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一粒のタイル2

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

イエヤスの天下統一とイエスの天地合一(2019.12.5 祈り会)

2019-12-06 07:04:53 | 祈り会メッセージ
2019年12月5日祈り会メッセージ
『イエヤスの天下統一とイエスの天地合一』
【ヨハネ1:4~5、黙示録21:1,2,4,27】

(12月8日のハンドベル演奏会でのショート・メッセージ予定稿)
 これから約10分、なぜ私たちがクリスマスをお祝いするのか、「イエヤスの天下統一とイエスの天地合一」というタイトルでお話しします。

 私は、この静岡市で生まれ育ちました。高校を卒業してからは北海道を始めとして色々な所で暮らしていましたが、今年41年振りで再び静岡市民になりました。

 私が幼い頃に通っていた幼稚園は、大岩の臨済寺のすぐ近くにある「てるみ幼稚園」です。ですから私は子供の頃は臨済寺でよく遊んでいました。また大人になってからも、時々臨済寺を訪れています。

 この臨済寺は、幼少期の徳川家康がここで学問や書を学んだことで有名ですね。家康とイエスは発音が似ています。しかし発音だけでなく、他にも色々と似ている点がありますから、きょうは家康とイエスを比べながら話を進めて行きます。ここからはイエスをイエスさまと呼ばせていただきます。教会ではいつもイエスさまと言っているからです。

 徳川家康が生まれたのは三河の岡崎です。しかし今川氏の人質になったために、この駿府の地で幼少期を過ごしました。つまり子供時代の家康は故郷の親元を離れて暮らしていました。イエスさまも同じです。イエスさまは元々は天の国にいて、天の神と共にいました。聖書は「この方は、初めに神とともにおられた」(ヨハネ1:2)と書いています。神は天の国にいる父親で、イエスさまは、その神の息子です。

 イエスさまが御子と呼ばれるのは、そのためです。御子のイエスさまは天の父親のもとを離れて地上に降(くだ)り、人間の子供として母マリアから生まれました。「クリスマス」はこのイエスさまの降誕をお祝いする行事です。「誕生」と言わずに「降誕」と言うのは、イエスさまが天の国から地上に降って(くだって)来て生まれたからです。

 では、イエスさまは何のために天の国から地上に降って来られたのでしょうか?これも徳川家康と似ています。家康は天下を統一して日本を一つにしました。イエスさまはもっとスケールが大きいです。イエスさまは弟子たちに「天の国が地上に来ますように」(マタイ6:10)と祈るように言いました。つまりイエスさまは天の国と地上とを一つにするために、地上に来られました。それで「天地合一」という言葉をタイトルに使ってみました。天と地が一つになる時、地上から悪は無くなります。

 ここで聖書の記述を見てみましょう。プログラムに載せてあるヨハネの福音書1章の4節と5節をお読みします。4節の「この方」というのはイエスさまのことです。

4 この方には命があった。この命は人の光であった。
5 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

 天の国には死も闇もありません。ですからイエスさまは命であり、光であるお方です。この光は闇の中で輝いています。

 「闇」とは「心の闇」のことであり、「悪」と言い換えても良いでしょう。この地上では人の心に闇があるために、悪に満ちています。この地上は悪の勢力に支配されています。テレビや新聞で悪いニュースが報じられない日はありませんね。今なお地上は悪に満ちていることを強く感じます。

 地上が悪に満ちているために、私たちはこの世で多くの苦しみを味わいます。イエスさまが赤ちゃんとして、この世に生まれたのは、イエスさまご自身も人として、この世の苦しみと悲しみを肌で感じるためです。赤ちゃんのイエスさまを育てた両親も、とても貧しかったようです。イエスさまはヨセフとマリアがベツレヘムにいた時に生まれましたが、生まれた場所は何と家畜小屋でした。それゆえ飼い葉おけがベッド代わりでした。

 もし両親が裕福であったなら、きっと宿屋に泊まれたことでしょう。こうして生まれた時から貧しい中にあったイエスさまは、人々の苦しみや悲しみをたくさん見ながら育ち、30歳の頃に人々に教えを説き始めました。多くの病人の病気を治し、罪人や貧しい人々に寄り添い、弱い人こそ天の国に入ることができることを説きました。しかし、イエスさまが神の御子であることを信じない人々が、イエスさまを捕えて十字架の死刑にしてしまいました。

