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一粒のタイル2

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

良い無と悪い無(2019.7.4 祈り会)

2019-07-05 15:37:54 | 祈り会メッセージ
2019年7月4日祈り会メッセージ
『良い無と悪い無』
【ルカ11:24~26】

24 汚れた霊は人から出て行くと、水のない地をさまよって休み場を探します。でも見つからず、『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。
25 帰って見ると、家は掃除されてきちんと片付いています。
26 そこで出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は、初めよりも悪くなるのです。」

はじめに
 木曜日の夜の祈祷会では「祈り」について共に学んでいます。前回はハレスビーの『祈りの世界』の冒頭の部分を紹介して分かち合いました。ハレスビーはこの本の冒頭で、「祈りは私たちの側が祈ることで始まるのではなくて、イエスさまの側が私たちの心の扉を叩いて始まるのだ、ということを書いています。このことを納得して、イエスさまが自分の心の扉を叩いていることを意識するようになると、祈りの時がより恵まれたものになるという話をしました。

 さてハレスビーは、このことの次に、「無力さ」の重要性を説いています。少し紹介すると、ハレスビーは次のように書いています。

「祈りと無力さは切り離すことができません。無力な人だけが本当に祈ることができるのです」

 とても興味深いことが書かれていますから、このことも共に分かち合いたく願っています。ただし、このハレスビーを分かち合うのは次の週にして、きょうは「無力」の「無」について考えてみたいと示されています。

良い無と悪い無
 きょうのメッセージのタイトルは、『良い無と悪い無』です。先ほどご一緒に読んだルカ11章の24節から26節は、「悪い無」の例ですね。もう一度、確認しておきましょう。

 24節では、まず汚れた霊が人から出て行きます。しかし、25節で戻って来ると、そこは掃除されてきれいになっていました。そこで汚れた霊は出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は、初めよりも悪くなります。心の中をきれいにするだけで聖霊に入っていただかないなら、前よりも却って悪くなってしまうという何とも恐ろしいことが、ここには書かれています。

 では、このような「悪い無」にならないで聖霊に入っていただくためには、何が必要なのでしょうか。そのことを考えていたら私が神学生だった頃に聞いた申命記6章5節からの説教を思い出しました。

「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、を愛しなさい。」(申命記6:5)

 その説教の中では「心を尽くして神を愛する」とは、どういうことかということについて説教者が考えていたことを話していました。この部分を英語では「Love the Lord your God with all your heart ・・・」と訳しています。「心を尽くして」は「all your heart」ということで、「心のすべてで神を愛する」ということです。すると、いったん心を空っぽにしなければ、心のすべてで神を愛することはできないだろう、説教者はそんなことを話していたように思います。

砕かれることの必要
 その説教を聞いた時、私はなるほどと思いました。しかし今、改めて考えてみると、下手に心を空っぽにしてしまうと、ルカの福音書のイエスさまがおっしゃるように、悪い霊が入ってしまうかもしれません。では、どうしたら良いのでしょうか。それにはやはり、まずは神様によって心が砕かれないとダメなのだろうと思います。

 多くの人の場合、心の中の大部分は罪で占められていて自分中心になっています。プライドの塊もあります。それらを全部空っぽにすることは、そもそも不可能なのだと思います。プライドが大きな塊になっていますから、大きな塊のまま外に運び出すことは不可能でしょう。仮にできたとしても、空っぽになった瞬間を悪魔は虎視眈々と狙っていて、そこに汚れた霊を送り込むことでしょう。

 ですから、まずは神様によって心が砕かれる必要があります。神様によってプライドが砕かれることで、神様の支配下でプライドやその他の罪をきよめていただくことが肝要でしょう。そうすれば、心の中を占めている自分中心の罪が次第に神様中心へと置き換えられて行って、「心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、神様を愛することができるようになることと思います。

 そのようにして心の中の自分中心が取り除かれるなら、自分の無力さがよく分かり、神様にすべてを委ねていくことができるのだと思います。

(後略)
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午前の祈り会(6/26)のご案内

2019-06-25 18:43:06 | 祈り会メッセージ
午前の祈り会

6月26日(水)
午前10時半~(約1時間)

ごいっしょに
祈り、聖句を味わい、
おしゃべりしませんか?

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主の語り掛けから始まる祈り(2019.6.20 祈り会)

2019-06-21 05:52:50 | 祈り会メッセージ
2019年6月20日祈り会メッセージ
『主の語り掛けから始まる祈り』
【黙示録3:20】

神様の側の語り掛けから始まる祈り
 きょうは先ず、O.ハレスビー著『祈りの世界』(鍋谷堯爾・訳、日本基督教団出版局)の「第一章 祈りの本質 一、祈りとは何か」の冒頭の書き出しの部分(p.9)を紹介したいと思います。

(ここから引用)
「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3:20)

 聖書全体の中で、このみことばほど祈りの本質について明らかに示してくれるものはないでしょう。このみことばは祝福された祈りの世界への扉を開ける鍵と言えます。祈るとは、心を開いてイエスをお迎えすることです。まず最初に、私たちの祈りがイエスを動かすのではないことを覚えたいと思います。そうではなくて、イエスが私たちを動かして祈らせてくださるのです。まずイエスが心の扉をたたかれるのです。イエスが、私たちの心に入りたいと知らせてくださるのです。私たちの祈りは、いつも、イエスが私たちの心をたたいてくださったことの結果なのです。
(引用ここまで)

 この本を私は10年以上前、まだ高津教会の信徒だった頃に買いました。この春に静岡に来てから、久しぶりでこの本を開いて、今の冒頭の文章を読み、とても大切なことを思い出しましたから、感謝に思っています。正直に告白すると、私はこの本に書かれている、「祈りはイエスさまの語り掛けから始まる」、すなわち「祈りは神様の側の語り掛けから始まる」ということを、すっかり忘れていました。そうして祈りは自分から始めていると思い込んでいました。しかし、祈りは神様の語り掛けから始まるのだということに改めて思いを巡らし、そのことに同意して以降は、祈りの時間を持つことに以前よりも大きな恵みを感じるようになりました。

 このことを、以前から承知していた方にとっては、何を今さらと思われることと思いますが、きょうは先ず、このことを分かち合いたいと思います。

神様と双方向の関係を持つことの大切さ
 繰り返しになりますが、この春、このハレスビーの本の最初の部分を読み直してから、私は本当に祈りの時間に恵みを感じるようになりました。睡眠不足で朝早く起きて祈るのが億劫な時も、神様が祈りの座に着くように促して下さっていると思うと、起きられます。神様からの声掛けを意識できていなかった頃は、起きられないこともよくありました。

 また、まず神様に感謝してから、祈りに入れるようになりました。「神様、この祈りの座に招いて下さりありがとうございます」と、決まり文句的ではなく心からそう思いながら感謝し、それから祈りに入ることができるようになりました。

 そうして神様と良い関係を作ってから祈るようになりましたから、神様が自分の祈りをしっかり聞いていて下さるという確信を持ちながら祈れるようになりました。神様がいつどのような形で祈りに応えて下さるのかは分かりませんが、神様が自分の祈りを聞いていて下さることを確信しながらお祈りできることは、大きな恵みであると感じています。

 このことを念頭において、この黙示録3:20のみことばを改めて読んでみると、ここには正に、神様との関係作りのことが書かれていると感じます。

「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3:20)

 この20節の後半の、「わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」からは、神様と双方向の関係を作ることの大切さが分かると思います。神様からの一方的な語り掛けではなく、また私たちの側からの一方的な祈りでもなく、双方向の関係であることが重要であることを覚えたいと思います。

 そして、この「食事をする」を「祈る」に置き換えることもできるかもしれません。「わたしはその人のところに入って彼とともに祈り、彼もわたしとともに祈る。」

私たちのうちに入って祈ってくださる御霊
 このことを思い巡らしていて、私はふと第一ヨハネ4章の「神はその人のうちにとどまり、その人も神のうちにとどまる」も、祈りについてのことのように感じました。その箇所をご一緒に読みましょう。第一ヨハネ4章の13節から15節までを交代で読みましょう(新約p.483)。

4:13 神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります。
4:14 私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、その証しをしています。
4:15 だれでも、イエスが神の御子であると告白するなら、神はその人のうちにとどまり、その人も神のうちにとどまっています。

 私たちが神様のうちにとどまって祈るとき、神様ご自身も私たちのうちにとどまって「とりなしの祈り」をして下さる、そんな風に感じました。御霊がとりなしの祈りをして下さることは、ローマ人への手紙8章に書いてありますね。

 最後に、その箇所をご一緒に読んで終わりたいと思います。ローマ人への手紙8章の26節と27節を交代で読みましょう(新約p.310)。

8:26 同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。
8:27 人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。

 イエスさまは私たちの心の扉を開いて、私たちがその扉を開けるなら、イエスさまは私たちの中に入って下さいます。それは御霊が入って下さるということです。そうして御霊は私たちのうちでとりなしの祈りをして下さいます。そんな風に、きょう開いた聖書箇所から感じています。

おわりに
 御霊が私のうちでとりなしの祈りをして下さっていることを感じると、とても心強く感じます。今夜はこのことに思いを巡らしながら、お祈りしたいと思います。

「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに祈り、彼もわたしとともに祈る。」
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ヒゼキヤの祈りを聞かれた主(2019.6.13 祈り会)

2019-06-15 09:02:01 | 祈り会メッセージ
2019年6月13日祈り会メッセージ
『ヒゼキヤの祈りを聞かれた主』
【Ⅱ列王記20:1~11】

はじめに
 きょうから祈祷会ではしばらくの間、シリーズで祈りについて共に考え、思いを巡らすことにします。

ヒゼキヤの祈りを聞かれた主
 第1回目の今日は第二列王記20章のヒゼキヤ王の箇所を開きます。私たちの今の最大の祈りの課題の一つは○さんに関することです。私は毎朝○○さんのことをお祈りする時には、いつもこの箇所のことを思いながらお祈りをしています。
 6節で主は仰せられました。

「わたしは、あなたの寿命にもう十五年を加える。わたしはアッシリアの王の手からあなたとこの都を救い出し、わたしのために、わたしのしもべダビデのためにこの都を守る。」

 このように主はヒゼキヤ王の寿命をあと15年増し加えました。○さんも、今も礼拝出席に励んで下さっています。主が○さんに、あとどれぐらいの寿命を増し加えて下さるのか、それは主のみがご存知のことですが、できる限り多く増し加えて下さいと私はお祈りしています。

 ヒゼキヤの病気は治りました。しかしヒゼキヤはなお心配でした。一時的に良くなっただけで、すぐまた悪くなるのではいかと心配でした。それでヒゼキヤはしるしを求めました。すると預言者イザヤは答えました。9節です。

「次のことが、あなたへのからのしるしです。は約束したことを成就されます。影が十度進むか、十度戻るかです。」(Ⅱ列王20:9)
 ヒゼキヤは答えました。「影が十度伸びるのは容易なことです。むしろ、影が十度後(あと)に戻るようにしてください。」(10)
 預言者イザヤがに祈ると、主は、アハズの日時計に落ちた日時計の影を十度後(あと)に戻されました。(11)

 私たちは、この11節にある日時計の影が十度後に戻ったということを素直に信じたいと思います。しかし、このことをどのように解釈して信じたら良いでしょうか。きょうは、このことを先ずご一緒に考えてみたいと思います。

 私はこのことを霊的な領域のこととして解釈しています。地球の自転という天体の運動と結び付けて考えるべきではないでしょう。主は何でもできるお方ですから、地球の自転を逆向きにすることもできます。そのように地球が逆回転すれば日時計の影も後に戻るでしょう。しかし、逆回転が起きたら地上は大変なことになります。

 例えば、地球の表面には海の水があります。これを身近なお皿の水で考えてみましょう。浅いお皿に水を入れて、このテーブルの上で皿を動かしたとします。ゆっくり動かせば皿の上の水はそのままでいてくれるでしょう。しかしお皿を急に止めて逆の方向に動かすなら、水は浅い皿の縁を越えてこぼれ出すでしょう。お皿は急に止まれても、水は急には止まれません。地表の海の水も急には止まれませんから、もし地球の自転が止まって逆回転したら、津波のように海水が陸地に押し寄せることでしょう。そうして地上は大混乱に陥ります。

 ですから、このヒゼキヤの箇所の日時計の影が十度後(あと)に戻ったという記事も、霊的な領域のことであると私は解釈します。

祈りのことばを過去にも運べる主
 神様は人に対して過去のことも未来のことも自在に見せることができます。人間は過去や未来に自在に行くことはできませんが、神様は過去にも未来にも同時にいて、過去や未来のことを人間に見せることができます。

 例えばイザヤは十字架に付けられたイエスさまの姿を見てイザヤ書53章のしもべの姿を書きましたが、これはイザヤが未来のイエスさまを予見したというよりは、神様がイザヤに未来のイエスさまの姿を見せたと考えるべきでしょう。主体は常に神様の側にあります。

 神様は人の祈りのことばも過去や未来に自在に運ぶことができます。例えば教会や神学校で多額のお金がどうしても必要になった時、懸命に祈ったら与えられたという話をよく聞きます。そして、そのお金が送られた時間を調べたら祈る前に送金されていたということが昔はよくあったそうです。

 昔はお金を送るのには小切手を郵送するなどの方法が取られました。すると小切手が届くのには何日も掛かります。その小切手は祈られる前に既に発送されていたということが、よくあったそうです。これは、小切手を発送した人が未来の必要を予見して発送したというよりは、神様が祈り手の祈りのことばを過去にいる人に届けたと考えるべきでしょう。

 これから紹介する証しは、小切手ではなくて湯たんぽですが、とてもドラマチックで感動的な証しですから、紹介したいと思います。ご存知の方もいるかもしれませんが、何度聞いても感動的な証しですから、ご一緒に聞いて下さい。

 これは、デイブ・アーリー著『最も祝福された21人の祈り』(根本愛一・訳、福音社)に書かれている、ヘレン・ローゼベアという人の証しです。彼女は20年間、アフリカのコンゴで医者として、また宣教師として奉仕していました。以下に引用しますが、分かりにくい箇所を少し変えています。この中の「私」というのが、医者で宣教師のヘレンのことです(p.124~127、一部を改変)。

(ここから引用)
 私がある夜遅くまで働いていた時、分娩室の方から助けを呼ぶ母親の声が聞こえてきました。しかし、必死の集中治療の甲斐もなく、その母親は未熟児の乳児と二才の娘を残して亡くなったのです。私たちの病院には保育器や、新生児に与えるミルクもなく、生まれたばかりの赤ちゃんの命を救うことは不可能に思えました。

 赤道の真下とはいえ、夜になると底冷えのする風が吹くことがあります。一人の看護学生が赤ちゃんを綿で包んで保護するための箱を探しに走りました。他の一人はストーブの所に行き、ゴム製の湯たんぽに熱湯を入れようとしましたが、「湯たんぽが壊れてしまいました。これが最後の湯たんぽなのに…」と叫びながら戻ってきたのです。アフリカでは熱と湿気でゴムはすぐに劣化してしまいます。さらに悪いことに、コンゴのジャングルには薬屋は一軒もありませんから、湯たんぽをすぐに調達することは不可能でした。

 私は、学生たちに次のように命じました。「安全を確認しながら赤ちゃんをなるべく火の近くに置き、さらに外からの風が赤ちゃんにあたらないようにしなさい。」「赤ちゃんと扉の間で寝るようにしなさい。」「あなたたちの役目はできる限り赤ちゃんを温めておくことよ。」

 翌朝、いつものように祈るために施設の孤児たちと一緒に集まりました。私は孤児たちに赤ちゃんのことを話しました。「赤ちゃんは体温が下がるとすぐに死んでしまいます。ところがお湯を入れて温めるはずの湯たんぽが壊れて困っています。それに赤ちゃんのお姉さんの二才の子供が母親を失って泣き続けています。どうか一緒に祈ってください。」

 これを聞いて、皆が順番に祈り始めました。10才の少女のルースの番になると彼女は驚くほど簡潔に、しかもハッキリと、「神様、お湯を入れる湯たんぽが必要です。明日では遅すぎます。今日午後までに与えてください。そうしないと赤ちゃんは死んでしまいます」と祈ったのです。

 彼女が祈っている間、私はこの少女が少々厚かましい祈りを捧げているのではないかと内心思いましたが、さらに耳を疑うようなお祈りが続きました。「神様、湯たんぽと一緒にお人形を持ってきてください。そうすれば赤ちゃんのお姉ちゃんはあなたに愛されていることを知ることができます」

 時々、私は子供の祈りに素直に「アーメン」と言えないことがあります。神がそんな願いを聞かれるはずがないからです。もちろん神は何でもできるお方だと聖書で学んで知っています。しかしできることとできないことがあるはずです。神がこの少女の祈りに答えるとしたら、神が私の故国から荷物でそれらを届けるしかありません。アフリカに来て四年にもなりますが、ただの一度も故国から荷物を受け取ったことがありません。もし荷物が送られて来たとしても、送り主が湯たんぽなど入れるはずがありません。だって、ここは赤道の真下です!

