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一粒のタイル2

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

エデンの園の安らぎ(2018.6.10 礼拝)

2018-06-11 09:25:31 | 礼拝メッセージ
2018年6月10日礼拝メッセージ
『エデンの園の安らぎ』
【創世記2:7~17】

はじめに
 先週は岩上先生にメッセージを取り次いでいただき、先々週はシオン教会での合同礼拝で野田先生にメッセージを取り次いでいただきましたから、私の礼拝メッセージは三週間ぶりということになります。三週間前まではルカの福音書を学んでいました。間が空いたところで、聖書の他の書に目を転じることにしたいと思います。

悪の支配に慣らされないために
 きょうは創世記2章のエデンの園の箇所を開くことにしました。そうして来週は黙示録21章の「新しい天と新しい地」を開きたいと考えています。なぜ、創世記のエデンの園の箇所と黙示録の新しい天と新しい地の箇所を開くことにしたかというと、昨今の国内や国外のニュースを見ていると(特に国内)、目を覆い、耳を塞ぎたくなるようなことが平然と行われていて、世の中が悪の支配にどんどん取り込まれていることを感じるからです。そうして今や私たちは世の中で平然と行われている悪に段々と慣らされてしまっているように感じます。悪に支配されていることが当たり前の状態になり、聖さを求める感覚が麻痺して行ってしまう恐ろしさを感じます。
 そこで、創世記のエデンの園の箇所と黙示録の新しい天と新しい地の箇所を共に学んで、これらに思いを巡らすことで、悪の支配に慣らされることがないようにしたいと思わされています。
 では先ず、創世記1章の最後の節の31節から見て行きたいと思います。

1:31 神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。

 神は第一日から第六日まで六日間かけて天と地を創造され、そこに植物と動物そして人間を住まわせるようにしました。そうして31節にあるように神はご自分が造ったすべてのものを見られました。「見よ、それは非常に良かった」とあります。
 私たちは今の汚れた世の中に住んでいますから、その「非常に良かった」様子を思い描くことは残念ながらできません。一体それは、どれほど素晴らしいものだったのでしょうか。今の世でも大自然が残された場所などは、その場に身を置けば、心が洗われるような心地になります。テレビなどでそういう場所を画面を通して見ることもできます。しかし、それらの大自然よりも、はるかに素晴らしいものであったことでしょう。何しろ神様が「非常に良かった」と思われたのですから、想像を絶する素晴らしさであったことでしょう。
 きょう、私たちはこのような聖い場所について思いを巡らし、悪に慣らされてしまうことから遠ざかることができたらと思います。

聖日礼拝の素晴らしい恵み
 では、創世記の2章に進みましょう。1節から3節までをお読みします。

2:1 こうして天と地とその万象が完成した。
2:2 神は第七日に、なさっていたわざを完成し、第七日に、なさっていたすべてのわざをやめられた。
2:3 神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである。

 3節に「神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた」とあります。私たちの教会の週報の1ページ目には「聖日礼拝」と書かれています。私たちが毎週7日ごとに礼拝を捧げるのは、そもそもここから始まっていることを覚えたいと思います。このことに思いを巡らすなら、週1回の礼拝に出席することがどれほど大事なことか分かる気がします。私たちは週のうちの6日間は世間の様々な事柄の中で聖さから遠ざかってしまっています。しかし週に1回は神様が聖なるものとされた日に教会に集い、神様との交わりの時を持つことで聖い世界に再び近づくことができますから、本当に感謝なことだと思います。礼拝から遠ざかってしまうと、この神様の聖い世界からは、ずっと遠ざかったままになってしまうことになります。
 続いて4節から6節までをお読みします。

2:4 これは、天と地が創造されたときの経緯である。神である【主】が、地と天を造られたときのこと。
2:5 地にはまだ、野の灌木もなく、野の草も生えていなかった。神である【主】が、地の上に雨を降らせていなかったからである。また、大地を耕す人もまだいなかった。
2:6 ただ、豊かな水が地から湧き上がり、大地の全面を潤していた。

 この豊かな水は神様の霊のように聖い水であったことでしょう。続いて7節、

2:7 神である【主】は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。

 これが最初の人アダムですね。神様はアダムの鼻にいのちの息を吹き込まれました。それでアダムは生きるものとなりました。この7節を味わうなら、創世記3章でアダムが神様の御顔を避けて身を隠したことが、どんなに残念なことであったかを痛感します。後で、創世記3章もご一緒に見ることにしたいと思います。

エデンの園の素晴らしさに思いを巡らす
 8節と9節、

2:8 神である【主】は東の方のエデンに園を設け、そこにご自分が形造った人を置かれた。
2:9 神である【主】は、その土地に、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を、そして、園の中央にいのちの木を、また善悪の知識の木を生えさせた。

 このエデンの園がどれくらい聖く素晴らしい場所であったかを、思い巡らしたいと思います。既存の宗教画などに縛られる必要はないと思います。自分が思い浮かべることのできる最高の素晴らしい場所を思い浮かべたいと思います。ただし私たちの想像力には限りがありますから、エデンの園の本当の素晴らしさを思い浮かべることは決してできないでしょう。しかしそれでも、想像力の限界まで聖い場所を思い浮かべることは決して無駄ではないと思います。聖い場所を思い浮かべることで、私たちが今の時代の汚れた世にいかに慣らされてしまっているかに気付かせてもらえると思うからです。
 続いて10節、

2:10 一つの川がエデンから湧き出て、園を潤していた。それは園から分かれて、四つの源流となっていた。

 このエデンから湧き出た川には、非常に霊的なものを感じます。この川は源流となり、エデンの園の外にも流れ出していました。後に時おりは霊的に優れた信仰者が現れたのは、エデンの園から霊的な川が流れ出ていたからかもしれませんね。

 11節から14節、

2:11 第一のものの名はピション。それはハビラの全土を巡って流れていた。そこには金があった。
2:12 その地の金は良質で、そこにはベドラハとショハム石もあった。
2:13 第二の川の名はギホン。それはクシュの全土を巡って流れていた。
2:14 第三の川の名はティグリス。それはアッシュルの東を流れていた。第四の川、それはユーフラテスである。

 この14節のティグリス・ユーフラテス川の流域からメソポタミア文明が生まれたのですね。

 次に15節から17節、

2:15 神である【主】は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた。
2:16 神である【主】は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」

 アダムは、このエデンの園を守る役目を任されました。しかし、ご承知のようにアダムは3章で、善悪の知識の木の実を食べてしまいました。次にこの3章を見ることにしますが、比較のために4章のカインもまた同時に見ることにしたいと思います。カインはアダムとエバの息子ですが、弟のアベルを殺してしまいました。3章のアダムも4章のカインも二人とも罪を犯したわけですが、きょう見てみたいポイントは、アダムが罪を犯した時はまだエデンの園の中にいた時であったこと、一方、カインが罪を犯した時はエデンの園の外にいた時であったことです。

罪を犯したアダム
 まず3章のアダムの場合を見ます。

3:1 さて蛇は、神である【主】が造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった。蛇は女に言った。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」
3:2 女は蛇に言った。「私たちは園の木の実を食べてもよいのです。
3:3 しかし、園の中央にある木の実については、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と神は仰せられました。」
3:4 すると、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
3:5 それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」
3:6 そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
3:7 こうして、ふたりの目は開かれ、自分たちが裸であることを知った。そこで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちのために腰の覆いを作った。
3:8 そよ風の吹くころ、彼らは、神である【主】が園を歩き回られる音を聞いた。それで人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。
3:9 神である【主】は、人に呼びかけ、彼に言われた。「あなたはどこにいるのか。」
3:10 彼は言った。「私は、あなたの足音を園の中で聞いたので、自分が裸であるのを恐れて、身を隠しています。」
3:11 主は言われた。「あなたが裸であることを、だれがあなたに告げたのか。あなたは、食べてはならない、とわたしが命じた木から食べたのか。」
3:12 人は言った。「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」

罪を犯したカイン
 次に、4章を交代で読みます。

4:1 人は、その妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「私は、【主】によって一人の男子を得た」と言った。
4:2 彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは大地を耕す者となった。
4:3 しばらく時が過ぎて、カインは大地の実りを【主】へのささげ物として持って来た。
4:4 アベルもまた、自分の羊の初子の中から、肥えたものを持って来た。【主】はアベルとそのささげ物に目を留められた。
4:5 しかし、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それでカインは激しく怒り、顔を伏せた。
4:6 【主】はカインに言われた。「なぜ、あなたは怒っているのか。なぜ顔を伏せているのか。
4:7 もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。しかし、もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」
4:8 カインは弟アベルを誘い出した。二人が野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかって殺した。
4:9 【主】はカインに言われた。「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」カインは言った。「私は知りません。私は弟の番人なのでしょうか。

 アダムとカインが罪を犯した箇所を読み比べると、二人の間には大きな違いがあることがわかります。

エデンの園の外にいて罪を認めなかったカイン
 アダムは妻のせいにしていますから、これは良くないことですが、それでもともかくも自分が木の実を食べてしまったことを認めています。それに対してカインは「知りません」と神様に嘘をついて自分の罪を認めようとしませんでした。神である主の御顔を避けて身を隠したアダムは、主を恐れていましたが、カインは「知りません」と言った時点では主を恐れていませんでした。カインのようにエデンの園の外にいると、人の心はこれほどまでに神から離れ、荒廃してしまうのだということを見せつけられて、暗澹たる気持ちになります。
 このようにエデンの園の外に出されてからの人類は、ずっと悪に支配され続けて来ました。たまにノアやアブラハムのように神様の目に適う者たちもいましたが、大多数は神から離れた者たちで世の中は満たされて来ました。その中にあって私たちは、悪に慣らされてしまいそうになります。世の中の悪に満ちたニュースに鈍感になっている自分を発見して、ハッとすることもあります。
 ですから、私たちは聖い世界をもっと見る必要があるのではないかと思います。それゆえきょうはエデンの園の箇所を開き、来週は黙示録の新しい天と新しい地の箇所を開くことにしたいと思います。再来週はシオン教会での合同礼拝がありますから、こちらでの礼拝はお休みになりますが、7月からはまた聖い世界を学ぶことができたらと思います。

おわりに
 最後に、創世記2章8節から10節までを交代で読んで終わりたいと思います。このエデンの園は平和で安らぎに満ちた場所であったことを覚えたいと思います。

2:8 神である【主】は東の方のエデンに園を設け、そこにご自分が形造った人を置かれた。
2:9 神である【主】は、その土地に、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を、そして、園の中央にいのちの木を、また善悪の知識の木を生えさせた。
2:10 一つの川がエデンから湧き出て、園を潤していた。それは園から分かれて、四つの源流となっていた。

 お祈りいたしましょう。
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神に帰れ、赦して下さるから(2018.5.20 ペンテコステ礼拝)

2018-05-22 08:12:59 | 礼拝メッセージ
2018年5月20日ペンテコステ礼拝メッセージ
『神に帰れ、赦して下さるから(イザヤ55:7)』
【ルカ24:44~53】

はじめに
 きょうはペンテコステ礼拝です。使徒の時代のペンテコステの日にイエスさまの弟子たちが聖霊を受けた恵みを共に分かち合いたいと願っています。
 私たちクリスチャンにとって、毎週日曜日に教会に集い、神様を礼拝することができることは格別な恵みです。この素晴らしい恵みをいただくことができることに、心から感謝したいと思います。毎週毎週の礼拝はどれもとても大切なものです。しかし、中でもクリスマス礼拝、イースター礼拝そしてペンテコステ礼拝は格別に大切なものであると言えるのではないでしょうか。
 まずクリスマスの日にイエスさまがこの世に生まれることがなければ、そもそも私たちはイエスさまを信じることによって得られる恵みをいただくことができるようにはなりませんでした。ですから、イエスさまのご聖誕をお祝いするクリスマス礼拝は、とても大切なものです。では、イエスさまを信じることによって得られる恵みとは何でしょうか。それは聖霊の恵みですね。このようにクリスマス礼拝とペンテコステ礼拝は密接に関連しています。
 イエスさまを信じるとはイエスさまが神の子キリストであることを信じることです。このイエスさまが神の子キリストであることを信じることとイエスさまの復活(よみがえり)を信じることもまた、切っても切れないことです。神のひとり子であり救い主であるイエスさまは全世界の罪を背負って十字架に掛かって死にましたが、全能の神の力によって復活しました。このことを信じる者は聖霊を受けて永遠の命を得ます。
 そうして考えると、クリスマスの恵みもイースターの恵みも、どれもペンテコステの恵みへとつながって行きます。そういう意味では、ペンテコステ礼拝は年間を通した礼拝の中でも最も大切な礼拝であると言えるかもしれません。礼拝に大切さの順番を付けることはナンセンスかもしれませんが、いま私たちがルカの福音書から学んでいるように聖霊を祈り求めて受けることほど大切なことは他にない(ルカ11:13参照)のですから、それを覚えてペンテコステの恵みの素晴らしさを共に分かち合いたいと思います。
 さてしかし、それなのにどうしてメッセージのタイトルが『神に帰れ、赦して下さるから(イザヤ55:7)』という訳のわからないものになっているか、不可解に思っている方もおられるかもしれません。以下、順次説明して行きたいと思います。

旧約聖書のどこに「三日目に死人の中からよみがえり」とあるのか
 いま私たちは礼拝でルカの福音書の学びをしています。毎度説明しているように、使徒の働きの視点でルカの福音書を眺めるということをしています。きょう開いているルカの福音書24章の最後の箇所は、使徒の働き1章と重複する箇所ですね。両者はルカの福音書と使徒の働きの「蝶つがい」とも呼ばれる箇所です。それで当初の予定としては、まずルカ24章をご一緒に読み、次いで使徒1章も開いて重なりを確認した上で、使徒2章のペンテコステの日の出来事の箇所をご一緒に読むことを考えていました。
 しかし、準備段階でルカ24章を読んでいる時に、途中で引っ掛かってしまいました。それで色々と思いを巡らしているうちにイザヤ55章(今朝の聖書交読の箇所)にたどり着きました。それで今日のメッセージでは、そのことを皆さんと分かち合いたいと思いました。
 ルカ24章44節から見て行きます。

24:44 そしてイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたと一緒にいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。」

 モーセの律法と預言者たちの書と詩篇は旧約聖書の代表的な書ですから、旧約聖書の全体と考えて良いのだろうと思います。ここでイエスさまはご自身について旧約聖書に書いてあることはすべて成就しなければならないとおっしゃいました。
 続いて、45節から48節までは交代で読みたいと思います。

24:45 それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
24:46 こう言われた。「次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
24:47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、
24:48 あなたがたは、これらのことの証人となります。

 イエスさまは旧約聖書に次のように書いてあるとおっしゃいました。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる』
 さてしかし、旧約聖書にこのように書いてある箇所はあるでしょうか。聖書のページの下にある脚注を見ても、旧約聖書の引照の箇所は書かれていません。私の手持ちの注解書を見ても、この件に関してはスルーしています。私はヨハネの福音書の注解書はたくさん、何十冊も持っています。しかし、ルカの福音書の注解書は数冊しか持っていません。ですから、他の注解書を調べれば何か情報が得られるかもしれません。しかし私の手元にある注解書ではこの件についてはスルーしていますから、困りました。それで説教でもスルーしようかと思いましたが、何となく気持ちが悪いので、聖霊によって何か示されないかと期待して、思いを巡らしていました。すると、以下で話すことが示されました。それが正解かどうかはわかりませんが、ぜひ皆さんと分かち合いたいと思います。

イザヤ書53章~55章
 イエスさまがおっしゃった46節の『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、云々』は旧約聖書のどこに書いてあるの?と疑問に思うのは、「三日目に死人の中からよみがえり」という箇所ですね。「キリストは苦しみを受け」という場面は有名なイザヤ書53章にあります。それで、ふと「三日目に死人の中からよみがえり」というのは、イザヤ書53章から55章に掛けてのことではないかと思いました。イエスさまの時代には、イザヤ書に53章とか55章とかの章の番号は付いていなかったと思いますが、区分はあったでしょうから、イザヤ53章で苦しみを受け、三章目の55章でよみがえったのではないかと思ったわけです。
 そして、そういう目で見てみると、そんな風に読めるのですね。まさに聖霊が働いたという気がして、私は大変に恵まれました。それで、ぜひペンテコステ礼拝で皆さんと分かち合いたいと思ったわけです。前回の礼拝メッセージで私は「大きなスケールで聖書を読む」ことをお勧めしましたが、このルカ24章とイザヤ書との関係も大きなスケールで読むことでイエスさまの働きのことがより明白に浮かび上がって来るようです。
 イザヤ書52章から見て行きたいと思います。このイザヤ書52章から55章に掛けては、やがて起きるバビロン捕囚とエルサレム滅亡の苦しみからの回復という希望の福音が預言されています。このイザヤ書52章から55章に掛けてを、先ほどのルカ24章45節から48節まで(週報p.3)の、

24:45 それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
24:46 こう言われた。「次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
24:47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、
24:48 あなたがたは、これらのことの証人となります。

と重ねて読むと、バビロン捕囚とエルサレム滅亡の苦しみの中ではイエスさまもまたエルサレムの民と共に苦しんでいて、エルサレムの民の罪と咎に対する神の罰をイエスさまが引き受けて、回復の希望へと民を導いて下さっている様子が見えて来ます。
 ですから、イザヤ書52章から55章までとルカ24章のイエスさまのことばを重ねると、ペンテコステの日というのは、バビロン捕囚から続いて来たイスラエルの民の長い苦しみが漸く解放された日であったということが見えて来ます。それなのにユダヤ人たちは使徒たちが語るイエス・キリストの福音に耳を傾けようとしなかったためにパウロが嘆いていたことは、3月までの使徒の働きの学びで見た通りです。

キリストの受難
 では残りの時間でイザヤ書52章から57章までを見てみたいと思いますが、そんなに時間は残されていませんから、ところどころかいつまんで見て行きます。
 イザヤ52章1節、

52:1 目覚めよ、目覚めよ。力をまとえ、シオンよ。あなたの美しい衣をまとえ、聖なる都エルサレムよ。無割礼の汚れた者は、もう二度とあなたの中に入っては来ない。

 ここでエルサレムの回復が預言されます。それは良い知らせです。7節、

52:7 良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神は王であられる」とシオンに言う人の足は。

 この回復のためにはイエス・キリストによる罪の贖いが必要でした。9節ですね。

52:9 エルサレムの廃墟よ、ともに大声をあげて喜び歌え。【主】がその民を慰め、エルサレムを贖われたからだ。

 それは十字架による贖いでした。13節と14節、

52:13 「見よ、わたしのしもべは栄える。彼は高められて上げられ、きわめて高くなる。
52:14 多くの者があなたを見て驚き恐れたように、その顔だちは損なわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。

続いて53章の4節から6節、

53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、【主】は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。

 エルサレムの民の咎を主はすべてイエスさまに負わせました。そうして十字架で死にました。このイエスさまが受けた十字架の苦しみはエルサレムの民の苦しみに寄り添うものでもあったことがルカの福音書から見えて来ます。
 54章に進みます。この54章は福音書で言えば十字架の金曜日と復活の日曜日の間にある安息日の土曜日です。この備え日の土曜日では、やがて来る回復の時に静かに備えています。54章7節と8節、

54:7 わたしはほんの少しの間、あなたを見捨てたが、大いなるあわれみをもって、あなたを集める。
54:8 怒りがあふれて、少しの間、わたしは、顔をあなたから隠したが、永遠の真実の愛をもって、あなたをあわれむ。──あなたを贖う方、【主】は言われる。

 7節で主は、「わたしはほんの少しの間、あなたを見捨てた」と言われました。すると、十字架で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」(詩篇22:1、マタイ27:46、マルコ15:34)と叫んだ時のイエスさまは、苦しみの中にあったエルサレムの民と共にいた様子が見えて来ます。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」はエルサレムの民の叫びであり、十字架のイエスさまはそのエルサレムの民の叫びを代弁していた様子が見えます。

私たちの神に帰れ
 続いて、いよいよ復活の55章に進みましょう。

55:1 「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来るがよい。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買え。代価を払わないで、ぶどう酒と乳を。