 このように、人として生まれたイエスさまは弱い人に寄り添い、ご自身も弱い人として死にました。しかし、死んでから三日目に復活して天の国に帰ってからは、力のある神として私たちの心の闇に光を照らすために働いておられます。

 私たちの心の闇は、光であるイエスさまの方に心を向ければ無くなります。ただ残念なことにイエスさまに心を向けない人は少なくありません。このことについて、ヨハネは次のように書いています。「悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない」(ヨハネ3:20)。イエスさまの方に来なければ、その人の心の闇は無くなりません。イエスさまに心を向けない人がまだ多くいるのは闇の世界の支配者が、人々の心が光の方を向かないように、いつも働いているからだと聖書は書いています。

 ここで、もう一つの聖書箇所のヨハネの黙示録21章をお読みします。ここには未来に起きることが記されています。ヨハネはそれを幻として見ました。

1 私(ヨハネ)は、新しい天と新しい地を見た。
2 私はまた、聖なる都が、天から降って来るのを見た。
4 神は人々の目から涙を、ことごとくぬぐい取ってくださる。
 もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。
27 しかし、すべての汚れたもの、また忌まわしいことや偽りを行う者は、決して都に入れない。

 天にある新しい都が地に降(くだ)って天と地が一つになるなら、4節にあるように人々から涙がぬぐい取られ、もはや死もなく悲しみも苦しみもありません。しかし、光の方を向かないで心に闇を持つ人は、この都に入ることができません。ですから、イエスさまはこの都に入ることができる人が一人でも多く増えるように、今も働いています。

 戦国時代の徳川家康が敵対する武将たちと戦っていたように、イエスさまは闇の世界の支配者と戦っています。それは地上の人が一人でも多く光の方を向くようにするためです。

 教会はこのイエスさまのために働いています。徳川家康のために働く家臣がたくさんいたように、世界中に多くの教会があってイエスさまのために働いています。イエスさまは天から地上に来て、これから起きることを私たちに伝えて下さいました。ですから私たちはクリスマスに、イエスさまのご降誕をお祝いします。

 皆さん、ぜひまた教会に来て下さい。そしてイエスさまのことを、もっと良く知っていただきたいと思います。イエスさまのご降誕をお祝いしつつ、しばらく黙祷する時を持ちましょう。
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人生の「守・破・離」を応援する神様

2019-11-15 13:18:28 | 祈り会メッセージ
2019年11月14日祈り会メッセージ
『人生の「守・破・離」を応援する神様』
【使徒16:6~12】

6 それから彼らは、アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フリュギア・ガラテヤの地方を通って行った。
7 こうしてミシアの近くまで来たとき、ビティニアに進もうとしたが、イエスの御霊がそれを許されなかった。
8 それでミシアを通って、トロアスに下った。
9 その夜、パウロは幻を見た。一人のマケドニア人が立って、「マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願するのであった。
10 パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニアに渡ることにした。彼らに福音を宣べ伝えるために、神が私たちを召しておられるのだと確信したからである。
11 私たちはトロアスから船出して、サモトラケに直航し、翌日ネアポリスに着いた。
12 そこからピリピに行った。この町はマケドニアのこの地方の主要な町で、植民都市であった。私たちはこの町に数日滞在した。

はじめに
 再来週、市内のキリスト教系学校の修養会があります。朝の始業時間に開会礼拝があり、次に生徒さん向けの講演が約1時間あり、それから昼前の約1時間、牧師は一つの教室に一人ずつ入って生徒と共に過ごすそうです。

 私にとっては初めての機会ですから、私のこれまでの人生経験を基にした話を生徒さんにしたいと思っています。いま考えているのは高校生を対象に『人生の「守・破・離」を応援する神様』について話すことです。「人生」という言葉は中高生にはまだまだピンと来ないかもしれません。特に中学生にはまだ実感が持てないだろうと思います。そこで高校生向けに『人生の「守・破・離」を応援する神様』について語ろうかと考え始めています。

守・破・離
 「守・破・離」という言葉は皆さんもどこかで聞いたことがあると思います。「守・破・離」の「守」は守る、「破」は破る、「離」は離れるで、芸事や武術で良く使われる言葉です。何事も最初はお師匠さんの教えを守って基本をしっかりと身に付ける事が大切です。しかし、基本が身に付いたなら、そこから殻を破って自分に合ったスタイルを追究することが必要になって来ます。なぜなら例えば手や体の作りは一人一人違います。師匠と違う体の持ち主が師匠の真似だけしていても上達はしませんから、自分に合ったスタイルを模索する必要があります。