 その日の午後も過ぎる頃、いつものように看護学生を教えていると入口に車が来ているとの連絡を受けました。私が入口に行く頃には車は既にありませんでしたが、入口横のベランダに10キロ程の大きな荷物が置かれているのを見た瞬間、私の目から涙が溢れてきたのです。私は一人で荷物を開けることができず、子供たちを呼び寄せ、一緒に荷物の縄をほどき、包み紙を破かないように注意深く荷を開けました。子供たちの何十もの熱い視線が荷物を入れた段ボール箱に注がれています。箱を開けると一番上に可愛いジャージが置かれていました。次に色々なサイズの包帯が出てきました。その次には干しブドウ…これでおいしいパンを作って食べさせよう。

 再び荷物の中に手を入れると…この手触りは…まさか? 私の手は確かに真新しいゴム製の湯たんぽを探り当てていたのです。もう涙を止めることができません。私が祈り求めたのではありません! ルースが祈った時、私は疑っていました。ルースは湯たんぽが取り出されるのを見て、「神様が湯たんぽを送ってくださったのなら、この中に人形も入っているはず」と興奮しながらその小さな手を荷物の中に差し入れたのです。

 荷物から引き出された彼女の小さな手には、とても可愛らしい人形が握られていました。途端に彼女の目は輝き、そして私に「一緒に赤ちゃんのお姉ちゃんの所に人形を持っていきたい。そうしたらイエス様がどんなに彼女を愛しているかわかると思わない?」と言いながら私の手を引いたのです。

 その荷物は五ヶ月もかけて故国から届いたものでした。私が教えていた教会学校の皆から送られたものでした。そのうちの一人が、神から赤道の直下にいる私に湯たんぽを送るようにとの声を聞いてその通りにし、別の少女がアフリカの女の子にといって人形を入れたのです。
(引用はここまで)

 この湯たんぽの事例も、少女ルースが祈った、「湯たんぽを今日の午後までに与えて下さい。湯たんぽと一緒にお人形も持って来て下さい」という祈りのことばが、神様によって五ヶ月前の過去に届けられたと考えるべきでしょう。神様は祈りのことばを過去にも未来にも自在に届けることができるお方だからです。神様が時空を超えたお方だというのは、そういうことです。

おわりに
 きょう、もし自分が何かしなければいけないと感じたら、それは未来の誰かが祈ったことばが神様によって運ばれたからかもしれません。きょう私たちが祈ったことが神様によって過去の誰かに運ばれることもあるでしょう。未来の交通安全の祈りが今日の交通安全につながっているかもしれません。だからこそ、私たちは絶えず祈らなければならないと思います。

 きょうの祈りがいつどのように神様に用いられるか私たちには分かりません。しかし、神様は不思議な方法で私たちの祈りを聞いて下さるお方です。このことを信じて、絶えず祈る私たちでありたいと思います。

 お祈りいたしましょう。
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聖書を広く思い巡らせるようになるために(2019.6.6 祈り会)

2019-06-08 08:25:44 | 祈り会メッセージ
2019年6月6日祈り会メッセージ
『聖書を広く思い巡らせるようになるために』
【出エジプト25:8】

はじめに
 きょうは大人のCSで感じたことから話を始めます。

 大人のCSの時間では、私はいつも少し離れた所から話を聞かせていただいています。この大人のCSでは、特に聖書の初心者の方々の感想を興味深く感じています。そし私自身も初心者の頃は、そんな感じだったなと昔を振り返っています。そして、自分はどのようにして、その初心者の段階から一歩前に進むことができたのだろうか、或いはまた、今この教会に集っている初心者の方々には、どのようなことをお勧めすれば、もう少し深いレベルで聖書を味わっていただくことができるだろうか、などということに思いを巡らしています。

一字一句への良いこだわりと良くないこだわり
 初心者の方々の感想を聞いていて感じるのは、聖書のことばの一字一句に、悪い意味で囚われ過ぎているということです。一字一句にこだわることは悪いことではありません。例えば四つの福音書の全部に記されている「五千人の給食」の出来事の記事では、イエスさまは五つのパンと二匹の魚で五千人を満腹にして、なおパンが余りましたね。このパンのことを、ヨハネの福音書だけは「大麦のパン」としています。この「大麦のパン」にこだわり、なぜヨハネは「大麦のパン」と書いたのだろうかに思いを巡らし、列王記のエリシャもまた「大麦のパン」を増やしたこととの関連性に思いを巡らすなら、自分の中で聖書の世界がどんどん広がって行きます。

 そのように、一つの聖書箇所だけに囚われずに他の聖書箇所へも思いが広がって行くなら、一字一句にこだわることは、良い学びへと発展して行くことでしょう。

 しかし初心者の場合は、一つの聖書箇所だけに留まってしまいます。例えば、つい先日の大人のCSではマタイ22章の1節から14節までが開かれていましたね(ご一緒に開きましょう)。この箇所では、王が自分の息子のために結婚の披露宴を催します。しかし招待した客は披露宴に来ませんでした。そこで王は大通りで出会った人々を披露宴に招くようにと僕(しもべ)に言い、それで披露宴は客でいっぱいになりました。ところが客の中に、婚礼の礼服を着ないで来た者がいました。そこで王は召使いたちに言いました。13節です。

『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。この男はそこで泣いて歯ぎしりすることになる。』

 この箇所を読んだ初心者の方の一人が、「こんなことを言う王はひどい人だ」という感想を述べていました。確かに、ここだけを読めば、王はひどい人だと思ってしまっても仕方がないかもしれません。けれども、このページの下にある13節の脚注を見ると、マタイ8:12、25:30とありますね。マタイは別の箇所でも同様の表現を用いています。マタイ25章の30節をご一緒に読みましょう。

25:30 『この役に立たないしもべは外の暗闇に追い出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』

 この役に立たないしもべというのは、一タラントのしもべのことです。五タラントと二タラントのしもべは、「よくっやった。良い忠実なしもべだ」と主人に言ってもらえました。しかし、一タラントのしもべは「悪い、怠け者のしもべだ」と主人に言われて暗闇に追い出されることになりました。

 このように、一つの箇所だけでなく、別の箇所をも読み合わせるなら、王がどのような者を喜び、どのような者を嫌うかが段々と分かって来ます。王に敬意を表して、披露宴でも商売でも何でも王と共に喜びを分かち合おうとする者のことを、王は喜び大切にして下さいます。そういうことに思いを巡らさないで、「王はひどい人だ」という感想だけを持ってしまうことは、とても残念なことだと思います。

旧約と新約の垣根を越えて聖書を広く思い巡らす
 このように聖書の他の箇所にも広く思いを巡らすことなく一つの箇所の一字一句に囚われてしまうのは、初心者だけではないかもしれません。ある程度の期間、聖書を読んで来た経歴を持っておられる方々の中にも、そのような方はいるかもしれません。

 では、そのような方々にもっと世界を広げていただくためには、どんなことをお勧めしたら良いでしょうか。ここで、先日の礼拝で開いた聖書箇所のうちの一つの出エジプト記25章8節をもう一度、ご一緒にお読みしましょう。

25:8 彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。

 礼拝でも話しましたが、この箇所は狭い意味では、エジプトを脱出したイスラエルの人々に対して主がモーセを通して幕屋を造るように命じたことばです。しかし、21世紀を生きる私には新約の時代の命令として聞こえて来ます。すなわち、主は私たちの心の内を整えて、聖霊が住む聖所としてふさわしい場所にしなさい、とおっしゃっているように聞こえます。

 そのように旧約と新約の垣根を越えて21世紀の私たちへのメッセージとして心の中に響いて来ます。一つの聖書箇所の狭い範囲の中に留まっていると、この主のことばは出エジプト記の時代のイスラエル人に対することばとしか読み取れないでしょう。このことばが自分に迫って来ることもないでしょう。しかし、その狭い箇所から解放されるなら、21世紀の私たちに向けたメッセージとして迫って来ます。

レビ記から天の父を感じた体験の証し
 ここで私自身の体験の証しを挟むことにします。
 これから証しする体験は2011年の6月、私が神学生の4年生の時にインターン実習生として姫路教会に派遣されていた時のことです。姫路で私は毎朝、祈りと聖書通読とディボーションの時を持っていました。そして、この日の聖書通読の箇所はレビ記1章からの何章かでした。この時に使用していた聖書は新改訳の第3版でしたから、第3版でレビ記1章1節からの何節かをお読みします。

1:1 はモーセを呼び寄せ、会見の天幕から彼に告げて仰せられた。
1:2 「イスラエル人に告げて言え。もし、あなたがたがにささげ物をささげるときは、だれでも、家畜の中から牛か羊をそのささげ物としてささげなければならない。
1:3 もしそのささげ物が、牛の全焼のいけにえであれば、傷のない雄牛をささげなければならない。それを、彼がの前に受け入れられるために会見の天幕の入口の所に連れて来なければならない。
1:4 その人は、全焼のいけにえの頭の上に手を置く。それが彼を贖うため、彼の代わりに受け入れられるためである。
1:5 その若い牛は、の前でほふり、祭司であるアロンの子らは、その血を持って行って、会見の天幕の入口にある祭壇の回りに、その血を注ぎかけなさい。
1:6 また、その全焼のいけにえの皮をはぎ、いけにえを部分に切り分けなさい。

 いま私たちが使っている新改訳の2017年版では5節の文末は「その血を振りかける」、6節は「各部に切り分ける」になっていますが、第3版では5節が「その血を注ぎかけなさい」、6節が「部分に切り分けなさい」となっていて、「~しなさい」という表現がここ以降も続いて行きます。

 私はこの「~しなさい」という文末の表現に、父親の我が子に対する深い愛情を感じて、それゆえに涙が溢れ出て来て止まらなくなりました。レビ記はそれまで何度も読んでいて、それまではそんな涙が出るようなことはありませんでしたから、とても不思議な経験でした。

 ここには牛をほふっていけにえとして捧げるための細かい手順が書かれていますから、現代風に言えば動物虐待のようなひどい事が書いてあるとも言えるかもしれませんね。先ほど聖書の初心者がマタイの福音書22章を読んで、礼服を着て来なかった男の手足を縛って外の暗闇に放り出すように命じた王のことを、ひどい王だという感想を持ったという話をしました。その方がここを読めば、牛に対してこんな残酷なことをするなんて、主はひどい方だという感想を持つかもしれませんね。

 しかし、この時の私は、そういう細かい描写にはまったく目が向かずに、単に「~しなさい」という表現に主の深い愛を感じて涙を流しました。イスラエルの民の信仰は、とても幼いものでした。喉が乾けば水を欲しがりました。お腹がすけば食べ物を欲しがりました。彼らの多くは大人でしたが、信仰レベルでは幼稚園の子供と同じか、それ以下でした。そんな信仰の幼い者たちに対して、主は「~しなさい」、「~しなさい」と愛情を込めて物事を懇切丁寧に教えました。

 この天の父の、イスラエル人に対する深い愛情を感じた時、私はそれまでの自分が天の父の愛をほとんど分かっていなかったことを、とても申し訳なく思いました。また、自分の実際の親が私に対して深い愛情を注いでいてくれたのに、若い時の私は親の愛をぜんぜん分かっていなかったことも思い出して、そのことに対しても申し訳ないという気持ちで一杯になりました。そうして涙が止まらなくなりましたから、その日の朝の聖書通読はレビ記1章の6節より先に進むことができなくなりました。これは私に対して聖霊が激しく降った経験で、この時以降、私の聖書理解は格段に深まりました。

祈りと聖書通読とディボーションの勧め
 これは個人的な体験で一般化はできないと思いますが、一日の時間の中で祈りと聖書通読とディボーションの時を持つことの大切さは、どの方にとっても言えることだと思います。そこで、これからの礼拝と祈り会のメッセージでは、これら祈りと聖書通読とディボーションの時を持つことの大切さについて、シリーズで話すことにしたいと思っています。

 具体的には、次のペンテコステの日の礼拝メッセージでは、ディボーションの時を持つことの大切さを話して、ディボーションの時を持つことを教会の皆さんにお勧めしたいと思います。既に実行している方も多いとは思いますが、そのような時を持っていない方もおられることと思います。そして、その次の聖日からは聖書通読の大切さについて話すことにしたいと思います。

 聖書通読は、聖書を読んだ時に一つの箇所に囚われてしまわないようにするために、どうしても必要なことです。いま読んでいる箇所が、他の箇所とどのように関連するのか、そのことが分かるようになることで、神様への理解が格段に深まります。そのような読み方ができるようになるためには、創世記が聖書の後ろのほうの箇所とどう関係して来るか、レビ記が他の箇所とどう関係して来るか、などを知ることが大切でしょう。

 それゆえ礼拝メッセージでは創世記、レビ記、民数記と順次取り上げながら、それらの書が聖書の他の書とどう関係しているかについて、シリーズで話して行くことにしたいと思います。

 そして祈り会では、私が「祈りについての本」を読んで示されたことや思いを巡らしたことや、その「祈りについての本」にとても良いことが書いてある場合には、それをそのまま紹介する、ということもしたいと思います。祈り会ではできれば次週から、その祈りのシリーズを始めたいと思います。

 そのようにして、一日の時間の中で祈りと聖書通読とディボーションの時を持つことの大切さについて、礼拝と祈り会とで分かち合うことができたらと思います。

 お祈りいたしましょう。
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私たちは何を共有していて、何を伝えて行くべきか(2019.5.23 祈り会)

2019-05-24 08:57:55 | 祈り会メッセージ
2019年5月23日祈り会メッセージ
『私たちは何を共有していて、何を伝えて行くべきか』
【ヨハネ1:38~39、ヨハネ21:24~25、使徒1:8】

はじめに
 次聖日の礼拝後には伝道委員会があります。きょうはそのための心備えをしたいと思います。

 これからの伝道を考える上で、私たちは何を伝えたいのかということを、ある程度は共有しておく必要があるだろうと思います。 個人伝道でなら自分の伝えたいことを伝えても良いかもしれませんが、教会として伝道するなら、皆が共有していることを発信しないと大きなエネルギーにはならないと思いますから、きょうはそのことについて考えてみたいと思います。

神との出会い方で違ってくる聖書解釈
 では、私たちはキリスト教のこと、或いは聖書のことで、どんなことなら共有できているでしょうか。そのことに思いを巡らしていて思ったのですが、私たちは実は、そんなに多くのことを共有できているわけではないという気がします。

 最近、ある人が、ダビデが本当に神様と出会ったのはバテ・シェバ事件の時が初めてではなかったかということを言っています。そう言われれば、そういう気もしますが、それはどうなのかな?という気もします。ダビデがどういう人物で、ダビデがいつ本当の意味で神様と出会ったのかということは、人によって捉え方が異なるだろうと思います。

 それは、聖書の読者の一人一人が生まれ育った環境が異なり、神様との出会い方も人それぞれだからです。それらの経歴の違いがダビデなどの人物像を思い描く時には、かなり影響するだろうと思います。或いはまた、神様とまだ出会ったことがない聖書の読者もたくさんいます。そのような人々もダビデについて語りますから、本当に様々な解釈が生まれます。

 例えば、旧約聖書の第二サムエル6章12節から15節を交代で読みましょう(旧約聖書p.549)。

6:12 「が神の箱のことで、オベデ・エドムの家と彼に属するすべてのものを祝福された」という知らせがダビデ王にあった。ダビデは行って、喜びをもって神の箱をオベデ・エドムの家からダビデの町へ運び上げた。
6:13 の箱を担ぐ者たちが六歩進んだとき、ダビデは、肥えた牛をいけにえとして献げた。
6:14 ダビデは、の前で力の限り跳ね回った。ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた。
6:15 ダビデとイスラエルの全家は、歓声をあげ、角笛を鳴らして、の箱を運び上げた。

 ここでダビデは神の箱の前で力の限り跳ね回りました。このダビデの行動について、別の人が「これは民衆の心を掌握するためのダビデのパフォーマンスだ」と説明しているのを聞いたことがあります。その話を聞いた頃、私はまだサムエル記について自分自身でじっくりと思いを巡らしたことがありませんでしたから、「へ~、そうなんだ。パフォーマンスだったんだ。」というぐらいの軽い感想を持っただけでした。

