われています。たとえば広島市の平和記念資料館には、被爆者による原爆被害の証言のビデオを視聴できる個別ブースが8つほどあって、1000人以上の証言をタッチパネルのボタン操作で簡単に視聴できるようになっています。また、広島まで行かなくてもインターネットのYoutubeでも約650人分の被爆者の証言が家庭から視聴できるようになっています。

 古いビデオも多数含まれていますから、これらの証言者の多くが既に亡くなられています。でもビデオが残されたことで、後世に原爆の恐ろしさを伝えて行くことができます。一方で1世紀の昔には、福音書によってイエス様の目撃証言が残されました。先ずマタイ・マルコ・ルカの福音書によって、地上生涯のイエス様についての目撃証言の記録が文書によって残されました。

 しかし、一つ大きな問題があります。限られた数の証言しか残らなかったら、それらは作り話に過ぎないということにされてしまうことでしょう。マタイの福音書の終わりのほうにも書いてありますが、十字架で死んだイエス様が墓から消えたのは、弟子たちがこっそり遺体を盗み出したからだという偽の話を祭司長たちは広めました。こうして、ユダヤ人たちの間ではイエス様の復活は弟子たちによる作り話であるとされてしまいました。話を作ったのは祭司長たちのほうなのですが、弟子たちが話を作ったことにされてしまいました。マタイの福音書28章の12節と13節です(週報p.2)。

マタイ28:12 祭司長たちは長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、13 こう言った。「『弟子たちが夜やって来て、われわれが眠っている間にイエスを盗んで行った』と言いなさい。

 マタイ・マルコ・ルカの福音書の証言がどんなに優れた証言であったとしても、証言の数が少ないと、信用しない人々によって作り話だということにされてしまいます。すると、キリスト教はやがて廃れてしまうでしょう。それゆえ、もっと圧倒的な数の目撃証言が必要です。そこでイエス様と霊的に出会えるヨハネの福音書が書かれることになったのだと思います。地上生涯のイエス様に出会った人の数は限られています。でも天のイエス様と霊的に出会った人の数なら、無限に増えて行きます。ヨハネの福音書の最後に書かれている通りです。ヨハネの福音書21章24節と25節です。

ヨハネ21:24 これらのことについて証しし、これらのことを書いた者は、その弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている。
25 イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。

 この、イエス様についての証しを書いた「弟子」とは、このヨハネの福音書を通してイエス様と霊的に出会った読者のことです。そうしてイエス様と霊的に出会った人の証言がどんどん増えて行けば、祭司長たちが言うような「イエス様の復活はただの作り話だ」などという話は打ち消すことができます。そしてさらには、ヨハネの福音書によってイエス様と霊的な出会いができるようになったことで、マタイ・マルコ・ルカの福音書の地上生涯のイエス様とも私たちは霊的に交わることができるようになりました。そうしてキリスト教は廃れることなく二千年間、継承され続けて来ました。

 このように、ヨハネの福音書でイエス様と霊的に出会うなら、この福音書がマタイ・マルコ・ルカの福音書とはまったく違う目的で書かれたことが分かります。マタイ・マルコ・ルカの福音書は地上生涯のイエス様のことを書いているのに対してヨハネの福音書は、天のイエス様のことを書いていて、天のイエス様とお会いできる書です。

②イエス様の血が罪をきよめて永遠の命を与える
 次の2番目のパートに進んで、きょうの聖書箇所で天のイエス様にお会いすることにしましょう。まず1節から4節。

ヨハネ2:1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があり、そこにイエスの母がいた。
2 イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれていた。
3 ぶどう酒がなくなると、母はイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。
4 すると、イエスは母に言われた。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」

 この4節は非常に重要です。イエス様の「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか」は、イエス様が地上ではなくて天にいることを明確に伝えています。イエス様とマリアは地上では親子関係にありましたが、天のイエス様とマリアとの間にはもはや親子関係はありませんから、このような突き放したような言い方になっているのでしょう。

 この時、イエス様は天の父と共に天にいて、まさにこれから地上に聖霊を遣わそうとしています。それを裏付けるみことばを二つ挙げておきます。ヨハネ4章1節から3節までと、ヨハネ15章26節です(週報p.2)。

ヨハネ4:1 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、
2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──
3 ユダヤを去って…

ヨハネ15:26 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。

 ヨハネ4章のイエス様は天にいるイエス様です。イエス様は15章26節にあるように天から地上の弟子たちに聖霊を遣わしています。そうして聖霊を通して弟子たちに何をすべきかを伝えています。4章2節が「バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであった」と書いているのは、そのためです。地上に実際にいるのは弟子たちであり、イエス様は天にいます。ですから私たちはヨハネの福音書を通して、天のイエス様とお会いしています。マタイ・マルコ・ルカの福音書にはイエス様がバプテスマを授けていたという記述は一言もありませんから、このマタイ・マルコ・ルカとの違いからもヨハネの福音書が天のイエス様を描いた書であることが分かります。

 ヨハネ2章の1節から4節に戻ります。2章4節から透き通って見える光景は使徒の働き1章14節の祈りの場です(週報p.2)。

使徒1:14 彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた。

 きょうの聖書交読で読んだように、ガリラヤ人たちは部屋に集まって祈っていました。この祈りの場には母のマリアもいました。そして彼らは、このすぐ後のペンテコステの日に聖霊のバプテスマを受けます(使徒2章)。聖霊のバプテスマを受けて救われることは、まさに大きな祝福であり、それが婚礼の祝宴という形で表されています。ぶどう酒とは聖餐式のぶどう酒から分かるように、イエス様の血です。旧約の時代の儀式では動物の血が使われていましたが、新約の時代の儀式の聖餐式はイエス様の血が用いられます。ですから、母マリアが言った「ぶどう酒がありません」は、まさに旧約の時代の終わりを告げています。続いてヨハネ2章5節から7節、

2:5 母は給仕の者たちに言った。「あの方が言われることは、何でもしてください。」
2:6 そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、石の水がめが六つ置いてあった。それぞれ、二あるいは三メトレテス入りのものであった。
2:7 イエスは給仕の者たちに言われた。「水がめを水でいっぱいにしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。

 かつてバプテスマのヨハネは言いましたね。マルコ1章8節(週報p.2)、

マルコ1:8 「私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、この方は聖霊によってバプテスマをお授けになります。」

 水では心の内まできよめることはできませんが、聖霊を受けるなら、私たちの心の内はきよめられます。この聖霊はイエス様の血でもあるということです。ヨハネの手紙第一1章7節でヨハネが書いた通りです(週報p.2)。

第一ヨハネ1:7 もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。

 そうしてカナの婚礼ではきよめの水がぶどう酒、すなわちイエス様の血に変えられました。8節から10節、

8 イエスは彼らに言われた。「さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
9 宴会の世話役は、すでにぶどう酒になっていたその水を味見した。汲んだ給仕の者たちはそれがどこから来たのかを知っていたが、世話役は知らなかった。それで、花婿を呼んで、
10 こう言った。「みな、初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころに悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました。」

 この10節がきょうの中心聖句です。この婚礼の祝宴では、最初のぶどう酒がなくなった後、良いぶどう酒が出されました。最初のぶどう酒とは、旧約の時代の儀式に使われていた動物の血でしょう。ですから、このヨハネ2章のカナの婚礼の箇所から透けて見えているのは使徒の働き1章と次の2章のペンテコステの日の場面だけでなく、旧約の時代の祭りの日の儀式も透けて見えています。ヨハネ2章13節から16節の宮きよめの場面がそれを裏付けています。

13 さて、ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。
14 そして、宮の中で、牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを見て、
15 細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒し、
16 鳩を売っている者たちに言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」

 15節にイエス様は「羊も牛もみな宮から追い出し」と書いてありますが、マタイ・マルコ・ルカの福音書の宮きよめの場面ではイエス様は羊や牛を追い出してはいません。例えばマルコ11章15節(週報p.2)、

マルコ11:15 イエスは宮に入り、その中で売り買いしている者たちを追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。

 このように、マタイ・マルコ・ルカのイエス様は羊や牛を追い出してはいません。ヨハネの福音書だけが羊や牛を追い出しています。ですから、ヨハネはここでイエス様の血が動物の血に取って代わったことを私たちに教えています。聖霊を受けることとはイエス様の血によって私たちの心の内をきよめていただくことでもあることを覚えたいと思います。そうして私たちには永遠の命が与えられます。11節、

11 イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

 イエス様を信じた者には永遠の命が与えられます。ですから、11節の「弟子たちはイエスを信じた」からは、弟子たちが聖霊を受けて永遠の命を得たことが透けて見えます。そうして、この福音書を読んでいる私たちもイエス様を信じるなら、聖霊を受けて、永遠の命が与えられます。聖霊を受けて永遠の命を得て心が整えられるなら、天のイエス様が薄っすらと見えるようになります。天のイエス様が薄っすらと見えるようになるなら、ますます心が整えられて、天のイエス様がますます見えるようになるという好循環が生まれます。

 私があまり十字架を語らないのは、たぶん十字架が私たちの意識を地上のイエス様に釘付けにしてしまうからです。十字架はもちろん非常に重要です。でも十字架のイエス様に意識が釘付けになると、天のイエス様が見えづらくなります。ヨハネの福音書にも十字架の場面がありますが、それは母マリアとイエス様との親子関係の解消という意味合いが大きいように思います。十字架のイエス様はおっしゃいました。ヨハネの福音書19章25節と26節です(週報p.2)。

ヨハネ19:25 イエスの十字架のそばには、イエスの母…が立っていた。
26 イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。

 こうして、マリアとイエス様との親子関係が解消されました。だから2章のカナの婚礼でイエス様はマリアに、「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか」と、おっしゃったのですね。

③天のイエス様にお会いして終わりの時に備える
 2章のカナの婚礼の手前の1章の終わりの50節と51節には、このように書かれています。

ヨハネ1:50 イエスは答えられた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったから信じるのですか。それよりも大きなことを、あなたは見ることになります。」
51 そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります。」

 先週は、この箇所からは創世記のヤコブが見た夢の光景が透けて見えることを話しました。実はヤコブの箇所だけではなく、ここからは黙示録19章の光景も透けて見えています。黙示録19章11節です(週報p.2)

黙示録19:11 また私は、天が開かれているのを見た。すると見よ、白い馬がいた。それに乗っている方は「確かで真実な方」と呼ばれ、義をもってさばき、戦いをされる。

 「それに乗っている方」とはもちろん、天のイエス様のことですね。天のイエス様は終わりの時に、再び地上に降りて来られます。今の悪い時代は、いよいよその時が近づいているのかもしれません。

 前の世紀の20世紀まで、ヨハネの福音書はマタイ・マルコ・ルカの福音書と同じように地上生涯のイエス様についての書として読まれて来ました。21世紀に入って天のイエス様が透けて見えるようになってから私はヨハネの福音書の解説書を英語の本も含めて何十冊も買い集めました。多くは1970年頃から2010年頃までに書かれたものですが、アウグスティヌスやルターなどが書いた古いものの訳本もあります。それらのどれを読んでも天のイエス様が透けて見えていることを書いていません。ヨハネの福音書が書かれた1世紀の末には天のイエス様についての書として読まれていた筈ですが、いつの間にかマタイ・マルコ・ルカと同じ地上生涯のイエス様についての書として読まれるようになりました。

 それがどうして21世紀になって急にヨハネの福音書が透き通って来て、天のイエス様が透けて見えるようになったのでしょうか?それは、いよいよ「終わりの時」が近づいているということではないでしょうか?その時が1年後なのか10年後なのか100年後なのかは誰にも分かりません。或いは、ある時に全員に対してイエス様が再臨されるのではなく、一人一人に対して少しずつ現れる形で再臨がゆっくりと進行して行くのかもしれません。それが天のイエス様が透けて見えるようになったことで始まったのかもしれません。いつ、どのような形で再臨が起きるのか私たちには分かりませんが、いずれにしても、イエス様が「終わりの時に備えていなさい」とおっしゃっていることを感じます。

 1章51節に続く2章のカナの婚礼の場面からは、天のイエス様がペンテコステの日に聖霊を地上の弟子たちに遣わした様子が透けて見えます。このような形で天のイエス様は姿を見せて下さり、「終わりの時に備えていなさい」とおっしゃっているようです。

おわりに
 「終わりの時」は必ず来ます。今の時代は本当にどんどん悪くなっています。今年は去年よりも、ずっと悪くなりました。ですから、終わりの時は近いのかもしれません。或いは、もっとどんどん悪くなりながら、当分の間は終わりの時は来ないのかもしれません。でも私たちは、その時に備えていたいと思います。今のこの悪い時代に、イエス様に心を整えていただき、イエス様の導きの声がはっきりと聴こえるようにしていただき、やがて必ず来る終わりの時に備えていたいと思います。しばらく、ご一緒にお祈りしましょう。
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古い自分から解き放って下さるキリスト(2022.7.24 礼拝)

2022-07-25 05:49:44 | 礼拝メッセージ
2022年7月24日礼拝メッセージ
『古い自分から解き放って下さるキリスト』
【ヨハネの福音書1章43~51節】

はじめに
 このところの礼拝説教の冒頭ではいつも、今の世がどんどん悪くなっているという話をしています。新型コロナウイルスによる疫病、異常気象、そして戦争、さらには元首相が銃撃されて亡くなるという事件が起きました。

 先週の火曜日にZoomで静岡聖会のための聖会準備会が開かれました。教区の会議では最初と最後に聖書を開く時が持たれます。最初のディボーションは教区の牧師の回り持ちで、そして会議の最後の締めくくりには司会の主事が聖書を開いてみことばが読まれます。先週の火曜日の会議ではその最初と最後の聖書の時の両方で、やはり疫病と異常気象、戦争、そして元首相の銃撃事件のことに触れられていました。やはり皆、同じことを感じているのだなと思いました。

 今のこの悪い時代の中を正しく歩むためには、私たちは正しいお方であるイエス様に導いていただかなければなりません。そのイエス様の導きの声をはっきりと聴くことができるよう、イエス様に私たちの心を整えていただきたいと思います。

 そのための箇所として、きょうはヨハネの福音書のナタナエルの記事を開きます。きょうの中心聖句は、ヨハネ1章47節です。

ヨハネ1:47 イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼について言われた。「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。」

 そして、きょうは次の3つのパートで話を進めて行きます。

 ①私が教会に来る前から私を知っていたイエス様
 ②透明度の高い海の中を見るように福音書を読む
 ③「祝される」とは幸い運ぶ者に変えられること
  (まずは自分が造り変えられるように祈ろう)

①私が教会に来る前から私を知っていたイエス様
 きょうはナタナエルに注目しますから、私たちはナタナエルになったつもりで、イエス様のことばを聴きたいと思います。福音書を読む時、イエス様がペテロに話している時は自分がペテロになったつもりで読み、ザアカイに話している時にはザアカイになったつもりで読むとイエス様のことばが響いて来ることを私たちは知っていますね。ですから、きょうは自分がナタナエルになったつもりで、ナタナエルの箇所を読みたいと思います。ナタナエルに注目しますから、ピリポの箇所は朗読するだけにとどめます。

 まず43節から45節までをお読みします。

ヨハネ1:43 その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて、「わたしに従って来なさい」と言われた。
44 彼はベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。
45 ピリポはナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」

 ナタナエルがイエス様と初めて出会ったのは47節ですから、この段階でナタナエルはまだイエス様を知りません。ナタナエルはピリポにイエス様のことを教えてもらいました。ピリポはイエス様のことを、「モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方」だと言いました。このピリポのイエス様についての説明は、先週話したことと一致しますね。

 モーセが書いた律法の書、すなわちモーセ五書と呼ばれる創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記には、天の父のことばが書かれています。そして預言者が書いた預言書にも天の父のことばが書かれています。イエス様はご自分のことを「わたしはある」(ヨハネ8:24, 28, 58)であるとおっしゃり、「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)とおっしゃいました。ですから、天の父のことばはイエス様のことばです。イエス様は父のことばを聖霊を通して預言者たちに伝え、預言者たちはそのイエス様が伝えたことばを人々に語りました。

 さて、ピリポからイエス様のことを聞いたナタナエルは言いました。46節です。

46 「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」

 このナタナエルのことばを読むと、これはまさに昔の自分だなと思います。まだ教会に行ったことがなかった頃、教会に誘われた私は、「教会に何か良いことがあるだろうか」と思いました。教会には何の魅力も感じませんでした。ですから、ナタナエルの「ナザレから何か良いものが出るだろうか」はまさに私自身のことばであるように感じます。

 そんなナタナエルにピリポは言いました。「来て、見なさい。」幸いなことにナタナエルはピリポの「来て、見なさい」に素直に従いました。すると、47節から49節、

47 イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼について言われた。「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。」
48 ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは答えられた。「ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見ました。」
49 ナタナエルは答えた。「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」

 ナタナエルは、つい先程までは「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」と言っていたのに、49節では「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と言いました。随分な変わりようですね。でも、これがイエス様です。イエス様は、きょうの説教のタイトルで示したように、古い自分から解き放って下さるお方です。そうして私たちを造り変えて下さるお方です。ナタナエルも、それまでの古い自分から解き放たれて、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言っていた者から、「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と信仰告白できる者へと造り変えられました。

 このようにナタナエルが造り変えられたことも、私の経験と重なります。ナタナエルは、イエス様が「ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見ました」と言われたことで変えられました。私も教会に行く前から神様が私を知っていてずっと守っていて下さったと分かって造り変えられました。教会に行く前の私は、いつも誰かに守られていることを感じていました。交通事故に遭ったり、アパートの廊下の向かい側の部屋でガス爆発があったりしたのに守られました。将来に関する悩みで勉学意欲を無くして大学に行けなくなったことも何度かありましたが、いつも勉学に復帰することができました。それらを通して、いつも誰かに守られていると感じていました。

 誰が守ってくれているのか。神社の神様?仏教の仏様?ご先祖様?、いろいろ想像しましたが、よく分かりませんでした。聖書の神様のことは全く想定していませんでした。今流の言い方で言えば1ミリも考えませんでした。でも、教会に導かれて聖書の神様がずっと見守って下さっていたんだと分かって、ナタナエルのように造り変えられました。

 でも、もちろん、こんなわずか数行で済まされるような短い時間で造り変えられたわけではありません。造り変えられるまでには、いろいろなことがありました。そして、ナタナエルもまた、このわずかの時間でガラッと変わったわけではありません。次の2番目のパートに進んで、そのことを見てみましょう。

②透明度の高い海の中を見るように福音書を読む
 子供の頃、夏休みになるとよく大浜にあるプールに泳ぎに行きました。私が住んでいた大岩安東地区は大浜麻機線のバス1本で乗り換えなしで大浜に行けるので、とても便利でした。静岡の大浜の海岸の海は、安倍川からの土砂が流れ込んでいるせいでしょうか、少し濁っていて透き通ってはいませんね。子供の頃はこの大浜の海や、静波や相良の海水浴場の海が私にとっての海でしたから、これが海の水だと思っていました。静波と相良も大井川の近くのせいでしょうか、やはり透き通ってはいませんね。でも大学で北海道の札幌に行って、小樽方面の日本海の透き通った海を見てとても感動しました。皆さんも日本海や沖縄、海外などで透き通った海を見て感動したことがある、という方も多いことでしょう。静岡県外まで行かなくても、沼津の西浦方面に周り、先端の大瀬崎まで行けば、ものすごく透明度の高い海が見られますね。この大瀬崎の海はテレビでもよく紹介されますから、ご存知の方も多いと思います。私は沼津教会にいた頃に大瀬崎の透き通った海を見て、本当に感動しました。透き通った海を見れば、誰でも感動すると思います。

 大浜の透き通っていない海は、私たちの日常のようなものでしょう。普段の私たちは、こういう中で暮らしています。海とはこういうものだと思っています。でも、普段の大浜の海とは違う透き通った海もちゃんと存在します。その透き通った海を見ると、私たちはとても感動します。そして、心が洗われる思いがします。

 福音書に描かれている地上生涯のイエス様も、たとえるなら普段の大浜の海のような普段のイエス様です。イエス様は普段の私たちに寄り添って下さる尊いお方ですから感謝です。でも霊性が整えられて福音書のことばが澄んで来て、中が透き通って見えるようになると、地上生涯以外の天のイエス様も透けて見えるようになります。透き通っていない福音書ではなくて透き通った福音書を味わえるようになると、本当に大きな感動を覚えます。そして、心が洗われる思いがします。

 今月からのヨハネの福音書からの説教のシリーズでは、この透き通った福音書から透けて見える天のイエス様を味わう感動を皆さんと分かち合いたいと願っています。そのようにして、福音書から透けて見える天のイエス様と出会うなら、私たちは今まで以上に古い自分から解き放たれて造り変えられることでしょう。

 きょうの箇所では、まず50節と51節が良いヒントになると思います。50節と51節をお読みします。

50 イエスは答えられた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったから信じるのですか。それよりも大きなことを、あなたは見ることになります。」
51 そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります。」

 これと似た描写が創世記のヤコブの箇所にあります(週報p.2)。「彼」というのはヤコブのことです。

創世記28:12 すると彼は夢を見た。見よ、一つのはしごが地に立てられていた。その上の端は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていた。

 イエス様に心を整えていただくなら、この福音書が透き通って見えてヤコブの時代のイエス様が透けて見えて来ます。イエス様は創世記の初めからおられる方で、先週はモーセが顔と顔を合わせて語った主(出エジプト記33:11)とは、イエス様のことだと話しました。ですから、イエス様はヤコブの時代にももちろんいました。つまり、ヨハネ1章48節の「ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見ました」の「前に」とは、何日前とか何年前ではなくて何千年も前のヤコブの時代であることが透けて見えて来ます。そうして、ヤコブの時代のイエス様が透けて見えるなら、きょうの中心聖句のヨハネ1章47節もまた、透き通って見えるようになるでしょう。

