goo blog サービス終了のお知らせ 

一粒のタイル2

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

人生の決定権を手放す信仰(2020.2.9 礼拝)

2020-02-10 12:46:27 | 礼拝メッセージ
2020年2月9日礼拝メッセージ
『人生の決定権を手放す信仰』
【創世記22章】

はじめに
 きょうの聖書箇所は、皆さんのほとんどが良くご存知の、イサクを全焼のささげ物として献げなさいと神様がアブラハムに命じた場面の記事です。この箇所からどういうメッセージを取り次ぐべきか、そんなに簡単ではありませんから、私は牧師になってからこの記事についての説教をするのは初めてです。

 私は2012年の春に神学校を卒業して牧師になりましたから、8年近く牧師として説教をして来たことになりますが、この創世記22章から説教をしたことはありませんでした。アブラハムが息子のイサクを全焼のいけにえとしてほふる寸前までいったという、この記事からメッセージを語ることは簡単にはできないことです。

 例えば「アブラハムのように主の御声に聞き従いましょう」とお勧めするにしても、ハランを出発してカナンに向かった場面なら、お勧めできますが、息子を殺そうとすることはもちろんお勧めできません(当たり前ですね)。

 では、どうして今回はこの創世記22章から説教をすることにしたのかというと、元旦礼拝から、アダム、カイン、ノアの時代、バベルの塔の時代、アブラムがハランを出立する場面を順番に見て来ましたから、今回はこのアブラハムがイサクをほふろうとした創世記の重要な場面を避けて通ることはできないと内からの語り掛けのようなものを感じたからです。

 そうして思いを巡らしている中で浮かんで来たのが、きょうの説教題の『人生の決定権を手放す信仰』です。アブラハムはあらゆる場面で主の御声に聞き従って来ました。そのクライマックスが、この22章です。どうしてアブラハムはそんなに主の御声に素直に従うことができたのか、それは彼が自分の人生を自分で決めないで、決定権を手放していたからなのでしょう。人生の決定権というとても大切なものをどうしてアブラハムは手放すことができたのか、それは彼が神様の愛を存分に感じていたからではないでしょうか。

 きょうは、その観点から次の五つのパートで話を進めて行きます。

 ①アブラハムの信仰の原点はハラン出立
 ②ロトの選択に委ねたアブラハム
 ③手放すと与えて下さる神様
 ④イシュマエルの時には苦しんだアブラハム
 ⑤究極の決定権の手放し

①アブラハムの信仰の原点はハラン出立
 これは復習になりますが、アブラハムの信仰の原点は、彼がハランの地にいた時に主の御声を聞いてカナンに向けて出立したことです。アブラハムの出身地はユーフラテス川流域のウルでした。ここはメソポタミア文明が栄えていた都市国家であったようです。

 アブラハムは父のテラと共にこのウルの地を離れてハランに来ていました。父のテラはこのハランの地で亡くなりました。都会のウルとは正反対の寂しいハランの地でアブラハムは途方に暮れたことでしょう。それまでは家長であった父テラに従って付いて行けば良かったので、そうしてハランにも来ました。しかし、故郷のウルから遠く離れたハランで父を失い、これからどうしたら良いのかアブラハムは困惑していたことと思います。

 そんな時に主からの御声を直接聞いて、これが大きな励ましになったのでしょう。主が向かうように言ったカナンの地はアブラハムにとって全く未知の場所でしたが、彼は主の御声に従ってハランを出立しました。この時からアブラハムは決定権を手放すことができていたのですね。考えてみると、それまでの彼の人生の決定権は父のテラにあったでしょう。しかし父が死んで、これからは自分で自分の人生を決めます。その時に主の御声を聞いたのでアブラハムは主に自分の人生を委ねることを選びました。

 私たちは元旦からアダムやカインの時代、ノアの時代、バベルの塔の時代の人々の記事読み、人間がすぐに神様から離れてしまう様子を見て来ました。人は神様に背いて自分の歩きたい方向に歩き、神様から離れて行きやすい性質を持っていることを学びました。ですからアブラハムが主の御声に素直に従ったことは、凄いことだと思うべきでしょう。普通の人間なら神様に背きますが、アブラハムは違いました。アブラハムが「信仰の父」と言われるのは、そのためでしょう。普通の人は神様に背くけれどアブラハムは違ったということを、覚えておきたいと思います。

②ロトの選択に委ねたアブラハム
 自分の人生を自分で決めないで神様の御声に従うことにしたアブラハムは甥のロトと離れて暮らすことにした時も、右へ行くか左へ行くかを自分で決めないで選択権をロトに与えました。きょうの聖書交読でもご一緒に読んだ創世記13章ですね。

 この時、アブラハムたちは多くの羊や牛を飼っていました。この動物たちを養うには広い草地が必要だったのでしょう。アブラハムの家畜の牧者とロトの家畜の牧者の間で争いも起きていたと書かれています。それゆえアブラハムは甥のロトに言いました。

13:8 「私とあなたの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちの間に、争いがないようにしよう。私たちは親類同士なのだから。
13:9 全地はあなたの前にあるではないか。私から別れて行ってくれないか。あなたが左なら、私は右に行こう。あなたが右なら、私は左に行こう。」

 そうして甥のロトは見栄えの良い豊かな地を選んで、そちらに進んで行きました。ここで注目したいのは、9節のアブラハムのことばの「全地はあなたの前にあるではないか」です。全地は神様によって作られました。ですから右に行っても左に行っても神様と共に歩むなら、どちらに行っても神様は祝福して下さるということをアブラハムは体験的に学んでいたと感じます。神様の愛を感じている人を神様は祝福して下さいます。一方、神様から離れている人は右へ行っても左へ行っても祝福されません。

 自分で自分の進む道を選ぶとなると、どうしても人間的な計算が入って来ます。ですから、いっそ決定権そのものを手放してしまったほうが、どちらの方向に進んだとしても神様の祝福を得られやすいのだろうと思います。アブラハムは主の御声に従う中で次第に神様の大きな愛を感じるようになり、意識せずに自然とそういう生き方が身に付いていったように感じます。アブラハムは右へ行くか左へ行くかを自分で決めずにロトに選択権を与えました。

③手放すと与えて下さる神様
 人間的な思いに囚われて様々なものを握り締めていると、手放すことが難しくなります。聖書は多くの箇所で先ず手放すことで神様の祝福が得られることを教えています。自分が握り締めているものを手放すこととは、神様を信頼して神様の愛の中で生きることを決めることです。そのような者を神様は祝福して下さいます。アブラハムの場合は故郷を手放し、また人生の決定権を手放すことで神様に祝福されました。

 アブラハムの記事以外でも、聖書にはそのような箇所がいくつもあります。例えば、預言者エリヤはツァレファテで出会ったやもめに、彼女の家にある残りわずかの粉と油で自分にパン菓子を作って欲しいと言いました。この時、その地方では雨が降らずにいて作物もできませんでしたから、やもめと息子は飢え死にし掛けていました。この粉と油を使い果たしてしまったら、もはや死ぬしかありませんでした。その最後の粉と油で作るパン菓子を自分に与えるようにとエリヤは言いました。そうすればかめの粉は尽きず、壺の油も無くならないとエリヤはやもめに言いました。彼女はエリヤの言う通りにして、本当にかめの粉は尽きず、壺の油は無くならなかったと聖書は記しています(列王記第一17章)。自分のものを手放したやもめを主は豊かに祝福して下さいました。

 逆に、福音書に出て来る金持ちの青年は自分の財産を手放すことができませんでした。物であっても事であっても手放すことができないでいると、神様が祝福を与えようとしても、祝福が入る余地がありません。

 ただし、財産を手放すのは難しいことです。そういう意味で金持ちの青年には同情します。金持ちの青年の話を読むと、財産をたくさん持っている人は、ちょっと悩ましく思ってしまうかもしれません。しかし、イエスさまが金持ちの青年に言いたかったことは、多くの物を持っていると心を神様に明け渡すことができないということでしょう。アブラハムの記事はそういう意味で大変に参考になると思います。アブラハムは多くの財産を持っていましたが、財産を手放すことはありませんでした。アブラハムが手放したのは人生の決定権です。アブラハムは人生の進路を選ぶ決定権を神様に委ねました。そうしてアブラハムの人生は祝福されました。

④イシュマエルの時には苦しんだアブラハム
 先週の礼拝メッセージでは女奴隷のハガルがアブラハムの家を追い出された記事に目を留めました。アブラハムは妻のサラにハガルを追い出して下さいと言われた時に非常に悩み苦しみました。最初に言われたのが主からではなく、妻のサラからであったゆえでしょう。そうして自分では決められないでいた時に、神様からアブラハムに声があって、サラの言う通りにハガルとイシュマエルを家から出すように神様は言いましたから、アブラハムはそのようにしました。

 これは女奴隷のハガルにとってはとても気の毒なことでした。しかし、女主人のサラにこれからもずっといじめられ続けるよりは、ハガルにとっても自由になれて良かったのではないかなと思います。荒野で絶望していたハガルに神様は声を掛けて励まし、息子のイシュマエルは大人に成長することができました。

 さてアブラハムですが、女奴隷との間に生まれた子であるとは言え、イシュマエルも自分の息子であるという点ではイサクと変わりませんでした。ハガルだけでなく、自分の息子のイシュマエルをも家から出して手放すことは、アブラハムにとってつらいことだったでしょう。しかし主がサラの言う通りにしてイシュマエルを家から出すように言いましたから、彼はその主の御声に従いました。

 そうするとアブラハムは主の御声が無ければ自分では何も決められない人であったのかというとそうでもありません。妻のサラが亡くなった時に、アブラハムは墓地にする場所を買い求めました。その土地の所有者はアブラハムに無償で与えると言いましたが、アブラハムはそれを固辞して、代価を払って土地を購入すると言い張り、そのようにしたことが聖書に記されています(創世記23章)。ですから、アブラハムは自分で決定を下すことができない優柔不断な人ではありませんでした。アブラハムは多くのことを自分で決定したことでしょう。しかし、人生の一大事である重要なことに関しては決定権を手放して、自分の人生を主に委ねていました。

⑤究極の決定権の手放し
 ここからは聖書を開いて読むことにしましょう。22章の1節で神様は「アブラハムよ」と呼び掛け、彼は「はい、ここにおります」と答えました。続いて2節と3節を、交代で読みましょう。

22:2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」
22:3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、二人の若い者と一緒に息子イサクを連れて行った。アブラハムは全焼のささげ物のための薪を割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ向かって行った。

 3節に、「翌朝早く」アブラハムはイサクを連れて出て行ったことが記されています。ここにはアブラハムが悩み苦しんだ形跡がありません。1ページ前に紙を戻してもらって21章の10節と11節には、アブラハムがサラから女奴隷とその子を追い出して下さいと言われた時に苦しんだことが書かれています。先週も読みましたが、21章の9節から11節までをお読みします。

21:9 サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、イサクをからかっているのを見た。
21:10 それで、アブラハムに言った。「この女奴隷とその子を追い出してください。この女奴隷の子は、私の子イサクとともに跡取りになるべきではないのですから。」
21:11 このことで、アブラハムは非常に苦しんだ。それが自分の子に関わることだったからである。

 このように、ここではアブラハムは非常に苦しみました。しかし、22章の2節から3節に掛けてはアブラハムが苦しんだ形跡はありません。それはアブラハムが人生の重大事であればあるほど決定権を手放すことで祝福されることを体験的に学んでいたからでしょう。アブラハムは主の御声に従ったというよりは、それ以前に自分の人生の決定権を主に委ねていましたから、主の御声に背くことは微塵も考えられないことだったのでしょう。これがアブラハムの信仰です。

 そうしてアブラハムはためらわずにイサクをほふろうとしました。9節と10節、

22:9 神がアブラハムにお告げになった場所に彼らが着いたとき、アブラハムは、そこに祭壇を築いて薪を並べた。そして息子イサクを縛り、彼を祭壇の上の薪の上に載せた。
22:10 アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。

 へブル人への手紙には、この時のアブラハムについての記述があります。へブル書は、「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました」と書いています。聖書に書いてあるのですから、その通りなのでしょう。しかし、そう考える以前にアブラハムは既に決定権自体を手放していたのだと思います。どのようになるのであれ、自分の握り締めているものを手放すことで神様は祝福して下さることを体験的に学んでいたアブラハムにとって主の御声に従う以外の選択肢はありませんでした。アブラハムは神様の大きな愛の中で生きることを既に選択していたからです。

おわりに
 私たちも自分の人生を自分で握り締めるのではなく、大切なことの決定権は神様に委ねて行きたいと思います。しかし、問題は神様の御声をどれだけハッキリと聞くことができるかということです。

 それゆえ私たちは、心を静めて霊的に整えられる必要があります。霊的に整えられて聖霊との交わりの中に入れられるなら、神様の御声を聞くことができるようになるのではないでしょうか。もちろん、それはそんなに簡単なことではありません。しかし、私たちはそのような者になりたいと思います。そうして神様の御声に聞き従って行きたいと思います。
コメント

絶望の時も共にいて下さる神様(2020.2.2 礼拝)

2020-02-03 09:54:38 | 礼拝メッセージ
2020年2月2日礼拝メッセージ
『絶望の時も共にいて下さる神様』
【創世記21:8~21】

はじめに
 先週の教会総会前のメッセージでは、アブラハムがまだハランの地にいて、そこで彼が神様の声に促されてカナンの地に向けて出発した記事に目を留めました。この時のアブラハムは多くの家財や動物たちという物質的な財産と共に、ノアとセムの時代から受け継がれて来た信仰という財産を携えていました。この「信仰」という財産を持っていたから、アブラハムは神様の声を聞くことができ、その声に従うことができたのでしょう。

 信仰を継承していたアブラハムは行く先々で祭壇を築いたことが記されています。例えば創世記12章8節には次のように記されています。

創世記12:8 彼は、そこからベテルの東にある山の方に移動して、天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は、そこにのための祭壇を築き、の御名を呼び求めた。

 私たちの教会もまた松村導男先生の時代からの信仰という財産を受け継いで来ています。そして、今の地点に留まるのではなく、先週の教会総会からはまた新たな一歩を踏み出したところです。
 
 さて今日ご一緒に学ぶのは女奴隷のハガルについての記事です。きょうは次の三つのパートで話を進めていきます。

 ①サラのもとから逃げ出した過去を持つハガル
 ②アブラハムの家から追い出されたハガル
 ③絶望の中にいる人に声を掛けて励ます主

①サラのもとから逃げ出した過去を持つハガル
アブラハムにはサラという妻がいて、女奴隷のハガルはサラに仕えていました。先ほど司会者に読んでいただいた箇所で、ハガルはアブラハムの家を出なければならなくなるという大変につらい目に遭います。しかし実は、ハガルがつらい目に遭ったのは、これが最初ではありませんでした。週報p.2に載せたように創世記16章の6節には次のように書かれています。

創世記16:6 アブラムはサライに言った。「見なさい。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。あなたの好きなようにしなさい。」それで、サライが彼女を苦しめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。

この時、アブラハムとサラはまだ、それぞれアブラムとサライと呼ばれていました。彼女というのは女奴隷のハガルのことです。ここに書かれているように、サライがハガルを苦しめたのでハガルはサライのもとから逃げ去りました。新改訳の第3版には「サライが彼女をいじめたので」と書いてあります。ハガルはサライのいじめに耐えられなくなって自分から主人の家を飛び出したという過去がありました。

 その時の事情はこうです。サラは不妊の女だったのでアブラハムの子を産むことができないでいました。そこでサラは自分に仕えている女奴隷のハガルをアブラハムのもとにやって子を授かるようにしました。そうしてサラの思惑通りハガルはアブラハムの子をお腹に宿しました。しかし、そのことでハガルは、子ができないサラのことを軽く見るようになったということです。このことに激怒したサラはハガルをいじめるようになったと創世記16章は記しています。

 ハガルは奴隷でしたからサラを軽く見たと言っても、そんなにふてぶてしくサラを見下したというわけではないでしょう。恐らくはほんのちょっとしたことだったんだろうと思います。しかし、プライドの高いサラにとっては屈辱的なことだったのでしょう。サラはハガルをいじめ、ハガルはいじめに耐え切れなくなって主人の家を飛び出してしまいました。

 その後でどうなったかというと、荒野にいたハガルに主が声を掛けました。そして主はハガルに主人のサラのもとに帰るように諭しました。いったん飛び出した場所にまた戻るということは大変なことです。それでもハガルはサラのもとに戻ることにしました。主に直接声を掛けられたことが大きな励みになったのだろうと思います。

 私たちにも主がいつも共にいて下さり、困難な時には主が声を掛けて下さっていることを覚えたいと思います。ハガルのようにハッキリと主の御声を聞くことはないかもしれません。しかし困難な中で立ち尽くすことがあってもやがて再び歩き始めることができるようになるのは主が励まして下さっているからでしょう。

 そうしてハガルは自分からサラのもとを飛び出したものの再び戻って行きました。

②アブラハムの家から追い出されたハガル
しかし、きょうの21章ではハガルはもっとつらい目に遭います。21章の2節を見ると、このように書かれています。

21:2 サラは身ごもり、神がアブラハムに告げられたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。

 神様は不妊の女サラの胎を開き、アブラハムとサラの間に息子のイサクが生まれました。しかし、このことでハガルは絶望の底に落とされることになりました。その発端が9節に書かれています。

21:9 サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、イサクをからかっているのを見た。

 ハガルが生んだ子の前はイシュマエルです。イシュマエルのほうがイサクよりも年上でしたから、強かったんですね。子供同士の他愛ないちょっとしたことだったんだろうと思いますが、プライドの高いサラにはそれが赦せなかったのでしょう。10節でサラはアブラハムに言いました。

21:10 「この女奴隷とその子を追い出してください。この女奴隷の子は、私の子イサクとともに跡取りになるべきではないのですから。」

 そうしてハガルとイシュマエルはアブラハムの家から出て行くことになりました。前回の16章の時にはハガルは自分から飛び出しましたから戻ることができました。しかし、今回は追い出されたのですから、決して戻ることはできません。14節でハガルは荒野に出て行き、絶望のどん底に落とされました。14節、

21:14 翌朝早く、アブラハムは、パンと、水の皮袋を取ってハガルに与え、彼女の肩に担がせ、その子とともに彼女を送り出した。それで彼女は行って、ベエル・シェバの荒野をさまよった。

 実はアブラハムはサラを送り出す前に神様からの語り掛けを聞いていました。神様はアブラハムに13節で仰せられました。「あの女奴隷の子も、わたしは一つの国民(くにたみ)とする。彼も、あなたの子孫なのだから。」

 この主の御声を聞いてアブラハムはハガルを送り出すことにしました。しかし、出された側のハガルはそれを知りませんでしたから、絶望していました。15節と16節、

21:15 皮袋の水が尽きると、彼女はその子を一本の灌木の下に放り出し、
21:16 自分は、弓で届くぐらい離れた向こうに行って座った。「あの子が死ぬのを見たくない」と思ったからである。彼女は向こうに座り、声をあげて泣いた。

 人は水さえあれば、何とか生き延びることができます。しかし、荒野で水が無くなってしまえば、もはや死ぬしかありません。ハガルは声をあげて泣きました。自分の境遇を呪ったことでしょう。奴隷の身分でしたから自分の考えで行動することは一切できませんでした。唯一自分の意思で主人のサラのもとから逃げ出した時も、主に諭されて戻りました。そうして身を低くして主人に仕えて来たのに、追い出されてしまい、荒野で水が尽きて死のうとしていました。何と悲しいことでしょうか。単に涙ぐんだのではなく、ハガルは声をあげて泣きました。

 すると神の使いは天からハガルを呼んで言いました。17節と18節、

21:17「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。神が、あそこにいる少年の声を聞かれたからだ。
21:18 立って、あの少年を起こし、あなたの腕でしっかり抱きなさい。わたしは、あの子を大いなる国民(くにたみ)とする。」

 ハガルが神様から声を掛けられたのは二度目でした。前回も荒野で声を掛けられ、その主の御声に励まされてハガルは主人のもとに戻って行きました。今回もまたハガルにとっては大きな励ましになったことでしょう。19節から21節まで、

21:19 神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで、行って皮袋を水で満たし、少年に飲ませた。
21:20 神が少年とともにおられたので、彼は成長し、荒野に住んで、弓を射る者となった。
21:21 彼はパランの荒野に住んだ。彼の母は、エジプトの地から彼のために妻を迎えた。

 21節にハガルがイシュマエルのためにエジプトから妻を迎えたとあります。ハガルはエジプト人でしたから、自分の故郷から息子のために妻を迎えたのでしょうか。ハガルの後半生は、サラのもとにいた頃よりも平穏であった様子が伺えます。

 ハガルは奴隷という不幸な境遇の中にいましたが、主の御声をハッキリと聞くことができたという幸いをいただくことができました。これは凄いことだと思います。例えばルツ記のルツなども主の御声を何となく感じながら主の導く方向へと進んで行ったのだと思いますが、ハガルのようにハッキリと主の御声を聞いたわけではありません。私たちを含めてほとんどの者がそうでしょう。主の御声を二度もハッキリと聞くことができた女奴隷のハガルはとてもつらい目には遭ったものの、幸せな女性であったとも言えるのかもしれません。

③絶望の中にいる人に声を掛けて励ます主
 このように主の呼び掛けは絶望の中にいる人に大きな励ましを与えます。アブラハムがハランで主の御声を聞いてカナンに向けて出発した時も、父親のテラを亡くしたばかりの頃ですから、アブラハムはこの先、どうしたら良いか分からずにいて絶望しかけていた時だと思います。父の死というタイミングで主が声に声を掛けられたので、アブラハムはカナンに向けて新しい一歩を踏み出すことができたのでしょう。

 今回のメッセージを準備していて、ふと思いましたが、荒野にいた時の80歳のモーセも絶望とまではいかないかもしれませんが、希望のない生活をしていたのかもしれませんね。モーセは40歳までをエジプトの王家で過ごしました。最高の教育を受けて王道を学んでいました。それが40歳の時から40年間を荒野で羊飼いとして過ごしました。すごいギャップですね。最高の教育を受けて最高の暮らしをしていた自分が今はどうして、こんな暮らしをしているのだろうかと、80歳のモーセはもしかしたら思っていたかもしれません。自分はこのまま朽ち果てて行くのかなと思っていたかもしれません。そんな時に神様は「モーセ、モーセ」(出エジプト3:4)と直接モーセに語り掛けたんですね。そうしてモーセはエジプトで奴隷になっていたイスラエルの民を率いて、そこから脱出するという大きな仕事を成し遂げることになります。こんな大きな仕事ができたのは、荒野にいたモーセが希望を失っていて、正にその時に主から直接声を掛けられたことが、大きな励みになったのかもしれないと思いました。

 きょうの聖書交読でご一緒に読んだ詩篇22篇(旧約p.952)の詩人もまた、絶望の中にいました。詩篇22篇の1節と2節をご一緒に読みましょう。

詩篇22:1 わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか。私を救わず遠く離れておられるのですか。私のうめきのことばにもかかわらず。
22:2 わが神 昼に私はあなたを呼びます。しかしあなたは答えてくださいません。夜にも私は黙っていられません。

 1節は正に絶望の中にいる詩人のうめき声です。この「わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか」は十字架に付けられたイエスさまが大声で叫んだことばとしても有名ですね。地上で人々に教えを説いていたイエスさまにはいつも神様が共にいました。

 しかし私たちの罪という負いきれないぐらいの重荷を負い、また十字架に釘付けにされて呼吸も十分にできないぐらいの苦痛の中に置かれて、この絶望のことばを叫びました。
 22篇の詩人もまた絶望のどん底の中にいました。しかし、やがて立ち直り、人々に主を賛美することを促すほどに回復します。その境目になっているのが21節と22節の間にある、「あなたは私に答えてくださいました」です。

 つまり、絶望の中での詩人の叫びに主が応答して下さったのですね。詩人はこの主の応答の御声を聞くことができました。そうして、22節、

22:22 私はあなたの御名を兄弟たちに語り告げ会衆の中であなたを賛美します。

 ここから詩人は劇的に回復して行きます。22節ではまだ自分で賛美していましたが、23節では人々に向かって「主を賛美せよ」と呼び掛けています。

22:23 を恐れる人々よ 主を賛美せよ。ヤコブのすべての裔(すえ)よ主をあがめよ。イスラエルのすべての裔(すえ)よ 主の前におののけ。

 すごいですね。主の御声はこんなにも人を励まし、力を与えます。そしてこの詩人のことばは、どんどんパワーアップして行きます。23節では「イスラエルのすべての裔(すえ)よ」と言っていたのが、27節では、

22:27 地の果てのすべての者が思い起こしに帰って来ますように。国々のあらゆる部族もあなたの御前にひれ伏しますように。

と祈っています。

 私たちの住む日本はイスラエルから見れば地の果てです。時代は違いますが、こうして主に励まされた宣教師たちが日本にやって来て福音を伝え、この地の果ての私たちも主イエス・キリストの恵みに与る者とされたのですね。

おわりに
 大きな働きをした者たちで絶望の中を通らなかった者はいないでしょう。イエスさまの弟子のペテロも、イエスさまを三度知らないと言ってしまい、イエスさまが十字架で死んだ時に絶望の谷底に落とされました。