 「渇いている者はみな、水を求めて出て来るがよい。」これはイエスさまがヨハネ4章でサマリヤの女に語ったことばと重なりますね。ここにある水とは聖霊のことと受け取りたいと思います。そして、「さあ、金を払わないで、穀物を買え。代価を払わないで、ぶどう酒と乳を。」ここからもイエスさまの十字架の姿が見えます。
 エルサレムの民、そして私たちは私たちの罪の代価を払わないで、赦しを得ました。代価のすべてはイエスさまの十字架によって支払われたからです。そして3節、

55:3 耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたと永遠の契約を結ぶ。それは、ダビデへの確かで真実な約束である。

 神の声に耳を傾ければ聖霊を受けて永遠の命を受けるという預言が見えて来ます。続いて4節と5節、

55:4 見よ。わたしは彼を諸国の民への証人とし、諸国の民の君主とし、司令官とした。
55:5 見よ。あなたが、あなたの知らない国民を呼び寄せると、あなたを知らない国民が、あなたのところに走って来る。これは、あなたの神、【主】、イスラエルの聖なる者のゆえである。主があなたを輝かせたからだ。」

 福音はイスラエルの民だけでなく異邦人へと広がっていくことが、ここで語られています。5節ですね、「見よ。あなたが、あなたの知らない国民を呼び寄せると、あなたを知らない国民が、あなたのところに走って来る。これは、あなたの神、【主】、イスラエルの聖なる者のゆえである。主があなたを輝かせたからだ。」こうして聖霊を受ける者は、イエス・キリストの証人となって地の果てまでイエス・キリストの福音を宣べ伝えます。
 そうして、きょうのメッセージのタイトルにもした7節です。

55:7 悪しき者は自分の道を、不法者は自分のはかりごとを捨て去れ。【主】に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。

「私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」これは、最近私たちが礼拝で学んだ「放蕩息子の帰郷」を思い出しますね。聖書を大きなスケールで読むなら、父の家を出た放蕩息子とは、創世記の時代にアブラハムの家系から離れて行った異邦人のことです。その異邦人が使徒の時代のペンテコステの日以降に、聖霊が注がれた使徒たちの働きによって父の家に帰って来ました。父は、帰って来た放蕩息子を咎めることなく赦し、大歓迎しました。

すべてのことを教えて下さる聖霊
 私たちが日本で伝えているキリスト教は、仏教や神道を信じる日本人から見れば外国の宗教のように見えるでしょう。しかし、異邦人がイスラエル人の父であるアブラハムの家を出たのは仏教や神道が始まるよりも、遥かに前のことです。日本人も元々は聖書の神の家の者たちでした。このことを私たちは、もっと伝えて行く必要があると思わされます。
 そのためには、私たちは普段から聖書を大きなスケールで読むことをしなければならないこともまた思わされます。
 イエスさまが十字架で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んだ時、イエスさまは神から離れて苦しんでいた私たちすべてと共に苦しんで下さっていたということを、きょうは学ぶことができましたから感謝に思います。私たちはそのイエスさまを信じて神に帰り、赦していただくことができました。そうして、聖霊の素晴らしい恵みを受けることができました。
 週報のp.3にはもう一つ、ヨハネ14章26節のみことばも貼り付けておきました。

ヨハネ14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

 聖霊を受けるなら、ルカ24章にあるイエスさまのことばも、さらに豊かに学べますから、感謝です。きょう話したバビロン捕囚とエルサレム滅亡に遭った民の苦しみを思い浮かべながら、もう一度、45節から48節までを交代で読みます。

24:45 それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
24:46 こう言われた。「次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
24:47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、
24:48 あなたがたは、これらのことの証人となります。

 47節にあるようにイエスさまの名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられます。このことのために私たちはイエスさまの証人として働きたいと思います。

おわりに
 最後に、49節から53節までを交代で読んでメッセージを閉じます。53節はご一緒に読みます。

24:49 見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」
24:50 それからイエスは、弟子たちをベタニアの近くまで連れて行き、手を上げて祝福された。
24:51 そして、祝福しながら彼らから離れて行き、天に上げられた。
24:52 彼らはイエスを礼拝した後、大きな喜びとともにエルサレムに帰り、
24:53 いつも宮にいて神をほめたたえていた。

 お祈りいたしましょう。
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大きなスケールで聖書を読む(2018.5.13 礼拝)

2018-05-17 08:02:04 | 礼拝メッセージ
2018年5月13日礼拝メッセージ
『大きなスケールで聖書を読む』
【ルカ13:6~9】

はじめに
 きょうは母の日ですが、来週はペンテコステの日ですから、ここまで続けて来たルカの福音書の学びのシリーズを、引き続き行うことにします。このシリーズでは使徒の働きの視点からルカの福音書を眺めるということを試みています。
 ご承知の通り、使徒の働きは聖霊の働きとも言えるほど、使徒たちが聖霊によって力を受けて力強い働きをしたことが豊かに記されています。この使徒の働きの視点からルカの福音書を眺めてみています。

先週までの学びの復習
 まず先週までの4回のメッセージを簡単に振り返ってみます。第1回目ではルカの福音書でイエスさまが中風で寝たきりの男が癒し、この男が起きて歩き始めた場面を、使徒の働きで聖霊を受けたペテロが足の不自由な人を癒した場面と重ねて見ることをしました。すると、使徒の働きで足の不自由な人を癒したのはペテロというよりは、聖霊を受けたペテロの中にいるイエスさまが足の不自由な人を癒している姿が見えてきます。
 第2回目は、ルカの福音書が神殿の場面で始まり、神殿の場面で終わるという話をしました。つまり、ルカの福音書のイエスさまの言動の全体が神殿という入れ物の中に納まっているという形になっています。そして、パウロの手紙によれば、聖霊を受けている私たちの体は神殿だということです。私たちの体は神殿で、その中に神である聖霊が住んで下さっています。それはつまり、神の霊としてのイエスさまが私たちの中に住んで下さっているということです。私たちの中にはルカの福音書のイエスさまが丸ごと入っていて、私たちに語り掛けて下さっているのだという話をしました。ルカの福音書のイエスさまは人間としてのイエスさまですが、そのイエスさまが今度は神の霊として私たちの中に入っていて下さり、語り掛けて下さっているのです。
 第3回目は、ルカ15章の「放蕩息子の帰郷」の箇所を開きました。使徒の働きの視点から見ると、父の家を出た弟息子とは異邦人のことです。そして祝宴に加わらずに父の家に入ろうとしなかった兄息子とは、イエスさまが神の子キリストであることを信じようとしないユダヤ人たちのことです。この第3回目のメッセージの時には聖霊の話はあまりしませんでしたので、いま補足しておくと、父の家の外にいる状態では、聖霊はその人の中に入っていないでしょう。聖霊を受けるとは、父の家の中に迎え入れられて祝宴に加わることだと言えるでしょう。このことを、もう少し補足したいと思いますから、ルカ15章の20節をご一緒に読みましょう(週報p.3)。

ルカ15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。

 この箇所で私は以前から、弟息子の帰り道のことがどうして何も書かれていないのだろうと気になっていました。弟息子が我に返ったのは遠い外国でのことでしたから、父の家に帰り着くまでの旅は長い期間が掛かったはずです。それなのに、その帰り道のことが描かれていないのは何故だろうと思っていました。そうして気付いたことはイエスさまが神の子キリストと信じてから聖霊を受けるまでの間にはほとんど時間が掛からないということです。つまり自分の罪に気付いて悔い改めの方向転換をしたなら、時間を置くことなくイエスさまは神の子キリストであると信じて聖霊を受けるはずだから、ルカは帰り道のことを書かなかったのだろうと気付きました。自分の罪に気付いて悔い改めてから聖霊を受けるまでに時間が掛かるとしたら、イエスさまが神の子キリストであると信じていないことになりますから、本当に悔い改めたかどうか疑わしいということになってしまいます。
 ジョン・ウェスレーは聖職者になってからもなお、救いの確証を持つことができずに長い期間悩んでいました。それはきっと、兄息子のように、どこか父のことを心から信頼することができずにいたからでしょう。兄息子は、父の家の住人なら畑で真面目に働くべきだと考えていました。それゆえ働かないで遊んでばかりいた弟息子を父が喜んで迎え入れたことに納得できないでいました。ウェスレーも良い行いをすることを重視していました。学生時代からホーリークラブを作って仲間たちと良い行いに励んでいました。このように行いを重視する人は、自分が良いと思っている行いを自分と同じようにはしない人のことを批判的に見がちなような気がします。ウェスレーの場合もそれで祝宴に加わることができなかったのかもしれません。それゆえ、なかなか聖霊を受けることができなかったということなのかもしれません。
 聖霊を受けることは何にも増して、最も大切なことです。第4回目の先週は、このことを学びました。週報p,3に載せたように、先週はルカ11章の13節に注目しました。

ルカ11:13 ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。

 このように求めるべきものは聖霊であることを先週は話しました。

大きなスケールで聖書を読む
 さて、今週のメッセージのタイトルは、『大きなスケールで聖書を読む』です。「大きなスケールで聖書を読む」とは、例えば先ほど話した「放蕩息子の帰郷」で言えば、弟息子とは異邦人のことである、とするような読み方です。そうではなくて使徒の働きとの重なりを考えずにルカの福音書を単独で読むなら、放蕩息子が父の家を出てから戻って来るまでの期間は数年程度の短い間だと思って読むことでしょう。財産を湯水のように使ってしまうなら、お金はあっという間に無くなってしまうからです。しかし、使徒の働きでのパウロたちによる異邦人伝道のことを重ねて読んで、弟息子とは異邦人のことだと考えるなら、弟息子が父の家を出てから再び戻るまでには何千年もの歳月が流れています。イスラエル人と異邦人とが別々の道を歩み始めたのは創世記のアブラハムの時代のことですから、アブラハム以降、異邦人は旧約聖書の時代の間はずっと父の家の外にいました。そうして使徒たちの時代になってようやく父の家に戻って来たのでした。この何千年もの期間は人間にとっては長い時間ですが、神様にとっては短い時間だと言えるでしょう。
 以上のように聖霊の働きを考慮に入れて聖書を読むなら、神様の時間を共有することができます。そうして神様との親しい交わりの中に入れていただくなら、そうしない時の何倍、何十倍もの大きな恵みをいただくことができるでしょう。それが「大きなスケールで聖書を読む」ということです。
 では、きょうの聖書箇所はどんな風に読んだら良いでしょうか。もちろん正解があるわけではなく、人それぞれの読み方で良いのですが、この箇所でのスケールの大きな読み方をご一緒に味わってみたいと思います。ルカ13章の6節から9節までを交代で読みましょう。

13:6 イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。そして、実を探しに来たが、見つからなかった。
13:7 そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年間、このいちじくの木に実を探しに来ているが、見つからない。だから、切り倒してしまいなさい。何のために土地まで無駄にしているのか。』
13:8 番人は答えた。『ご主人様、どうか、今年もう一年そのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥料をやってみます。
13:9 それで来年、実を結べばよいでしょう。それでもだめなら、切り倒してください。』」

 皆さんは、この箇所をどのように読むでしょうか。7節のぶどう園の番人というのはイエスさまのことですね。では、6節の「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた」は、どのように読むでしょうか。先ほども言いましたが正解があるわけではありませんから、人それぞれで良いのだと思いますが、私は、「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えたおいたこと」を、神様がヨシュアの時代にイスラエルの民をカナンの地に入植させたことと読みたいと思います。イスラエルの民はそのカナンの地で時に繁栄もしましたが、多くの場合は神様から離れていて信仰の実を結ぶことができないでいました。結局のところ、人は聖霊を受けなければ信仰の実を結ぶことができないのですね。ですから、イエスさまはおっしゃいました。8節と9節です。『ご主人様、どうか、今年もう一年そのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥料をやってみます。それで来年、実を結べばよいでしょう。それでもだめなら、切り倒してください。』そうして、使徒の働きの時代になって漸く実を結ぶことができるようになりました。
  いかがでしょうか。7節にある三年間を、ヨシュアの時代からイエスさまの時代までという大きなスケールで読むと、スケールの大きな神様により近づくことができると感じないでしょうか。私の場合は、そのことの恵みをとても強く感じます。神様は宇宙スケールの大きなお方ですから、聖書も大きなスケールで読むと神様をより近くに感じる恵みをいただくことができます。私はこの素晴らしい恵みを、是非とももっと多くの方々と分かち合いたいと願っています。
 私がヨハネの福音書の話をよくするのも、まったく同じ理由からです。これまでヨハネの福音書は、紀元30年頃の数年間の出来事として読まれて来ました。それはそれで恵まれますが、いつも私が話しているようにヨハネの福音書の背後には旧約聖書の全体と使徒の働きが重ねられていますから、数千年間が背後に隠されています。この数千年というスケールは神様のスケールですから、このスケールの大きな背後に気付くなら、神様にグ~ンと近づくことができて、何十倍もの大きな恵みをいただくことができます。

(中略)

 聖霊を受けて信仰の実を結ぶ私たちでありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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求めるべきは聖霊(2018.5.6 礼拝)

2018-05-09 08:26:10 | 礼拝メッセージ
2018年5月6日礼拝メッセージ
『求めるべきは聖霊』
【ルカ11:5~13】

はじめに
 先月から始めたルカの福音書の学びでは、同じルカが書いた使徒の働きの視点からルカの福音書を眺めるということをしています。いま私たちは今月20日のペンテコステの日に向かって歩んでいます。使徒の働きには、ペンテコステの日に弟子たちが天から聖霊を受けたことが記されています。このペンテコステの日のことを想いながらルカの福音書を学びたいと思いましたから、「聖霊」という言葉が出て来る今日の箇所のルカ11章を選びました。「聖霊」は13節で使われていますね。イエスさまは、「天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます」とおっしゃいました。

聖霊を求める
 先ずは、きょうのルカ11章の箇所を簡単に見てみましょう。イエスさまは弟子たちに、こう言われました。5節と6節、

11:5 また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうちのだれかに友だちがいて、その人のところに真夜中に行き、次のように言ったとします。『友よ、パンを三つ貸してくれないか。
11:6 友人が旅の途中、私のところに来たのだが、出してやるものがないのだ。』

 時刻は真夜中でしたから、友だちにとっては迷惑な話でした。7節、

11:7 すると、その友だちは家の中からこう答えるでしょう。『面倒をかけないでほしい。もう戸を閉めてしまったし、子どもたちも私と一緒に床に入っている。起きて、何かをあげることはできない。』

 昼間のことなら、この友だちの応対は冷たいということになりますが、真夜中なのですから、当然のことです。イエスさまは続けました。

11:8 あなたがたに言います。この人は、友だちだからというだけでは、起きて何かをあげることはしないでしょう。しかし、友だちのしつこさのゆえなら起き上がり、必要なものを何でもあげるでしょう。

 そうして、イエスさまは弟子たちに言いました。9節と10節、

11:9 ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。
11:10 だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。

 イエスさまは弟子たちに、しつこく祈り求めることの大切さを説きました。さて、ではイエスさまは何を祈り求めることが大切だとおっしゃったのでしょうか。11節と12節、

11:11 あなたがたの中で、子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか。
11:12 卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか。

 面白い例えですが、どうやらイエスさまはここで、自分が求めることをハッキリさせるように言っているようです。魚が欲しいなら、ちゃんと魚を求めるように、卵が欲しいなら卵を求めるようにと言っているようです。その上で、13節のようにおっしゃいました。

11:13 ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。

 ルカの福音書のイエスさまはここで、聖霊をしつこく祈り求めるようにと言っておられます。まず、「あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与える」と言い、続いて「天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます」と言われました。聖霊は良いものの中でも最上のものです。

聖霊を重視するルカ文書
 興味深いことに、マタイの福音書には「聖霊」という言葉は含まれていません。週報のp.3に載せたマタイの福音書7章の7節から11節までを交代で読みましょう。

7:7 求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。
7:8 だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。
7:9 あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。
7:10 魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。
7:11 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。

 このようにマタイの福音書では、ただ単に「良いもの」を二回繰り返しているだけです。しかし、ただ単に「良いもの」と言われても、それを直ちに聖霊と結び付けるのは難しいですね。ルカの福音書のイエスさまの場合はハッキリと、「天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます」とおっしゃいました。ここに聖霊を重視しているルカの福音書の特徴がハッキリと表れています。
 ルカの福音書のイエスさまがハッキリと「聖霊」とおっしゃったことは、使徒の働きの視点から見れば、良く分かることです。使徒の働きとは「聖霊の働き」のことだとも言われます。それほど使徒たちの働きに「聖霊」は不可欠でした。聖霊の力が無ければ、使徒たちは何もできませんでした。ペンテコステの日まで、弟子たちはひたすら聖霊を祈り求めていました。聖霊を受けるまでの彼らは祈ること以外には、何の活動もしていませんでした。そうしてペンテコステの日に聖霊を受けて初めて、イエス・キリストの証人としての働きを始めたのでした。
 聖霊を受けると、聖霊を受けた者の中にはイエスさまが住んで下さるようになります。それゆえ、その者はイエスさまと霊的に出会うことができてイエスさまの証人になることができます。このことは、いつも話していることですね。その他にも、聖霊を受けた者の内に入ったイエスさまは、その者の心をきよめて下さいます。

心をきよめる聖霊の働き
 きょうは残りの時間で、同じルカの福音書11章を見ながら、イエスさまが聖霊を受けた者の心をきよめて下さることをご一緒に学ぶことにしたいと思います。11章の20節から26節までを交代で読みましょう。

11:20 しかし、わたしが神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。
11:21 強い者が十分に武装して自分の屋敷を守っているときは、その財産は無事です。
11:22 しかし、もっと強い人が襲って来て彼に打ち勝つと、彼が頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。
11:23 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしとともに集めない者は散らしているのです。
11:24 汚れた霊は人から出て行くと、水のない地をさまよって休み場を探します。でも見つからず、『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。
11:25 帰って見ると、家は掃除されてきちんと片付いています。
11:26 そこで出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は、初めよりも悪くなるのです。」

 一つ一つ見ていきます。20節、

11:20 しかし、わたしが神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。

 イエスさまは神の子キリストであると信じて聖霊を受けた者は、イエスさまが悪霊どもをその者の中から追い出して下さいます。このイエスさまのきよめの働きがないとどうなるでしょうか。21節以降を見てみましょう。21節、

11:21 強い者が十分に武装して自分の屋敷を守っているときは、その財産は無事です。

 強い意志を持つ人は、悪から遠ざかることがある程度は可能でしょう。意志の強い人は自分で自分の心を守ります。しかし、悪魔の力は強力ですから、時に悪魔はそのように意志の強い人の心にも侵入して、その人の心の中を荒らします。22節です。

11:22 しかし、もっと強い人が襲って来て彼に打ち勝つと、彼が頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。

 そして23節、

11:23 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしとともに集めない者は散らしているのです。

 こうしてイエスさまから離れている人の心は荒らされます。

きれいになっても聖霊が入らないと却って悪くなる
 しかし、何かの治療を受ければ汚れた霊が出て行くこともあるでしょう。例えばアルコール依存症の人が治療を受ければ一旦はアルコールから離れることができます。そんな時は汚れた霊も、その人から出ているでしょう。24節、

11:24 汚れた霊は人から出て行くと、水のない地をさまよって休み場を探します。でも見つからず、『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。

 この24節、25節そして26節は非常に不気味です。続いて25節と26節、

11:25 帰って見ると、家は掃除されてきちんと片付いています。
11:26 そこで出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は、初めよりも悪くなるのです。」

 せっかく悪霊が出て行っても、そこにイエスさまがいないのなら、とても悲惨なことになります。
 最近、世間を騒がせたニュースにジャニーズのグループのメンバーの事件がありましたね。この人は、アルコール依存症だそうで、事件を起こす前には入院して治療をしていたそうです。今のルカ11章で言うなら、24節で一度汚れた霊が出て行った状態と言えると思います。アルコール依存症の治療によって、汚れた霊は一時的に出て行きました。この汚れた霊が出て行った段階でイエスさまにしっかりと入っていただくことができるなら、汚れた霊が戻って来ないようにイエスさまが防いで下さいます。しかし、ただ単にきれいになっただけなら、汚れた霊は戻って来てしまいます。先ほどのグループのメンバーも、そのようなことになってしまったと言えるのかもしれません。