ヨハネ1:47 イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼について言われた。「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。」

 透き通った状態のヨハネの福音書のナタナエルの記事から透けて見えるヤコブの時代の箇所を先ず挙げておきます。まず創世記27章の18節と19節(週報p.2)、

創世記27:18 ヤコブは父のところに行き、「お父さん」と言った。イサクは「おお。おまえはだれかね、わが子よ」と尋ねた。19 ヤコブは父に、「長男のエサウです。…私を祝福してください」と答えた。

 そして、創世記32章の24節から、飛び飛びですが30節までです(週報p.2)。

創世記32:24 ヤコブが一人だけ後に残ると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
26 その人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」ヤコブは言った。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は言った。「ヤコブです。」
28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。」
30 ヤコブは、その場所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔を合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という意味である。

 まず創世記27章のヤコブから説明します。この時、ヤコブは兄のエサウになりすまして、父イサクからの祝福を横取りしてしまいました。父イサクの祝福は、本来は兄のエサウに与えられるべきものでした。しかし、ヤコブは創世記27章の18節にあるように父のところに行き、「お父さん」と言いました。イサクは「おお。おまえはだれかね、わが子よ」と尋ねました。イサクは年老いて目が見えなくなっていたからです。目が見えない父にヤコブは「長男のエサウです。…私を祝福してください」と答えたので、イサクはだまされてヤコブに祝福を与えてしまいました。

 しかし、このことを知って怒った兄のエサウがヤコブを殺そうと考えていることを知り、ヤコブは遠くにいる伯父のラバンの所に20年間身を寄せていました。先ほど読んだ創世記28章12節のヤコブが夢を見て、神の使いたちが、はしごを上り下りしているのを見たのは、ヤコブが伯父のラバンの所に逃れる途中のことです。

 さて、20年後にまたヤコブの夢の中に神の御使いが現れて故郷に帰るように促しました(創世記31:3,13)。それでヤコブは帰ることにしたのですが、兄のエサウがまだ自分を恨んで殺そうとしているのではないかと、恐くて恐くて仕方がありませんでした。そうしてヤコブは必死で祈りました。それは神様と格闘するほどの祈りでした。創世記32章24節でヤコブは祈りの中で神様と格闘をしていました。26節で神様は「わたしを去らせよ」と言いました。しかしヤコブは言いました。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ」。すると、神様はヤコブに聞きました。「あなたの名は何というのか。」ヤコブは答えました。「ヤコブです。」すると、神様は言いました。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。」ヤコブは、その場所の名をペヌエルと呼びました。「私は顔と顔を合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という意味です。

 先週、モーセと顔と顔を合わせて語った主とは、実はイエス様だと話しました。今見た箇所のヤコブと顔と顔を合わせて闘った神様もやはりイエス様でしょう。ですから、イエス様はきょうの中心聖句のヨハネ1章47節で言いました。「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。」

 かつてヤコブは父をあざむいて「エサウです」と言いました。しかし、20年後に神様と格闘した時は偽ることなく「ヤコブです」と答えました。ヤコブには偽りがありませんでした。そうしてイスラエルという新しい名前を神様からいただきました。だからイエス様は、「まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません」と言いました。

 このナタナエルの記事では、ナタナエルが「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ってから「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と信仰告白するまでわずかな時間しか経っていないように見えます。でも実はこの間に20年間の歳月が流れていました。私自身も20歳ぐらいの大学生の時に教会に誘われた時、「教会に何か良いことがあるだろうか」と思っていましたが、40歳を過ぎてイエス様を信じました。ですから、やはり20年掛かりました。そして、聖めの信仰に立つまでにはさらにまた10年を要しました。でも幸いなことに、聖めの信仰に立ってからは1年余りでヨハネの福音書の中が透けて見えるようになりました。そうして、透き通った海を見て感動するように、透き通ったヨハネの福音書に大きな感動を覚えました。このことで私はまたさらに古い自分から解き放たれて、造り変えられたと感じています。

 きょうの聖書交読では第二コリント5章を交代で読みました。第二コリント5章17節でパウロは書きました。

第二コリント5:17 ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

 聖書から透けて見える天のイエス様を身近に感じるようになると、心が整えられてイエス様の導きの声が前よりも大きく聴こえるようになります。でも私自身もまだまだですから、もっともっとイエス様に心を整えていただいて、イエス様の導きの声をしっかりと聴けるようになりたいと思います。そうして今のこの悪い時代の中を、イエス様に正しい方向へと導いていただきたいと願っています。

③「祝される」とは幸い運ぶ者に変えられること
 ヤコブは神様に「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ」と言って祝福を受け、ヤコブからイスラエルへと変えられました。それまでのヤコブは自分中心で生きて来ましたが、神様からの祝福を受けて、イスラエルに造り変えられてからは、神様中心の者となって一族を率いて行くようになりました。彼はイスラエルの民族に幸いを運ぶ者へと造り変えられました。

 きょう、この説教の後で歌う賛美歌は「私を祝して」(教会福音讃美歌463)です。この賛美歌では「私を祝して幸い運ぶ者に造り変えてください」と歌います。本当にそうだなと思います。神様に祝されるとは、幸いを運ぶ者に造り変えられることだと改めて教えられます。

 ヤコブが父イサクから祝福を受けた時、喜んだのはヤコブ本人と母親のリベカだけでした。その他の者たちには何の幸いももたらしませんでした。でもヤコブが神様との祈りの格闘を経て祝福された時、彼は幸いを運ぶ者に造り変えられました。私たちもイエス様によって周囲の人々に幸いを運ぶ者へと造り変えられます。パウロはコリントの教会の人々に向けて書きました。

第二コリント5:17 ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

 パウロがこのように書いたのは、新しく造り変えられた本人の幸いのためだけでなく、一人が造り変えられることで周囲の者たちに幸いが運ばれるからです。そうして、教会が祝されます。教会が祝されるなら、教会がある地域全体に幸いが運ばれて祝されます。まず私一人が祝されることが、この静岡教会に幸いを運び、静岡教会が祝されます。静岡教会が祝されることで田町の地域全体に幸いが運ばれて祝されます。田町の地域が祝されるなら、ここに住む人々だけでなく、ここに集って来る人々にも幸いが運ばれます。昨晩の安倍川花火大会では、何十万人もの人々が、この田町の地域に集まって来ました。この何十万人もの人々に幸いを運ぶことができたら、本当に素晴らしいですね。

おわりに ~まずは自分が造り変えられるように祈ろう~
 そのように、多くの方々に幸いを運ぶことができる教会になるためには、まずは自分が造り変えられるように祈らなければならないでしょう。「私を祝して」の歌詞も、まずは自分が造り変えられるように祈っています。

「いま祈る 友のため 私を祝して 幸い運ぶ者に造り変えて下さい」

 友は今、弱り悲しんでいます。その弱り悲しむ友に光をかかげて、闇の中での悲しみを喜びに変えるために、まずは私自身が造り変えられるように、イエス様に祈らなければなりません。そうしてイエス様に、古い自分から解き放っていただきたいと思います。古い自分のままでは弱り悲しむ友に幸いを運ぶことができませんから、イエス様に解き放っていただきたいと思います。

 そのことを願って、しばらくご一緒にお祈りする時を持ちましょう。

ヨハネ1:47 イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼について言われた。「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。」

第二コリント5:17 ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
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いまだかつて神を見た者はいないとは?(2022.7.17 礼拝)

2022-07-18 01:48:07 | 礼拝メッセージ
2022年7月17日礼拝メッセージ
『いまだかつて神を見た者はいないとは?』
【ヨハネ1:18】

はじめに
 このところ毎週繰り返していますが、いま私たちが住んでいる世は、少し前までと比べて確実に悪くなっています。2020年と2021年も悪かったですが、2022年はさらに悪くなりました。今年の上半期のコロナの第6波はそれまでの5つの波を大きく超えるものでした。そして今、第6波を上回る第7波が急速に立ち上がっています。2月に始まったロシアとウクライナの戦争も終わりが見えず、世界ではエネルギーと食料の危機が深刻になっています。温暖化による豪雨も年々激しさを増しているように見えます。そして少し前には安倍元首相が手製の銃で撃たれて亡くなるという恐ろしい事件が起こりました。

 この悪い世の中で私たちはどちらの方向に進めば良いのか、イエス様は正しい方向を示して下さるお方です。でも、私たちの霊性が整えられていないと、イエス様の導きの声を聴くことができません。ですから私たちはイエス様に霊性を整えていただく必要があります。そういう話を先週はしました。今週もイエス様に霊性を整えていただくための話をします。これから暫くの間は、イエス様に私たちの霊性を整えていただくのに適した聖書箇所をご一緒に分かち合って行きたいと思います。

 きょうの中心聖句は、ヨハネ1章18節です。

ヨハネ1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

 そして、きょうは次の3つのパートで話を進めて行きます。

 ①主はモーセと顔と顔を合わせて…と聖書にある
 ②なぜ?と思って聖書を広く調べ、神様に近づく
 ③・・・(考えていただくために結論は伏せます)

①主はモーセと顔と顔を合わせて…と聖書にある
 きょうから暫くの間、私自身がイエス様にどのように霊性を整えていただいたかの実例を紹介して分かち合いたいと思います。そうして、イエス様が皆さんの霊性も整えて下さるようにと願っています。

 イエス様に霊性を整えていただくのに、ヨハネの福音書ほど適した書はないと思います。なぜなら、ヨハネの福音書はマタイ・マルコ・ルカの福音書といろいろな点で異なるからです。すると、どうして、こんなに違うのだろうか?と福音書を通してイエス様について考えるようになります。そうして、いつもイエス様について考えるようになることで、イエス様とのつながりが強まって行きます。私がヨハネの福音書に強い興味を持つようになったのは神学生の時です。その前と後とで比べるとイエス様とのつながりが格段に強まりました。この恵みを是非皆さんとも分かち合いたいと願っています。

 では、きょうの中心聖句のヨハネ1:18を見ながら、イエス様に霊性を整えていただきましょう。

ヨハネ1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

 「いまだかつて神を見た者はいない」とヨハネは書きました。でも、出エジプト記33章11節には、

出エジプト33:11 は、人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせてモーセと語られた。

と書いてあります。出エジプト記の記者は「は…顔と顔を合わせてモーセと語られた」と書いています。つまり、出エジプト記はモーセがを見たとしていますから、ヨハネ1:18と矛盾します。この矛盾をどう考えたら良いでしょうか。

 闇雲に考えても分かりませんから、聖書を調べます。聖書を読めば答が見つかる筈です。時には注解書を参考にしたり、最近ではネット上にもいろいろなことが書いてありますから、それらを参照するのも良いでしょう。でも、聖書以外のものを参照する時は注意が必要です。それらは聖霊による霊感を得ないで書かれているものが多いからです。

 聖書は旧約聖書であれ新約聖書であれ、そこに収められている書はすべて聖霊によって霊感が与えられた記者によって書かれました。しかし、聖書以外の文献の多くは霊感を得ないで書かれたものであると考えたほうが良いでしょう。中には霊感を得て書かれた優れた本もあると思いますが、全体から見ればそれほど多くはないだろうと思います。

 新約聖書の編纂は2世紀に進められました。いま私たちが手にしている新約聖書には27の書が収められていますが、2世紀にはもっと多くの福音書や手紙が存在しました。福音書はマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ以外にも、ペテロの福音書やユダの福音書、トマスの福音書などたくさんありました。しかし、ペテロの福音書やトマスの福音書などは聖霊によって霊感を得て書かれた書ではないとされて、ふるい落とされて行ったそうです。教会で福音書や手紙が朗読された時、その教会が聖霊で満たされていれば、怪しい福音書や手紙が読まれた時に違和感を覚えて読まなくなる、そのようにして、淘汰されて行ったようです。聖霊で満たされた教会で読まれる中で異端の書などは排除されて行き、良い書だけが残り、それらを集めたのが新約聖書であるということです。

 ですから、いま私たちが手にしている新約聖書の27の書はすべて聖霊によって霊感を与えられた記者が書いたものであると認定されています。そして、旧約聖書の39の書も、すべて聖霊によって霊感を与えられた記者が書いたものです。この前提に立って、次の2番目のパートに進みましょう。

②なぜ?と思って聖書を広く調べ、神様に近づく
 出エジプト記は「は…顔と顔を合わせてモーセと語られた」と書いているのに、なぜヨハネは「いまだかつて神を見た者はいない」と書いたのでしょうか?この謎を解く時には決して聖書から離れてはなりません。例えば旧約には旧約の考え方があり、新約には新約の考え方があるなどと考えると、聖書から離れてしまいます。なぜなら、聖書は旧約と新約で一つの書だからです。一つである聖書をバラバラに分解したら聖書から離れてしまいます。聖書は旧約聖書39巻、新約聖書27巻の計66巻から成る書ですが、この66巻をバラバラにして考えてはなりません。それは聖書が、一つのお方である神様が記者に聖霊を通して霊感を与えて書かれた書だからです。

 聖書の記者はバラエティーに富んでいます。それぞれに個性があり、クセがあると言っても良い記者たちが書きました。でも、それを書かせた神様は一つのお方です。ですから、66巻の書を広く読むことで記者のクセが薄まって、神様の姿が浮かび上がって来ます。

 聖書を太陽の光に例えてみましょう。太陽の光は色のない無色透明の光です。でも雨上がりの時などは、水滴がプリズムの働きをして色が分かれ、虹が見えますね。虹の色は七色で表されることが多いですが、実際はもっとたくさんの色に分かれています。聖書の光も無色で色はありませんが、分解すると66の色に分かれています。聖書の66の書はそれぞれに個性がありますが、全部合わさると無色の聖書になります。ですから、聖書の神様を知るには、できるだけ聖書を広く読む必要があります。

 一つの書だけを徹底的に読み込むことも、もちろん大切ですが、それだけだと一つの色しか見ていないことになります。私はヨハネの福音書を引用することが多いですが、ヨハネだけを読んでいるわけではなく、マタイ・マルコ・ルカも読んでいるから、ヨハネがマタイ・マルコ・ルカとはぜんぜん違う書であることが分かります。

 私の説教では聖書のあちこちからの引用があるので、何を言いたいのか分からないとよく言われますが、あちこちから引用するのは無色透明の神様を皆さんと分かち合いたいからなのだと思います。無色透明の神様が見えるようになることが、霊性が整えられるということでしょう。一つの書の狭い箇所に注目することも大切ですが、そこには色のついた神様が書かれています。そこに、他の書から他の色をいくつも重ねて行くことで段々と無色の神様の姿が浮かび上がって来ます。一つの書から見た神様は色が付いた神様であり、いくつもの書を重ねることで無色の神様に近づいて行くことができます。これが聖書の奥義です。聖書の奥義は隠されていますが、色を重ねて無色に近づいて行くなら聖書の奥深い世界が見えて来ます。これが、霊性が整えられるということです。霊性が整えられるなら、イエス様の導きの声が聴こえるようになり、この悪い時代の中でも正しい方向に導いて行っていただくことができます。

③・・・・・(考えていただくため結論は伏せます)
 あとで結論を話しますが、もうしばらく結論は伏せておきます。皆さんにも、ご一緒に考えていただきたいからです。学校の授業でも一方的に教えるのではなく、先ずは自分で考えてもらうことをするでしょう。それは、先ず自分で考えてみることで、理解が一層深まるからです。

 もう一度、きょうの聖句のヨハネ1:18を読みます。

ヨハネ1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

 出エジプト記には「は…顔と顔を合わせてモーセと語られた」と書いてあるのに、なぜヨハネは「いまだかつて神を見た者はいない」と書いたのでしょうか?ヒントとなる聖句がヨハネの福音書の中にたくさんありますから、それらの中からいくつかを挙げて書き出します。まずヨハネ1:1、

ヨハネ1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

 次にヨハネ8:58、

ヨハネ8:58 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」

 ここから、何か感じるでしょうか?次にヨハネ10:30、

ヨハネ10:30 「わたしと父とは一つです。」

 だいぶ分かって来たのではないでしょうか?次にヨハネ14章8節から10節、

ヨハネ14:8 ピリポはイエスに言った。「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」
9 イエスは彼に言われた。「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。
10 わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。

 特にアンダーラインを引いた「わたしを見た人は、父を見たのです」からは、きょうの問いへの答が見えて来るのではないでしょうか。最後にヨハネ15:26を挙げておきましょう。

ヨハネ15:26 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。

 いかがでしょうか?出エジプト記には「は…顔と顔を合わせてモーセと語られた」と書いてあるのに、なぜヨハネは「いまだかつて神を見た者はいない」と書いたのか、分かったでしょうか?

 これらのことばから見えて来ることは、モーセが顔と顔を合わせていたとは、イエス様だったということです。いまだかつて天の父を見た者はいませんが、父のふところにおられるひとり子のイエス様なら、多くの者たちが見ました。モーセはその代表です。そして、モーセほどにははっきりとイエス様を見ていないものの、私たちもまたイエス様を見ています。パウロもイエス様に会っています。パウロの場合には、私たちよりももっとはっきりとイエス様を見ているでしょう。でも、私たちもイエス様と会ってイエス様を見ています。このことが分かるようになることが、イエス様によって霊性が整えられることであると言えるでしょう。

 そして、預言者のエリヤやエリシャ、先週開いたホセア書のホセアもイエス様を見ていました。イザヤやエレミヤ、エゼキエルもイエス様と会ってイエス様を見ていました。そうして、イエス様から父のことばを伝えられました。こうして、旧約の時代の預言者たちが皆、イエス様と会ってイエス様から天の父のことばを伝えられていたことが分かると、それぞれにクセのある預言者たちの個性が薄まって、無色透明な神様の姿が浮かび上がって来ます。

 さて、イエス様から天の父のことばを伝えられた預言者たちはそれを人々に語りました。つまり、旧約聖書に書かれている神様のことばは、全部イエス様のことばです。新約聖書に書かれているのはもちろんイエス様のことばですから、旧約聖書のことばも新約聖書のことばもすべてイエス様のことばです。聖書丸ごと一冊が全部イエス様のことばです。つまり、皆さんが持っている聖書はイエス様ご自身であると言っても良いかもしれません。

 ルカの福音書の最後には、エマオへ向かう二人の弟子にイエス様が現れる場面がありますね。ルカの福音書には、このように書かれています。

ルカ24:27 それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。

 イエス様は弟子たちに、「聖書全体がわたしについて書いているのですよ。聖書にある父のことばは、全部わたしが預言者たちに伝えたことばなんですよ」、と教えたのでしょう。それがヨハネの福音書の冒頭にある、「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」(ヨハネ1:1)ということでしょう。そうしてヨハネは1章14節で「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14)と書きました。今の私たちの時代には「ことばは聖書となって、私たちの間に住まわれた」ということになります。

 ですから、私たちも聖書を通してイエス様と出会うことができます。そうして、聖書のことばを通してイエス様にどんどん近づき、イエス様に霊性を整えていただくなら、やがてイエス様と顔と顔を合わせることができるようになるでしょう。

 イエス様はヨハネ1:38で「あなたがたは何を求めているのですか」と私たちに語り掛けて下さり、39節で「来なさい。そうすれば分かります」とおっしゃって下さっています。そうして付いて行くなら私たちは聖書のことばであるイエス様とつながり始めます。但し、注意しなければならないことがあります。39節の最後に「時はおよそ第十の時であった」とあります。こういう時間を表すことばをあまり気にしないように注意しなければなりません。それは、神様が聖書の奥義を隠そうとしているからです。イエス様はこのようにもおっしゃっていますね。

マタイ13:11 「あなたがたには天の御国の奥義を知ることが許されていますが、あの人たちには許されていません。」

 イエス様は、奥義を知ることが許されていない人には奥義を隠しています。「時はおよそ第十の時であった」に引っ掛かってしまうと、イエス様が地上にいた時代の特定の時間に意識が集中してしまいます。すると、創世記の初めの時代からおられて、今も私たちと共におられるイエス様のことが見えなくなってしまいます。福音書は、奥義を知ることが許されていない人たちから奥義を隠すために、こういう仕掛けを所々に入れ込んでいます。私たちは真面目ですから、聖書に書かれていることばを全部丁寧に味わう必要があると考えがちです。しかし福音書には奥義を隠すための仕掛けが所々に仕込まれていますから、注意しなければなりません。「時はおよそ第十の時であった」というような特定の時間に引っ掛かってしまうと、永遠の中におられる無色透明の神様が見えなくなってしまいます。

おわりに
 最後に、ルカの福音書を引用します。

ルカ10:38 さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。
39 彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。

 この時、マリアはイエス様と顔と顔を合わせていました。モーセがイエス様と顔と顔を合わせていたように、マリアはイエス様と顔と顔を合わせていました。そして、21世紀の私たちも聖書を読むことでイエス様と顔と顔を合わせることができます。イエス様はことばですから、イエス様は聖書のことばです。ことばは聖書となって私たちの間に住まわれましたから、私たちの身近にはいつもイエス様がおられます。そうして聖書を開くなら、イエス様と顔と顔を合わせることができます。そうして、イエス様に祈ることができます。イエス様と顔と顔を合わせて祈るなら、イエス様は応えて下さることでしょう。イエス様と顔と顔を合わせるなら、そのように信じることができます。

 聖書はイエス様ご自身ですから、私たちは日々聖書を開いてイエス様と顔と顔を合わせる時間を持ち、そして祈り、そうしてイエス様に霊性を整えていただいてイエス様の御声に耳を澄まし、この悪い時代にどちらの方向に進んで行ったら良いのか、イエス様に導いていただきたいと思います。

 しばらく、ご一緒にお祈りする時を持ちましょう。

ヨハネ1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

出エジプト33:11 は、人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせてモーセと語られた。
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わたしのことばは霊であり、いのちです(2022.7.10 礼拝)