 私たちもまた、明日への希望が見えなくなって疲れ果てたという経験を何度も繰り返して来たという方々が大半でしょう。そんな私たちに主はいつも寄り添っていて下さり、励ましの声を掛けて下さいます。絶望の中にいるとなかなかその御声を聞くことができませんが、主は確かに声を掛けて下さっています。マタイの福音書11章にあるイエスさまのことばもそうです。

 最後に、週報p.2に載せたマタイ11章28節のみことばをご一緒に読んで、きょうのメッセージを閉じることにします。

マタイ11:28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

 イエスさまは疲れている私たち、悲しみの中にいる私たち、問題を抱えてうめいている私たちにこのように語り掛けて休ませて下さり、そしてまた励まして力を与えて下さいます。このことに深く感謝しながら、しばらくご一緒に祈る時を持ちたいと思います。

 お祈りいたしましょう。
コメント

財産を携えて新しい地に旅立つ(2020.1.26 礼拝)

2020-01-27 11:48:28 | 礼拝メッセージ
2020年1月26日礼拝メッセージ
『財産を携えて新しい地に旅立つ』
【創世記12:1~5】

はじめに
 きょうの聖書箇所は創世記12章です。先週は創世記11章のバベルの塔の箇所、先々週は創世記6章から9章に掛けてのノアの洪水の箇所からのメッセージでしたから、創世記の記事を順番に見ているわけですが、12章のアブラハムがハランを発ってカナンを目指した箇所は、きょうのこの後の教会総会に備えるために、ちょうど良い箇所であろうと思います。

 きょうも次の五つのパートで話を進めます。

 ①カナンに向けてハランを発ったアブラム
 ②アブラムはなぜ主の御声が聞けたのか?
 ③目的地のことを何も知らなかったのか?
 ④財産を携えて新しい地に旅立つ
 ⑤よりハッキリと霊的に目覚めるための旅立ち

 きょうの箇所は皆さんの多くが良くご存知だと思います。朗読は12章からしていただきましたが、その前の11章31節をまずお読みします。ここに出て来るテラとはアブラハムの父親です。この時、アブラハムはまだアブラムと呼ばれていました。11章31節、

11:31 テラは、その息子アブラムと、ハランの子である孫のロトと、息子アブラムの妻である嫁のサライを伴い、カナンの地に行くために、一緒にカルデア人のウルを出発した。しかし、ハランまで来ると、彼らはそこに住んだ。

 この地理を後ろの地図で確認しておきましょう。またここに戻って来ますからペンか何かを挟んでおいて下さい。巻末の地図2を見て下さい。
(中略)
 アブラムの父テラはハランの地で死んだことが11章32節に書かれています。この時、このハランの地にいたテラの子はアブラムだけでなく、ナホルもいたようです。この後、アブラムは主の語り掛けを受けてカナンの地に向かいますが、ナホルの一族はこのハランの地域に残ったようです。そしてアブラムの晩年にはナホルの一族のリベカがアブラムの息子イサクに嫁ぎ、そしてまたイサクの息子のヤコブは、ここに長い間身を寄せることになります。アブラハムの一族は、このハランの周辺地域に残ったナホルの一族に何かと世話になりました。

①カナンに向けてハランを発ったアブラム
 父を失ったアブラムに主は語り掛けました。12章1節です。

12:1 はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。

 ここに書かれている「あなたの親族」とは、アブラムの兄弟ナホルの一族のことだと思われます。今さっき言ったように、アブラムの息子イサク、そして孫のヤコブは後にこのナホルの一族に何かと世話になります。続いて2節と3節、

12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。
12:3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」

 主はアブラムに、カナンに行くなら祝福すると仰せられました。そうしてアブラムはカナンに向けてハランの地を発ちました。4節と5節です。

12:4 アブラムは、 が告げられたとおりに出て行った。ロトも彼と一緒であった。ハランを出たとき、アブラムは七十五歳であった。
12:5 アブラムは、妻のサライと甥のロト、また自分たちが蓄えたすべての財産と、ハランで得た人たちを伴って、カナンの地に向かって出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。

②アブラムはなぜ主の御声が聞けたのか?
 今回、この箇所を改めて思い巡らしていて、今まで考えたことが無かった疑問が二つ頭に浮かんで来ました。一つは、アブラムはどうして主の御声を聞くことができたのかということです。

 恐らくそれは主への信仰が継承されていたからでしょう。11章の10節を見ると、「これはセムの歴史である」とあります。セムはノアの息子で正しい人でしたから、信仰もしっかりしていたでしょう。そのセムの信仰を、11節から26節まで書かれているセムの子孫たちが継承して来てアブラムの父テラに、そしてアブラムに至ったのでしょう。12章の5節を見るとハランを出発した時のアブラムはそれまでに蓄えた財産を持っていたことが記されています。アブラムは物質的な財産だけでなくノアとセムの時代から継承されて来た信仰という財産もまた携えてカナンに向けて出発しました。

③目的地のことを何も知らなかったのか?
 今回私の頭に浮かんだもう一つの疑問は、アブラムは本当に目的地のことを何も知らないでカナンに向けて出発したのだろうかということです。聖書交読で開いたヘブル人への手紙11章8節には次のようにありましたね(週報p.2)。

11:8 信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。

 アブラムがハランを出発した時は、確かにどこに行くかを知らなかったでしょう。主の御声に促されてアブラムはハランの地を出発しました。しかし、カナンに着くまでの間ずっと、カナンのことを知らずにいたでしょうか?多分そんなことはなかったでしょう。目的地のカナンには後に主によって滅ぼされるソドムとゴモラの町がありました。これらの町は非常に繁栄していたようですから、アブラムの出身地のユーフラテス川流域のメソポタミア地方とは交易があったことでしょう。或いはまた、四大文明の地のうちの二つのエジプトとメソポタミアの間にも交易があったでしょうから、アブラムがカナンに向かう道中では多くの人々が行き交っていたのではないかと思います。それらの人々から情報を仕入れながらアブラムはカナンを目指して進んで行ったのではないでしょうか。

 そんなことを想像していたら、聖書の世界をまた一段と身近に感じるようになりました。聖書の面白いところは、こういう想像を膨らませる余地がたくさんあるということです。映画やテレビのドラマも同じです。あまり説明が多く入ると視聴者が想像を膨らませる余地が少なくなります。名作と呼ばれる映画は想像を膨らませる余地が存分にあります。50年以上前の古い映画ですが『2001年宇宙の旅』などはその代表と言えるのではないでしょうか。

 想像を膨らませる余地がたくさんあると言えば、五七五の俳句がまさにそうですね。わずか十七音の余計な説明を削ぎ落とした世界だからこそ、読み手は自由に想像を働かせて、情景を思い浮かべることができます。

④財産を携えて新しい地に旅立つ
 先ほども言いましたが、ハランを旅立った時のアブラムは財産を持っていました。5節です。

12:5 アブラムは、妻のサライと甥のロト、また自分たちが蓄えたすべての財産と、ハランで得た人たちを伴って、カナンの地に向かって出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。

 ハランで得た人たちとは、どんな人たちでしょうか?これもまた想像してみると、カナンに移住することにしたアブラムの一家はそれなりの準備をハランでして、出発したのでしょう。ハランに残ったナホルの一族も、いろいろな物を持たせてくれたかもしれません。それらの物資を運ぶ動物たちを管理する人もまた必要だったのだろうか、そんな風にも想像します。

 そうしてアブラムは多くの物資と、そしてノアとセムの時代から継承された信仰という財産を携えて目的地のカナンへ向けて出発し、道中では多くの情報もまた仕入れながら旅を続けてカナンの地に入ったことと思います。

⑤よりハッキリと霊的に目覚めるための旅立ち
 私たちの教会にも財産があります。この会堂の建物という財産、3年前に新しく手に入れた駐車場という財産、そして松村導男先生の時代から継承した信仰の財産です。私は導男先生とは直接お目に掛かったことはありませんが、沼津教会を立ち上げた先生ですから、先生のことは沼津教会員からも良く聞かされていました。沼津教会は3年前の2017年が設立50周年の年でした。設立の年の1967年は専任の牧師が初めて派遣された年で、それ以前は導男先生が3年間、バイクで静岡から沼津に通って来て下さっていたそうです。

 私も去年の3月から4月に掛けて三度、この教会の車で静岡と沼津を往復しました。今の時代の快適な道路と車でも1時間あまり掛かって少し疲れます。50年以上前の悪路とバイクだと1時間半は掛かったのではないでしょうか。しかも道路の大半は舗装されていなかったと思いますから、先生はホコリまみれになっていたことでしょう。その静岡と沼津との間の往復を一度や二度ではなくて三年間ずっと続けておられたということですから、すごい信仰の持ち主の先生だなあと沼津でいつも感嘆していました。

 この静岡教会にはそういう松村導男先生以来の信仰の財産があります。そして建物があり、駐車場があります。私たちはこれらの財産を携えつつ、アブラムが新しい地に向かって旅立ったように、新しい時代に向かって旅立ちたいと思います。4節にあるようにアブラムが旅立ったのは75歳の時でした。私たちの教会は75歳以上の方も少なくありませんが、アブラムよりも若い者のほうが多いですから、アブラムに習いたいと思います。

 アブラムは過去の財産を持ちつつも主の御声を聞いて新しい地に向けて旅立ちました。私たちも恐れずに新しいことにチャレンジして新しい時代へ向けて出発したいと思います。新しい時代とは、多くの人が霊的に目覚める時代でしょう。なぜなら神様はいつも人々をその方向に導いているからです。ですから多くの日本人に霊的に目覚めていただきたいと思います。

 そのために例えば一つのアイデアとして今私が有望ではないかと考えているのが、聖書のことばを五七五で表すことです。日本人の感覚には俳句や川柳で培われた五七五の語感が深く浸み込んでいると思います。自分で俳句や川柳を作らなくても目にしたり耳で聞いたりする機会が多いですから、慣れ親しんでいます。その日本人に親しまれている五七五で聖書のことばを表すなら、日本人にとって受け入れやすいものにならないだろうかと思うのですが、いかがでしょうか。例えば、大変に拙い例ですが、週報p.2の《五七五で味わう聖書》に記したようなものです。

 我は主に 飼われて憩う 羊かな(詩篇23:1~2)
 イエス問う 「汝(なれ)何求め 生くるか」と(ヨハネ1:38)
 御子は吾(あ)の 罪十字架で 負いにけり(Ⅰペテロ2:24)

 こうした五七五のリズムで日本人の心の奥底で眠っている霊性を呼び覚ますことができないでしょうか。

おわりに
 神様が私たちを導こうとしている新しい時代は、多くの者が霊的に目覚める時代です。いつの時代においても神様はその方向に人々を導こうとしています。日本人の多くが霊的に目覚めるためには、私たち自身も一人一人が神様と一対一の関係を築いて霊的な深い世界を味わえるになりたいと思います。

 アブラムのカナンへの出発は彼自身にとって、よりハッキリと霊的に目覚めて神様と一対一の関係を築くための旅立ちでした。ですから私たちも、よりハッキリと霊的に目覚めて神様が示す方向へと向かって行きたいと思います。短くお祈りいたします。

12:1 はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。
コメント

ぎりぎりまで人に自由を与える神様(2020.1.19 礼拝)

2020-01-21 09:32:09 | 礼拝メッセージ
2020年1月19日礼拝メッセージ
『ぎりぎりまで人に自由を与える神様』
【創世記11:1~9】

はじめに
 きょうの礼拝メッセージの聖書箇所は「バベルの塔」の記事です。先週は「ノアの箱舟」の記事の箇所を開きました。ノアの時代、人が増えるとともに悪が増大していました。人は人数が増えると神様のほうではなくて人のほうを見るようになり、どんどん神様から離れて行きました。このことに心を痛めた神様は、大洪水によってノアの一家以外の人間を流して滅ぼしてしまいました。

 創世記1章の人間がまだアダム一人しかいなかった時代、地上は非常に良かったと聖書は記しています。ノアは正しい人でしたから、神様はノアの一家だけを残して他の人間たちを流してしまうことで、最初の頃の非常に良かった時代に神様は戻したかったのでしょう。

 そうしてノアの家族を祖先として人は再び増え始めましたが、彼らはやはり神様から離れて行きました。それが今日開いている「バベルの塔」の時代のことです。

 きょうは次の五つのパートで話を進めて行きます。

 ①人の行動をほとんど制止しない神様
 ②善悪の知識の木の実も食べさせた
 ③人間を愛しているから自由を与える
 ④神様の下でこそ得られる本当の自由
 ⑤五・七・五の単純さの中にある自由

①人の行動をほとんど制止しない神様
 では、まず「バベルの塔」の記事から見て行きましょう。大洪水によって一時はノアの家族だけになっていた人間は、再び増えて行きました。この時代、「全地は一つの話しことば、一つの共通のことばであった」そうです。彼らはれんがを作って言いました。4節、

11:4 彼らは言った。「さあ、われわれは自分たちのために、町と、頂が天に届く塔を建てて、名をあげよう。われわれが地の全面に散らされるといけないから。」

 そうして人間たちは天に届く高い塔の建設を始めました。天は神様がおられる場所です。その天にも届く塔を造ろうとすることは、神様の領域に足を踏み入れようとすることです。現代で言えば遺伝子を操作する生命科学の分野が、かなりきわどい領域に足を踏み入れています。好奇心が旺盛で知識を増し加えた現代人は、生命という神様の領域にまで既に片足を踏み入れているように思いますが、それは創世記の時代のバベルの町の人々も同じでした。それで神様は5節で天から降りて来られ、6節で言いました。6節、

11:6 は言われた。「見よ。彼らは一つの民で、みな同じ話しことばを持っている。このようなことをし始めたのなら、今や、彼らがしようと企てることで、不可能なことは何もない。

 神様はノアの時代に大洪水を起こすことで地上を一旦振り出しに戻しましたが、人間は再び神様が心を痛めることをするようになっていました。それで7節と8節、

11:7 さあ、降りて行って、そこで彼らのことばを混乱させ、互いの話しことばが通じないようにしよう。」
11:8 が彼らをそこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。

 こうして人間は互いの話しことばが通じないようになったなり、また地の全面に散り散りに散らされたので、バベルの塔の建設は途中で中止になりました。9節、

11:9 それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。そこでが全地の話しことばを混乱させ、そこからが人々を地の全面に散らされたからである。

 この記事を読むと、人間たちは途中まではバベルの塔の建設をしていたようです。どれくらいまで出来たところで中止になったのかは分かりませんが、神様は最初の間は人間たちがしたいようにさせていたようです。神様は人が心の内で考えていることも分かりますから、塔を造り始める前に制止することもできた筈です。しかし神様は、最初は人間がしたいようにさせます。神様とはそういうお方のようです。

②善悪の知識の木の実も食べさせた
 考えてみると、神様はアダムとエバが「善悪の知識の木」の実を食べた時も制止せずに食べさせました。しかし、さすがに「いのちの木」の実までは食べさせるわけにはいかないというわけでしょう。アダムとエバをエデンの園から追放しました。

 もし「いのちの木」の実を食べれば、人は永遠に生きるようになりますから神様は人に「いのちの木」の実までは与えませんでしたが、アダムとエバが「善悪の知識の木」の実を食べた時には黙って見過ごしました。そして食べてしまった後で咎めました。アダムとエバの息子のカインが弟のアベルを殺した時も、やはり黙って見過ごし、殺してしまった後で咎めました。どうやら神様はぎりぎりまで人に自由を与えるお方のようです。

 そういう目で見ると、現代の様々な問題も少し違って見えるように思えます。例えば、アメリカ軍が広島と長崎に原爆を投下するのを神様はどうして止めて下さらなかったのだろうかと思いますが、神様は悪いことでも自由にさせるお方のようです。

 或いは一昨日は阪神淡路大震災から25年ということでした。そして、3月になると3.11の東日本大震災の日がまた巡って来ます。世界的に見れば地震が起きない地域もあります。そのような地域に住めば人は地震の心配をする必要がありません。しかし、神様は日本のように地震が頻発する地域に人が住むことを制止しませんでした。

 話は少し脱線しますが、地震が起き易い地域があるのは神様がそのように地球をお造りになったからです。地球の表面のプレートの下には熱いマントルがあって、そのマントルはゆっくりと対流しているそうです。そのマントルの動きに乗って表面のプレートも動き、いくつかの場所でプレートが別のプレートの下にもぐり込んで行きます。そうしてプレートの境界で歪みが溜まると、時々歪みを解放して地震が起きるそうです。日本はそういうプレートの重なり合う地域にありますから、地震がどうしても多くなります。

 しかし、プレートが沈み込む地域だからこそ日本には深い海と高い山があって海の幸と山の幸の豊かな食材に恵まれています。日本人の祖先はこういう食材が豊かな地域に好んで住み着いたわけから、地震の被害に頻繁に遭うのも仕方のないことなのかもしれません。神様はこういう危険な地域に人が住むことも制止しないで人の自由にさせているのですね。

③人間を愛しているから自由を与える
 次に神様はどうして人間にぎりぎりまで自由を与えて、滅多に制止をしないのかを考えてみたいと思います。

 神様が人に自由を与えているのは、やはり人を愛しているからでしょう。人間の子供の教育のことを考えても、子供にあれもダメ、これもダメと言って禁止していては、子供はノビノビと育つことはできないでしょう。例えば公園の遊具の中には少し危険と思えるようなものもあります。ジャングルジムのような遊具の高い所から落ちればケガをするでしょうし、打ち所が悪ければ大変なことにもなりかねません。しかし、だからと言って遊具で遊ぶことをすべて禁止していたら、ひ弱な子供になってしまいます。丈夫で元気な子供に育って欲しいなら、多少の危険はあっても自由に遊ばせます。

 もし神様が人に自由を与えないで、人を神様の思い通りにしか動かないようにするなら、人間は神様の奴隷か、或いは命令通りにしか動かないロボットということになります。そんなことは神様ももちろん望んでいません。ですから神様は人に自由を与えた上で、人が神様と共に歩むことを願っています。しかし、人に自由を与えると人は結局は悪に傾き、ノアの大洪水で再出発したにも関わらず、バベルの塔を建設するというようなことをしてしまいます。

 それで、このバベルの塔の時代の後、神様は人にもう一度再出発の機会を与えます。前回はノアを選び出してノアの家族以外の人間を滅ぼしましたが、前回ご一緒に見た通り、神様は虹の契約を立ててノアの洪水のようなことはしないと約束しましたから、今度はアブラハムを選び出して彼の子孫を祝福することにしました。そうしてアブラハムの子孫はイスラエルの民となって、エジプトで増え、そしてエジプトから脱出した後にモーセを通じて律法を授かることになりました。しかし、ご承知の通り、イスラエル人たちは律法を授かった後も、しばしば神様から離れて行きました。

 こうして考えてみると、人間は神様と共に歩むことが本当に苦手なのだなと思います。神様は人を自由に行動させて下さいます。すると、人間は神様から離れて行きます。人が自由に行動することと神様と共に歩むこととを両立させることは本当に難しいようです。
 日本のキリスト教会の教会学校のことを考えても、どこの教会学校でも同じだと思いますが、小学生の頃は真面目に教会学校に通っていても、中高生になると段々と教会学校から離れて行くケースが多いと思います。もちろんそうでなくて中高生になっても教会学校に通う生徒もいますが、日曜日に教会に行くことを強制しないで自由に選ばせるなら、段々と離れて行く生徒のほうが多いのだろうと思います。

④神様の下でこそ得られる本当の自由
 人は神様から自由を与えられると、どうして神様から離れて行く傾向があるのでしょうか。それは多くの人が、神様の下でこそ得られる本当の自由の素晴らしさを知らないからではないかな、と私は思います。特に十代の中高生のには神様の下での自由などと言っても、ほとんど分からない世界だと思いますから、若い人たちが教会から離れる時期があるのも仕方のないことかもしれません。

 きょうの招きのことばで引用しましたが、ヨハネの福音書8章31節と32節でイエスさまは次のようにおっしゃいました(週報p.2)。お読みします。

8:31 イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。
8:32 あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

 もし私たちがイエスさまの本当の弟子になることができるなら、私たちは真理を知り、真理は私たちを自由にします。しかし、たぶん私たちの多くはイエスさまの本当の弟子になりきれていないので、真理が分からず、従って本当の自由を知らないのかもしれません。ですから神様の下での自由ではなくて自分勝手な自由を選びがちなのかもしれません。
 神様は何にも縛られていない自由なお方です。それゆえ、私たちは神様の下でこそ本当の自由が得られます。しかし、そのことを理解するのは、なかなかに難しいことのようです。

 どうしたら私たちは神様の下での自由をより良く理解できるようになるでしょうか?このところ私はよくそのことを考えているのですが、一つのアイデアとして、ヨハネの福音書20章31節に立ち返ることをお勧めしたらどうかと思っています(週報p.2)。ここには、とても単純なことが書いてあります。

20:31 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。

 この20章31節にはヨハネの福音書の執筆目的が記されていますが、要するにヨハネは、私たちが「イエスさまは神の子キリストである」ことを信じるなら、私たちは「いのちを得る」という非常に単純なことを言っています。もちろん、このことばの中にはさらにいろいろなことが含まれていて、これはとても深いことばなのですが、とりあえずは「イエスは神の子キリストである」と信じさえすれば、あまり深いことは分からなくても「いのちを得る」ことができます。何だか、とても自由な気がしませんか。あまり多くのことを要求されると不自由な気分になりますが、キリスト教は単純に「イエスは神の子キリストである」と信じるだけで良いのです。この自由な感じを皆でもっと共有できるようになると良いなと私は思っています。

⑤五・七・五の単純さの中にある自由
 この「イエスは神の子キリストである」と信じるだけで良いという単純さの中に自由を感じることは、俳句に似ているかもしれません。私のような俳句の初心者が分かったようなことを言って申し訳ありませんが、俳句は五七五の十七音しか使えないという制約だけに注目するなら、不自由な世界です。しかし、一旦それを受け入れるなら、この十七音の中に無限の自由を見出すことができるのだと思います。時には字あまりや字足らずも許されるほど俳句の世界は自由です。

 キリスト教も、「イエスは神の子キリストである」と信じることは、単純ではありますが実はハードルの高い制約だと言えるでしょう。しかし、一旦これを受け入れるなら、神様の下での無限の自由の恩恵に与ることができます。それゆえ俳句とキリスト教は似ているなあと感じます。

 そんなことを思っていたら、ヨハネ20章31節が五・七・五の十七音でまとめられるような気がして、週報p.2に記したように「いのち得る イェスは神の子 キリストで」の十七音が心の中に浮かんで来ました。このシンプルな十七音の中にキリスト教の精髄が凝縮されています。

 この十七音の中にはキリスト教が大切にしている十字架・復活・聖霊降臨のこともすべて含まれています。また父・子・聖霊の三位一体の神のこともすべて含まれています。

おわりに
 きょうのメッセージを簡単にまとめます。
 神様は人間に自由を与えた上で、人が神様と共に歩むことを望んでおられます。しかし、自由を与えられた人は神様からどうしても離れてしまうという傾向があります。それで神様はイスラエルの民にモーセを通じて律法を授けましたが、この律法は細かい規定があまりに多い点に難があると言えるかもしれません。自由を与えられている人間は細かい規定に縛られることを好みません。

 ヨハネの福音書20章31節の「イエスは神の子キリストである」ことを信じればいのちを得られるという単純なメッセージは、そんな細かい規定を好まない人間には最適であろうと思います。きょうの最後には、このヨハネ20章31節のメッセージをさらに十七音の「いのち得る イエス神の子 キリストで」にまとめてみました。

 仏教の念仏や題目に慣れ親しんでいる日本人には、このようにキリスト教のエッセンスを十七音に凝縮したもののほうが、馴染みやすいのかもしれません。

 神様は私たちに自由を与えて下さっていますから、私たちは自由な発想でこれからの伝道を考えて行くことも大切であろうと思います。これらのことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。
コメント

人が大地に増え始めた時代(2020.1.12 礼拝)

2020-01-13 08:56:34 | 礼拝メッセージ
2020年1月12日礼拝メッセージ
『人が大地に増え始めた時代』
【創世記6:1~8】

はじめに
 元旦礼拝から数えて、きょうは今年3回目の礼拝です。今年は「神の愛」について深く学びたいと願っています。

 人間は数が増えて来ると、神様よりも人の方を見るようになります。すると神様の愛も分かりにくくなって来ます。そこで、元旦礼拝では先ず、人間がアダム一人しかいなかった時代から始めました。アダムを愛していた神様はエデンの園を造ってアダムをそこに置きました。エデンの園は素晴らしい場所でした。しかし人がアダムとエバの二人になった時、アダムはエバの方を向いて神様の命令に背き、禁じられている木の実を食べる罪を犯してしまいました。そして先週開いた創世記4章でカインは弟のアベルの方を向いて弟を殺す罪を犯してしまいました。

 きょう開いている創世記6章では、人間の数がさらに増えた時代に入っています。きょうは次の五つのパートで話を進めて行きます。

 ①増えると神の方を見なくなる人々
 ②神の目にかなっていたノア
 ③情報の洪水に溺れる現代人に涙する神
 ④虹の契約
 ⑤背後の御守りを感じながら読みたい聖書

①増えると神の方を見なくなる人々
 創世記6章の1節にあるように、この時代は人が大地の面に増え始めていました。先ほども言いましたが、人が増えると人は神様の方を見なくなり、人の方をみるようになります。そうして悪が増大して行きます。5節にある通りです。

