2020年2月9日礼拝メッセージ
『人生の決定権を手放す信仰』
【創世記22章】
はじめに
きょうの聖書箇所は、皆さんのほとんどが良くご存知の、イサクを全焼のささげ物として献げなさいと神様がアブラハムに命じた場面の記事です。この箇所からどういうメッセージを取り次ぐべきか、そんなに簡単ではありませんから、私は牧師になってからこの記事についての説教をするのは初めてです。
私は2012年の春に神学校を卒業して牧師になりましたから、8年近く牧師として説教をして来たことになりますが、この創世記22章から説教をしたことはありませんでした。アブラハムが息子のイサクを全焼のいけにえとしてほふる寸前までいったという、この記事からメッセージを語ることは簡単にはできないことです。
例えば「アブラハムのように主の御声に聞き従いましょう」とお勧めするにしても、ハランを出発してカナンに向かった場面なら、お勧めできますが、息子を殺そうとすることはもちろんお勧めできません(当たり前ですね)。
では、どうして今回はこの創世記22章から説教をすることにしたのかというと、元旦礼拝から、アダム、カイン、ノアの時代、バベルの塔の時代、アブラムがハランを出立する場面を順番に見て来ましたから、今回はこのアブラハムがイサクをほふろうとした創世記の重要な場面を避けて通ることはできないと内からの語り掛けのようなものを感じたからです。
そうして思いを巡らしている中で浮かんで来たのが、きょうの説教題の『人生の決定権を手放す信仰』です。アブラハムはあらゆる場面で主の御声に聞き従って来ました。そのクライマックスが、この22章です。どうしてアブラハムはそんなに主の御声に素直に従うことができたのか、それは彼が自分の人生を自分で決めないで、決定権を手放していたからなのでしょう。人生の決定権というとても大切なものをどうしてアブラハムは手放すことができたのか、それは彼が神様の愛を存分に感じていたからではないでしょうか。
きょうは、その観点から次の五つのパートで話を進めて行きます。
①アブラハムの信仰の原点はハラン出立
②ロトの選択に委ねたアブラハム
③手放すと与えて下さる神様
④イシュマエルの時には苦しんだアブラハム
⑤究極の決定権の手放し
①アブラハムの信仰の原点はハラン出立
これは復習になりますが、アブラハムの信仰の原点は、彼がハランの地にいた時に主の御声を聞いてカナンに向けて出立したことです。アブラハムの出身地はユーフラテス川流域のウルでした。ここはメソポタミア文明が栄えていた都市国家であったようです。
アブラハムは父のテラと共にこのウルの地を離れてハランに来ていました。父のテラはこのハランの地で亡くなりました。都会のウルとは正反対の寂しいハランの地でアブラハムは途方に暮れたことでしょう。それまでは家長であった父テラに従って付いて行けば良かったので、そうしてハランにも来ました。しかし、故郷のウルから遠く離れたハランで父を失い、これからどうしたら良いのかアブラハムは困惑していたことと思います。
そんな時に主からの御声を直接聞いて、これが大きな励ましになったのでしょう。主が向かうように言ったカナンの地はアブラハムにとって全く未知の場所でしたが、彼は主の御声に従ってハランを出立しました。この時からアブラハムは決定権を手放すことができていたのですね。考えてみると、それまでの彼の人生の決定権は父のテラにあったでしょう。しかし父が死んで、これからは自分で自分の人生を決めます。その時に主の御声を聞いたのでアブラハムは主に自分の人生を委ねることを選びました。
私たちは元旦からアダムやカインの時代、ノアの時代、バベルの塔の時代の人々の記事読み、人間がすぐに神様から離れてしまう様子を見て来ました。人は神様に背いて自分の歩きたい方向に歩き、神様から離れて行きやすい性質を持っていることを学びました。ですからアブラハムが主の御声に素直に従ったことは、凄いことだと思うべきでしょう。普通の人間なら神様に背きますが、アブラハムは違いました。アブラハムが「信仰の父」と言われるのは、そのためでしょう。普通の人は神様に背くけれどアブラハムは違ったということを、覚えておきたいと思います。
②ロトの選択に委ねたアブラハム
自分の人生を自分で決めないで神様の御声に従うことにしたアブラハムは甥のロトと離れて暮らすことにした時も、右へ行くか左へ行くかを自分で決めないで選択権をロトに与えました。きょうの聖書交読でもご一緒に読んだ創世記13章ですね。
この時、アブラハムたちは多くの羊や牛を飼っていました。この動物たちを養うには広い草地が必要だったのでしょう。アブラハムの家畜の牧者とロトの家畜の牧者の間で争いも起きていたと書かれています。それゆえアブラハムは甥のロトに言いました。