 しかし、その後、第一サムエルと第二サムエルを何度か繰り返し読んで思いを巡らすうちに私自身は、これはパフォーマンスではなくてダビデは心の底から主を愛していて、それで神の箱をダビデの町に運び入れる時に喜びが爆発して跳ね回ったのだと考えるようになりました。今でもそう思っています。

 このように聖書は、同じ箇所を読んでも人によって捉え方は様々です。人によって神様との出会い方が違うからです。皆さんは、この箇所のダビデはどちらだったと思うでしょうか?これはパフォーマンスだったと思う人もいるでしょうし、いやそうではなくてダビデは心の底から神様を愛していたからこそ喜びを爆発させて跳ね回ったのだ、と思う人もいるでしょうね。両方の人がいることでしょう。

神様との出会いの経験を共有している私たち
 同じ教会内の人同士であっても聖書の解釈の仕方は様々です。すると私たちは何を共有することができているでしょうか。少なくとも使徒信条は共有しているはずですが、「じゃあ、これからは使徒信条を熱心に伝道しましょう」という風にはならないですよね。使徒信条はもちろん私たちの根幹にありますが、使徒信条を正直にそのまま熱心に伝えても、周囲には硬い印象を与えるだけでしょう。

 では、私たちは何を共有していて、何を発信したら良でしょうか。

 そこでさらに思いを巡らしていて思ったことは、私たちは神様と出会ったという事実は共有しているだろうということです。人それぞれ違う出会い方を経験しましたが、少なくとも神様と出会ったという事実だけは皆さんが同じように持っていると思います。それが静岡教会の強みだと思います。

 クリスチャンとは名ばかりで、神様と出会ったことがないクリスチャンも世の中にはたくさんいますが、70年記念誌の『御手の中で』を読ませていただくと、静岡教会の皆さんが神様と出会った経験を持っていることがよく分かります。

 繰り返しになりますが、私たちが外に向けて伝道して行く時には、私たちが共有していることを発信しないと、大きなエネルギーにはならないと思います。大きな力を持って伝道するには私たちが共有していることを発信する必要があります。その私たちが共有しているのは、私たちは神様と出会ったという経験です。

イエスの呼び掛けの声に応答した私たち
 ここでヨハネの福音書1章の38節と39節を交代で読みましょう。

1:38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊まりですか。」
1:39 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすれば分かります。」そこで、彼らはついて行って、イエスが泊まっておられるところを見た。そしてその日、イエスのもとにとどまった。時はおよそ第十の時であった。

 38節でイエスさまはついて来た弟子たちに「あなたがたは何を求めているのですか」と聞きました。このイエスさまに付いて行った弟子たちのうちの一人とは、実は私たちのことです。

 イエスさまは私たちの一人一人に、「あなたがたは何を求めているのですか」と聞きました。そして、「来なさい。そうすれば分かります」とおっしゃいました。そうして私たちは教会に導かれてイエスさまと出会うことができました。そのようにして教会生活を送るようになって分かったことは、私たちが求めていたこととは、イエスさまと本当の意味で出会うことだった、ということではないでしょうか。

 私たちは誰でも、イエスさまから「あなたがたは何を求めているのですか。来なさい。そうすれば分かります」と声を掛けられています。教会の前の道を行き交う人々も皆がイエスさまから、このように話し掛けられています。歩道を歩く人々も、車で通る人々も、皆がイエスさまから声を掛けられています。しかし、大半の人が素通りをして行きます。

 そんな中、私たちはイエスさまの声に応答して、教会の門をくぐりました。そして、教会生活を過ごすうちにイエスさまがどのようなお方かが分かり、自分が求めていたのはイエスさまとの本当の出会いであったのだということが分かるようになりました。

証しを書き記した弟子とは私たちのこと
 これまで私はこの教会の集会で何度か、聖書の読者はイエスさまを時間に縛り付けていると話して来ました。イエスさまを時間に縛り付けていると、このヨハネの福音書1章のイエスさまは1世紀のイエスさまです。しかしイエスさまを時間から解き放つなら、イエスさまは21世紀の私たちにも「あなたがたは何を求めているのですか。来なさい。そうすれば分かります」と話し掛けて下さっていることに気付きます。

 すると自分自身も時間から解き放たれて、自分がイエスさまとヨハネの福音書の中を1章から始まって最後の21章まで一緒に旅しているのだと気付くことでしょう。今度は、このヨハネの福音書の最後の21章24節と25節を交代で読みましょう。

21:24 これらのことについて証しし、これらのことを書いた者は、その弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている。
21:25 イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。

 イエスさまを時間の縛りから解き放ち、私たち自身も時間から解き放たれるなら、このヨハネの福音書の中で証ししているのは、実は私たち自身のことでもあることに気付くでしょう。

 それゆえ証しの一つ一つを書き記すなら、その書かれた書物を収められないとヨハネは書いています。イエスさまが地上生涯で行なったことがどんなに多かったとしても、さすがにその証しだけでは世界を埋め尽くすことはできないでしょう。しかし、21世紀の私たちに至るまでイエスさまと出会った弟子たちのすべてが証しを書物にするなら、世界を埋め尽くすことができるでしょう。

おわりに
 私たちは、このイエスさまとの出会いを、証人として証ししていかなければなりません。有名な使徒の働き1章8節に書いてある通りです。最後に使徒の働き1章8節をご一緒に読んで終わることにします。ヨハネ21章のすぐ次のページにあります。

1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」

 イエスさまと出会い、イエスさまは神の子キリストであると信じて聖霊を受けた私たちはイエスさまの証人です。イエスさまは私たちに、「あなたがたは何を求めているのですか。来なさい。そうすれば分かります。」と話し掛けて下さり、その声に応答してイエスさまに付いて行った私たちに、素晴らしい恵みを与えて下さいました。

 私たちは、そのことを力強く証しして行きたいと思います。そのために具体的に何をすべきかを、これからいろいろと相談して行きたく思います。そのことへの教え導きの声も掛けて下さっていることと思いますから、その御声をさやかに聞くことができますようにも、お祈りしたいと思います。
 お祈り致しましょう。
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恵みのスリットを全開にしよう(2019.5.16 祈り会)

2019-05-17 10:00:51 | 祈り会メッセージ
2019年5月16日祈り会メッセージ
『恵みのスリットを全開にしよう』
【民数記14:1~11】

はじめに
 私が静岡に引っ越して来てから、1ヶ月と1週間が経ちました。転任に伴ってしなければならなかったことが、ようやく片付いて来て感謝に思っています。

 礼拝と祈り会のメッセージはどの教会にいてもすることですから、準備に時間を掛けることはどこにいても同じですが、転任すると週報のフォーマットが変わりますから、先ずはこのことに適応するのが大変でした。1ページ目と4ページ目は前任の教会とまったく異なります。加えて2ページ目と3ページ目もまったく異なるものとなったら対応できないと思いましたから、2ページ目と3ページ目は前任地と同じスタイルにさせていただきました。

 それから引っ越して来た翌々週に静岡教区の教区会がありました。私は書記ですので、議事録の作成に時間が掛かり、その間、転任事務の作業が少し滞りました。しかし先月までに法務局での代表役員変更の登記申請も終えることができ、先週の水曜日には新しい登記簿の受取りが可能になりましたから、今週はその登記簿を添付した「代表役員変更登記完了届」を静岡県庁の宗教法人の担当部署に行って提出して来ることができました。

 また、併せてこの教会の役員名簿、財産目録、収支計算書の事務所備付書類も提出して来ました。またその際に、教会規則の扱いについても質問することができました。

古いものは新しくして次世代に継承する
 現在の私たちの教会の教会規則の原本は、65年前の昭和29年に手書きで作成されたものです。この教会規則の漢字には旧字や略字が多用されていて読みづらいものです。皆さんのお手元にワープロに打ち直して印刷したものをお配りしました。ワープロの活字になっていますから、読みにくさは感じないかもしれませんが、手書きの原本は読み易くありません。

 そこで次の役員会の議案として、来年1月の教会総会での承認を目指して、教会規則を現代の常用漢字に改めたものを新しい原本にすることを提案したく思います。その際には漢字を改めるだけでなく、現状や現代感覚に合わなくなっていることも変えたらどうかと思います(細かいことは役員会で話します)。

 また、今週は静岡市の担当者が来て、50年前に建てた会堂の電気設備に有害物質が使われていないか調査して回答するようにとのことでした。ちょうど私たちの間でも照明をLEDに変えようかという話が出ていたところですから、良い機会だと思います。このこともまた次の役員会で諮りたいと思います。そうして、規則や設備面において古いものは新しくして、教会を次世代へと継承して行きたいと思います。

 さて、そうして次世代への教会の継承を考えて行く時に、規則や設備ではない信仰面ではどうしたら良いかを今週私は思い巡らしています。その中で示されたことを、きょうはお話ししたいと思います。

恵みのルートを塞いではいないか
 それは、神様が私たちに思いもよらない方法で恵みを与えて下さろうとしていることを、まずは単純に信じるべきだろうということです。神様はいろいろなルートを使って私たちに恵みを与えようとして下さっています。しかし、人間の側がルートを狭めてしまって神様が使えるルートを塞いでいるのではないか、そんな風にも感じます。

 今年は1969年に人類が初めて月面に着陸してから、ちょうど50年になります。7月20日が月着陸の日だそうです。今年の2月に私はアポロ11号の船長ニール・アームストロングが主人公の映画『ファースト・マン』を沼津で観て感銘を受けました。それで原作本を邦訳した文庫本の『ファースト・マン(上・下)』(ハンセン著、日暮・水谷訳、河出文庫 2019)も買いました。ゆっくり読む時間がなかなか取れなくて今週になってようやく読了することができました。その中に、こんな記述が最後のほうにありました。

「残念ながら、この陰謀説が信じられている時代はまだ過ぎ去ってはいない。2016年にイギリスのある全国紙がおこなった世論調査によると、『イギリス人の52%が、月着陸は実際にはおこなわれなかったと信じている』という。」(下巻p.282)

 皆さんは、アポロ11号の陰謀説をご存知でしょうか。アポロ11号の月着陸は実際には行われず、月面を歩く宇宙飛行士や月着陸船の写真は地球上のスタジオで撮影された映像であるというものです。なぜそんなことを信じる人がたくさんいるのか、私には理解できません。月着陸のような偉業が1969年の人類にできたはずがないということなのでしょうか?これは、とても不幸なことだと思います。そんな風にして人間が行った偉業を否定してしまうとしたら、ましてや神様の御業に対しては、もっと否定的になることでしょう。

人知を超えている「光の二重性」
 ここで量子力学の例えを使いたいと思います。量子力学の世界では人知を超えることが起きています。皆さんは光が「波」と「粒子」の両方の性質を持つという話をどこかで聞いたことがないでしょうか。この光が「波」と「粒子」の両方の性質を持つことを「光の二重性」と言います。光は観測している時は「粒子」の性質を示して、観測していない時は「波」のような性質を持ちます。

 例えばカメラであれば光を観測しているのはフィルムの部分です。デジカメで言えば撮像素子です。カメラのフィルムは光が当たった部分が感光して、現像するとその部分が黒くなります。光がフィルムに当たった場所は点として記録されますから、この時、光は「粒子」の性質を示しています。この光の粒を「光子」と言います。

 では、フィルムの手前のレンズを通過している時の光子はどうでしょうか。この時、光子は「波」として広がりを持っているようです。「ようです」と言うのは、観測していないから実際のことは分からないからです。観測してしまうと「粒子」になってしまいます。しかし、観測しないと「波」のような広がりを持っているようです。

 それは二重スリットの実験結果から分かっています。この実験ではレンズの変わりにスリットをフィルムの手前に置きます。スリットというのは光が通る細い隙間です。スリットが一本であれば、光はもちろん、その一本のスリットを通過します。

 ではスリットを二本にしたらどうなるでしょうか。もし光が「粒子」だとしたら、二本のうちの片方の一本しか通らないはずです。しかし、実験結果では光は「波」の性質を示して、一つの光子が同時に二つのスリットを通ったかのような結果を示します。

 一つの光子が二つのスリットを同時に通ることは人間の直感に反することですから、理解するのが困難です。人知を超えているとも言えるでしょう。こういう人知を超えることが量子力学の世界では実際に起きています。スリットが一つであれば人間の知恵の範囲内のことしか起きません。人間の知恵の範囲内のことしか起きていなければ、人はそのほうが安心していられるかもしれませんね。

スリットを全開にしないと見えて来ない神の霊としてのイエス
 これを信仰に置き換えると、せっかく神様が複数のスリットを通して人知を超えた恵みを私たちに与えて下さろうとしているのに、人間の側でスリットを一つにして安心しようとしている気がします。

 先日の礼拝メッセージで話した、ヨハネの福音書の読まれ方も同様です。今のヨハネの福音書の読まれ方は、マタイ・マルコ・ルカの福音書の読まれ方と同じで、読者はイエスさまを紀元30年頃の人間のイエスさまとして読んでいます。これはスリットを一つしか開けていない読み方です。このほうが人間的には安心かもしれませんね。

 しかし、一つだけでなく他のスリットも全開にするなら、旧約の時代の預言者たちの中にいるイエスさまや、使徒の働きの時代のピリポやペテロやサマリア人たちの中にいるイエスさまが、霊的に見えて来ます。

 人間の目で観測できるイエスさまは人間としての地上生涯のイエスさまですから、紀元30年頃にしかいません。しかし観測しない時の神の霊としてのイエスさまは波のように広がっていて旧約の時代にも新約の時代にも同時におられます。

 このようにしてイエスさまは複数のスリットを通して人知を超えた恵みを私たちにもたらそうとして下さっているのに、人間の側で一つのスリットしか開けずに他のスリットを閉じてしまっているのは、何とももったいない話だと思います。スリットを一つしか開けないと紀元30年頃のイエスさましか現れませんから、他のスリットも全開にして旧約の時代と使徒の働きの時代のイエスさまも感じることができるようになりたいと思います。

恵みのスリットをすべて閉じたイスラエル人
 さて、きょうの聖書箇所のイスラエル人たちは、恵みをもたらすスリットをすべて閉じてしまっています。せめて一つだけでも開ければ良いのにと思いますが、すべてのスリットを閉じています。ただしヨシュアとカレブは、スリットを全開にして、神様が素晴らしい恵みを与えて下さると信じていました。民数記14章の7節と8節ですね。二人は言いました。

「私たちが巡り歩いて偵察した地は、すばらしく、良い地だった。もしが私たちを喜んでおられるなら、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さる。あの地は乳と蜜が流れる地だ。」

 しかし、イスラエル人たちは恵みのスリットを完全に閉じていました。一つぐらいは開けても良さそうなものですが、全部閉じてしまっています。2節、3節、4節、

「われわれはエジプトの地で死んでいたらよかった。あるいは、この荒野で死んでいたらよかったのだ。なぜは、われわれをこの地に導いて来て、剣に倒れるようにされるのか。妻や子どもは、かすめ奪われてしまう。エジプトに帰るほうが、われわれにとって良くはないか。さあ、われわれは、かしらを一人立ててエジプトに帰ろう。」

 私たちはヨシュアとカレブのように、スリットを全開にして、神様が不思議な方法で与えて下さろうとしている恵みを待ち望みたいと思います。

おわりに
 隣の土地が与えられたことも、とても不思議なことだと思いますから、神様はすでに私たちに素晴らしい恵みを与えようとして下さっています。ですから神様は私たちが思いもよらない方法で素晴らしいことをして下さるということを単純に信じて待ち望みたいと思います。

 そして、その恵みが与えられるためには私たちが何をすべきなのか、神様の教え導きの声をしっかりと聞き取ることができるように、私たちはもっと霊的に整えられた者たちになりたいと思います。ペンテコステの日に向かって私たちがますます霊的に整えられますように、お祈りしたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

「私たちが巡り歩いて偵察した地は、すばらしく、良い地だった。もしが私たちを喜んでおられるなら、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さる。あの地は乳と蜜が流れる地だ。」
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五旬節に向けて思いを巡らす(2019.5.9 祈り会)

2019-05-10 09:11:47 | 祈り会メッセージ
2019年5月9日祈り会メッセージ
『五旬節に向けて思いを巡らす』
【出エジプト7:19~21、ヨハネ2:1~11、使徒2:1~7】