2022-07-14 04:22:10 | 礼拝メッセージ
2022年7月10日礼拝メッセージ
『わたしのことばは霊であり、いのちです』
【ヨハネ6:60~69】

はじめに
 ここ2ヶ月は列王記の第二と第一を開いてイスラエルの北王国での出来事を見て来ました。きっかけは、5月第二聖日の母の日の礼拝で、シュネムの女の箇所を開いたことでした。

 5月の初め、母の日の礼拝では聖書のどこを開こうか、思いを巡らしました。聖書にはいろいろなお母さんが登場しますから、シュネムの女の箇所を選べたのは主の良き導きであったと感じます。この時の説教では、前半はシュネムの女に注目しましたが、後半は母の願いに全身全霊で応えたエリシャに注目しました。

 そして翌週の第三聖日は、聖宣神学院(BTC)の創立記念礼拝でした。いま神学校には次世代の教会を担う神学生が少ししかいません。そこで、今年のBTC創立記念礼拝では、エリシャがエリヤから外套を引き継いだ場面を開いて、主は後継者を備えていて下さることを話しました。エリヤからエリシャへの外套の継承の場面を開いたのは、母の日の礼拝でエリシャに注目したばかりで分かりやすいと思ったからです。

 エリシャからエリヤに視点を移したことで、今度はエリヤの時代の北王国の人々の不信仰にも注目しました。エリヤの時代に北王国を治めていた王はアハブ王で、アハブはバアルを礼拝していました。そして、このアハブ王の不信仰の原因を初代のヤロブアム王に遡って、分かち合いました。

 北王国の初代王のヤロブアムは金の子牛の像を造って北方のダンの町に置き、人々がそこへ金の子牛の像を礼拝しに行くようにしました。このことで北王国の人々は南のエルサレムの神殿に礼拝に行くことがなくなり、人々はどんどん神様から離れて行き、アハブ王の時代にはひどいことになっていました。そうして後に、この不信仰の罪によって北王国はアッシリアに滅ぼされて人々は捕囚として引かれて行きました。そして南王国の人々も偶像礼拝を行って神様から離れて行ってしまったためにバビロン軍によって滅ぼされて捕囚として引かれて行きました。

 人はどうしても目に見えるものに頼ります。人々は目に見える偶像を礼拝して、見に見えない神様から離れて行きました。そんな信仰が弱い人々のために、天の父はひとり子の御子イエス様を地上に遣わして下さり、目に見えない天の父がどのようなお方かを教えて下さいました。また、イエス様を十字架に付けて、神様に背を向けて離れて行った人の罪を赦して下さり、イエス様を信じる者には聖霊を注いで聖めて下さいました。

 信仰が弱い私たちのために、天の父がイエス様を地上に遣わして下さったことを、先々週はイザヤ書40章も開いて分かち合いました。イザヤ書40章11節(週報p.2)、

イザヤ40:11 主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。

 そして、先週はヨハネ6章37節を分かち合いました。

ヨハネ6:37 父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。

 イスラエルの民は不信仰の罪によって北王国から追い出され、南王国からも追い出されました。しかし、やがて主は南王国の民に慰めを与えて回復の機会を与え、エルサレムの神殿が再建されて、御子イエス様が遣わされて、「わたしは決して追い出したりはしません」とおっしゃって下さいました。

 こうして、母の日のシュネムの女とエリシャから始まって、この2ヶ月間、神様によってヨハネの福音書6章に導かれました。きょうもヨハネの福音書6章を開きます。これからしばらく、何週間になるかは分かりませんが、ヨハネの福音書を開きたいと思います。このヨハネの福音書のシリーズで皆さんと何を分かち合いたいかは、1番目のパートに入ってから話します。きょうの中心聖句はヨハネの福音書6章63節です。

ヨハネ6:63 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです。

 そして次の3つのパートで話を進めて行きます。
 
 ①初めの時からすべてを見ていたイエス様
 ②イスラエルの離反を父と悲しむイエス様
 ③神の愛の衣を幾重も着て高められる霊性
 (神の愛の衣を重ね着するヨハネの福音書)

①初めの時からすべてを見ていたイエス様
 皆さんがよくご存知のように、ヨハネの福音書は次のことばで始まります(週報p.2)。

ヨハネ1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
2 この方は、初めに神とともにおられた。
3 すべてのものは、この方によって造られた。

 イエス様は天地が創造された最初の時から天の父と一緒にいました。天の父とイエス様は一つのお方ですから、父が造ったものはイエス様が造ったものです。そうして、イエス様は初めの時から今に至るまですべての出来事を天の父と一緒に天から見て来ました。イエス様が地上に遣わされた約30年間だけは、地上からこの世をご覧になっていましたが、それ以外の時には、イエス様は天から父と共にこの世を見ていました。そうして地上の預言者や弟子たち、そして私たちにメッセージを送る時は、聖霊を通してことばを伝えて来ました。21世紀の今も同じ方法でイエス様は聖霊を通して私たちを導いています。

 天の父とイエス様は時には人々に厳しく臨むこともありましたが、大抵の場合は深い愛を人々に注いでいました。その神の愛は何重もの分厚い愛です。天の父とイエス様は旧約の時代も、新約の時代も人々を愛しつつ、天から見つめて来ました。21世紀の2022年の今もウクライナなどの世界各地の紛争・戦争の地を見ておられ、またコロナ禍や温暖化、自然災害に苦しむ私たちを見ておられ憐れんで下さっています。これらに加えて一昨日は安倍さんが銃で撃たれて亡くなり、今の日本は大きく混乱しています。この混乱している様子ももちろん見ておられて、悲しんでおられることでしょう。

 よく言われることに、「どうして神は黙って見ておられるのか?」というものがありますね。でも天の父とイエス様は黙って見ておられるわけではなく、聖霊を通してメッセージを天から地上に送っておられます。私たちの霊性が十分に高まっていないからメッセージを受け取り損なっている、というのが本当のところでしょう。霊性が十分ではないから、天の声が聴こえず、それゆえ神様が黙っておられると感じるのです。

 なぜ霊性が十分に高まっていないのか?それは多くの場合に新約聖書という愛の衣一枚しか着てないことが影響しているように思います。新約聖書の愛の衣は分厚い衣ですから、私たちは神様の愛に十分に包まれることができます。でも一枚だけだと、悪魔の策略に引っ掛かれば、簡単に引きはがされてしまいます。一方、旧約聖書の時代からの神様の愛の衣を何重にも着込んでいるなら、さらに分厚い神様の愛に包まれて、悪魔によって神様の愛から引き離されてしまうことはないでしょう。

②イスラエルの離反を父と悲しむイエス様
 繰り返しますが、イエス様は初めの時から父と共に天から人々を見ていて、聖霊を通して人々に神様の愛を伝え続けて来ました。ヤロブアム王から始まったイスラエルの北王国の不信仰もずっと天から見ていて、メッセージを伝え続けていました。きょう聖書交読でご一緒に読んだホセア書も、その一つです。ホセアはエリヤやエリシャと同じように、北王国の人々に神様のことばを伝えた預言者です(旧約p.1547)。

ホセア11:1 「イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、エジプトからわたしの子を呼び出した。

 これは主がモーセを用いてイスラエルをエジプトから脱出させた時のことを言っています。この時のイスラエルの民はまだ幼子でした。イスラエルの民族はヤコブの12人の息子たちの子孫です。旧約聖書の歴代誌第一の系図によると、モーセの父はアムラム、アムラムの父はケハテ、ケハテの父はレビです(歴代誌第一6:1~3)。レビはヤコブの12人の息子の一人ですね。レビの子はケハテ、ケハテの子はアムラム、アムラムの子はモーセですから、モーセはレビのひ孫に当たります。レビから見てモーセの時代は4代目ですから、まだまだイスラエルの民族としては幼いですね。当然、信仰も幼いままでした。そんな幼いイスラエルの民に主はモーセを通して十戒を始めとする律法を授けて、彼らに主と共に歩むように教えました。しかし、2節、

2 彼らは、呼べば呼ぶほどますます離れて行き、もろもろのバアルにいけにえを献げて、刻んだ像に犠牲を供えた。

 イスラエルの民がバアルにいけにえを献げていたことは、エリヤの時代のアハブ王の箇所を開いた時にご一緒に見ました。この時代、イスラエルの民はもはや主とバアルのどちらが本当の神様なのかが分からないぐらいに神様から離れていました。3節、

3 このわたしがエフライムに歩くことを教え、彼らを腕に抱いたのだ。しかし、わたしが彼らを癒やしたことを彼らは知らなかった。

 エフライムというのはイスラエルのことです。天の父はまさに父親であり、幼子だったイスラエルの民に、主と共に歩くことを教えました。しかし、彼らは父の深い愛情を知らずに離れて行きました。少し飛ばして7節、

7 わたしの民は頑なにわたしに背いている。いと高き方に呼ばれても、ともにあがめようとはしない。

 この不信仰ゆえに主はイスラエルを滅ぼしたわけですが、怒りにまかせてすぐに滅ぼしたわけではありません。エリヤやエリシャなどの預言者たちを通して、何度も何度も警告を与えました。主はあわれみ深いお方ですから、忍耐をもってイスラエルの民に警告を与え続けました。そして、滅ぼすことをためらい、苦悩していました。その深い苦悩が8節から読み取れます。

8 エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができるだろうか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができるだろうか。どうしてあなたをアデマのように引き渡すことができるだろうか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができるだろうか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。

 アデマとツェボイムはソドムとゴモラの近くにあった町だそうです。創世記のアブラハムの時代、主はソドムとゴモラの町を滅ぼしましたが、アデマとツェボイムも一緒に滅ぼされたそうです。主はエフライム、すなわちイスラエルをそのようにはしたくないと苦悩していました。

 ここでもう一度繰り返しますが、イエス様はこれらのイスラエルの不信仰をすべて、天の父と共に見ていました。それゆえ天の父の苦悩はイエス様の苦悩でもあります。天の父とイエス様は一つのお方ですから、天の父の苦悩のことばはイエス様の苦悩のことばでもあります。

③神の愛の衣を幾重も着て高められる霊性(神の愛の衣を重ね着するヨハネの福音書)
 ヨハネの福音書の冒頭の1章1節でヨハネは

ヨハネ1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

と書きました。ですから、聖霊を通してホセアが語った父の苦悩のことばはイエス様の苦悩のことばです。ホセア11章8節の、

8 エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができるだろうか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができるだろうか。

 この父の苦悩はイエス様の苦悩です。それゆえ、先週の中心聖句のヨハネ6:37(週報p.2)、

ヨハネ6:37 父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。

というイエス様のことばの中には旧約の時代の父とイエス様の苦悩が重なっています。父とイエス様が苦悩するのは父とイエス様が世の人々を愛しているからです。ですからヨハネの福音書は父とイエス様の旧約の時代の愛と新約の時代の愛とが重なっています。有名なヨハネ3:16(週報p.2)、

ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 神様は、世を愛されました。世とは旧約の時代と新約の時代の両方であり、神様は分け隔てなく愛しておられます。ヨハネの福音書とは、そういう書であり、旧約の時代と新約の時代の父とイエス様の愛を重ね着して分厚い愛に包まれることができる書です。

 なぜ、このヨハネの福音書の分厚い神様の愛のことを強調するかと言うと、今の悪い時代には神様の分厚い愛に包まれることで霊性を神様に高めていただき、神様からの導きの声を聖霊を通して聴くことが、どうしても必要だからです。私自身は、このことの重要性を今こそ伝えるべきであることを聖霊を通して語り掛けられています。いま私たちは悪い時代の中を生きていて、何が正しくて何が正しくないのかも分かりにくくなっています。そんな中、正しいお方であるイエス様の方を見て、イエス様に正しい方向に導いていただく必要があります。

 一昨日、安倍元首相が選挙演説中に銃撃を受けて亡くなるという恐ろしい事件が起きました。どうして、こんなことが起きるのでしょうか。本当に今の世は少し前の世とは明らかに違って来ています。その中で私たちは正しい方向に歩まなければなりません。そのためには、これまで以上に、父とイエス様の分厚い愛の衣を着けて霊性を高めていただき、神様からの導きの声がしっかりと聴けるようにならなければなりません。

 ヨハネの福音書6章の60節から見て行きます。

60 これを聞いて、弟子たちのうちの多くの者が言った。「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか。」

 この弟子たちの「これはひどい話だ」は、直接的にはもちろん、地上生涯のイエス様の時代の弟子たちのことばです。しかし、旧約の時代の人々もまた、聖霊を通して預言者たちが語る父とイエス様のことばを「ひどい話だ」と言っていました。預言者たちが伝えた「不信仰を改めないなら滅ぼす」という主のことばを信じないで「ひどい話だ」と言い、預言者たちを迫害しました。61節と62節、

61 しかしイエスは、弟子たちがこの話について、小声で文句を言っているのを知って、彼らに言われた。「わたしの話があなたがたをつまずかせるのか。
62 それなら、人の子がかつていたところに上るのを見たら、どうなるのか。

 ここでイエス様は、「かつていたところ」、すなわち「天」の話をしています。イエス様は明らかに旧約の時代と新約の時代の両方の話をしています。イエス様のことばは霊であり、またいのちですから、イエス様のことばを霊的に捉えるなら、旧約も新約も一つです。きょうの中心聖句の63節、

63 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです。

 肉の人間は一つの時代にしかいられませんが、霊は時代を超えて、時代をまたぎます。イエス様のことばは、霊であり、またいのちです。イエス様のことばを聖霊に満たされて聞くなら、天から聖霊を受けた預言者たちのことばもまたイエス様のことばであることを、霊的に感じることができます。しかし、イエス様を信じない者には、そのことが分かりません。64節と65節、

64 けれども、あなたがたの中に信じない者たちがいます。」信じない者たちがだれか、ご自分を裏切る者がだれか、イエスは初めから知っておられたのである。
65 そしてイエスは言われた。「ですから、わたしはあなたがたに、『父が与えてくださらないかぎり、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのです。」

 そして、66節のイエス様から離れ去った弟子たちとは旧約の時代のイスラエルの民でもあることが分かります。66節、

66 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった。

 旧約の時代の民も、もはやイエス様と共に歩もうとはしませんでした。天の父とイエス様は、このことを深く悲しんでいました。67節、

67 それで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいのですか」と言われた。

 この67節は新改訳の第3版では、「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう」と訳されていました。旧約の時代の人々が捕囚として引かれて行ったのは、彼らの不信仰が招いたことですから、それは彼らのほうから離れ去って行ったということです。ここにイエス様の深い悲しみがあります。68節と69節、

68 すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。
69 私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています。」

 この68節と69節は新約の時代のことですから、私たち読者はヨハネの福音書のイエス様はペテロたちと同じ時代にいたイエス様であると思いがちです。しかし、霊的にこの書を読むなら旧約の時代の天にいるイエス様も、ここにはいらっしゃいます。

おわりに
 この霊的な読み方には聖霊の助けが必要ですから、慣れないと難しいかもしれません。でも、この異常でおかしくなってしまった今の世の中、少し前までとは明らかに異なってしまった異常な世の中を私たちがイエス様の証人として生きるには、これまで以上に私たちの霊性が高められる必要があります。難しいと感じるかもしれませんが、神様の愛の衣を何重にも重ねて着るなら、それが可能です。そうして、イエス様の導きの声をしっかりと聴くことができるようになりたいと思います。

 こんな異常な世の中を正すことができるのは父・子・聖霊の聖書の神様だけです。私たちは霊性を高めていただいて、イエス様の声をしっかりと聴いて信仰の道を歩んで行けるお互いでありたいと思います。

 しばらく、ご一緒にお祈りしましょう。
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わたしは決して追い出しません(2022.7.3 礼拝)

2022-07-05 09:56:05 | 礼拝メッセージ
2022年7月3日聖餐式礼拝メッセージ
『わたしは決して追い出しません』
【ヨハネ6:27~32】

はじめに
 今年1年の歩みも半分を過ぎて後半に入りました。この半年間での大きな出来事と言えば、やはりロシアがウクライナに侵攻して大きな戦争が始まったことでしょう。半年前のお正月の時点で、今の悲惨な状況を予測できた人は日本ではほとんどいなかったのではないでしょうか。本当に衝撃的な出来事でした。しかし、この戦争が長引くに連れて、あんなに衝撃を受けた心が段々と麻痺して感情が薄れて行っているような気がします。そんなことではいけないのですが、異常な事態に心が慣れてしまって行くことを感じています。

 また、今年は梅雨の期間が異常に短くて、6月の間に梅雨が明けてしまいました。温暖化によって気候の異常の度合いが年々増していることを感じます。そうして、異常であることが、むしろ普通のことのようにも感じます。

 コロナ禍も2年を過ぎて、未だ終息の時を見通すことができない中にあります。5月から6月に掛けて減っていた感染者数も今また増え始めています。そうして、マスクをすることがすっかり当たり前のことになってしまいました。このことからも、異常であることが日常のことになってしまっていることを感じます。

 このように私たちは戦争、温暖化、感染症という異常な中に置かれ続ける中で、何が正常で何が異常なのかの感覚を失いつつあるように感じます。でも、私たちには正しさの基準であるイエス・キリストがいつも共にいて下さいます。何が正しくて何が正しくないのかが分からなくなった時でも、私たちにはイエス様がいて下さいますから、イエス様の方を向いていれば、正しさの基準を見失うことはありません。このことに心一杯感謝したいと思います。

 とはいえ、弱い私たちですから、ついイエス様から目を離してしまうこともあります。そうして、中にはそれが長い期間に亘ってしまう方々もいます。そんな人に対してもイエス様は、きょうのタイトルで示したように「わたしは決して外に追い出したりはしません」とおっしゃって下さっています。きょうはこのことを分かち合って、その後で聖餐式の恵みに与りたいと思います。

 きょうの中心聖句はヨハネ6章37節です。

ヨハネ6:37 父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。

 そして、きょうは次の三つのパートで話を進めます。

 ①主に外へ追い出された北王国と南王国の民
 ②わたしは追い出さないと言われる十字架の主
 ③異常な世の中でイエス様から目を離さない

①主に外へ追い出された北王国と南王国の民
 今年の上半期の最初の元旦礼拝では、歴代誌第二5章を開きました。ダビデの息子のソロモン王の時代に、エルサレムの神殿が完成しました。歴代誌第二5章にはその神殿が完成したことを主に感謝する礼拝のことが記されています。

Ⅱ歴代5:13 ラッパを吹き鳴らす者たち、歌い手たちが、まるで一人のように一致して歌声を響かせ、を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパとシンバルと様々な楽器を奏でて声をあげ、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」とに向かって賛美した。そのとき、雲がその宮、すなわちの宮に満ちた。

 今年の私たちの教会の標語聖句は、ここから取って、

歌い手たちが、まるで一人のように一致して 「主は慈しみ深い、その恵みはとこしえまで」と賛美した。

としました。そして元旦礼拝では、賛美歌には聖霊に似た力があるという話をしました。賛美歌には人々の心を一つにして一致させる力があります。また、賛美歌には人の心を開いて主の方を向かせる力もあります。旧約の時代には、一部の限られた預言者たちだけにしか聖霊は注がれませんでしたから、イスラエルの民の大多数は聖霊を受けていませんでした。しかし、人々は賛美によって一致して一つになることができました。私たちの教会も聖霊を受けている方々と受けていない方々の両方が集っています。でも、賛美歌には私たちを一つにする力がありますから、共に主を賛美し、礼拝をささげて一つになりたいと思います。

 さて、ソロモンの神殿の建設については歴代誌だけでなく、もちろん列王記にも書かれています。きょう聖書交読でご一緒に読んだ列王記第一9章には、主の宮、すなわち神殿が完成した時に主からソロモンにあったことばが記されています。もう一度開いていただけますか(旧約p.612)。4節と5節、

列王記第一9:4 もしあなたが、あなたの父ダビデが歩んだように、全き心と正直さをもってわたしの前に歩み、わたしがあなたに命じたことすべてをそのまま実行し、わたしの掟と定めを守るなら、
5 わたしが、あなたの父ダビデに『あなたには、イスラエルの王座から人が断たれることはない』と約束したとおり、あなたの王国の王座をイスラエルの上にとこしえに立たせよう。

 また主は、このようにも言われました。6節から8節、

6 もし、あなたがたとあなたがたの子孫が、わたしに背を向けて離れ、あなたがたの前に置いたわたしの命令とわたしの掟を守らずに、行ってほかの神々に仕え、それを拝むなら、
7 わたしは彼らに与えた地の面からイスラエルを断ち切り、わたしがわたしの名のために聖別した宮をわたしの前から投げ捨てる。イスラエルは、すべての民の間で物笑いの種となり、嘲りの的となる。
8 この宮は廃墟となり、そのそばを通り過ぎる者はみな驚き恐れてささやき、『何のために、はこの地とこの宮に、このような仕打ちをされたのだろう』と言う。
 
 これが列王記第一の9章での出来事でした。そうして、先週開いた12章で見たように、イスラエルの人々の心は主から離れて行きました。ソロモンの息子のレハブアム王の時代にイスラエルの王国は南北に分裂して、北王国の初代王のヤロブアムは北の国民が南のエルサレムの神殿に行かないようにする政策を取りました。北王国の北方にあるダンの町に金の子牛の像を置き、祭りの時にはダンに行って礼拝するようにしました。このことで、人々は南のエルサレムの神殿に行くことがなくなり、神様から心がどんどん離れて行きました。そうして、北王国はアッシリアによって滅ぼされ、人々はアッシリアに捕囚として引かれて行きました。先週引用した列王記第二17章の21節から23節までを、そのまま週報p.2に残しておきました。

