2018年6月10日礼拝メッセージ
『エデンの園の安らぎ』
【創世記2:7~17】
はじめに
先週は岩上先生にメッセージを取り次いでいただき、先々週はシオン教会での合同礼拝で野田先生にメッセージを取り次いでいただきましたから、私の礼拝メッセージは三週間ぶりということになります。三週間前まではルカの福音書を学んでいました。間が空いたところで、聖書の他の書に目を転じることにしたいと思います。
悪の支配に慣らされないために
きょうは創世記2章のエデンの園の箇所を開くことにしました。そうして来週は黙示録21章の「新しい天と新しい地」を開きたいと考えています。なぜ、創世記のエデンの園の箇所と黙示録の新しい天と新しい地の箇所を開くことにしたかというと、昨今の国内や国外のニュースを見ていると(特に国内)、目を覆い、耳を塞ぎたくなるようなことが平然と行われていて、世の中が悪の支配にどんどん取り込まれていることを感じるからです。そうして今や私たちは世の中で平然と行われている悪に段々と慣らされてしまっているように感じます。悪に支配されていることが当たり前の状態になり、聖さを求める感覚が麻痺して行ってしまう恐ろしさを感じます。
そこで、創世記のエデンの園の箇所と黙示録の新しい天と新しい地の箇所を共に学んで、これらに思いを巡らすことで、悪の支配に慣らされることがないようにしたいと思わされています。
では先ず、創世記1章の最後の節の31節から見て行きたいと思います。
1:31 神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。
神は第一日から第六日まで六日間かけて天と地を創造され、そこに植物と動物そして人間を住まわせるようにしました。そうして31節にあるように神はご自分が造ったすべてのものを見られました。「見よ、それは非常に良かった」とあります。
私たちは今の汚れた世の中に住んでいますから、その「非常に良かった」様子を思い描くことは残念ながらできません。一体それは、どれほど素晴らしいものだったのでしょうか。今の世でも大自然が残された場所などは、その場に身を置けば、心が洗われるような心地になります。テレビなどでそういう場所を画面を通して見ることもできます。しかし、それらの大自然よりも、はるかに素晴らしいものであったことでしょう。何しろ神様が「非常に良かった」と思われたのですから、想像を絶する素晴らしさであったことでしょう。
きょう、私たちはこのような聖い場所について思いを巡らし、悪に慣らされてしまうことから遠ざかることができたらと思います。
聖日礼拝の素晴らしい恵み
では、創世記の2章に進みましょう。1節から3節までをお読みします。
2:1 こうして天と地とその万象が完成した。
2:2 神は第七日に、なさっていたわざを完成し、第七日に、なさっていたすべてのわざをやめられた。
2:3 神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである。
3節に「神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた」とあります。私たちの教会の週報の1ページ目には「聖日礼拝」と書かれています。私たちが毎週7日ごとに礼拝を捧げるのは、そもそもここから始まっていることを覚えたいと思います。このことに思いを巡らすなら、週1回の礼拝に出席することがどれほど大事なことか分かる気がします。私たちは週のうちの6日間は世間の様々な事柄の中で聖さから遠ざかってしまっています。しかし週に1回は神様が聖なるものとされた日に教会に集い、神様との交わりの時を持つことで聖い世界に再び近づくことができますから、本当に感謝なことだと思います。礼拝から遠ざかってしまうと、この神様の聖い世界からは、ずっと遠ざかったままになってしまうことになります。
続いて4節から6節までをお読みします。
2:4 これは、天と地が創造されたときの経緯である。神である【主】が、地と天を造られたときのこと。
2:5 地にはまだ、野の灌木もなく、野の草も生えていなかった。神である【主】が、地の上に雨を降らせていなかったからである。また、大地を耕す人もまだいなかった。
2:6 ただ、豊かな水が地から湧き上がり、大地の全面を潤していた。
この豊かな水は神様の霊のように聖い水であったことでしょう。続いて7節、
2:7 神である【主】は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。
これが最初の人アダムですね。神様はアダムの鼻にいのちの息を吹き込まれました。それでアダムは生きるものとなりました。この7節を味わうなら、創世記3章でアダムが神様の御顔を避けて身を隠したことが、どんなに残念なことであったかを痛感します。後で、創世記3章もご一緒に見ることにしたいと思います。
エデンの園の素晴らしさに思いを巡らす
8節と9節、
2:8 神である【主】は東の方のエデンに園を設け、そこにご自分が形造った人を置かれた。
2:9 神である【主】は、その土地に、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を、そして、園の中央にいのちの木を、また善悪の知識の木を生えさせた。