おわりに
 26節をもう一度お読みします。

11:26 そこで出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は、初めよりも悪くなるのです。」

 ですから聖霊は、単にイエスさまの証人になるために必要なだけでなく、心の中が汚れた霊によって悲惨な状態にならないためにも、是非とも必要です。このように聖霊が私たちの心をきよめて下さる働きを持つこともしっかりと心に刻んで、私たちはペンテコステに向かって歩んで行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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人は皆すべて父の家の家出人(2018.4.29 礼拝)

2018-05-03 09:15:36 | 礼拝メッセージ
2018年4月29日礼拝メッセージ
『人は皆すべて父の家の家出人』
【ルカ15:11~24】

はじめに
 ルカの福音書の学びを始めてから3週目に入りました。このシリーズでは、使徒の働きの視点からルカの福音書を眺めることを試みています。ルカの福音書も使徒の働きも両方ともルカが書いた文書です。そしてルカは福音書を書いていた時点から次には使徒の働きを書く構想を思い描いていたと考えるのが自然です。なぜならルカはパウロのヨーロッパへの伝道旅行に同行して、パウロの言動を身近な場所で直接見聞きしてよく知っていたからです。福音書でイエスさまの言動を書いていた時に、次にはパウロについて書きたいと思わなかったはずがありません。そういう視点でルカの福音書を眺めるなら、この福音書を使徒の働きと切り離して単独で眺めるよりも遥かに多くのことを学べる筈です。このシリーズでは、そのようなことを意識しながら、ルカの福音書の学びを進めて行きたいと願っています。

使徒の働きの時代のユダヤ人たちと重なるパリサイ人たち
 さて、きょうの聖書箇所は有名な「放蕩息子の帰郷」の箇所です。この「放蕩息子の帰郷」を使徒の働きの視点から見るなら、放蕩息子とは異邦人のことであろうということは、以前も礼拝の中で話したことがあります。ただし、そんなにしっかりとは話していなかったと思いますし、その時点での私の考察も十分ではありませんでした。
 今回は100匹の羊と10枚の銀貨の箇所も含めて、考察してみたいと思います。
 まず、15章の1節から見て行きます。1節と2節、

15:1 さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。
15:2 すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言った。

 このパリサイ人たちの姿を、イエスさまは兄息子で表現していますね。2節でパリサイ人たちはイエスさまのことを「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言って批判しました。これは、兄息子が30節で、「遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは」と父親に文句を言ったのとまったく同じですね。
 そして、このイエスさまに文句を言ったパリサイ人たちは、使徒の働きの視点から見るなら、使徒の働きの時代のユダヤ人たちのことだと言えるでしょう。ユダヤ人たちから見れば律法を守らない異邦人は罪人でした。そんな律法を守らない罪人が救われるはずがないとユダヤ人たちは考えていました。それは、ルカ15章2節のパリサイ人たちがイエスさまのことを「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言っているのとまったく同じですね。

羊と銀貨は悔い改めない
 次の箇所に行きます。3節から7節までを交代で読みましょう。

15:3 そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。
15:4 「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
15:5 見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、
15:6 家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。
15:7 あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。

 今回、改めてこのいなくなった一匹の羊の箇所と、次のなくした一枚の銀貨のたとえを読み直してみて、その次の「放蕩息子の帰郷」の箇所との関係について思い巡らしてみました。「放蕩息子」の前に羊と銀貨の例えが挿入されていることには、どのような意味があるのでしょうか。そのことを考えつつ、次の銀貨の箇所も読んでみます。8節から10節までも読んでみましょう。

15:8 また、ドラクマ銀貨を十枚持っている女の人が、その一枚をなくしたら、明かりをつけ、家を掃いて、見つけるまで注意深く捜さないでしょうか。
15:9 見つけたら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『一緒に喜んでください。なくしたドラクマ銀貨を見つけましたから』と言うでしょう。
15:10 あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」

 今回、改めて羊と銀貨の箇所を読み直してみて目に留まったのは、7節と10節の両方に書かれている「それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら」というイエスさまのことばです。イエスさまは、「それと同じように」とおっしゃいますが、羊や銀貨は「悔い改める」でしょうか。どちらも悔い改めるとは思えません。羊の場合は、もしかしたら悔い改めるかもしれませんが、銀貨が悔い改めることは決してないでしょう。では、なぜイエスさまは、なくなった銀貨の話をして「それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら」とおっしゃったのでしょうか。

方向転換に当てられている焦点
 これは、ひとつには「悔い改める」という日本語の訳に若干の問題があるように思います。銀貨が悔いるはずがありませんから、変な感じを受けてしまいますが、「悔い改める」のギリシャ語の「メタノエオー」には「方向転換する」という意味があるそうです。ですからイエスさまが銀貨の例えを話したのは「悔いる」ことに焦点を当てているのではなくて、女の人から離れて行った銀貨がまた元に戻って来たという方向転換に焦点が当てられているのだと考えるべきでしょう。
 これらのことを思い巡らしていて、ふと思い起こしたのが、週報のp.3に載せたルカの福音書の7章の29節と30節です。お読みします。

ルカ7:29 ヨハネの教えを聞いた民はみな、取税人たちでさえ彼からバプテスマを受けて、神が正しいことを認めました。30 ところが、パリサイ人たちや律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けず、自分たちに対する神のみこころを拒みました。

 このようにパリサイ人たちや律法の専門家たちは、ヨハネからバプテスマを受けませんでした。このヨハネの授けていたバプテスマとは、「悔い改めのバプテスマ」です。週報p.3に載せたように、ルカの福音書には3章3節に、それが記されています。

ルカ 3:3 ヨハネはヨルダン川周辺のすべての地域に行って、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。

 このことを踏まえて、ルカ15章の7節と10節の、「あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら」をもう一度見てみましょう。「あなたがたに言います」の「あなたがた」とは2節にあるようにパリサイ人たちと律法学者たちでした。この者たちは悔い改めのバプテスマを受けていませんでした。それはつまり、彼らは悔い改めていないということです。
 イエスさまは彼らに対して羊と銀貨の例話で「あなたがたは悔い改めていない」と言い、その上で「放蕩息子の帰郷」へと話を進めて行った、そのような展開が見えて来ます。

方向転換をした弟息子
 では、今度は「放蕩息子の帰郷」を見て行きましょう。皆さん良くご存知の場面ですが、改めてご一緒に読んでみたいと思います。まず11節から16節までを交代で読みましょう。

15:11 イエスはまた、こう話された。「ある人に二人の息子がいた。
15:12 弟のほうが父に、『お父さん、財産のうち私がいただく分を下さい』と言った。それで、父は財産を二人に分けてやった。
15:13 それから何日もしないうちに、弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまった。
15:14 何もかも使い果たした後、その地方全体に激しい飢饉が起こり、彼は食べることにも困り始めた。
15:15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑に送って、豚の世話をさせた。
15:16 彼は、豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほどだったが、だれも彼に与えてはくれなかった。

 放蕩息子の弟息子は父親から遠く離れた国にやって来て、そこで財産を使い果たしてしまい、そこでふと父親のことを思い出しました。17節、

15:17 しかし、彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。

 弟息子は我に返りました。そして18節と19節、

15:18 立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。
15:19 もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』

 これが「悔い改める」ということですね。弟息子は「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です」と自らの罪を告白しました。そうして「雇い人の一人にしてください」と言おうと思いました。それは、どういう形でも良いから、とにかく父の家に入れてもらいたいということです。つまり、弟息子はそれまでは父の家に背を向けていましたが、この時点で方向転換をして、父の家の方向をしっかりと向いていました。つまり、悔い改めたのです。
 続いて20節から24節までを交代で読みましょう。

15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。
15:21 息子は父に言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』
15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。
15:23 そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。
15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。

 以上の三つの例え話を通してルカの福音書のイエスさまは、羊でも銀貨でも人でも、元々いた場所に戻ることが尊いことだと教えて下さっています。

父に背を向けて家に入らなかった兄息子
 それは、次の兄息子の例え話を読むと、俄然はっきりして来ます。25節から32節までを交代で読みましょう。

15:25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえてきた。
15:26 それで、しもべの一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。
15:27 しもべは彼に言った。『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事な姿でお迎えしたので、お父様が、肥えた子牛を屠られたのです。』
15:28 すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て彼をなだめた。
15:29 しかし、兄は父に答えた。『ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。
15:30 それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。』
15:31 父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。
15:32 だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。』」

 25節を見ると、「兄息子は畑にいた」とあります。つまり、兄息子も家の外にいたということです。そうして、一応は家の近くまで帰って来ましたが、父のしたことに腹を立てて家に入ろうとしませんでした。28節に、「すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった」とあります。こうして、家に入った弟息子と、家に入らなかった兄息子とが鮮やかに対比されます。

人は皆すべて父の家の家出人
 この例え話は2節で見たように、パリサイ人と律法学者たちに向けて話されたものですから、兄息子とは彼らパリサイ人と律法学者たちのことです。彼らは律法を守っていましたから、一見すると父の家の住人のようですが、実は父の家から出て畑に出たままになっていて、家の中には戻っていないのです。
 そして、パウロたちの使徒の時代においては、兄息子はユダヤ人たちでした。弟息子の異邦人は父の家に続々と戻って来ていましたが、ユダヤ人たちは父の家に入ろうとしていません。使徒の働きやローマ人への手紙でパウロはユダヤ人たちがイエス・キリストを信じようとしないことを盛んに嘆いていますね。
 以上、きょう学んだことを振り返るなら、ユダヤ人であっても異邦人であっても、人は誰でも皆、家の外にいる者たちなのだということがわかります。異邦人の場合には遠い昔に家を出ていましたから、とても分かりやすいですが、ユダヤ人であっても父の家を出て入ろうとしていません。
 しかし、神様は誰であっても、ユダヤ人でも異邦人でも、皆等しく家の中に迎え入れて下さいます。いま、教会に集っていない方々は皆、父の家の外にいる方々です。私たちは、それらの方々が皆、父の家の中に入ることができるよう、用いられたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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神殿で始まり、神殿で終わる(2018.4.22 礼拝)

2018-04-23 12:15:11 | 礼拝メッセージ
2018年4月22日礼拝メッセージ
『神殿で始まり、神殿で終わる』
【ルカ1:5~10、24:44~53】

はじめに
 先週からルカの福音書の学びを始めました。ルカは福音書を書いた後で使徒の働きも書きました。私たちは使徒の働きを2年近くに亘って学んで来ましたから、学んだことを良く覚えている間に、使徒の働きの観点から福音書を眺める、ということをしてみたいと思います。ルカの福音書のどこを開くかは、その時その時で示された箇所を開くことにします。
 先週私はルカの福音書の始めから終わりまでを、また改めて読んでみました。私はいつも木曜日に次の聖日の礼拝プログラムを決めてブログにアップすることにしていますが、木曜の朝になっても、今日の礼拝メッセージの聖書箇所をどこにするか、なかなか決められないでいました。それで改めてルカの福音書を通して読んでみることにしました。
 そうして最初から最後までを読んでみて、きょうはルカの福音書の最初と最後を取り上げることにしました。ルカはこの福音書を神殿の場面から始めて、神殿の場面で終わるようにして書いていることを強く感じたからです。この構造からルカは何を表現しようとしたのかについて、きょうはご一緒に思いを巡らしてみたいと思います。

神殿の場面で始まるルカの福音書
 まずルカの福音書の始めの方を見ましょう。ご承知の通り、ルカの福音書はテオピロ殿への言葉から始まります。新しい聖書ではテオピロ殿がテオフィロ様になっています。1章3節にありますね。

1:3 私も、すべてのことを初めから綿密に調べていますから、尊敬するテオフィロ様、あなたのために、順序立てて書いて差し上げるのがよいと思います。

 そうして、このテオフィロへの言葉の後の5節から福音書の本編が始まります。5節、

1:5 ユダヤの王ヘロデの時代に、アビヤの組の者でザカリヤという名の祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。

 このザカリヤとエリサベツの夫妻は、皆さんご承知の通り、バプテスマのヨハネの両親です。ザカリヤはレビ族の家系の祭司でした。少し飛ばして8節と9節。

1:8 さてザカリヤは、自分の組が当番で、神の前で祭司の務めをしていたとき、
1:9 祭司職の慣習によってくじを引いたところ、主の神殿に入って香をたくことになった。

 祭司のザカリヤはくじ引きによって神殿に入って香をたくことになりました。そして10節、

1:10 彼が香をたく間、外では大勢の民がみな祈っていた。

 このようにルカの福音書は、バプテスマのヨハネの父親のザカリヤが、神殿の中で香をたいた場面から始まります。

聖霊を送る予告
 次に、ルカの福音書の最後の場面を見ましょう。24章の44節から53節までです。ここには復活したイエスさまが弟子たちの前に現れて、これから起きることを弟子たちに話している場面が描かれています。44節、

24:44 そしてイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたと一緒にいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。」

 イエスさまについて書いてあることとは、例えば週報p.3に載せたルカ4章18節と19節に書いてあるようなことです。ここでイエスさまはイザヤ書の巻き物を手渡されたので、イザヤ書61章を読みました。

4:18 「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、
4:19 主の恵みの年を告げるために。」

 この貧しい人に良い知らせを伝えるなどの働きはイエスさまの地上生涯においてだけでなく、イエスさまが天に昇った後も、聖霊を受けた弟子たちによって引き継がれて行きました。
 続いて45節から48節まで、

24:45 それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
24:46 こう言われた。「次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
24:47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、
24:48 あなたがたは、これらのことの証人となります。

 弟子たちはイエス・キリストの証人でした。そのための力は聖霊によって与えられました。49節、

24:49 見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」

 「わたしの父が約束されたもの」というのが聖霊のことですね。イエスさまは弟子たちに聖霊を送ると予告しました。そうしてイエスさまは天に昇って行きました。50節と51節、

24:50 それからイエスは、弟子たちをベタニアの近くまで連れて行き、手を上げて祝福された。
24:51 そして、祝福しながら彼らから離れて行き、天に上げられた。

神殿の場面で終わるルカの福音書
 そして次の弟子たちの様子を描写する場面でルカの福音書は閉じられます。52節と53節、

24:52 彼らはイエスを礼拝した後、大きな喜びとともにエルサレムに帰り、
24:53 いつも宮にいて神をほめたたえていた。

 弟子たちはいつも宮にいて神をほめたたえていました。「宮」というのは神殿のことです。ですからルカの福音書はザカリヤが神殿に入って香を焚いた場面から始まり、弟子たちが神殿で神をほめたたえていた場面で終わっています。
 神殿で始まり、神殿で終わる、つまり神殿という箱の中にイエスさまの言動が収められているという形になっています。ルカの福音書の全体が神殿という箱の中に収められているのです。このような構造を、使徒の働きの観点から眺めてみるなら、何が見えて来るでしょうか。続いて、そのことに思いを巡らして行くことにしましょう。

足の不自由な人を癒したペテロの中のイエス
 いま見たルカ24章でイエスさまが弟子たちに聖霊を送るとおっしゃった場面は、使徒の働きの1章でもう一度繰り返されます。有名な使徒の働き1章8節でイエスさまは、「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」とおっしゃいました。
 そうして弟子たちが祈っていると、ペンテコステの日に弟子たちに聖霊が降ったことが使徒の働きの2章に記されていますね。こうして弟子たちの内に聖霊が入りました。そして、使徒3章でペテロは足の不自由な人を癒しました。先週の礼拝メッセージでは、この使徒3章のペテロが足の不自由な人が人を癒した場面と、ルカの福音書5章のイエスさまが寝たきりの中風の人を癒した場面とが並び立つ並行関係にあることを指摘しました。そして、この並行関係の構造からは、足の不自由な人を癒したペテロの中にはイエスさまがいて、イエスさまご自身が足の不自由な人を癒した様子が見えて来ると話しました。聖霊を受けた弟子たちの内にはイエスさまがいました。そして使徒たちの働きとは、実は弟子たちの内にいるイエスさまの働きのことなのです。

聖霊を受けた者の体は神殿
 自分の内に聖霊がいるクリスチャンの体は、体自身が神殿です。これはパウロが書いていることです。聖霊を受けた者は、その者自身の体が神殿になっているのだとパウロはコリント人への手紙第一の中で書いています。週報のp.3に第一コリント3章16節を載せておきましたので、ご一緒に読みましょう。

Ⅰコリ 3:16 あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。

 もう一箇節、第一コリント6章19節でも、パウロは同様のことを書いています。ご一緒に読みましょう。

Ⅰコリ 6:19 あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。

 このように、聖霊を受けた者の体は、神殿で、その一人一人の神殿の内に聖霊がおられ、それはすなわち、イエスさまが住んでおられるということです。
 このことを理解した上で、ルカの福音書の神殿で始まり、神殿で終わる構造を意識しながら、ルカの福音書の全体を是非読んでみていただきたいと思います。ルカの福音書は神殿という箱の中にイエスさまの言動が収められています。その神殿という箱は聖霊を受けた私たちの体です。そうして私の体の中にルカの福音書のイエスさまがいて、イエスさまが私の体の中から語り掛けて下さっていると感じることと思います。
 同じく週報のp.3に載せましたが、ルカ17章20節でイエスさまはパリサイ人たちに対して言いました。ルカ17章20節、

ルカ17:20 パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。21 『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」

 イエスさまは聖霊を受けた私たちの中にいますから、そこは神の国でもあるのだということを、イエスさまは教えて下さっています。
 ルカはこのように、ルカの福音書と使徒の働きの二つの書を使って、聖霊を受けた者の中にはイエスさまがいることを、私たちに伝えてくれています。聖霊を受けた私たちが、イエスさまのことをとても身近に感じるのは、そのためです。そして、ルカが二つの書を使ってそれを示したのに対して、ヨハネは一つの書でそれを示しました。きょう、このルカの二つの書について学びましたから、いつも開いているヨハネの福音書4章のことが、一層よくわかっていただけるのではないかと思います。

ヨハネ4章のサマリア人の中のイエス
 最後に、いつも開いているヨハネ4章の39節から42節までを交代で読みましょう。

4:39 さて、その町の多くのサマリア人が、「あの方は、私がしたことをすべて私に話した」と証言した女のことばによって、イエスを信じた。
4:40 それで、サマリア人たちはイエスのところに来て、自分たちのところに滞在してほしいと願った。そこでイエスは、二日間そこに滞在された。
4:41 そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。
4:42 彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです。」

 いつも話していますが、この箇所は使徒の働き8章のピリポによるサマリア伝道の箇所と重ねられています。サマリア人たちは聖霊を受けましたから、サマリア人たちの中にはイエスさまが住み始めました。使徒の働きの時代のサマリア人たちは地上生涯のイエスさまと実際に出会ったことはありませんでしたが、聖霊を受けたことでイエスさまがサマリア人たちの中で住み始めました。そうして神としてのイエスさまと本当に出会うことができました。

おわりに
 イエスさまを信じて聖霊を受けた私たちの中にもイエスさまがおられます。それゆえ福音書を読む時、私たちはイエスさまをとても身近に感じることができます。
 この素晴らしい恵みを、もっともっと多くの方々と分かち合うことができるようになりたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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使徒の働きを学び終えてルカを読む(2018.4.15 礼拝)