6:5 は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。

 悪とは何か、何が悪なのかは、例えばモーセの十戒の<反対>を考えれば分かりやすいでしょう。モーセの十戒は「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」、「あなたは自分のために偶像を造ってはならない」、「あなたは、あなたの神、の名をみだりに口にしてはならない」、「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ」、「あなたの父と母を敬え」、「殺してはならない」、「姦淫してはならない」、「盗んではならない」、「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない」、「あなたの隣人の家を欲してはならない」と教えます。もちろん、創世記の時代にはモーセの十戒はまだありませんでした。しかし人々は、概ねモーセの十戒の<反対>のことをしていたのでしょう。それで6節と7節、

6:6 それでは、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。
6:7 そしては言われた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜や這うもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを悔やむ。」

 6節にあるように、主は地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛めました。それは天地創造の第六日目に神様がご自分が造ったものを見た時とあまりに違っていました。週報p.2に載せた創世記1章31節をお読みします。

創世記1:31 神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。

 この第六日の時点では、人はまだアダム一人しかいませんでした。この時、神様と人は一対一の関係にあり、すべてのものは非常に良かったのでした。しかし、人が増えた時に悪が増大しました。
 
 少し脱線しますが、マタイ・マルコ・ルカの福音書の中でイエスさまがおっしゃっていた重要な第一の戒めがありますね。その引用元の申命記6章5節には次のようにあります。(週報p.2)。

申命記6:5 「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

 私はこれまで折にふれて、どうしたら心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして主を愛することができるんだろうと考えて来ました。心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして主を愛するとはどういうことだろうかと考えて来ました。今回、その答が見えて来たような気がしています。それは、いま読んだ創世記1:31の第六日目に、アダムの代わりに自分を置いてみることで、神様としっかり向き合うことができそうな気がします。この第六日目に自分を置くなら、私は神様と一対一の関係にあります。私を惑わす蛇もまだいません。その中に自分を置いて私を造って下さった神様を賛美して感謝します。そうすると、心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして主を愛することが段々とできて来るような気がして来ます。

 もちろん、現実に戻れば私は世の様々なことに心を向けなければなりません。しかし、朝のディボーションの時に自分を創世記1章の第六日目に置いて自分を造って下さった神様に感謝して賛美するなら、神様との関係がしっかりと築けるように感じます。

②神の目にかなっていたノア
 創世記6章8節にノアが登場します。8節と9節、

6:8 しかし、ノアはの心にかなっていた。
6:9 これはノアの歴史である。ノアは正しい人で、彼の世代の中にあって全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。

 ノアはモーセの十戒のようなことができていた人なのだろうと思います。神様はノアに箱舟を造るように命じました。この箱舟は巨大で、15節によれば長さは300キュビトだそうです。下の注を見ると1キュビトは約44センチということですから、メートルにすると300キュビトは132メートルです。息子たちがノアを手伝ったとしても、こんな大きな舟を造ることは途轍もなく困難なことです。材料の木を森で切って運び出すことだけでも大変なことです。しかも16節によれば1階と2階と3階に分けるということですから、単純な構造の舟よりもさらにたくさんの木材を必要とします。

 ですから、ノアが舟を建造する作業を神様が大いに助けたことは明らかでしょう。どういう形で神様がノアを助けたのか、細かいことまでは分かりませんが、背後で神様の見えない力が働いていたことは明らかです。

 ノアの箱舟の話は有名ですから、私はこの話を信仰を持つ前から知っていました。その頃は、ただの作り話だろうと思っていました。それがイエスさまを信じて信仰を持ってからは、作り話とは思わなくなりました。しかし、それにしてもこの巨大な箱舟を人間の力でどうやって造ったんだろうとは疑問に思っていました。それが、段々と聖書の理解が深まるにつれて、神様の見えない力が働いて様々な形でノアを助けていたのだろうと思うようになりました。

 これが信仰を深めるということなのだろうと思います。信仰が深まると様々なことの背後に神様の見えない力が働いていることを感じるようになります。信仰を持たない人にはその背後の神様の姿は見えないでしょう。しかし、信仰が深まって神様との信頼関係ができて来ると、見えない神様の御手に思いが及ぶようになります。信仰を持たない人の目から見ると、そんな私は頭がおかしい人のように見えるかもしれません。

 それに対して私は次のように考えます。私たちの一人一人が創世記1章の第六日目の神様と一対一の関係の中にあるなら、神様の姿が霊的に良く見えることでしょう。しかし人の数が増え、悪が増大していく中で私たちは神様の姿がはっきり見えなくなりました。ですから信仰を深めるとは第六日目の神様の姿が霊的に見えていた時に戻って行くことなのだと思います。神様の姿が見える人の頭がおかしいのではなくて、第六日目から見れば、見えないことのほうがおかしいということになります。

③情報の洪水に溺れる現代人に涙する神
 ノアの箱舟が完成して、ノアとノアの家族、そして動物たちが舟に乗り込んだ後、主は舟の扉を閉じました(創世記7:16)。この扉を閉じた時、人々が舟に乗せて欲しいと殺到したとは書かれていません。ですから、そんなことは無かったのでしょう。人々はこれから何が起きるか分かっていませんでした。ノアが箱舟を建造していた時も、冷ややかな目で見ていたのでしょう。

 そうして舟の扉が閉じられた後に天の水門が開かれて大雨が四十日間降り続きました。水は高い山々よりもさらに高い所に達して、箱舟の中にいたノアとノアの家族、そして動物たちを除いて地の生き物はすべて死に絶えました。

 今回私はこのノアの洪水の箇所に思いを巡らしていて、この大水は神様の涙のように感じました。この大水は怒りの水ではなくて悲しみの水であると感じました。創世記1章の第六日目にはすべてが非常に良かったのに、人の心が悪に傾いたために、神様はこのような手段を取らざるを得ませんでした。

 このノアの洪水は、地上を再び第六日目に戻すためのものであったのでしょう。第六日目、神様はご自身が造ったすべてのものをご覧になり、非常に良かったと満足されました。その時の状態に戻すためには神様のたくさんの涙が必要でした。

 或いはまた、この大水に溺れる人々は、情報の洪水に溺れている現代人のようにも私は感じました。21世紀の現代、私たちの周囲はあまりにも多くの情報で溢れかえっています。情報を仕入れることはもちろん大切なことですが、気を付けないと情報に目を奪われてしまいます。人が増えたことで神様のほうを向かなくなった人間は、情報が増えたことでさらに神様から離れるようになりました。信仰を持つようになった人でも様々な情報に振り回されているとも言えるかもしれません。

 信仰で一番大切なことは神様と一対一の関係を築くことだと思います。神様とはどのようなお方なのか、他人が語る神様像を信じるのではなく、一対一の関係の中で自分なりの神様像を確立して行く必要があります。そうでなければ困難に遭った時、神様を見失って神様から離れてしまいます。しかし神様と一対一の関係が築けているなら、何があっても信仰が揺らぐことはないでしょう。私たちは情報の洪水に溺れることなく神様と一対一の関係を築いて行きたいと思います。

 神様との一対一の関係を築くとは、創世記1章の第六目に自分を置き、心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、主を愛することであろうと今の私は考えています。皆さんもどうしたら自分が神様とより強い信頼関係を築くことができるか、思いを巡らしてみていただけたらと思います。

④虹の契約
 大水が大地から引いた後、ノアたちは箱舟から出て再び大地に降り立ちました。その時、主は9章11節のようにおっしゃいました(週報p.2)。

創世記9:11 「わたしは、わたしの契約をあなたがたとの間に立てる。すべての肉なるものが、再び、大洪水の大水によって断ち切られることはない。大洪水が再び起こって地を滅ぼすようなことはない。」

 地上の人間たちと生き物をすべて流してしまうことは神様にとってもやはり大変につらいことだったのですね。二度としたくはないことでした。ですから神様は契約を立てておっしゃいました。「すべての肉なるものが、再び、大洪水の大水によって断ち切られることはない。大洪水が再び起こって地を滅ぼすようなことはない。」

 そうして今日の招きのことばで引用したように主は16節でおっしゃいました。

9:16 虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべての肉なるものとの間の永遠の契約を思い起こそう。

 虹は、私たちが太陽を背にしている時、前方にある水滴のスクリーンに映し出されます。雨上がりに虹が見えるのは、空に細かい水滴がたくさん残っているからです。その水滴に私たちの背後にある太陽の光が反射して私たちの目に入って来ます。太陽を背にする必要がありますから、真昼の太陽が高い位置にある時には虹は現われづらくて、太陽が低くなった夕方のほうが現われやすいです。ただし太陽が高い所にある昼間でも、花に水をやっている時など、水のシャワーの中に虹が見えることがあります。それは、花に水をやっている時は下を向いていて、高い所にある太陽を背にしているという位置関係にあるからです。

 私たちの背後にある太陽の光は前方の水滴のスクリーンで反射して私たちの目に入り、虹が見えます。空に架かる雄大な虹は私たちに希望を与え、私たちの心を平安にしてくれます。

⑤背後の御守りを感じながら読みたい聖書
 この虹を映し出す後方の太陽の光を、神様の光と考え、前方の水滴のスクリーンを聖書と考えてみたいと思います。

 神様はいつも私たちを背後から見守って下さっています。私たちが苦しい中を通っている時も、神様はいつも私たちを見守って下さっています。この神様の背後の御守りを感じながら聖書を読む時、私たちの前にある聖書からは神様からの豊かな語り掛けがあります。この時、私たちは後ろからも前からも神様を感じて神様の愛に包まれていることを感じます。しかし、神様の存在を背後に感じないままで聖書を読むなら、聖書はただの印刷物です。無味乾燥な文字が並ぶ、つまらない印刷物に過ぎません。

 虹の色は七色で例えられますが、実際はもっとたくさんの色が含まれています。ただし、たくさんだとややこしいので、七色で例えられることが多いです。虹が七色に分かれて見えるのは、もともとの太陽の光に様々な色の成分が含まれているからですね。これらの色が重なり合うと白い光になりますが、もともとの太陽の光は様々な色の光から成り立っています。

 私たちを守って下さる神様の光も多様な光から成ります。私たちは様々な悩みや問題・課題を抱えています。健康の問題、仕事のこと、子育てのこと、人間関係、平和のこと、大雨や竜巻などの気象災害が起きやすくなっていること、いつ大地震が来るか分らないことなど、私たちの思い悩みは無数にあると言って良いでしょう。それらに思い悩む私たちに神様は様々な色の光を、聖書を通して与えて下さり、心に平安を与えて下さいます。異なる悩みには異なる光が必要な場合があります。それら異なる悩みに神様は異なった光で私たちを慰め、励まし、平安を与えて下さいます。

おわりに
 きょうは地上に人が増え始めたノアの時代に何があったかをご一緒に見て来ました。人は一旦神様を見失うと、神様からどんどん離れて行ってしまいます。もともとは神様との個人的な一対一の関係が築けていたのに、そこからどんどん離れて行ってしまいます。そして神様が霊的に見える人は頭がおかしい人だなどという、あべこべのことになってしまいます。

 このあべこべの状態を脱して神様との関係を回復する第一歩は、神様がいつも自分を守って下さっていることに気付くことではないでしょうか。旧約の時代の人々の多くは、なかなかそのことに気付くことができませんでした。しかし、新約の時代の私たちは、イエスさまの十字架がありますから、神様から離れている罪に気付くことができます。イエスさまは十字架に付けられて血を流すことで神様に背くことの重い罪を私たちに教えて下さいました。

 そうして神様が私たちを愛し、守っていて下さることに気付くなら、聖書は様々なことを私たちに語り掛けてくれるようになります。空に架かる雄大な虹が私たちに希望を与え、平安を与えてくれるように、聖書は私たちに希望を与え、平安を与えてくれます。

 この素晴らしい恵みを感謝しながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。

9:16 虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべての肉なるものとの間の永遠の契約を思い起こそう。
コメント

ご自身の愛を人に知ってほしい神様(2020.1.5 新年礼拝)

2020-01-06 08:48:19 | 礼拝メッセージ
2020年1月5日新年礼拝メッセージ
『ご自身の愛を人に知ってほしい神様』
【イザヤ43:4(招詞)、ホセア11:1~12(交読)、創世記4:1~4、マラキ1:1~2(朗読)】

はじめに
 元旦礼拝でお伝えしましたように、今年の私たちの年間聖句は「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりがあなたがたすべてとともにありますように」(Ⅱコリント13:13)です。「主イエス・キリストの恵み」をまだご存知ない方々に対しては、この素晴らしい恵みをお伝えして行くとともに、既にイエスさまの恵みを知っている私たちはさらに「神の愛」と「聖霊の交わり」についての理解も深めて行きたいと思います。すると、このことでさらに「主イエス・キリストの恵み」への理解も深まり、それがまた「神の愛」と「聖霊の交わる」への理解も深めるという良いサイクルが生じるであろうと思います。そうして私たちの内は、みことばの種が蒔かれた時に多くの実を結ぶ「良い地」へとなって行くことでしょう。

 さて、きょうのメッセージのタイトルは『ご自身の愛を人に知ってほしい神様』です。この年末年始、私は「神の愛」について思いを巡らす中で、神様ご自身が私たち人間のことをどんなに深く愛しているか、そのことを神様は私たちに知ってもらいたいと願っていることをヒシヒシと感じました。きょうは、それを分かち合いたいと思います。

 きょうは次の四つのパートで話を進めます。

 ①「愛している」と明言する神様
 ②働き始めてようやく知る親の愛
 ③神様に感謝したアベル、形式的だったカイン
 ④神様の愛の究極の形であるイエスさまの十字架

①「愛している」と明言する神様
 きょうの招きの詞ではイザヤ書43章4節を読んでいただきました(週報p.2)。この聖句の「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」は、とても有名ですね。このように神様は、ご自身がイスラエルの民のことをどれほど深く愛しているか、はっきりと告げています。しかし、イスラエルの民は神様の愛を全くと言っていいほど感じることができていませんでした。

 私たちはどうでしょうか。人それぞれで、神様の愛をたくさん感じておられる方もいるかもしれませんが、神様の愛をあまり感じていない方もおられるのではないでしょうか。それゆえ、今年はこの神様の愛を深く知る一年でありたいと願っています。

 私自身のことを振り返っても、私が神様の愛を自覚するようになったのは神学校に入ってからで、しかも神学生の3年生になってからでした。神学生の2年生の時も神様の愛をぼんやりとは感じていました。神学生の時、この教会で夏季実習をさせていただいていた時に「みことばのお風呂」などと言っていたのは、その表れだと思います。しかし、みことばにどっぷりと浸かると気持ちが良くなるのは、神様の愛のゆえである、ということには気付いていなかったと思います。

 神学生の3年生になって、ようやく神様の愛を神様の愛として感じるようになりました。しかし、それでも当時はまだまだだったと思います。昨年も話しましたが、私は神学校の中で暮らしていた時は、そこから早く出たくて仕方がありませんでした。当時の私は神様が神学校で学んでいる私を助け、励まして下さっていることへの感謝の気持ちがほとんどありませんでした。神様が神学生の私をどんなに深く愛して下さっていたかを知ったのは、神学校の外に出てからでした。

 イスラエル人たちも、神様の愛を理解していませんでした。神様が「わたしはあなたを愛している」とわざわざ言っているのは、それゆえでもあるのでしょう。神様はイスラエル人たちに、ご自身がいかに彼らを愛しているかを知ってほしいと思っていました。特にホセア書11章からはその神様の思いがほとばしり出ています。聖書交読でも開きましたが、ホセア書11章をもう一度、見てみましょう(旧約p.1547)。1節から3節までをお読みします。

1 「イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、エジプトからわたしの子を呼び出した。
2 彼らは、呼べば呼ぶほどますます離れて行き、もろもろのバアルにいけにえを献げて、刻んだ像に犠牲を供えた。
3 このわたしがエフライムに歩くことを教え、彼らを腕に抱いたのだ。しかし、わたしが彼らを癒やしたことを彼らは知らなかった。

 1節に「わたしは彼を愛し」とありますから、ここでも神様はイスラエル人に対するご自身の愛を明言しています。神様はイスラエル人を愛し、エジプトで奴隷になっていた彼らを助け出しました。しかしイスラエル人たちは神様が彼らに呼び掛ければ呼び掛けるほど、神様から離れて行きました。そうして偶像にいけにえを献げて礼拝しました。

 このように神様に背を向けるイスラエル人に対して神様は3節のようにおっしゃいました。「このわたしがエフライムに歩くことを教え、彼らを腕に抱いたのだ。」ここでエフライムというのはイスラエルのことです。イスラエル人の信仰は幼く、赤ちゃんのようでした。その赤ちゃんに歩くことを教え、抱いたのは神様でした。それなのに彼らはそのことをぜんぜん分かっていませんでした。
 
②働き始めてようやく知る親の愛
 ただ、子供が親の愛をなかなか理解できないのは、仕方のないことなのだろうなと私は自分自身の経験から思います。私は他の人と比べて特別に鈍い者なのかもしれませんが、学生時代は親が仕送りをしてくれていることを当たり前のように思っていて、ぜんぜん感謝していませんでした。

 私は学部で1年留年して5年掛かって卒業した上に、さらに大学院の2年間の修士課程に進みました。それらの学費と生活費を父に仕送りしてもらっていました。3年間の博士課程では奨学金をもらっていましたが、父はできる範囲で仕送りを続けてくれました。そんな父の苦労を私はぜんぜん知らずにほとんど感謝もしていませんでした。

 この父の愛を理解するようになったのは、ようやく働き始めて自分で収入を得るようになってからでした。本当にどうしようもない駄目な放蕩息子だったなあと思いますが、それだけにイスラエル人たちの駄目さ加減も私はよく分かります。

 きょうの聖書箇所の一つのマラキ書1章のイスラエル人たちも同様でした(旧約p.1629)。1節をお読みします。

1 宣告。マラキを通してイスラエルに臨んだのことば。

 このマラキ書に書かれているのは、イスラエル人への主のことばです。続いて2節の前半、

2 「わたしはあなたがたを愛している。──は言われる──しかし、あなたがたは言う。『どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか』と。

 ここでも主は、「わたしはあなたがたを愛している」と、ご自身のイスラエル人への愛を明言しています。しかし、イスラエル人たちは言いました。「どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか」。学生時代の私もこんなでしたから、私はこのイスラエル人たちを批判できません。しかし批判はできませんが、とても嘆かわしいことだと思います。後の4番目のパートで話しますが、旧約聖書の最後のマラキの時代に至ってもイスラエル人たちの信仰は相変わらず赤ちゃんレベルでしたから、イエスさまの十字架がどうしても必要だったのですね。

 マラキの時代のイスラエル人たちは主に献げ物をしていましたが、それは形式的なものだったようです。マラキ書1章7節で主はこのように仰せられています。7節、

7 あなたがたは、わたしの祭壇に汚れたパンを献げていながら、『どのようにして、私たちがあなたを汚しましたか』と言う。『の食卓は蔑まれてもよい』とあなたがたは思っている。

 イスラエル人たちは、いちおう献げ物をして主を礼拝していましたが、汚れたパンを献げていて、そこには主への尊敬と感謝の気持ちが込められていませんでした。きょうのもう一つの聖書箇所の創世記4章のカインも主への尊敬と感謝の気持ちが込められていなかったのではないかと思います。

③神様に感謝したアベル、形式的だったカイン
 もう一つの聖書箇所の次に創世記4章を開きたいと思いますが、その前に3章のアダムとエバの時代の復習をしておきたいと思います(旧約p.5)。

 元旦礼拝でご一緒に見たように、創世記3章で神様はアダムとエバをエデンの園から追放することにしましたが、その前に「皮の衣」を着せました。3章21節ですね。

21 神であるは、アダムとその妻のために、皮の衣を作って彼らに着せられた。

 エデンの園の中ではアダムとエバは裸でも大丈夫でした。寒さに凍えることもなく、猛獣などに襲われる心配もありませんでした。食べ物の木の実が豊富にありましたから、働く必要もありませんでした。生まれた時から、そうであればエデンの園の中にいたアダムとエバが特に神様に感謝していなかったとしても、それは仕方がないことだったかもしれません。学生時代の私のようなものです。私は大学院を出て働くようになってから、初めて親に感謝するようになりました。

 ですから神様がアダムとエバをエデンの園の外に出したのも、神様の人への愛を知ってほしいという意味もあったのかもしれませんね。「わたしはあなたがたを愛している」ということをアダムとエバにも知ってもらいたかったのかもしれません。

 神様はアダムとエバを愛していましたから「皮の衣」を作って彼らに着せました。その他、外で食べ物を得るための知恵も与え、身を守るための知恵も与えたのではないかと思います。そうしてアダムとエバはエデンの園の外で、自分たちで食べ物を得るようになって初めて、神様に感謝するようになったのだろうと思います。その表れが、二人の息子のカインとアベルが主に献げ物をしたことであろうと思います。カインとアベルは、親のアダムとエバが神様に感謝して献げ物をしていたから、自分たちも献げ物をするようになったのではないでしょうか。

 創世記4章の1節から4節までを交代で読みましょう。

1 人は、その妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「私は、によって一人の男子を得た」と言った。
2 彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは大地を耕す者となった。
3 しばらく時が過ぎて、カインは大地の実りをへのささげ物として持って来た。
4 アベルもまた、自分の羊の初子の中から、肥えたものを持って来た。はアベルとそのささげ物に目を留められた。

 4節を新改訳の第3版では「アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た」と訳していました。羊も肥えたものと痩せたものがいます。肥えたものが最上のものなのですね。よく肥えた最上の羊を神様に献げたアベルは、神様が自分を守っていて下さっていることに感謝していました。

 エデンの園の外では人は苦労して食べ物を得なければなりませんでした。猛獣に襲われて命を落とす危険もありましたし、寒かったり暑かったり、雨が降ったり降らなかったり、天候の変化でも命を落とす危険があったことでしょう。その危険から神様は守って下さっていました。アベルはそのことを理解して神様に感謝していたのでしょう。しかしカインは神様への感謝の気持ちが足りなかったようです。

 神様はカインの献げ物には目を留めず、アベルの献げ物に目を留めました。そのことにカインは怒って弟のアベルを殺してしまいました。神様はエデンの園の外でもアダムとエバを愛し、カインとアベルも愛していました。この神様の愛を分かっていないでカインは、神様が愛しているアベルを殺してしまいました。殺人の罪というのは、神様が愛しておられる人の命を無きものにしてしまう罪なのですね。神様は人に命を与え、すべての人を愛しています。神様が愛し、神様が命を与えた人の命を無きものにしてしまうことは重大な罪です。

 そんな重大な罪を犯したカインでしたが、神様はなおカインを愛していました。15節で主はカインに言いました。15節、

15 は彼に言われた。「それゆえ、わたしは言う。だれであれ、カインを殺す者は七倍の復讐を受ける。」は、彼を見つけた人が、だれも彼を打ち殺すことのないように、カインに一つのしるしをつけられた。

 このように主はカインを守ることにしました。主はご自身が愛しておられたアベルを殺したカインのこともなお愛し、守ることにしました。主の憐れみの深さがここからも分かります。

 しかし、イスラエル人のほとんどが、この神様の愛を分かっていませんでした。ただし中には神様の愛を感じて感謝している者たちもいました。今年の学びでは、この神様の愛を知っていた者たちの学びもしたいと思っていますが、大部分の者たちは分かっていませんでした。

④神様の愛の究極の形であるイエスさまの十字架
 アダムの時代に始まって、神様は陰に陽に、人々への愛を示して来ました。「皮の衣」のような物の形で、また彼らをエジプトから救い出すという形で、あるいはまた「わたしはあなたを愛している」という直接のことばで愛を伝えて来ました。それなのにイスラエル人たちの大半は神様の愛が分かっていませんでした。旧約聖書の最後のマラキの時代になっても彼らは成長しておらず、「どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか」などと言っていました。

 ここに至っては、最早ひとり子のイエスさまを地上に送ることしか手段が残されていなかったのでしょう。イエスさまの十字架は神様の愛の究極の形です。最後にヨハネの手紙第一の4章を開きたく思います(新約p.483)。第一ヨハネ4章の7節から12節までを交代で読みましょう。

7 愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。
8 愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。
9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。
10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。
12 いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

 御子イエス・キリストは私たちの神様への背きの罪のために、宥めのささげ物となって十字架に付きました。神様はそれほどまで私たちのことを愛して下さっています。ですからヨハネは、この手紙の読者の私たちに互いに愛し合いましょうと説きます。神様はすべての人を愛していますから、隣人を憎むことは、神様が愛している人を憎むということです。

 この神様の愛を多くの方々が深く理解するなら、私たちが住むこの地域も、日本も、世界も、もっと住みやすくなるでしょう。それこそが御国がこの地上で実現するということです。

 この神様の深い愛を先ず私たちが深く感じられるようになり、そうして周囲の方々にお伝えできるようになりたいと思います。

 しはらく、ご一緒にお祈りいたしましょう。

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)
コメント

神の愛を深く知る一年(2020.1.1 元旦礼拝)

2020-01-03 07:31:30 | 礼拝メッセージ
2020年1月1日元旦礼拝メッセージ
『神の愛を深く知る一年』
【創世記3:21、Ⅱコリント13:13】