このエデンの園がどれくらい聖く素晴らしい場所であったかを、思い巡らしたいと思います。既存の宗教画などに縛られる必要はないと思います。自分が思い浮かべることのできる最高の素晴らしい場所を思い浮かべたいと思います。ただし私たちの想像力には限りがありますから、エデンの園の本当の素晴らしさを思い浮かべることは決してできないでしょう。しかしそれでも、想像力の限界まで聖い場所を思い浮かべることは決して無駄ではないと思います。聖い場所を思い浮かべることで、私たちが今の時代の汚れた世にいかに慣らされてしまっているかに気付かせてもらえると思うからです。
続いて10節、
2:10 一つの川がエデンから湧き出て、園を潤していた。それは園から分かれて、四つの源流となっていた。
このエデンから湧き出た川には、非常に霊的なものを感じます。この川は源流となり、エデンの園の外にも流れ出していました。後に時おりは霊的に優れた信仰者が現れたのは、エデンの園から霊的な川が流れ出ていたからかもしれませんね。
11節から14節、
2:11 第一のものの名はピション。それはハビラの全土を巡って流れていた。そこには金があった。
2:12 その地の金は良質で、そこにはベドラハとショハム石もあった。
2:13 第二の川の名はギホン。それはクシュの全土を巡って流れていた。
2:14 第三の川の名はティグリス。それはアッシュルの東を流れていた。第四の川、それはユーフラテスである。
この14節のティグリス・ユーフラテス川の流域からメソポタミア文明が生まれたのですね。
次に15節から17節、
2:15 神である【主】は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた。
2:16 神である【主】は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」
アダムは、このエデンの園を守る役目を任されました。しかし、ご承知のようにアダムは3章で、善悪の知識の木の実を食べてしまいました。次にこの3章を見ることにしますが、比較のために4章のカインもまた同時に見ることにしたいと思います。カインはアダムとエバの息子ですが、弟のアベルを殺してしまいました。3章のアダムも4章のカインも二人とも罪を犯したわけですが、きょう見てみたいポイントは、アダムが罪を犯した時はまだエデンの園の中にいた時であったこと、一方、カインが罪を犯した時はエデンの園の外にいた時であったことです。
罪を犯したアダム
まず3章のアダムの場合を見ます。
3:1 さて蛇は、神である【主】が造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった。蛇は女に言った。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」
3:2 女は蛇に言った。「私たちは園の木の実を食べてもよいのです。
3:3 しかし、園の中央にある木の実については、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と神は仰せられました。」
3:4 すると、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
3:5 それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」
3:6 そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
3:7 こうして、ふたりの目は開かれ、自分たちが裸であることを知った。そこで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちのために腰の覆いを作った。
3:8 そよ風の吹くころ、彼らは、神である【主】が園を歩き回られる音を聞いた。それで人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。
3:9 神である【主】は、人に呼びかけ、彼に言われた。「あなたはどこにいるのか。」
3:10 彼は言った。「私は、あなたの足音を園の中で聞いたので、自分が裸であるのを恐れて、身を隠しています。」
3:11 主は言われた。「あなたが裸であることを、だれがあなたに告げたのか。あなたは、食べてはならない、とわたしが命じた木から食べたのか。」
3:12 人は言った。「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
罪を犯したカイン
次に、4章を交代で読みます。
4:1 人は、その妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「私は、【主】によって一人の男子を得た」と言った。
4:2 彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは大地を耕す者となった。
4:3 しばらく時が過ぎて、カインは大地の実りを【主】へのささげ物として持って来た。
4:4 アベルもまた、自分の羊の初子の中から、肥えたものを持って来た。【主】はアベルとそのささげ物に目を留められた。
4:5 しかし、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それでカインは激しく怒り、顔を伏せた。
4:6 【主】はカインに言われた。「なぜ、あなたは怒っているのか。なぜ顔を伏せているのか。
4:7 もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。しかし、もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」