はじめに
 先日の礼拝のメッセージで私は皆さんに、ヨハネの福音書の記者のヨハネが、なぜイエスさまと預言者エリシャとを重ねたのかに是非思いを巡らしてみていただきたいと話しました。このことによって人知を遥かに超えたイエスさまの大きな愛の恵みを受け取ることができるようになると思うからです。この大きな恵みに与ることができて聖霊の力を得るなら、私たちの伝道にとっても大きな力になるだろうと思います。
 きょうは、このことをもう少し深めて行きたいと思います。

自分で思いを巡らすことで得られる聖書の恩恵
 先日の礼拝の後半で話したことを簡単に復習すると新約聖書のマタイ・マルコ・ルカの福音書にはイエスさまが五つのパンと二匹の魚で五千人を満腹にした「五千人の給食」の記事があります。また旧約聖書の列王記第二には預言者のエリシャは大麦のパン二十個と新穀一袋で百人を満腹にしました(Ⅱ列王記4:42~44)。そしてヨハネの福音書はマタイ・マルコ・ルカが「五つのパン」と書いたのを「大麦のパン五つ」(ヨハネ6:9)と書いてイエスさまとエリシャとを重ねました。
 では、なぜヨハネはイエスさまとエリシャとを重ねたのでしょうか。先日の礼拝では、是非このことに思いを巡らしていただきたいとお願いをしました。聖書の大きな恵みは自分で思いを巡らすことで初めて受け取ることができるようになるからです。
 算数で計算の仕方を教わったなら、必ず練習問題を解きますね。練習問題をたくさん解いて計算を自分でできるようにならないと、計算ができることの恵みを受け取ることはできません。計算ができなければ買い物に行っても二つ以上の物を買うことはできないでしょう。一つなら買えるかもしれませんが、二つ、三つと買いたい時に計算ができないと自分が持っているお金で足りるかが分かりませんから安心して買い物もできません。自分で計算できるようになって初めて買い物ができるなどの、恩恵に与ることができます。
 自転車のような乗り物も同じですね。まだ自転車が無かった200年以上前の昔の時代の人に自転車を見せても、それが何なのかはさっぱり分からないでしょう。そういう昔の人の前で自転車に乗って見せてあげると、なるほど、そういう乗り物なんだ、と一応は分かってもらうことはできるでしょう。しかし、自分で自転車に乗れるようにならなければ自転車の恩恵に与ることはできません。歩いたら時間が掛かる遠い場所でも自転車なら短時間で行けるという自転車の恩恵に与るには自分で乗れるようにならなければなりません。
 聖書も自分で思いを巡らさなければ、その恵みに与ることはできません。特にヨハネの福音書の場合はそのようになっていると思います。ヨハネの福音書はイエスさまとエリシャとを重ねていると耳で聞いても、それだけだと自転車に乗っている人をただ眺めているのと同じで、何の恩恵も受け取れないでしょう。是非、ヨハネはなぜイエスさまとエリシャとを重ねたのかに思いを巡らして神様との交わりの中に入れていただき、イエスさまの愛の大きさを感じ取り、その恩恵に与っていただきたいと思います。

カナの婚礼に出エジプトと五旬節を重ねたヨハネ
 ただしヨハネの福音書はそれほど単純な書ではないので、イエスさまとエリシャとの重なりを思い巡らすだけでは、なかなか、この書の恩恵には与れないかもしれません。イエスさまとエリシャとの重なりを思い巡らすことは、あくまでも第一歩です。自転車に補助輪を付けて走るようなものかもしれません。そこで、きょうはもう少しだけ複雑な重なりにも言及しますから、それについても思いを巡らしていただけたらと思います。そして、次の日曜日の礼拝からは説明を始めたいと願っています。
 では先ず、出エジプト記7章の19~21節を交代で読みましょう(旧約聖書p.110)。

7:19 はモーセに言われた。「アロンに言え。『あなたの杖を取り、手をエジプトの水の上、その川、水路、池、すべての貯水池の上に伸ばしなさい。そうすれば、それらは血となり、エジプト全土で木の器や石の器にも血があるようになる。』」
7:20 モーセとアロンはが命じられたとおりに行った。モーセはファラオとその家臣たちの目の前で杖を上げ、ナイル川の水を打った。すると、ナイル川の水はすべて血に変わった。
7:21 ナイル川の魚は死に、ナイル川は臭くなり、エジプト人はナイル川の水を飲めなくなった。エジプト全土にわたって血があった。

 モーセが杖を上げてナイル川の水を打ったら血になったというおなじみの場面ですが、ここで覚えておきたいのは、ナイル川が臭くなったのは血が臭かったわけではなく魚が死んで腐ったから臭くなったということです。血は神殿の聖所の神の箱にも振り掛けますから聖いもので、臭いものではありません。
 さてヨハネは、このナイル川の水を血に変えたモーセを、ヨハネ2章のカナの婚礼できよめの水をぶどう酒に変えたイエスさまと重ねています。ヨハネの福音書2章の1節から11節までを交代で読みましょう。

2:1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があり、そこにイエスの母がいた。
2:2 イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれていた。
2:3 ぶどう酒がなくなると、母はイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。
2:4 すると、イエスは母に言われた。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」
2:5 母は給仕の者たちに言った。「あの方が言われることは、何でもしてください。」
2:6 そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、石の水がめが六つ置いてあった。それぞれ、二あるいは三メトレテス入りのものであった。
2:7 イエスは給仕の者たちに言われた。「水がめを水でいっぱいにしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
2:8 イエスは彼らに言われた。「さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
2:9 宴会の世話役は、すでにぶどう酒になっていたその水を味見した。汲んだ給仕の者たちはそれがどこから来たのかを知っていたが、世話役は知らなかった。それで、花婿を呼んで、
2:10 こう言った。「みな、初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころに悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました。」
2:11 イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

 ここでヨハネはイエスさまとモーセとを重ねています。ぶどう酒が血に例えられていることは、私たちも聖餐式でぶどう液をイエスさまの血としていただきますから、理解できるだろうと思います。違和感があるとしたら出エジプト記では血に変わったナイル川の水が臭かったことで、良いぶどう酒とは正反対と感じるかもしれませんが、先ほども言ったように、ナイル川が臭かったのは死んだ魚が腐ったためで、血が臭かったわけではありません。
 さて、このヨハネ2章のイエスさまとモーセとの重なりは、ヨハネ6章のイエスさまとエリシャとの重なりと同じようなものです。きょうはもう少し複雑な重なりの話をすると先ほど言いましたから、これからその話をします。
 実はヨハネは、このヨハネ2章のカナの婚礼の場面を、使徒の働き2章の五旬節の日の場面とも重ねています。その箇所も交代で読みましょう。
 使徒の働き2章の1節から7節までを交代で読みます。

2:1 五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。
2:2 すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。
2:3 また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。
2:4 すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。
2:5 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国々から来て住んでいたが、
2:6 この物音がしたため、大勢の人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、呆気にとられてしまった。
2:7 彼らは驚き、不思議に思って言った。「見なさい。話しているこの人たちはみな、ガリラヤの人ではないか。

 ヨハネの福音書2章のカナの婚礼で結婚式に招待されていたのはガリラヤ人の弟子たちでした。使徒の働き2章で聖霊を受けたのもガリラヤ人の弟子たちでした。そして聖霊は、水ではきよめられない人間の罪をきよめることができます。イエスさまの血も人間の罪をきよめます。聖霊とイエスさまの血はどちらも、水ではきよめられない人間の罪をきよめることができます。ですから、ヨハネ2章でイエスさまがきよめの水をぶどう酒に変えた場面は、使徒の働き2章でガリラヤ人の弟子たちが聖霊を受けた場面と重ねられています。聖霊を受けた者は救われますから、放蕩息子の父親が祝宴を催したように、カナの婚礼の祝宴の場面は救いを祝うという意味でもふさわしい場面だと言えるでしょう。

なぜヨハネはカナの婚礼に出エジプトと五旬節を重ねたのか
 では、なぜヨハネは2章のカナの婚礼の場面で出エジプト記のモーセとイエスさまとを重ね、さらに五旬節の日のガリラヤ人の弟子たちが聖霊を受けた場面とを重ねたのでしょうか。ここから何が見えて来るでしょうか。是非、ご自身で思いを巡らしてみていただきたいと思います。
 繰り返しになりますが、自転車がどのような乗り物かを教わっただけでは自転車の恩恵を受けることはできません。自分で自転車に乗れるようになって初めて自転車の恩恵に与ることができます。聖書も、是非ご自身で思いを巡らしてみていただきたいと思います。
 次の日曜日の礼拝メッセージからは、このことの説明を始めたいと思いますから、できればその前に、ご自分でも思いを巡らしてみていただけたらと思います。
 次聖日からは五旬節に向けて聖霊の学びを始めたいと願っています。なぜヨハネがこれらの重なりを描いたのかについても、聖霊について学ぶ中で段々と迫って行くことができたらと思います。
 お祈りいたしましょう。

2:11 イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
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これからの伝道について2(2019.5.2 祈り会)

2019-05-04 15:23:23 | 祈り会メッセージ
2019年5月2日祈り会メッセージ
『これからの伝道について2』
【詩篇42篇】

はじめに
 きょうは3週間ぶりでまた詩篇42篇を開きました。詩篇42篇を共に味わいながら、私がこの静岡教会でどのような伝道を行っていきたいかの具体的な提案を、きょうはいよいよして行きたいと思います。

 4月7日の午後の会で、これからのこの教会における伝道をどう考えているか知りたいという、ご意見をいただきました。その時、私はそれは祈り会のメッセージの中で明らかにして行きたいと話しました。

 これはなかなか適切な答えだったなと思います。この教会での伝道をどう行っていくべきか、私は3月初めから考え始めました。前任の教会の教会活動を終わらせるに当たっては3月中にやらなければならないことがたくさんありましたから、そのことだけで手一杯の状況でしたが、それでも私は静岡での伝道についても祈り、考え始めていました。

 しかし、具体的な方法についてはまだほとんどイメージできていませんでした。それが、この3~4週間でかなり具体的なイメージができて来たと感じていますから、きょうは、そのことを話します。やはり、どのように伝道を行うかの具体的なイメージは、実際にここで暮らし始めなければ、なかなか与えられないものだなと感じます。

 この3週間、この地域を徒歩や自転車や車で巡り、また生活をする中で、具体的なイメージが作られて来たと思います。先週の月末の祈り会が各家庭でのものになったのも、少し時間がいただけましたから良かったです。

魂の渇きに気付いていた詩人
 ではまず詩篇42篇に目をとめて、それから具体的な伝道方法の提案をしたいと思います。3週間前にも話しましたが、詩篇が書かれた旧約の時代には、聖霊は預言者たちという、ごく限られた者たちだけにしか注がれていませんでした。誰にでも聖霊が注がれるようになったのは新約の時代のペンテコステの日以降です。ですから、詩篇42篇の詩人は、聖霊を受けていない者の魂の渇きを詩にしています。この詩人本人はもしかしたら聖霊を受けていたかもしれませんが、この詩の中の「私」は聖霊を受けていない者です。

 預言者以外には聖霊が注がれなかったこの旧約の時代には、神の臨在を感じて魂の渇きを癒すことができる場所はエルサレムの神殿だけでした。それゆえ詩人はエルサレムに上京して神殿で礼拝することを渇望していました。しかし、それがなかなかできないでいたために、うなだれて思い乱れていました。

 この詩篇42篇で私がすごいと思うのは、この詩人が何度も「わがたましいよ」と、自分の魂に向かって呼び掛けていることです。つまり詩人は自分の魂を別人格として客観的に観察することができていました。そうして自分の魂が神の霊に渇いていて、霊的な潤いが無いことに気付いています。これはすごいことだと思います。

 この、自分の魂が渇いていると自覚できる能力という点では、聖霊を受けた私たちクリスチャンは退化してしまっているかもしれないと私は感じています。聖霊を受けた私たちの魂は霊的に潤っていますから、激しい渇きを感じることがなくなりました。すると、魂の渇きを感じている人の気持ちに疎くなっているかもしれません。そうであれば魂の潤いを得たい方々のニーズになかなか応えられないということにもなりかねませんから、気を付けるべきでしょう。私たちクリスチャンは自分の魂の渇きに鈍感になっているかもしれないということを覚えておきたいと思います。

現代人の魂もまた渇いている
 どうして、そんなことを考えるのか、最近、昔の友人が四国八十八箇所の霊場を歩いて巡るお遍路さんをしていることをFacebookで知りました。お遍路さんの装束に身を包んだ友人の写真がFacebookに上がっていました。そのお遍路さん姿の友人の写真を見て、きっと彼の内にも魂の渇きがあるのだろうなと思いました。

 そして、かつての教会に辿り着く前の私にも魂の渇きがあったことを思い出しました。ただし、それが魂の渇きであったことが分かったのは、ずっと後になってからでした。私は心の中によく分からない不安があることを自覚していましたが、それが魂の領域の渇きであったことが分かったのは、ずっと後になってからでした。しかし、とにかく、いつも私は自分の心が不安定であることを感じていて、それが教会に通うようになってから、ピタリと治まったのでした。

 詩篇42篇の詩人の場合は、自分が不安定であるのが魂の渇きのせいであるとハッキリと分かっていました。私の場合は分かっていませんでした。そして恐らくお遍路さん姿で四国八十八霊場を巡った友人も自覚はできていないだろうと思いますし、この地域にもそういう方々が多くいらっしゃるのではないかと思います。

 私たちクリスチャンは、神社やお寺に熱心にお参りする人を見ると違和感を覚えるかもしれません。特に私たちの群れではお遍路さんの装束を身に着けた人などを見ると、違和感を覚えるでしょう。

 しかし、そういう外見を見るのではなく、それらの方々の魂の渇きに注目できるようになりたいと思いました。そのように魂の状態を気に掛けることで、多くの方々を霊的な世界にお招きすることができるようになるのではないかと思います。

具体的な提案
 そこで今日は具体的な提案を二つしたいと思います。一つは、駐車場の南側(案)に強化ガラスの扉が付いた掲示板を設置したらどうかと思います。田町四丁目のバス停の前に幼稚園の掲示板がありますね。あんな感じのものです。そして、そこに集会案内に加えて、たとえば詩篇の詩を週替わりで掲示したらどうかと思います。魂の渇きに訴える働きがあるかもしれません。

 そして二つ目の提案は、月に一回か二回、地域の方々向けに「詩篇を味わう会(仮称)」を開催することです。初めのうちは、なかなか来てもらえないかもしれませんが、定期的に開くことで、また広報をすることで来ていただけるようになるかもしれません。何曜日の何時頃に月に何回程度開くことにするかは、皆さんと相談したいと思います。

 この「詩篇を味わう会(仮称)」では、まず何よりも、参加する方々に自分の中の魂が渇いた状態にあることに気付いていただきたいと思います。五月に入って、これから段々と暑くなり、熱中症に気を付けなければならなくなります。熱中症は知らず知らずのうちに自分の体の中の水分が足りなくなっていることに気付かないで補給しないでいると掛かってしまい、重症化すると死に至るという取り返しのつかないことになります。

 魂の渇きも神の霊によって潤いが与えられないと、取り返しの付かないことになります。ですから、「詩篇を味わう会(仮称)」では、まだ聖書を知らずに魂が渇いたままの方々に、自分の魂が渇いていることに、何とか気付いてもらえるようにできたらと思います。

 もし、この「詩篇を味わう会(仮称)」を実際に行うことになったなら、皆さんのお知り合いにも是非声を掛けていただきたいと思います。礼拝には誘いにくくても、この会なら誘えそうだという方もいるかもしれません。そのような方々に来ていただけそうな曜日と時間を皆さんと相談して設定することができたらと思います。

若い人たちへの伝道
 以上、掲示板の設置と「詩篇を味わう会(仮称)」の実施の、二つの具体案を提案しましたが、これらは大人が対象です。その他にも、若い人たちと子どもたちにも伝道したいですね。

 若い方々には、やはり神様として時空を超えて存在するイエスさまのことを伝えたいという気持ちを私は強く持っています。イエスさまは真の人であると同時に真の神でもあります。人としてのイエスさまは肉体に縛られていて1世紀の初めの約30年間しか存在していませんが、神としてのイエスさまは時空を超えて永遠の中にいます。

 この時空を超えたイエスさまのことは若い感性を持った人のほうが感じやすいように思います。年配の方でも柔らかい感性を持っている方は大丈夫だと思いますが、やはり年齢が若い方のほうが感じやすいのではないかと思っています。これら若い方々向けには、主にネットを通じてお伝えして行きたいと思います。

 この時空を超えたイエスさまについて発信する教会のブログへの一日の訪問者数は、今のところ毎日150名前後ですが、200名、300名と増えて行くように努力したいと思います。ツイッターと組み合わせることで増えることが分かっていますから、SNSを利用している方々に魅力的な発信ができるように心掛けたいと思います。