列王記第二17:21 主がイスラエルをダビデの家から引き裂かれたとき、彼らはネバテの子ヤロブアムを王としたが、ヤロブアムはイスラエルを主に従わないように仕向け、そうして彼らに大きな罪を犯させた。
22 イスラエルの人々は、ヤロブアムが行ったすべての罪に歩み、それから離れなかったので、
23 主は、そのしもべであるすべての預言者を通して告げられたとおり、ついにイスラエルを御前から除かれた。こうして、イスラエルは自分の土地からアッシリアに引いて行かれた。今日もそのままである。

 23節にあるように、主はイスラエルを御前から除かれました。つまり、主は北王国の人々を外へ追い出しました。そして、主は南王国の人々もまた、外へ追い出しました。列王記第二25章の8節から11節に書いてある通りです。この箇所も週報p.2にそのまま残しておきました。

列王記第二25:8 第五の月の七日、バビロンの王ネブカドネツァル王の第十九年のこと、バビロンの王の家来、親衛隊の長ネブザルアダンがエルサレムに来て、9 主の宮と王宮とエルサレムのすべての家を焼き、そのおもだった建物をことごとく火で焼いた。10 親衛隊の長と一緒にいたカルデアの全軍勢は、エルサレムを取り巻く城壁を打ち壊した。11 親衛隊の長ネブザルアダンは、都に残されていた残りの民と、バビロンの王に降伏した投降者たちと、残りの群衆を捕らえ移した。

 北王国の人々も南王国の人々も心が主から離れてしまったために、主はソロモンに告げた通りに国を滅ぼし、人々を外に追い出しました。

②わたしは追い出さないと言われる十字架の主
 先週の礼拝メッセージでは、さらにイザヤ書40章も開きました。列王記の人々の不信仰の記事だけでは、ぜんぜん恵まれないからです。

 憐み深い主は、国も神殿も城壁も失って打ちひしがれている人々を慰めるように、イザヤに仰せられました。イザヤ書40章の1節と2節です。

イザヤ40:1 「慰めよ、慰めよ、わたしの民を。──あなたがたの神は仰せられる──
2 エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その苦役は終わり、その咎は償われている、と。

 そうして南王国の人々はエルサレムへの帰還が赦されて神殿を再建し、城壁も修復しました。そして、主は地上にイエス様を遣わして下さいました。イザヤ書40章11節です。

イザヤ40:11 主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。

 そのイエス様が、「わたしは決して外に追い出すことはありません」とおっしゃって下さっています。きょうの聖書箇所のヨハネの福音書6章です。32節から見て行きましょう。32節と33節、

ヨハネ6:32 それで、イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。
6:33 神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。」

 天の父は地上にひとり子のイエス様を私たちのために遣わして下さいました。人は弱いので、どうしても目に見えるものに頼ってしまいます。天の父は目に見えないお方ですから、旧約の時代の人々は結局、目に見える偶像に頼ってしまって偶像礼拝を続けました。そうして、北王国も南王国も滅びてしまいました。それゆえ、天の父は御子を目に見える形で地上に遣わして下さいました。34節と35節、

34 そこで、彼らはイエスに言った。「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください。」
35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

 地上に遣わされたイエス様が神の子キリストであると信じるなら、私たちは聖霊を受けて永遠のいのちが与えられますから、決して飢えることがなく、渇くこともありません。旧約の時代には聖霊は一部の預言者たちだけにしか注がれませんでしたが、新約の時代はイエス様を信じる者には誰にでも聖霊が注がれるようになりました。これは素晴らしい恵みです。

 でも、聖霊を受けるには、先ずは私たちの背きの罪が赦される必要があります。罪で汚れたままの私たちの内に聖霊は決して入っては下さいません。神様に背いていた私たちの罪はあまりに重いので、動物をいけにえに献げるぐらいで赦されるものではありません。それゆえ天の父は私たちの罪を赦すためにイエス様を十字架に送り、私たちへの愛を示して下さいました。ヨハネの手紙第一に次のように書いてある通りです。

ヨハネの手紙第一4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。
10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

 この愛によって、私たちは決して外に追い出されることはなくなりました。37節です。

37 父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。

 旧約の時代の北王国と南王国の悲惨な末路を思う時、今の私たちの時代がいかに恵みに満ちているかが分かります。しかし、こんなに恵まれた時代に私たちはいる筈なのに、今なお世界は悲惨な状態にあります。36節のイエス様は、まるで今の状況そのものを言っているように感じます。

36 しかし、あなたがたに言ったように、あなたがたはわたしを見たのに信じません。

 旧約の時代の人々は神様が目に見えないので信じられないでいました。それゆえ目に見えるイエス様が遣わされました。そうしてイエス様を見たのに、信じない人々がいました。とても残念なことです。

 その後、イエス様は天に帰られましたから、今の私たちもイエス様を直接的には見ることができません。でも、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四つの福音書が書かれたことで、私たちはイエス様が地上にいた時のことを知ることができます。そして、そのイエス様を信じることで聖霊が与えられて、聖霊を通してイエス様に直接お会いできる恵みをいただいています。このことに心一杯、感謝したいと思います。

③異常な世の中でイエス様から目を離さない
 最後のパートに進み、聖餐式に移りたいと思います。最初に話したように、今は本当に異常な時代です。悲惨な戦争が止まらずに世界中で多くの人が悲しみ、心を痛めているのに、終わる気配が見えません。

 気候も異常です。梅雨が7月になる前に明けて猛暑が始まってしまいました。コロナウイルスの感染症も、終わりが見えない異常事態が続いています。

 そうして私たちはいつの間にかこの異常な事態に慣らされてしまって、何が正常で何が異常なのかの感覚を失いつつあります。でも、私たちには正しさの基準となっていて下さるイエス様がいつも共にいて下さいます。ですから、イエス様だけを見ていれば、何が正しいことなのかが分かります。このことに心一杯感謝して、イエス様から決して目を離さないようにしていたいと思います。そうして、異常な世の中にあっても歩く方向を誤らないようにしたいと思います。

 このイエス様との太いつながりを、聖餐によって改めて確かなものとしたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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神から離れた初めの一歩(2022.6.26 礼拝)

2022-06-27 14:41:00 | 礼拝メッセージ
2022年6月26日礼拝メッセージ
『神から離れた初めの一歩』
【列王記第一12:25~33】

はじめに
 これまで何回か、北王国の預言者エリヤの箇所を開いて来ました。エリヤが預言者として働いていた時代に北王国を治めていたのは、アハブ王でした。アハブは7代目の王でしたが、これまでの北王国の王たちの誰よりも不信仰でした。

 そもそも北王国の初代の王のヤロブアムが不信仰であったため、次の王たちへと時代が移るに連れてどんどん悪くなり、アハブの時にはひどいことになっていました。その諸悪の根源の初代のヤロブアムについて、これまで口頭では話をしましたが、聖書箇所は開いていませんでしたから、きょうはそこを開くことにします。

 但し、悪王の話だけでは恵まれませんから、この不信仰から人々、そして私たちを救うためにイエス様が地上に来て下さったのだということを3番目のパートで分かち合うことにします。

 そういうわけで、きょうの中心聖句は聖書交読で読んだイザヤ書40章の11節とします。

イザヤ40:11 主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。

 そして、次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①北の民を南の神殿の礼拝に行かせなかった王
 ②創世記3章の蛇のような初代のヤロブアム王
 ③旧約~新約の聖書の物語は私たち自身の物語

①北の民を南の神殿の礼拝に行かせなかった王
 きょうはイスラエルの王国が南北に分裂してからの、列王記第一の12章以降を見ます。12章の前には、イスラエルの王国がどうして南北に分裂してしまったのかが書かれています。この分裂の経緯についても、いずれは見たいと思いますが、きょうのところは分裂してからのことを見ることにします。

 イスラエルの王国はソロモン王が死んだ後に、北と南の二つの国に分裂しました。南王国の王はソロモンの子のレハブアムで、レハブアム王にはユダ族とベニヤミン族とレビ族の三つの部族が従いました。そして北王国の初代の王のヤロブアムには、12部族中の9つの部族が従いました。ただし9部族の中の1つのヨセフ族は、ヨセフの息子のマナセとエフライムの子孫のマナセ族とエフライム族の二つの部族と見なされることが多いです。ですから、ヤロブアムには10の部族が従いました。そして、ヤロブアム王はエフライム族の出身でしたから、彼はまずエフライムのシェケムを築き直しました。25節です。

25 ヤロブアムはエフライムの山地にシェケムを築き直し、そこに住んだ。さらに、彼はそこから出て、ペヌエルを築き直した。

 そして、ヤロブアムは心に思いました。26節と27節、

26 「今のままなら、この王国はダビデの家に帰るだろう。
27 この民が、エルサレムにあるの宮でいけにえを献げるために上ることになっているなら、この民の心は彼らの主君、ユダの王レハブアムに再び帰り、彼らは私を殺して、ユダの王レハブアムのもとに帰るだろう。」

 エルサレムの神殿は南王国のユダにあります。過越の祭りなどの時に北王国の民がエルサレムに上れば、そのまま南の王のレハブアムの側に付いてしまうことをヤロブアムは心配しました。そこで28節から30節、

28 そこで王は相談して金の子牛を二つ造り、彼らに言った。「もうエルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上った、あなたの神々がおられる。」
29 それから彼は一つをベテルに据え、もう一つをダンに置いた。
30 このことは罪となった。民はこの一つを礼拝するためダンまで行った。

 ここで後ろの地図を見ましょう。また列王記に戻って来ますから、何かを挟んでおいてください。後ろの地図の4を見てください(90度回して見ます)。ヤロブアムは金の子牛を北のダンと南のベテルに置きました。ダンはガリラヤ湖よりもさらに北にあります。そして、ベテルはエフライムと書いてある字の少し南にあります。ベテルのすぐ南にはベニヤミンがありますから、ベテルは北王国と南王国の国境付近にありました。

 そうして、ヤロブアムは北の国民を北方のダンに礼拝に行かせました。同じ金の子牛をベテルにも置きましたから、ベテルでも良さそうな気がしますが、ベテルは南王国と接していますから、北の国民が南側に行ってしまうことを恐れたんでしょうね。こうして、北王国の国民は、南のエルサレムの神殿から遠ざけられてしまいました。それだけでなく、金の子牛を神として礼拝するようになりました。

 これでは7代目のアハブ王の頃には、主が神なのかバアルが神なのか分からなくなってしまうのも当然ですね。アハブ王の頃の北の国民は、生まれてから一度もエルサレムの神殿に行ったことが無い者がほとんであったことでしょう。ですから、初代のヤロブアム王がしたことは、本当に罪深いことでした。

 さらにヤロブアムは、主がモーセを通してイスラエルの民に命令したことを、自分流に変えてしまいました。31節と32節、

31 それから彼は高き所の宮を造り、レビの子孫でない一般の民の中から祭司を任命した。
32 そのうえ、ヤロブアムはユダにある祭りに倣って、祭りの日を第八の月の十五日と定め、祭壇でささげ物を献げた。こうして彼は、ベテルで自分が造った子牛にいけにえを献げた。また、彼が造った高き所の祭司たちをベテルに常駐させた。

 主への礼拝をヤロブアムは自分流に変えてしまいました。これほど自分流に変えることができたということは、この時点でヤロブアムにとっての礼拝は既に形式的なものになってしまっていたのでしょう。主に礼拝をささげるのではなく、単に礼拝の儀式を形式的に行いさえすれば良いというものに変質してしまっていたようです。

 きょうの説教のタイトルは「神から離れた初めの一歩」としましたが、ヤロブアムにとっては初めの一歩ではなかったようです。彼はすでに神から遠く離れていました。一方、北王国の国民にとっては、やはりこれが初めの一歩だっただろうと思います。ソロモン王の時代に神殿ができたことで、イスラエルは一致して主を賛美しました。ここに掲げてある今年の聖句の歴代誌第二5章13節にある通りです。しかし、ヤロブアム王の政策でエルサレムに行くことがなくなったことで、主から離れて行ったのでしょう。

②創世記3章の蛇のような初代のヤロブアム王
 33節をお読みします。

33 彼は、自分で勝手に考え出した月である第八の月の十五日に、ベテルに造った祭壇でいけにえを献げた。このように、彼はイスラエルの人々のために祭りの日を定め、祭壇でいけにえを献げ、香をたいた。

 このヤロブアム王によって北王国の国民は南のエルサレムとは反対方向の北方のダンに行って礼拝をささげるようになりましたから、神様からどんどん離れて行きました。ですから、ヤロブアム王はまるで創世記3章の蛇のようです。

 創世記3章で蛇はアダムの妻のエバが、神様が食べてはならないと命じていた善悪の知識の木の実を食べてしまうように仕向けました。それまで、アダムとエバは善悪の知識の木の実を食べないようにしていました。それを食べると死ぬと神様から言われていたからですが、蛇から食べても死なないと言われて食べてしまいました。そうして、神様から離れたことで、永遠の命を失いました。

 イスラエルの民も、モーセを通して神様から、祭りの時にはエルサレムに上って礼拝するように言われていました。ですから、彼らはそれを守っていました。でも、ヤロブアム王のエルサレムに行かなくてもダンの町に行って金の子牛を礼拝すれば大丈夫だという蛇のまどわしによって、神様から離れて行きました。

 そうして罪の道を歩んだ北王国は、アッシリアによって滅ぼされてしまい、国民の多くがアッシリアに捕囚として引かれて行きました。その箇所を、週報p.2に引用しておきましたから、お読みします。列王記第二17章の21節から23節までです。

列王記第二17:21 主がイスラエルをダビデの家から引き裂かれたとき、彼らはネバテの子ヤロブアムを王としたが、ヤロブアムはイスラエルをに従わないように仕向け、そうして彼らに大きな罪を犯させた。
22 イスラエルの人々は、ヤロブアムが行ったすべての罪に歩み、それから離れなかったので、
23 は、そのしもべであるすべての預言者を通して告げられたとおり、ついにイスラエルを御前から除かれた。こうして、イスラエルは自分の土地からアッシリアに引いて行かれた。今日もそのままである。

 そうして、北王国が滅んでから約140年後に、南王国もまた滅ぼされました。列王記第二のこの箇所も引用します。25章の8節から11節までです。

列王記第二25:8 第五の月の七日、バビロンの王ネブカドネツァル王の第十九年のこと、バビロンの王の家来、親衛隊の長ネブザルアダンがエルサレムに来て、
9 の宮と王宮とエルサレムのすべての家を焼き、そのおもだった建物をことごとく火で焼いた。
10 親衛隊の長と一緒にいたカルデアの全軍勢は、エルサレムを取り巻く城壁を打ち壊した。
11 親衛隊の長ネブザルアダンは、都に残されていた残りの民と、バビロンの王に降伏した投降者たちと、残りの群衆を捕らえ移した。

 北王国の民はアッシリアに引かれて行き、南王国の民はバビロンに引かれて行きました。どちらの国民も外国へ捕囚として引かれていったわけですが、北と南で大きく違う点が一つあります。それは、南の場合はバビロンからエルサレムへの帰還が許されたことです。一方、北王国の場合はアッシリアに引かれたまま、帰ることがありませんでした。それゆえ「失われた10部族」と言われています。この10部族は最初に言った通り、12部族からユダ族、ベニヤミン族、レビ族を引いた9部族ですが、ヨセフ族はマナセ族とエフライム族の二つの部族として数えられますから、「失われた10部族」になります。

③旧約~新約の聖書の物語は私たち自身の物語
 北王国と南王国が不信仰によって滅ぼされたという話だけでは恵まれませんから、この3番目のパートでは聖書交読でご一緒に読んだイザヤ書40章を味わいたいと思います(旧約p.1230)。このイザヤ40章の背後にはエルサレムを失った民の悲しみと苦しみがあります。

 週報p.2の列王記第二25章の9節にあるように、 の宮、すなわち神殿と王宮とエルサレムのすべての家がバビロン軍によって焼かれてしまいました。そうして10節にあるようにエルサレムを守っていた城壁も打ち壊されてしまいました。神殿を失っただけでなく防御の城壁も失ったということは、人に例えるなら命を奪われただけでなく、衣服もはぎとられる屈辱を受けたということです。イエス様も十字架では衣服をはぎとられて裸で十字架に付けられました。絵では腰に布を巻いて描かれていますが、腰の布も無かったのではないかという人もいます。十字架は単に肉体的な苦しみを受けるだけでなく、精神的な屈辱をも受ける残酷な刑罰でした。

 エルサレムを失った南王国の民も、このような悲しみと苦しみと屈辱を受けていました。その民に対して神様は慰めのことばを預言者イザヤに預けました。イザヤ書40章の1節と2節をお読みします。

イザヤ40:1 「慰めよ、慰めよ、わたしの民を。──あなたがたの神は仰せられる──
2 エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その苦役は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に代えて、二倍のものをの手から受けている、と。」

 このイザヤ40章は、先ほどの列王記第二25章から、エルサレムの民がどれほど大きな心のダメージを受けたかが分かれば分かるほど、「エルサレムに優しく語りかけよ」とイザヤに言った主の愛の大きさが分かるでしょう。

 そうして、主はこの世にひとり子のイエス様を遣わして下さいました。弱い人間は、どうしても目に見える神々に頼ってしまいます。ソロモン王も晩年は偶像礼拝をするようになりました。北王国の民も、金の子牛を礼拝するようにと蛇のまどわしを与えたヤロブアム王のことばに従ってしまい、南王国よりも先に滅ぼされました。南王国の王たちも偶像礼拝を行って、結局エルサレムは滅ぼされました。

 そんな信仰の弱い人々に主はひとり子のイエス様を送って下さいました。イエス様は「わたしと父は一つです」(ヨハネ10:30)とおっしゃり、天の父がどのようなお方であるかを、目に見える形で教えて下さいました。そうして慰めと平安を与えて下さいました。イザヤ書40章11節です。

イザヤ40:11 主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。

 これが旧約から新約に至る聖書の物語ですが、これは私たち一人一人の、私たち自身の物語でもあります。私たちもまた、かつては神様から離れていた者たちです。そうして、心がボロボロになっていました。私たちの一人一人は皆、かつては羊の群れから離れてさまよっていました。どちらに進んで良いかも分からずにいて、神様の霊の水の潤いが無い魂は渇き切ってボロボロになっていました。そんな私をイエス様は御腕に引き寄せて下さり、懐に抱いて下さり、平安を与えて下さいました。

(中略)

おわりに
 最後にもう一度イザヤ書40章1節と2節、そして11節をお読みします。

イザヤ40:1 「慰めよ、慰めよ、わたしの民を。──あなたがたの神は仰せられる──
2 エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その苦役は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に代えて、二倍のものをの手から受けている、と。」

 私たちは信仰を持った後からでも、つい主から離れてしまってボロボロになってしまうことがあります。でも、そんな時も、主は私たちを決して見捨てることはありません。イエス様がいつも共にいて下さり、優しく慰め、励まして下さいます。11節、

イザヤ40:11 主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。

 しばらく、ご一緒にお祈りしましょう。
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再起を促す神の励まし(2022.6.19 礼拝)

2022-06-20 07:52:04 | 礼拝メッセージ
2022年6月19日礼拝メッセージ
『再起を促す神の励まし』
【列王記第一19:15~18】

はじめに
 先週は北王国の預言者エリヤが、全イスラエルの前でバアルの預言者450人と大きな勝負をして勝利を収めた列王記第一18章の記事を見ました。

 イスラエルの民は、主とバアルのどちらが本当の神なのかが分からずにいて、よろめいていました。そこで、エリヤはバアルの預言者たちと自分とでそれぞれに祭壇を造り、バアルの預言者たちはバアルの名を呼び、自分は主の名を呼び、火が付いた方が本当の神である、という方法で勝負をすることを提案しました。イスラエルの民も「それがよい」(Ⅰ列王18:24)と言いましたから、この方法で勝負を行いました。

 この勝負でバアルの祭壇には火が付きませんでしたが、主の祭壇には火が付きましたから、イスラエルの民は皆、これを見てひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言いました(Ⅰ列王18:39)。そうして、その後で大雨が降りました。主は、バアルは神ではないことを示すために雨が降らないようにしていましたが、この勝負の後で雨を降らせて下さいました。

 こうして、北王国の民が主に立ち返ってメデタシ、メデタシとなるはずでしたが、そうはなりませんでした。このことでエリヤはガックリ来て、いわゆる燃え尽き症候群になってしまいました。主は、そんなエリヤを励ましました。きょうの19章には、そのことが書かれています。きょうの中心聖句は19章の15節と16節にしました。

Ⅰ列王19:15 は彼に言われた。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油を注いで、アラムの王とせよ。
16 また、ニムシの子エフーに油を注いで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラ出身のシャファテの子エリシャに油を注いで、あなたに代わる預言者とせよ。

 なぜ、ここを中心聖句にしたかというと、ここには具体的な命令が書かれているからです。主は漠然と人を励ますのでなく、具体的な指示を与えて励ますお方であることを、覚えたいと思います。きょうは次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①燃え尽きたエリヤを力づけたパン菓子
 ②モーセが主の声を聴いた神の山ホレブ
 ③具体的な新しい命令で再起を促す神様

①燃え尽きたエリヤを力づけたパン菓子
 全イスラエルの前での大勝負にエリヤが勝利したことで、イスラエルの民は「主こそ神です。主こそ神です」と言って、主に立ち返りました。しかし、アハブ王の妻イゼベルの不信仰が揺らぐことはありませんでした。2節にあるように、イゼベルは使者をエリヤのところに遣わして言いました。

2 「もし私が、明日の今ごろまでに、おまえのいのちをあの者たちの一人のいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」

 これはつまり、24時間以内にエリヤを殺すという殺害予告でした。これを聞いたエリヤは震え上がり、逃げ出しました。3節と4節、

3 彼はそれを知って立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、
4 自分は荒野に、一日の道のりを入って行った。彼は、エニシダの木の陰に座り、自分の死を願って言った。「よ、もう十分です。私のいのちを取ってください。私は父祖たちにまさっていませんから。」