4:8 カインは弟アベルを誘い出した。二人が野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかって殺した。
4:9 【主】はカインに言われた。「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」カインは言った。「私は知りません。私は弟の番人なのでしょうか。
アダムとカインが罪を犯した箇所を読み比べると、二人の間には大きな違いがあることがわかります。
エデンの園の外にいて罪を認めなかったカイン
アダムは妻のせいにしていますから、これは良くないことですが、それでもともかくも自分が木の実を食べてしまったことを認めています。それに対してカインは「知りません」と神様に嘘をついて自分の罪を認めようとしませんでした。神である主の御顔を避けて身を隠したアダムは、主を恐れていましたが、カインは「知りません」と言った時点では主を恐れていませんでした。カインのようにエデンの園の外にいると、人の心はこれほどまでに神から離れ、荒廃してしまうのだということを見せつけられて、暗澹たる気持ちになります。
このようにエデンの園の外に出されてからの人類は、ずっと悪に支配され続けて来ました。たまにノアやアブラハムのように神様の目に適う者たちもいましたが、大多数は神から離れた者たちで世の中は満たされて来ました。その中にあって私たちは、悪に慣らされてしまいそうになります。世の中の悪に満ちたニュースに鈍感になっている自分を発見して、ハッとすることもあります。
ですから、私たちは聖い世界をもっと見る必要があるのではないかと思います。それゆえきょうはエデンの園の箇所を開き、来週は黙示録の新しい天と新しい地の箇所を開くことにしたいと思います。再来週はシオン教会での合同礼拝がありますから、こちらでの礼拝はお休みになりますが、7月からはまた聖い世界を学ぶことができたらと思います。
おわりに
最後に、創世記2章8節から10節までを交代で読んで終わりたいと思います。このエデンの園は平和で安らぎに満ちた場所であったことを覚えたいと思います。
2:8 神である【主】は東の方のエデンに園を設け、そこにご自分が形造った人を置かれた。
2:9 神である【主】は、その土地に、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を、そして、園の中央にいのちの木を、また善悪の知識の木を生えさせた。
2:10 一つの川がエデンから湧き出て、園を潤していた。それは園から分かれて、四つの源流となっていた。
お祈りいたしましょう。
『エデンの園の安らぎ』
【創世記2:7~17】
はじめに
先週は岩上先生にメッセージを取り次いでいただき、先々週はシオン教会での合同礼拝で野田先生にメッセージを取り次いでいただきましたから、私の礼拝メッセージは三週間ぶりということになります。三週間前まではルカの福音書を学んでいました。間が空いたところで、聖書の他の書に目を転じることにしたいと思います。
悪の支配に慣らされないために
きょうは創世記2章のエデンの園の箇所を開くことにしました。そうして来週は黙示録21章の「新しい天と新しい地」を開きたいと考えています。なぜ、創世記のエデンの園の箇所と黙示録の新しい天と新しい地の箇所を開くことにしたかというと、昨今の国内や国外のニュースを見ていると(特に国内)、目を覆い、耳を塞ぎたくなるようなことが平然と行われていて、世の中が悪の支配にどんどん取り込まれていることを感じるからです。そうして今や私たちは世の中で平然と行われている悪に段々と慣らされてしまっているように感じます。悪に支配されていることが当たり前の状態になり、聖さを求める感覚が麻痺して行ってしまう恐ろしさを感じます。
そこで、創世記のエデンの園の箇所と黙示録の新しい天と新しい地の箇所を共に学んで、これらに思いを巡らすことで、悪の支配に慣らされることがないようにしたいと思わされています。
では先ず、創世記1章の最後の節の31節から見て行きたいと思います。
1:31 神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。
神は第一日から第六日まで六日間かけて天と地を創造され、そこに植物と動物そして人間を住まわせるようにしました。そうして31節にあるように神はご自分が造ったすべてのものを見られました。「見よ、それは非常に良かった」とあります。
私たちは今の汚れた世の中に住んでいますから、その「非常に良かった」様子を思い描くことは残念ながらできません。一体それは、どれほど素晴らしいものだったのでしょうか。今の世でも大自然が残された場所などは、その場に身を置けば、心が洗われるような心地になります。テレビなどでそういう場所を画面を通して見ることもできます。しかし、それらの大自然よりも、はるかに素晴らしいものであったことでしょう。何しろ神様が「非常に良かった」と思われたのですから、想像を絶する素晴らしさであったことでしょう。
きょう、私たちはこのような聖い場所について思いを巡らし、悪に慣らされてしまうことから遠ざかることができたらと思います。
聖日礼拝の素晴らしい恵み
では、創世記の2章に進みましょう。1節から3節までをお読みします。
2:1 こうして天と地とその万象が完成した。