 そうして殻を破って上達して、やがては師匠から離れて行きます。例えば剣術の宮本武蔵は二天一流という二刀流の流派を開いたことで有名ですね。ただし二刀流は重い太刀を片手で持たなければなりませんから、かなりの腕力を必要として、誰でもできる訳ではありません。

 高校生の生徒さんに宮本武蔵の話をしてもピンと来ないと思いますから、「守・破・離」の好例として女優ののんさん(本名・能年玲奈)の話もしたいと思います。能年玲奈さんはNHKの朝ドラの『あまちゃん』で有名になった女優さんです。その後、彼女は殻を破って所属していた事務所から独立しようとしましたが、そのことで事務所との間に摩擦が生じて仕事がぜんぜん無い期間が三年近くありました。しかし芸名を「のん」と改名してアニメーション映画の『この世界の片隅に』の主役のすずさん役の声優として復活を果たして、それ以降、活動の幅を音楽や美術などの分野にも広げて、かつての能年玲奈からは離脱して生き生きと活動しています。

 宮本武蔵や能年玲奈を例に挙げると、「守・破・離」は才能に恵まれた人だけのものと思ってしまうかもしれませんが、「守・破・離」は誰にでもあることです。殻を破る程度や離れる程度は人によって違いますが、どんな人にも「守・破・離」はあります。例えば子供の頃は親の言うことをしっかりと守って良い子でいたとしても、思春期になれば誰でも親の言い付けを守らずに破ることはあるでしょう。大きく破る子や小さくしか破らない子など程度はいろいろだと思いますが、まったく破らない子はいないでしょう。そして、大人に成長したら親元から離れて行きます。同居していたとしても大人になったなら自立して精神的に親から離れて行かなければなりません。

 そのような家族の関係の「守・破・離」であっても、また職業などでの「守・破・離」であっても、人生のどんな段階においても神様は共にいて下さり、「守・破・離」を応援して下さっています。本人が気付いていようがいまいが神様は共にいて下さいます。ですから、そのことにできるだけ早く気付くことが、その人の人生をより豊かにすることにつながります。なぜなら能年玲奈さんの例でも挙げたように「守る」段階から「破る」段階に移り、さらには「離れる」段階に移行する時には大抵の場合は様々な問題が起きて、苦しい中を通らなければならないことが多いからです。

人は何度も「守・破・離」を経験する
 さて今回、「守・破・離」について思いを巡らしていて、とても興味深いことに気付きました。それは聖書中の人物を見ても、私自身の経験からも、人は一つの人生の中で何度も「守・破・離」を経験するということです。

 例えばアブラハムの孫のヤコブは、兄のエサウになりすまして父イサクからの祝福を横取りした時に自分の生まれ育った家を離れて伯父のラバンの所に逃れました。これがヤコブの一回目の「守・破・離」で、逃れる途中のベテルでヤコブは神様と出会いました。次に伯父のラバンの家からも離れることにして二回目の「守・破・離」を経験しました。これは神様がヤコブに父の国に帰るように促したからです(創世記31:3)。このように神様は人の「守・破・離」を応援するお方です。この時にヤコブはペヌエルで神様と格闘をして「イスラエル」という名前を与えられて信仰を深めて行きました。そうしてヤコブは晩年にカナンの地を離れて息子のヨセフが住むエジプトへと移住しました。これも「守・破・離」と呼べるのだと思います。モーセやダビデの生涯も「守・破・離」という観点から見ると何度かの転機があって興味深く見ることができます。

 新約の時代を見るならペテロやパウロも何度か「守・破・離」を経験しています。ペテロは漁師の職業を離れてイエスさまに付き従いました。これがペテロにとっての一回目の「守・破・離」でしょうか(聖書には書いてありませんが、それ以前にも「守・破・離」を経験しているかもしれません)。そして聖書に書かれているペテロの二回目の「守・破・離」はペンテコステの日に聖霊を受けたことでしょう。聖霊を受けたことでペテロの信仰はそれまでの段階を離れてまったく異なる段階に入りました。さらにペテロは異邦人のコルネリウスたちにも聖霊が注がれた現場に居合わせたことで、モーセの律法を守っていない者でも神様は救って下さるという、それまでの信仰とはまた異なる段階へと入って行きました。