2018-04-18 07:54:36 | 礼拝メッセージ
2018年4月15日礼拝メッセージ
『使徒の働きを学び終えてルカを読む』
【ルカ5:17~26】

5:17 ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人たちと律法の教師たちが、そこに座っていた。彼らはガリラヤとユダヤのすべての村やエルサレムから来ていた。イエスは主の御力によって、病気を治しておられた。
5:18 すると見よ。男たちが、中風をわずらっている人を床に載せて運んで来た。そして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとした。
5:19 しかし、大勢の人のために病人を運び込む方法が見つからなかったので、屋上に上って瓦をはがし、そこから彼の寝床を、人々の真ん中、イエスの前につり降ろした。
5:20 イエスは彼らの信仰を見て、「友よ、あなたの罪は赦された」と言われた。
5:21 ところが、律法学者たち、パリサイ人たちはあれこれ考え始めた。「神への冒瀆を口にするこの人は、いったい何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」
5:22 イエスは彼らがあれこれ考えているのを見抜いて言われた。「あなたがたは心の中で何を考えているのか。
5:23 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
5:24 しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、中風の人に言われた。「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」
5:25 すると彼はすぐに人々の前で立ち上がり、寝ていた床を担ぎ、神をあがめながら自分の家に帰って行った。
5:26 人々はみな非常に驚き、神をあがめた。また、恐れに満たされて言った。「私たちは今日、驚くべきことを見た。」

はじめに
 礼拝では先月の年会の前まで2年近く、使徒の働きをずっと学んで来ました。新しい年度に入って今度はどんな学びをしようか思いを巡らしていましたが、これからしばらくの間、ルカの福音書を開くことにしたいと思います。1章から2章、3章と順次学んで行くと、また2年ぐらい掛かってしまいますから、そういう連講方式ではなくて、その時その時で示された箇所を開くことにします。ですから行ったり来たりもすることと思います。
 ルカの福音書を学ぶことにしたのは、私たちが使徒の働きの学びを終えた直後だからという理由からです。使徒の働きで学んだことを覚えている間に、ルカの福音書を学びたいと思いました。使徒の働きの観点からルカの福音書を眺めるということをしてみたいと思います。ルカの福音書も使徒の働きもどちらもルカが書いたものです。まず福音書が書かれて、次に使徒の働きが書かれましたが、ルカは福音書を書いていた時点から既に使徒の働きを書く構想を持っていたことでしょう。福音書を書き終わった後で、使徒の働きを書くことを思い付いたわけではないでしょう。なぜならルカはパウロの伝道旅行に同行していたからです。使徒の働きの後半には「私たちは」という表現が何度も出て来ることを私たちは学びました。ルカはパウロの身近にいてパウロの言動の細かいことまでを良く知っていました。ですから、ルカが福音書でイエス・キリストについて書いていた時に、次はパウロについて書こうと思っていたと考えるのが自然です。
 これからのルカの福音書の学びでは、そのようにルカが使徒の働きを書く構想を持ちながら福音書を書いたという視点から読んでみたいと思います。

ペテロの中のイエスが見える使徒3章との並行関係
 第1回目のきょうは、ルカ5章の17節から26節までです。この箇所はマタイの福音書とマルコの福音書にも同じ記事がありますから、使徒の働きの視点でこの箇所を読むということは普段はしないと思いますが、きょうはそれをしてみたいと思います。
 先ず、ルカの福音書と使徒の働きとの並行関係から見ると、この寝たきりだった中風の人が起きて歩き始めた出来事の並行記事は使徒3章でペテロが足の不自由な人を癒した記事です。ルカ5章と見比べやすいように、この使徒3章は週報のp.3に載せておきました。

3:1 ペテロとヨハネは、午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。
3:2 すると、生まれつき足の不自由な人が運ばれて来た。この人は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」と呼ばれる宮の門に置いてもらっていた。
3:3 彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。
3:4 ペテロは、ヨハネとともにその人を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。
3:5 彼は何かもらえると期待して、二人に目を注いだ。
3:6 すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
3:7 そして彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
3:8 躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩いたり飛び跳ねたりしながら、神を賛美しつつ二人と一緒に宮に入って行った。
3:9 人々はみな、彼が歩きながら神を賛美しているのを見た。
3:10 そしてそれが、宮の美しの門のところで施しを求めて座っていた人だと分かると、彼の身に起こったことに、ものも言えないほど驚いた。

 使徒3章2節でこの人は「運ばれて来た」とありますから、ルカ5章で中風の人が運ばれて来たのと同じですね。そしてペテロは「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言いました。これもルカ5章でイエスさまが「起きなさい」と言ったことと重なります。そして使徒3章9節と10節には「人々はみな・・・ものも言えないほど驚いた」とあります。これもルカ5章26節で、「人々はみな非常に驚き」とあるのと重なります。
 この二つの記事の重なりからは、使徒のペテロの中にはイエス・キリストがいることが見えて来ます。ペテロはペンテコステの日に聖霊を受けました。聖霊を受けた者の中にはイエス・キリストが住んでいます。そのペテロの中のイエス・キリストが足の不自由な人を癒して歩けるようにしました。

罪の奴隷からの解放
 もう一つ、この二つの並行記事から見えて来ることは、イエスさまによって救われた者は罪の縛りから解き放たれて自由になるということです。使徒3章8節(週報p.3)には、この人が「歩いたり飛び跳ねたりしながら、神を賛美しつつ二人と一緒に宮に入って行った」とあります。ここからは、この人がとても自由になったことがわかります。
 ここでヨハネの福音書8章の1節から4節までをご一緒に読みたいと思います。

8:31 イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。
8:32 あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
8:33 彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともありません。どうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」
8:34 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。

 イエスさまのことばにとどまる人はイエスさまの弟子になり、真理を知り、真理はその人を自由にします。そうでない者は「罪の奴隷」になっていて、不自由な状態にあります。中風の人や足の不自由な人は、罪に縛られて不自由になっている「罪の奴隷」を目に見える形にしたと読み取れるように感じます。
 そう考えると、ルカ5章20節でイエスさまが「友よ、あなたの罪は赦された」と言っていることも、とても分かりやすくなるように思います。
 罪の奴隷になっている者は、まるで歩けなくなっている者のように不自由です。心と肉体の違いはありますが、罪の奴隷になっている人の心はとても不自由です。

律法に縛られていたパリサイ人たち
 それはパリサイ人にも当てはまることです。このルカ5章の場にいたパリサイ人たちも律法に縛られた不自由な人たちであったと言えるでしょう。パリサイ人たちがいたことは17節に記されています。17節、

5:17 ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人たちと律法の教師たちが、そこに座っていた。

 このパリサイ人たちは後にイエスさまが安息日に病人を癒した時にイエスさまを批判しました。ルカ13章の10節から16節までを読みましょう。

13:10 イエスは安息日に、ある会堂で教えておられた。
13:11 すると、そこに十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全く伸ばすことができない女の人がいた。
13:12 イエスは彼女を見ると、呼び寄せて、「女の方、あなたは病から解放されました」と言われた。
13:13 そして手を置かれると、彼女はただちに腰が伸びて、神をあがめた。
13:14 すると、会堂司はイエスが安息日に癒やしを行ったことに憤って、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。だから、その間に来て治してもらいなさい。安息日にはいけない。」
13:15 しかし、主は彼に答えられた。「偽善者たち。あなたがたはそれぞれ、安息日に、自分の牛やろばを飼葉桶からほどき、連れて行って水を飲ませるではありませんか。
13:16 この人はアブラハムの娘です。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日に、この束縛を解いてやるべきではありませんか。」

 イエスさまは、この会堂司を偽善者と呼びました。律法を守ることを優先すると、このような偽善者になってしまいます。もう一箇所ルカ14章の1節から5節までを読みましょう。

14:1 ある安息日のこと、イエスは食事をするために、パリサイ派のある指導者の家に入られた。そのとき人々はじっとイエスを見つめていた。
14:2 見よ、イエスの前には、水腫をわずらっている人がいた。
14:3 イエスは、律法の専門家たちやパリサイ人たちに対して、「安息日に癒やすのは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか」と言われた。
14:4 彼らは黙っていた。それで、イエスはその人を抱いて癒やし、帰された。
14:5 それから、彼らに言われた。「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者が、あなたがたのうちにいるでしょうか。」

 少し前に京都府の舞鶴市で大相撲の巡業があった時に、市長が土俵の上で挨拶している時に倒れてしまい、救命の心臓マッサージをするために女性たちが土俵に上がりました。すると、その女性たちに対して「土俵から降りて下さい」というアナウンスがあったということが大きなニュースになりましたね。そのニュースで、ルカ14章5節のイエスさまの言葉を思い起こしたクリスチャンも多かったのではないでしょうか。「市長が倒れたのに、土俵だからといって、すぐに助けてやらない者が、あなたがたのうちにいるでしょうか」とイエスさまはおっしゃるでしょう。この件では相撲協会は批判の的になりました。しかし、気を付けないと、私たちクリスチャンもこのような律法主義的な者になってしまう恐れがあります。
 毎日聖書を読み、毎週欠かさず礼拝に出席していたとしても、もし神様と交わる喜びを感じていないとしたら、それはただ単にクリスチャンが守らなければならない規則として行っていることになってしまいます。神様と交わりを持つことは大きな喜びを伴います。使徒3章の足が不自由だった人は飛び跳ねたりしながら、神を賛美したとあります。私たちはいつも、そのような大きな喜びを持って、神様を賛美したいと思います。

おわりに
 ルカ5章の中風を患っていた人も、使徒3章の足が不自由だった人も、どちらもこの現場へは人々に運ばれて来ました。そうして罪の奴隷から解放されました。私たちもほとんどの者が他の人に連れられて教会に来たことと思います。中には長血の女のように自力でイエスさまの所に来た方もいらっしゃるかもしれませんが、ほとんどの人は誰かの導きによって教会に来たことでしょう。罪に縛られている者がイエスさまのみもとに行くことは難しいことです。そんな私たちを教会に導いてくれて、神様を賛美する大きな喜びを教えて下さった方々に心から感謝したいと思います。そして、私たちもその働きを担っていきたいと思います。
 教会が変われば、そのやり方も異なることもあるでしょうから、それは教えていただきながら、その働きも引き続き担って行きたいと思います。そうして、多くの方々と共に、神様を賛美する喜びを分かち合いたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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私たちは復活したイエスに出会った証人(2018.4.1 礼拝)

2018-04-03 11:20:23 | 礼拝メッセージ
2018年4月1日イースター・聖餐式礼拝メッセージ
『私たちは復活したイエスに出会った証人』 
【ヨハネ1:35~40、21:24~25】

はじめに
 イースターおめでとうございます。
 イエス・キリストのよみがえりを皆さんと共に心一杯喜びたいと思います。
 聖書交読で開いた使徒の働きの1章3節にあるように、イエス・キリストは苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示されました。四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られました。
 そして天に昇る前に8節で、こう言われました。

1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」

 聖霊を授かった者は力を受けて、イエス・キリストの証人になります。この時のイエスさまは、まだ復活したばかりでしたから、弟子たちは人間のイエスさまのことをよく知っていました。ですから、ペテロやヨハネなどの弟子たちは彼らが知っている人間のイエスさまについて証言をしました。そしてまた、復活したイエスさまのことも証言をしました。これらの証言が新約聖書の福音書には書かれています。

パウロの証言
 或いはまた、パウロのように人間のイエスさまには会ったことが無かった者たちも「復活したイエス・キリスト」との出会いの証人となって、証言をしました。使徒の働き9章にはパウロがダマスコへ行く途中で復活したイエスさまと出会ったことが書かれています。そして、パウロ自身もまたこのことを証言したことが使徒の働きの22章と26章に書かれています。
 22章の6節から11節までを交代で読みましょう。

22:6 私が道を進んで、真昼ごろダマスコの近くまで来たとき、突然、天からのまばゆい光が私の周りを照らしました。
22:7 私は地に倒れ、私に語りかける声を聞きました。『サウロ、サウロ、どうしてわたしを迫害するのか。』
22:8 私が答えて、『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、その方は私に言われました。『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである。』
22:9 一緒にいた人たちは、その光は見たのですが、私に語っている方の声は聞き分けられませんでした。
22:10 私が『主よ、私はどうしたらよいでしょうか』と尋ねると、主は私に言われました。『起き上がって、ダマスコに行きなさい。あなたが行うように定められているすべてのことが、そこであなたに告げられる』と。
22:11 私はその光の輝きのために目が見えなくなっていたので、一緒にいた人たちに手を引いてもらって、ダマスコに入りました。

 ここでは使徒の働き9章に書かれていることとほぼ同じことがパウロ自身の口によって語られています。そして26章も交代で読みましょう。少し長いですが26章の9節から18節までを交代で読みましょう。ここもパウロ自身の口による証言です。

26:9 実は私自身も、ナザレ人イエスの名に対して、徹底して反対すべきであると考えていました。
26:10 そして、それをエルサレムで実行しました。祭司長たちから権限を受けた私は、多くの聖徒たちを牢に閉じ込め、彼らが殺されるときには賛成の票を投じました。
26:11 そして、すべての会堂で、何度も彼らに罰を科し、御名を汚すことばを無理やり言わせ、彼らに対する激しい怒りに燃えて、ついには国外の町々にまで彼らを迫害して行きました。
26:12 このような次第で、私は祭司長たちから権限と委任を受けてダマスコへ向かいましたが、
26:13 その途中のこと、王様、真昼に私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、私と私に同行していた者たちの周りを照らしました。
26:14 私たちはみな地に倒れましたが、そのとき私は、ヘブル語で自分に語りかける声を聞きました。『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげの付いた棒を蹴るのは、あなたには痛い。』
26:15 私が『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、主はこう言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
26:16 起き上がって自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たことや、わたしがあなたに示そうとしていることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。
26:17 わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのところに遣わす。
26:18 それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである。』

 このように使徒の働きには9章も含めて3回も、パウロが復活したイエスさまに出会ったことの証言が記されています。そして、16節にはイエスさまご自身がパウロにこう言ったことが書かれています。「わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たことや、わたしがあなたに示そうとしていることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである」。イエスさまはパウロを「証人」に任命したのでした。
 これは、イエス・キリストの証人となることを使徒の働きがいかに重要視しているかということを良く表していると思います。そして使徒の働きは、私たち読者もまたイエス・キリストの証人になるようにと励ましていると読み取るべきでしょう。

気付きにくいイエスとの出会い
 私の場合のイエス・キリストとの出会いは、既に何度か話したことがありますが、この使徒の働きに記されている「パウロがイエスさまと出会った記事」を単純に信じたことから始まったのだろうと思っています。
 人間のイエスさまのことであれ、復活したイエスさまのことであれ、「イエスは神の子キリストである」と信じた者は聖霊を受けます。そうして聖霊を受けた者は復活したイエスさまと霊的に出会うことができます。私の場合はパウロが復活したイエスさまの記事を単純に信じたことが「イエスは神の子キリスト」であると信じたことになり、それゆえ聖霊を受けて復活したイエスさまと出会うことができたのだと考えています。ただし、これは後になって分かったことです。イエスさまと会った時にすぐにイエスさまと気付く人は少ないのだろうと思います。靴屋のマルチンなども、イエスさまと会った時には気付いていませんでしたね。
 福音書にも弟子たちが復活したイエスさまと出会った時、すぐにそれと分からなかったことが書かれていますね。エマオという村に向かっていた二人の弟子たちもそうでしたね。週報p.3に載せておきましたから、このルカの福音書24章の13節から16節までを交代で読みましょう。

24:13 ところで、ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから六十スタディオン余り離れた、エマオという村に向かっていた。
24:14 彼らは、これらの出来事すべてについて話し合っていた。
24:15 話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。
24:16 しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。

 このように、復活したイエスさまをすぐにイエスさまと認識するのは難しいことです。ヨハネ21章にも、そのような場面があります。21章の1節から4節までを交代で読みましょう。

21:1 その後、イエスはティベリア湖畔で、再び弟子たちにご自分を現された。現された次第はこうであった。
21:2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、そして、ほかに二人の弟子が同じところにいた。
21:3 シモン・ペテロが彼らに「私は漁に行く」と言った。すると、彼らは「私たちも一緒に行く」と言った。彼らは出て行って、小舟に乗り込んだが、その夜は何も捕れなかった。
21:4 夜が明け始めていたころ、イエスは岸辺に立たれた。けれども弟子たちには、イエスであることが分からなかった。

 4節にあるように、イエスさまがそこにいたのに、弟子たちはその方がイエスさまであることがわかりませんでした。そして最初に気づいたのはイエスさまに愛されていた「愛弟子」でした。7節、

21:7 それで、イエスが愛されたあの弟子が、ペテロに「主だ」と言った。シモン・ペテロは「主だ」と聞くと、裸に近かったので上着をまとい、湖に飛び込んだ。

 新改訳の第3版では「主だ」が「主です」になっていましたが、いずれにしても、ここでは愛弟子がペテロに、そこにいる人物が復活したイエスさまであることを教えました。この愛弟子は、イエスさまがいることを他の人に気づかせる役割も担っていることが分かります。イエスさまの証人になるとは、このように他の人に復活したイエスさまのことを教えてあげることだとも言えるでしょう。

はじめからいた愛弟子
 この愛弟子がヨハネの福音書にはっきりとした形で登場するのは13章からです。12章までは、この愛弟子のことが書かれていないのに、13章の最後の晩餐から突然のように現れます。
 13章をご一緒に見ましょう。この13章から最後の晩餐が始まります。1節をお読みします。

13:1 さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。

 そしてイエスさまは最後の晩餐の場で、弟子たちの足を洗いました。4節と5節、

13:4 イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13:5 それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。

 この最後の晩餐の席で愛弟子は、イエスさまの胸のところで横になっていました。23節、

13:23 弟子の一人がイエスの胸のところで横になっていた。イエスが愛しておられた弟子である。

 このように、愛弟子は13章に突然のように登場します。しかし、この愛弟子は実は目立たない形でさりげなく、最初のほうから、このヨハネの福音書に登場しています。
 私はは1章35節に登場するヨハネの二人の弟子のうちの一人が、この愛弟子であろうと私は考えています。1章35節から40節までを交代で読みましょう。

1:35 その翌日、ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた。
1:36 そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊」と言った。
1:37 二人の弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。
1:38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊まりですか。」
1:39 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすれば分かります。」そこで、彼らはついて行って、イエスが泊まっておられるところを見た。そしてその日、イエスのもとにとどまった。時はおよそ第十の時であった。
1:40 ヨハネから聞いてイエスについて行った二人のうちの一人は、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。

 二人の弟子はヨハネに導かれてイエスさまに出会い、そうしてイエスさまが「あなたがたは何を求めているのですか」、「来なさい。そうすれば分かります」と語り掛けた言葉に応答してイエスさまに付き従って行きました。その二人の弟子のうちの一人はアンデレであったと40節にありますが、もう一人の弟子の名前は明かされていません。この名前がわからない、もう一人の弟子こそが愛弟子だと考えるべきでしょう。この弟子は最初のうちはただの一人の弟子に過ぎませんが、イエスさまと一緒に12章まで旅を続けるうちに段々と成長し、13章に入る頃には愛弟子に成長していたというわけです。
 そうして、この愛弟子は十字架のすぐそばにいて十字架のイエスさまに向き合い、罪について深く理解するに至り、そうして先ほど見たように、復活したイエスさまが現れた時にはペテロに「主だ」と言って教えてあげました。

私たちもイエスの証人の愛弟子
 そして、この愛弟子はこの福音書の最後にも登場します。21章の24節と25節を交代で読みましょう。

21:24 これらのことについて証しし、これらのことを書いた者は、その弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている。
21:25 イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。

 このように、愛弟子はイエスさまとの出会いの証言をした証人です。そして、この愛弟子とは私たちのことでもあります。私たちもまた、復活したイエスさまとの出会いの証人となることが期待されています。この復活したイエスさまの証人になるためには、私たちは霊的に整えられていく必要があります。霊的に整えられていなければイエスさまがすぐそばにいて下さることに気付くことはできません。
 しかし、霊的に整えられるなら、イエスさまがヨハネの二人の弟子に「あなたがたは何を求めているのですか」、「来なさい。そうすれば分かります」とおっしゃったことが、まるで自分に向かって声を掛けられたように感じることでしょう。このイエスさまの招きに応答して付き従って行くなら、やがて愛弟子として最後の晩餐のテーブルでイエスさまと聖餐を共にします。
 これから聖餐式を行います。私たちはここでイエスさまの愛弟子としてイエスさまと共に最後の晩餐の食事をします。イエスさまは私たちのことを愛して下さっていますから、遠慮なく愛弟子になりきりたいと思います。私たちが霊的に整えられるなら、この場が本当に福音書に記されている最後の晩餐の場となります。
 一言お祈りして、聖餐式へと移ります。