子どもたちへの伝道
 最後に子どもたち向けの伝道ですが、まだこれと言ったアイデアは与えられていません。ですからアイデアが与えられるように祈っていますが、子どもたちへの伝道は教会の皆さんに主体的に考えていただいて私はそれをサポートする形を取るというのでも良いのではないかという気もしています。

 きょう提案した掲示板が子どもたちの親の目にとまるように有効利用することも考えられると思います。そのためには、少し大きめの掲示板を設置したほうが良いかもしれません。少し費用は掛かりますが、駐車場の南側を利用すれば、少し大きめの掲示板でも設置できますから、この地域で子どもを育てているお父さん・お母さんたちにアピールできるようなものを考えるのも良いだろうと思います。

おわりに
 以上のことは、もう少し練ってから改めてまた、皆さんと議論できたらと思います。皆さんからも伝道のアイデアがあれば、いろいろとお聞かせ願いたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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21世紀の私たちが十字架を身近に感じるのは何故か(2019.4.18 祈り会)

2019-04-19 10:28:19 | 祈り会メッセージ
2019年4月18日祈り会メッセージ
『21世紀の私たちが十字架を身近に感じるのは何故か』
【使徒2:29~39、ネヘミヤ9章】

はじめに
 きょうは受難週の十字架の金曜日の前日であるということで予定を変更して、ます使徒の働き2章の29節から39節までを交代で読みたいと思います。これはペンテコステの日に聖霊を受けたペテロたちがエルサレムの人々に語った説教の一部です。

使徒2:29 兄弟たち。父祖ダビデについては、あなたがたに確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日に至るまで私たちの間にあります。
30 彼は預言者でしたから、自分の子孫の一人を自分の王座に就かせると、神が誓われたことを知っていました。
31 それで、後のことを予見し、キリストの復活について、『彼はよみに捨て置かれず、そのからだは朽ちて滅びることがない』と語ったのです。
32 このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
33 ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。
34 ダビデが天に上ったのではありません。彼自身こう言っています。『主は、私の主に言われた。あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。
35 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。』
36 ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
38 そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
39 この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。」

 きょうは、イエスさまが私たちの罪のために十字架に掛かったことについて、「時間の流れ」という観点から、改めて考え直してみたいと思います。

魂を時間の流れから解放する聖霊の働き
 「イエスさまは私たちの罪のために十字架に掛かった」とクリスチャンは普通に言います。しかしこのことを自覚することの背後には、とても興味深い聖霊の働きが関与しています。この興味深い聖霊に関する話を絡ませずに、単に「イエスさまは私たちの罪のために十字架に掛かった」とだけ宣べ伝えることは、非常にもったいないことであると私は思っています。
 特に知的な好奇心が旺盛な若い方々に対しては、この興味深い聖霊の働きの話を絡めて十字架を語るべきではないかと思います。そうすれば、キリスト教にもっと興味を持ってもらえるかもしれません。今夜は、このように興味深い聖霊の働きの話を絡めながら、共に十字架に掛かったイエスさまに思いを巡らすことにしたいと思います。
 その興味深い聖霊の働きとは、聖霊を受けた者の魂は時間の流れから解放されるという働きです。これからこの教会で私はこれから何度もこの話をしつこく語るだろうと思います。なぜしつこく語るかと言うと、なかなか分かってもらえないからです。なぜ、なかなか分かってもらえないかと言うと、多くの人々の意識が時間の流れに強烈に縛られているからです。そのため、せっかく聖霊を受けて魂が時間の流れから解放されているのに、その恵みに気づいていません。それゆえ、21世紀の私たちが二千年前の十字架を身近に感じるのは何故かについても、聖霊の働きの観点から語られることはほとんどありません。このことを私はとても残念に思い、実にもったいないことだと思っています。
 私が特に歯がゆく思うことは、影響力が大きくて用いられている器ほど多くの仕事を抱えていて忙しく過ごしているということです。毎日を忙しく過ごしているなら、魂が時間の流れから解放されていることに気づくことは難しいでしょう。それゆえ聖霊を受けたクリスチャンの魂は時間の流れから解放されていることを説く役割は、それほど忙しくない私のような者が担わなければなりません。しかし、私はまったく力のない小さな者ですから、主が用いて下さらなければ何の働きもできません。ですから、是非とも主が新しい風を吹かせて下さることを期待したいと思います。そういう期待を込めて今夜のメッセージを準備しました。

十字架と同時代の人々に宣教していたペテロたち

 まず基本として押さえておくべきことは、ペテロやパウロなどの使徒たちは、十字架の出来事があった時と同時代の人々にイエス・キリストを宣べ伝えていたということです。先ほどご一緒に読んだ使徒2章のペテロの説教は十字架から52日目のペンテコステの日のものです。36節でペテロは言いました。

使徒2:36 ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。

 神が今や主ともキリストともされたイエスさまをユダヤ人たちは十字架に付けたのですから、これほど大きな罪はありません。またエルサレムから離れた場所に住んでいた異邦人たちもイエスさまを直接十字架に付けたわけではありませんが、神様から離れていたという点においては、やはり罪人でしたから、これもイエスさまの十字架によって赦される必要がありました。このように、イエスさまと同じ時代を生きた人々はユダヤ人であっても異邦人であっても神様から離れていたことに変わりはありませんでしたから、その罪を悔い改めてイエスさまを信じることで救われました。さてしかし、やがて時代は次の世代に移って、イエスさまが十字架に掛かった時にはまだ生まれていなかった人々が増えて行きました。2世紀以降は、すべての人はイエス・キリストの十字架よりも後に生まれました。そういうイエスさまの十字架よりも後に生まれた人々の罪に対してもイエスさまの十字架は有効なのでしょうか。もちろん有効です。しかし、話はそんなに単純ではありません。

21世紀の私たちも救われるのはイエスが永遠の中にいるから
 イエスさまの十字架によって罪がなかったことにされるなら、十字架より後には、この世から罪は無くなったはずです。しかし罪は存在し続けました。これら十字架の後に犯された罪が、どうして罪を犯す前のイエスさまの十字架によって赦されるのでしょうか?それはイエスさまが永遠の中にいるからですね。永遠の中にいるイエスさまは21世紀の私たちにも語り掛けて下さっています。この語り掛けに気づくなら私たちは心を開いてイエスさまを信じるように導かれます。そうしてイエスさまを信じるなら聖霊を受けますから、自分の罪深さが分かるようになります。聖霊を受ける前、私たちは神への背きの罪のことがそんなには深くは分かりません。それでも意識の下へのイエスさまからの語り掛けを感じることでイエスさまを信じて聖霊を受けることへと導かれて行きます。そうして聖霊を受けるなら、その人は永遠の中に入れられますから魂が時間の流れから解放されて二千年前のイエスさまの十字架を身近に感じることができるようになります。そうしてイエスさまは自分の罪のために十字架に掛かったと自覚できるようになります。クリスチャンが、イエスさまは私たちの罪のために十字架に掛かったと言う時、その人の魂は聖霊の働きによって時間の流れから解放されています。しかし表側で意識している生活は時間の流れに縛られているために、自分の魂が時間の流れから解放されているという自覚がありません。それゆえ、クリスチャンが語る「イエスさまは私たちの罪のために十字架に掛かった」という話が聖霊を受けていない人にはものすごく分かりにくい話だということにも気づいておらず、なかなか上手く伝道できていないということになっているのではないかと思います。
 時間に縛られている度合いは20世紀の人よりも21世紀の人のほうが強いですから、ますますキリスト教は伝わりにくくなっていると思います。ですから、キリスト教を語る時には、このとても興味深い聖霊の働きのメカニズム、すなわち聖霊は人の魂を時間の流れから解放するということを上手に組み合わせて伝える必要があると私は考えます。

スピリチュアルな領域に関心がある人々
 先日の礼拝メッセージで私は映画『ファースト・マン』を最近観たことを話し、さらに礼拝後の報告の時には映画を観に外出することもよくあるという話をしたところ、礼拝後にある方が、静岡では「午前10時の映画祭」で昔の名画を観られると教えて下さいました。それで調べたら先週と今週は『未知との遭遇』を上映していると知りました。それで、無性に観たくなって、観て来ました。ストーリーはすっかり忘れていましたが久し振りで観て思い出しました。そして、この映画にはスピリチュアルな要素がとても多く含まれていると感じました。この『未知との遭遇』の主人公たちは、本人にもよく分からないけれど、なぜか宇宙人との遭遇の場に引き寄せられています。宇宙人に引き寄せられていたと分かるのは最後のほうで、引き寄せられている途中では、そんなことは分かりません。分からないけれど、そこへどうしても行かなければならないという思いが意識の下の潜在的な領域で働いて、宇宙人と遭遇する現場に引き寄せられて行きます。意識の表面に現れない部分を描いているという点で、とてもスピリチュアルな映画、すなわち霊的な映画だと思いました。そうして、かつての自分が意識の表面に現れない無意識の領域で高津教会に導かれて行ったことを思い出しました。そうして私はイエスさまと出会うことができました。イエスさまとの出会いは、まさに『未知との遭遇』です。
 このように、自分でも分からないうちに何かに引き寄せられて行くという無意識の魂の領域のことは、よく分からないだけに好奇心が掻き立てられる興味深い領域だと思います。そういう興味深い部分を省いて、イエス・キリストは私たちの罪のために十字架に掛かったとだけ語るのは、とてももったいないと私は感じます。『未知との遭遇』という映画は日本でもヒットしましたから、こういう潜在的なスピリチュアルな領域の話に関心を持つ方々は少なくないと思います。こういう方々にも関心を持ってもらえるようにキリスト教をお伝えできるようになりたいと思います。

神に背いていた人々
 さて最後の晩餐の日の今夜は、おしまいにネヘミヤ記の9章(旧約聖書p.847~)を読んで、神への背きの罪について確認しておきたいと思います。
 このネヘミヤの時代、かつてバビロン軍によって破壊されたエルサレムの城壁が修復されました。そして、城壁が修復された後、ネヘミヤたちは集会を開いて、エルサレムが滅ぼされることになったのは自分たちの祖先の神への背きの罪のためであったと告白します。9章の16節には、こう記されています。

ネヘミヤ9:16 しかし彼ら、私たちの先祖は傲慢にふるまい、うなじを固くし、あなたの命令に聞き従いませんでした。

 また26節には、こうあります。

26 しかし、彼らはあなたに逆らい、反逆して、あなたの律法をうしろに投げ捨て、あなたに立ち返らせようとして彼らを戒めたあなたの預言者たちを殺し、数々のひどい侮辱を加えました。

 もう一節、29節をお読みします。

29 あなたは彼らを戒めて、あなたの律法に立ち返らせようとされました。しかし、彼らは傲慢にふるまい、あなたの命令に聞き従わず、その命令を行う人は、それによって生きるというあなたの定めに背いて罪を犯し、肩を怒らして、うなじを固くし、聞き入れようとはしませんでした。

 このように律法を守らずに神に背く罪を重ねた結果、エルサレムはバビロン軍によって滅ぼされることになりました。
 それゆえバビロン捕囚からエルサレムに帰還してエズラ・ネヘミヤの時代に神殿と城壁が再建されてからは、イスラエル人たちは律法を守るようになりました。しかし、やがてそれは形骸化して、律法を形式的に守ることが重んじられるようになっていきました。この律法主義をイエスさまが批判したことで、イエスさまは律法学者やパリサイ人たちの反感を買って十字架に付けられることになってしまいました。律法を守っていたパリサイ人たちも神様から離れていたということで、結局人は聖霊を受けなければ神様と共に歩むことは不可能なのだということが明らかになり、ペンテコステの恵みへとつながって行きます。
 このように旧約の時代からイエスさまの時代に至る経緯を見るなら、神様への背きの罪がどういうものかがよく分かり、イエスさまが何のために十字架に掛かったかが良く分かると思います。そして、彼らの背きの罪とまったく同じ背きの罪が21世紀の私たちの中にもあります。

おわりに
 21世紀の私たちもイエスさまを信じて聖霊を受けていますから、永遠の中に入れられてイエスさまの十字架を身近に感じる恵みをいただいています。このことを深く感謝して心を整えつつ、明日の十字架の金曜日を迎えたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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これからの伝道について(2019.4.11 祈り会)

2019-04-12 07:49:10 | 祈り会メッセージ
2019年4月11日祈り会メッセージ
『これからの伝道について』
【詩篇42篇】

はじめに
 きょうは詩篇42篇を開くことにしていますが、聖書を開くのは後半にしたいと思います。
 7日の午後に戸塚先生からの引継ぎを受けた時に、役員の方から静岡教会での伝道について、どのように考えているかという質問を受けました。その時に私は、祈り会のメッセージの中で私の考え方を話したいと答えました。これからの何週間かはこのことの説明に、この祈り会のメッセージを用いたいと思っています。

何を伝えるべきか
 伝道の重要性は私も骨身にしみて分かっているつもりです。前任の沼津教会では、新しい方がなかなか来なくて受洗者も与えられませんでした。それで、ちょうど会堂が老朽化の限界に達したこともありましたから、交通量が多くて目立つ県道沿いに新会堂を建てる計画を立てて、あと一歩というところまで漕ぎ着けましたが、結局、教会を閉じることになりました。新会堂を建設すれば教財勢が増えるだろうという期待は傍から見れば考え方が甘いと取られると思いますから、それが教会を閉じることにつながったとも言えると思っています。どのような会堂であろうと、まずはその会堂が入り切れないぐらいに来会者が増えて、そうなった時に初めて新会堂の建設を考えるというのが本来の姿なのだろうと思います。そういう経験をしましたから、私はこの静岡ではとにかく新しい方に来ていただいて、まだイエスさまを知らない方々にイエス・キリストを宣べ伝えたいと切に願っています。
 では、どういう伝道活動をするかということですが、まず思い付くのは、昔から多くの教会で用いているチラシ配布や、この教会が玄関に置いているウェルカムボード、或いはインターネット伝道などですね。これらはもちろん、とても大事です。しかし、私が皆さんと分かち合いたいと思っているのは、まずは伝道の中身のほうです。まず何を伝えるかをある程度分かち合ってから、具体的な方法の相談へと移って行けたらと思っています。
 キリスト教で何を伝えるかは、キリスト教の中心メッセージに決まっているではないかと思う方も多いだろうと思います。キリスト教の中心メッセージと言えば、例えばヨハネ3:16ですね。

ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 もちろん、ヨハネ3:16のようなキリスト教の中心メッセージを伝えることが重要であることは言うまでもありません。ただ、ヨハネ3:16は私たちクリスチャンにとってはとても味わい深い聖句ですが、一般の日本人には馴染みにくいものだと思います。特に現代人は未来にあまり大きな希望を持っていません。私が静岡で小学生だった1970年前後は、「21世紀」という言葉は明るいバラ色の未来の象徴のような言葉でした。この時代の人々の多くは未来になればなるほど科学技術が発達して世の中はどんどん良くなるというような希望を持っていたと思います。しかし、実際の21世紀は少しもバラ色ではありませんでした。そういう意味で21世紀の現代人は昔と比べて未来に希望を持てなくなっていると思います。ですから未来の「最後の審判」の話をしてもピンと来ないのではないかとも思います。そういうわけでキリスト教の初心者には、入口を変えてみるのも一つの手であると思います。
 それから、信仰歴が長いクリスチャンでも多くの方がまだ気付いていないキリスト教の魅力があると思いますから、それについても、お伝えできたらと願っています。この、信仰歴が長いクリスチャンでも、多くの方がまだ気付いていないことをお伝えすることについては、実は私の中でもまだ迷いがあります。姫路と沼津でお伝えしようとして、なかなか伝わらなかったからです。ですから静岡では、同じ過ちを繰り返さないように慎重になるべきだとも思います。しかし一方で、還暦の年に私がこの故郷の静岡に戻って来たのは、この伝わりにくいことを伝えるためではないのかという気もしています。それまで暮らしたことが無かった土地へ私が赴任して、教会の皆さんに聞き慣れない話をしても伝わらないのは当然かもしれません。しかし、この静岡は私にとっては故郷ですから、静岡の皆さんに対しては、聞きやすい話にすることができるかもしれない、そんな期待感があります。なぜ、そうまでして私が伝わりにくい話をしたいかというと、今のキリスト教の伝道が困難な状況が、このことによって打開できる可能性を私は感じているからです。今までのクリスチャンには馴染みのない話であるからこそ、もし伝わるようになるなら新しい風が吹いて、今の困難な状況を打開できるのではないか、そんな予感がしているからです。