はじめに
 新年あけましておめでとうございます。
 きょうから新しい一年が始まります。年末には『聖句百選』の小冊子という素晴らしい贈り物が高津教会からありました。それで年末感謝礼拝のメッセージでは、この冊子を題材にして、マルコの福音書の「種蒔きのたとえ」の記事を引きながら、私たちの一人一人の内に「良い地」を作り、みことばの種が多くの実を結ぶようにしたいという話をしました。

 みことばの種が人の心に蒔かれても、その人の心の表面が固いままで、且つ何の潤いも無ければ種は発芽せず、成長して実を結ぶことはできません。種が発芽して成長して行くためには、心の表面が柔らかく耕されていなくてはならず、また水をたっぷり含んで潤っていなければなりません。この心に必要な「水」とは「神の霊の水」です。

 詩篇第1篇3節(週報裏面)には、「その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び、その葉は枯れず、そのなすことはすべて栄える。」とあります。神の霊の水が流れる川のほとりに植えられた木は豊かに実を結びます。このように、私たちの心の内に蒔かれたみことばの種が豊かに育つためには、「神の霊の水」が必要です。

 この、「神の霊の水」には「神の愛」がたっぷりと含まれています。今年は、この「神の愛」について深く学ぶことができる一年であれば幸いであると願っています。

 きょうは次の5つのパートで話を進めて行きます(週報裏面)。

 ①神の愛をたっぷり含む「良い地」
 ②神と人間が1対1だった時代
 ③「皮の衣」に代表されるたくさんの愛
 ④1対1の関係に戻して下さったイエスさま
 ⑤聖餐の恵みに与って、神の愛に浸る

①神の愛をたっぷり含む「良い地」
 今年のこの教会の年間聖句はコリント人への手紙第二13章13節の、

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」

が与えられました。この聖句についての理解を深めていくことで、私たちの心の内が「良い地」に作り変えられて行けばと願っています。

(年間聖句を書いて下さった姉妹への感謝のことば)

 さて、この聖句の最初の部分の「主イエス・キリストの恵み」については、クリスチャンであれば、かなり感じておられると思います。クリスチャンでない方々はその恵みをまだご存知ありませんから、このことをお伝えして行かなければなりませんが、クリスチャンであればイエスさまの恵みを知っていますから、その次の「神の愛」と「聖霊の交わり」についても深く知ることができるようになりたいと思います。

 そうして「神の愛」と「聖霊の交わり」への理解が深まるなら、最初の「主イエス・キリストの恵み」への理解もさらに深まり、それがまた「神の愛」と「聖霊の交わり」への理解を深めるというように、良いサイクルが生まれると思います。すると、聖書のどこを開いても「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」を感じることができるようになるでしょう。一見すると無味乾燥でつまらないような箇所からも、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」を感じることでしょう。

 ここで、コリント人への手紙を書いたパウロが言う「神の愛」の「神」とは「天の父」のことです。天の父はイスラエル人を深く愛し、私たちのことも深く愛して下さっています。天の父が私のことを愛して下さっていることを感じる時、心の奥深い所に神の霊の水がじわ~っと浸み込んで潤って来ることを感じます。神の愛をたっぷりと感じるなら、心の内が良く耕されて「良い地」へと作り変えられて行くことを感じるようになるでしょう。たとえ私たちの心の表面が固い道路や岩地のようになっていても、神様の愛は私たちの心を耕して、神の霊の水が浸み込みやすい「良い地」に作り変えて下さいます。

②神と人間が1対1だった時代
 神様の愛を深く知るための第一歩として、先ず創世記2章に目を留めたいと思います。この創世記2章の時代、まだ人間はアダム1人しかいませんでした。2章の最後の方で妻のエバが造られて人の数が2人になりますが、その前はアダム1人でした。つまり神様と人間とは1対1の関係にありました。神様は人間が何十億人いても一人一人を愛して下さっていますが、人が多くなると神様が一人一人をどれだけ愛しているかが、見えづらくなると思います。そこで先ず人間がアダム一人だった時代に目を留めることにします。

 2章7節から見て行きます。

7 神であるは、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。

 神様はアダムを大地の素材から人を形造り、いのちの息、すなわち霊を吹き込まれました。霊を吹き込まれた者は生き、霊を取り去られた者は死にます。イエスさまが十字架で死なれた時、「我が霊を御手にゆだねます」と言って死にましたね。このように私たちの内には神様によって霊が吹き込まれています。ここから神様と私たち一人一人との強い関係を感じ、一人一人への神様の愛を感じます。続いて8節と9節、

8 神であるは東の方のエデンに園を設け、そこにご自分が形造った人を置かれた。
9 神であるは、その土地に、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を、そして、園の中央にいのちの木を、また善悪の知識の木を生えさせた。

 7節から8節、そして9節までの流れを見ると、神様は先ずアダムを造り、次にエデンの園を設けて、アダムをそこに置きました。つまりエデンの園はアダム1人のために設けられました。そのエデンの園は素晴らしいところでしたから、ここから神様がいかにアダムを深く愛していたかが分かります。

 ただし問題は、神様がそのエデンの園の中央に「いのちの木」と「善悪の知識の木」を生えさせたことですね。このことが後にアダムがエデンの園から追放されるきっかけとなります。神様が、この二つの木を生えさせなければアダムがここから追放されることはなかったでしょう。神様はどうして、「いのちの木」と「善悪の知識の木」をエデンの園に生えさせたのでしょうか?これは、とても深い問題だと思います。簡単に答えを出して良いような問題ではないと思います。こういう難しい問題について、折に触れて思いを巡らすことで、神様と自分との関係が強められていくのだろうと私自身は思っています。

 続いて10節、

10 一つの川がエデンから湧き出て、園を潤していた。それは園から分かれて、四つの源流となっていた。

 この10節は、3日前の年末感謝礼拝で交読したエゼキエル書47章と良く似ていると感じます。12節には、このように書かれていました(週報裏面)。

12 川のほとりには、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。

 聖所から水が流れ出して川となり、その川のほとりでは木が豊かな実をつけていました。聖所とは、地上で最も聖い場所です。エデンの園もまた地上で最も聖い場所であり、聖所とも言える場所でしょう。その聖所の中にアダムは住むことが許されました。神様はそれほどアダムのことを愛していました。そして将来、神様は私たちをも聖所に住まわせようとして下さっています。私たちが召されたら行く天の御国は聖所ですし、最終的には天の御国が地上に降って来て、この地上が聖所になります。私たちは、その地上の聖所の住人になります。神様はそれほどまで私たちのことを愛して下さっています。

 少し飛ばして18節をお読みします。

18 また、神であるは言われた。「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。」

 これも神様がアダムを愛しているがゆえのことでしょう。神様はアダムのために助け手を造ることにしました。それで神様は獣や鳥を造ってアダムのところに連れて来ました。しかし、20節を見ると、「ふさわしい助け手が見つからなかった」とあります。アダムとは別々に造られた獣や鳥では、ふさわしい助け手にならなかったのですね。

 それで神様はアダムのあばら骨を取って、そこから妻のエバを造りました。つまりエバはアダムの分身です。それゆえアダムを深く愛していた神様はアダムの分身のエバもまた、深く愛していました。

③「皮の衣」に代表されるたくさんの愛
 きょうは後で聖餐式が控えていますから、アダムとエバがエデンの園から追放されることになった経緯についてはスキップして、きょうの聖書箇所の3章21節を見ることにします。3章21節、

21 神であるは、アダムとその妻のために、皮の衣を作って彼らに着せられた。

 神様はアダムとエバをエデンの園から追放する前に皮の衣を作って二人に着せました。ここからも神様のアダムとエバへの深い愛が見て取れます。二人を追放したところだけに着目すると、神様は厳しいお方だという見方になってしまいがちだと思いますが、やはり神様は憐れみ深く、愛に溢れたお方であることが3章21節から分かると思います。

 そして3章21節の神様の愛に思いを巡らすなら、神様が二人に与えたものは皮の衣だけでなく、きっともっと色々なものを与えたのであろうと感じるようになります。この皮の衣は神様が二人に与えたものを代表しているだけであって、きっともっと多くのものを与えた上で二人をエデンの園の外に出したのであろうと思います。

 そうでなければアダムとエバは神様を恨み、神様から完全に離れてしまったのではないかと思います。アダムとエバはエデンの園の外に出されましたが、神様との関係は続いていました。神様は二人を深く愛していて、アダムとエバの二人もその神様の愛を感じていただろうと思います。

 なぜなら、二人の息子のカインとアベルが神様に献げ物をしたことが創世記4章に書かれているからです。これは両親のアダムとエバが神様との関係を保っていたことを示します。アダムとエバはエデンの園の外でも神様の愛を感じていて、それをカインとアベルに伝えていたのだろうと思います。

 これが聖書を味わう醍醐味ですね。聖書を読む時の基本は、もちろん字義通りに読み取ること、すなわち書いてある文字の通りに読み取ることです。創世記3章21節に、「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作って彼らに着せられた」と書いてあれば、先ずはその通りに解釈します。そして、そこから神様がアダムとエバを深く愛していることを感じ取ります。

 神様はアダムとエバをエデンの園から追放しましたから、表面的に見れば厳しいお方です。しかし実は、二人のことを深く愛しています。すると、神様が二人に与えたものは皮の衣だけではなく、きっともっと多くのものを与えたのだろうと神様の愛への想像が膨らんで行きます。物質的な物は皮の衣だけだったかもしれませんが、精神的な支えになるものを多く与えた上で神様は二人をエデンの園の外に出したのであろうということに思いが膨らんで行きます。

 このような読み方ができる聖書は私たちの心を温かくし、私たちの精神的な支えになります。聖書のどこを開いても「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」を感じるようになります。聖書は本当に素晴らしい書物であると思います。

④1対1の関係に戻して下さったイエスさま
 人間がまだアダム一人だった時、アダムは神様だけを見ていました。しかし、人間がアダムとエバの二人になった時、アダムは神様よりもエバの方を向くようになり、食べてはならないと命じられていた木の実を食べる罪を犯してしまいました。また、アダムとエバの息子のカインも、神様の方よりも弟の方を見て、弟を殺す罪を犯してしまいました。

 このように、人間の数が増えて来ると、人は神様ではなくて人の方を見るようになります。私たちが20世紀に生まれた時、人は既に何十億人もいたのですから、私たちが神様の方ではなくて人の方をどうしても向いてしまうのは、仕方がないことですね。そうだからこそ、神様は私たちに「隣人を愛しなさい」ともおっしゃいます。

 イエスさまは「主を愛しなさい」が第一の戒めであり、「隣人を愛しなさい」が第二の戒めであるとおっしゃいました。しかし私たちは不器用ですから、主を愛することと隣人を愛することの両方を行うことが、なかなか上手にできません。例えばイエスさまの時代のパリサイ人たちは主を愛することに一生懸命になっていて、隣人を愛することができていませんでした。マルタとマリアの姉妹のマルタは隣人におもてなしをすることは上手だったかもしれませんが、主を愛することは少し下手だったかもしれません。私自身のことを言えば、私は主を愛することに目が向いていて、隣人を愛することは少し下手だと感じています。

 このように人間は不器用ですから「主を愛する」ことと「隣人を愛する」ことの両方を上手く行うことがなかなかできません。神様はそんな不器用な私たちのためにイエスさまを送って下さったのだと思います。なぜなら「イエスさまを愛する」ことが「主を愛する」ことであり、同時に「隣人を愛する」ことでもあるからです。イエスさまを愛し、イエスさまのことを想う時、人は自然と隣人のことをも愛するようになるのだと思います。

 トルストイの「靴屋のマルチン」の話をご存知の方も多いと思います。冬の寒い日に靴屋のマルチンは、暖かい部屋の中でイエスさまが来て下さることを待ち望んでいました。その時、窓の外では凍えている人々がいましたから、マルチンはそれらの人々を暖かい部屋に招き入れて、もてなしました。しかしイエスさまは来ませんでしたからマルチンはガッカリしていました。そんなマルチンにイエスさまは、それらの凍えていた一人一人がわたしだったのだと、イエスさまはマルチンに教えました。

 人間の数がどんなに増えても神様は私たちの一人一人を愛して下さっています。しかし、人間の数が増えると人間はどうしてもアダムやカインのように神様ではなくて人の方だけを見るようになります。或いは逆に、パリサイ人のように神様だけを見て隣人を無視するようになります。そのどちらもが罪です。そんな不器用な私たちのために神様はイエスさまを送って下さり、神様と人間との関係を1対1の関係に戻して下さいました。

⑤聖餐の恵みに与って、神の愛に浸る
 最後の5番目のパートに移って、これから聖餐式を行います。神様は不器用な私たちのためにイエスさまを送って下さり、私たちがイエスさまを愛することで「主を愛する」ことと「隣人」を愛することの両方ができるようにして下さいました。しかし、そのためにはイエスさまが十字架に付くことが必要でした。

 この神様の愛がどれほど深いものであるか、聖餐の恵みに与りながら噛み締め、神様の愛に浸りたいと思います。そうして、私たちの心の内を、「良い地」へと作り変えて行っていただきたいと思います。
コメント

神の霊の水を受けて、良い地を内に作ろう(2019.12.29 礼拝)

2019-12-30 07:14:42 | 礼拝メッセージ
2019年12月29日年末感謝礼拝メッセージ
『神の霊の水を受けて、良い地を内に作ろう』
【詩篇1:3(招詞)、エゼキエル47:1~12(交読)、マルコ4:13~20(朗読)】

はじめに
 早いもので、きょうは今年最後の礼拝の日です。牧師になって毎年思っていることですが、特に夏の終わりから年末年始に掛けては非常に速く時が過ぎると感じます。教会によって行事日程が多少違いますが、どこの教会にいても夏の終わりから年末年始に掛けては速いです。

 静岡教会で言えば、10月の特伝のためのチラシの発注を8月の末にしました。そのために8月からチラシのデザインを始めていました。9月はその特伝に備えつつ結婚式の準備もありましたから、あっという間に過ぎました。10月に入って結婚式と特伝が終わったら、すぐにクリスマスチラシのデザインに取り掛かりました。そして11月の初めに刷り上がって新聞折込会社へのB4のチラシの折込依頼、それからA4のチラシを田町と新富町と本通方面で戸別投函しました。この戸別投函で田町2丁目、3丁目、4丁目のほとんどの道を歩いて、この地域の地理を知ることができましたから感謝でした。そして11月24日のクリスマス・リース作り、12月8日のハンドベル・コンサート、先週22日のクリスマス礼拝と愛餐会がありましたから、本当にあっと言う間に時が過ぎたと感じています。

 さて、今日の今年最後の礼拝では高津教会からの『聖句百選』という素晴らしい贈り物を皆さんに配布してメッセージを取り次ぐことができることを心より感謝に思っています。

 きょうは次の五つのパート(週報p.2)で話を進めて行きます。

 ①『聖句百選』をどう受け取ったかの告白
 ②「種蒔きのたとえ」の学び
 ③「良い地」に必要な、心の耕し
 ④「良い地」に必要な神の霊の水
 ⑤一つ一つの聖句にじっくり向き合おう

①『聖句百選』をどう受け取ったかの告白
 皆さんに配布した『聖句百選』の中には高津教会からの手紙のコピーも挟んでありますから、先ずはそれをご覧になっていただきたいと思います。静岡に届いたのは11月の終わり頃でした。手紙をお読みします。

(中略)

 この手紙と『聖句百選』を受け取った時の私の中の心の変遷を、これから正直に話します。私の心の中がいかに道端や岩地のように固くて頑なであるか、或いはまた私の心の中にいかに茨がみっしりと繁っているかが良く分かるだろうと思います。

 この『聖句百選』を手にした時の第一印象はとても良かったです。きれいな写真が載っていて紙も厚手の上質なもので、ペラペラした感じがぜんぜんしません。印刷の仕上がりも良くて高級感がありますね。ですから、この『聖句百選』を最初に手に取った時には本当に素晴らしい冊子だなあと、とても感謝に思いました。そして、どんな聖句が選ばれているのだろうかとワクワクしながら、中を読みました。手紙に「一気にすべてを棒読みしてもなんの意味もないと思います」と書いてあるのに、早速私は言うことを聞かないで全部の聖句に一通り目を通しました。すぐに神様に背を向けて神様の言うことを聞かなかった旧約聖書の登場人物たちのようです。

 そして目を通してみて、私の大好きな聖句のいくつかが、百の聖句には含まれていないことを知りました。「え~、何であの聖句が無いの~。あれとあれとあれは絶対に、はずせないでしょう」と思いました。これだけで、いかに私が自分中心であるかが良く分かりますね。旧約聖書の中のイスラエルの民とまったく同じです。そうして自分の好みの聖句が含まれていない、この『聖句百選』が私の中では急速に色褪せて行きました。

 ただし、「こんな風に思うなんて良くないぞ」と、いくら自分中心の私でも、さすがに思いましたから、少し時間を置くことにしました。自分の中で色褪せたものを色褪せたままで皆さんに配るのは高津教会の皆さんに対して、また静岡教会の皆さんに対して、とても失礼だと思いました。届いたから配った、ただそれだけになってしまうのは、高津教会のご好意を無にしてしまうものだと思いました。

 そうして何日かを過ごしているうちに、内からの語り掛けがありました。この『聖句百選』をお配りする日を年末感謝礼拝の29日にして、この冊子を題材にして説教をしようと思いました。その時まで、この冊子について何週間か、思いを巡らす時を持とうと思いました。それで戸塚先生にお願いして追加の部数を送っていただきました。最初に届いたのは、一家に一冊ぐらいの数で、一人一冊には足りなかったからです。一家に一冊ですと礼拝でメッセージを取り次ぐ時に一人一人に手に取って見てもらえませんから、追加分を送っていただくことにしました。

 この12月はハンドベル・コンサートとクリスマス・礼拝がありましたから、そんなにいつも『聖句百選』について思いを巡らしていたわけではありません。それでも主は少しずつ私に語り掛けて下さいました。そして聖書箇所として今日の「種蒔きのたとえ」の記事が与えられました。

②「種蒔きのたとえ」の学び
 聖書朗読では司会者に「種蒔きのたとえ」の記事の後半の部分を読んでいただきました。前半の部分を省きましたから、前半から見て行きたいと思います。マルコの福音書4章1節(新約p.71)から見ましょう。ここでイエスさまは湖のほとりで教え始めました。多くの群衆が聞いていました。イエスさまは多くのことをたとえで教えたと2節にあります。続いて3節から9節までをお読みします。

3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
4 蒔いていると、ある種が道端に落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。
5 また、別の種は土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったのですぐに芽を出したが、
6 日が昇るとしおれ、根づかずに枯れてしまった。
7 また、別の種は茨の中に落ちた。すると、茨が伸びてふさいでしまったので、実を結ばなかった。
8 また、別の種は良い地に落ちた。すると芽生え、育って実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」

 この時点でイエスさまはまだ、この「種」とは「みことば」のことであることを明らかにしていません。そしてイエスさまは9節で「聞く耳のある者は聞きなさい。」とおっしゃいました。ですから、そこに残れば、もっとイエスさまのことばを聞くことができたのですね。でも群衆の多くは帰ってしまいました。続いて10節から

10 さて、イエスだけになったとき、イエスの周りにいた人たちが、十二人とともに、これらのたとえのことを尋ねた。
11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の奥義が与えられていますが、外の人たちには、すべてがたとえで語られるのです。
12 それはこうあるからです。『彼らは、見るには見るが知ることはなく、聞くには聞くが悟ることはない。彼らが立ち返って赦されることのないように。』」

 イエスさまのもとに残り、イエスさまに付き従う者は神の国の奥義を教えていただくことができます。イエスさまに中途半端に近づくだけでは駄目なのですね。イエスさまに食らい付いて行く者だけが奥義を教えていただけます。厳しい世界だなと思いますが、これは信仰の世界だけでなく学校やスポーツや武道、音楽などの芸術の分野でも同じでしょう。ただ漠然とそこにいるだけなら奥義を知ることはできません。先生・師匠に食らい付いて行く者だけが奥義を教えてもらうことができます。続いて13節。

13 そして、彼らにこう言われた。「このたとえが分からないのですか。そんなことで、どうしてすべてのたとえが理解できるでしょうか。

 このマルコの福音書のイエスさまは弟子たちに対して、ちょっと厳しめですね。マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四つの福音書の中で、マルコの福音書のイエスさまが弟子たちに対して一番厳しいように感じます。

 どうしてなのかを想像してみるのも面白いだろうと思います。マルコ本人に聞かなければ本当のことは分かりませんが、使徒の働きによればマルコは、パウロとバルナバと一緒に第一次伝道旅行に出掛けた時に、早々に脱落してエルサレムに帰ってしまいました。パウロはこの時のマルコのことを良く思っていなくて第二次伝道旅行には連れて行かないと言ってバルナバと口論になりました。マルコ本人も、自分のことを不甲斐なく思っていたのだろうなと思います。それでマルコの中ではイエスさまからの厳しい声が聞こえていたのかもしれません。もちろん、これはただの想像ですが、記者の心境がこういう形で福音書に反映されることもあるのではないかという気がします。

 さて、続いて14節以降でイエスさまは、「種」とはみことばであることを明らかにします。14節、

14 種蒔く人は、みことばを蒔くのです。

 続いて15節から20節までを交代で読みましょう。

15 道端に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばが蒔かれて彼らが聞くと、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを取り去ります。
16 岩地に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れますが、
17 自分の中に根がなく、しばらく続くだけです。後で、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
18 もう一つの、茨の中に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたのに、
19 この世の思い煩いや、富の惑わし、そのほかいろいろな欲望が入り込んでみことばをふさぐので、実を結ぶことができません。
20 良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちのことです。」

 高津教会の『聖句百選』を受け取った時の私は、まさに15節から19節までの人たちと同じですね。この冊子のみことばの一つ一つは種です。この種の中に自分の好みの種が含まれていなかったことで、私の中では冊子全体が色褪せたものになってしまいました。もし色褪せたままで皆さんに配布していたら、たぶん私はこの冊子をほとんど活用しなかったでしょう。実を結ぶはずの種が与えられていながら、私はそれを無にしてしまうところでした。しかし、憐れみ深い主は、それを思いとどまらせて下さり、きょうのこのメッセージを取り次ぐ機会を与えて下さいました。

③「良い地」に必要な、心の耕し
 次のパートに移って、「良い地」とはどのような地か?について考えてみたいと思います。

 私は植物の栽培にあまり明るくありませんが、学校の運動場のような所に種を蒔いても実を結ばないことぐらいは分かります。学校のグラウンドは固くしまっていて種は地面の中に入っていきませんし、水も浸み込みにくいです。仮に種から芽が出たとしても学校の生徒たちが走り回るグラウンドでは芽はすぐに踏み潰されてしまいますから、成長して実を結ぶことはありません。

 良い地は、まず適当に耕されている必要があります。土をある程度やわらかくしてあげることで種が地中に入り、水も浸み込んで湿度が適度に保たれますから発芽しやすくなります。

 みことばを受け入れない人の心の表面は学校のグラウンドの乾いた土のようなものです。コチコチに固くなっていて、みことばが心の表面から中の方に入って行くことはありません。先週のクリスマス礼拝ではエレミヤ書18章12節のみことばを引用しました(週報p.2)。

12 「しかし、彼らは言う。『いや。私たちは自分の計画にしたがって歩み、それぞれ、頑なで悪い心のままに行います。』」

 高津教会の『聖句百選』を受け取った時の私もまた、正にこのような者であったと思います。このように神様に背く私の罪のためにイエスさまが十字架に掛かって下さったことを覚えて我に返り、悔い改めました。

④「良い地」に必要な神の霊の水
 「良い地」にはもちろん、水も必要です。水が供給されなければ、芽は出ませんし、たとえ芽が出ても、すぐに枯れてしまいます。みことばの種の場合、この「水」とは「神の霊の水」です。きょうの招きのことばに詩篇1篇の1~3節までを選んだのは、きょうのメッセージに備えていただくためでした。詩篇1章3節(週報p.2)をお読みします。

3 その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び、その葉は枯れずそのなすことはすべて栄える。

 この詩篇1篇は、先週の水曜日の『俳句と詩篇を語る会』でも開きました。その時に3節の「流れのほとり」が新改訳第3版では「水路のそば」になっていたことが話題になりました。「水路のそば」のほうが、そこに水があることが伝わりやすいですね。神の霊の水がある場所に植えられた木は、時が来ると豊かに実を結びます。

 そして聖書交読ではエゼキエル書47章を開きました(旧約p.1501)。ここには神殿から出た水の流れが段々と水量を増して川が深くなって行く様子が描かれています。1節には「水が神殿の敷居の下から・・・流れ出ていた」と書いてありますから、これは神の霊の水です。そして、12節にはこのように書かれています。12節、

12 「川のほとりには、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。」

 ここにも詩篇1篇3節のように、水のほとりでは植物が豊かに身を結ぶことが記されています。この水は聖所から流れ出ていますから、神の霊の水です。このように、豊かに実を結ぶ「良い地」とは、よく耕されていて、且つ神の霊の水がたっぷりと浸み込んでいる地です。

⑤一つ一つの聖句にじっくり向き合おう
 最後のパートに移って、『聖句百選』を改めて眺めてみたいと思います。ここには一つ一つのみことばがランダムに並んでいます。同封されていた手紙にあるように、魂に語りかける神の声として、一つ一つを大切に読みたいと思います。「一気にすべてを棒読みしてもなんの意味もないと思います」と手紙にありますが、その通りだと思います。