そうして甥のロトは見栄えの良い豊かな地を選んで、そちらに進んで行きました。ここで注目したいのは、9節のアブラハムのことばの「全地はあなたの前にあるではないか」です。全地は神様によって作られました。ですから右に行っても左に行っても神様と共に歩むなら、どちらに行っても神様は祝福して下さるということをアブラハムは体験的に学んでいたと感じます。神様の愛を感じている人を神様は祝福して下さいます。一方、神様から離れている人は右へ行っても左へ行っても祝福されません。
自分で自分の進む道を選ぶとなると、どうしても人間的な計算が入って来ます。ですから、いっそ決定権そのものを手放してしまったほうが、どちらの方向に進んだとしても神様の祝福を得られやすいのだろうと思います。アブラハムは主の御声に従う中で次第に神様の大きな愛を感じるようになり、意識せずに自然とそういう生き方が身に付いていったように感じます。アブラハムは右へ行くか左へ行くかを自分で決めずにロトに選択権を与えました。
③手放すと与えて下さる神様
人間的な思いに囚われて様々なものを握り締めていると、手放すことが難しくなります。聖書は多くの箇所で先ず手放すことで神様の祝福が得られることを教えています。自分が握り締めているものを手放すこととは、神様を信頼して神様の愛の中で生きることを決めることです。そのような者を神様は祝福して下さいます。アブラハムの場合は故郷を手放し、また人生の決定権を手放すことで神様に祝福されました。
アブラハムの記事以外でも、聖書にはそのような箇所がいくつもあります。例えば、預言者エリヤはツァレファテで出会ったやもめに、彼女の家にある残りわずかの粉と油で自分にパン菓子を作って欲しいと言いました。この時、その地方では雨が降らずにいて作物もできませんでしたから、やもめと息子は飢え死にし掛けていました。この粉と油を使い果たしてしまったら、もはや死ぬしかありませんでした。その最後の粉と油で作るパン菓子を自分に与えるようにとエリヤは言いました。そうすればかめの粉は尽きず、壺の油も無くならないとエリヤはやもめに言いました。彼女はエリヤの言う通りにして、本当にかめの粉は尽きず、壺の油は無くならなかったと聖書は記しています(列王記第一17章)。自分のものを手放したやもめを主は豊かに祝福して下さいました。
逆に、福音書に出て来る金持ちの青年は自分の財産を手放すことができませんでした。物であっても事であっても手放すことができないでいると、神様が祝福を与えようとしても、祝福が入る余地がありません。
ただし、財産を手放すのは難しいことです。そういう意味で金持ちの青年には同情します。金持ちの青年の話を読むと、財産をたくさん持っている人は、ちょっと悩ましく思ってしまうかもしれません。しかし、イエスさまが金持ちの青年に言いたかったことは、多くの物を持っていると心を神様に明け渡すことができないということでしょう。アブラハムの記事はそういう意味で大変に参考になると思います。アブラハムは多くの財産を持っていましたが、財産を手放すことはありませんでした。アブラハムが手放したのは人生の決定権です。アブラハムは人生の進路を選ぶ決定権を神様に委ねました。そうしてアブラハムの人生は祝福されました。
④イシュマエルの時には苦しんだアブラハム
先週の礼拝メッセージでは女奴隷のハガルがアブラハムの家を追い出された記事に目を留めました。アブラハムは妻のサラにハガルを追い出して下さいと言われた時に非常に悩み苦しみました。最初に言われたのが主からではなく、妻のサラからであったゆえでしょう。そうして自分では決められないでいた時に、神様からアブラハムに声があって、サラの言う通りにハガルとイシュマエルを家から出すように神様は言いましたから、アブラハムはそのようにしました。
これは女奴隷のハガルにとってはとても気の毒なことでした。しかし、女主人のサラにこれからもずっといじめられ続けるよりは、ハガルにとっても自由になれて良かったのではないかなと思います。荒野で絶望していたハガルに神様は声を掛けて励まし、息子のイシュマエルは大人に成長することができました。
さてアブラハムですが、女奴隷との間に生まれた子であるとは言え、イシュマエルも自分の息子であるという点ではイサクと変わりませんでした。ハガルだけでなく、自分の息子のイシュマエルをも家から出して手放すことは、アブラハムにとってつらいことだったでしょう。しかし主がサラの言う通りにしてイシュマエルを家から出すように言いましたから、彼はその主の御声に従いました。