 エリヤはいわゆる燃え尽き症候群になり、死を願うほどに心が弱っていました。仕事を懸命に頑張っていた人が、突然心が折れてしまって力が出なくなることは、よく聞く話だと思います。仕事ではありませんが、マラソンのような長距離の選手が分かりやすいと思います。最初に頑張り過ぎると、後半にばててしまいます。特にトップを走ったりしていると、ばててからも抜かれないように何とか頑張ろうとします。でも抜かれた途端にガクッとペースが落ちます。心が折れて力が入らなくなり、走れなくなってしまうんですね。

 エリヤも全イスラエルの前での大勝負で頑張った後だっただけに、イゼベルの不信仰が少しも揺るがずにいて、却って自分の命を狙っていることを知ってガックリ来てしまいました。そんなエリヤに主の御使いが現れて彼に触れ、パン菓子と水を与えます。5節と6節、

5 彼がエニシダの木の下で横になって眠っていると、見よ、一人の御使いが彼に触れ、「起きて食べなさい」と言った。
6 彼が見ると、見よ、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水の入った壺があった。彼はそれを食べて飲み、再び横になった。

 そして、主の御使いがもう一度戻って彼に触れて励ましました。7節と8節、

7 の使いがもう一度戻って来て彼に触れ、「起きて食べなさい。旅の道のりはまだ長いのだから」と言った。
8 彼は起きて食べ、そして飲んだ。そしてこの食べ物に力を得て、四十日四十夜歩いて、神の山ホレブに着いた。

 この5節から8節で興味深いのは、主の御使いはまずエリヤに触れて、そうして食べ物を与えたことです。主は霊的に私たちを励まして下さるお方ですが、その前に、まずは私たちの肉体が強められないと、霊的にも強められないのだなということを教えられます。

②モーセが主の声を聴いた神の山ホレブ
 今読んだ8節にはエリヤが神の山ホレブに向かって歩き、そこに着いたことが書かれています。ホレブと言えば、モーセがエジプト脱出のリーダーとして神様から召し出された場所であり、またエジプトから脱出した後は神様から十戒を始めとする律法を授かった場所です。

 十戒を始めとする律法を授かった場所ですから、出エジプトの当時、まだ信仰が幼かったイスラエルの民にとっては、保育園や幼稚園(或いは両方を合わせたこども園)、そして小学校と言えるでしょう。十戒を授かる前のイスラエルの民と神様との関係は、アブラハム・イサク・ヤコブと神様との関係を見れば分かると思いますが、個人的な関係だけでした。しかし、十戒を授かって以降は集団生活を送りながら、いかに神様と共に歩むかということを律法を通してイスラエルの民は学びました。

 集団生活を送るには、神様を愛するだけでなく、隣人をも愛さなければなりません。イスラエルの民は律法を通して、隣人を愛しながらの集団生活のことを学びました。私たちが子供の頃に通った幼稚園や小学校でも、勉強を教わっただけでなく、友だちと仲良く過ごすことの大切さを学びましたね。ですから、この神の山ホレブはイスラエルの民にとっての幼稚園や小学校と言えるでしょう。

 イスラエルの民が律法を授かった当時の彼らの信仰は本当に幼かったですから、モーセは悩みに悩みました。彼らはすぐに神様に背を向けてモーセを困らせました。そして、列王記の時代のエリヤもまた、イスラエルの民の信仰の幼さに悩んでいました。バアルの預言者との大勝負に勝ったことでイスラエルの民は「主こそ神です。主こそ神です」と言いはしましたが、トップのアハブ王とイゼベルが変わらなければ、すぐに元通りの不信仰に戻ってしまうことでしょう。それゆえエリヤは死を願うほど落胆していました。

 そんなエリヤを主は食べ物で力づけて、神の山ホレブへと彼を導きました。私たちも、信仰が周囲から理解されずに落胆するような時には、神の山ホレブに戻りたいと思います。そうして、主の御声に耳を傾けたいと思います。列王記第一19章に戻ります。9節と10節、

9 彼はそこにある洞穴に入り、そこで一夜を過ごした。すると、のことばが彼にあった。主は「エリヤよ、ここで何をしているのか」と言われた。
10 エリヤは答えた。「私は万軍の神、に熱心に仕えました。しかし、イスラエルの子らはあなたとの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうと狙っています。」

 エリヤは、ここでまた主に泣き言を言っています。パン菓子を食べてホレブ山まで40日間歩いて来ることができましたから、体力的には回復していました。でも、精神的にはまだ回復していなかったのですね。そんなエリヤに対して主は言われました。11節と12節、

11 主は言われた。「外に出て、山の上での前に立て。」するとそのとき、が通り過ぎた。の前で激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中にはおられなかった。風の後に地震が起こったが、地震の中にもはおられなかった。
12 地震の後に火があったが、火の中にもはおられなかった。しかし火の後に、かすかな細い声があった。

 主が通り過ぎると激しい大風が吹き荒れました。大風の後には地震が起きました。地震の後には火が燃え上がりました。主は大風を起こし、地震を起こし、火を起こすことができるお方です。でも、その中に主はおられませんでした。

 この場面を改めて読んでいて、私はヨブ記を思い起こしました。ヨブはサタンによって重い病気にされて苦しみ、泣き言を言っていました。そんな泣き言を言うヨブを主は叱りつけて、独特の方法で励ましました。例えばヨブ記40:15(週報p.2)です。

ヨブ記40:15 さあ、河馬を見よ。これはあなたと並べてわたしが造ったもの。牛のように草をはむ。16 見よ。その力は腰にあり、その強さは腹の筋(すじ)にある。

 カバは力に満ちた動物です。ゾウやサイと並んで最強の動物の一つです。この力強いカバのことを、主は「これはあなたと並べてわたしが造ったもの」と仰せられました。(文脈からはいろいろな意味が込められていることが分かりますが、ここだけに注目するなら、)主はヨブに、「わたしはあなたもそんなに弱い者には造っていない」、とおっしゃっているように思います。カバとは違う造り方ですが、「カバのような力強さをわたしはあなたに与えているのだ」と言って励ましているように思います。そうして、泣き言を言っていたヨブの心は強められて行きました。

 カバを造った主は、風も地震も火も起こすことができる力強いお方です。でも、その声は細い声でした。これは、エリヤの心を整えるためでしょう。主は雷のような大きな声で人に語り掛けることもあります。例えば、ヨハネの福音書にはこのようにありますね。ヨハネ12章の28節と29節(週報p.2)、

ヨハネ12:28 父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。」29 そばに立っていてそれを聞いた群衆は、「雷が鳴ったのだ」と言った。

 この時、天の父は大きな声で語りましたから、「雷が鳴ったのだ」と群衆は言いました。でも、エリヤに対してはとても細い声で語り掛けました。それは、エリヤを霊的に整えるためだろうと思います。細い声を聴こうと集中力を高めることで、自ずと霊性が高まります。この細い声を聞いて、13節と14節、

13 エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て洞穴の入り口に立った。すると声がして、こう言った。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」
14 エリヤは答えた。「私は万軍の神、に熱心に仕えました。しかし、イスラエルの子らはあなたとの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうと狙っています。」

 エリヤはなおも泣き言を言い続けました。よほど心のダメージが深かったのだなと思います。

③具体的な新しい命令で再起を促す神様
 でも、主はこのエリヤの泣き言に直接答えることはありませんでした。15節と16節、

15 は彼に言われた。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油を注いで、アラムの王とせよ。
16 また、ニムシの子エフーに油を注いで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラ出身のシャファテの子エリシャに油を注いで、あなたに代わる預言者とせよ。

 主は具体的な新しい命令でエリヤの再起を促し、励ましました。主は憐み深いお方ですが、ヨブの時もそうであったように、弱い人間に同情したりはせずに、独特の方法で励ますお方であると、感じます。

 今のエリヤに必要なことは泣き言に同情することではなく、新しい命令を具体的に与えることだったのですね。

 一方で主は、エリヤに「黙れ」とも言いませんでした。エリヤが泣き言を言いたい時には、そのまま言わせました。エリヤは泣き言を言って、心の中に溜まっていたものを吐き出すことで、心が軽くなったのでしょう。エリヤは働きを再開することができ、19節にあるように後継者のエリシャと出会うことになります。

 きょうは父の日です。きょうの列王記第一19章からは、天の父がどんなお方か、別の一面が見えて、とても興味深く感じます。エリヤはイスラエルの民の不信仰にがっかりして、生きる力さえ無くしましたが、イスラエルの民の不信仰に一番ガッカリしていたのは、天の父でしょう。その不信仰な民を神に立ち返らせるためには、どうしてもエリヤが必要でした。エリヤのこれまでの働きをねぎらって、後は平安に過ごさせることもできたと思いますが、主はまだまだエリヤの働きに期待していました。それは、イスラエルの民を何とか不信仰から立ち返らせるためでした。そうして主は、エリヤに新しい命令を具体的に与えました。

 主は、21世紀の今もきっとガッカリされていることでしょう。ウクライナでは悲惨な戦争の終わりが見えません。世界の先進国では教会離れが進んでいます。日本の教会でも若い人が減って、教会員の高齢化が進んでいます。牧師になる者もいなくて教会の数が減っています。でも主は、あきらめることなく私たちを用いようとされています。私自身も主からの細い声の語り掛けをいくつか受けています。

 例えば、「静岡のパウロ」とも言える、「静岡のクラーク先生」のことがもっと知られるようになることを通じて、聖書の教えがもっと知られるようになることです。いま私は幕末から明治維新に掛けての静岡について少しずつ勉強しているところですが、この時代のことについては一般に知られていないことも多くて、知れば知るほど興味深いことが多いと感じています。クラーク先生は西洋の近代科学を教えながら同時に聖書も教えていましたが、この頃のことを科学と聖書という観点から見たものはほとんど無いように思います。クラーク先生は科学に通じていて、且つ聖書に通じていた人だったという観点から見るなら、まだまだ面白い発見があって、宣教につなげていくことができるかもしれません。

おわりに
 これは一例であり、まだ他にも主は語り掛けていて下さいます。主はエリヤにそうしたように、複数の新しい具体的な命令で私たちに再起を促すお方です。この新しい命令は細い声で与えられますから、私たちは心を整えて、霊性を研ぎ澄まさなければ、その細い声は聞こえて来ないでしょう。この2年間はコロナで伝道活動を控えていますが、心を整える良い機会が与えられているとも言えると思います。

 77年前の終戦後からしばらくの間は、キリスト教会には多くの人々が集っていて、勝利を収めていた時期だと言えるでしょう。その時と比べると今はエリヤがガックリ来た時と同じような状況だと言えるように思います。でも主は、再起を促し、励まして下さるお方ですから、心を整えて、霊性を研ぎ澄ませて、主の細い声での新しい具体的な命令に耳を傾けたいと思います。

 また教会のことだけでなく、今の時代、私たちは個人的にも落胆して力が出ないことも多々あります。でも主は細い声で具体的な指示を与えて励まして下さるお方です。私たちの一人一人が心を整え、霊性を研ぎ澄ませて、主の御声に耳を澄ませたいと思います。

 しばらく、ご一緒にお祈りしましょう。

Ⅰ列王19:15 は彼に言われた。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油を注いで、アラムの王とせよ。
16 また、ニムシの子エフーに油を注いで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラ出身のシャファテの子エリシャに油を注いで、あなたに代わる預言者とせよ。
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民を救うための大掛かりな勝負(2022.6.12 礼拝)

2022-06-13 05:58:36 | 礼拝メッセージ
2022年6月12日礼拝メッセージ
『民を救うための大掛かりな勝負』
【列王記第一18:36~39】

はじめに
 先聖日はペンテコステの日でした。礼拝メッセージではペンテコステの日に弟子たちに聖霊が注がれて、聖霊の力を得たペテロたちが宣教を禁じられても、なお力強くイエス様を宣べ伝えた箇所をご一緒に見ました。そして私たちもまた聖霊を受けていて、聖霊の力をいただいている恵みを分かち合うことができましたから感謝でした。

 さて、その前の週の先々週の礼拝では『聖書の大中小の救いのドラマ』というタイトルで列王記第一の17章を開きました。きょうはその続きです。言葉遣いとして「物語」や「ドラマ」という言葉を使いますが、聖書の物語はフィクションではありませんから、その点はご注意願います。

 先々週も話したように、聖書の物語には大中小のドラマがあって絡み合っています。最も大きなドラマは創世記1章の天地創造から始まって、黙示録21章と22章に至る聖書の壮大な物語です。私たちは全員、この物語の中に入れられています。これは特大のドラマと言えるでしょう。その中に大中小のドラマがあります。大きなドラマと言えば、ノアの洪水や出エジプトの出来事、イエス様の十字架と復活、そして先週のペンテコステの出来事も、もちろん大きなドラマですね。

 一方、先々週ご一緒に見た17章の最後の、ツァレファテのやもめの息子が死んでしまった時にエリヤが主に祈って息子が生き返った話は小さなドラマと言えるでしょう。やもめにとっては大きな出来事でしたが、登場した人物はやもめと息子とエリヤだけでしたから、小規模なドラマです。

 それに対して、きょうの18章は北王国のすべての民の救いが関わっていましたから、これはとても大きなドラマです。きょうのメッセージのタイトルは『民を救うための大掛かりな勝負』としました。中心聖句は18章の37節です。

Ⅰ列王18:37 「私に答えてください。よ、私に答えてください。そうすればこの民は、よ、あなたこそ神であり、あなたが彼らの心を翻してくださったことを知るでしょう。」
 
 「あなたが彼らの心を翻してくださった」とは、「主に背を向けていた彼らの心を主が元に戻して主の方を向くようにして下さった」、ということです。

 そして、きょうは次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①主とバアルの間でよろめいていた民
 ②大飢饉を終わらせた神の激しい大雨
 ③人類全体を救うための御子の十字架

①主とバアルの間でよろめいていた民
 早速、18章の大きなドラマを見て行きたいと思います。1節から見て行きましょう。

Ⅰ列王18:1 かなりの日数を経て、三年目に、次のようなのことばがエリヤにあった。「アハブに会いに行け。わたしはこの地の上に雨を降らせよう。」
2 そこで、エリヤはアハブに会いに出かけた。そのころ、サマリアでは飢饉がひどかった。

 前の17章の段階でも北王国一帯とその周辺では雨が降らなくて、ツァレファテのやもめは死のうとしていたくらいの大飢饉になっていました。それからさらにかなりの日数、雨が降らなかったのですから、もう限界までカラカラになっていたことでしょう。ここで主は、「雨を降らせよう」とおっしゃいました。

 雨が降らないようにしていたのは、主でした。それは北王国のアハブ王がバアルを礼拝していたからでした。バアルは雨を降らせて穀物を豊かに実らせる豊穣の神として信じられていて、アハブ王と妻のイゼベルが崇拝していました。主は、バアルには雨を降らせて穀物を実らせる力など無いことをアハブ王と北王国の民に思い知らせるために、長い間、雨を降らせないでいました。このため北王国のサマリアでは飢饉がひどい状態になりましたから、これはかなり手荒いやり方です。でも、これくらいの荒療治をしなければならないほど、北王国の民の不信仰はひどかったということですね。

 さて、主はただ単に雨を降らせるのでなく、まずエリヤにアハブ王に会いに行くように命じました。それでエリヤは出かけて行きました。途中経過は省いて、17節に飛びます。17節と18節、

17 アハブがエリヤを見るやいなや、アハブは彼に言った。「おまえか、イスラエルにわざわいをもたらす者は。」
18 エリヤは言った。「私はイスラエルにわざわいをもたらしてはいない。あなたとあなたの父の家こそ、そうだ。現に、あなたがたはの命令を捨て、あなたはバアルの神々に従っている。

 あなたの父の家の父とは、天の父ではなくて、アハブ王の父のオムリ王のことです。オムリ王もまた不信仰な悪王でした。アハブはその父の不信仰を受け継ぎ、さらにバアルを礼拝して不信仰を増し加えていました。このオムリとアハブの親子の不信仰がイスラエルに大飢饉の災いをもたらしました。バアルに従うということは、主の命令を捨てるということでした。そしてエリヤは次のように続けました。

19 今、人を遣わして、カルメル山の私のところに、全イスラエル、ならびにイゼベルの食卓に着く、四百五十人のバアルの預言者と四百人のアシェラの預言者を集めなさい。」

 エリヤは全イスラエルを呼ぶようにアハブにいました。そうして、これから始まるバアルの預言者との大勝負を全イスラエルに見せようというわけです。アハブはこれに応じました。20節、

20 そこで、アハブはイスラエルのすべての人々に使者を遣わして、預言者たちをカルメル山に集めた。

 そうしてエリヤは集められた全イスラエルの前に進み出て言いました。

21 「おまえたちは、いつまで、どっちつかずによろめいているのか。もしが神であれば、主に従い、もしバアルが神であれば、バアルに従え。」しかし、民は一言も彼に答えなかった。

 この21節の「民は一言も彼に答えなかった」という文から、北王国の民の信仰がいかに悪い状態にあったかが良く分かります。病気にたとえるなら重症です。彼らの信仰はほとんど死にかけていました。このひどい不信仰は、この勝負の決着がついた時と比べると分かりやすいですから、先回りして39節を見ておきましょう。39節、

39 民はみな、これを見てひれ伏し、「こそ神です。こそ神です」と言った。

 勝負の決着がついた時に民は皆、「主こそ神です」と言いました。しかし、21節の段階では民は本当の神が主であるのかバアルであるのか分からずにいて、よろめいていました。

 この時、約3年間も雨が降らずにいて大飢饉になっていましたから、バアルが神でないことは明らかでした。もしバアルが本当の神であるなら、雨を降らせて穀物を豊かに実らせてくれている筈です。それなのに、イスラエルの民はよろめいていました。王様のアハブがバアルを礼拝していましたから、上に立つ者が不信仰なら民は皆、不信仰になってしまうということなのでしょうね。或いはまた、主が本当の神なら、どうしてこの大飢饉の困難から救って下さらないのか、という思いもあったかもしれませんね。主はどうして、こういう悲惨な状況をお許しになるのか、主は本当にいるのか、という思いもあったかもしれません。

 私たちも時にそう思ってしまうことがあります。震災による津波や、コロナウイルスで多くの方々が亡くなったニュースを見たり、或いはウクライナの人々が戦争でひどい苦しみを受けているニュースを見たりしていると、主はどうしてこのような状況をお許しになるのだろうか、本当に主はいらっしゃるのか、という思いが頭の中をよぎることも、もしかしたらあるかもしれません。

 でも、そういう不信仰に陥りそうになった時、主は預言者を遣わして主に立ち返らせて下さいます。この時代には主はエリヤを召し出しました。ここでエリヤが提案した勝負の方法は、22節以下のことです。22節から24節、

22 そこで、エリヤは民に向かって言った。「私一人がの預言者として残っている。バアルの預言者は四百五十人だ。
23 私たちのために、彼らに二頭の雄牛を用意させよ。彼らに、自分たちで一頭の雄牛を選び、それを切り裂いて薪の上に載せるようにさせよ。火をつけてはならない。私は、もう一頭の雄牛を同じようにし、薪の上に載せて、火をつけずにおく。
24 おまえたちは自分たちの神の名を呼べ。私はの名を呼ぶ。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。」民はみな答えて、「それがよい」と言った。

 どちらの薪の上の牛に火がつくか、それによって勝負を決めようというわけです。民も「それがよい」と言いました。これを全イスラエルの前で行うわけですから、かなりの大勝負です。そして、途中は省略しますが、バアルの預言者たちがいくらバアルの名を呼んでも、火がつくことはありませんでした。これを見て、今度はエリヤが主の名を呼びました。36節と37節、

36 ささげ物を献げるころになると、預言者エリヤは進み出て言った。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのおことばによって私がこれらすべてのことを行ったということが、今日、明らかになりますように。
37 私に答えてください。よ、私に答えてください。そうすればこの民は、よ、あなたこそ神であり、あなたが彼らの心を翻してくださったことを知るでしょう。」

 「彼らの心を翻してくださった」とは、「彼らの心を元に戻してくださった」ということです。すると、

38 すると、の火が降り、全焼のささげ物と薪と石と土を焼き尽くし、溝の水もなめ尽くした。
39 民はみな、これを見てひれ伏し、「こそ神です。こそ神です」と言った。

 こうして、この大勝負の決着がつきました。

②大飢饉を終わらせた神の激しい大雨
 民が皆、「主こそ神です」と言って主に立ち返ったことで、主は恵みの雨を北王国に降らせて下さいました。少し飛ばして45節、

45 しばらくすると、空は濃い雲と風で暗くなり、やがて激しい大雨となった。アハブは車に乗って、イズレエルへ行った。

 この激しい大雨によって北王国の大地は潤いを取り戻しました。やがて、農作物が豊かに実を結び、大飢饉は終わるでしょう。この大飢饉はアハブ王と妻イゼベルの不信仰によってもたらされたものでした。アハブとイゼベルの不信仰は全イスラエルをよろめかせるほどに、人々の心を深くむしばんでいました。

 それゆえ、この激しい大雨は、地上の人間の罪を洗い流した創世記のノアの時代の大洪水を思い起こさせます。ノアの時代、人々は神様から離れて好き勝手なことをして悪に傾いていました。それゆえ神様は大雨を降らせて大地を水で満たして、ノアとノアの家族、そして動物たち一つがいずつを除いて、すべて流してしまいました。

 或いはまた、出エジプト記のモーセの時代に、エジプトを脱出したイスラエルの民を追って来て、海水に流されてしまったファラオの軍勢のことも思い起こします。エジプトを脱出したイスラエルの民は海水が二つに割れて出来た乾いた道を通って向こう岸に歩いて渡ることができました。しかし、そのイスラエルの民を追って海の道に入ったエジプトのファラオの軍勢は、神様が海水を再び元に戻したので、皆流されてしまいました。