2:2 神は第七日に、なさっていたわざを完成し、第七日に、なさっていたすべてのわざをやめられた。
2:3 神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである。
3節に「神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた」とあります。私たちの教会の週報の1ページ目には「聖日礼拝」と書かれています。私たちが毎週7日ごとに礼拝を捧げるのは、そもそもここから始まっていることを覚えたいと思います。このことに思いを巡らすなら、週1回の礼拝に出席することがどれほど大事なことか分かる気がします。私たちは週のうちの6日間は世間の様々な事柄の中で聖さから遠ざかってしまっています。しかし週に1回は神様が聖なるものとされた日に教会に集い、神様との交わりの時を持つことで聖い世界に再び近づくことができますから、本当に感謝なことだと思います。礼拝から遠ざかってしまうと、この神様の聖い世界からは、ずっと遠ざかったままになってしまうことになります。
続いて4節から6節までをお読みします。
2:4 これは、天と地が創造されたときの経緯である。神である【主】が、地と天を造られたときのこと。
2:5 地にはまだ、野の灌木もなく、野の草も生えていなかった。神である【主】が、地の上に雨を降らせていなかったからである。また、大地を耕す人もまだいなかった。
2:6 ただ、豊かな水が地から湧き上がり、大地の全面を潤していた。
この豊かな水は神様の霊のように聖い水であったことでしょう。続いて7節、
2:7 神である【主】は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。
これが最初の人アダムですね。神様はアダムの鼻にいのちの息を吹き込まれました。それでアダムは生きるものとなりました。この7節を味わうなら、創世記3章でアダムが神様の御顔を避けて身を隠したことが、どんなに残念なことであったかを痛感します。後で、創世記3章もご一緒に見ることにしたいと思います。
エデンの園の素晴らしさに思いを巡らす
8節と9節、
2:8 神である【主】は東の方のエデンに園を設け、そこにご自分が形造った人を置かれた。
2:9 神である【主】は、その土地に、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を、そして、園の中央にいのちの木を、また善悪の知識の木を生えさせた。
このエデンの園がどれくらい聖く素晴らしい場所であったかを、思い巡らしたいと思います。既存の宗教画などに縛られる必要はないと思います。自分が思い浮かべることのできる最高の素晴らしい場所を思い浮かべたいと思います。ただし私たちの想像力には限りがありますから、エデンの園の本当の素晴らしさを思い浮かべることは決してできないでしょう。しかしそれでも、想像力の限界まで聖い場所を思い浮かべることは決して無駄ではないと思います。聖い場所を思い浮かべることで、私たちが今の時代の汚れた世にいかに慣らされてしまっているかに気付かせてもらえると思うからです。
続いて10節、
2:10 一つの川がエデンから湧き出て、園を潤していた。それは園から分かれて、四つの源流となっていた。
このエデンから湧き出た川には、非常に霊的なものを感じます。この川は源流となり、エデンの園の外にも流れ出していました。後に時おりは霊的に優れた信仰者が現れたのは、エデンの園から霊的な川が流れ出ていたからかもしれませんね。
11節から14節、
2:11 第一のものの名はピション。それはハビラの全土を巡って流れていた。そこには金があった。
2:12 その地の金は良質で、そこにはベドラハとショハム石もあった。
2:13 第二の川の名はギホン。それはクシュの全土を巡って流れていた。
2:14 第三の川の名はティグリス。それはアッシュルの東を流れていた。第四の川、それはユーフラテスである。
この14節のティグリス・ユーフラテス川の流域からメソポタミア文明が生まれたのですね。
次に15節から17節、
2:15 神である【主】は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた。
2:16 神である【主】は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」
アダムは、このエデンの園を守る役目を任されました。しかし、ご承知のようにアダムは3章で、善悪の知識の木の実を食べてしまいました。次にこの3章を見ることにしますが、比較のために4章のカインもまた同時に見ることにしたいと思います。カインはアダムとエバの息子ですが、弟のアベルを殺してしまいました。3章のアダムも4章のカインも二人とも罪を犯したわけですが、きょう見てみたいポイントは、アダムが罪を犯した時はまだエデンの園の中にいた時であったこと、一方、カインが罪を犯した時はエデンの園の外にいた時であったことです。
罪を犯したアダム
まず3章のアダムの場合を見ます。
3:1 さて蛇は、神である【主】が造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった。蛇は女に言った。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」
3:2 女は蛇に言った。「私たちは園の木の実を食べてもよいのです。