聖霊に導かれて新しい段階に入ったパウロ
 パウロもまた何度も「守・破・離」を経験した使徒であると言えるでしょう。まず、クリスチャンを迫害する凶暴なユダヤ教徒になったことも「守・破・離」としてカウントしたいと思います。次にイエスさまと出会って聖霊を受けたことはもちろん明確な「守・破・離」です。細かく見ればバルナバと共に第一次伝道旅行に出発したことも、拠点としていたアンティオキアを離れたということで「守・破・離」に当たると言えるかもしれません。そうして、きょうの聖書箇所でアジアを離れてヨーロッパのマケドニアに渡ったことも、ヨーロッパ伝道という新しい段階に入ったわけですから、これも「守・破・離」と言えるでしょう。ここには明確な聖霊の導きがありました。16章の6節と7節を交代で読みましょう。

6 それから彼らは、アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フリュギア・ガラテヤの地方を通って行った。
7 こうしてミシアの近くまで来たとき、ビティニアに進もうとしたが、イエスの御霊がそれを許されなかった。

 このように、それまでの段階を離れて次の段階へと移る時には聖霊の導きがあり、神様はその人の「守・破・離」を応援しています。その人が気付いていようといまいと人の「守・破・離」の背後には必ず神様がいます。この時のパウロはもちろん気付いていました。

 修養会では、聖書の人物の話はほどほどにして、私自身の経験を話すほうが良いのかなという気がしています。そうして聖書を大きな観点から読むことの楽しさにまで結び付けることができるなら、なお良いだろうと思っています。

 私自身の「守・破・離」は、まず静岡を離れて北海道の大学に行ったことが最初の「守・破・離」であったと思っています。親からの仕送りに頼っていましたから、親から完全に離れたわけではありませんが、精神的な自立への第一歩となったことは確かだと思います。そうして大学院を出て理工系の研究者になったことが二番目の「守・破・離」であり、その研究の師匠の教授から離れて日本語教師になることを目指し、大学の留学生センターの教員になったことが三番目の「守・破・離」です。

 その後、教会に導かれて洗礼を受けたことも「守・破・離」ですし、さらに大学を辞めて神学校に入って牧師になったことも、もちろん「守・破・離」です。そして、聖書の学びが深まってヨハネの福音書がどのような書であるかを神様が教えて下さり、聖書をもっと大きな観点から読むようになったことも「守・破・離」です。この、聖書をもっと大きな観点から読むようになったことについては、パウロがヨーロッパ伝道へと踏み出した時に聖霊の導きを明確に感じていたのと同様に、私も聖霊の導きを明確に感じています。神様はこれまでの私の経歴を生かして、これまでとは異なる聖書の読み方もあることを教えて下さり、それを若い人々に伝える役目を与えて下さったのだと感じています。

おわりに
 礼拝でも少し触れましたが、今の中高生たちが生まれた時代は、国際宇宙ステーションに人が常駐している時代です。人類が地上を離れて宇宙空間に飛び出して行ったこともまた、一つの「守・破・離」と言えるでしょう。しかし、21世紀生まれの人たちにとっては人が宇宙にいることは普通のことです。そのような21世紀生まれの若者たちにも聖書を魅力ある書物として伝えるには様々な工夫が必要だろうと思います。そのための役目を与えられていると感じています。

 高校生たちの多くはこれから一回目の「守・破・離」の時を迎えます。生徒によっては既に一回目の「守・破・離」を経験した者もいるかもしれませんが、大半の生徒はこれから経験するのだろうと思います。その「守・破・離」の背後にはいつも神様がいて、応援して下さっていることを、11月26日の修養会では何とか上手く伝えられたらと思います。そうして12月8日の礼拝にもつなげて行くことができたらと思います。このことのために共にお祈りいただければ幸いです。
 お祈りいたします。
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イエスを信じて聖霊を受けなければ分からない聖書(2019.11.7 祈り会)

2019-11-08 09:13:53 | 祈り会メッセージ
2019年11月7日祈り会メッセージ
『イエスを信じて聖霊を受けなければ分からない聖書』
【ヨハネ14:26~27】

26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
27 わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。

はじめに
 前回の祈り会では、ヨハネ8章でイエスさまがご自身のことを「わたしは『わたしはある』という者である」とおっしゃった箇所に注目しました。

 例えばヨハネ8章24節の後半でイエスさまは「わたしが『わたしはある』であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになる」とおっしゃいました。この部分を新改訳第3版では「もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです」と訳していました。このように第3版では単に「わたしのことを信じなければ」と訳していましたが2017年版では「わたしが『わたしはある』であることを信じなければ」と訳しています。このように2017年版の訳は非常に踏み込んだ表現でイエスさまが天の父と一つのお方であることを示しています。