13:1 さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。
13:23 弟子の一人がイエスの胸のところで横になっていた。イエスが愛しておられた弟子である。
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わたしにとどまりなさい(2018.3.25 礼拝)

2018-03-28 11:34:14 | 礼拝メッセージ
2018年3月25日棕櫚の聖日礼拝メッセージ
『わたしにとどまりなさい』
【ヨハネ15:1~8】

はじめに
 きょうは棕櫚の聖日です。聖書交読で開いたマタイ21章のように、イエスさまはロバの子に乗って、エルサレムに入京しました。この時に人々は棕櫚の木の枝を取ってイエスさまを迎え入れたことがヨハネの福音書には記されています。棕櫚の聖日はこの出来事に由来します。この日の出来事については過去の棕櫚の聖日の礼拝で何度も取り上げていますから、受難週の最初の日でもあるきょうは、最後の晩餐の記事の中のヨハネ15章を開くことにします。

ヨハネの福音書で多く使われている「とどまる」
 このヨハネ15章からのみことばの中には、2016年の私たちの教会の聖句であった、5節の「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」も含まれていますね。しかし、きょう注目したいのは、これではなくて、この15章に多く出てくる、「とどまる」ということばです。この「とどまる」ということばは、このヨハネの福音書には多く使われています。週報のp.3に載せておきましたが、例えば6章56節です。

6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。

 或いはまた、8章31節でも「とどまる」が使われています。

 8:31 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。

 この8章31節の次に続くのが有名な8章32節ですね。

32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

 私たちはイエスさまのことばにとどまるなら真理を知り、真理は私たちを自由にします。

ヨハネ15章で繰り返される「とどまる」
 さて、それでは15章の「とどまる」を見て行きましょう。先ほども言いましたが、この15章のことばは最後の晩餐の中でのイエスさまのことばです。イエスさまは、やがてご自身が捕らえられて裁判に掛けられ、十字架に付けられて死ぬことをご存知でした。弟子たちは、そのことを知りませんでしたが、イエスさまはご自身がいなくなった後に残される弟子たちのために最後の晩餐で教えを説いていました。
 15章の4節から見て行きます。

15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

 ここにある「枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません」というのはわかりやすいですね。イエスさまは枝である私たちに養分を届けて下さいます。この養分が無ければ私たちは生きていくことができません。ですから、もちろん実を結ぶこともできません。私たちが生きていくことができないというのは、もちろん霊的な意味においてです。イエスさまとつながっていなければ私たちは霊的に死んでしまいます。
 続いて5節、

15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

 ここでも、「とどまる」が繰り返されています。

イエスから離れやすい私たち
 それにしても、どうしてこんなに「とどまる」をイエスさまは繰り返すのでしょうか。この「とどまる」の繰り返しからは、私たちがいかにイエスさまから離れやすい者たちであるかということが見えて来るのではないでしょうか。
 弟子たちは、この後、イエスさまが捕らえられた時に逃げてしまいました。イエスさまとずっと一緒にいた弟子たちでさえ、イエスさまとつながっていることができなかったこの出来事から、私たちがいかにイエスさまから離れやすい者であるかということが、よくわかると思います。
 私も高津教会の一般信徒であった時には、そういう時期がありました。私は普段は礼拝も祈祷会もほぼ皆出席の信徒でした。しかし、ある時期、仕事がとても忙しくなって2週間ほど教会に行けなくなりました。それがズルズルと3週間、4週間と続きました。
 すると1ヶ月後ぐらいには教会に行ける状態になっていたのに、何となく教会の敷居が高くなったような気がして、なおズルズルと教会の集会を休み続けました。もともと私は40歳を過ぎてから教会に通うようになった者ですから、その何年か前までは教会に行かないのが普通でした。ですから、1ヶ月以上教会の集会を休み続けたことで普通の状態に戻ってしまったような感じになってしまいました。もともと教会に通っていなかったのですから、教会に行かないことを何とも思わなくなってしまいました。結局2ヶ月ぐらい休んだ後に牧師の藤本先生と交わしたメールをきっかけに、また教会に戻ったように覚えています。この私自身の経験から、人がいかに容易にイエスさまから離れてしまうか私にはよくわかります。もしかしたら、皆さんにも似たような経験があるかもしれません。

イエスを離れては何もできない私たち
 5節でイエスさまは、「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」とおっしゃいましたが、これは私たちクリスチャンの実感だろうと思います。例えば3月11日の礼拝メッセージでマタイの福音書の「山上の説教」をご一緒に開きましたね。この「山上の説教」でイエスさまは「平和をつくる者は幸いです」と言われました。この平和をつくる働きを、イエスさまから離れて行うことは難しいことです。平和の働きというと少し大げさに聞こえるかもしれませんが、私たちの日常生活の中の小さな出来事の一つ一つも同様です。私たちはイエスさまの声を聞きながら、一つ一つの小さな事を行って行きます。
 私たちの生活は、いろいろなことが複雑に絡み合って成り立っています。単純ではぜんぜんありません。たとえば雨が降れば喜ぶ人もいるし、残念に思う人もいます。
 小学校で明日運動会があるとして、運動が大好きな子は、「明日晴れますように」と神様にお祈りするでしょう。しかし運動が嫌いな子は、「明日雨が降りますように」と神様にお祈りするでしょう。神様は、この二人の子供のお祈りを同時に適えることはできません。しかし、神様は何とかして二人の子供の益になるように、働いて下さることでしょう。例えば天気を晴れにして、運動の嫌いな子には何か別のご褒美を与えるようにして下さることでしょう。反対に天気を雨にして運動の好きな子に何か別のご褒美を与えるかもしれません。天気のことは小学生だけのことではなく、農家の方や、その他にも無数の人々が関わっています。ですから、 ですから、たとえ全知全能の神様であっても、すべての人にとって同時に益になるようにするのは不可能でしょう。ですから神様はうめきながら、どうしたら皆の益に時間をずらしながらすることができるか、考えます。ローマ人への手紙8章を開きましょう(新約聖書p.302)。26節から28節までを交代で読みましょう。

8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
8:27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

 26節に「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます」とあります。私たちの生活は大勢の人々のそれぞれの事情が複雑に絡んでいます。それを御霊ご自身がうめきながら、何とかすべての人にとって益になるように働いて下さっています。28節に「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」と書いてある通りです。

これもまた益
 今回、私たちの教会は新会堂の建設を断念して、他教会との合流を目指すことになりましたが、このようになることが神様の最初からのご計画だったとは、私は少しも思っていません。恐らくある時点までは、会堂が建つ方向に進んでいたのだと思います。しかし、色々と複雑なことが絡んで軌道を修正する必要が生じて、神様がうめきながら、今のような方向へと導くことになったのだろうと思います。ですから、いま神様は私たちにとって最も益になるように働いて下さっていると私たちは信じなければなりません。
 例えば、もし計画通りに去年の終わり頃に新会堂ができていたら、今頃は献堂式のことや、50周年の記念誌のこと、そして地域の伝道のために本当に忙しくしていただろうと思います。それが、今は結構いろいろなことをする時間ができました。それで私自身について言えば、いま私は本をじっくり読んで思いを巡らし、ヨハネの福音書のことを世の人々にどうしたら知ってもらえるかの新たな戦略を練り、新たな書き物を執筆する時間を取ることができるようになりました。もちろん、私にとっては新会堂を与えていただけたほうが遥かにうれしいことでしたが、今はまた書き物をする時間ができたことは、これはこれで感謝なことだと思っています。
 世の中のことは様々なことが複雑に絡み合って常に変化していますから、私たちは常に祈りながら、最善の道を神様に導いていただかなければなりません。ヨハネ15章5節のイエスさまの言葉の「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」とは、そういうことではないでしょうか。

真理の御霊
 イエスさまから離れないためには御霊の導きの声を聞いていなければなりません。この御霊は、真理の御霊です。ヨハネ16章の13節を、ご一緒に読みましょう。

16:13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。

 真理の御霊は、私たちをすべての真理に導き入れて下さいます。ここでもう一度、週報p.3に載せた、ヨハネ8章の31節と32節に戻りたいと思います。お読みします。

ヨハネ 8:31 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。」
32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

 ここにあるように、私たちはイエスさまのことばにとどまるなら、私たちは真理を知ります。この真理は「真理の御霊」が教えて下さいますから、「真理を知る」とは「真理の御霊」を知ると言い替えても良いと思います。そうして真理の御霊は私たちを自由にします。
 キリスト教にありがちな誤解として、キリスト教を信じると不自由になるという勘違いがあると思います。「~しなければならない」とか「~してはならない」という規則があって、それらに縛られて不自由になるという誤解があるように思います。確かに、律法主義的になってしまうなら、不自由になってしまうかもしれません。しかし、本当にイエスさまに付き従って行くなら、思い煩うことが少なくなりますから、心は平安で満たされ、悩み苦しみから解放されて、心の自由を得ることができます。その境地に達するのはなかなか難しいことかもしれませんが、真理の御霊の声に耳を澄まして、導かれて行くなら、心の自由を必ず得ることができるでしょう。

真理の証しをするために生まれたイエス
 最後に、18章37節をご一緒に読みましょう。これは最後の晩餐の後で捕らえられたイエスさまが総督のピラトの官邸で尋問されている場面です。

18:37 そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」

 ここでイエスさまはピラトに、「わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです」とおっしゃいました。この「真理のあかしをする」を「真理の御霊のあかしをする」と読み替えたいと思います。
 イエスさまはクリスマスにこの世に生まれ、真理の御霊のあかしをして下さいました。そうして、イエスさまを信じる者には御霊が与えられるようにして下さいました。御霊が与えられるためには、まずは私たちの罪が赦されて、私たちが御霊を受けることができるように聖められる必要があります。この私たちの汚れた罪のために、イエスさまは十字架に掛からなければなりませんでした。

おわりに
 今週は受難週です。木曜日は最後の晩餐の日、金曜日は十字架の日です。私たちに真理の御霊を与えて下さるために十字架に掛かって下さったイエスさまの受難に思いを巡らしながら、受難週を歩んで行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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悲しむ者は幸いです(2018.3.11 礼拝)

2018-03-13 07:41:47 | 礼拝メッセージ
2018年3月11日礼拝メッセージ
『悲しむ者は幸いです』
【マタイ5:4】

マタイ5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。

七年前の3.11
 2011年3月11日の東日本大震災から7年が経ちました。当時、私は神学生の3年生で、3月11日の金曜日の午後は神学校の1年先輩の卒業式が横浜の神学院教会のチャペルで行われていました。大きな揺れがあった時には、ちょうど野田秀先生の祝辞が述べられている時でした。チャペルの天井に吊り下げられている照明が振り子のように大きく揺れていて、天井から落ちて来る危険を感じました。それで卒業式は中断されて、私たちは一旦屋外へ退避して、揺れが治まるのを待ちました。
 そして20分後ぐらいだったと思いますが、卒業式は再開されて、式の後の祝会も食堂で持たれました。この時の私たちはまだ事態の深刻さが分かっていませんでした。しかし、祝会が終わって駅に向かった先生方が次々と神学院に戻って来て、次第に事態の深刻さが分かって来ました。電車がまったく動いておらず、運転がいつ再開されるかも分からないとのことでした。それで卒業式に出席した先生方の多くは、その晩は神学院に泊まりました。十分な布団はありませんでしたから、神学院教会の長いすの長い座布団がとても役に立ちました。この金曜日の晩は頻繁に起きる余震による揺れがまだまだたくさんありましたし、東北では津波で大きな被害があったことが報じられていましたから、私たちもとても不安な一夜を過ごしました。そして、次の土曜日の朝には電車の運転が再開されましたから、先生方はそれぞれの教会に戻って行きました。

イエスだからこそ言える「悲しむ者は幸いです」
 さて、土曜日の朝に、実習先の教会の先生から私に電話がありました。私は3年生の時は一年間、毎週日曜日にはその教会に行っていました。その教会では伝道会を毎週ずっと続けており、夜の伝道会の前の夕刻には路傍伝道に出ていました。翌日の日曜日、つまり3.11から二日後の13日にも伝道会は予定されており、路傍伝道でのメッセージは、私が担当することになっていました。そして土曜日の朝の時点での先生からの電話では、いちおう路傍伝道を行う予定でいるからメッセージの準備をしておくようにということでした。
 それで私は大いに悩みました。それ以前からメッセージの準備はしていましたが、大震災の後ですから、予定していたメッセージはやめて、一から考え直さなければならなくなりました。
 教会の中でのメッセージとは違い、路傍伝道はにぎやかな街の中で一般の方々に向けて話をします。下手な話をすれば教会に対するイメージを却って悪くして逆効果になります。ですからメッセージの準備には非常に気を遣います。まして東日本大震災で大きな被害が出た後に、一体どんなメッセージを語れば良いでしょうか。私は本当に悩みました。
 先に結末を話しておくと、結局、路傍伝道は日曜日になってから中止することに決まりました。福島の原発の電源が喪失して危険な状態にあることも報じられていましたから、屋外での路傍伝道は中止になりました。しかし中止が告げられたのは日曜日に教会に行ってからでしたから、私は土曜日には大いに悩みながらメッセージの準備をしました。
 そうして7年前の3月12日、悩みに悩んだ末に選んだみことばが、きょうの聖書箇所のマタイ5:4の「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから」でした。いま、この時のことを振り返ると、路傍伝道が中止になって本当に良かったなあ、と思います。「悲しむ者は幸いです」は、イエスさまだからこそ言えることで、当時神学生であった私が一般の方々に向かって「悲しむ者は幸いです」などと言えば、誤解を受けたかもしれません。そして、牧師になった今でも「悲しむ者は幸いです」と言うことは簡単なことではないと感じています。悲しいことがあることが幸いであるわけがありません。いくら慰めがあるとしても、悲しいことを経験しなくて済むなら、そちらのほうが遥かに幸いではないでしょうか。そう思うと、「悲しむ者は幸いです」などとは軽々しく口にしてはならないだろうと思います。しかし、そんな私たちでも聖められてイエスさまに似ている者にされるなら、「悲しむ者は幸いです」とイエスさまのように言っても良いのかもしれません。きょうは、そんなことに思いを巡らしながら、きょうの聖句の「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから」を味わうことにしたいと思います。

悲しみを知っていたイエス
 きょうは三つのポイントで話します。
 ①一つめは、イエスさまは悲しみを知っていたということ、
 ②二つめは、私たちは聖霊を受けるなら、より深い慰めを受けることができるということ
 ③三つめは、私たちもイエスさまのように「悲しむ者は幸いです」と言えるようになりたい、ということです。
 では、先ず一つめの「イエスさまは悲しみを知っていた」ということを見て行きましょう。これはイザヤ書53章に書かれていることです(旧約聖書p.1214)。1節から8節までを交代で読みましょう。

53:1 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。【主】の御腕は、だれに現れたのか。
53:2 彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、【主】は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
53:7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
53:8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。

 皆さんがよくご存知のイザヤ書53章ですが、3節に「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた」とありますね。イエスさまは「悲しみの人」でした。イエスさまは悲しみを知っておられました。そのイエスさまが「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから」とおっしゃっていますから、それは本当のことです。このイエスさまに心を開くなら、私たちは慰められます。

聖霊を受けることで得られる深い慰め
 次に二つめの ②私たちは聖霊を受けるなら、より深い慰めを受けることができるということに思いを巡らしたいと思います。すべてをご存知のイエスさまは、やがてご自身が十字架に掛からなければならないことをご存知でした。そうして、この十字架が無ければ、次の聖霊の時代への扉も開かれないことをご存知でした。このマタイ5章から7章のイエスさまのメッセージは「山上の説教」と呼ばれています。この「山上の説教」のほとんどは、聖霊の助けが無ければ不可能なことです。
 たとえば5章8節の「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから」はどうでしょうか。私たちの心は罪で汚れています。この汚れは聖霊を受けることによってしか聖められることはありません。そうして聖霊を受けて心が聖められるなら、その人は神を見ることができます。
 9節の「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから」も同様です。聖霊を受けて心の深い平安が得られている者しか平和をつくることはできないでしょう。また聖霊を受けていなければ神の子どもになることもできません。また14節の「あなたがたは、世界の光です」。このみことばは昨年の私たちの教会の聖句でしたね。この世界の光になることも、私たちが聖霊を受けていなければ不可能なことですね。
 ですから、きょうの箇所の5章4節の「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから」もまた、聖霊を受けることで、より深い慰めを受けることができるのだと解釈すべきなのだろうと思います。
 聖霊を受けるなら、イエスさまが私たちの心の中に住むようになります。イエスさまは悲しみを知る人でした。そのイエスさまが私たちの心の中にいることで、より大きな慰めを受けることができます。

私たちも言えるようになりたい「悲しむ者は幸いです」
 三つめは、③私たちもイエスさまのように「悲しむ者は幸いです」と言えるようになりたい、ということです。きょうのメッセージの最初のほうで、この「悲しむ者は幸いです」はイエスさまだからこそ言えることで、私たちが軽々しく口にできるようなものではないと言いました。「悲しむ者は幸いです」と言えるようになることは、本当に難しいことだと思います。しかし、難しくてもやはり、私たちはこのことを目指すべきなのだと思います。それは私たちが聖められるなら、私たちはイエスさまに似た者にされるからです。そうして私たちもまたイエスさまのように「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから」と言えるようになりたいと思います。
 とても難しいことですが、決して不可能ではないだろうと思います。なぜなら私たちもまた悲しみを知っており、そしてまたイエスさまを信じる私たちには聖霊が注がれていて私たちの中にはイエスさまがいるからです。
 イザヤ書53章で見たようにイエスさまは「悲しみの人」でしたが、私たちもまた悲しみを知っています。お一人お一人がそれぞれの経験の中で悲しみを知っておられるだろうと思いますし、私たちの教会もまた悲しみを知っています。
 私たちの教会はやがて、この今沢の地から旅立って行きます。先週の祈祷会では創世記12章の始めの部分を開きました(週報p.3)。お読みします。

12:1 【主】はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。

 私たちがこの今沢の地から旅立って行かなければならないことは、私たちにとっては悲しいことです。なかなか気持ちを整理できない方もおられるでしょう。イエスさまも十字架を前にして、なかなか気持ちを整理しきれないでいました。ルカの福音書のその場面をご一緒に見ましょうか(新約聖書p.164)。

22:42 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」
22:43 すると、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた。
22:44 イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。

 イエスさまは、苦しみもだえて、そうして、これが父のみこころであるとして受け入れました。私たちも、イエスさまを見習いたいと思います。理不尽であると感じる面もあるかもしれませんが、イエスさまのようにすべてを受け入れたいと思います。イエスさまも人の子ですから、受け入れがたいと思うこともたくさんあったでしょう。イエスさまはやがて弟子たちが逃げてしまうことを知っておられました。イエスさまがガリラヤ地方で宣教を始めた頃から一緒にいて多くの教えを受けた弟子たちが最後の最後にイエスさまを裏切って逃げてしまうのです。あるいはまたエルサレムの民衆はイエスさまがエルサレムに入る時には熱狂的に歓迎しました。その民衆がわずか数日後には「十字架に付けろ」と騒ぐようになります。イエスさまはそのような人々のために十字架に掛からなければならないことに100%納得していたでしょうか。イエスさまも人の子ですから100%の納得はできなかっただろうと思います。しかし、イエスさまは受け入れました。
 私自身も苦悩の中を通りましたが、ここを旅立つことを受け入れました。しかし、このことによってイエスさまに近づくことができ、私は大きな慰めを得ることができました。そして私が望んでいることは、聖霊によって私がもっと聖められて、私もまたイエスさまのように悲しんでいる方々に対して「悲しむ者は幸いです」と言えるようになりたいということです。そして私は、教会の皆さんもまた今よりもさらに聖められて、そのような者になることを目指すことをお勧めしたいと思います。
(中略)
 私たちが聖霊に満たされるなら、神様は私たちを聖めて下さいます。そうして聖められていくなら、イエスさまに似た者にされていきます。