3:3 しかし、園の中央にある木の実については、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と神は仰せられました。」
3:4 すると、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
3:5 それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」
3:6 そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
3:7 こうして、ふたりの目は開かれ、自分たちが裸であることを知った。そこで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちのために腰の覆いを作った。
3:8 そよ風の吹くころ、彼らは、神である【主】が園を歩き回られる音を聞いた。それで人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。
3:9 神である【主】は、人に呼びかけ、彼に言われた。「あなたはどこにいるのか。」
3:10 彼は言った。「私は、あなたの足音を園の中で聞いたので、自分が裸であるのを恐れて、身を隠しています。」
3:11 主は言われた。「あなたが裸であることを、だれがあなたに告げたのか。あなたは、食べてはならない、とわたしが命じた木から食べたのか。」
3:12 人は言った。「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
罪を犯したカイン
次に、4章を交代で読みます。
4:1 人は、その妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「私は、【主】によって一人の男子を得た」と言った。
4:2 彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは大地を耕す者となった。
4:3 しばらく時が過ぎて、カインは大地の実りを【主】へのささげ物として持って来た。
4:4 アベルもまた、自分の羊の初子の中から、肥えたものを持って来た。【主】はアベルとそのささげ物に目を留められた。
4:5 しかし、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それでカインは激しく怒り、顔を伏せた。
4:6 【主】はカインに言われた。「なぜ、あなたは怒っているのか。なぜ顔を伏せているのか。
4:7 もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。しかし、もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」
4:8 カインは弟アベルを誘い出した。二人が野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかって殺した。
4:9 【主】はカインに言われた。「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」カインは言った。「私は知りません。私は弟の番人なのでしょうか。
アダムとカインが罪を犯した箇所を読み比べると、二人の間には大きな違いがあることがわかります。
エデンの園の外にいて罪を認めなかったカイン
アダムは妻のせいにしていますから、これは良くないことですが、それでもともかくも自分が木の実を食べてしまったことを認めています。それに対してカインは「知りません」と神様に嘘をついて自分の罪を認めようとしませんでした。神である主の御顔を避けて身を隠したアダムは、主を恐れていましたが、カインは「知りません」と言った時点では主を恐れていませんでした。カインのようにエデンの園の外にいると、人の心はこれほどまでに神から離れ、荒廃してしまうのだということを見せつけられて、暗澹たる気持ちになります。
このようにエデンの園の外に出されてからの人類は、ずっと悪に支配され続けて来ました。たまにノアやアブラハムのように神様の目に適う者たちもいましたが、大多数は神から離れた者たちで世の中は満たされて来ました。その中にあって私たちは、悪に慣らされてしまいそうになります。世の中の悪に満ちたニュースに鈍感になっている自分を発見して、ハッとすることもあります。
ですから、私たちは聖い世界をもっと見る必要があるのではないかと思います。それゆえきょうはエデンの園の箇所を開き、来週は黙示録の新しい天と新しい地の箇所を開くことにしたいと思います。再来週はシオン教会での合同礼拝がありますから、こちらでの礼拝はお休みになりますが、7月からはまた聖い世界を学ぶことができたらと思います。
おわりに
最後に、創世記2章8節から10節までを交代で読んで終わりたいと思います。このエデンの園は平和で安らぎに満ちた場所であったことを覚えたいと思います。
2:8 神である【主】は東の方のエデンに園を設け、そこにご自分が形造った人を置かれた。
2:9 神である【主】は、その土地に、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を、そして、園の中央にいのちの木を、また善悪の知識の木を生えさせた。
2:10 一つの川がエデンから湧き出て、園を潤していた。それは園から分かれて、四つの源流となっていた。
お祈りいたしましょう。