エゴー・エイミ
 この8章24節の『わたしはある』の所に*印がありますから下の脚注を見ると、

*「エゴー・エイミ」出エジプト記3:14の「わたしは『わたしはある』という者である」という神の自己顕現に由来。28、58節も同様


とあります。これらは先週も見ましたが、28節と58節にも「エゴー・エイミ」が使われていて、例えば58節ではイエスさまは「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです」とおっしゃっています。この部分は第3版では単に「アブラハムが生まれる前からわたしはいるのです」となっていました。

 「エゴー・エイミ」は英語で言えば「アイ・アム」です。「エゴー」は「アイ」、すなわち「わたし」です。自己中心的な人を「エゴ丸出し」などと言いますね。その「エゴ」と同じ語源を持ちます。そして「エイミ」は英語で言えばbe動詞の「アム」です。

 ヨハネの福音書では他の箇所でもたくさん「エゴー・エイミ」が使われています。それらはイエスさまが「わたしは○○です」とおっしゃっている箇所です。

 ヨハネの福音書のイエスさまはご自身が何であるかを、いろいろな表現でおっしゃっています。

「わたしはいのちのパンです」(ヨハネ6:48)
「わたしは世の光です」(ヨハネ8:12)
「わたしは羊たちの門です」(ヨハネ10:7)
「わたしは良い牧者です」(ヨハネ10:14)
「わたしはよみがえりです。いのちです」(ヨハネ11:25)
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14:6)

 これらの「わたしは○○です」には、すべて「エゴー・エイミ」が使われています。今回2017年版ではヨハネ8章で使われている「エゴー・エイミ」は神の自己顕現の表現であるとしていることから、8章以外の「エゴー・エイミ」もまた、神様としてのイエスさまが、ご自身が何であるかを伝えているのだと捉えて良いのだろうと思います。イエスさまは神様であられるからこそ、いのちのパンであり、世の光であり、羊たちの門であり、良い牧者であり、よみがえりであり、いのちであり、道であり、真理なのですね。

父のもとから聖霊を遣わすイエス
 そうして、神様としてのイエスさまの最も重要な働きの一つが天の御父のもとから聖霊を遣わすことです。ヨハネ14章の26節と27節を、もう一度交代で読みましょう。

26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
27 わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。

 聖霊は私たちにすべてのことを教えて下さいます。また、私たちに平安を与えて下さいます。26節の「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は」という表現は少し分かりにくいですが、15章26節ではイエスさまは次のようにおっしゃっています。

26 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。

 つまり聖霊はイエスさまが父のもとから遣わすのですね。イエスさまはさらに16章7節で、このようにもおっしゃっています。16章7節、

7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。

 このように聖霊は、天に帰ったイエスさまが父のもとから私たちに遣わされます。そうして聖霊はすべてのことを私たちに教えて下さいます。そういうわけで、聖書に書いてあることは聖霊を受けなければなかなか分かりません。イエスさまを信じていない人が聖書を読んで頓珍漢な感想を言うのは聖霊を受けていないからです。

聖霊を受けなければ分からない聖書
 聖霊を受けるにはイエスさまを信じる必要があります。しかし、聖霊を受けていなければ聖書に記されているイエスさまのことは良く理解できません。このように先ずは聖霊を受けていない段階においてイエスさまを信じる必要があるところが、キリスト教の信仰継承を難しくしています。見ずに信じる者は幸いなのですが、人はどうしても目に見える形でのしるしを求めます。こういう方々がイエスさまの方を向いて信じるようになるためには、どうしたら良いでしょうか?

 伝統的にはそれぞれの罪深さに気付かせる方向に導き、イエスさまが私たちの罪のために十字架に掛かったことを悟ることができるように導いて来ました。聖霊を受けていない段階で自らの罪を認めることは難しいことですが、昔はそれがまだまだ可能だったのですね。しかし、科学技術が劇的に発達した現代では、まだ聖霊を受けない段階でイエスさまの十字架のことが分かるようになることは、相当に難しいであろうと私自身は考えています。