聖書の読者のレベルの三分類
 きょうは、その触りの部分だけを話すことにして、次週以降にもう少し詳しく話したいと思います。それに当たっては、まず聖書の読者のレベルを初級・中級・上級の三つのレベルに分けてみたらどうかと考えています。これは、私が以前、大学の留学生センターで外国人留学生を対象に日本語の初級・中級・上級を教えていたことに基づいています。皆さんにとっては英語の初級・中級・上級を考えれば、想像しやすいかもしれませんね。私たち日本人で英語が上級の人はそんなにはいないでしょうね。聖書の読者の上級者もそんなにはいないでしょう。じゃあ、お前はどうなんだと言われれば、私も上級者ではありません。しかし、聖書の読者の上級者とはどのような者かについては語れると思っています。聖書の読者の上級者とは私の考えではイエスさまの愛弟子です。ヨハネの福音書に登場する「イエスが愛された弟子」、すなわち「イエスの愛弟子」が、聖書の読者の上級者と言えるでしょう。この上級者の「イエスの愛弟子」や中級者については、この祈り会でいずれ話すことにしたいと思いますが、その前にまず初級レベルについて話したいと思います。初級レベルの聖書の読者には、どのような新しい伝え方が考えられるか、最近の私の考えを話したいと思います。
 では、詩篇42篇を交代で読みましょう。

42:1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように神よ私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
42:2 私のたましいは神を生ける神を求めて渇いています。いつになれば私は行って神の御前に出られるのでしょうか。
42:3 昼も夜も私の涙が私の食べ物でした。「おまえの神はどこにいるのか」と人が絶えず私に言う間。
42:4 私は自分のうちで思い起こし私のたましいを注ぎ出しています。私が祭りを祝う群衆とともに喜びと感謝の声をあげてあの群れと一緒に神の家へとゆっくり歩んで行ったことなどを。
42:5 わがたましいよなぜおまえはうなだれているのか。私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。
42:6 私の神よ私のたましいは私のうちでうなだれています。それゆえ私はヨルダンとヘルモンの地からまたミツアルの山からあなたを思い起こします。
42:7 あなたの大滝のとどろきに淵が淵を呼び起こしあなたの波あなたの大波はみな私の上を越えて行きました。
42:8 昼には【主】が恵みを下さり夜には主の歌が私とともにあります。私のいのちなる神への祈りが。
42:9 私はわが巌なる神に申し上げます。「なぜあなたは私をお忘れになったのですか。なぜ私は敵の虐げに嘆いて歩き回るのですか。」
42:10 私に敵対する者たちは私の骨を砕くほどに私をそしり絶えず私に言っています。「おまえの神はどこにいるのか」と。
42:11 わがたましいよなぜおまえはうなだれているのか。なぜ私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い私の神を。

 この詩篇42篇には、これからの伝道に関するヒントがたくさん詰まっていると私は感じています。

神殿を重視していた旧約の時代と初期のキリスト教
 詩篇の時代は言うまでもなく旧約の時代ですから、聖霊はまだ預言者たちだけにしか注がれていませんでした。新約の時代のペンテコステの日以降にはイエス・キリストを信じるなら誰でも聖霊を受けることができるようになりましたが、旧約の時代にはそうではありませんでした。旧約の時代、聖霊を受けたモーセやイザヤなどの預言者たちは天の神様の声を聖霊を通して聞き、それを一般の人々に伝えていました。このように一般の人々は預言者を通してという間接的な方法でしか神様の声を聞くことができませんでしたから、神様のことをあまり身近に感じることができませんでした。しかしエルサレムの神殿に行けば神様の臨在に触れて神様を身近に感じることができます。それゆえ詩篇42篇の詩人はエルサレムの神殿に行きたくて仕方がありませんでしたが、詩人が住んでいるのはエルサレムから離れていたために、なかなか神殿に行くことができないでいました。それため詩人の魂は神様を慕いあえいでいました。
 このように旧約の時代においては、神殿は非常に重要な場所でした。そして神殿はイエスさまにとっても重要な場所でした。イエスさまはガリラヤ地方からエルサレムに着いた時に神殿で商売をしていた人たちに向かって、「わたしの父の家を商売の家にしてはならない」(ヨハネ2:16)と言っていますね。12歳の時のイエスさまも「わたしが自分の父の家にいるのは当然である」(ルカ2:49)と言っていますね。また、使徒の働きのペテロやヨハネたちも神殿で祈りを捧げています。このエルサレムの神殿はイエスさまの十字架から約40年後の紀元70年にローマ軍の攻撃によって焼失してしまいましたから、それ以降のクリスチャンは神殿を重視しなくなりました。しかし、焼失する前にはイエスさまやペテロたちも神殿を重視していたのですから、現代の私たちももっと神殿を重視しても良いのではないかと思うようになりました。

似ている点がある神殿礼拝と神社参拝
 私は子供の頃に静岡の浅間神社でよく参拝していました。私が教会に通うようになったのは40歳を過ぎてからでしたから、静岡の浅間神社だけでなく札幌の北海道神宮でもよく参拝しましたし、東京の明治神宮でも熱心に参拝していました。これらの神社で私は健康や安全を祈っていたように思います。試験に合格したいという具体的な願いがあった時期には、そのことを祈りましたが、特別な願いが無い時には健康と安全を祈っていたように思います。この時の私は、神社に祀られている神に祈っていたわけではありません。明治神宮には明治天皇が祀られていますが、私は明治天皇を思い浮かべながら祈っていたわけではありません。どこの神社に行っても、個々の神社の神々ではなくて、もっと大きな存在に祈っていたと思います。それは私に限らないと思います。浅間神社でお参りする人は誰が祀られているかを知らずにお参りしている人が大半ではないかと思います。
 私にとって神社とは宇宙を支配する神への入口のようなもので、どこの神社でお参りしても、個々の神社の社殿を突き抜けて宇宙を支配する神へと祈りが向かっていたように思います。キリスト教も天の父に呼び掛けますし、神殿が存在していた時代には神殿で祈っていましたから、見方によっては非常に似ているとも言えると思います。もちろんキリスト教を深く学べばキリスト教で天の父を礼拝するのと神社に参拝するのはぜんぜん違うと分かりますが、初心者への入口としてなら活用することを考えても良いのではないかという気がしています。
 天の神様は私たちを守って下さいますから、私たちは健康と安全を願って祈ります。そして神社に参拝する人々の多くも、健康と安全を願っています。そういう共通の願いを入口にして教会にお誘いするという方法もあるのではないかという気がしています。そうして初級から中級、中級から上級へと進むなら、より魅力的な世界がそこにはあること示して聖書を読むことの楽しさをお伝えしたいという希望が、私の中にはあります。
 日本のキリスト教は欧米の宣教師によってもたらされましたから、日本人の多くがキリスト教は西洋の宗教だと思い込んでいます。また、欧米の宣教師たちは日本の神社やお寺を異教の宗教施設という目で見ましたから、日本のクリスチャンもそういう目で神社やお寺を見る傾向があると思います。しかし、イエスさまやペテロたちも神殿で礼拝をしていたのですから、日本人の初級者がもっと教会に来ていただくためには、聖書に出て来る神殿と神社の類似性をアピールしても良いのではないかという気がしています。

おわりに
 きょうは、もう時間がありませんから、ここまでにしておきます。来週もまた詩篇42篇を開いて、さらに深めて行きたいと思います。
 お祈りいたします。

42:1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように神よ私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
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ヤコブの祈りの必死さに学ぶ(2019.3.21 最終祈り会)

2019-03-22 06:42:00 | 祈り会メッセージ
2019年3月21日最終祈り会メッセージ
『ヤコブの祈りの必死さに学ぶ』
【創世記32:22~30】

はじめに
 きょうの祈り会は、私たちがこの教会で行う最後の祈り会です。4月以降も、この会堂は伝道所として使われるということですから、これから先も祈り会が行われるかもしれませんが、インマヌエル沼津キリスト教会としての祈り会は、きょうのこの集会が最後のものになります。
 前半は、詩篇42篇を共に味わい、①この魂の飢え渇きは旧約の時代のものである、②新約の時代の私たちは聖霊が与えられているので、これほどの飢え渇きは無い。それゆえ却って神様から離れることになってはいないだろうか、③私たちは詩篇42篇の詩人のように霊性と感情とをしっかり区別できているだろうか、ということについて改めて確認してみることをしました。
 後半は創世記32章のヤコブの祈りの場面を共に味わって、私たちはヤコブのような必死さで祈って来ただろうかということを、ご一緒に考えてみたいと思います。まず、このヤコブの祈りの場面について短くに学びましょう。そのためには、ヤコブがどのような人物であったかも、簡単に復習しておく必要がありますね。

兄エサウに変装して父イサクを欺いたヤコブ
 ヤコブはイサクの子、イサクはアブラハムの子です。ヤコブには双子の兄のエサウがいました。双子の場合、最初に生まれた方が長男で、長子の権利がありました。ヤコブは生まれて来る時、何とかエサウが先に生まれるのを阻止しようとエサウのかかとをつかんでいました。ヤコブが生まれて来た時の場面を読みます。

25:24 月日が満ちて出産の時になった。すると見よ、双子が胎内にいた。
25:25 最初に出て来た子は、赤くて、全身毛衣のようであった。それで、彼らはその子をエサウと名づけた。
25:26 その後で弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それで、その子はヤコブと名づけられた。イサクは、彼らを生んだとき、六十歳であった。

 26節にあるようにヤコブはエサウのかかとをつかんで生まれて来ました。ヤコブは生まれた時から長子の権利に執着していたのですね。それで、彼が成長した時、ヤコブは長子の権利を兄のエサウから奪い取ることを画策しました。いま読んだ25節に、エサウは全身が毛衣のようであったとあります。つまりエサウは非常に毛深い男の子でした。このことを利用してヤコブは父のイサクが年老いて目が見えなくなった時に兄のエサウに成りすまして、父のイサクから祝福を得ました。次にその場面を見ましょう。27章を開いて下さい。
 この変装は母のリベカが企てたものでした。母はヤコブの方を愛していたからでした。27章の15節と16節をお読みします。

27:15 それからリベカは、家の中で自分の手もとにあった、上の息子エサウの衣を取って来て、それを下の息子ヤコブに着せ、
27:16 また、子やぎの毛皮を、彼の両腕と、首の滑らかなところに巻き付けた。

 母のリベカはエサウの衣をヤコブに着せて、さらに子ヤギの毛皮をヤコブの肌の滑らかな所に付けて変装をさせました。イサクは目が見えないので、それだけの変装でだまされてしまいました。続いて27節の23節と24節をお読みします。

27:23 ヤコブの手が、兄エサウの手のように毛深かったので、イサクには見分けがつかなかった。それでイサクは彼を祝福しようとして、
27:24 「本当におまえは、わが子エサウだね」と言った。するとヤコブは答えた。「そうです。」

 こうしてヤコブは兄のエサウに替わって父のイサクから祝福を得ました。しかし、そこにエサウが戻って来ました。29節と30節をお読みします。29節はイサクの祝福の祈りです。

27:29 諸国の民がおまえに仕え、もろもろの国民がおまえを伏し拝むように。おまえは兄弟たちの主となり、おまえの母の子がおまえを伏し拝むように。おまえを呪う者がのろわれ、おまえを祝福する者が祝福されるように。」
27:30 イサクがヤコブを祝福し終わり、ヤコブが父イサクの前から出て行くとすぐに、兄のエサウが猟から戻って来た。

 こうして、ヤコブが本来はエサウが得るはずの父の祝福を横取りしましたが、そのことが兄のエサウにすぐにバレてしまいましたから、ヤコブは遠い土地に逃れることになりました。エサウが弟のヤコブを殺そうと思うほど怒ったからでした。

救いを必死で祈ったヤコブ
 それからヤコブは遠い土地で20年間を過ごしましたが、この20年が経った頃、主はヤコブに生まれ故郷に戻るように命じました。31章の3節をお読みします。

31:3 【主】はヤコブに言われた。「あなたが生まれた、あなたの父たちの国に帰りなさい。わたしは、あなたとともにいる。」

 しかし、故郷に戻ることはヤコブにとって恐ろしいことでした。もし、まだ兄のエサウが怒っていたら、ヤコブは殺されてしまうかもしれないからでした。そこで、まずはエサウのところに使者を送りました。すると、戻って来た使者が言いました。32章の6節です、

32:6 使者は、ヤコブのもとに帰って来て言った。「兄上エサウ様のもとに行って参りました。あの方も、あなたを迎えにやって来られます。四百人があの方と一緒にいます。」

 これを聞いてヤコブは非常に恐れ、不安になりました。四百人に襲われたら、とうてい勝ち目はなくてヤコブは殺されてしまうでしょう。ヤコブは神に祈りました。少し飛ばして32章の11節、

32:11 どうか、私の兄エサウの手から私を救い出してください。兄が来て、私を、また子どもたちとともにその母親たちまでも打ちはしないかと、私は恐れています。

 そうして、きょうの聖書箇所の22節からを見て行きましょう。22節と23節をお読みします。

32:22 その夜、彼は起き上がり、二人の妻と二人の女奴隷、そして十一人の子どもたちを連れ出し、ヤボクの渡し場を渡った。
32:23 彼らを連れ出して川を渡らせ、また自分の所有するものも渡らせた。

 ヤコブは妻と子供たちを先に行かせました。兄のエサウに襲われることが、あまりに恐ろしくて先頭に立つことができませんでした。そして、ヤコブは必死で祈りました。これは祈りの格闘でした。ヤコブの祈りは神様と格闘するほどまでに壮絶なものでした。24節から26節までをお読みします。

32:24 ヤコブが一人だけ後に残ると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
32:25 その人はヤコブに勝てないのを見てとって、彼のももの関節を打った。ヤコブのももの関節は、その人と格闘しているうちに外れた。
32:26 すると、その人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」ヤコブは言った。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」

 ヤコブは神の人に、自分を祝福するまで去らせないと言いました。ものすごい祝福へのこだわりですね。神の祝福が得られれば兄のエサウに殺されることはないでしょう。すると、神の人はヤコブに尋ねました。27節です。

32:27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は言った。「ヤコブです。」

 ヤコブは正直に「ヤコブです」と答えました。かつてヤコブはエサウに変装して父のイサクを欺き、祝福を横取りしました。しかし、神の人と格闘した時のヤコブは偽らずに正直に「ヤコブです」と言いました。このヤコブの正直な答を聞いた神の人は言いました。28節です。

32:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」

 こうして、ヤコブは神様からの祝福を得ました。そして自らが先頭に立ってエサウの方に向かって行きました。33章の3節と4節をお読みします。

33:3 ヤコブは自ら彼らの先に立って進んだ。彼は兄に近づくまで、七回地にひれ伏した。
33:4 エサウは迎えに走って来て、彼を抱きしめ、首に抱きついて口づけし、二人は泣いた。

私たちは必死に祈ったか?
 さて、私たちはこのヤコブのように必死で祈ったことがあるでしょうか?私たちは、会堂問題に関しては、これぐらい必死に祈ったのではないでしょうか。そうして新会堂が与えられる一歩手前まで漕ぎ着けることができました。これは私たちにとって大きな財産となったと私は考えています。人間社会は複雑ですから、新会堂建設には至りませんでしたが、神様は私たちの必死の祈りに応えて下さり、新会堂への道を開いて下さったのだと私は思っています。
 しかしながら、その他の祈りはどうだったでしょうか?例えば、今のこの会堂にもっと多くの新しい方々が来ますようにという祈りはどうだったでしょうか。この祈りを私たちはしなかったわけではありませんが、新会堂を与えて下さいという祈りに比べれば、全然足りていなかったのではないでしょうか。もし、新しい来会者が与えられますようにという祈りを、新会堂の祈りと同じくらいの必死さでしていたら、そうして新しい来会者が与えられていたなら、もしかしたら違う展開になっていたかもしれません。そういう意味での反省が私の中にはあります。
 必死になって祈ることの大切さは、ルカの福音書のイエスさまも説いておられますね。最後に、このルカの福音書の場面をご一緒に読んで、最後の祈り会のメッセージを締めくくることにしたいと思います。

18:1 いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために、イエスは弟子たちにたとえを話された。
18:2 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。
18:3 その町に一人のやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私を訴える人をさばいて、私を守ってください』と言っていた。
18:4 この裁判官はしばらく取り合わなかったが、後になって心の中で考えた。『私は神をも恐れず、人を人とも思わないが、
18:5 このやもめは、うるさくて仕方がないから、彼女のために裁判をしてやることにしよう。そうでないと、ひっきりなしにやって来て、 私は疲れ果ててしまう。』」
18:6 主は言われた。「不正な裁判官が言っていることを聞きなさい。
18:7 まして神は、昼も夜も神に叫び求めている、選ばれた者たちのためにさばきを行わないで、いつまでも放っておかれることがあるでしょうか。