 これらのノアの洪水とファラオの軍勢が水に流された出来事から、神様は水によって罪を洗い流すお方であることを教えられます。私たちが教会で洗礼を受ける時に水が使われるのも、その水によって罪の汚れを洗い流すためです。神様の霊の水は汚れた魂をきよめて、渇いた魂に豊かな潤いを与えます。そうして、死んでいた魂に新しい命を与えます。このことに心一杯感謝したいと思います。

③人類全体を救うための御子の十字架
 アハブ王と妻イゼベル、そして北王国の民の不信仰の罪を、神様は激しい大雨で、流して下さいました。神様は北王国の民を不信仰の罪、そして大飢饉の困窮から救うためにエリヤを用いて、全イスラエルの前で大きな勝負を行わせました。そしてエリヤに大勝利を与えてバアルの預言者たちをすべて成敗しました。北王国の民はエリヤとバアルの預言者たちの勝負の結果を見て、39節にあるように「こそ神です。こそ神です」とひれ伏して言いました。

 そうして、これでメデタシ、メデタシとなれば良いのですが、そうは行きませんでした。来週ご一緒に見る予定ですが、エリヤはガックリ来て燃え尽き症候群のようになってしまいました。でも、これはエリヤの時代に限ったことではありませんね。ノアの洪水の後でも、人々は再び悪に傾き始めて神様を敬うことを忘れてバベルの塔を築き始めました。エジプトを脱出した後のイスラエルの民も、海の水が二つに割れるなどのたくさんの奇跡を見て神様を信じましたが、それは一時的なものでした。彼らはまたすぐに神様に背を向けてしまいました。今日ご一緒に見たエリヤの大勝負でも、結局、アハブ王とイゼベルは神様に立ち返ることはありませんでした。

 このことでエリヤはガックリ来て燃え尽き症候群になりますが、一番ガックリ来ているのは神様ではないかと思います。でも神様は燃え尽きることなく、あきらめることなく、何度も何度も私たち人間に救いの手を差し伸べて下さいます。そうして人類全体を救うために、ひとり子の御子イエス様までお与えになりました。これは、大きな方法としては最後の手段です。それまでも神様はノアの洪水、出エジプト、エリヤの大勝負、バビロン捕囚からの解放などによって大きな救いの手段を講じて下さいました。そして、最後の手段としてイエス様を十字架に向かわせました。イエス様の十字架は何度も行えることではありませんから、「ただ一度だけ」のことです。ヘブル人への手紙が、「ただ一度だけ」を強調している通りです(週報p.2)。

ヘブル10:10 イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。(ヘブル人への手紙10:10)

 そうして、私たちはイエス様の十字架によって救われました。私たちは、このことを心一杯感謝したいと思います。

 でも、この世はまだまだ悪に支配されています。ウクライナの悲惨な様子を見るなら、それは明らかです。この3ヶ月半の間、ウクライナの悲惨な戦争の現場の報道を見ない日はありません。ロシアとウクライナの戦争が始まる前から、この世が悪に支配されていることは分かっていましたが、この戦争が始まったことで私たちは改めて、この世が悪に支配されていることを思い知らされています。

 イエス様が「だた一度だけ」十字架に掛かって罪の問題は解決された筈なのに、なぜなんでしょうか?それは神様と私たち人間の間の問題は解決しましたが、まだ神様と悪魔との対決が残っているからなのでしょう。

 この礼拝説教で私はよく黙示録21章と22章のみことばを引用しますが、その直前の黙示録20章で悪魔が退治されます。現代は未だこの黙示録20章に至っていないので、この世が悪に支配されてしまっています。でも、やがて悪魔が退治される時が来ます。黙示録20章10節です(週報p.2)。

黙示録20:10 彼らを惑わした悪魔は火と硫黄の池に投げ込まれた。

 これもまた、とても大きなドラマです。そうして、21章の新天新地の創造の時が来ます。きょうもまた、黙示録の21章を引用します。1節、

黙示録21:1 また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

 「もはや海もない」というのは、もはや洗い流すべき罪が無いということです。神様は創世記のノアの時代と出エジプト記のモーセの時代に大水によって罪を洗い流しましたが、新しい天と新しい地、すなわち新天新地にはもはや洗い流すべき罪はありませんから、もはや海もありません。そうして4節、

4 神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。

 私たちは、この神様の壮大なドラマの中に入れられています。ですから、どんなに大変なこと、苦しいこと、悲しいことがあっても、やがての時にはすべて、ぬぐい去って下さいます。日々の暮らしでは様々な苦労がありますが、私たちはこの素晴らしい恵みの中に既に入れられていますから、へこたれることなく、イエス様と共に歩んで行きたいと思います。

おわりに
 最後にもう一度、きょうの中心聖句の列王記第一18章37節を見ましょう。

Ⅰ列王18:37 「私に答えてください。よ、私に答えてください。そうすればこの民は、よ、あなたこそ神であり、あなたが彼らの心を翻してくださったことを知るでしょう。」

 神様はエリヤを用いて、不信仰に陥っていた北王国の民を救いました。そして神様はイエス様を十字架に送って、不信仰に陥っていた私たちを救い出して下さいました。このことに、心一杯感謝したいと思います。感謝しながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。
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聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語る(2022.6.5 ペンテコステ礼拝)

2022-06-06 03:43:14 | 礼拝メッセージ
2022年6月5日ペンテコステ礼拝メッセージ
『聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語る』
【使徒4:23~31】

はじめに
 聖書交読でご一緒に読んだ使徒の働き2章にあるように、五旬節・ペンテコステの日に弟子たちに聖霊が注がれました。そうして聖霊に満たされたペテロたちは大胆に神のことばを語り始めました。使徒の働き1章8節でイエス様がおっしゃった通りです。使徒1章8節でイエス様はこのようにおっしゃいました。

使徒1:8 「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」

 イエス様は、「あなたがたは力を受けます」とおっしゃいました。このことばの通りに力を受けたペテロたちは力強く大胆に神のことばを語り始めました。聖霊には様々な働きがあります。去年の夏から秋に掛けての「最後の晩餐」でのイエス様の説教のシリーズでは、聖霊は助け主であることを学びました。助け主である聖霊は私たちにすべてのことを教え、イエス様が弟子たちに話したすべてのことを私たちも思い巡らすことができるようにしてくださいます。

 また聖霊は、私たちの心の内にある罪をきよめて下さいます。この世は様々な罪で汚れていますから、その中で日常を生きる私たちもすぐにその罪を心の内に取り込んでしまいます。それらの罪を聖霊はきよめて下さり、私たちが悪に傾くのを防いで下さいます。また聖霊は私たちの心に永遠を与えて下さり、永遠の中におられる神様を感じることができるようにして下さいます。

 そうして聖霊は私たちにイエス様を証しする力を与えて下さいます。この聖霊の力によって私たちは大胆にイエス様を証しすることができます。このように聖霊には様々な働きがありますが、きょうはこの、イエス様を大胆に証しする力を与えて下さる聖霊の働きについて、ご一緒に分かち合いたいと思います。

 きょうの中心聖句は使徒の働き4章31節です。

使徒4:31 彼らが祈り終えると、集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した。

 そして、きょうは次の3つのパートで話を進めます。

 ①宣教を禁じられても大胆に語った使徒
 ②明治の静岡で大胆に宣教した先人たち
 ③平和な静岡で神のことばを大胆に語る

①宣教を禁じられても大胆に語った使徒
 使徒の働き1章8節でイエス様は弟子たちに「あなたがたは力を受けます」とおっしゃいました。その、聖霊が与える力がどんな力だったのかは、ペンテコステの日以降にペテロたちが力強くイエス様を証しした様子から分かると思います。きょうの聖書交読で、ご一緒に読んだ使徒2章にあるように、ペテロたちは集まって来た人たちに力強く呼び掛けました。使徒2章14節です。

使徒2:14 ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々に語りかけた。「ユダヤの皆さん、ならびにエルサレムに住むすべての皆さん、あなたがたにこのことを知っていただきたい。私のことばに耳を傾けていただきたい。

 ここには、ペテロたちが「声を張り上げ」と書いてあります。このわずか50日ちょっと前の、イエス様が祭司長たちに捕らえられて裁判にかけられようとしていた時、ペテロはこそこそと様子を見に行きました。そして、ペテロに気付いた人から「この人はイエスと一緒にいました」と言われた時、「そんな人は知らない」とペテロは言いました。自分はイエスとは関係ない、そんな人は知らないと言い張りました。それは、自分も捕らえられることを恐れたからですね。そして、その後も見つからないように仲間たちと隠れ家のような所に閉じこもり、入口の戸にも鍵を掛けて息を潜めていました。

 そんな風にこそこそと隠れていたペテロたちが、聖霊に力を与えられたことで、声を張り上げて「ユダヤの皆さん、ならびにエルサレムに住むすべての皆さん」と力強く呼び掛けるまでに強められました。これが聖霊の力です。

 そして、この少し後にペテロとヨハネは祭司たちに捕らえられてしまいますが、それでもへこたれることはありませんでした。そのことが4章に書かれています。4章の1節から3節まで、

使徒4:1 ペテロとヨハネが民に話していると、祭司たち、宮の守衛長、サドカイ人たちが二人のところにやって来た。
2 彼らは、二人が民を教え、イエスを例にあげて死者の中からの復活を宣べ伝えていることに苛立ち、
3 二人に手をかけて捕らえた。そして、翌日まで留置することにした。すでに夕方だったからである。

 こうして、ペテロとヨハネはイエス様を宣べ伝えたことで捕らえられてしまいました。そしてユダヤ人の指導者たちは、二人をどうするか話し合いました。16節から18節まで、

16 「あの者たちをどうしようか。あの者たちによって著しいしるしが行われたことは、エルサレムのすべての住民に知れ渡っていて、われわれはそれを否定しようもない。
17 しかし、これ以上民の間に広まらないように、今後だれにもこの名によって語ってはならない、と彼らを脅しておこう。」
18 そこで、彼らは二人を呼んで、イエスの名によって語ることも教えることも、いっさいしてはならないと命じた。

 ペテロとヨハネは、これ以上イエス様のことを宣べ伝えてはならないとユダヤ人の指導者たちに命令され、脅されました。それでも、ペテロたちはめげませんでした。きょうの聖書箇所の4章23節と24節、

23 さて、釈放された二人は仲間のところに行き、祭司長たちや長老たちが彼らに言ったことを残らず報告した。
24 これを聞いた人々は心を一つにして、神に向かって声をあげた。「主よ。あなたは天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造られた方です。

 24節で使徒たちは祈り始めました。そして25節と26節で詩篇2篇を引用して、27節以下では、詩篇2篇の状況が今まさに起きているのだと使徒たちが感じていたことが分かります。まず25節と26節、

25 あなたは聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの父であるダビデの口を通して、こう言われました。『なぜ、異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの国民はむなしいことを企むのか。
26 地の王たちは立ち構え、君主たちは相ともに集まるのか、主と、主に油注がれた者に対して。』

 当時のユダヤを統治していたのは異邦人のヘロデ王とローマ帝国から派遣されていた総督のポンティオ・ピラトたちでした。27節以下で、そのことに言及します。27節と28節、

27 事実、ヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人たちやイスラエルの民とともに、あなたが油を注がれた、あなたの聖なるしもべイエスに逆らってこの都に集まり、
28 あなたの御手とご計画によって、起こるように前もって定められていたことすべてを行いました。

 つまり、ペテロたちにとって今起きていることは、詩篇2篇のダビデの時代から預言されていたことだと、彼らは理解していたのですね。この4章の出来事に先立ってペテロは2章の説教では、ヨエル書を引用していますから、今の状況はヨエルの時代からも預言されていたことだとも理解していました。このように、ペテロたちは、すべてが旧約聖書の時代に預言されていたことであり、今まさにそのことが成就しているのだと理解していました。

 こういう、神様の大きな計画の中で小さな自分たちが用いられていることを自覚する時、不思議と力がみなぎって来ます。これが聖霊の力だと言えるでしょう。聖霊は父・子・聖霊の三位一体の神様であり、創世記1章と2章の天地創造の時から父と御子と共にいて、黙示録21章と22章の新天新地の創造の時へと人類全体を導いています。私たちの一人一人はとても小さな人間ですが、神様の壮大なご計画の中に小さな自分も入れられて用いられていることを感じる時、不思議と大きな力が湧いて来ます。ペテロたちもこの聖霊の力によって強められ、励まされていました。29節と30節、

29 主よ。今、彼らの脅(おびや)かしをご覧になって、しもべたちにあなたのみことばを大胆に語らせてください。
30 また、御手を伸ばし、あなたの聖なるしもべイエスの名によって、癒やしとしるしと不思議を行わせてください。」

 「脅かし」とは「脅し」ですね。二度とイエスについて語ってはならない、語ったら今度こそ只では済まないぞ、と彼らは脅されていましたが、少しもめげずに彼らは聖霊に満たされて、神のことばを大胆に語り出しました。31節です。

31 彼らが祈り終えると、集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した。

 私たちの一人一人はとても小さな人間です。でも、そんな小さな私でも神様の壮大なご計画の中に入れられて用いられていることを感じる時、人は聖霊によって強められて、力強く大胆に働くことができるようになります。

②明治の静岡で大胆に宣教した先人たち
 きょうも静岡のE.W.クラーク先生について話させていただきたいと思います。静岡のクラーク先生もまた聖霊に満たされ、聖霊によって力を与えられて大胆に静岡の人々に向けてイエス様を宣べ伝えた一人でした。

 クラーク先生がアメリカから船で来日して横浜にいた時、静岡学問所の教師として働く契約書の中に、キリスト教を布教してはならない、また宗教上の議論をしてはならないという項目が含まれていることにクラーク先生は気付きました。宣教を禁止されていたという意味では、ペテロたちの状況に似ていますね。クラーク先生がアメリカ帰国後に書いた本の『日本滞在記』で、この時のことをクラーク先生は次のように書いています。

 三年間の契約書は、長文の13条から成り、漢文、日本文、英文の三通りのものが、三冊の堂々たる書物になっていた。その契約書に署名せんとした時、キリスト教の宣教を禁止し、三年間もわたしに宗教上の問題について沈黙を守ることを命ずる箇条が、内閣によって巧みに挿入されていることに気づいた。いろいろの理由から、わたしもそれを承認しようとも思ったし、友人達の中にも、そのままで署名するよう勧告する人々もあった。通訳は「署名なさい。(静岡の)田舎へ行ってしまえば、そんな契約は破って、あなたのお好きなことを教えられますよ」といった。「署名なさい。さもないと月三百ドルがふいになりますよ」といった人々もあった。(一部改変、E.W.クラーク『日本滞在記』飯田宏訳p.8)

 月300ドルの月給は今なら月300万円ぐらいだそうです。当時のお雇い外国人は破格の待遇で迎え入れられていたのですね。もし契約書に署名しなければ、この月給の300万円の収入が得られなくなります。それだけではありません。クラーク先生は静岡で科学を教えるのに備えて、高額の実験器具などを多数購入し、また日本への渡航費用などで与えられていた準備金を使い果たしてしまっていましたから、この先どうやって生活したら良いか、すぐに困ってしまう状況にありました。だから友人たちは、契約書に署名して、静岡に行ったらこっそり聖書を教えればいいじゃないか、と勧めました。

 クラーク先生も、そうした方が良いかもしれないと悩みました。でも、契約書には署名しない決心をしました。『日本滞在記』でクラーク先生は続いて、次のように書いています。

 それは大きなジレンマだった。わたしは、日本に来るためと、内地への旅行の準備のために、金は全部消費してしまっていたので、契約が不成立になると全くひっ迫した状態に陥るのだった。それでもわたしは、今や危機に面した正義の立場に断固として立つ決心をした。そして、この不都合な箇条を撤回しなければ、契約を承認できないと、政府へ申し送り、「キリスト教徒が、三年間も異教徒の中に生活して、自分の心に最も密接な問題に完全な沈黙を守ることは不可能だ」と付け加えた。

 すると、事態が急変しました。引用を続けます。クラーク先生はさらにこう書いています。

 意外にも、三日後にとどいた返書には、キリスト教禁止の箇条を削除すると述べられていた。返書をもたらした使者も、「あなたの勝利でした。あなたは、日本の頑丈な壁を打ち破られたのです。もう聖書とキリスト教を日本人に教えることも出来ます」と言った。

 このことをここに述べたのは、どんな犠牲を払っても、正しいことを固く守ることは無駄ではないことを示すためである。それというのも、日本の役人達が、わたしを軽視したり、わたしの頑固さに立腹することもなく、前以上に好意的で、わたしの示した勇気を尊敬したからである。(『日本滞在記』p.8-9)

 引用はここまでにします。クラーク先生は、禁教の壁に正面から正々堂々と挑んで突破することができました。このことの裏には、クラーク先生を静岡に招聘した勝海舟らの影の力が働いていたのではないかと言われています。当時、勝海舟は徳川慶喜と共に静岡に来ていて、クラーク先生を招聘したのは海舟でした。勝海舟は中央の政府とも強いつながりがありましたから、裏で動いたのではないかと言われています。

 でも、裏で本当に動いていたのは神様ですよね。神様が聖霊を通して当時まだ22歳だった若いクラーク先生に力を与え、さらに神様が勝海舟らを動かして、静岡に聖書の教えが伝えられるようにして下さいました。そうして、クラーク先生によって静岡の地に福音の種が蒔かれて、そこから今の日本基督教団の静岡教会が誕生し、英和女学院も設立されました。そういう土壌の中でホーリネス教団の静岡教会もでき、松村導男先生が先ずはホーリネス教会で働きを始めて、この田町の地に教会ができて、戦後はインマヌエルの教会となって、イエス様の教えが宣べ伝えられ続けています。

 神様がクラーク先生を通して静岡の地に福音の種蒔きをしたという大きな働きの中に、今の私たちも入れられて、用いられています。この大きな働きの中に小さな私たちも入れられて用いられていることを思う時、聖霊が大きな力を私たちに与えて下さっていることを感じます。そして聖霊は皆さんのお一人お一人にももちろん、大きな力を与えて下さっています。

③平和な静岡で神のことばを大胆に語る
 クラーク先生が日本にいたのは約3年半です。静岡に約2年いて、あとの1年半は東京にいました。東京では東京大学の前身の開成学校で教えていました。クラーク先生はずっと静岡で教えていたかったのですが、明治政府の方針で教育機関を東京に集中することになり、静岡学問所はなくなってしまったからです。クラーク先生は、この教育の中央集権化に強く反対しましたが、聞き入れられませんでした。このことはまた、別の機会にお話したいと思います。

 クラーク先生が静岡を強く愛していたことは、アメリカ帰国後に購入したフロリダの農園に「Shidzuoka」という名前を付けたことからも分かります。クラーク先生は東京よりも静岡の方を遥かに強く愛していたんですね。

 これは私の想像ですが、当時の東京は新橋~横浜間の鉄道が開通したりして、目まぐるしく変化していたのに対して、静岡はとても落ち着いていて、平和な雰囲気があったからではないかと思います。徳川慶喜も約30年間静岡に滞在して、その間、表舞台には一切出ずに趣味に没頭していました。そうせざるを得ない状況にあったことにもよりますが、徳川慶喜という非常に英明で優れた人物が30年間も趣味に没頭できたのは、それだけ静岡が平和であったからではないでしょうか。

 2013年に駅前の静岡美術館で徳川慶喜の没後百年展が開催されていたので、私も実家に来た際に観ました。そして慶喜が描いた油絵や、慶喜が撮った写真を興味深く観ました。慶喜が撮った静岡の風景写真はたくさん残っていて、静岡ののんびりした風景が多かったように思います。今でもそうですが、明治の静岡も、とても平和だったんですね。第二次世界大戦中は静岡も空襲に遭って大変な時期ももちろんありましたが、静岡市は気候も温暖で、あまり大きな企業もなく、あまり有名な観光地もなく、のんびりした平和な所だと思います。

 この静岡の平和は、神様が与えて下さっている、とても大きな祝福ではないでしょうか。この平和な静岡で小さな私たちは神様の大きなご計画に入れられて、聖霊によって力と励ましを受けながら、それぞれに用いられています。この大きな祝福と大きな力を感じながら日々を生きるなら、あまり小さなことを心配しなくても良いのだと思います。

 私たちは小さな自分がこの先どうなるのか、とても心配します。小さな家族がどうなるのかも、もちろんとても心配しています。この小さな教会がどうなるのかも、とても心配しています。教団の小さくなった神学校の将来も心配しています。でも私たちが小さくても神様は大きなお方です。大きな神様が大きなご計画を動かしておられて、今は新しい天と新しい地、すなわち新天新地の創造の時へと向かっています。そのことを思うなら先のことはあまり心配せずに、ペテロたちのように、そして静岡のクラーク先生のように、大胆に神様のことばを語って行けば良いのだと思います。

おわりに
 ペテロたちはユダヤ人の指導者たちにイエス様を宣べ伝えることを禁じられましたが、大胆に神のことばを語りました。クラーク先生は、明治政府によってキリスト教の宣教を禁じられましたが、堂々と正面突破しました。私たちは、禁じられているわけではありませんが、少子化やコロナ禍や失われた30年の低調さの中で前進が阻まれています。でも、神様はペテロたちやクラーク先生たちの前進を励まし、力を与えて下さいましたから、私たちも神様は大きな力を与えて下さるお方であることを信じて、大胆に神様のことばを語り伝えて行きたいと思います。

 ペンテコステの日のきょう、神様は聖霊によって力を与えて下さる方であることに改めて思いを巡らして、平和が与えられているこの静岡の地で、力強く前進して行きたいと思います。しばらく、ご一緒にお祈りしましょう。

使徒4:31 彼らが祈り終えると、集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した。
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聖書の大中小の救いのドラマ(2022.5.29 礼拝)