 一つ一つのみことばにじっくりゆっくり向き合うことは、ルカ10章のマルタとマリアの姉妹のマリアのように、イエスさまと向き合うということでもあると思います。思えば、この『聖句百選』を受け取った時の私は、バタバタと忙しく働くマルタのようであったと思います。この冊子を受け取ったのは、クリスマス・リース作りを越えて英和の全校修養会が終わったばかりで、次のハンドベル・コンサートに向けて準備をしている時でした。

 静岡教会での今年の行事は私にとっては全てが初めてのことですから、「どうしよう、どうしよう」と戸惑うことが多くて焦り、マルタのように心を乱していたかもしれません。落ち着かない気持ちでこの冊子をパラパラとめくって、自分の思い通りの聖句が含まれていないことを知って心の中で不満をつぶやきました。正に自分の思い通りにならない妹への不満の気持ちを漏らしたマルタのようです。そんなマルタに、そして私にイエスさまはおっしゃいました。

「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」(ルカ10:41~42)

 ですから、私自身も『聖句百選』のみことばに向き合う時にはマリアがイエスさまに向き合っていた時のように、一つ一つの聖句にじっくりと向き合いたいと思います。一つの種にたっぷりと神の霊の水が供給できるように、心を耕し、聖霊に満たされて、良い地を私の内に作りたいと思います。

おわりに

 改めて考えてみると、私の大好きな聖句は、この『聖句百選』に含まれていなくても私の心の中にいつもあるのですから、この冊子に含まれていなくても全然構わないのですね。むしろ、私がこれまであまり気に掛けていなかった聖句の種が、私の心に新たに蒔かれることに感謝しなければなりません。自分の好みの聖句ばかりに思いを巡らすのでなく、このような形で高津教会を通してみことばの種が与えられたことを心から感謝したいと思います。

 皆さんも是非、この『聖句百選』の一つ一つの聖句にしっかりと向き合ってみていただきたいと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りいたしましょう。

「良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちのことです。」(マルコ4:20)
コメント

朝ドラで学ぶキリスト降誕の目的(2019.12.22 クリスマス礼拝)

2019-12-23 06:49:28 | 礼拝メッセージ
2019年12月22日クリスマス礼拝メッセージ
『朝ドラで学ぶキリスト降誕の目的』
【エレミヤ18:1~12(交読)、ルカ2:34~35(朗読)】

はじめに
 きょうの礼拝は神の御子イエス・キリストが降誕したことをお祝いするクリスマス礼拝です。きょうのメッセージでは、神の御子が何のために天から地上に降って来たのかを、いまNHKで放送中の三つの朝ドラを案内役にしながら、共に学ぶことにしたいと思います。きょうは次の5つに分けて(週報p.2)、話を進めて行きます。

 ①信仰も基礎が大切(スカーレット、エレミヤ18章)
  ☆基礎中の基礎=神が人を造った(神は陶器師)

 ②人間はどこまで愚かなのか(ゲゲゲの女房)
  ☆水木しげる『総員玉砕せよ!』の悲劇

 ③人間の力では悪に立ち向かえない(おしん)
  ☆聖霊(キリストの霊)の力が必要

 ④十字架・復活・聖霊降臨の意味を考える
  ☆悪のあぶり出し・全能の神・力ある神の内住

 ⑤心を剣で刺し貫かれた母マリア(ルカ2:35)
  ☆御子の死を活かすために働いた母と弟子たち

 NHKの朝ドラでは今、『スカーレット』が放送されています。そして再放送で夕方の4時20分から『ゲゲゲの女房』が、また朝の7時15分からはBSプレミアムで『おしん』が放送されています。

 ちなみに『ゲゲゲの女房』の脚本を書いたのは大河ドラマの『八重の桜』の脚本も書いた山本むつみさんです。山本さんは大学の剣道部の1年先輩ですから、いつも応援していて、『ゲゲゲの女房』の再放送も全話を録画して見るようにしています。

①信仰も基礎が大切(スカーレット、エレミヤ18章)
 朝ドラの『スカーレット』ではヒロインの喜美子が中学卒業後に先ず下宿の女中になり、次に火鉢の絵付師になり、そして陶芸の道を志すようになります。彼女はそれぞれの仕事の現場で何事も「基礎が大切」であることを学びます。

 きょうは先ずここから、信仰もまた「基礎が大切」であることを学びたいと思います。キリスト教の信仰の基礎中の基礎は、神様が全てのものを造り、人も神様によって造られた、ということです。聖書は『創世記』から始まります。そして創世記1章には神様が空と陸と海を造り、太陽と月と星を造り、植物と動物と人間を造ったことが記されています。聖書の最初にある『創世記』の1章にこのことが記されているということは、神様が全てのものを造り、すべての生き物と人を造って命を与えたことが基礎中の基礎であるということを意味します。

 多くの人は生命が偶然によって誕生し、偶然によって単細胞生物から複雑な器官を持つ生物へと進化して行ったと思っているかもしれません。生命の誕生という、この一点だけに注目するなら、生命は神様が造ったのか偶然によって出来たのかは、何とも言えないというのが本当のところでしょう。しかし聖書を読み、聖書全体を理解するなら「ああ、確かに生命は神様が造ったのだな」と納得できるようになります。空の太陽の動きだけに注目するなら、動いているのは太陽なのか地球なのかは分かりません。しかし惑星の運行に関するケプラーの法則を学び、物体の運動に関するニュートンの法則を学ぶなら、動いているのは地球の方だと分かります。物理学を学ぶなら、天体の運動の背後には重力の存在があることが分かります。それと同じで旧約聖書と新約聖書を学ぶなら、生命の誕生の背後には神様の存在があることが分かります。

 この基礎中の基礎である「神様が人間を造った」ことを念頭に置いて、きょうの聖書交読で読んだエレミヤ書18章を改めて開きたいと思います(旧約p.1323)。

 ここで神様(主)は預言者のエレミヤに陶器師の家に行くように命じました。エレミヤがそこに行くと、陶器師はろくろを回して陶器を作っていました。朝ドラの『スカーレット』でも、ろくろを回している場面がたくさん出て来ますね。そして失敗すると粘土をグシャッと潰します。エレミヤが見た陶器師も同じでした。4節をお読みします。
 
4 陶器師が粘土で制作中の器は、彼の手で壊されたが、それは再び、陶器師自身の気に入るほかの器に作り替えられた。

 そして神様はエレミヤを通してイスラエル人たちに次のように言いました。6節です。

6 「イスラエルの家よ、わたしがこの陶器師のように、あなたがたにすることはできないだろうか──のことば──。見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたはわたしの手の中にある。

 神様は人間を造り、そしてモーセを通じて十戒、すなわち十の戒めをイスラエル人たちに与えました。昔の映画のチャールトン・ヘストン主演の『十戒』をご覧になった方もいるでしょう。しかし、イスラエル人たちは十戒を守りませんでしたから、神様はイスラエルの国をグシャッと潰して造り替えることにしようと考え、エレミヤを通して彼らに警告しました。

 ところが、イスラエル人たちは警告に耳を傾けずに12節のように言いました。12節、

12 「しかし、彼らは言う。『いや。私たちは自分の計画にしたがって歩み、それぞれ、頑なで悪い心のままに行います。』」

 イスラエル人たちは、<神様の言うことを私たちは聞きません>と言いました。<自分たちは神様のご計画には従わずに、それぞれの計画に従って歩み、頑なで悪い心のままに行います>と言いました。このように神様の言うことを聞かないのはイスラエル人たちだけでなく、21世紀の私たちも同じです。私たちは皆、私たちを造り、命を与えて下さった神様に背いて悪いことを平気でする愚かな者たちです。

②人間はどこまで愚かなのか(ゲゲゲの女房)
 次に、いったい人間はどこまで愚かなのかを、『ゲゲゲの女房』から学びたいと思います。この朝ドラ『ゲゲゲの女房』のヒロイン布美枝の夫は漫画家の水木しげるです。水木しげるは『ゲゲゲの鬼太郎』の作者として有名になりましたが、若い時に南方に出征して、敵の爆撃で片腕を失っていました。水木しげるはこの悲惨な戦争体験を描いた戦記物も数多く出版しています。朝ドラでもそれらの戦記物を取り上げていました。その戦記物の一つが『総員玉砕せよ!』で、私もこの漫画を持っています。

 これは実話に基づいていて、赤道付近のパプアニューギニアのラバウルで苦戦していた日本軍の部隊が、最早これまでと玉砕戦を敢行して全員が戦死します。そうして全員が命を惜しまず戦死したことを聞いた後方の部隊は、「ラバウル全軍に与えた感動は大きい。よくやった」と賞賛します。しかし少し後になって実は全員が戦死した訳ではなくて一部の兵が生き残り、次の戦闘に備えていることが分かりました。これを知った後方部隊の上層部は、玉砕した筈なのに生き残った者がいるとなれば軍の士気が下がると怒り、生き残った者たちを処刑することにした、という話です。繰り返しますが、これは実話に基づいています。

 玉砕戦術を取ること自体が現代の目から見れば異常ですし、それを「よくやった」と賞賛するのはさらに異常で愚かです。そして、さらにもっと愚かなのは生き残って次の戦闘に備えている者たちを、軍の士気が下がるという理由で処刑することにしたことです。いったい人間はどこまで愚かなのでしょうか?

 『おしん』の長男の雄も、学徒出陣でフィリピンのルソン島に派遣されて、ジャングルをさまよった末に食べ物が無くて餓死します。また、おしんの夫の竜三は戦争に積極的に協力し、さらに若者たちが戦地に赴くことを奨励しました。そして竜三はその責任を取って終戦の翌日に自決します。朝ドラの『おしん』もまた、戦争が人の心を異常にして、愚かにすることを強烈な形で描いています。

③人間の力では悪に立ち向かえない(おしん)
 おしんは少女時代に、日露戦争の脱走兵だった俊作と山小屋で一冬を過ごしたことがありました。俊作は少女のおしんに勉強を教え、さらに戦争の愚かさも教えました。おしんは俊作から与謝野晶子の詩の『君死にたまふことなかれ』も教えられていました。そんな少女時代を持つおしんでしたが、日本が再び戦争を始めて夫や子供たちが戦争にのめり込んで行くことを憂いつつも、強く反対することができないでいました。周囲が戦争熱に浮かされている時に、一人だけが反対してもまったく無力であることをしみじみと感じていました。

 人間の力は限られています。まして、悪に対してはまったく無力です。闇の世界を支配する悪の勢力は、実に巧妙に人間を悪の道に引きずり込みます。きょうは時間の関係で開きませんが、創世記1章で人間に命を与えた神様は、最初の人間のアダムに創世記2章でエデンの園に住まわせました。そして、一つの木を見せて、この木の実を食べてはならないと命じました。しかし、アダムは神様の命令に背いて創世記3章で食べてはならない木の実を食べてしまいました。どうしてアダムは神様の命令に背いたのか、それは先ず蛇が妻のエバを巧妙に誘惑して彼女に木の実を食べさせ、彼女がアダムに木の実を与えたからでした。

 先ほど開いたエレミヤ書の18章12節で神様に背いて「いや。私たちは自分の計画にしたがって歩み、それぞれ、頑なで悪い心のままに行います」と言ったイスラエル人たちも同じです。皆が闇の世界を支配する悪魔に巧妙に誘惑されて、神様に背くように仕向けられています。この悪の力は巨大ですから人間の力ではとうてい立ち向かうことはできません。ですから悪を倒すのは神様の仕事です。私たち人間は神様に仕え、神様の働きのお手伝いをします。徳川家康の家臣団が家康に仕えたように(12/8のハンドベル・コンサートでのメッセージ)、私たちはイエスさまに仕えます。

 先週の礼拝メッセージで私は、神学校のキャンパスでの3年間の生活がとても苦しくて、早くここから出たいといつも思っていたことを話しました。神学校入学前は世の中の俗的な暮らしにどっぷりと浸かっていた私にとって神学校の生活は本当に大変でした。しかし、世の中の俗的な生活から隔絶された生活をしたことで、世の中がいかに悪の支配下にあるかが良く見えるようになったと思います。この悪の勢力は、俗世間にどっぷりと浸かっているとなかなか見えて来ませんから、3年間の神学校時代は苦しくはありましたが、今振り返ってみると大変に感謝なことであったと思います。イエスさまは昔も今も、この悪の勢力と戦っています。

④十字架・復活・聖霊降臨の意味を考える
 この世界を悪が支配していることは、いま話したように俗的な生活にどっぷりと浸かっていると見えて来ませんが、それをあぶり出す出来事があれば良く見えます。例えば戦争です。『総員玉砕せよ!』はその典型であり、また広島・長崎への原爆投下もその典型です。人間がこのような恐ろしいことを平気で行うのは悪に支配されているからです。戦争はその悪をあぶり出します。

 そして十字架も人間の悪をあぶり出しました。私たち人間は、神の御子のイエス・キリストを十字架に付けて殺してしまいました。21世紀の私たちも同罪です。21世紀の私たちは1世紀の十字架に直接関わっていたわけではありません。しかし、私たちが当時の人々と同じように神様に背いているのなら、私たちも1世紀の人々と一緒にイエスさまを十字架に付けたのと同じです。

 人間を造った神様の御子を十字架に付けて殺してしまうことほど、重い罪はありません。これ以上の悪はないでしょう。当初、人々はこのことの重大さに気付いていませんでした。しかし、十字架で死んだイエスさまが復活して弟子たちの前に現われてからは事態が一変しました。

 ここで信仰の基礎中の基礎である「神様が人を造った」ことを思い出して下さい。神様が人を造り、人に命を与えました。神様は生物がまだいなかった時に生物を造り、人間がまだいなかった時に人間を造りました。そんな神様にとって死んだ人間を生き返らせることぐらい容易なことでしょう。人々が復活したイエスさまと出会ったことは、神様の全能性を人々が再確認する機会ともなりました。

 死んだイエス・キリストが復活して人々の前に現われたことは新約聖書の様々な箇所で証されています。例えばパウロはキリストが五百人以上の兄弟たちに同時に現われた(Ⅰコリント15:6)と手紙に書いています。

 そしてパウロ自身も復活したイエス・キリストに出会いました。キリストに出会うまでのパウロはクリスチャンを迫害する側の人間でした。しかしキリストに出会ってからのパウロの人生は180度方向転換して、今度はキリスト教を宣教する側の人間になりました。人の人生が180度変わるということは、余程の体験があったということです。その体験が復活したイエス・キリストと出会ったことであることをパウロ自身が証言しています。この復活証言は神が全能であることの証でもあり、神が人間を造ったことの証でもあります。

 さて、復活したイエスさまに出会った弟子たちはその後、聖霊を受けて力強く宣教を始めました。聖霊を受けた者は悪の支配から解放されて、イエスさまと共に力強く働くことができるようになります。

 先ほどの3番目のパートでは『おしん』を例に引いて、人間の力では悪に立ち向かうことはできないと言いましたね。悪の力は巨大ですから人間だけでは悪に簡単に負かされてしまいます。しかし、聖霊を受けるなら力強い神がその人の内に住むようになりますから、悪と戦うイエスさまと共に私たち人間も戦うことができるようになります。

⑤心を剣で刺し貫かれた母マリア(ルカ2:35)
 イエスさまの弟子たちは聖霊を受けて力強く宣教を開始しました。彼らは先ずはイエスさまを十字架に付けたエルサレムの人々に向けて話しました。一番弟子のペテロは言いました。

「神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです」(使徒2:36)

 そして、このペテロのことばを聞いたエルサレムの人々は「心を刺された」と聖書は記しています。神様はひとり子のイエスさまを救い主として、この世に送りました。その救い主を自分たちは十字架に付けて殺してしまったのだとエルサレムの人々は悟り、心を刺されて胸を痛めました。ペテロたちもまたイエスさまが逮捕された時には逃げ出してしまっていましたから、心を刺されていました。

 しかし、最も心を刺されて胸を痛めていたのはイエスさまを生んで育てた母マリアでしょう。マリアの心を剣がさし貫くことは、イエスさまがまだ赤ちゃんの頃に預言されていました。きょうの聖書箇所のルカの福音書2章34節と35節を、もう一度お読みします。

34 シメオンは両親を祝福し、母マリアに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。
35 あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」

 34節の後半でシメオンは、この子は、「人々の反対にあうしるしとして定められている」と母マリアに言いました。この予告通りにイエスさまは人々に十字架に付けられて殺されてしまいました。そうして我が子を殺された母マリアの心を剣が刺し貫きました。

 現代においても、自分の子供を事故や事件や病気で亡くして心を刺された母親たちがたくさんいます。そして、その悲しみと痛みを味わった母親たちの多くは、その悲劇を無にせず活かすための活動を始めます。例えば過酷な残業による過労で自死した女性のお母さまは、同じ悲劇が繰り返されないようにと、過労死を防ぐための活動をしています。

 先週届いた『クリスチャン新聞福音版』の最新号には翻訳者の中村佐知さんのインタビュー記事が出ていました。中村さんの次女の美穂さんは21歳だった3年前にスキルス胃がんで亡くなりました。この秋、中村さんは『隣に座って スキルス胃がんと闘った娘との11か月』(いのちのことば社)という本を出版して、共にいて下さった神様への信仰の証を立てられています。

 イエスさまの母のマリアもイエスさまの十字架・復活の後で弟子たちと共に祈っていたことが聖書に記されています。その弟子たちにマリアはイエスさまが幼かった頃のことを証言したことでしょう。ルカの福音書にはマリアの証言が記されています。そのマリアの証言があるから、私たちはイエスさまが生まれた時のことを知ることができ、クリスマスでお祝いすることができます。もし剣がマリアの心を刺し貫いていなければ、マリアの証言は残されていなかったかもしれません。マリアは我が子の死を無にせずに活かすために、教会の働きに積極的に加わったのだと思います。

おわりに
 きょうは神の御子のイエスさまが降誕したことを祝うクリスマス礼拝です。お祝いの日のメッセージにしては少し暗かったかもしれません。しかし、十字架によって人々の心の闇があぶり出されて露わになり、そこから新しい光の時代が始まりした。

 人は悪の支配下にあることに気付かずに日々を過ごしており、それゆえに様々なことに苦しんでいます。イエスさまはその苦しみの根源である悪をあぶり出し、光の下へと救い出すために、この世に来て下さいました。イエスさまは世の光です(ヨハネ8:12、9:5)。ですから私たちは、世の光であるイエスさまのご降誕を心一杯お祝いしたいと思います。

 しばらく、ご一緒にお祈りしましょう。
コメント

なぜ福音書は13~29歳のイエスを描かないのか?(2019.12.15 礼拝)

2019-12-16 08:49:17 | 礼拝メッセージ
2019年12月15日アドベント第三礼拝メッセージ
『なぜ福音書は13~29歳のイエスを描かないのか?』
【ルカ2:41~52】

はじめに
 きょうの聖書箇所にはイエスさまが12歳の頃のことが記されています。これはルカの福音書だけの記事です。マタイ・マルコ・ヨハネの福音書には書かれていませんから、ルカのこの12歳のイエスさまについての記述はとても興味深いものです。そして、ここを読むと15歳の時のイエスさま、20歳の時のイエスさま、25歳の時のイエスさまのことも知りたくなります。しかし、ルカは12歳の時のことしか書いていません。どうしてルカは12歳のイエスさまのことは書いたのに、それ以外の年齢のイエスさまについて書かなかったのでしょうか?

 きょうは、この素朴な疑問を出発点にして、週報p.2に載せた六つのパートで話を進めて行きます。

 ①15歳、20歳、25歳のイエスも知りたいのに・・・
 ②発信だけなら20歳でも開始可能な宣教
 ③イエスと弟子たちの日々を証した福音書
 ④イエスの風貌を描かない福音書
 ⑤読者がイエスと霊的な関係を築くための書
 ⑥イエスと私の日々を俯瞰的に証してみよう

①15歳、20歳、25歳のイエスも知りたいのに・・・
 ルカの福音書によれば、イエスさまが人々に教えを説き始めたのはおよそ30歳の頃でした。ルカ3章23節に、「イエスは、働きを始められたとき、およそ30歳で」と書いてあります。そしてマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四つの福音書はどれも30歳の頃のイエスさまについての記述が大半です。例えばマルコの福音書は、いきなり30歳の頃のイエスさまから始まります。マタイはイエスさまが生まれる前後のことを書いていますが、やはり子供時代は描いていません。ヨハネも子供時代のイエスさまを描いていません。一方でルカだけは12歳のイエスさまを描いています。

 先ずはこの箇所を確認しておきましょう。ルカ2章41節、

41 さて、イエスの両親は、過越の祭りに毎年エルサレムに行っていた。

 イエスさまの両親のヨセフとマリアは過越の献げ物を神殿に献げるために毎年ナザレからエルサレムに上っていました。この時期にはエルサレム以外に住んでいるユダヤ人たちも続々とエルサレムに上って行きました。ちなみにイエスさまが十字架に掛かったのも過越の祭りの時でしたから、エルサレムの住民だけでなく大勢のユダヤ人たちがイエスさまの十字架を目撃したのでした。

 さて、イエスさまが12歳になった時に、ある事件が起こりました。43節から書かれているように、祭りが終わって両親はエルサレムを離れてナザレへ向かっていましたが、そこにイエスさまはいませんでした。祭りの時は家族単位ではなくて、もっと大きな集団で移動していたようです。少年もたくさんいたのでしょうね。それで気付くのが遅くなってしまいました。両親は45節にあるようにイエスさまを捜してエルサレムまで引き返しました。そして46節にイエスさまが「宮」にいたと書いてあります。「宮」というのは神殿のことです。

 母のマリアは少年のイエスさまに言いました。「どうしてこんなことをしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです。」するとイエスさまは答えました。「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」

 これが、イエスさまが12歳の時の出来事です。では、なぜルカはこの12歳のイエスさまのことを記録しておく必要を感じたのでしょうか?推測するしかありませんが、ここを読むと、12歳のイエスさまは自分が神の子であることを自覚していました。49節に「わたしが自分の父の家にいるのは当然である」とあります。神の箱が置かれている神殿を「父の家」と言った12歳のイエスさまは自分が神の子であることに気付いていました。もっとずっと幼かった頃は気付いていなかった筈ですから、12歳の少し前ぐらいから自分は神の子であるとハッキリと自覚するようになったのではないか、そんな風に考えられます。

 では、なぜルカは15歳や20歳のイエスさまのことを描かなかったのでしょうか?私はその頃のイエスさまのことも知りたいです。皆さんも同じだと思います。ルカは51節に「母はこれらのことをみな、心に留めておいた」と書いていますから、ルカは12歳以外の少年時代のイエスさまのことも調べて知っていたと思われます。しかし、ルカはそれらを書きませんでした。マタイもマルコもヨハネも書きませんでした。どうしてなんでしょうか?
 