 神様は愛情深く優しいお方ですから、必死で祈る私たちのことを「うるさくて仕方がない」などとは決して思わないでしょう。しかし、そう思われるくらいに必死で祈るべきことが、このイエスさまの例え話から伝わって来ます。

おわりに
 これから私たちが進む先には、様々なことがあると思います。しかし、神様に必死に祈るなら、どんなことも乗り越えていくことができるでしょう。私たちには、会堂の祈りが神様に応えられたという財産がありますから、この時の祈りと同じくらいに一生懸命に祈りながら、これからのそれぞれの道を神様に導かれながら、進んで行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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これからの祈りの課題(2019.3.13 最後の水曜祈り会)

2019-03-14 10:31:34 | 祈り会メッセージ
2019年3月13日祈り会メッセージ
『これからの祈りの課題』
【ヨハネ20:29~31】

29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」
30 イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。
31 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。



はじめに
 きょうは、この教会で通常の形で行う水曜日の祈り会としては、最後の祈り会になります。この場で何を語るべきか私は悩みました。それで、まずはこの6年間に祈りの課題として挙げて来たことを簡単に振り返ってみました。すると、祈りが足りなかった点をむしろ示されましたから、その話から始めようと思います。

地域のために祈らなかった最初の一年
 祈らなかったことで最も悔やまれたことは、私が2013年に沼津教会に着任してからの最初の一年間は、小学生の登校下校時の交通安全について、一度も祈ることがなかったことでした。そんな中で2014年4月10日の朝、最寄のJR片浜駅に近い県道のT字路で片浜小学校5年生の嶌野瑛斗(しまのえいと)君が死亡した痛ましい交通事故が起きました。この事故のことを昼のローカルニュースで知った私は、午後に現場を訪れて祈りを捧げました。現場には多くの花が献花されていて、悲しみに包まれていました。この時、私はそれまでの一年間に、この教会で一度も小学生の交通安全について祈って来なかったことを激しく悔やみました。2013年に沼津に来る前に私は姫路教会の牧師をしていましたが、2012年の4月以降、姫路の祈り会ではずっと小学生の交通安全を祈りの課題に挙げて皆で祈っていました。それは、2012年4月23日に京都府の亀岡市で小学生の集団登校の列に車が突っ込んで3人が死亡するという事故があったからでした。この事故はもちろん全国ニュースになりましたが、関西のローカルニュースでは、その後もかなり長い期間、この事故の続報を報じていました。そういうこともあって姫路教会の祈り会では毎週ずっと小学生の交通安全を祈って来ました。それなのに私は沼津に来た途端、小学生の交通安全について祈ることを忘れてしまっていました。どうして、そんなにきれいに忘れてしまったのか、情けなくて申し訳なくて本当に激しく悔やみました。

新会堂建設のための熱い祈り
 しかし、ただの偶然か偶然ではないのか、今となっては分かりませんが、地域の小学生や人々のために祈り会で祈るようになってから、急速に会堂問題が動き始めました。新会堂が与えられますようにという祈りは、私が着任する前から既に熱く捧げられていました。沼津教会では2012年に5年後の2017年(教会創立50周年の年)に新会堂を献堂するという目標を掲げて、それに向けて全教会員が連日それぞれの自宅においても決まった時間に新会堂への祈りが積まれていました。しかし、新会堂が実現する見通しはまったくありませんでした。
 私が2013年4月に着任した時、2ヶ月後の6月は会堂強化月間になっているということを教えていただき、十和田から前任者の廣瀬邦男牧師をお招きして、会堂がテーマの説教をしていただくことになっているということでした。また5月には2人目のお孫さんが誕生して、ちょうど廣瀬善子師が何週間も沼津に滞在していましたから、やはりこの2013年の6月に善子師にも会堂がテーマの礼拝説教をしていただきました。つまり、牧師が私に交代したわずか2ヶ月後に前任の牧師の邦男師と善子師の両方に、会堂がテーマの説教をしていただいたわけで、それほど私たちは新会堂に向けて熱い思いを持って闘っていたということになります。それでも、新会堂への扉は一向に開かれる気配がありませんでした。それが2014年の4月以降、地域の小学生と人々のための祈りを開始してから、不思議なように新会堂建設への扉が開かれ始めました。それゆえ、地域のために祈る教会を志したことで、神様が扉を開いて下さったのだなと思いました。

足りなかった魂の救いのための祈り
 新会堂が与えられますように、という祈りは本当に皆さんと一緒に熱心に捧げたと思います。そして、それに神様が応えて下さったとも感じています(新会堂建設は取り止めになりましたが、着工できる直前の段階まで漕ぎ着けることができました)。しかし、今から思うとぜんぜん足りていなかった祈りがあったと反省させられています。それは、地域のもっと多くの方々がこの教会に集い、魂が救われますようにという祈りです。祈らなかったわけではありませんが、新会堂のための祈りに比べるとぜんぜん足りていなかったことは明らかです。
 祈りの人として有名なジョージ・ミュラーの伝記に、彼がイギリスで孤児院の働きを開始した頃の逸話が載っていますね。ミュラーはひたすら祈ることで与えられた建物・資金・物資で次々と孤児院を開設して、そこで多くの孤児たちを救うという大きな働きをしました。しかし、孤児院として使える家が最初に与えられて孤児の受け付けを開始した日は申込者が一人もいなかったそうです。なぜなのか、その理由を考えたミュラーたちは子供たちのために祈って来なかったことを示されて、その晩、夜を徹して子供たちのために祈ったところ、翌日には申込者があって、ほどなくして定員に達したということです。神様が祈りに応えて孤児院を与えて下さるなら、孤児も自動的に与えて下さるとミュラーたちは考えていたのだと思います。
 私自身も、もし神様が私たちに新会堂を与えて下さるなら、新しい来会者も神様が与えて下さるだろうと思っていたように思います。小さな教会の私たちが新会堂を建てることなど、ほとんど有り得ないことです。しかし、もし奇跡が起きて神様が新会堂を与えて下さるなら、当然新しい来会者も与えて下さるだろうと勝手に私は思い込んでいました。それゆえ新会堂のためのお祈りは熱心にしましたが、地域の方々が教会に来て救われますようにという祈りのほうは、しなかったわけではありませんが新会堂のための祈りに比べればぜんぜん足りていなかったと反省させられています。

多くの人々が教会を訪れた20世紀
 いま私は静岡教会の元牧師の松村導男先生が書かれた『恩寵の七十年』をまた読み返しています。この沼津教会も、宮崎兄弟姉妹のお宅の家庭集会に松村牧師が来られ、また日曜日にはその宮崎さんのお宅で静岡教会の説教の録音テープを聞いて礼拝を捧げていたことが始まりということです。その『恩寵の七十年』にも、松村牧師たちが、とにかくよく祈ったということが書かれています。そうして多くの魂が救われました。
 しかし、魂の救いに関する祈りは今でも多くの人々によって祈られているはずです(私自身の祈りは足りていませんが)。それなのに、松村牧師たちの時代に比べて現代では教会に人が来なくなったのはどうしてでしょうか。大きな要因として挙げられているのはオウム真理教の事件の影響ですね。多くの人々が宗教に対して警戒心を持つようになりました。また、それ以外にもいろいろな要因があるのだろうと思います。きょうは最後に、人々が教会に来なくなった要因として最近私が考えるようになったことについてお話して、メッセージを終えることにしたいと思います。
 少し前の礼拝メッセージで私は、2月22日の晩に放送されたテレビドラマの『約束のステージ』の紹介をしました。このドラマは2019年の現代の女性が1975年にタイムスリップするという物語です。このドラマの中では主人公たちが1970年代の歌謡曲をたくさん歌っていました。それで私自身も1970年代に引き戻された感覚になりました。そうして小学生時代の自分を思い返しました。あの頃、「21世紀」という言葉は、「明るいバラ色の未来」の代名詞のような使われ方をしていました。30年後の21世紀には科学がもっと発達していて、素晴らしい世の中になっていると小学生の私は夢想してウットリとしていました。私だけでなくほとんどの子供たち、そして大人たちの多くもそのように夢想していたと思います。未来になればなるほど科学がどんどん発達して行って、世の中はどんどん良くなっていく、そんな風に単純に信じられていた時代だったと思います。

未来を信じていない21世紀の現代人
 しかし、実際の21世紀は少しもバラ色ではありませんでした。そうして21世紀の現代人で「未来になればなるほど世の中がどんどん良くなっていく」と信じる人など、ほとんどいないでしょう。科学技術は私たちの生活を大きく変えて便利になりましたが、それで私たちが幸せになったかというと、ぜんぜんそんなことはありません。携帯電話があれば確かに便利ですから私も使いますが、電車に乗っている人がほとんど皆、携帯の画面をじっと見つめていたり忙しく指を動かしていたりする様子を見ると、これが幸せな社会だとは到底思えません。これから先、AIの進化によって生活はますます便利になることでしょう。しかし、それで私たちが今よりも幸せになれると思う人はほとんどいないでしょう。
 つまり、現代の我々は70年代の人々と比べて未来に対する希望をぜんぜん持つことができなくなっています。お金に関してもそうです。昔は定期預金にお金を預ければ利率が良かったですから、どんどんお金が増えました。今は定期預金に入れても入れなくても大して変わらないほどの利息しか付きません。お金を増やそうと思えばリスクを覚悟の上でハイリスクハイリターンの投資をする必要があるでしょう。
 預金がそういう状態ですから、年金に関してもほとんど期待ができなくなっています。将来受け取れるはずの見込み額は減り続けています。私は今年の秋に60歳になります。そうすれば一応年金の納付期間は終わります。それに当たって、年金機構は、さらに延長して65歳まで年金を納めれば、将来もっとたくさん年金を受け取ることができるとしています。しかし、今のGPIFによる積立金の運用の仕方を見ていると、それを信じることは私には到底できません。そんな風に21世紀の私たちは未来を単純には信じられなくなっています。
 イムマヌエル綜合伝道団が設立された終戦直後から何十年かの間、人々が続々と教会に来ていた時代は、人々が単純に科学を信じて未来を信じることができた時代であったことと無関係ではないのではないか、最近そんな風に私は考えるようになりました。明るい未来を信じることと明るい死後の世界を信じることは決して無関係ではないように思います。現代の人々は明るい未来を信じることができませんから、明るい死後の世界も信じることができなくて当然のような気がします。

喜びを持って今を生きているクリスチャン
 しかし、実は私たちクリスチャンが明るい希望を持って今を生きていられるのは、単に死後への希望を持って生きているからだけではなく、今現在をイエス・キリストと共に生きることができているからです。今現在その恵みの中で日々を生きていますから、未来のことをどうこう考える必要はありません。すでに永遠のいのちが与えられていますから、未来に期待も絶望もする必要がなく、単に今をイエス・キリストと共に喜びをもって生きることができます。
 しかし、このことが分かるには、まずはイエスさまを信じていただくことが必要です。きょうの聖書箇所のヨハネ20章29節でイエスさまが「見ないで信じる人たちは幸いです」とおっしゃったように、まずイエスさまと出会う前に「イエスは神の子キリストである」と信じる必要があります。そうして信じれば聖霊を受けてイエスさまと霊的に出会うことができます。
 ヨハネ4章でサマリア人たちがイエスさまに出会うことができたのは、彼らがサマリアの女の「もしかすると、この方がキリストなのでしょうか」(ヨハネ4:29)ということばを信じたからです。彼らはまだイエスさまを見ない段階で女の言うことを信じたからイエスさまと出会うことができ、さらにイエスさまから直接話を聞くことできて、その結果、「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです。」(同4:42)とサマリアの女に言えるほどになりました。

おわりに ~これからの祈りの課題
 現代の人々に教会に来ていただき、イエスさまを信じていただくには、どうしたら良いでしょうか。未来のことを信じにくい現代の人々に対しては、未来にある最後の審判(天国か地獄かの裁き)のことを話すよりも、今イエスさまを信じさえすれば、今すぐからでも素晴らしい恵みの中に入れられることをお伝えするのが良いだろうと私自身は考えています。
 そのためにはどうしたら良いのか、このことをどのようにお伝えしたら良いのか、これから私はかつて新会堂のために熱く祈った時以上にこのことを熱く祈り求めて行きたいと考えています。沼津と静岡とでこれからの働きの場所は皆さんと異なりますが、福音の宣教のために、これからも共に働いて行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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冷静沈着さを生む自己の客観視(2019.2.20)

2019-02-21 09:27:50 | 祈り会メッセージ
2019年2月20日祈り会メッセージ
『冷静沈着さを生む自己の客観視』
【マルコ4:35~41】

4:35 さてその日、夕方になって、イエスは弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われた。
4:36 そこで弟子たちは群衆を後に残して、イエスを舟に乗せたままお連れした。ほかの舟も一緒に行った。
4:37 すると、激しい突風が起こって波が舟の中にまで入り、舟は水でいっぱいになった。
4:38 ところがイエスは、船尾で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生。私たちが死んでも、かまわないのですか」と言った。
4:39 イエスは起き上がって風を叱りつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、すっかり凪になった。
4:40 イエスは彼らに言われた。「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。」
4:41 彼らは非常に恐れて、互いに言った。「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどなたなのだろうか。」

はじめに
 皆さんが良くご存知のおなじみの箇所を今、ご一緒に読みましたが、きょうのメッセージのタイトルとして「冷静沈着さを生む自己の客観視」という題を付けてみました。イエスさまは終始冷静でした。どうして、こんなに冷静でいられたのか、それは天の父に絶大な信頼を寄せていたからということもあったと思いますが、一番大きな理由は、イエスさまはこの地上で自分に与えられたミッションのことを良くご存知だったからではないかと思います。イエスさまは、これから先、エルサレムに行って苦しみに遭わなければならないことをご存知でしたから、ガリラヤの湖で死ぬはずがありません。一方の弟子たちは、イエスさまが何のために自分たちに声を掛けて下さったのか、自分たちがどこへ向かおうとしているのか、またイエスさまがどのようなお方なのか、まったく分かっていませんでした。
 なぜ今、このようなことを考えているかというと、いま私は先週観た上映中の映画『ファースト・マン』の原作を読み始めているからです。上・下2巻ある文庫本のまだ最初の1/5ほどしか読んでいませんが、感じるところがあったので、きょう話をさせていただくことにしました。3月の年会が終わる頃ぐらいまでには全部読み終えて、できれば3月の祈り会か礼拝の中でもう一度、取り上げることができたらと思っています。

生命の危機の中でも冷静だったニール・アームストロング
 この『ファースト・マン』の主人公は先週も少し話した通り、人類で初めて月面に降り立ったニール・アームストロングです。ニールはもともとは海軍の戦闘機のパイロットで、朝鮮戦争では墜落も経験していますが、脱出してパラシュートで降りて生還しています。ニールが戦闘機のパイロット候補として海軍に入隊したのは第二次世界大戦が終わってから朝鮮戦争が始まるまでの間の期間でした。この頃は戦闘機がプロペラ機からジェット機に入れ替わる時期でした。ニールは海軍のパイロットですから、航空母艦(空母)からの離陸と着艦もできなければなりませんでした。ジェット・エンジンはプロペラ・エンジンに比べて遥かに出力が大きいですから狭い空母への着艦は当初は大変に難しくて事故も多かったようです。新しい技術が開発された頃にはトラブルは避けられません。奇しくもニール・アームストロングは若い頃にジェット戦闘機の初期の時代を経験しました。宇宙飛行士としての経験も同様です。ちょうど朝鮮戦争の終りごろぐらいから宇宙ロケットの開発が本格化しましたから、ニールはロケット開発の初期の時代に宇宙飛行士として数々の危険な目に遭って死に掛けたこともありました。しかし、ニールはいつも冷静沈着に事態に対処して生還を果たしました。その冷静沈着さの故に人類で最初の月着陸を目指すアポロ11号の船長に指名されたということです。月に着陸船が着陸する際も、月の地表はでこぼこだらけで着陸に適した場所がなかなか見つからず、燃料切れになる寸前まで粘ってようやく着陸することができました。着陸船を操縦していたのはもう一人のオルドリン飛行士でしたが、燃料切れが迫っている中でも無事に着陸できたのは、冷静沈着なニール・アームストロングがいたからこそのことでしょう。
 きょうのメッセージでもう一つ絡めたい話は、この今沢の教会でここ何年かの間に私たちが経験した嵐のことです。この嵐の中で私たちはどうだったでしょうか。私自身はイエスさまの弟子たちのように、あわてふためいてしまっていたと感じています。しかし教会員の皆さんの多くが冷静でいて下さいましたから助けられました。嵐が静まった今、A教会という港に向かって私たちが船を進めて行くことができているのは、教会の皆さんがイエスさまのように冷静でいて下さったおかげだと思っています。皆が私のように動転していたら、私たちのこの船は転覆してしまっていたかもしれません。そんな風に思っていますから、皆さんにはとても感謝しています。