そうするとアブラハムは主の御声が無ければ自分では何も決められない人であったのかというとそうでもありません。妻のサラが亡くなった時に、アブラハムは墓地にする場所を買い求めました。その土地の所有者はアブラハムに無償で与えると言いましたが、アブラハムはそれを固辞して、代価を払って土地を購入すると言い張り、そのようにしたことが聖書に記されています(創世記23章)。ですから、アブラハムは自分で決定を下すことができない優柔不断な人ではありませんでした。アブラハムは多くのことを自分で決定したことでしょう。しかし、人生の一大事である重要なことに関しては決定権を手放して、自分の人生を主に委ねていました。
⑤究極の決定権の手放し
ここからは聖書を開いて読むことにしましょう。22章の1節で神様は「アブラハムよ」と呼び掛け、彼は「はい、ここにおります」と答えました。続いて2節と3節を、交代で読みましょう。
3節に、「翌朝早く」アブラハムはイサクを連れて出て行ったことが記されています。ここにはアブラハムが悩み苦しんだ形跡がありません。1ページ前に紙を戻してもらって21章の10節と11節には、アブラハムがサラから女奴隷とその子を追い出して下さいと言われた時に苦しんだことが書かれています。先週も読みましたが、21章の9節から11節までをお読みします。
このように、ここではアブラハムは非常に苦しみました。しかし、22章の2節から3節に掛けてはアブラハムが苦しんだ形跡はありません。それはアブラハムが人生の重大事であればあるほど決定権を手放すことで祝福されることを体験的に学んでいたからでしょう。アブラハムは主の御声に従ったというよりは、それ以前に自分の人生の決定権を主に委ねていましたから、主の御声に背くことは微塵も考えられないことだったのでしょう。これがアブラハムの信仰です。
そうしてアブラハムはためらわずにイサクをほふろうとしました。9節と10節、
へブル人への手紙には、この時のアブラハムについての記述があります。へブル書は、「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました」と書いています。聖書に書いてあるのですから、その通りなのでしょう。しかし、そう考える以前にアブラハムは既に決定権自体を手放していたのだと思います。どのようになるのであれ、自分の握り締めているものを手放すことで神様は祝福して下さることを体験的に学んでいたアブラハムにとって主の御声に従う以外の選択肢はありませんでした。アブラハムは神様の大きな愛の中で生きることを既に選択していたからです。
おわりに
私たちも自分の人生を自分で握り締めるのではなく、大切なことの決定権は神様に委ねて行きたいと思います。しかし、問題は神様の御声をどれだけハッキリと聞くことができるかということです。
それゆえ私たちは、心を静めて霊的に整えられる必要があります。霊的に整えられて聖霊との交わりの中に入れられるなら、神様の御声を聞くことができるようになるのではないでしょうか。もちろん、それはそんなに簡単なことではありません。しかし、私たちはそのような者になりたいと思います。そうして神様の御声に聞き従って行きたいと思います。
『人生の決定権を手放す信仰』
【創世記22章】
はじめに
きょうの聖書箇所は、皆さんのほとんどが良くご存知の、イサクを全焼のささげ物として献げなさいと神様がアブラハムに命じた場面の記事です。この箇所からどういうメッセージを取り次ぐべきか、そんなに簡単ではありませんから、私は牧師になってからこの記事についての説教をするのは初めてです。
私は2012年の春に神学校を卒業して牧師になりましたから、8年近く牧師として説教をして来たことになりますが、この創世記22章から説教をしたことはありませんでした。アブラハムが息子のイサクを全焼のいけにえとしてほふる寸前までいったという、この記事からメッセージを語ることは簡単にはできないことです。
例えば「アブラハムのように主の御声に聞き従いましょう」とお勧めするにしても、ハランを出発してカナンに向かった場面なら、お勧めできますが、息子を殺そうとすることはもちろんお勧めできません(当たり前ですね)。
では、どうして今回はこの創世記22章から説教をすることにしたのかというと、元旦礼拝から、アダム、カイン、ノアの時代、バベルの塔の時代、アブラムがハランを出立する場面を順番に見て来ましたから、今回はこのアブラハムがイサクをほふろうとした創世記の重要な場面を避けて通ることはできないと内からの語り掛けのようなものを感じたからです。