②発信だけなら20歳でも開始可能な宣教
 なぜ福音書の記者たちが12歳のことを除けば赤ちゃん時代と30歳以降のイエスさまのことしか書かなかったのでしょうか?私はあれこれ思いを巡らしました。すると、また別の疑問が浮かんで来ました。なぜイエスさまは30歳で教えを説き始めたのでしょうか?47節には、「聞いていた人たちはみな、イエスの知恵と答えに驚いていた」と書いてありますから、12歳のイエスさまは既に十分な知恵と知識を持っていました。ですから、30歳にならなくても、もっと若い時代に宣教を開始することもできた筈です。

 いま環境問題のことで、16歳のスウェーデン人のグレタ・トゥーンベリさんの発言と行動が非常に注目されていますね。16歳でも大きな発信力を持っていることが分かります。グレタさんは、大人たちが本気になって地球温暖化対策に取り組んでいないことに怒っており、このグレタさんの発言と行動が共感を呼んでグレタさんを支援する人々がたくさんいます。

 或いはまた、パキスタン人のマララ・ユスフザイさんは17歳でノーベル・平和賞を受賞しました。彼女もまた大きな発信力を持つ女性です。マララさんはパキスタンでは子供、特に女の子が教育を受けられないことで国が悲惨な状況から抜け出せないでいる現状を変えるよう勇敢に訴え続け、銃弾を受けて命を落とし掛けてもなお沈黙せずに訴え続けました。マララさんがノーベル平和賞を受賞した年の2014年の国連演説は日本でも大きく報じられましたね。この演説の最後で彼女は次のように訴えました。

One child, 1人の子供、one teacher, 1人の教師、one pen 1本のペン、and one book can change the world.そして1冊の本が世界を変えます。 Education is the only solution. 教育こそがただ一つの解決策です。Education First.教育を第一にすべきです。

 こう言ってマララさんは、子供の教育の重要性を訴えました。このマララさんやグレタさんの例からも分かるように、十代の後半でも大きな発信力を持つ人はいます。ましてイエスさまは神の御子ですから、20歳ぐらいで十分に宣教の開始が可能であったと言えるでしょう。しかし、イエスさまが働きを始めたのは、およそ30歳の時でした。

③イエスと弟子たちの日々を証した福音書
 イエスさまの宣教が30歳でようやく始まったのは何故か、そのヒントはマルコの福音書にあるように思います。マルコの福音書1章の14節から20節までを交代で読みましょう(新約p.65)。

14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。
15 「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」
16 イエスはガリラヤ湖のほとりを通り、シモンとシモンの兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
17 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
18 すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。
19 また少し先に行き、ゼベダイの子ヤコブと、その兄弟ヨハネをご覧になった。彼らは舟の中で網を繕っていた。
20 イエスはすぐに彼らをお呼びになった。すると彼らは、父ゼベダイを雇い人たちとともに舟に残して、イエスの後について行った。

 この箇所には、マルコの福音書でのイエスさまの第一声と第二声が記されています。第一声は、「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」でした。これだけなら、20歳のイエスさまでも大丈夫でしょう。しかし、第二声の「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」は、どうでしょうか?20歳のイエスさまに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」と言われて付いて行く大人は少ないかもしれませんね。子供なら付いて行くでしょうが、誘拐犯と間違われてしまうかもしれません。

 ここから、イエスさまが宣教を開始したのが30歳頃だった理由が分かります。「わたしについて来なさい」と言って、ペテロやアンデレ、ヤコブやヨハネが直ちに付いて行くためには、30歳のイエスさまが必要だったのでしょう。

 そして、このことから福音書がどういう書物であるかということも見えて来ます。福音書が地上生涯のイエスさまの伝記であるなら、ルカは少年時代のイエスさまについて、もっとたくさん書いたでしょう。しかし、ルカは書かず、マタイもマルコもヨハネも書かなかったということは、福音書はイエスさまの伝記ではなくて、イエスさまと弟子たちの日々を書いている書であるということでしょう。

④イエスの風貌を描かない福音書
 このように福音書の記者たちが少年時代のイエスさまを12歳以外は書いていないことから、福音書がどういう書物かが分かって来ます。そして、福音書はイエスさまの風貌もを一切描いていません。イエスさまは背が高かったのか低かったのか、髪は長かったのか短かったのか、髭を生やしていたのかいなかったのか、そういうことを一切描いていません。このことからも、福音書がどのような書であるかが、さらに浮かび上がって来ます。それは、「福音書は読者の私たちがイエスさまと霊的な関係を築くための書である」ということではないでしょうか。

 イエスさまはいつも私たちと共にいて下さると、キリスト教は教えます。そのいつも共にいて下さるイエスさまの風貌が自分の好みでなかったら嫌ですよね。風貌が却って日本人への伝道の邪魔をしている恐れがあります。日本人がイエスさまを受け入れない理由の一つに、西洋風のイエスさまの風貌が出回っているせいではないかと、私は思うほどです。

 実際、イエスさまを信じる前の私は髪が長くて髭面のイエスさまのことを胡散臭く思っていました。しかし、イエスさまと霊的な関係を築いてからは、西洋風のイエスさまを自分とは無関係と思うようになりましたから、気にならなくなりました。

 日本の教会の多くは西洋風のイエスさまの絵を何らかの形で掲げていると思います。それが良いのか悪いのか。ある人々には良いのかもしれませんが、ある人々には、もしかしたら良くないのかもしれない、そんな風に私は思っています。

 一つ確かに言えることは、福音書はイエスさまの風貌を一切描いていないということです。ここから汲み取るべきことがあるのではないかと思います。

⑤読者がイエスと霊的な関係を築くための書
 ここで改めて、福音書とは読者がイエスさまと霊的な関係を築くための書であることについて、ご一緒に考えてみたいと思います。

 四つの福音書の中で最も早く書かれたのは恐らくマルコの福音書です。ただし、最も早いと言っても、どんなに早くても紀元50年代の後半でしょう。と言うことは、一番早いマルコの福音書でさえ書かれたのはイエスさまが十字架で死んで復活した時から30年近く経ってからということです。

 イエスさまの十字架から30年経てばイエスさまを直接知っている人々も高齢化しますし、紀元50年代から60年代に掛けてはローマ皇帝のネロによる迫害も厳しかった時期ですから、弟子たちは次々と死んで行きました。そういう中でイエスさまについて書き残す必要があったのだと思いますが、単にイエスさまの生涯の記録を伝記のような形で残すのではなく、福音書を読んだ読者もまたイエスさまに付いていく、そんな書を書く必要がありました。ただしイエスさまはもう天に帰っていますから、地上のイエスさまではなくて天のイエスさまに付いて行く、そういう書です。つまり読者は天におられるイエスさまと霊的な関係を築く必要があります。それゆえ福音書は極めて霊的な書です。

 福音書が霊的な書であることは、マルコの福音書の最初を見ても分かります。マルコの福音書は1章8節という早い段階で、バプテスマのヨハネのことばの次のことばを引用しています(週報p.2)

8 私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、この方は聖霊によってバプテスマをお授けになります。

 このようにマルコの福音書は、イエスさまが聖霊のバプテスマを授けるお方であることを非常に早い段階で宣言しています。このことを決して軽視してはなりません。私たちはマルコが、イエスさまが聖霊のバプテスマを授けるお方であることを早い段階で宣言していることを重く受け留める必要があります。そうして私たちはイエスさまと霊的な関係を築く必要があります。

⑥イエスと私の日々を俯瞰的に証してみよう
 イエスさまは天に帰る前に、弟子たちに言いました。「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)

 このことばを受けた弟子たちはイエスさまの証人となり、イエスさまを証言しました。そして、ペテロやヨハネの次の世代、そして次の次の世代の弟子たちはイエスさまとの霊的な出会いを経験して霊的な関係を築き、そのことの証人となり、それらが次の弟子、次の弟子へと引き継がれて来ました。ですから21世紀の私たちもイエスさまとの霊的な関係を築き、そのことの証言をしたいと思います。

 教会はもっともっとイエスさまとの霊的な出会いについて証言すべきだと思います。ただし、救いの証だけだとワンパターンになりがちかもしれません。そこで私がお勧めしたいのは、自分自身とイエスさまとの日々を俯瞰的に見て、その証言をしたらどうでしょうか、ということです。俯瞰的に見るとは、私とイエスさまとの関係を上から客観的に第三者的な目で見るということです。

 イエスさまが自分を守って下さっていたことを、その時には気付いていなくても、後になって気付くこともあるでしょう。それらについて証言するなら、証すべきことはたくさんあるでしょう。救われた時の証は一つしかできませんが、イエスさまが共にいて下さったことの証なら、たくさんあるはずです。過去を振り返るなら自分自身のことも第三者的な目で見ることができます。

 例として、私自身の神学生時代の証をします。私は神学校で学んでいる間は、早くそこから出たくて仕方がありませんでした。私が神学校に入学したのは48歳の時です。それまで自由気ままに暮らしていましたから、神学校の男子寮での団体生活はとても大変でした。しかし、今年の夏に1泊2日の卒業生リトリートがありましたから神学校を訪れました。そして神学生時代の生活を振り返ることができました。そして、私が神学校で過ごした3年の間、神様が私を愛していて下さり、私はその神様の愛に包まれながら聖書の学びや奉仕をしていたのだなということをしみじみと感じて、とても感謝に思いました。

 神学校にいる間、本当に早く出たくて仕方がありませんでしたが神様はそんな私を温かく見守り、豊かな愛を注いでいて下さいました。私の神学生生活は神様の豊かな愛の中で過ごすことができた素晴らしい時であったと今は思っています。

 また、神学校ではこんなこともありました。私の神学校生活で最も苦しかったのは1年生の時でした。入学直前まで自由な生活をしていたこともありますが、苦痛の最大の理由は日曜日に奉仕する教会が神学校と同じキャンパス内の教会だったことでした。奉仕先が神学校の外の教会なら電車に乗って遠くに行けて、それが気晴らしにもなります。しかし、奉仕先が神学校の教会だと1週間の7日間、ずっと神学校のキャンパスの中にいなければなりません。これは大変な苦痛でした。そんな私をイエスさまは次のような形で励まして下さいました。

 1年生の最後の3月でしたが、卒業生が企画する伝道会が教会でありました。その年の卒業生の一人に須郷裕介先生がいました。須郷先生は神学校に入学前は劇団四季のミュージカル俳優をしていました。そして、この伝道会では須郷先生が脚本を書いた「靴屋のマルチン」の劇が演じられました。主役のマルチンを須郷先生が演じて、私もマルチンの友人役で出演しました。この時の須郷先生の演技が素晴らしいものであったことは言うまでもありませんが、教会の多くの方がどういうわけか私の演技も誉めて下さいました。最初はお世辞だと思っていたのですが、2週間ぐらい経った後でも、「あの時の演技は良かったですね」と私に言って下さる方がいて、とてもうれしく思いました。今になって考えると、あの時、イエスさまが教会の方々を通して、苦しい中にいた私のことを励まして下さっていたんだなと思います。そんな優しいイエスさまに心から感謝しています。

 こんな風に自分の過去を客観的に振り返って見ると、イエスさまが自分を守って下さっていたこと、励まして下さっていたことなど、いろいろと思い当たることがあるのではないでしょうか。来年はそんな証を皆さんにたくさんしていただけると感謝だなと思います。

おわりに
 イエスさまは弟子たちに、イエスさまの証人になるように言いました。そうして福音書はイエスさまと弟子たちの日々を証言しています。私たちもまた、イエスさまが日々の私たちの暮らしに霊的に寄り添って下さっていることを証したいと思います。そうしてイエスさまのことを周囲の方々にお伝えできたらと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りいたしましょう。
コメント

神様に喜ばれるために(2019.12.8 礼拝)

2019-12-09 06:43:37 | 礼拝メッセージ
2019年12月8日アドベント第二礼拝メッセージ
『神様に喜ばれるために』
【マタイ25:14~23】

はじめに
 きょうのメッセージのタイトルの『神様に喜ばれるために』は、先月11月26日の英和女学院の全校修養会の日にあった講演のタイトルです。講師はフェリス女学院大学の学長の秋岡陽先生でした。とても良い講演でしたから、きょうは教会の皆さんとも、その講演の一部を分かち合いたいと思います。講演会で話されたことを簡単に紹介しつつ、それを聞いて私自身が示されたことを自由に話したく思います。自由に話しますから、秋岡先生の話の意図から逸脱する点もあるかもしれません。そのことを予め、お断りしておきます。

 私が英和女学院の校内に入ったのは今年の7月が初めてでした。宗教部長の先生にご挨拶に伺いました。しかし、英和女学院が駿府城の外堀のすぐ近くの西草深にあることは子供の頃から知っていました。子供の頃、私は大岩2丁目に住んでいて、そこから静岡駅方面へのバスに乗ると、バスは英和女学院とNHK前を通って行ったからです。小学生の頃にはまだ車掌さんがいて、長谷通りのバス停を過ぎると、「次は英和女学院、英和女学院です」と車掌さんが言っていました。

 そういうわけで、私は英和の中には今年初めて入りましたが、どこにあるのかは子供の頃から知っていました。先月の全校修養会の講演は英和の礼拝堂で行われて、生徒と先生方、招かれた牧師約20名の全員が約1時間の講演を聞きました。きょうは、この講演の内容を題材にして示されたことを、次の四つのパートで話して行きます。

 ①非常に良かった地上の理想郷の、再建計画
 ②神様からの呼び掛けに耳を澄ます
 ③神様から預かった才能をどう使うか
 ④主君の喜びを共に喜ぶ幸い

①非常に良かった地上の理想郷の、再建計画
 講演の最初の方で秋岡先生は、創世記1章に触れていました。それで、きょうの礼拝の最初の招きのことばは、創世記1章の最後の節の31節としました。

31 神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。

 神様はすべてのものを造られました。私たち人間も神様によって造られました。ですから神様は私たちのことをとても愛して下さっています。そして神様は、ご自身が造られたものを見て「非常に良かった」と、とても満足しておられました。

 今回、このメッセージを準備していて、この創世記1章31節の大切さを私は改めて強く感じました。そして、神様はこの地上の理想郷を再建したいのだなと改めて思いました。きょうの午後のハンドベル・コンサートのクリスマス・メッセージでは黙示録21章を抜粋して引用します。その部分をお読みします(週報p.2)。

1 私(ヨハネ)は、新しい天と新しい地を見た。
2 私はまた、聖なる都が、天から降って来るのを見た。
4 神は人々の目から涙を、ことごとくぬぐい取ってくださる。
 もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。
27 しかし、すべての汚れたもの、また忌まわしいことや偽りを行う者は、決して都に入れない。

 このように、新しい天と新しい地では、天の国が地上に降って来ます。これが、神様が考えておられる最終形です。私たちの多くは死んだら天国に行くと思っていますね。確かにそうなのだと思いますが、天国はずっと天にあるのではなく、最終的には地上に降って来て、地上と一つになります。これはエデンの園という、かつてあった地上の理想郷を再建することだとも言えるのではないでしょうか。

 私たちは「主の祈り」で「御国を来たらせたまえ」と祈りますね。これは「御国が来ますように」ということです。これは聖霊が天から地上の私たちに降りますようにという意味もあると思いますが、最終的には聖霊の派遣元の天の御国そのものが地上に降って来て、エデンの園のような地上の理想郷が再建されますように、という祈りだと思います。

 そういうわけで、神様がこの最終形を目指しているのなら、私たちもそのために働くべきではないでしょうか。自分と家族が救われて天国に行ければメデタシメデタシではなくて、私たちは地上の理想郷の再建のために働くべきではないでしょうか。それが、神様が喜ばれることではないか、と私は示されています。

②神様からの呼び掛けに耳を澄ます
 先月の英和の講演は、英和の中高生に向けたものです。生徒たちの大半は、まだ将来が定まっていません。自分がどの方向に進むべきか、悩んでいる中にあります。そんな生徒たちに秋岡先生は、神様は一人一人に呼び掛けて下さる方だと話されました。静岡英和女学院も、神様がカナダ人宣教師のカニングハム先生に呼び掛けたことで開校されました。

 そして講演で先生はサムエル記第一3章10節の「お話しください。しもべは聞いております」を引用していました。それできょうの聖書交読では、この第一サムエル3章の1節から10節までをご一緒に読みました(旧約p.483)。

 ここで、主はサムエルに呼び掛けています。その頃は、1節にあるように主のことばは稀にしかなく、またサムエルもまだ少年であったために、自分に呼び掛けているのは祭司のエリだとサムエルは思っていました。しかしエリに教えられて、主の呼び掛けであると分かり、サムエルは主に「お話しください。しもべは聞いております」と言いました。

 その同じ主が、私たちの一人一人に対しても呼び掛けて下さっています。旧約のエリの時代には主のことばは稀にしか無かったと書いてありますが、イエスさまが地上に来られてからは、イエスさまはいつも私たちと共にいて下さり、私たちに呼び掛けて下さっています。

 このイエスさまの声に耳を澄まして、自分がどうすれば良いか導いていただきたいと思います。ただ、そんなにハッキリと導きの声を聞けることは稀でしょう。秋岡先生は、先ずは自分がどんなことに関心があり、どんなことがしたいのかに気付くことが大事であると話しておられました。自分が何に関心を持っているのかに気付くなら、その関心を持っていることに携わるためには、どうしたら良いか追い追い分かって来ます。すぐには分からなくても、段々と分かって来ます。

 中高生の時代を過ぎた私たちも、しばしば進行方向に迷いますから、私たちもまた主の語り掛けに耳を済まして導いていただきたいと思います。

 また、その際には自分が「土の器」(Ⅱコリント4:7)であることを自覚することも大切であると秋岡先生は話していました。将来何かをする時、それは自分が輝くためではなく、神様の栄光を現すためであるとおっしゃっていました。土の器は輝きませんから、目立ちません。土の器は神様の栄光を盛り、輝かせるものであるということを教えていただきました。

③神様から預かった才能をどう使うか
 そして講演会では、神様に喜ばれるためには、神様から預かった才能をしっかりと使う必要があるということも話されました。

 聖書箇所のマタイ25章14節から23節までを見て行きましょう。まず14節から18節までを交代で読みましょう(新約p.53)。

14 天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。
15 彼はそれぞれその能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡して旅に出かけた。するとすぐに、
16 五タラント預かった者は出て行って、それで商売をし、ほかに五タラントをもうけた。
17 同じように、二タラント預かった者もほかに二タラントをもうけた。
18 一方、一タラント預かった者は出て行って地面に穴を掘り、主人の金を隠した。

 ここで「タラント」は「タレント」、すなわち「才能」として読むと良いでしょう。神様は私たちの一人一人に才能を与えて下さっています。5タラントのしもべには多くの才能が与えられていました。2タラントと1タラントのしもべは5タラントのしもべほどではありませんが、それでも、それは決して小さなものではありません。15節のタラントに星印が付いていますから、下の注を見ると、「1タラントは6千デナリに相当。1デナリは当時の一日分の労賃に相当」とあります。

 今の日本では1日分の労賃はどれぐらいでしょうか。計算しやすいように時給が1000円だとすれば8時間働いて8千円です。すると6千デナリは4,800万円です。

 つまり1タラントのしもべにも、神様は五千万円近くを預けて下さいました。これはかなりの金額ですね。神様は最低でも、それほどのものを与えて下さっているのですから、この才能を使って神様のために働かなければなりません。

 さて5タラントのしもべはそれを使って商売をして、5タラントのもうけを出しました。何億円ももうけたということですから、すごいですね。2タラントのしもべも1億円近くのもうけを商売で出しました。

 それで、主人が帰って来た時に、このことを報告すると、主人は喜び、5タラントと2タラントのしもべの両方に同じことを言ってねぎらいました。21節と25節ですね。

21,25 主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

 神様にこんな風に労われたら、うれしいですね。一方、1タラントのしもべは預けられた才能を使うことなく地中に埋めてしまいましたから、神様を怒らせてしまいました。神様に喜ばれるためには、私たちは預けられた才能を使う必要があります。

④主君の喜びを共に喜ぶ幸い
 きょうの午後のコンサートのクリスマス・メッセージでは、『イエヤスの天下統一とイエスの天地合一』というタイトルで10分間、話をする予定です。教会は初めて、という方もコンサートに来て下さると期待しています。静岡は徳川家康が幼少期と晩年を過ごした土地ですから、静岡の人には馴染み深い人物です。この家康とイエスさまとは色々と共通点が多いと思いますから、午後は家康とイエスさまとを比べながら話を進めて行くことにしています。

 家康はキリスト教を禁止して多くのクリスチャンを迫害しましたから、クリスチャンから見ると「何だかなあ」という感じもしますが、戦国時代を終わらせて戦争のない平和な時代を築いたという点では大きな働きをしたと思います。この家康には多くの家臣たちが仕えていて、家康の平和を作る働きのために貢献しました。一人一人の家臣には異なる才能が与えられていましたが、その才能を使って家康の平和の働きを助けました。

 私は、この戦国時代や江戸時代の主君と家臣との関係を、キリスト教を理解してもらうことに用いたいと、ここ何週間かで考えるようになりました。「イエスさまを信じれば罪が赦されて天国に行けます」というメッセージももちろん良いのですが、伝道に行き詰まり感がある現代は、他の方法も考える必要があると思います。

 先週話しましたが、人々の多くは他人のために働きたいという気持ちを強く持っていると感じます。先週は被災地に続々と向かうボランティアの話をしました。そのように困っている人のために働きたいという気持ちを持っている人々がたくさんいます。そして、ボランティア作業を通じて被災地の人々と触れ合い、感謝される中で逆に力をもらっているという話をしました。

 きょうは若いスポーツ選手たちを例に挙げたいと思います。甲子園に出場する球児たちや、若いオリンピック選手などは良く「自分のプレーで人々を元気にしたい」ということを言います。一昔前までは、こういうことを言う若い人は、いなかったように思います。やはり阪神淡路大震災以降でしょうか。東日本大震災の後からは、このようなことを言う若いスポーツ選手が特に増えたように感じます。

 一昨日だったでしょうか、女子プロゴルファーの渋野日向子選手がふるさとの岡山に帰郷して大歓迎を受けたというニュースが報じられていました。渋野選手は今年、メジャー大会の全英女子オープンで優勝したことから一躍有名になりましたが、プロになるためのテストに合格したのは去年の7月の末だったそうです。

 去年の7月の始めには西日本豪雨があって岡山も甚大な被害を受けましたから、まだプロになっていなかった渋野選手は被災地で復旧の手伝いをしないでゴルフをしていて良いのだろうかと悩んだそうです。しかし、地元の人々から「プロテスト頑張って」と言われて、自分が頑張ることで地元の人たちを元気にしたいと考えるようになったということです。全英オープンを戦っていた時も、その気持ちを持ち続けていたそうです。ですから、このことが自分を励ますことにもなり、今年の活躍につながったのだと思います。

 繰り返しますが、一昔前までは、自分が頑張ることで周りの人々を元気付けたい、勇気を与えたいなどと言う若い人はほとんどいなかったと思いますが、今の若い人の多くはこのようなことを言います。今の若い人々は、周囲の人々のために働き、それによって自分自身も励まされたいと思っている人が多いのだなと改めて感じます。今は自分の活動している姿の動画をSNSで気軽に世界中に発信できますから、通信技術の発展の影響も大きいのだろうと思います。
 
おわりに
 そのように、人々に元気を与えるために頑張り、さらにそのことで自分もまた元気をもらいたいという気持ちが強い現代の人々に向かって、イエスさまが地上の理想郷を再建するために働いておられることをお知らせすることは、とても良い知らせになるのではないかという気がしています。理想郷の再建のために働くイエスさまに仕えて、与えられた才能を使うことは、とても働き甲斐があることではないでしょうか。イエスさまを信じて自分と家族が天国に行ければメデタシメデタシではなく、イエスさまの家臣として仕え、イエスさまのために働くなら、もっと大きな喜びが得られるはずです。

 主人は5タラントと2タラントのしもべに言いました。「主人の喜びをともに喜んでくれ。」しもべが良い働きをすることは主人の喜びです。しもべもまた、主人のために喜んで働きます。その主人に「主人の喜びをともに喜んでくれ」と言われたら、喜びは倍増するでしょう。喜びがさらに喜びを生む好循環が生まれます。

 神様に喜んでいただくために、私たちは何をすれば良いでしょうか。中高生たちは正に今、そのことを真剣に考えています。そのために神様の呼び掛けに耳を澄まして、導きを仰ぎます。そして、中高生の時代を過ぎた私たちも、それぞれの残された人生で何をすれば神様が喜んで下さるのか、神様の声に耳を澄ましながら、歩んで行きたいと思います。そうして、神様と喜びを共にしたいと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらく、ご一緒にお祈りいたしましょう。

『よくやった。良い忠実なしもべだ。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
コメント

万人の帰郷のために降誕したイエス(2019.12.1 礼拝)

2019-12-02 15:23:28 | 礼拝メッセージ
2019年12月1日アドベント第一礼拝メッセージ
『万人の帰郷のために降誕したイエス』
【ルカ15:11~24】

はじめに

 先週はローマ教皇の訪日に合わせてルカ15章から離れましたが、きょうはもう一度、ルカ15章の「放蕩息子の帰郷」に戻ります。きょうで、このシリーズは終わりにする予定です。

 このシリーズの1回目では、15章の25節以下の兄息子と父親との会話を聖書箇所にして、兄息子はユダヤ人で弟息子は異邦人、すなわち創世記の時代に父の家を出た異邦人である、という読み方の説明をしました。

 このシリーズの2回目では、「放蕩息子の帰郷」の例え話の前にある、「百匹の羊」と「十枚の銀貨」の例え話の部分を聖書箇所にしました。そして、ここでも野にいる99匹の羊がユダヤ人で、野から迷い出た一匹が異邦人であるという読み方をしてみたいという話をしました。ユダヤ人は律法を守っていますから、迷い出た一匹を捜すために野に残しておいてもいなくなる心配はありません。それで羊飼いは安心して一匹を捜しに行くことができます。

 ただし、ユダヤの家の中にいてもいなくなってしまうことがあります。それが家の中で失われた銀貨です。取税人のザアカイのような罪人が、この家の中で失われた銀貨に当たるでしょうという話をしました。

 そして、これら一匹の羊、一枚の銀貨が見つかった時、天は大喜びするということが書かれています。私たちの一人一人もかつては野から迷い出た一匹の羊でした。イエスさまはこんな私たちを捜しに来て下さり、救い出して下さいました。そして、小さな私一人のために天は大喜びをしました。本当に素晴らしい恵みだと思います。いま教会につながっている私たちは、まだイエスさまを知らない方々に伝道することで、天と喜びを分かち合いたいと思います。

 きょうは、ルカ15章の残りの箇所の弟息子が父の家に帰って来た場面を聖書箇所としました。ここは、個人の救いの物語として読んでも、もちろん構いませんが、異邦人が父の家に戻って来たこととしても読みたいと思います。きょうのメッセージは次の五つのパートで進めて行きます(週報p.2)。

 ①良く似た構造を持つ『ルカの福音書』と『使徒の働き』
 ②「個人の救い」の殻を破った聖書の読み方
 ③神様に喜ばれるために
 ④万人の帰郷のために降誕した主イエスに仕える喜び
 ⑤本人が我に返らなければ救われない

①良く似た構造を持つ『ルカの福音書』と『使徒の働き』
 弟息子の帰郷を異邦人が父の家に帰ったと読むための準備として、きょうの礼拝の最初の招きのことばではルカ3章を開き、聖書交読では使徒の働き28章を開きました。