2022-05-30 08:42:06 | 礼拝メッセージ
2022年5月29日礼拝メッセージ
『聖書の大中小の救いのドラマ』
【列王記第一17:17~24】

はじめに
 きょうの聖書箇所の、17節に出て来る女主人とは、先週ご一緒に見たツァレファテのやもめのことです。ツァレファテのやもめは、エリヤの求めに応じて、残っている最後の粉と油を使ってエリヤのためにパン菓子を作り、エリヤの所に持って行きました。主に献げることを最優先したこのやもめを主は祝福して、この後、かめの粉と壺の油は尽きることがありませんでした。

 そして、きょうの箇所では、このやもめの息子が病気になって死んでしまいました。しかし、エリヤが主に懸命に祈ったことで、主はこの息子を死からよみがえらせて下さいました。また、まだ礼拝では開いていませんが、次の18章でエリヤは、アハブ王と全イスラエルの前で450人のバアルの預言者と400人のアシェラの預言者と対決をします。この対決にはイスラエル民族全体の救いが掛かっていました。

 これらを見る時、聖書とは大中小の救いのドラマが絡まり合ってできている書物である、ということが見えて来ます。そして、そのことに深い感動を覚えます。きょうは、そういう、聖書は大中小の救いのドラマが絡み合って出来た書物であるという観点から、私たち一人一人の救いのことから、世界全体の救いという大きなことにまで思いを巡らしてみたいと思います。

 きょうの中心聖句は、列王記第一17章の24節です。

Ⅰ列王17:24 その女はエリヤに言った。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にあるのことばが真実であることを知りました。」

 このやもめの信仰告白は、私たちの信仰告白でもあると思います。私たちは毎週、使徒信条を告白しますね。それと同じです。私たちは神様の恵みをつい忘れてしまうことが良くあると思います。それゆえ、毎週、使徒信条の告白を繰り返します。父なる神が天地を創造した全能の神であることから始めて、三位一体の神、教会のこと、永遠の命のことまで私たちの信仰の全般に亘って信仰告白をします。それは、小さな事ばかりを見ていると、聖書全体を大きく見る視点を失って、つい神様に文句を言ってしまうようなこともあるから、とも言えるでしょう。きょうは、そういうことも含めて、ご一緒に思いを巡らしたいと願っています。きょうは次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①大中小の救いの記事が絡まっている聖書
 ②息子を復活させる神が悪い時代を救う
 ③何度でも繰り返す必要がある信仰告白

①大中小の救いの記事が絡まっている聖書
 聖書は大中小のドラマが絡み合ってできている書物です。でも、それは小説やテレビドラマ、映画などでも同じですね。今放送されている大河ドラマの『鎌倉殿の13人』も、伊豆の小さな豪族に過ぎなかった北条氏が源頼朝を支えるようになったことで力を得て、やがて北条氏が源氏に替わって鎌倉幕府を治めるという大きなドラマの中で動いていますが、その中にも源氏と平家の対決というかなり大きなドラマがあり、その他にも源氏の内部抗争で木曽義仲が討たれてしまったことや、頼朝と義経の兄弟の仲たがいによって義経が討たれてしまったことなど、大中小のドラマが絡まり合っています。

 朝ドラの話も少しさせてもらいます。私は4月の第1週まで放送されていた『カムカムエヴリバディ』が大好きでした。私の中の朝ドラ・ランキングで、この『カムカム』は第1位になりました。『カムカムエヴリバディ』は、1925年に始まったラジオ放送のことが太い柱になっていました。ラジオ放送の100年の歴史という大きなドラマがあり、そのラジオ放送を聞く各家庭の中の小さなドラマとが絡まり合うという形になっていました。

ラジオ放送で一番有名なのは、1945年8月15日の終戦の日のいわゆる玉音放送でしょう。それも、もちろん取り入れられていました。さらに、この大きなドラマと家庭の小さなドラマとの絡まりの中に立つ太い柱として、ラジオ英語講座がありました。そして、もう一つの柱としては、浜村淳さんがDJ役を務める音楽番組がありました。

 『カムカム』の放送の最後の週での浜村淳さんの音楽番組は圧巻でした。この朝ドラは三代のヒロインがリレー形式でラジオ放送の100年の物語を紡いでいましたが、最後の週の浜村淳さんの番組では、初代のヒロインの安子がゲスト出演していて、生き別れになった娘のるいに「るい、るい」と呼び掛けていました。その呼び掛けを二代目のヒロインのるいと三代目のヒロインのひなたが聴いているという、涙なしには見られない感動的なドラマがありました。この『カムカムエヴリバディ』も、大中小のドラマが絡み合った優れたドラマだったと思います。

 聖書もまさに大中小のドラマが絡み合っています。ドラマと言ってもフィクションではなくて、実際の話です。聖書の一番大きなドラマは、天地創造から始まります。

 神様が創造した天地万物のすべては非常に良かったのですが、アダムとエバに入った罪によって人は罪の中を歩むようになります。そうして旧約の時代の人々の心は神様からどんどん離れて行きました。しかし、そこに神の御子イエス様が天から地上に遣わされて十字架に掛かって死に、罪の問題が解決する方向へと方向転換が為されました。イエス様は死んだ3日目によみがえり、そのまた50日目のペンテコステの日に弟子たちに聖霊が注がれて、新約の時代が始まり、いま私たちはその新約の時代の中で新天新地の創造の時へと向かっています。これが聖書全体の大きなドラマであり、その中に中小のドラマがたくさんあります。再来週開く予定のエリヤとバアルの預言者たちとの対決は中でもかなり大きなドラマです。(来週は新約聖書の使徒の働きを開く予定)。

そして、きょうのやもめの息子のよみがえりの記事は、小さなドラマと言えるでしょう。やもめ個人にとっては、もちろん大きなドラマですが、聖書全体の中にあっては、小さなドラマです。でも、小さくても、とても大事な記事です。
 
②息子を復活させる神が悪い時代を救う
 きょうの聖書箇所を見ましょう。列王記第一17章17節、

Ⅰ列王17:17 これらのことの後、この家の女主人の息子が病気になった。その子の病気は非常に重くなり、ついに息を引き取った。

 「これらのこと」というのは、先週ご一緒に見た、ツァレファテのやもめが最後に残った粉と油で作ったパン菓子を神様に献げたことで、やもめが豊かに祝福されたことです。エリヤはカラスに養われる生活をするほど全てを神様に明け渡して神様と一つになっていました。ですから、エリヤのためにパン菓子を作るということは神様にパン菓子を献げるということです。雨が降らない干ばつのために、やもめにはもう粉と油がほんの少ししか残っておらず、その最後の食料を食べてしまったら、後は死ぬしかありませんでした。その最後の食べ物を神様に献げたことで、やもめは神様に祝福されました。さてしかし、その後で不幸がやもめを襲い、この17節で彼女の息子が病気で死んでしまいました。続いて18節、

18 彼女はエリヤに言った。「神の人よ、あなたはいったい私に何をしようとされるのですか。あなたは私の咎を思い起こさせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。」

 こう言いたくなる彼女の気持ちはよく分かりますね。この18節のことは3番目のパートでまた見ることにして、19節へ進みます。

19 彼は「あなたの息子を渡しなさい」と彼女に言って、その子を彼女の懐から受け取り、彼が泊まっていた屋上の部屋に抱えて上がり、その子を自分の寝床の上に寝かせた。

 この19節は、母の日の礼拝で見た、シュネムの女の箇所を思い出します。シュネムの女の息子が死んでしまった時、エリシャはシュネムの女の家の屋上の部屋で祈り、息子に自分の身を重ねました。すると、息子は生き返りました。その時のエリシャは叫ぶことはなかったようですが、エリヤは叫んだと次の20節と21節は記しています。

20 彼はに叫んで祈った。「私の神、よ。私が世話になっている、このやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか。」
21 そして、彼は三度その子の上に身を伏せて、に叫んで祈った。「私の神、よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに戻してください。」

 この20節と21節を読んで「すごいなあ」と感じるのは、エリヤがやもめと一つになっていることです。前回の場面ではエリヤは神様と一つになっていました。カラスに養われるほど自分を捨てて、すべてを神様に明け渡して神様と一つになっていました。そうして、エリヤは、やもめに自分のためにパン菓子を作るように言いました。この時のエリヤは神様の側にいました。しかし、きょうの箇所のエリヤは完全にやもめの側にいて、やもめの代わりに神様に叫び、祈りました。

 この、やもめの側に立ったエリヤの姿からは、イエス様の十字架のことを思います。イエス様は神の御子であるにも関わらず、完全に私たちの側に立って下さり、私たちの代わりに十字架に掛かって下さいました。本来なら神様に背いていた私たちが十字架に掛からなければならない筈でした。でも、イエス様は私たちの側に立って下さり、私たちの代わりに十字架に掛かって下さいました。

 列王記のこの時のエリヤもやもめの側に立ち、やもめの代わりに叫び、神様に祈りました。

20 「私の神、よ。私が世話になっている、このやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか。」
21 「私の神、よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに戻してください。」

 エリヤは懸命に祈りました。すると22節、

22 はエリヤの願いを聞かれたので、子どものいのちがその子のうちに戻り、その子は生き返った。

 主はやもめの息子を死から復活させて生き返らせました。主は死んだ人でもよみがえらせる力を持つお方です。それは、主こそが、人の命を造ったお方だからですね。命を造ったお方ですから、主は死んだ人の命もよみがえらせることができます。

 イエス様の復活も同じですね。十字架で死んだイエス様を主は三日目によみがえらせました。人の命を造ったお方である主は、十字架で死んだイエス様も生き返らせることができました。

 このイエス様の復活を信じるかどうかは、聖書全体の大きなドラマを信じる信仰があるかが問われているのだろうと思います。私たち福音派のクリスチャンと違って、聖書全体を信じないクリスチャンもいて、イエス様の復活のことも信じないクリスチャンもまたたくさんいます。聖書全体の大きなドラマを信じないと、そうなってしまうのだろうと思います。神様は天地万物と命のすべてをお造りになりました。宇宙の星も地球も、地球上のあらゆる生物の命もお造りになりました。この全能の神の力をもってすれば、死んだイエス様をよみがえらせることなど、たやすいことでしょう。神様はゼロから始めて命をお造りになった方ですから、少し前まで生きていた命をよみがえらせることは、ゼロから造るよりも遥かにたやすいことでしょう。

 今はとても悪い時代です。この列王記のシリーズに入って何度も言っていますが、2020年代の今は、いつ終わるか分からないコロナ禍があり、また第三次世界大戦にもつながりかねない悲惨な戦争があり、温暖化によって大型化した台風や豪雨の災害などがある、とても悪い時代です。しかし、全能の神はこの悪い時代を変える力を持っておられます。それは聖書全体の神様の壮大な救いのドラマの観点から見れば明らかですから、私たちは揺るぎない信仰を持って神様に信頼を置いて、良い時代が必ず来ることを信じて、日々歩んで行きたいと思います。

③何度でも繰り返す必要がある信仰告白
 最後の3番目のパートに進みます。23節と24節、

23 エリヤはその子を抱いて、屋上の部屋から家の中に下りて、その子の母親に渡した。エリヤは言った。「ご覧なさい。あなたの息子は生きています。」
24 その女はエリヤに言った。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にあるのことばが真実であることを知りました。」

 この24節の、やもめの信仰告白には、「オヤッ~?」という感じがします。

24 「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にあるのことばが真実であることを知りました。」

 じゃあ、エリヤのために最後の粉と油でパン菓子を作って献げた時は、まだ、ここまでの信仰を持っていなかったのでしょうか?そんなことはないと思います。パン菓子の時も、このしっかりとした信仰を持っていた筈だと思います。エリヤが神の人であり、エリヤの口にある主のことばが真実であると信じたからこそ、やもめは自分が食べるつもりだった粉と油でパン菓子を作ってエリヤのところに持って行ったのだと思います。

 でも、人の信仰は不安定ですから、ふらつくこともあります。それが18節のことばとなって表れたように思います。

18 「神の人よ、あなたはいったい私に何をしようとされるのですか。あなたは私の咎を思い起こさせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。」

 私たちも同じでしょう。イエス様は神の子キリストであると信じて、固い信仰を持っているつもりでも、やもめのような深刻な事態に直面した時には18節のようなことばを神に向かって叫んでしまうようなことがあります。でも、きっとそんな時は、神様の大きな救いのドラマを忘れていて、自分の小さな範囲のことしか考えられなくなっている時だろうと思います。

 だから私たちはいつも使徒信条を告白して、神様の大きなドラマのことを片時も忘れないでいる必要があるだろうと思います。神様は全知全能のお方であり、天地万物をお造りになったお方です。その全能の神様に旧約の時代の人々はアダムとエバに始まって、ほとんどの場合、神様に背を向けていました。

 その罪を赦すためにイエス様は十字架に掛かって下さり、新約の時代の中で私たちは今、新天新地の創造へと向かっています。そういう大きなドラマの流れの中に自分が入れられていると自覚するなら、たとえ小さなドラマの中で激しく翻弄されても、大きなドラマの中にどっぷり浸かっているなら、信仰は固く保たれることでしょう。なぜなら私たちの最終目的地は新天新地だからです。日々の小さな生活の中で激しく翻弄されたとしても、最終目的地の新天新地がしっかりと見えているなら、信仰から離れて行くことはないでしょう。

 最終目的地がしっかりと見えているということは、永遠の命の中に既に入れられているということだからです。最終目的地は天の御国であると言っても構わないのですが、新天新地のほうが黙示録にはっきりと情景が書かれています。ですから、情景を思い浮かべやすい新天新地の方を私自身は最終目的地として思い描いています。そうして、地上にいながらにして、既に永遠の命の中に入れられていることを感謝しています。
 もう何度も引用していますが、新天新地のことが書かれている黙示録21章の冒頭の4節、1節から4節までをお読みします(週報p.2)。

黙示録21:1 また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。
3 私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
4 神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」

 私たちは、この壮大な救いのドラマの中に入れられていることを、忘れないでいたいと思います。そうすれば、たとえ身の回りの小さなドラマに激しく翻弄されても、神様から離れることはないでしょう。

おわりに
 来週はペンテコステの日です。ペンテコステの日に弟子たちに聖霊が注がれました。そうして私たちもまたイエス様を信じるなら誰でも聖霊を受けることができるようになりました。これは聖書の壮大な救いのドラマの中でも特に重要な出来事です。聖霊が内にいて下さるので、私たちは絶えずイエス様からの励ましを内から受けることができます。

 でも聖書全体の大きなドラマを見失うなら、日々の生活に翻弄されて神様から目が離れてしまうこともあるかもしれません。ですから私たちは、毎週、礼拝に出席して使徒信条を告白して、私たちの信仰を確認したいと思います。そうして、絶えずツァレファテのやもめの24節のような信仰告白ができる者たちでありたいと思います。しばらく、ご一緒にお祈りしましょう。
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悪い時代の生き方(2022.5.22 礼拝)

2022-05-23 08:59:50 | 礼拝メッセージ
2022年5月22日礼拝メッセージ
『悪い時代の生き方』
【列王記第一17:8~16】

はじめに
 きょうの聖書箇所のツァレファテのやもめの記事は、去年の礼拝の説教でも開きましたが、その時はやもめの信仰に注目しました。きょうはエリヤがとても悪い時代に召し出された預言者であるという観点から、この箇所を見たいと願っています。

 先週のBTC(聖宣神学院)創立記念礼拝では、後輩のエリシャが先輩のエリヤの預言者の職務を引き継いだ箇所をご一緒に見ました。エリシャの時代は、エリヤの悪い時代がさらに悪くなろうとしている時代でした。そういう、世の中がますます悪くなる時代に主はエリシャという次の世代を担う預言者を備えていて下さり、召し出しました。

 2020年代の現代も、とても悪い時代です。21世紀の最初の20年も悪かったですが、2020年から始まったコロナ禍はいつ終息するのか見通しが立たず、そうこうしている間にロシアがウクライナに軍事侵攻して滅茶苦茶なことをしています。温暖化による豪雨や台風の脅威も増し続けています。こういう悪い時代に、いまキリスト教会では次世代を担う牧師が不足しています。この春、BTCは入学者がありませんでした。しかし、悪い時代だからこそ、主がエリシャを召し出したように、現代においても主は次世代を担う牧師を必ず備えていて下さることを信じて、祈り求めて行きたい、そういう話を先週はしました。

 その先週の説教の準備をしている時、このエリヤとエリシャの時代がどれくらい悪い時代であったかを、もう少し詳しく皆さんと分かち合いたいと思いました。先週の説教では、エリヤからエリシャへの引き継ぎに注目しましたから、この時代がどれぐらい悪い時代であったかを、まだ少ししか見ていません。これから何回かエリヤとエリシャの箇所を開きながら、この時代がどれほど悪い時代であったかをご一緒に見て、また、こういう時代に主はエリヤとエリヤを召し出したことを見て、現代の悪い時代を生きる私たちの励みにしたいと思います。

 きょうの中心聖句は列王記第一17章13節です。

Ⅰ列王17:13 エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。その後で、あなたとあなたの子どものために作りなさい。」

 そして、きょうは次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①北王国の不信仰の始祖のヤロブアム王
 ②悪い王の不信仰の下で苦しむ一般庶民
 ③主に全てを明け渡して悪い時代を生きる
  (主と一つにされて悪い時代を生きる)

①北王国の不信仰の始祖のヤロブアム王
 先週の礼拝では、エリヤの時代の北王国の王のアハブが大変に不信仰な王であったことを少しだけ話しました。そのアハブのことが、16章の終わりの方に書いてあります。16章の29節から33節までを、お読みします。

Ⅰ列王16:29 オムリの子アハブは、ユダの王アサの第三十八年に、イスラエルの王となった。オムリの子アハブはサマリアで二十二年間、イスラエルの王であった。

 これは列王記の独特の書き方で、慣れないと分かりにくいかもしれませんので、説明しておきます。ソロモン王の死後、イスラエルの王国は南北に分裂して、北王国のイスラエルと南王国のユダの二つの国が並び立っていました。北王国のアハブが王になった時の南王国の王はアサでした。それでこの29節には、南王国ユダの王のアサの第38年に、アハブが北王国イスラエルの王になり、22年間、王であったことが、書かれています。続いて30節から33節まで、

30 オムリの子アハブは、彼以前のだれよりもの目に悪であることを行った。
31 彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった。それどころか彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻とし、行ってバアルに仕え、それを拝んだ。
32 さらに彼は、サマリアに建てたバアルの神殿に、バアルのために祭壇を築いた。
33 アハブはアシェラ像も造った。こうしてアハブは、彼以前の、イスラエルのすべての王たちにもまして、ますますイスラエルの神、の怒りを引き起こすようなことを行った。

 アハブ王は北王国の7代目の王です。33節には、アハブが彼以前のすべての北王国の王たちにも増して、主を怒らせる最悪の王であったことが書かれています。また、31節には、アハブがヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであったと書いてあります。ヤロブアムはイスラエルの初代の王です。このヤロブアム王のしたことが北王国の不信仰の源となっています。

 イスラエルが南北に分裂した時、初代のヤロブアム王は、考えました。もし、北王国の民が毎年、過越の祭りなどの度に南のエルサレムの神殿に礼拝をしに行ったら、北の民は結局は南の側に付いてしまうのではないか、そうして自分は殺されるのではないか。そこで、彼は金の子牛の像を二つ作らせて、その金の子牛を拝めば、南のエルサレムの神殿に礼拝しに行かなくても良い、ということに勝手に変えてしまいました(Ⅰ列王12:26-30)。そうして、北王国の民は南のエルサレムに上って神殿で礼拝をすることがなくなってしまいました。

 そういうわけで、ヤロブアムの時代から何十年も経ったアハブ王の時代の北王国の民は、エルサレムの神殿に行ったことなど無い者たちがほとんどであったことでしょう。不信仰になるのは、当たり前ですね。エルサレムの神殿は霊的な雰囲気に満ちている場所でしたから、そういう霊的な場に行って信仰が整えられなければ、すぐに不信仰に陥ってしまいます。人々の不信仰は初代のヤロブアムの頃から始まって、アハブ王の時代には王も民も、本来の信仰からはかなり離れてしまっていました。そういう時代にエリヤは預言者として召し出されました。

②悪い王の不信仰の下で苦しむ一般庶民
 17章の1節をお読みします。

Ⅰ列王17:1 ギルアデの住民であるティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私が仕えているイスラエルの神、は生きておられる。私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない。」

 この17章1節で、エリヤが初めて登場します。エリヤは主に召し出され、主に仕えていました。そうしてアハブに言いました。「私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない。」

 これは、主がエリヤをアハブの所に遣わせて言わせたことばでしょう。主はこれからの数年間、北王国一帯に雨を降らせないことにしていました。それは、アハブ王が礼拝していたのがバアルだったからでしょう。バアルは農作物に豊作をもたらす豊穣神として信じられていたということです。

 そのバアルが、もし本当に豊作をもたらす神だったとしたら、雨を降らせることができる筈です。雨が降らなければ作物は育たないからです。でも、バアルに雨を降らせる力などありません。豊作をもたらすのは、主です。主こそが雨を降らせることも降らせないこともできるお方であり、豊かな収穫をもたらすことも、もたらさないこともできるお方です。それを不信仰な人々に分からせるために、主は数年の間は雨を降らせないことにされたのでしょう。

 しかし、雨が降らないことで、アハブ王だけでなく、地域一帯のすべての者たちが困ることになります。きょうの聖書箇所のやもめがいたツァレファテもイスラエルの隣の国のシドンにあり、厳密にはイスラエルではありません。そういう隣国までもが巻き添えになってしまいます。でも、そこまでしなければ、このひどい不信仰は治らないということなのでしょう。シドンがアハブの妻のイゼベルの出身地であったということも、あったかもしれません。