おわりに
 東日本大震災が起きたことで、多くの方々が今もなお悲しみの中にあります。そのような悲しみの中にある方々に向かって「悲しむ者は幸いです」と言うことはなかなかできないでしょう。しかし私たちは聖霊によって聖められ、イエスさまに似た者とされて、「悲しむ者は幸いです」と言える者になりたいと思います。多くの方々がイエスさまによって慰められるために、私たちは聖霊に満たされて聖められて行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

 5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから
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めげないパウロ(2018.3.4 礼拝)

2018-03-07 10:19:28 | 礼拝メッセージ
2018年3月4日礼拝メッセージ
『めげないパウロ』
【使徒28:23~31】

はじめに
 きょうで使徒の働きの学びは終える予定です。この使徒の働きの学びはおととしの2016年6月26日の礼拝から始めました。途中、アドベントの時期などでは他の箇所を開きましたが、約1年と8ヶ月、使徒の働きの全体像を皆さんと共に学ぶことができましたから、感謝に思っています。

ローマに到着したパウロ
 きょうの聖書箇所でパウロは、ローマに来ています。先週開いた27章では、パウロたちの乗った船が暴風に流されて漂流していました。簡単に振り返っておきましょう。
 27章20節に、

27:20 太陽も星も見えない日が幾日も続き、激しい暴風が吹きまくるので、私たちが助かる最後の望みも今や絶たれようとしていた。

とあります。この船にはルカも一緒に乗っていました。ルカは助かる最後の望みも今や絶たれようとしていたと書いています。そんな中でパウロは絶望せずに皆を励ましました。22節です。

27:22 しかし、今、お勧めします。元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う者はひとりもありません。失われるのは船だけです。

 さらに26節、

27:26 私たちは必ず、どこかの島に打ち上げられます。

 そうしてパウロたちは実際に島に打ち上げられて助かりました。28章の1節、

28:1 こうして救われてから、私たちは、ここがマルタと呼ばれる島であることを知った。

 そうして28章の中ごろで、パウロたちはマルタ島を出てローマに向けて移動して、遂にローマに到着しました。14節に、「私たちはローマに到着した」とあります。そして16節、

28:16 私たちがローマに入ると、パウロは番兵付きで自分だけの家に住むことが許された。

 パウロは囚われの身ではありましたが監獄に入れられたわけではなく、家に住むことが許されました。

めげないパウロ
 そして、このローマの家でパウロはまず、ユダヤ人たちに向かって話を始めました。最初は17節にあるようにユダヤ人のおもだった人たちに対して話しました。すると、彼らはこう言いました。21節と22節です。

28:21 「私たちは、あなたのことについて、ユダヤから何の知らせも受けておりません。また、当地に来た兄弟たちの中で、あなたについて悪いことを告げたり、話したりした者はおりません。
28:22 私たちは、あなたが考えておられることを、直接あなたから聞くのがよいと思っています。この宗派については、至る所で非難があることを私たちは知っているからです。」

 ユダヤ人たちはパウロから直接話を聞くのが良いと思うということでしたから、23節にあるように、彼らはさらに大ぜいでパウロの宿にやって来ました。それでパウロは彼らに対して朝から晩まで語り続けました。神の国のことをあかしし、また、モーセの律法と預言者たちの書によって、イエスのことについて彼らを説得しようとしました。
 しかし24節にあるように、ある人々はパウロの語る事を信じましたが、ある人々は信じようとしませんでした。
 こうしてユダヤ人たちは、お互いの意見が一致せずに帰りかけたので、パウロは一言、次のように言いました。25節です。
「聖霊が預言者イザヤを通してあなたがたの父祖たちに語られたことは、まさにそのとおりでした。
 そうしてパウロはイザヤ書を引用しました。26節と27節、

28:26 『この民のところに行って、告げよ。あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。
28:27 この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、その目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って、立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』

 そして、さらに続けました。28節、

28:28 ですから、承知しておいてください。神のこの救いは、異邦人に送られました。彼らは、耳を傾けるでしょう。」

 こうして使徒の働きは、次のことばで締めくくられて、閉じられます。30節と31節、

28:30 こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、
28:31 大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。

 パウロのことばを信じないユダヤ人たちが多くいた中でも、パウロは少しもめげずに異邦人たちに向かって神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えました。

パウロが引用したイザヤ書6章
 使徒の働きの学びを終えるに当たり、きょうは二つのことに注目したいと思います。一つは、この28章の最後でパウロがイザヤ書を引用していること、そして二つ目は、記者のルカがパウロのその後のことについて触れないままで使徒の働きを閉じていることです。
 まず一つめの、パウロが引用したイザヤ書の6章をご一緒に見たいと思います(旧約聖書p.1134)。少し長いですが、1節から13節までを交代で読みましょう。

6:1 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、
6:2 セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、
6:3 互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の【主】。その栄光は全地に満つ。」
6:4 その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。
6:5 そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の【主】である王を、この目で見たのだから。」
6:6 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。
6:7 彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」
6:8 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」
6:9 すると仰せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』
6:10 この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返っていやされることのないように。」
6:11 私が「主よ、いつまでですか」と言うと、主は仰せられた。「町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果て、
6:12 【主】が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所がふえるまで。
6:13 そこにはなお、十分の一が残るが、それもまた、焼き払われる。テレビンの木や樫の木が切り倒されるときのように。しかし、その中に切り株がある。聖なるすえこそ、その切り株。」

 8節は有名ですね。

6:8 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

 そしてパウロが使徒28章で引用したのは次の9節と10節ですね。

6:9 すると仰せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』
6:10 この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返っていやされることのないように。」

「主が人々の目と耳を閉じる」とはどういうことか
 この主のことばに対してイザヤは聞きました。「主よ、いつまでですか」。すると主は答えられました。「町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果て、【主】が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所がふえるまで。」
 ここを単純に読むなら、「いつまで」とは「人々がバビロンへ捕囚として引いて行かれてエルサレムが滅亡するまで」と読み取れると思います。
 しかし、パウロはこれが紀元1世紀の自分たちの時代まで続いていると解釈していました。パウロだけではありません。マタイ・マルコ・ルカの福音書にはイエスさまが種まきの例えでこのイザヤ6章を引用しています。ですから、イエスさまも、人々の目と耳が閉ざされている状態が紀元1世紀まで続いていると考えていました。ヨハネの福音書もまた、このイザヤ6章を引用しています。神のことばは永遠の中にありますからイザヤ6章の預言は、1世紀の人たちにまで適用されました。
 そして21世紀の現状を見るなら、現代においても今なお人々の目と耳は閉じられていると言わざるを得ません。イザヤ6章の預言の「いつまで」は今に至るまで、まだ続いているようです。
 しかし、ここに一つの疑問が湧きます。主がすべての人の目と耳を閉じてしまったら、誰も主を信じることができなくなります。主はすべての人を愛しておられ、すべての人が滅びを免れることを望んでおられます。それなのに、「主が人々の目と耳を閉じる」とはどういうことでしょうか。私はこのことについて長い間ずっとモヤモヤを感じていました。一部であったとしても信じる人もおこされているわけですから、これは一体どういうことなのでしょうか。このことの答えが私は最近になって得られたような気がしています。
 これは私の個人的な考えですが、「主が人々の目と耳を閉じる」とは、「主が悪魔の働きを妨げない」ということではないかと思います。悪魔は人々を誘惑して、人々が神様と共に歩むことを妨害します。この悪魔の働きを主は妨げないということでないでしょうか。
 主がなぜ悪魔の働きを妨げないのか、それは人々に選択の自由を与えているからなのでしょう。人々に選択の自由を与えないとしたら、神が人を愛しているということにはなりません。人を何でも神の思いの通りに動かすとすれば、人はただのロボットになってしまいます。神様は一人一人の個人としての尊厳を認め、それぞれに悪を選択する自由をも与えておられます。しかし、個人の尊厳を認めた上でやはり神様はすべての人が神様の方を自発的に向いて、神様と共に歩むようになることを望んでおられます。そうなってこそ、天の御国が地にももたらされるようになる、そのように考えておられるのではないかと私は考えます。私たちは毎週主の祈りで「御国を来たらせたまえ」と祈ります。私たちがロボットであれば、この地が天の御国と同じになることはできません。自由を与えられている私たちの多くが神様の方を向くようになる必要があります。

ルカはなぜパウロの最期を描かなかったのか
 そうすると、ルカがなぜ使徒の働きをこのような形で終わらせたかもわかるように思います。きょうの二つ目の注目点の、ルカはなぜ、その後のパウロを描かなかったかについてです。ルカが使徒の働きを書いた時には、パウロは既に天に召されていたと考えられます。パウロはまだ天に召されていなかったからルカはパウロの最期を書かなかったのだと考える聖書学者もいますが、私はそうは思いません。パウロは既に天に召されていました。ならばなぜルカはパウロの最期を描かなかったのでしょうか。
 それは、イエス・キリストを宣べ伝える働きは、パウロで終わったわけではなく、ずっと続けられていかなくてはならないことをルカが読者に伝えたかったからであろうと考えます。パウロたちの使徒の働きは現代に至るまで、ずっと引き継がれて来ています。ルカは28章の締めくくりに、めげないパウロを描くことで、読者にパウロを見習うように伝えているのだと思います。
 悪魔の働きは今もなお執拗に続いていますから、この沼津の地においても多くの方々の目と耳は閉じられたままです。しかし、私たちもパウロのようにめげずにイエスさまを証する働きを続けていきたいと思います。教会がどのような形になっても、それは可能ですから、私たちはイエスさまの証人として、働き続けたいと思います。
 使徒の働きの学びを終わるにあたり、まず、使徒1:8(週報p.3)をご一緒に読み、次いで使徒28章の30節と31節をご一緒に読むことにしましょう。

1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

28:30 こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、
28:31 大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。
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元気を出しなさい(2018.2.25 礼拝)

2018-02-27 07:43:21 | 礼拝メッセージ
2018年2月25日礼拝メッセージ
『元気を出しなさい』
【使徒27:20~26】

はじめに
 先週は使徒の働き24章を開きました。21章に入った頃から私は皆さんに、残りの章は1週間に1章ずつ進んで、ちょうど3月の終わりに28章を学んで使徒の働きの学びを終える予定であることを話しました。それゆえ予定では、きょうは25章を開く予定でいました。
 それで、きょうのためのメッセージの準備を始めた段階で25章を改めて読み直しましたが、パウロが捕らえられてからの状況が相変わらず続いています。パウロが話をする相手は変わって行きますが、パウロが話していることはあまり大きくは変わりません。それで予定を変更して25章と26章はスキップして、きょうは27章を開くことにしました。そうして年会前の次聖日に28章を開いて使徒の働きの学びを終えて、年会後からは、また新たな学びに移ることにしようと思います。

神からの慰めのメッセージ
 平常時であれば、25章と26章もゆっくりと学ぶことも悪くはないと思います。特に26章ではパウロは再び自分がダマスコ途上で復活したイエスさまと出会ったことの証をしています。この証は22章にも書かれています。ルカが同じ証を繰り返し記しているということは、パウロのこのイエスさまとの出会いの出来事をとても重要だと思っているからです。その辺りを探ってみるのも必要なことかもしれません。
 しかし、いまの私たちの教会は平常時ではありません。このような時には、その時にふさわしいメッセージを神様が与えて下さるように思います。私たちが困難の中にある時、神様は慰めと励ましの声を掛けて下さるお方です。
 先週の水曜日の祈祷会のメッセージでは、イザヤ書の40章の慰めのメッセージを共に味わいました。使徒の働きを学ぶ前に、少しの間、イザヤ書40章をご一緒に味わいたいと思います。まず40章の1節と2節を、交代で読みましょう(旧約聖書p.1187)。

40:1 「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」とあなたがたの神は仰せられる。
40:2 「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを【主】の手から受けたと。」

 主は預言者のイザヤにご自分の民を慰めよ、慰めよと言って、慰めのことばを預けました。イザヤ書の構成は大きく分けると二部構成に成っていて、その境目が39章と40章の間です。少し戻って36章と39章までを眺めてみていただくと、歴史書の列王記と歴代誌のような記述の仕方でヒゼキヤ王のことが書かれていることがわかると思います。そうして40章に入るとガラッと雰囲気が変わって慰めのメッセージが始まります。ここで慰められている民は、バビロンに捕囚として引かれて行ったエルサレムの民です。エルサレムはバビロン軍の攻撃によって神殿が焼かれ、町は廃墟となりました。それゆえバビロンに捕囚として引かれて行ったエルサレムの民は心に深い傷を負いました。しかし、やがてペルシアのクロス王の時代になって捕囚が解かれ、エルサレムは回復の時を迎えます。これは大きな慰めです。
 ここでイザヤがバビロン捕囚と解放、そして回復に言及していることから、聖書学では、この40章以降はバビロン捕囚後の別人が書いたと考える学者がたくさんいるそうです。39章まではエルサレムが滅びる前のヒゼキヤの時代までのイザヤ(イザヤ1:1にユダのウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代にイザヤが見た幻とあります)が書き、40章からは後の時代の別人(第二イザヤと呼ばれます)が書いたというわけです。しかし神様は永遠の中におられますから、未来に起きることをイザヤに伝えることができます。ですから、40章以降も39章までと同じイザヤが書いたと考えても少しもおかしくはありません。むしろ、そう考えなければ、イザヤ53章の苦難のしもべをイエスさまと結び付けることができなくなってしまいます。イザヤ53章の4節と5節(週報p.3)には、

53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

とあります。イザヤが未来を知ることができなかったなら、この53章も十字架のイエスさまではないことになります。しかし、この箇所は使徒の働き8章のピリポも明らかにしているように主イエスの十字架についての預言です。ですから、イザヤ40章についてもバビロン捕囚の出来事がまだ実際に起きる前に未来のことを預言したものであると考えるべきです。

不思議な一致と励ましのメッセージ
 とはいえ、39章と40章の間で記述がガラッと変わっていることは確かですから、私たちはイザヤ書を前半と後半に分けて、39章までを前半、40章からを後半という見方をします。そして、ここには大変に興味深い一致があります。それは、イザヤ書の章が66章までであり、聖書の書の数が66であることとの一致です。そして、旧約聖書の書の数が39であり、新約聖書の書の数が27であることまで不思議に一致しています。
 そして新約に対応する40章が慰めのメッセージで始まりますから、まるでイエスさまが私たちを慰めて下さっているように感じます。神様は永遠の中におられますから、このようにして時間を越えて現代の私たちに対しても慰めと励ましの声を掛けて下さっています。
 このイザヤ40章1節と2節には「慰め」のことばがありますが、40章の終わりのほうには励ましのことばがあります。28節から41節までを交代で読みましょう。

40:28 あなたは知らないのか。聞いていないのか。【主】は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。
40:29 疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。
40:30 若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。
40:31 しかし、【主】を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

 ここで主はイザヤを通して疲れた者を励まして下さっています。いま読んだ4つの節にはすべて「疲れ」ということばが使われています。28節では主は疲れることがないとあります。そして29節では疲れた者に力を与えて下さること、そして30節には疲れた者はつまずき倒れるとありますが、31節には「【主】を待ち望む者は走ってもたゆまず、歩いても疲れないとあります。
 このように疲れた者を励まして下さる主は、マタイの福音書のイエスさまとも重なると私は感じています。マタイ11章28節(週報p.3)をご一緒に読みましょう。

28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

 このイエスさまのことばはもちろん、二千年前の人々に向かって言われたことばですが、イエスさまは永遠の中におられますから、21世紀の私たちが疲れている時、イエスさまは聖書を通して現代の私たちに向かって励まして下さっています。聖書は本当に素晴らしい書物だと思います。

元気を出しなさい
 さて、それでは使徒の働き27章に移りますが、きょうはここからも励ましのことばに目を留めたいと思います。それは、「元気を出しなさい」ということばです。これはパウロのことばですが、パウロは22節で「元気を出しなさい」と言った後で25節でも、もう一度「元気を出しなさい」と言いました。
 この時、パウロはローマへ向かう船の中にいました。しかし、14節と15節にあるように、ユーラクロンという暴風が陸から吹きおろして来て、船はそれに巻き込まれ、しかたなく吹き流されるままになっていました。この時の状況をパウロと一緒にいたルカは20節のように書いています。20節、

27:20 太陽も星も見えない日が幾日も続き、激しい暴風が吹きまくるので、私たちが助かる最後の望みも今や絶たれようとしていた。

 最後の望みも今や絶たれようとしていたとありますから、ルカたちは文字通り絶望的な状況にありました。
 なぜパウロたちがローマに向かう船に乗っていたかというと、捕らえられていたパウロがローマの皇帝のもとで裁判を受けることを希望したからです。少し戻って25章の11節でパウロは「私はカイザルに上訴します」とユダヤの総督のフェストに言いました。カイザルというのはローマの皇帝のことです。パウロはローマの市民権を持っていましたから、そのように上訴することができたのですね。そして次の12節でフェストは言いました。「あなたはカイザルに上訴したのだから、カイザルのもとへ行きなさい。」
 こうしてパウロは捕らえられたままの状態で船に乗ってローマに向かうことになりました。そして、その途中でユーラクロンという暴風に遭って、船が漂流することになったのでした。
 その絶望的な状況の中でパウロは船に乗っている人々に「元気を出しなさい」と言って励ましました。そしてパウロは言いました。22節から24節、

27:22 しかし、今、お勧めします。元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う者はひとりもありません。失われるのは船だけです。
27:23 昨夜、私の主で、私の仕えている神の御使いが、私の前に立って、
27:24 こう言いました。『恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ちます。そして、神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです。』

 皆が絶望している状況の中で、パウロは絶望していませんでした。それはパウロには堅固な信仰があり、主のことばを聞いていたからです。そうして、さらに励ましのことばをつづけました。25節と26節、

27:25 ですから、皆さん。元気を出しなさい。すべて私に告げられたとおりになると、私は神によって信じています。
27:26 私たちは必ず、どこかの島に打ち上げられます。」

 これは紀元1世紀のことです。古い時代の船の難破のことで日本人によく知られているのは紀元7世紀に始まった遣隋使や遣唐使のことではないでしょうか。この時代の日本人は命がけで中国の進んだ制度や技術、学問を学びに行きました。この時代でも随分と船の難破がありました。しかし、パウロの時代はそれよりも遥か以前のことであり、難破への恐怖心はもっと大きかっただろうと思います。しかし、パウロは全く動じていませんでした。

恐怖におびえていたウェスレー
 ここで、私たちの教団の信仰の源流にいるジョン・ウェスレーの体験を見てみることにしましょう。ウェスレーは32歳だった1735年にイギリスからアメリカに渡る船の中にいました。アメリカの先住民に伝道するためです(と同時にウェスレーは自身の救いの確証を求めていました)。この時、ウェスレーが乗った船が嵐に遭遇し、ウェスレーは牧師でしたが船の中で恐怖におびえていたそうです。しかし、この時に同じ船に乗っていたモラビア派の一般信徒たちは落ち着いていたそうです。ウェスレーはこのことにショックを受けていました。そして、アメリカ上陸後にモラビア派の指導者のシュパンゲンベルクに助言を求めたそうです。すると、シュパンゲンベルクはウェスレーに次のように聞いたそうです。「兄弟、それでは初めに質問させていただきます。あなたは、自分の内に確証がありますか。自分が神の子であるということを、自分自身の霊とともに、神の御霊は証ししていますか。あなたはイエス・キリストを知っていますか」。ウェスレーは「『はい。知っています』と答えたものの、それらがむなしい言葉であると自分でわかっていた」と日誌に記しています。
 この時のウェスレーはまだ救いの確証が得ておられず、苦悩の中にいました。ウェスレーが救いの確証を得たのは、この時から約2年半後の1738年、アルダスゲート街においてでした。先ほどのシュパンゲンベルクの質問をもう一度繰り返します。
 「兄弟、それでは初めに質問させていただきます。あなたは、自分の内に確証がありますか。自分が神の子であるということを、自分自身の霊とともに、神の御霊は証ししていますか。あなたはイエス・キリストを知っていますか」。
 ここでシュパンゲンベルクはパウロのローマ人への手紙の一節を引いていますね。ローマ8章16節です(週報p.3)。「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます」。パウロには、自分が神の子であるという確証がありました。一方のウェスレーにはありませんでした。
 嵐の中で沈みかけている船という極限の状況の中で、自分が救われて神の子とされている確証の有る無しがどれだけ恐怖を減らしてくれるのか、私自身は嵐の中の船に乗った経験がありませんからよくわかりませんが、普段の日常生活の中で起きる嵐のような出来事に対しては、やはり自分が救われて神の子とされているという確証が有るか無いかでは、大きな違いをもたらだろうと思います。