そうして思いを巡らしている中で浮かんで来たのが、きょうの説教題の『人生の決定権を手放す信仰』です。アブラハムはあらゆる場面で主の御声に聞き従って来ました。そのクライマックスが、この22章です。どうしてアブラハムはそんなに主の御声に素直に従うことができたのか、それは彼が自分の人生を自分で決めないで、決定権を手放していたからなのでしょう。人生の決定権というとても大切なものをどうしてアブラハムは手放すことができたのか、それは彼が神様の愛を存分に感じていたからではないでしょうか。
きょうは、その観点から次の五つのパートで話を進めて行きます。
①アブラハムの信仰の原点はハラン出立
②ロトの選択に委ねたアブラハム
③手放すと与えて下さる神様
④イシュマエルの時には苦しんだアブラハム
⑤究極の決定権の手放し
①アブラハムの信仰の原点はハラン出立
これは復習になりますが、アブラハムの信仰の原点は、彼がハランの地にいた時に主の御声を聞いてカナンに向けて出立したことです。アブラハムの出身地はユーフラテス川流域のウルでした。ここはメソポタミア文明が栄えていた都市国家であったようです。
アブラハムは父のテラと共にこのウルの地を離れてハランに来ていました。父のテラはこのハランの地で亡くなりました。都会のウルとは正反対の寂しいハランの地でアブラハムは途方に暮れたことでしょう。それまでは家長であった父テラに従って付いて行けば良かったので、そうしてハランにも来ました。しかし、故郷のウルから遠く離れたハランで父を失い、これからどうしたら良いのかアブラハムは困惑していたことと思います。
そんな時に主からの御声を直接聞いて、これが大きな励ましになったのでしょう。主が向かうように言ったカナンの地はアブラハムにとって全く未知の場所でしたが、彼は主の御声に従ってハランを出立しました。この時からアブラハムは決定権を手放すことができていたのですね。考えてみると、それまでの彼の人生の決定権は父のテラにあったでしょう。しかし父が死んで、これからは自分で自分の人生を決めます。その時に主の御声を聞いたのでアブラハムは主に自分の人生を委ねることを選びました。
私たちは元旦からアダムやカインの時代、ノアの時代、バベルの塔の時代の人々の記事読み、人間がすぐに神様から離れてしまう様子を見て来ました。人は神様に背いて自分の歩きたい方向に歩き、神様から離れて行きやすい性質を持っていることを学びました。ですからアブラハムが主の御声に素直に従ったことは、凄いことだと思うべきでしょう。普通の人間なら神様に背きますが、アブラハムは違いました。アブラハムが「信仰の父」と言われるのは、そのためでしょう。普通の人は神様に背くけれどアブラハムは違ったということを、覚えておきたいと思います。
②ロトの選択に委ねたアブラハム
自分の人生を自分で決めないで神様の御声に従うことにしたアブラハムは甥のロトと離れて暮らすことにした時も、右へ行くか左へ行くかを自分で決めないで選択権をロトに与えました。きょうの聖書交読でもご一緒に読んだ創世記13章ですね。
この時、アブラハムたちは多くの羊や牛を飼っていました。この動物たちを養うには広い草地が必要だったのでしょう。アブラハムの家畜の牧者とロトの家畜の牧者の間で争いも起きていたと書かれています。それゆえアブラハムは甥のロトに言いました。
13:8 「私とあなたの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちの間に、争いがないようにしよう。私たちは親類同士なのだから。
13:9 全地はあなたの前にあるではないか。私から別れて行ってくれないか。あなたが左なら、私は右に行こう。あなたが右なら、私は左に行こう。」
13:9 全地はあなたの前にあるではないか。私から別れて行ってくれないか。あなたが左なら、私は右に行こう。あなたが右なら、私は左に行こう。」
そうして甥のロトは見栄えの良い豊かな地を選んで、そちらに進んで行きました。ここで注目したいのは、9節のアブラハムのことばの「全地はあなたの前にあるではないか」です。全地は神様によって作られました。ですから右に行っても左に行っても神様と共に歩むなら、どちらに行っても神様は祝福して下さるということをアブラハムは体験的に学んでいたと感じます。神様の愛を感じている人を神様は祝福して下さいます。一方、神様から離れている人は右へ行っても左へ行っても祝福されません。