 今のロシアとウクライナの戦争でも、多くの人々が苦しんでいます。戦場になっているウクライナの人々はもちろんのこと、経済制裁が科されているロシアの人々も苦しんでいます。ウクライナから穀物の輸出ができなくなっていることで、この先、世界でさらに多くの人々が食料に困ることになります。これらのことに思いを巡らしていたら、今のロシアと聖書の列王記の北王国とは、とても似ていることに気付かされます。そして、こういう不信仰の種は誰の心の中にも潜んでいますから、私たち日本人も自らのことを戒めなければならないでしょう。

 さて、アハブの時代に雨が降らなくなったことで、地域一帯のすべての人々が苦しみましたが、それは預言者のエリヤも例外ではありませんでした。エリヤはカラスに養われるようになりますが、雨が降らないことで、カラスに養われることさえも、難しくなりました。少し飛ばして6節と7節、

6 何羽かの烏が、朝、彼のところにパンと肉を、また夕方にパンと肉を運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。
7 しかし、しばらくすると、その川が涸れた。その地方に雨が降らなかったからである。 

 この時のエリヤは、すべてを主に委ねて生きていました。順番が前後してしまいましたが、先ほど飛ばした2節から5節までを読みます。

2 それから、エリヤに次のようなのことばがあった。
3 「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。
4 あなたはその川の水を飲むことになる。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」
5 そこでエリヤは行って、のことばどおりにした。彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。

 エリヤがカラスに養われるようになったのは、身を隠すためだったのですね。エリヤは雨を降らせないことでアハブに恨まれていましたから、アハブに殺される恐れがありました。それでエリヤは、アハブから逃れて人里離れた場所に身を隠して、カラスに養ってもらいました。

 この時のエリヤは主にすべてを委ねていました。それは、主と一つになっていたと言っても良いでしょう。

③主に全てを明け渡して悪い時代を生きる
 (主と一つにされて悪い時代を生きる)
 エリヤがツァレファテのやもめに会ったのは、エリヤがこのように自分のすべてを完全に主に委ねて明け渡していた時でした。8節と9節、

8 すると、彼に次のようなのことばがあった。
9 「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしはそこの一人のやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」

 この時のエリヤはまだアハブから身を隠していましたから、北王国内の人里に戻るのは、まだ危険だったのですね。主は隣の国のシドンに行くようにエリヤに言いました。エリヤはすべてを主に委ねていましたから、その通りにしました。10節、

10 彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、薪を拾い集めている一人のやもめがいた。そこで、エリヤは彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」

 このツァレファテのやもめは主が備えて下さっていました。このやもめにエリヤは水だけでなく、さらに一口のパンも彼女に頼みました。11節と12節、

11 彼女が取りに行こうとすると、エリヤは彼女を呼んで言った。「一口のパンも持って来てください。」
12 彼女は答えた。「あなたの神、は生きておられます。私には焼いたパンはありません。ただ、かめの中に一握りの粉と、壺の中にほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本の薪を集め、帰って行って、私と息子のためにそれを調理し、それを食べて死のうとしているのです。」

 干ばつで植物が一切育たないので、麦の粉も油ももうほんの少ししか残っておらず、それを使ったら、あとは死ぬしかありませんでした。このやもめもまた、アハブの不信仰のために命を落とそうとしていました。そんな彼女にエリヤは言いました。きょうの中心聖句の13節です。

13 エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。その後で、あなたとあなたの子どものために作りなさい。

 エリヤは、「まず私のためにパン菓子作りなさい」と言いました。もし、同じことばを普通の人が言ったら、なんて自分中心の人なんだろうと思いますよね。でも、この時のエリヤは完全に神様である主と一体化していました。エリヤのためにパン菓子を作るということは、神様のためにパン菓子を作るということです。

 なぜエリヤが主と完全に一体化できていたかと言えば、主がカラスに養われなさいと命令すれば素直にそれに従い、本当にカラスに養ってもらっていた、それぐらいすべてを完全に主に明け渡していたから、なんでしょうね。預言者といえども99%は明け渡せても100%完全に明け渡すことは難しいのではないかという気がしますが、この時のエリヤはそれが完全にできていました。それゆえ、「私のためにパン菓子を作り、私のところに持って来なさい」と言うことができたのだと思います。そして14節、

14 イスラエルの神、が、こう言われるからです。『が地の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない。』」

 ツァレファテのやもめはシドン人でしたから、イスラエル人ではなく異邦人でした。やもめから見たら、主は外国の神でした。しかしやもめは、主はシドン人の自分にとっても神様なのだということが分かったのですね。それは私たちに日本人にとっても同じです。日本人もイスラエル人から見れば異邦人であり、主は日本人の私たちから見れば外国の神です。でも私たちは、主は世界中のすべての民族、すべての人々にとっての真(まこと)の神であることを知っていますから、信頼してお委ねします。15節、

15 彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。

 きょうの説教のタイトルは、「悪い時代の生き方」です。当時のイスラエルは、アハブ王の不信仰のために雨が降らず、食べる物も無くなってしまうという、とても悪い時代でした。2020年代の現代もまた、コロナ禍があり、戦争があり、温暖化による豪雨がある大変に悪い時代です。時代が良くても悪くても、私たちはすべてを主にお委ねして生きるべきですが、悪い時代はなおのこと、ますます私たちは主にお委ねしなければならないでしょう。

 悪い時代にはもはや主しか頼れる方がいません。そうして、ツァレファテのやもめは、すべてを主に明け渡しました。彼女は最後に残った粉と油を自分と家族のためではなく、まず主に献げました。エリヤは主と完全に一つになっていましたから、それは主に献げたということです。そうして、自分自身を空っぽにしました。自分のための食料という考えを一切捨てて、すべてを主に明け渡しました。そのようにすべてを主に明け渡すなら、主は恵みを無限に与えて下さるお方です。16節、

16 エリヤを通して言われたのことばのとおり、かめの粉は尽きず、壺の油はなくならなかった。

 粉も油も、使っても使っても決して尽きることはありませんでした。つまり無限の恵みが注がれました。

おわりに
 このツァレファテのやもめの信仰の記事は高津の藤本先生が好んで語る箇所の一つで、私は高津教会員の時にも聞きましたし、神学生の時にも聞いたと思いますし、牧師になってからも先生が教団の代表として年会の時に語るのを聞いたことがあります。私自身も好きな箇所ですから、沼津で語り、静岡でも去年、語りました。

 でも、今までは「悪い時代」という時代背景のことをあまり考えずに、この説教を聞き、また語って来たように思います。

 今回は、この箇所をアハブ王の時代という悪い時代背景を特別に意識しながら読みました。そのことで、今の2020年代の悪い時代のことが重なって来ると感じています。そうして、こういう悪い時代こそ、すべてを主にお委ねすべきであることを示されています。

 コロナ禍、戦争、温暖化に加えて、今は牧師不足もますます悪い状況になっています。この春、BTCでは卒業式も入学式も行われませんでした。こんなことは未だかつてないことでした。それほど時代は悪くなっています。でも、このような悪い時代に主はエリヤとエリシャを召し出しました。それゆえ、今の悪い時代にも必ず現代のエリヤとエリシャが遣わされるはずです。このことを信じて、私たちはすべてを主にお委ねしつつ、現代のエリヤとエリシャを祈り求めて行きたいと思います。

 お祈りいたしましょう。
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二倍の霊を求める(2022.5.15 礼拝)

2022-05-16 09:39:45 | 礼拝メッセージ
2022年5月15日礼拝メッセージ
『二倍の霊を求める』
【列王記第二2:6~14】

はじめに
 きょうはインマヌエルの聖宣神学院(BTC)の創立記念礼拝です。BTCの働きは、1949年の5月17日に始められました。73年前のことです。私は2008年から3年間を横浜のBTCのキャンパスで過ごし、最後の1年はインターン実習生として姫路で過ごしました。この4年間に、神様からの恵みをたくさんいただいて、育てていただきました。大変なことも多かったですから、神学生の時は早く卒業したいと思っていましたが、今振り返ると、霊的な恵みを本当にたくさんいただけた貴重な日々であったと思います。

 いま、インマヌエルに限らず多くの神学校で神学生が少ない状況が続いています。このままでは牧師の世代交代が行われずに、キリスト教会の働きが途絶えてしまうことになります。

 きょうは列王記第二を開いて預言者の働がエリヤからエリシャへと引き継がれた箇所を見て、この時代にどのようにして世代交代が為されたのかを見たいと思います。そうして、今の時代に新しい牧師が与えられるように、お祈りしたいと思います。

 きょうの中心聖句は列王記第二2章9節です。

列王記第二2:9 エリヤはエリシャに言った。「あなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に求めなさい。」するとエリシャは、「では、あなたの霊のうちから、二倍の分を私のものにしてください」と言った。

 そして、次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①大きな働きをして疲れ果てたエリヤ
 ②ますます悪くなる時代に必要な預言者
 ③エリヤに二倍の霊を求めたエリシャ

①大きな働きをして疲れ果てたエリヤ
 今回、この礼拝説教の準備のために、列王記第一の終わりの方と列王記第二の始めの方を読み直していて、エリヤからエリシャに預言者の務めが引き継がれた時代は、大変な時代であったのだなということを改めて感じました。

 それで、来週以降も、エリヤとエリシャの箇所を開いて、さらに学びを深めたいと思いました。今日は概略をお話しして、来週以降に、もう少し細かく見ることにしたいと思います。

 きょうの第一のパートでは、まずエリヤが疲れていたことを確認しておきたいと思います。このエリヤが疲れていた箇所は有名ですから、ご存じの方も多いと思います。列王記第一の19章をご一緒に見たいと思います。列王記第二2章は後で見ます。

 列王記第一19章の前の17章、18章に何があったかは来週以降のどこかで、もう少し詳しく見ることができたらと願っています。きょうは、エリヤが疲れていた、ということを確認しておくのにとどめます。

 19章の1節、

Ⅰ列王19:1 アハブは、エリヤがしたことと、預言者たちを剣で皆殺しにしたこととの一部始終をイゼベルに告げた。

 アハブというのは、北王国の7代目の王様です。イスラエルの王国はソロモンが死んだ後に南北に分裂して、それ以降の北王国の王たちは一貫して不信仰な悪王たちばかりでした。中でも、7代目のアハブ王は際立って不信仰な王でした。そして、アハブの妻のイゼベルはアハブ以上に不信仰な女性でした。エリヤは、このように北王国の不信仰がますます進んでいる大変な時期に召し出された預言者でした。

 イゼベルとアハブはバアルという異教の神を礼拝していました。バアルは土地を肥沃にして豊かな収穫をもたらすと信じられていた異教の神で、北王国にはこのバアルの預言者がたくさんいました。そのバアルの預言者たちをエリヤは18章で一気に退治しました。そして、このことを聞いたイゼベルは怒りました。2節です。

2 すると、イゼベルは使者をエリヤのところに遣わして言った。「もし私が、明日の今ごろまでに、おまえのいのちをあの者たちの一人のいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」

 これはつまり、明日までにエリヤを殺すという殺害予告です。これは恐いですね。この時にすぐ殺すのでなく、どうやって殺すのかも告げず、ただ明日までに殺すと言うのです。これを聞いて、エリヤは震え上がり、逃げ出しました。3節と4節、

3 彼はそれを知って立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、
4 自分は荒野に、一日の道のりを入って行った。彼は、エニシダの木の陰に座り、自分の死を願って言った。「よ、もう十分です。私のいのちを取ってください。私は父祖たちにまさっていませんから。」

 エリヤは、この直前に大きな働きをしていて、達成感を感じていたと思います。北王国の不信仰を一掃できたと思っていたかもしれません。でも、イゼベルとアハブの不信仰はぜんぜん改まっていませんでした。エリヤはがっくり来て、燃え尽きたようになり、いま4節で読んだように、「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください」と言いました。イゼベルに殺されるよりは、主にいのちを取ってもらったほうが良いということなのでしょう。

 今のキリスト教会も同じようだと言えるかもしれません。1970年代、80年代頃までは教勢が勢いよく拡大して行きましたが、21世紀の今は縮小し続けています。そういう中で疲れている牧師が多くいます。

②ますます悪くなる時代に必要な預言者
 イゼベルの脅しですっかり弱気になっていたエリヤに主は仰せられました。途中を飛ばして、19章の15節と16節をお読みします。

15 は彼に言われた。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油を注いで、アラムの王とせよ。
16 また、ニムシの子エフーに油を注いで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラ出身のシャファテの子エリシャに油を注いで、あなたに代わる預言者とせよ。

 エリヤは死を願っていましたが、主はそれを許さず、まだすべき仕事が残っていることをエリヤに告げました。その一つがエリシャに油を注いで、預言者の職を引き継がせることでした。そうして、主の導きによって、エリヤとエリシャが出会います。19節、

19 エリヤはそこを去って、シャファテの子エリシャを見つけた。エリシャは、十二くびきの牛を先に立て、その十二番目のくびきのそばで耕していた。エリヤが彼のところを通り過ぎるとき自分の外套を彼に掛けたので、

 ここで外套が使われています。エリヤの外套は、箱根駅伝などの駅伝のたすきのようなものですね。エリヤは、エリシャに自分の外套を掛けました。すると20節、

20 エリシャは牛を放って、エリヤの後を追いかけて言った。「私の父と母に口づけさせてください。それから、あなたに従って行きますから。」エリヤは彼に言った。「行って来なさい。私があなたに何をしたか。」

 この「私があなたに何をしたか」は面白いですね。エリヤはエリシャに外套を掛けましたから、「私があなたに何をしたか」はちょっと変な気がしますが、これはエリヤがしたことではなくて、主がなさったことだという意味かもしれませんね。21節、

21 エリシャは引き返して、一くびきの牛を取り、それを殺して、牛の用具でその肉を調理し、人々に与えてそれを食べさせた。それから彼は立ってエリヤについて行き、彼に仕えた。

 この後、イゼベルとアハブはさらに悪事を働き、北王国の不信仰はさらにひどくなって行きます。そういう時代にエリシャは預言者として召し出されて、エリヤに仕えます。悪い時代には主は次の働き手をちゃんと備えて下さっているということです。今の私たちの時代も、戦争やコロナ禍、温暖化による豪雨など、悪いことが多く起きている時代です。この悪い時代に神様は、次世代を担う牧師を必ず備えて下さっていると信じて、祈り求めて行きたいと思います。

③エリヤに二倍の霊を求めたエリシャ
 最後の3番目のパートに進んで列王記第二2章の1節から見て行きます(p.649)。1節、

列王記第二2:1 がエリヤを竜巻に乗せて天に上げようとされたときのこと、エリヤはエリシャを連れてギルガルから出て行った。

 いよいよエリヤが天に上げられる時が近づいていました。2節、

2:2 エリヤはエリシャに「ここにとどまっていなさい。が私をベテルに遣わされたから」と言った。しかしエリシャは言った。「は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、彼らはベテルに下って行った。

 この2節のエリシャのことばは、先週ご一緒に見たシュネムの女がエリシャに言ったのと同じことばですね。エリヤはエリシャにとどまるように言いましたが、エリシャはベテルまで付いて行きました。そして、もう一度同じようなやり取りがあって、二人はベテルからエリコまでやって来ました。6節は、エリコでの会話です。6節、

6 エリヤは彼に「ここにとどまっていなさい。が私をヨルダンへ遣わされたから」と言った。しかし彼は言った。「は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、二人は進んで行った。

 エリシャはまた同じことをエリヤに言いました。一方、7節と8節、

7 一方、預言者の仲間たちのうち五十人は、行って遠く離れて立った。二人がヨルダン川のほとりに立ったとき、
8 エリヤは自分の外套を取り、それを丸めて水を打った。すると、水が両側に分かれたので、二人は乾いた土の上を渡った。

 預言者の仲間たちも今日、エリヤが天に上げられることを知っていたので、見に来ていました。そして9節、

9 渡り終えると、エリヤはエリシャに言った。「あなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に求めなさい。」するとエリシャは、「では、あなたの霊のうちから、二倍の分を私のものにしてください」と言った。

 エリシャは、きょうの説教題に書いたように、エリヤに二倍の霊を求めました。この9節のエリシャのことばは、新改訳の第3版では分かりにくかったのですが、2017年版の「二倍の分を私のものにしてください」で分かりやすくなりました。

 エリヤは聖霊を受けた預言者でしたから、エリシャが臨んだ霊とは、聖霊と考えても良いだろうと思います。エリヤの働きを自分が担うには聖霊を二倍受けなければ、やっていけないとエリシャは思ったのではないでしょうか。

 今年のペンテコステの日は3週間後の6月5日です。ペンテコステの日にイエス様の弟子たちは聖霊を受けて、力強く宣教を開始しました。イエス様の教えを宣べ伝える働きは聖霊の力を受けなければ到底できないことでしたから、弟子たちはこの時まで聖霊を祈り求めていました。

 逆に言えば、聖霊の力を受ければガリラヤの漁師だったペテロたちでも、イエス様を宣べ伝える使徒になることができたとも言えます。エリシャもまた、畑を耕している農夫でした。しかし、聖霊を受けて力を得るなら、エリヤの後継者になることができます。今の時代には牧師が不足していますが、神様は牧師として召し出した者に聖霊を与えて下さいますから、恐れずに主の召しに応えて欲しいと願います。

 私も神学生の時に主が聖霊によって力を与えて下さることを感じていました。私の場合は宣教している時というよりは、実習でヘトヘトになって神学院の寮で休んでいる時に、聖霊の力を一番感じました。どんなに疲れて帰っても、翌日に休んでいると、不思議と回復するんですね。若ければ回復するのは当たり前ですが、50歳前後でしたから、聖霊が回復の力を与えて下さっていると感じました。

 特に神学生の3年生の時に一年間遣わされていた船橋教会での実習がとてもハードでした。横浜の神学院から船橋教会までは電車を乗り継いで片道だけで2時間近くも掛かり、夜は路傍伝道と伝道会があったからです。

 夜が遅くなるので朝は9時半ごろに来ればいいよということになっていましたが、それでも朝7時半頃に神学院を出なければなりません。そして、9時半頃に船橋教会に着いたら、スリッパを並べて信徒さんを出迎えます。当時の出席者は250名以上いたと思います。次々とスリッパを並べて、礼拝が終わったら、またスリッパを片付けます。

 それからお弁当を食べて、午後は組会があれば出席し、無ければ少しの間、休ませてもらって、午後3時半頃からだったと思いますが、会堂の掃除を何人かで行いました。そうして5時過ぎに夕食のカレーを食べて、6時からは路傍伝道、7時から8時過ぎまで伝道会がありました。その後、信徒さんの皆さんが帰るまで待ち、最後に主牧の先生と話をしてお祈りをして教会を出るのは夜の9時頃でした。神学院の最寄の駅に着くのが10時半過ぎで、もうバスはありませんから20分ぐらい上りの坂道をフラフラの状態で歩いて帰ると11時です。当時、50歳になっていましたから、本当にヘトヘトになりました。それでも、どんなに疲れていても翌日の月曜日になると、むくむくと体力が回復するのを感じましたから、聖霊が力を与えて下さっていると感じていました。

 エリシャはその聖霊の力を二倍求めたということでしょう。エリシャはエリヤに仕えるうちに、預言者の働きがどんなに大変なものかを実感したことでしょう。イゼベルからの脅しも依然としてあったかもしれませんから、命の危険をも抱えながらの大変な職務です。それゆえエリシャはエリヤに言いました。「では、あなたの霊のうちから、二倍の分を私のものにしてください。」それに対してエリヤは言いました。10節、

10 エリヤは言った。「あなたは難しい注文をする。しかし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことはあなたにかなえられるだろう。できないなら、そうはならない。」

 このエリヤの返答も謎めいていますが、これを聞いてエリシャはエリヤから目を離さないようにしたことでしょう。11節と12節、

11 こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、火の戦車と火の馬が現れ、この二人の間を分け隔て、エリヤは竜巻に乗って天へ上って行った。
12 エリシャはこれを見て、「わが父、わが父、イスラエルの戦車と騎兵たち」と叫び続けたが、エリヤはもう見えなかった。彼は自分の衣をつかみ、それを二つに引き裂いた。

 エリヤは竜巻に乗って天へ上って行ったということですから、あっという間に上って行ったんでしょうね。でも、エリシャはエリヤから目を離しませんでしたから、見逃すことはありませんでした。13節と14節、

13 それから、彼はエリヤの身から落ちた外套を拾い上げ、引き返してヨルダン川の岸辺に立った。
14 彼は、エリヤの身から落ちた外套を取って水を打ち、「エリヤの神、はどこにおられるのですか」と言った。エリシャが水を打つと、水が両側に分かれ、彼はそこを渡った。

 こうしてエリヤの外套がエリシャに引き継がれ、預言者の職務もエリヤからエリシャに引き継がれました。そうしてエリシャも聖霊の力を受けて、この預言者の大変な職務を担って行くことができました。

おわりに
 きょうはBTC創立記念礼拝です。多くの神学生が入学して、そして聖霊の力を得て、各地の教会に遣わされて行きました。でも、今それが途絶えています。まるでアハブ王とイゼベルが支配しているような暗い時代です。でも、そうであるからこそ、暗い時代であるからこそ、神様は必ず今の世にエリシャのような後継者を送って下さる筈です。そう信じて、BTCのために、お祈りし続けていたいと思います。

 この聖霊の力は、イエス様を信じる者には誰にでも与えられますから、神学生や牧師だけでなく、皆さんのお一人お一人にも与えられます。皆さんも日々、この大変な時代の中で疲れを覚えることが多いと思います。聖霊は疲れを覚える皆さんにも力を与えて下さり、励まして下さいます。

 ペンテコステの日に向かう今、私たちに聖霊の力が与えられていることに感謝しつつ、BTCのためにお祈りしたいと思います。
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