私たちは神の子羊
 私たちの教会も昨年から、嵐のような中を通っています。その中にあっても自分に御霊が注がれているという確信があれば平安でいられるということで、今年の聖句である第一ヨハネ4:13が示されました。週報の1ページにある、「神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります」ですね。このように、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかるなら、自分が救われて神の子とされているという確証も得られているはずです。そして私たちは御霊によって、「アバ、父と呼びます」。ローマ8章14,15節に書いてある通りです(新約聖書p.301)

8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。

 この、私たちが「アバ、父」と呼ぶ神様は、最初にイザヤ書40章で見たように、私たちを慰め、励まして下さる神様です。
 最後にもう一度、イザヤ書40章を開きましょう。今度は先ほど読まなかった10節と11節を交代で読みます。

40:10 見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。
40:11 主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。

 私たちは主に飼われている羊です。主は子羊を引き寄せ、ふところに抱き、またお母さんの羊を優しく導きます。この11節からは何とも優しい慰めと励ましを感じますね。そうかと思えば、31節のように力強くも励まして下さいます。31節ももう一度、ご一緒に読みましょう。

40:31 しかし、【主】を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

 この一年間、私たちは大変な中を通り、今もその中にありますが、そのことによって私自身はこれまでになくイザヤ書から多くの慰めと励ましを受けることができるようになりました。これは素晴らしい恵みです。イザヤ書がこんなにも恵みに溢れた書として読んだことが実はありませんでした。慰めと励ましのメッセージは、やはり物事が順調に進んでいる時にはわからないもので、今回のような経験をしなければわからないのだということを改めて感じています。聖書は本当に奥が深い、素晴らしい書物だと思います。

おわりに
 教会がどういう形になるにせよ、私たちはこの素晴らしい聖書の恵みを、多くの方々にお伝えして行きたいと思います。主の慰めと励ましを受けながら、このことのために用いられる私たちでありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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獄中でのそれぞれの二年間(2018.2.18 礼拝)

2018-02-19 23:09:16 | 礼拝メッセージ
2018年2月18日礼拝メッセージ
『獄中でのそれぞれの二年間』
【使徒24:27、創世記41:1】

はじめに
 きょうの聖書箇所は使徒の働き24章です。今のところの予定では使徒の働きの最後の28章まで毎週1章のペースで進んで行きたいと思っています。ただ21章でパウロが逮捕されてから28章でローマに入るまでの大まかな流れは先週のメッセージの中で概観してしまいました。それで、きょうの学びでは何を取り上げるべきか思いを巡らしていたところ、27節の「二年たって後」が目に留まりました。
 使徒の働きを書いたルカは、この2年の間、パウロがどう過ごしていたかについては何も触れずに、二年後のことへと話を進めています。この二年間は獄中にいたパウロにとっても、パウロのことを心配していたルカたちにとっても、つらい二年間であったと思います。しかし、ルカはそこをあっさりとスキップしています。
 この使徒24章27節の「二年たって後」を読んだ時に私は、きょうのもう一つの箇所である創世記41章1節のヨセフのことを思い起こしました。ヨセフもまた獄中にいました。そして創世記の記者は、この二年間のことにはまったく触れずに話を二年後に進めています。きょうは、この使徒の働きのパウロと創世記のヨセフの獄中でのそれぞれの二年間について、ご一緒に思いを巡らしてみたいと思います。
 なお獄中での二年間と言えば私たちの教団の初代総理の蔦田二雄先生のことも、もちろん思うことです。しかし戦時中の日本での獄中生活がどれほど厳しいものであったについて全く分かっていない戦後生まれの私が蔦田先生の獄中生活を想像しながら語るなどということはできませんから、きょうは蔦田先生のことには触れないことを予めお伝えしておきます。

エジプトに連れて来られたヨセフ
 それでは、まず創世記41章1節から見ていくことにします。私がこの箇所からの説教を初めて聞いたのは高津教会における「祈る人びと」の説教シリーズの中においてでした。教会に通い始めてから二年ぐらいしか経っていなかった頃のことだったと思います。説教者の藤本先生が、この空白の二年間に注目したことに、とても新鮮な感動を受けたことを良く覚えています。聖書の行間を読むことの面白さを初めて知った瞬間であったと言っても良いと思います。
 ヨセフの物語は皆さんも良くご存知のことと思いますが、簡単に見ておきたいと思います。ヨセフはヤコブの息子でした。ヤコブはイスラエルという名前を神から与えられていました。創世記37章の3節と4節をお読みします。

37:3 イスラエルは、彼の息子たちのだれよりもヨセフを愛していた。それはヨセフが彼の年寄り子であったからである。それで彼はヨセフに、そでつきの長服を作ってやっていた。
37:4 彼の兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、彼と穏やかに話すことができなかった。

 兄たちはヨセフを憎んでいたので、彼らはヨセフをエジプトに向かっていた商人に売ってしまいました。同じ37章の27節と28節をお読みします。

37:27 さあ、ヨセフをイシュマエル人に売ろう。われわれが彼に手をかけてはならない。彼はわれわれの肉親の弟だから。」兄弟たちは彼の言うことを聞き入れた。
37:28 そのとき、ミデヤン人の商人が通りかかった。それで彼らはヨセフを穴から引き上げ、ヨセフを銀二十枚でイシュマエル人に売った。イシュマエル人はヨセフをエジプトへ連れて行った。

 こうしてエジプトに連れて来られてしまったヨセフは、今度は無実の罪によって監獄に入れられてしまいました。39章の20節をお読みします。

39:20 ヨセフの主人は彼を捕らえ、王の囚人が監禁されている監獄に彼を入れた。こうして彼は監獄にいた。

 さて、この監獄の中にいた時、ヨセフに監獄から出られるチャンスが巡って来ました。同じ監獄に入れられていた献酌官長がそこから出られるようになるということで、ヨセフは献酌官長に自分のことを頼みました。40章の14節です。

40:14 あなたがしあわせになったときには、きっと私を思い出してください。私に恵みを施してください。私のことをパロに話してください。この家から私が出られるようにしてください。

 ところが23節、

40:23 ところが献酌官長はヨセフのことを思い出さず、彼のことを忘れてしまった。

ヨセフを成長させた二年間
 そうして、きょうの聖書箇所になります。41章1節です。

41:1 それから二年の後、パロは夢を見た。見ると、彼はナイルのほとりに立っていた。

 献酌官長はヨセフのことを忘れてしまい、それから二年間が経ちました。これはヨセフにとっては、ものすごくつらいことであっただろうと思います。なぜなら献酌官長が監獄から出られたことでヨセフは自分もようやく監獄から出られるかもしれないと大きな期待を持ったはずだからです。しかし、一ヶ月経っても二ヶ月経ってもヨセフが呼び出されることはありませんでした。そうして期待が失望へと変わって行きました。期待が大きかった分、ヨセフが味わった失望は大きかっただろうと思います。
 では、ヨセフはどうやって、この失望を克服していったのでしょうか。それは想像するしかありません。「祈る人びと」のシリーズの説教をした藤本先生は、ヨセフは祈っていたのだろうとしています。そうなのだろうなと思います。そして私は、この獄中での期待から失望の二年間があったからこそ、ヨセフはより大きな人間へと変わって行くことができたのだろうと思います。パウロはローマ人への手紙で「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」(ローマ5:3,4)と書いています。ヨセフの場合もまた、獄中での艱難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出していったのではないでしょうか。いつかは必ず監獄から出られるであろうという希望を持ち、腐ることなく自らの品性を練り上げていったのではないかと思います。だからこそ、エジプトの王に重く用いられるようになったのだと思います。41章の39節から41節までをお読みします。

41:39 パロはヨセフに言った。「神がこれらすべてのことをあなたに知らされたのであれば、あなたのように、さとくて知恵のある者はほかにいない。
41:40 あなたは私の家を治めてくれ。私の民はみな、あなたの命令に従おう。私があなたにまさっているのは王位だけだ。」
41:41 パロはなおヨセフに言った。「さあ、私はあなたにエジプト全土を支配させよう。」

 監獄での二年間はヨセフにとってつらい二年間であったと思いますが、ヨセフがエジプトの王に重く用いられて、やがてヤコブの家族がエジプトに移住して、その子孫たちがモーセに率いられてエジプトを脱出し、律法が与えられました。そして新約の時代には聖霊が与えられるようになりました。このような神の救いの計画の全体像から考えるなら、ヨセフが忘れられていた二年間は、必要な二年間であったのだろうと思います。

パウロの獄中での二年間
 では次にパウロの獄中での二年間に思いを巡らしたいと思います。
 パウロはユダヤの総督ペリクスの下で監禁されていました。24章27節をお読みします。

24:27 二年たって後、ポルキオ・フェストがペリクスの後任になったが、ペリクスはユダヤ人に恩を売ろうとして、パウロを牢につないだままにしておいた。

 この二年間はパウロにとっても、彼自身が書いたローマ人への手紙5章3節から5節までの通りになったのかもしれません(週報p.3に載せてあります)。お読みします。

5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

 パウロにとっての、この獄中での二年間はどのようなものだったでしょうか。私はこの二年間より前のパウロの手紙と後の手紙とを比べて見ると、見えて来るものがあると感じています。新約聖書のパウロの手紙は、ガラテヤ、第一テサロニケ、第二テサロニケ、第一コリント、第二コリント、ローマが、この二年間よりも前に書かれたものです。そしてエペソ、ピリピ、コロサイ、ピリピ、第一テモテ、第二テモテ、テトス、ピレモンがこの二年間の後に書かれた手紙です。

スケールが大きくなったパウロ
 私は、この二年間の後の手紙のほうにスケールの大きくなったパウロを見ることができると感じています。ここからは既に話したことがあることばかりだと思いますが、コロサイ人への手紙とエペソ人への手紙をご一緒に見て、パウロがいかにスケールの大きな世界に霊的な目を向けていたかを、共に味わいたいと思います。
 まず、コロサイ人への手紙1章の15節から17節までです。ここからは、交代で読むことにしたいと思います。

1:15 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。
1:16 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
1:17 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。

 御子が万物の創造主であったことをパウロは明快に書いています。このスケールの大きな描写は、とても重要だと思います。ご承知のように、ヨハネの福音書の冒頭にも同様のことが書かれています。開かなくて良いですから、聞いていて下さい。皆さんもよくご存知のヨハネの福音書1章1節から3節までをお読みします。

1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

 ここにも、イエス・キリストが万物の創造主であることが書かれています。パウロとヨハネの両方が御子イエス・キリストが万物の創造主であると書いていますから、私たちは安心して、このことを信じることができます。もちろん片方にしか書いていなくても私たちは安心して信じるべきです。しかし、どうでしょうか。もしコロサイ人への手紙が後世の私たちには残されていなくて、ヨハネだけがこのことを書いていたら、若干の不安が残らないでしょうか。ヨハネは他の新約聖書の記者たちとは少し変わった書き方をしていますから、御父だけではなく御子もまた万物の創造主であることを100%安心して信じることができるでしょうか。私はパウロがコロサイ人への手紙に御子が万物の創造主であることを書いてくれていて本当に良かったなと思います。そして、この手紙が失われることなく後世にも伝えられたことを感謝しています。

宇宙スケールのキリストの愛を描いたエペソ書
 では、次にエペソ人への手紙を開きましょう。もう何度もご一緒に読んでいますが、パウロのスケールの大きな描写と言えば、やはりエペソ3章だと思います。エペソ3章の14節から19節までを交代で読みましょう。

3:14 こういうわけで、私はひざをかがめて、
3:15 天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。
3:16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

 私は特に18節の「広さ、長さ、高さ、深さ」というところにスケールの大きさを感じます。そして19節の「人知をはるかに越えたキリストの愛」という表現もそうですね。しかし、もし18節がなくて、単に「人知をはるかに越えたキリストの愛」とだけしか書かれていなかったら、このキリストの愛の大きさは漠然とした捉えどころのないものになったであろうと思います。パウロが「広さ、長さ、高さ、深さ」と書いたことで、私たちは宇宙スケールの壮大なキリストの愛の大きさを思い浮かべることができます。

巨大な悪もまた宇宙スケール
 そして、先週もその一部を読みましたが、エペソ6章の10節から13節までを交代で読みたいと思います。

6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
6:11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
6:13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。

 先週も見ましたが、特に12節です。ここには宇宙スケールの巨大な悪の支配者の悪魔のことが書かれています。パウロは宇宙スケールの神を霊的に見ていたからこそ、悪魔についても、その悪の支配の大きさをしっかりと霊的に見ることができたのだと思います。
 ですから、もし私たちが神のスケールの大きさを十分に感じることができていないとしたら、悪魔の支配力の大きさも過小評価してしまうことになるだろうと思います。私自身のことを考えてみても、神の大きさがわかるようになればなるほど、悪魔の支配の大きさも分かるようになって来ました。悪魔の支配は本当に恐ろしいことです。ですから私たちは神のすべての武具を取る必要があるのです。エペソ6:13はフィクションのように誇張した表現では決してありません。
 パウロがエペソ人への手紙を書いたのは、二年間の獄中生活の後、裁判を受けるためにローマに行ってからです。パウロはローマにおいてもずっと捕らえられた状態のままでした。悪魔の大きな力はパウロをずっと拘束したままでいました。パウロがキリストの愛の大きさと悪魔の支配力の大きさをエペソ人への手紙に書いたのは、パウロが悪の支配力の大きさを身に沁みて感じていたからではないかと私は考えます。

おわりに
 私たちもまた困難の中にあります。その最大の理由は、やはり悪魔がこの日本と世界を依然として支配していて、私たちが苦しい闘いを強いられているからだと思います。しかし、この艱難はまた、私たちの信仰を大きくしてくれるものであることも、覚えたいと思います。
 最後に、週報p.3に載せてあるローマ人への手紙5章の3節から5節までを交代で読んで、終わりたいと思います。

5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

 お祈りいたしましょう。
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ローマへの長い長い道のり(2018.2.11 礼拝)

2018-02-12 10:29:17 | 礼拝メッセージ
2018年2月11日礼拝メッセージ
『ローマへの長い長い道のり』
【使徒23:11、31~35】

はじめに
 使徒の働きの学びで、きょうは23章をご一緒に見ることにします。3月の最後の聖日には使徒の働きの最後の章の28章を開いて、使徒の働きの学びを終えることにしていますから、21章からは1回の聖日につき1つの章を進むようにしています。
そのようにして、使徒の働きの終わりのほうまでを見渡していて、一つ気付いたことがあります。きょうは先ず、そのことを分かち合いたいと思います。

使徒の働きの4分の1以上がパウロの逮捕以降
 それは、パウロが21章でエルサレムで捕らえられてから、28章でローマに着くまでに、ルカが足掛け8章分ものページ数を割いて書いているということです。このことに私が今頃になって気付くということは、これまで私がいかに使徒の働きの21章以降を軽視していたかが分かってしまって面目ありませんが、それは置いておいて、これはとても興味深いことだと思いました。ルカは、実に使徒の働き全体の4分の1を越える分量を、パウロがエルサレムで捕らえられてから、ローマに着くまでの記述に費やしています。
 パウロが、どの箇所で捕らえられたかを簡単に振り返っておくと、それは21章の30節でしたね。お読みします。

21:30 そこで町中が大騒ぎになり、人々は殺到してパウロを捕らえ、宮の外へ引きずり出した。そして、ただちに宮の門が閉じられた。

 そうして捕らえられた後、パウロは22章でユダヤ人たちに向かって、自分がダマスコに行く途中でイエス・キリストと出会ったことの証をしたことを先週はご一緒に見ました。
 そして、きょうの聖書箇所でパウロは主からの次のような声を聞きました。23章の11節です。

23:11 その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない」と言われた。

 主はパウロに対してローマでも証をしなければならないと仰せられました。ここだけを読むと、次の章にはローマに入るのかなと思ってしまいますが、パウロは次の24章でもローマにはいませんし、25章でも26章でもローマにいません。そして、なんと27章にもまだローマにはいません。パウロがローマに到着したのは28章の16節です。お読みします。

28:16 私たちがローマに入ると、パウロは番兵付きで自分だけの家に住むことが許された。

 そうして、この使徒の働きは28章の31節で終わります。一体どうしてルカは、パウロがエルサレムで捕らえられてからローマに入るまでの期間に、使徒の働きの4分の1もの分量を割いて記述したのでしょうか。それは、やはり、ルカがこの部分をとても大切だと考えていたからでしょう。テレビドラマや映画などでも、ここぞという大切な場面では、時間をたっぷりと使いますね。例えば私は忠臣蔵がけっこう好きなのですが、忠臣蔵と言えば、主君の敵(かたき)である吉良上野介の屋敷への討ち入りの場面がクライマックスですから、ここにたっぷりと時間を使います。討ち入り前の入念な準備のシーンも重要ですが、やはりメインは討ち入りです。
 或いはまた広島の原爆の映画などでは、原爆が投下された当時にスポットを当てている映画もあれば、原爆が投下されたずっと後の日々にスポットを当てているものなど、様々な映画があります。昨年私が出した本でも紹介した『夕凪の街 桜の国』という映画では、映画の前半部分は原爆が投下されてから10年後の物語で、後半の部分は、それからさらに50年後の物語です。原爆投下直後についてのシーンはほんの少ししかありません。それは、被爆者とその家族が実に長い期間、苦悩を抱えていることをこの作品は伝えようとしているからです。
 これらの例でもわかるように、ドラマや映画では、どのシーンにどれくらいの時間が割かれているかで、そのシーンの重要度が概ねわかるようになっています。ですから、パウロがエルサレムで捕らえられてからローマに入るまでに全体の4分の1が費やされているということは、やはりルカがここを重要だと考えているからだということになるでしょう。

なぜパウロの逮捕以降がそんなに大切なのか
 さてでは、どうしてルカがエルサレムからローマへの道のりをそんなにも重要であると考えたのだろうかという話になりますね。それには、パウロが28章までをどのように過ごしていたかを知る必要があります。そこで、きょうは、捕らえられたパウロがどこにいたのかを、ざっと見ることにしたいと思います。
 もう一度21章に戻ると、パウロは30節でユダヤ人たちに捕らえられましたが、そのすぐ後でローマ軍の千人隊長に捕らえられました。当時のユダヤはローマ帝国が支配していたからです。31節から33節までをお読みします。31節の「彼ら」というのは、パウロを捕らえたユダヤ人たちのことです。

21:31 彼らがパウロを殺そうとしていたとき、エルサレム中が混乱状態に陥っているという報告が、ローマ軍の千人隊長に届いた。
21:32 彼はただちに、兵士たちと百人隊長たちとを率いて、彼らのところに駆けつけた。人々は千人隊長と兵士たちを見て、パウロを打つのをやめた。
21:33 千人隊長は近づいてパウロを捕らえ、二つの鎖につなぐように命じたうえ、パウロが何者なのか、何をしたのか、と尋ねた。

 そして、先週開いた22章と先ほど司会者に読んでいただいた23章11節の時点では、パウロはまだエルサレムの千人隊長のもとにいます。以降は、細かい事情は飛ばして、単にパウロがどこにいたのか、ということだけを見ることにします。23章の31節から33節までをお読みします。

23:31 そこで兵士たちは、命じられたとおりにパウロを引き取り、夜中にアンテパトリスまで連れて行き、
23:32 翌日、騎兵たちにパウロの護送を任せて、兵営に帰った。
23:33 騎兵たちは、カイザリヤに着き、総督に手紙を手渡して、パウロを引き合わせた。

