2019年7月4日祈り会メッセージ
『良い無と悪い無』
【ルカ11:24~26】
24 汚れた霊は人から出て行くと、水のない地をさまよって休み場を探します。でも見つからず、『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。
25 帰って見ると、家は掃除されてきちんと片付いています。
26 そこで出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は、初めよりも悪くなるのです。」
はじめに
木曜日の夜の祈祷会では「祈り」について共に学んでいます。前回はハレスビーの『祈りの世界』の冒頭の部分を紹介して分かち合いました。ハレスビーはこの本の冒頭で、「祈りは私たちの側が祈ることで始まるのではなくて、イエスさまの側が私たちの心の扉を叩いて始まるのだ、ということを書いています。このことを納得して、イエスさまが自分の心の扉を叩いていることを意識するようになると、祈りの時がより恵まれたものになるという話をしました。
さてハレスビーは、このことの次に、「無力さ」の重要性を説いています。少し紹介すると、ハレスビーは次のように書いています。
「祈りと無力さは切り離すことができません。無力な人だけが本当に祈ることができるのです」
とても興味深いことが書かれていますから、このことも共に分かち合いたく願っています。ただし、このハレスビーを分かち合うのは次の週にして、きょうは「無力」の「無」について考えてみたいと示されています。
良い無と悪い無
きょうのメッセージのタイトルは、『良い無と悪い無』です。先ほどご一緒に読んだルカ11章の24節から26節は、「悪い無」の例ですね。もう一度、確認しておきましょう。
24節では、まず汚れた霊が人から出て行きます。しかし、25節で戻って来ると、そこは掃除されてきれいになっていました。そこで汚れた霊は出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は、初めよりも悪くなります。心の中をきれいにするだけで聖霊に入っていただかないなら、前よりも却って悪くなってしまうという何とも恐ろしいことが、ここには書かれています。
では、このような「悪い無」にならないで聖霊に入っていただくためには、何が必要なのでしょうか。そのことを考えていたら私が神学生だった頃に聞いた申命記6章5節からの説教を思い出しました。
「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6:5)
その説教の中では「心を尽くして神を愛する」とは、どういうことかということについて説教者が考えていたことを話していました。この部分を英語では「Love the Lord your God with all your heart ・・・」と訳しています。「心を尽くして」は「all your heart」ということで、「心のすべてで神を愛する」ということです。すると、いったん心を空っぽにしなければ、心のすべてで神を愛することはできないだろう、説教者はそんなことを話していたように思います。
砕かれることの必要
その説教を聞いた時、私はなるほどと思いました。しかし今、改めて考えてみると、下手に心を空っぽにしてしまうと、ルカの福音書のイエスさまがおっしゃるように、悪い霊が入ってしまうかもしれません。では、どうしたら良いのでしょうか。それにはやはり、まずは神様によって心が砕かれないとダメなのだろうと思います。
多くの人の場合、心の中の大部分は罪で占められていて自分中心になっています。プライドの塊もあります。それらを全部空っぽにすることは、そもそも不可能なのだと思います。プライドが大きな塊になっていますから、大きな塊のまま外に運び出すことは不可能でしょう。仮にできたとしても、空っぽになった瞬間を悪魔は虎視眈々と狙っていて、そこに汚れた霊を送り込むことでしょう。
ですから、まずは神様によって心が砕かれる必要があります。神様によってプライドが砕かれることで、神様の支配下でプライドやその他の罪をきよめていただくことが肝要でしょう。そうすれば、心の中を占めている自分中心の罪が次第に神様中心へと置き換えられて行って、「心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、神様を愛することができるようになることと思います。
そのようにして心の中の自分中心が取り除かれるなら、自分の無力さがよく分かり、神様にすべてを委ねていくことができるのだと思います。
(後略)
『良い無と悪い無』
【ルカ11:24~26】
24 汚れた霊は人から出て行くと、水のない地をさまよって休み場を探します。でも見つからず、『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。
25 帰って見ると、家は掃除されてきちんと片付いています。
26 そこで出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は、初めよりも悪くなるのです。」
はじめに
木曜日の夜の祈祷会では「祈り」について共に学んでいます。前回はハレスビーの『祈りの世界』の冒頭の部分を紹介して分かち合いました。ハレスビーはこの本の冒頭で、「祈りは私たちの側が祈ることで始まるのではなくて、イエスさまの側が私たちの心の扉を叩いて始まるのだ、ということを書いています。このことを納得して、イエスさまが自分の心の扉を叩いていることを意識するようになると、祈りの時がより恵まれたものになるという話をしました。
さてハレスビーは、このことの次に、「無力さ」の重要性を説いています。少し紹介すると、ハレスビーは次のように書いています。
「祈りと無力さは切り離すことができません。無力な人だけが本当に祈ることができるのです」
とても興味深いことが書かれていますから、このことも共に分かち合いたく願っています。ただし、このハレスビーを分かち合うのは次の週にして、きょうは「無力」の「無」について考えてみたいと示されています。
良い無と悪い無
きょうのメッセージのタイトルは、『良い無と悪い無』です。先ほどご一緒に読んだルカ11章の24節から26節は、「悪い無」の例ですね。もう一度、確認しておきましょう。
24節では、まず汚れた霊が人から出て行きます。しかし、25節で戻って来ると、そこは掃除されてきれいになっていました。そこで汚れた霊は出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は、初めよりも悪くなります。心の中をきれいにするだけで聖霊に入っていただかないなら、前よりも却って悪くなってしまうという何とも恐ろしいことが、ここには書かれています。
では、このような「悪い無」にならないで聖霊に入っていただくためには、何が必要なのでしょうか。そのことを考えていたら私が神学生だった頃に聞いた申命記6章5節からの説教を思い出しました。
「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6:5)
その説教の中では「心を尽くして神を愛する」とは、どういうことかということについて説教者が考えていたことを話していました。この部分を英語では「Love the Lord your God with all your heart ・・・」と訳しています。「心を尽くして」は「all your heart」ということで、「心のすべてで神を愛する」ということです。すると、いったん心を空っぽにしなければ、心のすべてで神を愛することはできないだろう、説教者はそんなことを話していたように思います。
砕かれることの必要
その説教を聞いた時、私はなるほどと思いました。しかし今、改めて考えてみると、下手に心を空っぽにしてしまうと、ルカの福音書のイエスさまがおっしゃるように、悪い霊が入ってしまうかもしれません。では、どうしたら良いのでしょうか。それにはやはり、まずは神様によって心が砕かれないとダメなのだろうと思います。
多くの人の場合、心の中の大部分は罪で占められていて自分中心になっています。プライドの塊もあります。それらを全部空っぽにすることは、そもそも不可能なのだと思います。プライドが大きな塊になっていますから、大きな塊のまま外に運び出すことは不可能でしょう。仮にできたとしても、空っぽになった瞬間を悪魔は虎視眈々と狙っていて、そこに汚れた霊を送り込むことでしょう。
ですから、まずは神様によって心が砕かれる必要があります。神様によってプライドが砕かれることで、神様の支配下でプライドやその他の罪をきよめていただくことが肝要でしょう。そうすれば、心の中を占めている自分中心の罪が次第に神様中心へと置き換えられて行って、「心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、神様を愛することができるようになることと思います。
そのようにして心の中の自分中心が取り除かれるなら、自分の無力さがよく分かり、神様にすべてを委ねていくことができるのだと思います。
(後略)