 まず使徒28章のほうから説明します。これまで私は何度も、『ルカの福音書』と『使徒の働き』は二つで一つであると話して来ました。ルカの福音書が前編で使徒の働きが後編のようなものであると言いました。そう見るべき最大の理由は、『ルカの福音書』と『使徒の働き』の構造が良く似ているからです。ルカは意識的に二つの書を似た構造にしたと考えられます。

 大まかに三つの類似点だけを言うと、『ルカの福音書』ではA)イエスさまが最初に聖霊を受け、B)病人を癒して立たせ、そしてC)最後はエルサレムで逮捕されました。『使徒の働き』もA)弟子たちが最初に聖霊を受け、B)ペテロとヨハネが足の悪い人を癒して立たせ、そしてC)終盤でパウロがエルサレムで逮捕されました。このように二つの書は非常に似た構造を持っています。それはつまり、「『使徒の働き』で聖霊を受けた弟子たちの中には『ルカの福音書』に描かれたイエスさまがいる」ということです。ですから『使徒の働き』を無視して『ルカの福音書』を語ることはできませんし、『ルカの福音書』を無視して『使徒の働き』を語ることはできません。

 その『使徒の働き』の最後の場面で、パウロは「神のこの救いは、異邦人に送られました」と言いました。聖書交読で読んだ使徒28章をもう一度、見ておきましょう。

 17節でパウロはユダヤ人のおもだった人を呼び集めて話し始めました。するとユダヤ人たちは22節で言いました。

22 「私たちは、あなたが考えておられることを、あなたから聞くのがよいと思っています。この宗派について、いたるところで反対があるということを、私たちは耳にしていますから。」

 そこで23節にあるように、彼らは日を定めて、さらに大勢でパウロの宿にやって来ました。パウロは神の国のことを証し、モーセの律法と預言者たちの書、すなわち旧約聖書からイエスさまについて彼らを説得しようと、朝から晩まで説明を続けました。それによって一部のユダヤ人はパウロが語ったことを受け入れましたが、大半のユダヤ人たちは信じようとしませんでした。それでパウロは28節で言いました。

28 「ですから、承知しておいてください。神のこの救いは、異邦人に送られました。彼らが聞き従うことになります。」

 このユダヤ人と異邦人の両者のことが使徒の働きの最後に書かれていますから、ルカ15章の「放蕩息子の帰郷」では、やはり兄息子がユダヤ人で弟息子が異邦人であるとして読み取りたいと思います。

②「個人の救い」の殻を破った聖書の読み方
 「放蕩息子の帰郷」の例えを個人の救いの物語として読んでも、もちろん構いません。しかし、私としては、多くの人が「個人の救い」の殻を破った聖書の読み方ができるようになっていただきたいと思っています。

 なぜそう思うかと言うと、個人個人が自分の好みに応じて様々なことを自由に選択しながら生きられるようになった現代では、個人の救いのことだけでは福音が広がりにくいように思うからです。昔は家族全員がお茶の間で同じテレビ番組を見ていましたが、今はあまりそういう感じではないでしょう。広い世代に受け入れられる歌も昔に比べると今はずっと少なくなっていると思います。個人の好みが多様化している現代では誰か一人がキリスト教を信じても、家族や友人が次々と教会を訪れて救われるということにはなりにくいでしょう。一時的に心を癒すことができる場は他にたくさんありますから、心の癒しを求めて教会に来る人が増えることはあまり期待できないという気がします。もちろん私たちは教会では一時的な癒しではなく、もっと深い癒しが得られることを知っています。しかし聖書を良く知らない方には、そのことが分かりません。

 一方で、他人のために働くことで却って自分が励まされることを感じる人は、確実に増えていると思います。日本では1995年がその転換点の年だったと言えるかもしれません。1995年は阪神淡路大震災とオウム真理教の地下鉄サリン事件があった年です。阪神大震災以降、どこかで災害が起きると多くの人がボランティアで被災地の支援をするために現場に向かうようになりました。そして、そのことで逆に自分が励まされて力をもらったということを良く聞きます。やはり人は励ましが必要なのでしょう。

 そしてオウム真理教が起こした事件によって宗教は怪しいと世間の人々は思うようになり、宗教に何かを求める人は減りました。お遍路さんに向かう人は大勢いるようですが、山道を長い区間歩くことで心が洗われるという意味では被災地でのボランティア作業で体を動かすこととあまり大きな違いはないような気がします。

 体を動かすことで言えば、介護の現場で働く人も大勢いると思います。そのような現場で体を使って汗を流しながら他人のために働くことにやりがいを見出している人は昔と比べれば随分と大勢いるのだろうと思います。そういう方々に、教会で主に仕え、主のために働くことの喜びを知ってもらうようにすれば良いのかもしれません。

 そのためには、教会はどんな働きをしたら良いのでしょうか?そのヒントを、私は先週の英和女学院の修養会の講演でいただいたように思います。この日、英和では朝の礼拝の後で約1時間の講演がありました。講師はフェリス女学院大学の学長の先生でした。とても良い講演でしたから、来週の12月8日の礼拝で皆さんと分かち合うことにしたいと思います。

③神様に喜ばれるために
 先生の講演のタイトルは「神様に喜ばれるために」でした。聖書箇所は一箇所ではなくて、盛りだくさんでしたが、その中で私の印象に強く残ったのが、マタイの福音書の五タラントと二タラントのしもべの例え話でした。来週の礼拝では、この記事を聖書箇所にしようと今のところ考えています。

 主人は五タラントと二タラントのしもべをねぎらって言いましたね。「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」

 この、主人のために喜んで働いたしもべたちと、そのしもべたちの働きを喜ぶ主人の関係を、もっと伝道に使えないだろうかと今私は考え始めています。この働きは献身的な働きですから信仰のステージで言えば、上の方のステージです。ですから、初心者向けではないかもしれません。従来の考え方では、まず個人の救いから入って、信仰が成長するに従って主のために働く喜びに気付いてもらうというのが一般的な順番でしょう。

 それに対して、個人の救いを飛び越えて先ず主のために働く喜びを感じてもらって、そこから個人の救いに導くことはできないだろうかというのが、今考えていることです。なぜそんなことを考えるかと言うと、日本人は主人への忠誠を貫いた赤穂浪士の忠臣蔵のような話が大好きで、現代人でも誰かのために働きたいという気持ちを持ち続けていると思うからです。その表れが被災地へ向かう大勢のボランティアの人々なのだと思います。

 静岡は徳川家康を大切に思っていて、駅前には鷹狩りをする徳川家康の像と幼少期の竹千代の像の両方がありますね。この主君の徳川家康のために多くの家臣たちが大きな働きをしました。主君が偉大であればあるほど、家臣は働きがいを持って主人に仕えることができるでしょう。

④万人の帰郷のために降誕した主イエスに仕える喜び
 キリスト教も、イエス・キリストを主君として多くの信徒が働いています。私たちもその一人です。まず個人の救いから入るのではなく、主イエスのために働く喜びから入ってもらって、そこから個人の救いへ導く方法について、もっと一生懸命に考える必要があるのではないか、そんな風に思い始めています。そのためには、イエス・キリストがいかにスケールが大きくて偉大なお方であるかを、知っていただく必要があると思います。

 思うに、これまでのキリスト教会では、イエス・キリストのスケールの大きさが十分に伝えられていないのではないでしょうか。病人や罪人に寄り添い、彼らを救うイエスさまのことは十分に伝えられていますが、もっと大きなスケールのイエスさまがあまり伝えられていない気がします。もっと「王の王」、「King of Kings」としてのイエスさまを伝えることで、イエスさまに仕える気持ちが与えられるようにならないだろうかと思います。

 徳川家康は天下を統一しましたが、イエスさまはそれを遥かに上回る大きなスケールで世界を一つにしたお方です。きょうの招きのことばにルカの福音書の系図を選んだのは、ここにはルカの福音書のスケールの大きさが表れていると感じるからです。

 ルカの福音書の系図はマタイの福音書の系図とは逆で、イエスさまの父親のヨセフからアブラハムへ向かって遡って行き、さらにアブラハムを通り越してアダムまで遡って神様に至ります。歴代誌第一にあるように系図は祖先から始めるとどんどん枝分かれして発散して行きます。しかしルカの福音書のように子孫の側から始めて祖先に遡って行くと、系図はどんどん収束して行って、最後は神様に至ります。私はこのルカの系図は「放蕩息子の帰郷」とも関係していると考えます。つまり系図を遡って行くなら、すべての者は神様の家に帰って行くことになります。私たちは皆、神様の家から出た者の子孫ですから、神様の家に帰って行かなければなりません。

 神様は全人類とつながっています。この徳川家康よりも遥かにスケールの大きなイエスさまに仕え、イエスさまのために働きたいと私は思っていますし、教会の皆さんにもそう思っていただきたいと願っています。そしてまだイエスさまを知らない方々にも、イエスさまのために働きたいと思っていただけるようになっていただきたいと願っています。

⑤本人が我に返らなければ救われない
 さて、きょうの聖書箇所の弟息子が父の家に帰った箇所をまだ見ていませんでしたから、開くことにしましょう。この「放蕩息子の帰郷」の物語のことは皆さんのほとんどが良くご存知のことと思います。この物語の中で最も注目すべきと思う箇所は、17節の、「彼は我に返って」だろうと思います。私たちは周囲の方々が救われるように、いつも祈ります。そして神様はその祈りに応えて私たちが祈った人に語り掛けて下さっているのだろうと思います。しかし、神様がどんなに語り掛けても、本人が我に返らなければ救われません。羊や銀貨は我に返らなくても捜しに来てもらえますが、人間の場合は我に返らなければ父の家に戻ることはできません。

 ですから、私たちがすべきことは、どうすれば祈っている人が我に返るのかを考えることだと思いますが、これは難問ですね。来週のハンドベル・コンサートには、多くの方々が来て下さることと思います。そのため、昨年とは若干異なるプログラムを考えています。

(中略)

 そうして継続的に教会に通うようになる方が一人でも与えられればと思います。そうして、その方が我に返る時が来るようにも祈っていたく思います。

 繰り返しになりますが、羊や銀貨なら我に返らなくても見つけてもらえますが、人の場合は自ら我に返る必要があります。しかし、いったん我に返るなら主は迎えに来て下さいます。ルカ15章の20節にある通りです。お読みします。

20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。

 そうして天は大喜びして祝宴が開かれます。22節から24節までを交代で読みましょう。

22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。
23 そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。
24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。

 このようにして異邦人である日本人の私たちも父の家に帰り、祝宴を開いていただくことができます。24節で父親は、「この息子は、死んでいたのに生き返り」と言いました。我に返らない間は霊的には死んでいるのですね。ですから「我に返る」とは霊的に死んでいた人が目覚めて生き返るということです。これは簡単にできることではありません。だからこそ、天は大喜びして祝宴を開きます。

おわりに
 我に返ることが簡単ではないとすると、教会につながっている私たちが我に返って霊的に目覚めたことは奇跡的なことなのかもしれません。しかし簡単ではないとしても、私たちは粘り強く、私たちの周囲の方が我に返るように祈り、イエスさまに継続的に声を掛け続けていていただきたいと思います。

 来週のハンドベル・コンサートに多くの方が来会して、その後で教会につながり、我に返る方がおこされますように、お祈りしていたいと思います。

 しばらく、ご一緒に、お祈りしましょう。
コメント

戦災に涙し、霊的鈍感に憤るイエス(2019.11.24 礼拝)

2019-11-25 10:14:42 | 礼拝メッセージ
2019年11月24日礼拝メッセージ
『戦災に涙し、霊的鈍感に憤るイエス』
【哀歌1:1~3、ルカ19:41~44、ヨハネ11:32~44】

はじめに
 きょうの礼拝メッセージは予定を変更して、戦争被害を悲しむ聖書箇所を開くことにしました。

 昨日の晩に来日したローマ教皇は、きょうの24日は被爆地の長崎と広島で核兵器の廃絶を訴えて平和の集いを行うそうです。私もこの広島・長崎への原爆投下と核兵器廃絶の問題には強い関心を持っています。そして、この平和の働きを聖書を伝えることで行うために私は召し出されて牧師になったと確信していますから、きょうはどうしても、このことについて語らなければなりません。

 ただ、これから語ることはこれまであまり理解されて来ませんでした。それゆえ、きょうは招きのことば(ルカ19:41~44)や聖書交読(哀歌1:1~22)も使って心を整えていただき、少しでも分かりやすいメッセージになるように心掛けたつもりです。

 では早速、聖書を見て行くことにします。きょうは次の五つのパート(週報p.2)で話を進めて行きます。

 ①イエスさまは何に涙し、何に憤っていたのか?
 ②創世記の「初め」の時代から始まるヨハネの福音書
 ③「律法の恵み」の上に「聖霊の恵み」も重ねるヨハネ
 ④現代の戦災にも涙し、霊敵鈍感に憤るイエスさま
 ⑤なぜ私たちは霊的鈍感に陥っているのか?

①イエスさまは何に涙し、何に憤っていたのか?
 きょうの聖書箇所のヨハネ11章を見ましょう。11章の1節に、ラザロが病気になったことが書いてあります。ラザロはマルタとマリアの姉妹と共にベタニア村に住んでいました。ベタニア村はヨルダン川のこちら側にあります。「こちら側」とはエルサレムから見た時にヨルダン川の「こちら側」にある、ということです。

 さて、この時のイエスさまはヨルダン川の向こう側に行っていたことが10章の40節に書かれています。40節に「イエスは再びヨルダンの川向こう・・・に行き、そこに滞在された」とありますね。つまりイエスさまの滞在地とベタニア村の間にはヨルダン川が流れていて渡りやすい場所に迂回しなければなりませんから、すぐには駆け付けられない状況でした。すぐには行けないのなら、なおさら急いで出発すべきです。しかし、イエスさまは6節にあるように、さらにヨルダン川の向こうに二日間とどまっていました。

 そのようにゆっくりしていたので、その間にラザロは死んでいました。そのことでマルタとマリアはとても悲しんでいました。きょう聖書朗読で司会者に読んでいただいた場面は、その悲しみの現場にイエスさまが到着した場面です。32節でマリアはイエスさまに言いました。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」続いて33節から35節までをお読みします。

33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になった。そして、霊に憤りを覚え心を騒がせて
34 「彼をどこに置きましたか」と言われた。彼らはイエスに「主よ、来てご覧ください」と言った。
35 イエスは涙を流された

 皆さんは、この箇所を読んで、どのように感じるでしょうか?私は、初めてここを読んだ時には特別なことは感じなかったと思います。聖書は難しいですから、誰でも大体そんな感じではないでしょうか。

 けれども何回か読むうちに、この場面を読むとザワザワと胸騒ぎを覚えるようになりました。福音書はマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四つありますが、この箇所ほどイエスさまの感情が激しく揺れ動いている場面はないと思います。33節から35節までの短い箇所でイエスさまは「霊に憤りを覚え」、「心を騒がせ」、「涙を流され」ました。

 イエスさまが怒ったり、或いは泣いたりと、一つの感情を顕わにした場面は他にもあります。しかし、この場面のイエスさまは「霊に憤りを覚え」、「心を騒がせ」、「涙を流され」ました。新改訳第3版では、「心を騒がせ」が、「心の動揺を感じて」になっていました。つまりイエスさまの心の中では平常心を保っていられないほどに激情が渦巻いていたということです。イエスさまは湖で嵐に遭って、乗っていた小舟が沈みそうで弟子たちが慌てていた時にも平気で寝ていたお方です。イエスさまと言えば常に冷静沈着というイメージがあります。そんなイエスさまがこのヨハネ11章では激しく動揺していました。

 これは背後に何かあると思いませんか?何度もこの箇所を読むうちに私は次第に、イエスさまは単にラザロの死のことで激しく動揺したのではないことを感じるようになりました。イエスさまは死んだラザロをも生き返らせることができるお方です。天の父にできないことはありませんから、イエスさまが天の父に頼めば死んだ人でも生き返ります。実際、44節でラザロは生き返って墓から出て来ました。ですから死んだラザロ一人のことで、イエスさまがこんなにも動揺するはずがありません。これは背後に何かあると考えるべきです。ただ、それが何であるのか、私は何年もの間、分からないでいました。

 しかし、ある聖霊体験を経て、私はこのイエスさまの激しい動揺の背後に何があったのかが分かるようになりました。ある聖霊体験とは、私がインターン実習生として姫路教会にいた時に、朝の日課の聖書通読でレビ記を読み始めたら涙が出て止まらなくなったという体験です。天の父がイスラエル人たちをどんなに深く愛していたかが分かり、その父が私のことをも深く愛して下さっていることを感じました。そして今までの私がその父の愛を分かっていなかったことをとても申し訳なく思い、涙が溢れ出ました。さらに2001年に死んだ私の父親も私のことを深く愛してくれていたのに、そのことへの感謝の思いがあまり無かったことに対しても申し訳なく思い、涙が止まらなくなりました。この天の父の深い愛は聖霊が教えて下さったものです。

 この聖霊体験を経て、私はそれまでよりも聖書が格段に深く味わえるようになり、ヨハネの福音書もそれまでより理解できるようになりました。そして、このヨハネ11章のことも分かって来ました。次のパートに移って、そのことを話します。

②創世記の「初め」の時代から始まるヨハネの福音書
 皆さんも良くご存知のように、ヨハネの福音書は次のことばで始まります(週報p.2)。

1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
2 この方は、初めに神とともにおられた。

 「ことば」とはイエスさまのことですから、ヨハネの福音書は創世記の「初め」の時代のイエスさまのことから書き始めています。そうして、この福音書は地上生涯のイエスさまに重ねる形で旧約聖書の時代のイエスさまのことも時代順に描いています。きょうは、そのことを詳しく話す時間はありませんから、省略します。詳しいことを知りたい方は、私の著書の「『ヨハネの福音書』と『夕凪の街 桜の国』」を是非、お読みいただきたいと思います。

 さてヨハネ1章から始まったイエスさまの旧約の時代がどこで終わるかと言うと、11章の54節です(週報p.2)。

54 そのために、イエスはもはやユダヤ人たちの間を公然と歩くことをせず、そこから荒野に近い地方に去って・・・

とあります。

 上の1章1節にあるように、イエスさまは「ことば」です。つまりイエスさまは「聖書のことば」です。その「聖書のことば」であるイエスさまが11章54節では「もはやユダヤ人との間を公然と歩くこと」をやめました。「公然」と歩かなくなったということは、つまりここで聖書のことばが旧約聖書の最後のマラキ書まで来て、聖書の記述が一旦終わったということです。

 11章54節がマラキ書ですから、イエスさまが動揺していたヨハネ11章30節の辺りは、聖書のかなり終わりの方ということになります。それはどこでしょうか?今度は11章よりも前を見ることにしましょう。あまり前に戻り過ぎると時間が掛かりますから、ヨハネ10章1節を見ましょう。重要な聖句ですから、週報p.2にも載せておきました。

1 「羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。」

 このイエスさまのことばは、旧約聖書にあっては預言者エレミヤのことばです。エレミヤの時代のエルサレムの人々は外国の神々を礼拝し、偶像を拝むことを止めませんでした。そこで神は預言者のエレミヤを通して、外国の神々の礼拝を止めなければ外国人の軍隊を送ってエルサレムを滅ぼすと警告しました。このエレミヤにイエスさまは聖霊を通して神の警告のことばを伝えていました。

 しかしエルサレムの人々はこの警告を無視しましたから、バビロン軍などの外国の軍隊がエルサレムの城壁を乗り越えて侵入し、王宮や神殿を破壊して宝物などを強奪して行きました。ヨハネ10章1節のイエスさまのことばの「門から入らず、ほかのところを乗り越えて」というのはバビロン軍などがエルサレムの街の城壁を乗り越えて侵入したことを指します。

 そうしてエルサレムの人々は捕らえられてバビロンへ捕囚として引かれて行きました。そのことが書かれているのが、ヨハネ10章40節です。お読みします。

40 そして、イエスは再びヨルダンの川向こう、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた場所に行き、そこに滞在された。

 バビロンはヨルダン川の向こう側にありますから、40節でイエスさまが川向こうに行ったということは、預言者エゼキエルを通して神のことばを語っていたイエスさまがエルサレムの人々と共にバビロンへ捕囚として引かれて行ったことを指します。

 そうしてエルサレムは滅亡しました。滅亡したのは人々の大半がバビロンに引かれて行った後です。ヨハネ11章6節でイエスさまが「ラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまった」というのは、人々がエルサレムへの帰還を許されて、神殿と城壁の再建のために戻って行くまでの年月を指します。

 きょうの聖書交読では『哀歌』の1章をご一緒に読みましたね。哀歌はエルサレムの滅亡を悲しんだ歌です。哀歌1章1節から3節までをお読みします。

1 ああ、ひとり寂しく座っている。人で満ちていた都が。彼女はやもめのようになった。国々の間で力に満ちていた者、もろもろの州の女王が、苦役に服することになった。
2 彼女は泣きながら夜を過ごす。が頬を伝っている。彼女が愛する者たちの中には、慰める者はだれもいない。その友もみな裏切り、彼女の敵となってしまった。
3 悩みと多くの労役の後に、ユダは捕らえ移された。彼女は諸国の中に住み、憩いを見出すことがない。追い迫る者たちはみな追いついた。彼女が苦しみのただ中にあるときに。

 つまりヨハネ11章35節で涙を流したイエスさまはエルサレムの滅亡を悲しんでいたのでした。ラザロの死のこともイエスさまはもちろん悲しみましたが、旧約の時代に天にいたイエスさまは、このエルサレムの滅亡を天の神(父)と共に深く悲しんでいました。

 すると、11章の32節と33節の状況も自ずと分かって来るでしょう。32節でマリアはイエスさまに言いました。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」そして33節、

33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になった。そして、霊に憤りを覚え、心を騒がせて、

 イエスさまは一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、霊に憤りを覚え、心を騒がせました。イエスさまはなぜ「霊に」憤りを覚えたのでしょうか?それは、この憤りが霊的なことに関わるからでしょう。エルサレムが滅亡したのはエルサレムの人々が霊的に鈍感だったからです。エルサレムが滅亡する前、天の神(父)と共にいたイエスさまはエレミヤを通して再三再四、このまま悪行を続けるならエルサレムを滅ぼすと警告しました。しかしエルサレムの人々は耳を傾けませんでした。もしエルサレムの人々がもっと霊的に敏感であったなら、エレミヤの警告によって主に立ち返り、そうしてエルサレムは滅亡を免れたはずです。そのエルサレムの人々の霊的な鈍感さ故に、イエスさまは霊に憤りを覚えました。

③「律法の恵み」の上に「聖霊の恵み」も重ねたヨハネ
 旧約の時代は「律法の恵み」の時代と言えます。イスラエルの民にとって律法は恵みです。このことを私は、レビ記を読んで涙を流す聖霊体験を通して理解しました。レビ記には律法が書いてあります。律法は天の父がイスラエルの民を深く愛しているが故に授けたものですから、大きな恵みです。

 そしてヨハネの福音書のすごいところは、地上生涯のイエスさまに「律法の恵み」だけでなく「聖霊の恵み」も重ねていることです。それは、ヨハネ1章の16節と17節から分かります(週報p.2)。

16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。
17 律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。

 私たちはみな、恵みの上にさらに恵みを受けました。それは「律法の恵み」の上に「聖霊の恵み」を受けたということです。この「聖霊の恵み」がどのように重ねられているかについても、きょうは時間がありませんから説明しません。詳しいことを知りたい方は、「『ヨハネの福音書』と『夕凪の街 桜の国』」を読んでいただければ幸いです。

 さて、「聖霊の恵み」が重ねられているということは、パウロたちが活動した使徒たちの時代が重ねられているということです。そして、このヨハネ11章には、紀元70年にローマ軍の攻撃によってエルサレムが再び滅亡したことが重ねられています。エルサレムは紀元前にバビロン軍によって滅亡し、イエスさまの時代を経て紀元70年にローマ軍によって再び滅亡しました。この紀元70年のエルサレムの滅亡を予告したのが、きょうの招きのことばで読んでいただいたルカ19章のイエスさまのことばです(週報p.2)。

41 エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。
42 「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。
43 やがて次のような時代がおまえに来る。敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、
44 そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。」

 41節でイエスさまは泣いています。つまり、ヨハネ11章35節で涙を流したイエスさまは、この紀元70年のエルサレムの滅亡のことをも深く悲しんでいます。

④現代の戦災にも涙し、霊敵鈍感に憤るイエスさま
 二つの時代のエルサレムの滅亡を時空を超えて悲しみ、人々の霊的な鈍感さに憤るイエスさまは当然、現代の私たちの霊的な鈍感さにも憤り、絶えず戦争をしていることを深く悲しんでいます。

 人類は広島と長崎に原爆を投下した後も核兵器の研究開発をさらに推し進めて、原爆よりもさらに強力な水爆を開発しました。そして小型化してミサイルに搭載できるようにしました。小型化する前はB29が広島・長崎でそうしたように、攻撃目標の都市の上空まで飛行機で原爆を運ばなければなりませんでしたが、ミサイルならその必要がありません。北朝鮮は既に大型の核兵器の製造には成功していて、今は小型化することとミサイルを遠くに正確に飛ばす技術を磨いているのでしょう。