 このようにパウロはエルサレムからアンテパトリスを経てカイザリヤに移動し、そこで総督に引き合わせられました。総督の名はペリクスであることが24章の2節からわかります。

24:2 パウロが呼び出されると、テルトロが訴えを始めてこう言った。「ペリクス閣下。閣下のおかげで、私たちはすばらしい平和を与えられ、また、閣下のご配慮で、この国の改革が進行しておりますが、

 さて、24章の27節を見ると、パウロはペリクスの監視のもとで2年間を過ごしたことがわかります。27節、

24:27 二年たって後、ポルキオ・フェストがペリクスの後任になったが、ペリクスはユダヤ人に恩を売ろうとして、パウロを牢につないだままにしておいた。

 こうして24章が終わって25章に入ります。パウロはペリクスの後任の総督のフェストに次のように訴えました。25章の10節と 11節、

25:10 すると、パウロはこう言った。「私はカイザルの法廷に立っているのですから、ここで裁判を受けるのが当然です。あなたもよくご存じのとおり、私はユダヤ人にどんな悪いこともしませんでした。
25:11 もし私が悪いことをして、死罪に当たることをしたのでしたら、私は死をのがれようとはしません。しかし、この人たちが私を訴えていることに一つも根拠がないとすれば、だれも私を彼らに引き渡すことはできません。私はカイザルに上訴します。」

 このパウロの訴えに対してフェストは答えました。12節です。

25:12 そのとき、フェストは陪席の者たちと協議したうえで、こう答えた。「あなたはカイザルに上訴したのだから、カイザルのもとへ行きなさい。」

 と、このように総督のフェストが言ったのですから、ただちにローマへ向けて出発するかと思いきや、すぐ後でアグリッパ王が来て、25章の後半はアグリッパ王とフェストとのやり取り、そして26章にはアグリッパ王とパウロとのやり取りが記されています。アグリッパ王というのはヘロデの家系のヘロデ・アグリッパ2世のことです。そうして、この25章と26章のヘロデ・アグリッパ2世に関わる記述の後、27章でようやくローマに向けて船で出帆しましたが、途中で暴風で吹き流されてマルタ島に漂着します。28章には、このマルタ島からローマに至る道も描かれていて、14節でやっとでローマに到着しました。

権力者たちを支配している悪魔
 ここまで、早足で21章から28章までを概観しました。あまりに早足すぎてわかりづらかったかもしれませんが、ここから、ルカが何を描きたかったかを考えてみたいと思います。
 今説明した区間を読んでいて、私は二人の総督とアグリッパ王とが、いずれも俗物であったり、うなじのこわい者であったという印象を受けました。例えば最初の総督のペリクスについては、ルカは24章の24節と25節に次のように書いています。

24:24 数日後、ペリクスはユダヤ人である妻ドルシラを連れて来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスを信じる信仰について話を聞いた。
24:25 しかし、パウロが正義と節制とやがて来る審判とを論じたので、ペリクスは恐れを感じ、「今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう」と言った。

 パウロの話を聞いたペリクスは、やがて来る審判では自分は間違いなく裁かれて火の中に入れられると思ったことでしょう。しかし、今の罪深い生活も心地よく感じていて、それをやめたくはなかったのだろうと思います。彼は悔い改めることなくパウロを帰しました。さらにルカは26節のようにも書いています。

24:26 それとともに、彼はパウロから金をもらいたい下心があったので、幾度もパウロを呼び出して話し合った。

 ですから、ペリクスは相当な俗物であったようです。次にフェストですが、ルカはフェストについて、25章9節で、

25:9 ところが、ユダヤ人の歓心を買おうとしたフェストは、パウロに向かって、「あなたはエルサレムに上り、この事件について、私の前で裁判を受けることを願うか」と尋ねた。

と書いています。フェストはユダヤ人の歓心を買おうとしました。イエスさまの時代の総督のピラトもそうですが、総督はその地方の人々を上手く治めないと統治能力が無いとみなされますから、ユダヤ人の歓心を買う必要があったのでしょう。また、ルカはフェストについて次のようにも書いています。26章の24節です。

26:24 パウロがこのように弁明していると、フェストが大声で、「気が狂っているぞ。パウロ。博学があなたの気を狂わせている」と言った。

 結局、フェストはパウロの言うことを信じていませんでした。
 またアグリッパ王に関してはルカは26章28節のように書いています。

26:28 するとアグリッパはパウロに、「あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている」と言った。

 アグリッパ王もまた、イエス・キリストを信じようとしませんでした。
 これらの記述を見ると、パウロがどのような相手と闘っていたか、大きな構造が見えて来るような気がします。ペリクスもフェストもアグリッパ王も皆、この地を統治している権力者です。その権力者たちはいずれもパウロのことばを聞きながらも、信じようとはしませんでした。すると、より大きな構造として彼らが悪魔に支配されている姿が見えて来ます。

悪魔と対決しているパウロ
 ここで、パウロが第一次伝道旅行を始めた時の使徒13章を振り返ってみたいと思います。13章の2節で、パウロとバルナバたちが主を礼拝していると、聖霊が「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい」と言われました。それでパウロとバルナバは第一次伝道旅行に出て、4節にあるように先ずキプロス島に渡しました。すると6節で魔術師に出会いました。その次の7節をお読みします。

13:7 この男は地方総督セルギオ・パウロのもとにいた。この総督は賢明な人であって、バルナバとサウロを招いて、神のことばを聞きたいと思っていた。

 この13章でも総督が登場していました。キプロス島の総督です。この総督はバルナバとパウロを招いて神のことばを聞きたいと思っていました。ところが8節、

13:8 ところが、魔術師エルマ(エルマという名を訳すと魔術師)は、ふたりに反対して、総督を信仰の道から遠ざけようとした。

 魔術師は総督を信仰の道から遠ざけようとしました。それはつまり、総督が神に近づくことを悪魔が引き離そうとしているということです。その魔術師に対してパウロは言いました。9節と10節、

13:9 しかし、サウロ、別名でパウロは、聖霊に満たされ、彼をにらみつけて、
13:10 言った。「ああ、あらゆる偽りとよこしまに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵。おまえは、主のまっすぐな道を曲げることをやめないのか。

 こうして見ると、ローマ帝国が支配していた地域の全体が悪魔に支配されていたと見ることができます。つまり、世界は悪魔に支配されているということです。そうしてパウロは第一次伝道旅行の始めから悪魔と対決していました。このように悪魔が支配する世界でパウロは伝道旅行でイエス・キリストの教えを宣べ伝えて各地に教会を建て上げて行きました。それによって多くの人々が信仰に入りました。しかし、21章以降でルカは使徒の働きの4分の1という長い分量を使って権力者たちがイエス・キリストを信じようとしなかったことを描きました。ここからルカは、悪魔による世界の支配がまだまだしっかりと続いていることを伝えたかったのではないかと私は感じています。

暗闇の世界の支配者との格闘
 パウロはエペソ人への手紙で、

6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

と書いています。パウロが闘っていたのは、この暗闇の世界の支配者たちでした。総督のペリクスとフェスト、そしてアグリッパ王はユダヤの支配者で、彼らは悪魔に支配されていました。そして、この三人の上にはローマの皇帝がいました。このローマの皇帝もまた悪魔に支配されていました。使徒23章11節でイエスさまは、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない」とパウロに言いましたが、それは、ローマ皇帝を支配している悪魔と直接対決するようにということだったのかもしれません。
 きょうは使徒の働きの21章から28章までを見渡して、ローマ帝国全体が悪魔に支配されている様子を見ることができましたから感謝でした。
 全体が悪魔に支配されているという点では、今の日本も同じです。日本のキリスト教は、かつては次々と教会が開拓されていって、それぞれの教会がそれぞれの地域で伝道をしていました。しかし、その時代を通り過ぎて、今は離れた教会同士が協力関係を持つ時代になって来ました。広い地域を見渡す視点を得るという意味においても、また次々と教派が枝分かれして行ったプロテスタント教会がもう一度一つになって行くという意味においても、それは良いことなのだと言えるでしょう。

おわりに
 私たちが闘っている相手が何なのかという観点を持ちつつ、この先も私たちは信仰の道を歩んで行きたいと思います。最後に、ご一緒に使徒23章11節を読んで、終わりたいと思います。

23:11 その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない」と言われた。

 お祈りいたしましょう。
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イエスの証人パウロ(2018.2.4 礼拝)

2018-02-06 08:11:18 | 礼拝メッセージ
2018年2月4日礼拝メッセージ
『イエスの証人パウロ』
【使徒22:1~10】

はじめに
 きょうは使徒の働きの22章を開いています。2月と3月にそれぞれ4回ずつ計8回の聖日があります。そのうちの1回の3/18は他の先生がメッセージを語って下さることになっていますから、2月と3月で私が担当する礼拝メッセージは、あと7回です。きょうは使徒22章で、1聖日に1章ずつ進めば、ちょうど3月の第4聖日に28章を開くことができて、使徒の働きの1章から28章までの全体を見渡すことができた、ということにできると思っています。そうして4月1日のイースター礼拝は、どこかイースターにふさわしい箇所を開くことにしたいと願っています。

エルサレムで捕らえられたパウロ

 さて、先週は使徒21章でパウロがエルサレムでローマ兵に捕らえられた場面をご一緒に見ました。パウロがエルサレムに向かって近づいて行く中で、周囲の人々はパウロがエルサレムに上ることを何度も止めようとしました。例えば21章の4節、この4節の「私たち」の「私」とはルカのことです。4節、

21:4 私たちは弟子たちを見つけ出して、そこに七日間滞在した。彼らは、御霊に示されて、エルサレムに上らぬようにと、しきりにパウロに忠告した。

 或いはまた12節、

21:12 私たちはこれを聞いて、土地の人たちといっしょになって、パウロに、エルサレムには上らないよう頼んだ。

 いろいろな人々がパウロはエルサレムで捕らえられるということを御霊に示されてパウロがエルサレムに行くことを思いとどまらせようとしました。しかし、パウロは13節で言いました。13節、

21:13 するとパウロは、「あなたがたは、泣いたり、私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は、主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています」と答えた。

 そうして、パウロはエルサレムに上って行って、捕らえられてしまいました。まずパウロはユダヤ人たちによって捕らえられました。30節です。

21:30 そこで町中が大騒ぎになり、人々は殺到してパウロを捕らえ、宮の外へ引きずり出した。そして、ただちに宮の門が閉じられた。

 このようにパウロがユダヤ人たちによって神殿の外へ引きずり出されたところにローマ兵の千人隊長が駆けつけました。31節と32節、

21:31 彼らがパウロを殺そうとしていたとき、エルサレム中が混乱状態に陥っているという報告が、ローマ軍の千人隊長に届いた。
21:32 彼はただちに、兵士たちと百人隊長たちとを率いて、彼らのところに駆けつけた。人々は千人隊長と兵士たちを見て、パウロを打つのをやめた。

 そうしてパウロは千人隊長によって捕らえられました。33節です。

21:33 千人隊長は近づいてパウロを捕らえ、二つの鎖につなぐように命じたうえ、パウロが何者なのか、何をしたのか、と尋ねた。

 この千人隊長に向かってパウロは、ユダヤ人たちに話をさせて欲しいと頼みました。39節です、

21:39 パウロは答えた。「私はキリキヤのタルソ出身のユダヤ人で、れっきとした町の市民です。お願いです。この人々に話をさせてください。」

 パウロのこの頼みを千人隊長は許しました。40節、

21:40 千人隊長がそれを許したので、パウロは階段の上に立ち、民衆に向かって手を振った。そして、すっかり静かになったとき、彼はヘブル語で次のように話した。

イエスとの出会いを証したパウロ

 そうして、きょうの聖書箇所の22章に入って行きます。22章の1節と2節、

22:1 「兄弟たち、父たちよ。いま私が皆さんにしようとする弁明を聞いてください。」
22:2 パウロがヘブル語で語りかけるのを聞いて、人々はますます静粛になった。そこでパウロは話し続けた。

 そして、パウロは自分自身について語り始めました。3節から5節、

22:3 「私はキリキヤのタルソで生まれたユダヤ人ですが、この町で育てられ、ガマリエルのもとで私たちの先祖の律法について厳格な教育を受け、今日の皆さんと同じように、神に対して熱心な者でした。
22:4 私はこの道を迫害し、男も女も縛って牢に投じ、死にまでも至らせたのです。
22:5 このことは、大祭司も、長老たちの全議会も証言してくれます。この人たちから、私は兄弟たちへあてた手紙までも受け取り、ダマスコへ向かって出発しました。そこにいる者たちを縛り上げ、エルサレムに連れて来て処罰するためでした。

 そして、ここから先でパウロは、自分がダマスコに向かう途上でイエス・キリストと出会った時のことを語り始めます。ここでパウロが語っていることは、使徒の働きの9章に書かれていることとほとんど同じです。ただし使徒9章では、ルカはダマスコ途上の出来事を第三者の目で描写しています。しかし、この22章では、パウロが自分自身の経験として証をしています。つまり、ここでパウロは「イエスの証人」として人々に自分の体験の証をしています。
 このダマスコ途上の出来事は使徒9章を通して皆さんの多くはだいたいのことをご存知だろうと思いますが、簡単に見ておきましょう。22章の6節と7節、

22:6 ところが、旅を続けて、真昼ごろダマスコに近づいたとき、突然、天からまばゆい光が私の回りを照らしたのです。
22:7 私は地に倒れ、『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか』という声を聞きました。

 この時のパウロは、この声の主(ぬし)がまだ誰かわかっていませんでした。8節、

22:8 そこで私が答えて、『主よ。あなたはどなたですか』と言うと、その方は、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスだ』と言われました。

 こうしてパウロはイエス・キリストと出会いました。この時、イエス・キリストはパウロにだけ現れてパウロと一緒にいた者たちにはわからなかったようです。9節、

22:9 私といっしょにいた者たちは、その光は見たのですが、私に語っている方の声は聞き分けられませんでした。

 この時のパウロと一緒にいた者たちとは、パウロと共にイエスの弟子たちを迫害しようとしていた者たちです。その者たちにはイエス・キリストは語り掛けませんでした。パウロにだけ語り掛けています。そして10節、

22:10 私が、『主よ。私はどうしたらよいのでしょうか』と尋ねると、主は私に、『起きて、ダマスコに行きなさい。あなたがするように決められていることはみな、そこで告げられる』と言われました。

 パウロと一緒にいた者たちには、そこにイエスさまがいたことがわからなかったのですから、パウロが出会ったのは霊的なイエスさまです。
 これもまたイエス・キリストと出会ったことになります。ペテロやヨハネなどの十二弟子たちは人間のイエスさまに出会って旅を共にしました。イエスさまと出会ったと言うと、ペテロたちのような人間のイエスさまとの出会いを先ず思い浮かべるかもしれませんが、パウロのような霊的なイエスさまとの出会いも、もちろん含みます。現代の私たちも同様です。ですから、ペテロやヨハネは少数派で、ほとんどの人々にとってイエスさまと出会うとは、霊的なイエスさまと出会うということです。

霊的なイエスと出会うとは

 さて、きょうは残りの時間で、霊的なイエスさまと出会うとはどういうことかについて、もう少し考えてみたいと思います。先ず、強調しておきたいことは、パウロのような強烈な出会い方は「例外中の例外である」ということです。
 イエスさまは、いつも私たちに語り掛けて下さっています。しかし、それは気付くか気付かない程度の弱いものです。だからこそ、霊的であると言えるでしょう。霊的な語り掛けは誰でもが気付くようなものではありません。
 では、パウロに対しては、どうしてそんなに強烈な現れ方をしたのでしょうか。それは、ここで改めて説明する必要もないと思いますが、パウロは選ばれた器だからですね。パウロは異邦人にイエス・キリストを宣べ伝えるための選ばれた器だからです。22章の21節でパウロが証している通りです。21節、

22:21 すると、主は私に、『行きなさい。わたしはあなたを遠く、異邦人に遣わす』と言われました。」

 こうしてパウロはイエスさまによって召し出されました。この当時のパウロは、ペテロやヨハネたちが説いていた「十字架で死んで復活したイエスは救い主のキリストである」という話をまったく信じていませんでしたから、イエスさまにも一切関心がありませんでした。そんなパウロに対しては、強烈な現れ方が必要でした。
 では、パウロに対するイエスさまの現れ方が例外中の例外であるとするなら、普通の現れ方は、どのようなものでしょうか。それは、私が好んで開くヨハネの福音書の1章と4章に見られると思います。
 ヨハネの福音書の1章の35節から39節までを交代で読みましょう。

1:35 その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、
1:36 イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊」と言った。
1:37 ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。
1:38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」
1:39 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。時は第十時ごろであった。

 ここではヨハネの二人の弟子が、イエスさまのほうに近づいて行きました。それによって弟子たちは、イエスさまが「あなたがたは何を求めているのですか」、「来なさい。そうすればわかります」と自分たちに語り掛けて下さった声を聞くことができました。二人がもしイエスさまのほうに近づいて行かなければ、この語り掛けを聞くことはできなかったでしょう。これがイエスさまとの普通の出会い方です。これは私たち一人一人の信仰への導かれ方を考えてもわかると思います。ほとんどの人は、たとえ誰かに連れて行ってもらったとしても自分の足で教会の玄関の中に入ることで信仰へと導かれることになったことと思います。もし自分は教会にずっと背を向けていて一度も自分の足で教会に入ったことがないのに信仰に導かれたという人がいたとしたら、それは例外中の例外であると言えるでしょう。
 ですからイエスさまから離れていたパウロのイエスさまとの強烈な出会いは例外中の例外です。普通はイエスさまに関心を持ってイエスさまに近づいて行った者だけが、イエスさまの語り掛けを聞くことができます。
 そうして、このヨハネの福音書の1章を読んで、この弟子が1世紀の弟子ではなくて自分のことだと感じるなら、その人はイエスさまと霊的に出会ったと言って良いでしょう。
 「その程度のことで霊的なイエスに出会ったことになるの?」と疑問に思う人もいるかもしれません。しかし、イエスさまの語り掛けはほとんど気付くか気付かない程度の微弱なものですから、むしろこの程度だからこそ、それを自分への語り掛けと感じるなら、十分に霊的なイエスと出会ったことになります。繰り返しますが、パウロのような強烈なイエスさまとの出会いは例外中の例外ですから、微弱な、微かで弱いイエスさまの語り掛けに気付くことこそが、本当の意味でイエスさまと霊的に出会ったと言えるのではないでしょうか。

出会いの始まりはイエスに近づくこと

 もう一箇所、これも良く開く箇所ですが、ヨハネ4章でサマリヤ人たちがサマリヤの女の言ったことを信じてイエスさまの所に来た場面も、ご一緒に見ましょう。ヨハネ4章の39節から42節までを交代で読みましょう。

4:39 さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った」と証言したその女のことばによってイエスを信じた。
4:40 そこで、サマリヤ人たちはイエスのところに来たとき、自分たちのところに滞在してくださるように願った。そこでイエスは二日間そこに滞在された。
4:41 そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。
4:42 そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」

 この場面でも、イエスさまが強烈に現れたのではなくて、サマリヤの女のことばを信じたサマリヤ人たちがイエスさまに近づいていったことで、イエスさまと出会うことができました。そして、この箇所を読んで42節の、「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです」というサマリヤ人たちのことばを、1世紀の彼らのことばとしてではなく、自分も同じだと感じるなら、その人は既に霊的なイエスさまと出会っています。

おわりに
 この世の人間同士の出会いと、霊的なイエスさまとの出会いは全く異なりますから、もしかしたら既に霊的なイエスさまと出会っているのに、それを出会いと認識していない方もおられるかもしれません。それはものすごく残念なことです。せっかくイエスさまと出会っていながら、それを出会いと感じていないとしたら、もったいないことです。
 きょうは、使徒22章でパウロ自身が証をしたイエスさまとの強烈な出会いの体験を入口にして、それは例外中の例外であり、私たちの場合のイエスさまとの普通の出会い方に関して思いを巡らすことができましたから、感謝に思います。もっともっと多くの方々がイエスさまとの霊的な出会いを経験できるように、私たちは働いて行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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