自分で自分の進む道を選ぶとなると、どうしても人間的な計算が入って来ます。ですから、いっそ決定権そのものを手放してしまったほうが、どちらの方向に進んだとしても神様の祝福を得られやすいのだろうと思います。アブラハムは主の御声に従う中で次第に神様の大きな愛を感じるようになり、意識せずに自然とそういう生き方が身に付いていったように感じます。アブラハムは右へ行くか左へ行くかを自分で決めずにロトに選択権を与えました。
③手放すと与えて下さる神様
人間的な思いに囚われて様々なものを握り締めていると、手放すことが難しくなります。聖書は多くの箇所で先ず手放すことで神様の祝福が得られることを教えています。自分が握り締めているものを手放すこととは、神様を信頼して神様の愛の中で生きることを決めることです。そのような者を神様は祝福して下さいます。アブラハムの場合は故郷を手放し、また人生の決定権を手放すことで神様に祝福されました。
アブラハムの記事以外でも、聖書にはそのような箇所がいくつもあります。例えば、預言者エリヤはツァレファテで出会ったやもめに、彼女の家にある残りわずかの粉と油で自分にパン菓子を作って欲しいと言いました。この時、その地方では雨が降らずにいて作物もできませんでしたから、やもめと息子は飢え死にし掛けていました。この粉と油を使い果たしてしまったら、もはや死ぬしかありませんでした。その最後の粉と油で作るパン菓子を自分に与えるようにとエリヤは言いました。そうすればかめの粉は尽きず、壺の油も無くならないとエリヤはやもめに言いました。彼女はエリヤの言う通りにして、本当にかめの粉は尽きず、壺の油は無くならなかったと聖書は記しています(列王記第一17章)。自分のものを手放したやもめを主は豊かに祝福して下さいました。
逆に、福音書に出て来る金持ちの青年は自分の財産を手放すことができませんでした。物であっても事であっても手放すことができないでいると、神様が祝福を与えようとしても、祝福が入る余地がありません。
ただし、財産を手放すのは難しいことです。そういう意味で金持ちの青年には同情します。金持ちの青年の話を読むと、財産をたくさん持っている人は、ちょっと悩ましく思ってしまうかもしれません。しかし、イエスさまが金持ちの青年に言いたかったことは、多くの物を持っていると心を神様に明け渡すことができないということでしょう。アブラハムの記事はそういう意味で大変に参考になると思います。アブラハムは多くの財産を持っていましたが、財産を手放すことはありませんでした。アブラハムが手放したのは人生の決定権です。アブラハムは人生の進路を選ぶ決定権を神様に委ねました。そうしてアブラハムの人生は祝福されました。
④イシュマエルの時には苦しんだアブラハム
先週の礼拝メッセージでは女奴隷のハガルがアブラハムの家を追い出された記事に目を留めました。アブラハムは妻のサラにハガルを追い出して下さいと言われた時に非常に悩み苦しみました。最初に言われたのが主からではなく、妻のサラからであったゆえでしょう。そうして自分では決められないでいた時に、神様からアブラハムに声があって、サラの言う通りにハガルとイシュマエルを家から出すように神様は言いましたから、アブラハムはそのようにしました。
これは女奴隷のハガルにとってはとても気の毒なことでした。しかし、女主人のサラにこれからもずっといじめられ続けるよりは、ハガルにとっても自由になれて良かったのではないかなと思います。荒野で絶望していたハガルに神様は声を掛けて励まし、息子のイシュマエルは大人に成長することができました。
さてアブラハムですが、女奴隷との間に生まれた子であるとは言え、イシュマエルも自分の息子であるという点ではイサクと変わりませんでした。ハガルだけでなく、自分の息子のイシュマエルをも家から出して手放すことは、アブラハムにとってつらいことだったでしょう。しかし主がサラの言う通りにしてイシュマエルを家から出すように言いましたから、彼はその主の御声に従いました。
そうするとアブラハムは主の御声が無ければ自分では何も決められない人であったのかというとそうでもありません。妻のサラが亡くなった時に、アブラハムは墓地にする場所を買い求めました。その土地の所有者はアブラハムに無償で与えると言いましたが、アブラハムはそれを固辞して、代価を払って土地を購入すると言い張り、そのようにしたことが聖書に記されています(創世記23章)。ですから、アブラハムは自分で決定を下すことができない優柔不断な人ではありませんでした。アブラハムは多くのことを自分で決定したことでしょう。しかし、人生の一大事である重要なことに関しては決定権を手放して、自分の人生を主に委ねていました。
⑤究極の決定権の手放し