広い視点から自己を客観視できたニール
 さて、もう一度『ファースト・マン』に戻ります。ニール・アームストロングは1930年の8月生まれで、アポロ11号が月に向かったのが1969年の7月ですからニールが月に着陸したのは39歳になる直前の38歳の時でした。そうして2012年の8月の、82歳になったばかりの頃に亡くなります。ですから彼の後半生は皆が彼を英雄視する中での人生だったと思います。しかし、彼自身はとても謙虚な人物だったようです。そうして、自分の伝記を書くことを誰にも許しませんでした。そんな彼も70歳の手前でこの『ファースト・マン』を書いたジェイムズ・ハンセンに伝記を書くことを許可して、長時間のインタビューを受けたということです。そして、伝記には必ずアームストロング家の祖先の話も書くべきと主張したそうです。彼は伝記とはそういうものだと考えていたそうです。著者のハンセンは、この本の第一章の書き出しを次のような文章で始めています。引用します。

「第1章 アメリカの創世記
 ニール・アームストロングは、自分のものであれほかの誰のものであれ、人の一生が始まるのは生まれ落ちたときではないと思っていた。始まりは、はるかにさかのぼってその人の家系が発生した時点、人の記憶や歴史的文書、系図に残された記録をたどれるかぎり何百年という昔にある。親や祖父母、曾祖父母、そのまた先の祖先たちの一生、経験や挑戦や業績、愛情や情熱を語らずには――奥行きの深い一族の過去をおろそかにしては――どんな伝記もごまかしでしかないと。ニールは自分の伝記には祖先の話も含めるよう主張して譲らなかった。
 ニールはまた、彼自身の家族の歴史が、アメリカでは多くの家族がそうであるように、果敢に新天地を目指した移民の物語であることを深く理解していた。自分の家族史を『アメリカの創世記』と称したこともある。」(河出文庫『ファースト・マン』上巻p.37)

  ニールのこの考え方のために、この伝記の最初の方には、まだアメリカに移住する前のヨーロッパにおけるアームストロング一族の歴史のことが書かれています。そして、アメリカ移住後のアームストロング家の祖先のことにもかなりのページが割かれています。
 つまり、ニール・アームストロングは自身がそれまでの人生で行って来たことを、そういう広い視点から見ていたのですね。自分の一生を数十年という自分が生きて来た中でだけ見ていたのでなく、もっと遥かに長いヨーロッパにおけるアームストロング一族の歴史の中に自分の一生を置いて眺めていたということです。そういう視点を持つことができる人物であったからこそ、あらゆる状況において自分を客観視することができて、命にかかわる緊急事態の中でも極めて短時間の間に生き残るための手段を見出して対処できたのかもしれません。
 彼が月の地表に足を踏み下ろした時の第一声は、とても有名です。

「That's one small step for [a] man, one giant leap for mankind.(これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である。」

 こういうことを言えるのは、普段から自分の行動を広い視点から客観視していた人だったからではないでしょうか。そして、そういう人だったからこそ、危険の中にあっても冷静でいられました。

イエスさまのミッションと私たちのミッション
 パニックに陥りやすい人は、自分の置かれている位置を狭い範囲でしか見られない人たちでしょう。イエスさまの弟子たちはその種の人たちでした。もう一度聖書に戻ります。マルコ4章37節と38節を、私のほうでお読みします。

4:37 すると、激しい突風が起こって波が舟の中にまで入り、舟は水でいっぱいになった。
4:38 ところがイエスは、船尾で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生。私たちが死んでも、かまわないのですか」と言った。

 私たちの教会のここ何年間かを思い返しても、私自身は本当にここに書かれている弟子たちのように動転していたなと思います。そんな中、教会の皆さんが冷静でいて下さったために助けられましたから、感謝に思っています。皆さんも心の中では冷静ではいられなかったと思いますが、それを表に出さずにいて下さいました。私自身もこれから先は、どんな事態の中にあっても冷静でいられるように、ここであったことを教訓にして歩んで行きたいと思います。
 最初のほうで話したように、イエスさまはご自身のミッションを自覚しておられました。マルコの福音書のイエスさまが、ご自分がやがて苦しみを受けらことを最初に予告したのは、8章の31節においてです。ご一緒に読みましょう。

8:31 それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。

 弟子たちに予告したのがこの8章であっても、湖で嵐に遭った4章の時点でもイエスさまは当然このことを知っていたはずです。単に弟子たちに告げていなかっただけです。この8章31節の直前の29節で、ペテロは「あなたは、キリストです」と言いました。ペテロたちがここまで成長したから、受難と復活を予告したのであって、4章ではまだまだ予告できるような段階ではなかったということだと思います。
 イエスさまは、ご自分に与えられていたミッションを良く自覚していました。それゆえガリラヤの湖で死ぬはずなどなく、嵐の中でも冷静沈着でいられました。
 私たちにもミッションが与えられています。細かい点はそれぞれが置かれた立場で異なりますが、大きな視点から見れば、皆に同じ使命が与えられていると思います。それは、一人一人がイエスさまの証人になるということでしょう。少しのことで動転しているようでは、冷静沈着であったイエスさまの証人になることはできませんね。いま私はそれを反省し、教会の皆さんに感謝したいと思います。

おわりに
 私たちがイエスさまの証人になるべきことは使徒の働き1章8節に書かれていますね。最後に使徒1章8節をご一緒に読んで、終わりたいと思います。

1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」

 お祈りいたしましょう。
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空白の2年間(2019.2.13 祈り会)

2019-02-14 08:33:01 | 祈り会メッセージ
2019年2月13日祈り会メッセージ
『空白の2年間』
【創世記40:23~41:1】

40:23 ところが、献酌官長はヨセフのことを思い出さないで、忘れてしまった。
41:1 それから二年後、ファラオは夢を見た。見ると、彼はナイル川のほとりに立っていた。

はじめに

 聖書を読むと、深い平安が得られます。この深い平安を、どうやったら多くの方々と分かち合うことができるだろうかということを、このところ私はずっと考えています。このことを考え続けていることで、いろいろと示されることもありますから、感謝に思っています。きょうは、最近示されたことのいくつかを話したいと思います。

霊的な高みに連れて行ってくれる聖書
 まず、きのう示されたばかりのことを二つ話します。
 きのう私は『ファースト・マン』という映画を観て来ました。この映画はアポロ11号の船長のニール・アームストロングが主人公です。ニールはご存知のように人類で最初に月面に降り立った人です。彼はそれまで誰も足を踏み入れたことのない別世界に降り立つ経験をしました。アポロ11号ではもう一人、オルドリン飛行士も月面に降り立ち、次いでアポロ12号から17号に至るまで、アポロ13号を除いては何人かが月面に降り立っています。彼らは、私たち凡人が決して行くことができない高い場所に行きました。月は今までに人類が到達した最も高い場所です。そこに到達するためには宇宙飛行士たちは過酷な訓練を受けました。月は、そのような厳しい訓練をくぐり抜けた者たちだけが到達できる高い地点です。
 そして聖書という書物は、私たちを霊的な高みに連れて行ってくれる書物です。月に行くためにはロケットに乗って出掛けて行く必要があります。しかし、聖書という書物は神様の側が私たちを霊的に高い場所に誘い、引き上げて下さいます。ロケットは必要ありません。ロケットに乗れる人の人数は限られていますが、霊的な高みに引き上げられる人に人数制限はありません。ですから、そのことを望む人は誰でも神様によって引き上げていただけると言っても良いでしょう。とは言え、聖書はそんなに読みやすい書物ではありませんから、それほど簡単なことではないこともまた、私たちは知っています。では、どうすれば良いのでしょうか。

聖書を理解するには聖書以外も必要
 そんなことを考えていたら、昨日の晩にまた新しい気付きが与えられました。今週から札幌で日本カーリング選手権が開催されていて、その中継をNHKのBS1で放送しています。きのうの晩は、女子の中部電力とチーム京都の試合を生中継で放送していました。中部電力は、世界選手権にも出場したことがある、日本ではトップレベルのチームです。去年、平昌オリンピックで銅メダルを獲得したLS北見(ロコ・ソラーレ)の中心選手の藤澤五月選手もかつては中部電力に所属していました。一方、対戦相手のチーム京都は日本のチームの中ではかなりランクの低いチームです。ただし日本選手権は西日本ブロックからも1チームが出場できることになっていて、それで西日本ブロックを勝ち抜いて出場権を得ました。カーリング人気を北国だけでなくて全国的に広めるためには必要なことですね。しかし、いかんせん、実力があまりに違い過ぎますから、チーム京都は中部電力に大敗しました。
 一方的な試合でしたから、勝負を楽しむという点では今一つでしたが、ランクが低いチームの試合を見ることで学べる点も多くありましたから興味深かったです。というのは普段のカーリング中継はオリンピックや世界選手権がほとんどですから、私たちは大抵の場合トップレベルのプレーばかりを見ています。するとカーリングの何が難しいのかが良く分かりません。一方、きのうのチーム京都の選手はミスショットを連発していました。たまにまぐれでナイスショットがありますが、ほとんどの場合、狙った位置にストーンが行くことがありませんでした。それで、トップレベルの選手の凄さが改めてよく分かったというわけです。
 チーム京都の選手の中には、去年の平昌オリンピックを見てカーリングに興味を持って始めた、競技歴が1年の選手もいました。その選手は、やはりなかなか思った位置にストーンが行きません。それでテレビで実況していたアナウンサーが解説者に聞いていました。彼女たちは、これからどのような練習を積んで行ったら良いのでしょうか?すると解説者が答えていました。「とにかくたくさん投げることですね。それから、氷上以外でも体を鍛えなければなりません」などと言っていました。中部電力やロコ・ソラーレ、あるいは北海道銀行などのチームの選手たちがいる高みに上がるためには、氷上での練習はもちろん、氷上以外での練習も必要だということです。
 聖書においても、まずは聖書を繰り返し読むことが必要です。しかし、聖書以外のことも聖書理解に役立つであろうことを改めて示されて感謝に思いました。聖書以外の何が役に立つか、それは人それぞれだろうと思います。私の場合は、映画鑑賞が役に立っているように思いますから、きょうの残りの時間は、そのことについて話したいと思います。

『ラ・ラ・ランド』の空白の5年間
 私は聖書を少し理解できるようになって以降、映画の理解もまた深まったと感じています。聖書においては、見逃しがちな小さな場面が大きな意味を持つことがよくありますね。映画も同じです。そのことに気付くことで私の映画への理解が深まりました。そして、映画の理解が深まると、聖書の理解もまた深まるという相乗効果があると感じています。ですから、いま私は、映画好きの人に聖書を読む楽しさを伝えられるようになりたいと思い始めています。
 そこで今日と次の聖日の礼拝メッセージでは、先週の金曜ロードショーで放送していた映画『ラ・ラ・ランド』を例にして話してみたいと思います。月面に降り立った『ファースト・マン』については、きのう観たばかりの映画ですから、もう少し思いを巡らしてから機会があれば、また話すことにしたいと思います。
 先週の金曜ロードショーでテレビ放送された『ラ・ラ・ランド』は日本ではちょうど2年前の今頃に劇場公開されていました。私は確か2回ほど映画館で観ました。そして3回目を先週の金曜ロードショーで観ました。その先週の3回目に、2年前に映画館で観た時には気付かなかったことに気付き、この『ラ・ラ・ランド』という映画への理解を一層深めることができました。
 きょうはこの映画の細部には立ち入らないつもりですが、簡単に話しておくと、この映画の最後のほうで「Five years later」という文字が現れます。つまり「5年後」です。そうして場面が5年後に切り替わり、ヒロインの5年後の家庭の様子が写って、観客は戸惑うことになります。この映画を観た観客の多くは、「何で、そうなるの?」と思い、困惑したことでしょう。私も「エ~!」と思いました。この空白の5年間にいったい何があったのでしょうか。以前、映画館でこの映画を2回観た時には気付かなかったのですが、今回、テレビでこの映画を観ていて、空白の5年間に関するヒントが気付きにくい形で示されているのを発見しました。そうして、この5年間への思いを巡らすことで、この映画がますます好きになりました。このことについては、次の礼拝で話します。

創世記40章と41章の間の空白の2年間
 さて、残りの時間で聖書の話をします。先ほど創世記40章23節と41章1節を読みました。もう一度、私のほうでお読みします。

40:23 ところが、献酌官長はヨセフのことを思い出さないで、忘れてしまった。
41:1 それから二年後、ファラオは夢を見た。見ると、彼はナイル川のほとりに立っていた。

 もうお気付きだと思いますが、今、映画『ラ・ラ・ランド』の空白の5年間を話題にしましたから、今度はこの創世記40章と41章の間にある空白の2年間について思いを巡らしたいと思います。40章と41章の間の2年間は、ヨセフにとってどんな2年間だったのでしょうか。40章の13節と14節でヨセフは献酌官長に言いました。

40:13 三日のうちに、ファラオはあなたを呼び出し、あなたを元の地位に戻すでしょう。あなたは、ファラオの献酌官であったときの、以前の定めにしたがって、ファラオの杯をその手に献げるでしょう。
40:14 あなたが幸せになったときには、どうか私を思い出してください。私のことをファラオに話して、この家から私が出られるように、私に恵みを施してください。

 ですから、ヨセフはしばらくの間は、自分がここから出られるのではないかと大いに期待を持って過ごしたことでしょう。しかし、1ヶ月経っても2ヶ月経っても状況は変わりませんでした。これはつらいですね。期待した分、よけいにつらかったことでしょう。自暴自棄になって神様を呪ってもおかしくない状況です。性格がねじれてしまったとしても責めることはできません。しかし、ヨセフはそうはなりませんでした。
 ヨセフがファラオの夢の解き明かしをした場面については、皆さんも良くご存知だと思いますから、そこは飛ばして、41章の37節から41節までを交代で読みましょう。

41:37 このことは、ファラオとすべての家臣たちの心にかなった。
41:38 そこで、ファラオは家臣たちに言った。「神の霊が宿っているこのような人が、ほかに見つかるだろうか。」
41:39 ファラオはヨセフに言った。「神がこれらすべてのことをおまえに知らされたからには、おまえのように、さとくて知恵のある者は、ほかにはいない。
41:40 おまえが私の家を治めるがよい。私の民はみな、おまえの命令に従うであろう。私がまさっているのは王位だけだ。」
41:41 ファラオはさらにヨセフに言った。「さあ、私はおまえにエジプト全土を支配させよう。」

 こうして、ヨセフはエジプトでファラオに次ぐ第二の地位に就くことになりました。宰相とも総理大臣とも呼ばれます。

練られた品性が希望を生み出した2年間
 しかし、ヨセフの夢の解き明かしがどんなにすごいことであったとしても、エジプトという大国の指導的な地位に就くなどということが有り得るでしょうか。高い地位に就いて人を動かし、国を動かすことができる能力と、夢を解き明かす能力とは違うはずです。ということは、ヨセフはこの空白の2年間で、総理大臣になれるだけのものを身に着けたということでしょう。
 最後に、ローマ人への手紙5章の1節から5節をご一緒に読んで、終わることにします。

5:1 こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
5:2 このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。
5:3 それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、
5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。
5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

 ヨセフはエジプトで苦難の中にありました。そして、この苦難がヨセフの忍耐を生み出しました。そして忍耐が品性を生み出して、この品性によってヨセフはエジプトの総理大臣の地位に就きました。また、品性が希望を生み出しましたから、ヨセフは獄中で絶望することなく希望を持って日々を生きることができたのでしょう。
 ヨセフは信仰によって、いつかここから出られるという希望を持っていたことでしょう。もしかしたら、父ヤコブにもまた会えるという希望をも持っていたかもしれません。

おわりに
 私たちもイエスさまを信じることで希望を持って生きることができます。
 信仰の高みに引き上げていただくためにロケットは必要ありませんから、人数制限はありません。私たちは誰でも今よりももっと神様に近づかせていただくことができます。私たちが天に召された後への希望だけでなく、この世の信仰生活においても、神様に近づく希望が与えられていることを感謝し、日々を歩んで行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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