 このことをイエスさまがどんなに悲しみ、私たちの霊的な鈍感さに対してもどんなに憤りを覚えておられることでしょうか。先ほどお読みしたルカ19章42節でイエスさまはエルサレムのために泣きながら言いました。「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。」この1世紀のエルサレムの人々と同じように現代人もまた霊的な目が閉じていて平和に向かう道が目から隠されていますから、核兵器の廃絶が進みません。

 21世紀の現代人もまた霊的に鈍感であることは、ヨハネ11章のイエスさまがエルサレムの滅亡のことで霊的に憤り、涙していることに気付かれていないことからも明らかです。このヨハネの福音書の霊的なメッセージを私は姫路教会にいた頃の8年前から広く知ってもらいたいと願って発信していますが、なかなか分かってもらえず、2年前に本(「『ヨハネの福音書』と『夕凪の街 桜の国』」も出しましたが、それでも理解してもらえていません。それはつまり、多くの方々がまだ霊的に十分に覚醒していないからなのでしょう。

 しかし、逆に言えばこれは大きな希望でもあります。なぜなら、もし人々が霊的に覚醒してイエスさまの涙と憤りを敏感に感じることができるようになるなら、世界は平和に向かい、核兵器が廃絶されるという希望を持てるからです。現状では核兵器の廃絶はなかなか進展せず、世界は一向に平和に向かいません。しかし、多くの人々が霊的に覚醒するなら、世界は必ずや平和に向かうことでしょう。

⑤なぜ私たちは霊的鈍感に陥っているのか?
 そのためには、なぜ私たちが霊的に鈍感な状態に陥っているのかを解明する必要があります。これは、単に平和の働きのためだけでなく、私たちの教会の将来にも直結していることです。なぜなら人々が教会に来ないのもやはり、霊的に鈍感だからです。

 私たちクリスチャンも、核兵器廃絶に必要なレベルから言えばまだまだ霊的に鈍感ですが、それでもイエスさまを信じて聖霊を受けていますから、聖霊を受けていない人よりは霊的に敏感な筈です。そして聖霊を受けている人でも霊的な敏感さには差があるでしょう。この霊的な敏感さ・鈍感さは何によるのでしょうか?このことが分かれば、私たちはもっと霊的に成長できて、そしてもっと多くの方々に教会に来ていただけるようにもなるでしょう。

 ですから何が霊的な鈍感さをもたらしているかを解明することは、どうしても必要なことです。なぜ私たちは霊的に鈍感なのか?今のところ次の三つの原因を考えています(週報p.2)。

 A.私たちが「過去→現在→未来」の時間観に縛られているため
 B.私たちが、目に見えることだけに注目しがちであるため
 C.父・子・聖霊の三位一体の神への理解が乏しいため

 これらの一つ一つについて説明する時間はもうありませんから、今後の礼拝メッセージで触れていくことにします。

おわりに
 上記のA~Cの中で特にCの「父・子・聖霊の三位一体の神」については来年、重点的に学びたいと思っています。そうして三位一体の神について学ぶ中で私たちは霊的に成長して、イエスさまの悲しみと憤りを、もっと深く理解できるようになりたいと思います。

 そうして私たちが霊的に成長するなら神様は祝福して下さり、教会に多くの方々が集うようになるでしょう。ですから、先ずは私たちが霊的に成長して行きたいと思います。このことに思いを巡らしながら、しばらく、ご一緒にお祈りいたしましょう。
コメント

世界のために祈れる幸い②(2019.11.17 礼拝)

2019-11-18 10:20:12 | 礼拝メッセージ
2019年11月17日礼拝メッセージ
『世界のために祈れる幸い②』
【ルカ15:8~10】

はじめに
 きょうは宣教ビデオを観ましたから、メッセージは短めです。
 先週から始めた「世界のために祈れる幸い」のシリーズでは、ルカ15章の「放蕩息子の帰郷」の物語を大きな観点から読み、聖書のスケールの大きさに思いを巡らすことで、祈りのスケールもまた大きなものにできたら幸いであると考えています。

 このシリーズを始めたきっかけは、中高生の若い生徒さんたちにもスケールの大きなことに目を向けてもらいたいという思いがあるからです。なぜ、そう思うのか、それは多分、私が牧師になる前には大学の留学生センターに勤務していたからだと思います。

 当時、学生全体の役1割が留学生でした。最近はもっと増えているようです。ホームページに公開されているこの大学の学生数のデータを見ると、今年の5月1日現在で学生の総数(学部生・大学院生・研究生の合計)が10,441名で、そのうち1,724名が留学生となっています。比率にすると16.5%です。6人に1人が留学生ということで、非常に留学生が多いです。この留学生たちは世界中の国々から来ています。

 この留学生たちは自分の生まれた国を離れてはるばる日本に来るわけから、やはりスケールの大きいことを考えているんですね。男子も女子も関係なくスケールの大きなことを考えているという印象がありました。ですから私はこれから巣立ちして羽ばたいて行く生徒さんたちにも小さくまとまらないでスケールの大きなことを考えるような生徒になって欲しいなと思っています。そういうわけで聖書もまた大きなスケールで読むことができるようになってもらえると良いなと思っています。そして、このことを静岡教会の皆さんとも分かち合いたいと願っています。

 そこで、この「世界のために祈れる幸い」のシリーズでは、「放蕩息子の帰郷」の物語の兄息子をユダヤ人、弟息子を異邦人という読み方もあるということをお伝えしています。つまり弟息子は『創世記』の時代に父親の家を出て、『使徒の働き』の時代に父親の家に帰って来たというわけです。

 先週は、この兄息子と父親との会話に注目しました。次は弟息子について深めたいところですが、きょうは宣教ビデオを観た関係であまり時間を掛けられませんから、「放蕩息子の帰郷」の物語の前にある「ドラクマ銀貨の例え」を見ておくことにしたいと思います。先週から放蕩息子は異邦人であるというスケールの大きな話をしていますが、この物語はもちろん、もっと小さな単位での罪人の話でもあります。弟息子を異邦人であると読み取ることができることばかり強調すると、そのことを見落としてしまいますから、きょうはそのことを短い時間の中で確認しておきたいと思います。きょうのメッセージは次の三つのパートで話を進めます。

 ①救いはすべての人にもたらされる
 ②野の外へ出た羊と家の中で失われた銀貨
 ③人が救われると大喜びする天

①救いはすべての人にもたらされる
 まず確認しておきたいのは、救いはすべての人にもたらされることが『ルカの福音書』では明確に示されているということです。

 きょうの聖書交読で読んだルカ4章には、そのことが良く示されています。ルカ4章の16節から21節までをもう一度、交代で読みましょう(新約p.115)。

16 それからイエスはご自分が育ったナザレに行き、いつもしているとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。
17 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その巻物を開いて、こう書いてある箇所に目を留められた。
18 「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、
19 主の恵みの年を告げるために。」
20 イエスは巻物を巻き、係りの者に渡して座られた。会堂にいた皆の目はイエスに注がれていた。
21 イエスは人々に向かって話し始められた。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」

 ここでイエスさまはイザヤ書61章のみことばを読みました。そしてイエスさまはこのイザヤ書の預言が実現したことを人々に話しました。それはつまり、イエスさまご自身がイザヤ書61章にある、主に遣わされた者であるということですね。

 そうして4章35節では悪霊に憑かれた人から悪霊を追い出し、39節ではペテロの姑の病気を癒しました。さらに40節では多くの病人たちを癒しました。

 また、ルカ2章では幼子のイエスさまを抱いたシメオンが、この子が万民に救いをもたらすことを告げていますね。ルカ2章の28節から33節までを交代で読みましょう(新約p.111)。

28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
29 「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。
30 私の目があなたの御救いを見たからです。
31 あなたが万民の前に備えられた救いを。
32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を。」
33 父と母は、幼子について語られる様々なことに驚いた。

 シメオンは31節で救いは万民に備えられていること、そして32節ではそれがイスラエルの民だけでなく異邦人にももたらされることを告げています。

②野の外へ出た羊と家の中で失われた銀貨
 ルカ15章に戻って、今度は「放蕩息子の帰郷」の前にある羊と銀貨の例えのほうを見てみたいと思います。まず九十九匹の羊と野からいなくなった一匹の羊のことですが、先週のメッセージで、九十九匹の羊はユダヤ人、野からいなくなった羊は異邦人であると読み取りたいと話しました。イエスさまの時代のユダヤ人たちの多くは形式的にではありますが律法を守っていましたから九十九匹を野に残していなくなった一匹を捜しに行っても、九十九匹がいなくなる心配はありません。

 この、いなくなった一匹を捜しに出て行った場面からは、パウロが異邦人への宣教のためにユダヤの外に出てアジア・ヨーロッパ方面に向かって行った様子が思い浮かびます。また、今日ご一緒に見た宣教ビデオの、日本の国外に出て行った宣教師の先生方の姿も重なります。

 おとといの金曜日の午後、私は田町3丁目のお宅のポストにクリスマスチラシを投函しました。小さな路地を含めて田町3丁目の道をほぼすべて歩くことができて感謝でした。ここにも迷い出た羊がいます。今週中は田町2丁目と4丁目、そして新富町への戸別投函も行いたく思っています。この一匹の羊の箇所を思い浮かべながら配布したいと思わされています。

 さて、羊を飼っていた人は野の外に出て羊を捜しに行きましたが、ドラクマの銀貨の例えでは、女の人は家の中を捜しました。これはユダヤの外だけでなくユダヤの中にも罪人がいて、主はもちろん、そのような者たちも救いの対象としていることが、ここから見て取れます。例えばルカの福音書の有名な登場人物の一人の取税人ザアカイは、家の中で見つかった銀貨と言えるでしょう。イエスさまは、このようにすべての人々を救いたいと願っていらっしゃいます。

③人が救われると大喜びする天
 ルカ15章の例え話には天が大喜びする様子も記されています。6節と7節を交代で読みましょう。

6 家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。
7 あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。

 9節と10節も交代で読みましょう。

9 見つけたら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『一緒に喜んでください。なくしたドラクマ銀貨を見つけましたから』と言うでしょう。
10 あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」

 そして放蕩息子の父親は兄息子にこう言いました。32節です。

32 「おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。」

 このルカ15章の天が大喜びしている描写を読んで、私自身が救われた時にも、天が大喜びしていたことを想像すると、本当に感謝だなあと思い、涙が出るほどうれしくなります。こんな私一人のために天が大喜びしてくれるなんて、何てすごいことだろうと思います。そうして家族や知人、近隣の方々への伝道のことを思う時、私たちが何のために伝道するのかが、自ずと分かって来るように思います。

 私たちが伝道・宣教の働きをするのは、それが主の命令であることももちろんですが、一人が救われることに天がこんなにも大喜びすること、その喜びを天と一緒に分かち合いたいからではないでしょうか。

おわりに
 天と共に喜びを分かち合えるとは、何と素晴らしいことでしょうか。とても大きな励みになることを感じます。これからのクリスマスシーズンは、この伝道の働きのための良い機会となりますから、ご一緒に天の喜びを思い浮かべながら主のために働きたいと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。
コメント

世界のために祈れる幸い①(2019.11.10 礼拝)

2019-11-11 11:12:01 | 礼拝メッセージ
2019年11月10日礼拝メッセージ
『世界のために祈れる幸い①』
【ルカ15:25~32】

はじめに
 きょうから5回のシリーズで、『世界のために祈れる幸い』というタイトルで主にルカ15章を引きながら話をしたいと思います。5回ですが4回でだいたいの話を終えて、5回目は1~4回目をコンパクトにまとめたものになろうかと思います。

 5回目は12月8日です。この日の礼拝には中高生たちが出席します。きょうからの4回は、12月8日のための備えという位置付けです。どういうことかと言うと、12月の8日までに教会の皆さんには当日のメッセージの内容の大体を理解しておいていただきたいということです。12月8日のメッセージはできるだけ分かりやすいものにするつもりですが、中高生たちにとっては理解が難しいことも多少は含まれるだろうと思います。

 そんな中でも、教会の皆さんが十分に理解できているなら、この礼拝堂が聖霊で満たされて、中高生たちに対して聖霊が働き掛けるだろうと思います。しかし、もし教会の皆さんの頭の上でも中高生と一緒に???マークがふわふわしているようでは、中高生への聖霊の働き掛けはないでしょう。ですから、今日から12月8日に備えたいと思います。

「世界のために祈れる幸い」について
 『世界のために祈れる幸い』というタイトルについては、随分と大げさタイトルだなあという感想を持つ方もいるかもしれません。これには理由があります。私たちクリスチャンは、聖書の神様が唯一の神様であり、他には神々がいないことを知っています。ですから自分や家族のこと、そして世界のことも含めて、すべてのことを聖書の神様にお祈りします。

 一方、クリスチャンでない方々は、自分のためや家族のために地元の神社やお寺で祈るでしょう。しかし、地元の神社やお寺で世界のために祈ることはしないでしょう。もし世界のために祈るとしても、どんな神様にお願いしたら良いか分からないまま祈ることになるでしょう。

 それに対して聖書の神様は万物を創造して世界を支配している神様ですから、私たちは世界のことを聖書の神様にお祈りしてお願いすることができます。これはとても心強いことです。なぜなら現代では国際的な問題で祈るべき課題がたくさんあるからです。国際問題が私たちの日常生活にも大きな影響を与えるからです。例えばアメリカは二酸化炭素の排出を抑制する目標を決めたパリ協定から離脱するそうです。もし他の国々もアメリカに追従して今後ますます二酸化炭素の排出が増えて行くようであれば地球の温暖化は加速するでしょう。温暖化の影響はすでにいろいろな形となって現れて来ています。台風が勢力を保ったまま日本に上陸するようになったのも温暖化の影響です。

 このままでは2050年には大変なことになります。2050年には、この教会の私たちの多くは最早この世にいないと思いますが、今の中高生たちはまだ50歳にもなっていません。ですから、今の中高生たちには世界のために祈るべきことを伝えたいと思います。そして、そのことをお願いできるのは聖書の神様だけであることをしっかりと伝えたいと思います。

 そういうわけで、これからのキリスト教会は聖書を通じて世界に目を向けることも熱心に行うべきと私は考えます。聖書はスケールの大きな書物ですから、聖書を読むなら自ずと世界に目が向いていく筈です。しかし、一般的な傾向として個人や家族やごく身近な人々との関係の問題に目が向けられがちだと思います。それらももちろん大切です。しかし、それでは聖書を知らない一般の方々にとっては仏教でも神道でもキリスト教でもどれでも構わないということになってしまうと思います。

 キリスト教は個人の問題から世界の問題まですべてをカバーしています。そのことをお伝えできるようになるためには、聖書の読み方も従来の読み方から脱却して行く必要があると思います。そのことのために、これから『世界のために祈れる幸い』の説教シリーズでは、『ルカの福音書』15章の「放蕩息子の帰郷」の話を大きなスケールで読むことにしたいと思います。そうして21世紀生まれの若い中高生たちが世界のために祈れるようになることを応援できるようになりたいと思います。

 前置きが長くなりましたが、以上のことを念頭に今日のメッセージは次の五つのパートで話を進めます。

 ①前週の復習(聖霊の肥料)
 ②兄息子がユダヤ人で弟息子が異邦人
 ③九十九匹の羊であるユダヤ人
 ④根幹に位置する旧約聖書
 ⑤21世紀の子らに託したい大きな聖書観

①前週の復習(聖霊の肥料)
 前回の礼拝メッセージときょうのメッセージとはつながっています。前回はご都合で欠席された方が多くいましたから、簡単に復習しておきます。

 前回話したことで重要なことは、『ルカの福音書』と『使徒の働き』は一つながりの書である、ということです。『ルカの福音書』も『使徒の働き』もどちらもルカが書いたもので、二つは前編と後編という形になっています。従って『使徒の働き』を無視して『ルカの福音書』を読むことはできませんし、『ルカの福音書』を無視して『使徒の働き』を読むことはできません。前回はそのことをお伝えした上でルカ13章6~9節を開きました。短い箇所なので、今日もご一緒に読みましょう(新約p.144)。交代で読みます。

6 イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。そして、実を探しに来たが、見つからなかった。
7 そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年間、このいちじくの木に実を探しに来ているが、見つからない。だから、切り倒してしまいなさい。何のために土地まで無駄にしているのか。』
8 番人は答えた。『ご主人様、どうか、今年もう一年そのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥料をやってみます。
9 それで来年、実を結べばよいでしょう。それでもだめなら、切り倒してください。』」

 ここで、ぶどう園の主人は天の神様であり、番人はイエスさまです。そして、いちじくの木はイスラエル人です。イスラエル人たちはなかなか信仰の実を結ぶことができないでいました。そこでイエスさまは「肥料をやってみます」とおっしゃいました。「肥料」とは聖霊のことです。なぜなら『ルカの福音書』と『使徒の働き』は一つながりの書だからです。『使徒の働き』には聖霊の働きが記されています。そのことを考え合わせるなら「肥料」とは聖霊のことでしょう。そして、ぶどう園の主人はモーセの時代からイスラエル人たちが信仰の実を結ぶことを楽しみにしていたと読み取りたいと話しました。7節では主人は三年の間待っていたとありますが、この三年間をモーセの時代からの千年以上と読み取りたいと話しました。

 なぜなら、このように大きなスケールで聖書を読むことを通じて、若い人々には世界にも目を向けられるようになってほしいと思うからです。この箇所を個人の信仰の問題として読んでももちろん良いのですが、もっと大きなスケールで読むこともできるのだということを若い方々に知ってもらいたいと思います。

 聖書を狭い時間と空間の中に閉じ込めておくのではなく、もっと広い場所に連れ出すなら、生まれた時からインターネットを通じて世界とつながっている今の若い人たちにもっと聖書の魅力を感じてもらえるのではないか、そのような期待感を私は持っています。

②兄息子がユダヤ人で弟息子が異邦人
 先週はルカ13章の6~9節を、モーセの時代から『使徒の働き』の時代に至る大きなスケールで読みましたから、今週はルカ15章の「放蕩息子の帰郷」の物語を大きなスケールで読みたいと思います。それは、弟息子が父の家を出たのは『創世記』の時代であるという読み方です。つまり兄息子はアブラハムの子孫のユダヤ人で、弟息子はアブラハムの系図から離れて行った異邦人であるという読み方です。弟息子は『創世記』の時代に父の家を出て、『使徒の働き』の時代に父の家に戻って聖霊を受けたというわけです。

 異邦人である弟息子については次回以降に見ることにして、きょうは兄息子のユダヤ人と父親との会話に注目したいと思います。きょうの聖書箇所のルカ15章25節から32節までを見ることにしましょう(新約p.150)。

25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえてきた。
26 それで、しもべの一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。
27 しもべは彼に言った。『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事な姿でお迎えしたので、お父様が、肥えた子牛を屠られたのです。』
28 すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て彼をなだめた。

 兄息子は、戻って来た弟のために父親が祝宴を開いたことが面白くありませんでした。続いて29節と30節を交代で読みましょう。

29 しかし、兄は父に答えた。『ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。
30 それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。』

 29節で兄は父にこう言っています。「長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。」これは、イエスさまの時代のパリサイ人たちが正にそうでした。15章の始まりの1節と2節にはこのように書いてあります。

1 さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。
2 すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言った。

 当時のパリサイ人や律法学者たちは厳格にモーセの律法を守っていました。それは、彼らの祖先が律法を守らなかったために神様が怒り、北王国も南王国も滅ぼされてしまったからです。北王国の民はアッシリアに捕囚として引かれて行き、二度と戻ることはありませんでした。一方、バビロンに捕囚として引かれて行った南王国の民はぺルシアのキュロス王の時代にエルサレムへの帰還が許されてエズラ記の時代にエルサレムの神殿が再建され、ネヘミヤ記の時代にエルサレムを囲って守る城壁が修復されました。

 そうしてエルサレムに戻ったユダヤ人たちは、今度はモーセの律法をしっかりと守るようになりました。とりわけパリサイ人たちは厳格に律法を守りました。しかし、あまりに厳格に守るという行き過ぎがあって、イエスさまが安息日に病人を癒したり、罪人と交わったりしていることを批判していました。このパリサイ人たちの姿は正に放蕩息子のお兄さんそのものでした。父親はこの兄息子に言いました。31節と32節を交代で読みましょう。

31 父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。
32 だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。』」

③九十九匹の羊であるユダヤ人
 31節で父親は兄息子に、「子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。」と言いました。ここから父親は兄息子のことも深く愛していることが分かります。そして兄息子のことを信頼していることが分かります。神様はユダヤ人を信頼して愛していました。

 15章の4節でイエスさまはおっしゃいました。

4 「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。

 私は神学生になる前の高津教会の信徒だった頃、そして神学生になった後でも、いつも九十九匹の羊たちのことが気になっていました。この九十九匹をちゃんと見ていなくて大丈夫なのだろうか?一匹を探している間に九十九匹がどこかに行ってしまったら大変です。一匹の羊のために九十九匹を放っておいて良いのだろうか?そんな心配をしていました。しかし、「放蕩息子の帰郷」の物語を兄息子をユダヤ人、弟息子を異邦人として理解するようになってからは、九十九匹の羊のことも良く理解できるようになりました。

 つまり、九十九匹の羊はユダヤ人です。ユダヤ人は律法を守っていますから、神様から離れることはありません。ですから神様は安心して九十九匹を野に残して、一匹を捜しに行くことができます。神様はユダヤ人たちの祖先のイスラエル人を選び、モーセを通じて律法を授けました。神様はイスラエル人を信頼していました。それが父親の兄息子へのことばの「子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ」に表れていると思います。

④根幹に位置する旧約聖書
 神様はユダヤ人たちの信仰がどんなであろうと、彼らを深く愛していました。そうして、信仰の根幹をユダヤ人に置いています。きょうの聖書交読ではパウロが書いたローマ人の手紙11章を開きました(新約p.315)。全部見ていると時間が掛かるので、17節と18節の2ヶ節だけ、交代で読みましょう。

17 枝の中のいくつかが折られ、野生のオリーブであるあなたがその枝の間に接ぎ木され、そのオリーブの根から豊かな養分をともに受けているのなら、
18 あなたはその枝に対して誇ってはいけません。たとえ誇るとしても、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。

 17節の「野生のオリーブ」とは異邦人のことです。野生のオリーブは、本家本元のオリーブに接ぎ木されて、その根から豊かな養分を共に受けます。日本人の私たちも異邦人ですから野生のオリーブです。そして本家本元のオリーブとはイスラエル人たちのことであり、イスラエル人たちが受け継いで来た旧約聖書とも言えます。

 私たち異邦人は旧約聖書から豊かな養分を受けています。18節にあるように旧約聖書が私たちを支えています。この旧約聖書に記されている律法をユダヤ人たちは守って来ました。そのことを神様は高く評価しています。このことを覚えながら、もう一度ルカの福音書15章に戻りたいと思います。31節をご一緒に読みましょう。

31 父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。

 この箇所からは神様がユダヤ人をいかに深く愛しているかが読み取れます。続いて32節もご一緒に読みましょう。

32 だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。』」

 異邦人の弟息子は父の家に帰って来ました。すべての民族は、もともとは父の家にいました。日本人の祖先も父の家にいました。そうして私たち日本人は父の家に戻って来ました。まだすべての日本人が戻ったわけではありませんが、父親はすべての日本人が自分の家に帰って来ることを期待して今も待っておられます。

⑤21世紀の子らに託したい大きな聖書観
 この「放蕩息子の帰郷」の物語を、ユダヤ人や異邦人などと大げさな話にしないで、個人の信仰の話として捉えても、もちろん全然問題ありません。これまでは個人の信仰の物語として捉えられて多くの人々が救われて来ました。しかし今日話したような大きな聖書観で捉えるなら神様がユダヤ人も異邦人も等しく深く愛しておられることが、もっと良く分かるようになります。

 21世紀のこれからの時代は世界がバラバラにならないように、聖書を大きな観点から読むことが必要になって来ます。世界というと20世紀生まれの私たちには大げさに聞こえるかもしれませんが、21世紀生まれの若い人たちにとっては決して大げさなことではありません。

 私が生まれたのは1959年です。そしてソ連のガガーリンが人類で初めて宇宙空間に飛び出したのは1961年です。つまり私が生まれた時には、人類はまだ誰も宇宙に行ったことがありませんでした。ガガーリン以降は人類は時々宇宙に行くようになりましたが、そうは言っても、宇宙に誰もいない期間のほうが長いという時代がずっと続きました。

 しかし、1989年からはロシアの宇宙ステーションのミールで長期滞在がされるようになり、さらに国際宇宙ステーションが建設されて、2000年の終わりからは常時少なくとも二人か三人は切れ目なく宇宙に人が滞在して生活している状態が続いています。つまり、今の中高生が生まれた時には、いつも宇宙に人が住んでいる時代になっていました。彼らにとっては宇宙に人がいることは当たり前のことです。

 そうして国際宇宙ステーションではアメリカ人もロシア人も日本人も何人(なにじん)であっても協力して任務に取り組んでいます。地上できな臭いことが起きても国際宇宙ステーションでは平和が保たれています。21世紀の今はそういう時代です。ですから21世紀生まれの中高生たちには聖書も大きな観点から読めるようになってもらいたいと思います。そうして世界のために祈れる幸いについても知ってもらいたいと願っています。

 来週以降も引き続き、「放蕩息子の帰郷」の物語を開きながら、大きな観点から聖書を読むことに思いを巡らしたいと思います。

 しばらくご一緒に、お祈りしましょう。
コメント