ここからは聖書を開いて読むことにしましょう。22章の1節で神様は「アブラハムよ」と呼び掛け、彼は「はい、ここにおります」と答えました。続いて2節と3節を、交代で読みましょう。
22:2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」
22:3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、二人の若い者と一緒に息子イサクを連れて行った。アブラハムは全焼のささげ物のための薪を割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ向かって行った。
22:3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、二人の若い者と一緒に息子イサクを連れて行った。アブラハムは全焼のささげ物のための薪を割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ向かって行った。
3節に、「翌朝早く」アブラハムはイサクを連れて出て行ったことが記されています。ここにはアブラハムが悩み苦しんだ形跡がありません。1ページ前に紙を戻してもらって21章の10節と11節には、アブラハムがサラから女奴隷とその子を追い出して下さいと言われた時に苦しんだことが書かれています。先週も読みましたが、21章の9節から11節までをお読みします。
21:9 サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、イサクをからかっているのを見た。
21:10 それで、アブラハムに言った。「この女奴隷とその子を追い出してください。この女奴隷の子は、私の子イサクとともに跡取りになるべきではないのですから。」
21:11 このことで、アブラハムは非常に苦しんだ。それが自分の子に関わることだったからである。
21:10 それで、アブラハムに言った。「この女奴隷とその子を追い出してください。この女奴隷の子は、私の子イサクとともに跡取りになるべきではないのですから。」
21:11 このことで、アブラハムは非常に苦しんだ。それが自分の子に関わることだったからである。
このように、ここではアブラハムは非常に苦しみました。しかし、22章の2節から3節に掛けてはアブラハムが苦しんだ形跡はありません。それはアブラハムが人生の重大事であればあるほど決定権を手放すことで祝福されることを体験的に学んでいたからでしょう。アブラハムは主の御声に従ったというよりは、それ以前に自分の人生の決定権を主に委ねていましたから、主の御声に背くことは微塵も考えられないことだったのでしょう。これがアブラハムの信仰です。
そうしてアブラハムはためらわずにイサクをほふろうとしました。9節と10節、
22:9 神がアブラハムにお告げになった場所に彼らが着いたとき、アブラハムは、そこに祭壇を築いて薪を並べた。そして息子イサクを縛り、彼を祭壇の上の薪の上に載せた。
22:10 アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
22:10 アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
へブル人への手紙には、この時のアブラハムについての記述があります。へブル書は、「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました」と書いています。聖書に書いてあるのですから、その通りなのでしょう。しかし、そう考える以前にアブラハムは既に決定権自体を手放していたのだと思います。どのようになるのであれ、自分の握り締めているものを手放すことで神様は祝福して下さることを体験的に学んでいたアブラハムにとって主の御声に従う以外の選択肢はありませんでした。アブラハムは神様の大きな愛の中で生きることを既に選択していたからです。
おわりに
私たちも自分の人生を自分で握り締めるのではなく、大切なことの決定権は神様に委ねて行きたいと思います。しかし、問題は神様の御声をどれだけハッキリと聞くことができるかということです。
それゆえ私たちは、心を静めて霊的に整えられる必要があります。霊的に整えられて聖霊との交わりの中に入れられるなら、神様の御声を聞くことができるようになるのではないでしょうか。もちろん、それはそんなに簡単なことではありません。しかし、私たちはそのような者になりたいと思います。そうして神様の御声に聞き従って行きたいと思います。