 では、聖霊を受けていない段階の人にイエスさまの方を向いていただくには、どうしたら良いでしょうか?来月の8日には中高生たちが20名以上、礼拝に出席します。この中高生たちの多くはまだ聖霊を受けていないでしょう。キリスト教系の学校に通って聖書を読み、たくさんのメッセージを聞いても大半の生徒はイエスさまを信じるには至りません。そんな生徒たちに何を伝えたらイエスさまのほうを向き、イエスさまを信じるようになるでしょうか?皆は難しくても、何人かはそんな生徒さんがいてくれたらと思います。

世界のために祈れる幸い
 いま考えているのは、「世界のために祈れる幸い」です。先日の礼拝でも少し触れましたし、次の礼拝ではさらに詳しく話すつもりですが、世界のために祈れることは、とても幸いなことだと思います。今の中高生は生まれた時には既に21世紀になっていました。生まれた時から世界が身近にありました。我々の子供時代とはぜんぜん違うと思います。ですから世界のために祈ると言っても、決して大げさなことではないと思います。

 しかし、生まれた時から世界が身近にあったことで却って萎縮しまっている面もあるかもしれません。我々が子供の頃は、まだまだ「井の中の蛙(かわず)大海を知らず」でいられましたから、世間知らずでノビノビと育つことができました。しかし、今の子供たちは生まれた時から世界中のすごい人たちの動画をYoutubeなどを通して身近に見ることができます。同世代の若者にも世界レベルのすごい人たちの活躍する姿をスマホなどで見ることができます。同世代の活躍を励みに自分も頑張る若い人もいるかもしれませんが、自分の無力さを感じて萎縮してしまう若い人も少なくないかもしれません。

 そんな若い人たちに世界サイズのイエスさまが共にいて励まして下さっていること、そしてそのイエスさまに向かって自分のことだけでなく世界のことまでお祈りできることは素晴らしいことであることを何とかして伝えられたらと思います。

おわりに
 つい最近、アメリカがパリ協定を離脱することが報道されました。地球規模の気候変動による温暖化によって巨大なハリケーンや台風による大きな被害が出ているのに、自国の産業の利益を優先して二酸化炭素排出抑制に背を向けようとしているとは、どういうことでしょうか。その影響はもちろん日本にも及びます。先月の台風19号も勢力を保ったまま日本に上陸したのは海水温が高かったためです。地球の温暖化と無関係ではないでしょう。ですから世界が一丸となって温暖化対策に取り組めるよう私たちは祈らなければなりません。今の中高生は2050年でもまだ50歳以下です。もし温暖化が加速すれば2050年には大変なことになっています。

 このような地球規模のことについてキリスト教会が祈れることは幸いなことです。聖書の神様は世界を支配し、聖書は世界中で読まれているからです。その一員に加わることができることは素晴らしいことです。このことを中高生たちに是非知ってもらいたいなと思います。

 また祈りは応えられるものであることも中高生たちに知ってもらいたいと思います。広島と長崎に原爆が投下された後には、核兵器の実戦使用が奇跡的にとどめられているのは、世界中で祈りが積まれて応えられているからです。私たちの教会の闘病中の兄弟が今でも毎週の礼拝に出席できているのも祈りが応えられているからでしょう。このように祈りは目に見える形のしるしとなって現われています。このことを、まだ聖霊を受けていない中高生たちにも是非知ってもらいたいと思います。

 そのために、これからの一ヶ月、備えて行きたいと思います。
 一言お祈りいたします。

26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
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わたしは「わたしはある」という者である(2019.10.24 祈り会)

2019-10-25 06:37:00 | 祈り会メッセージ
2019年10月24日祈り会メッセージ
「わたしは『わたしはある』という者である」
【出エジプト3:14、ヨハネ8:24、28、58、10:30】

はじめに
 先週の祈り会では、ヨハネ5章の「38年も病気にかかっている人」の箇所を開きました。イエスさまはこの病人に「良くなりたいか?」(ヨハネ5:6)と尋ねました。それに対して病人は「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません」と言って嘆きました。この病人はイエスさまがどのようなお方であるかが分かっていませんでした。イエスさまは神の子です。神様は病気を癒す力を持つ全知全能のお方であり、イエスさまはその神の御子ですから、病気を癒すことができました。病人がそのことを知っていればイエスさまに直接「主よ。私の病を癒してください」と懇願したことでしょう。

 「長血の女」はイエスさまに病気を癒す力があることを知っていてイエスさまに向かって手を伸ばしました。しかし、「38年も病気にかかっている人」はイエスさまがどのようなお方であることを知らずにいて見当違いの受け答えをしていました。

 そして先週は、もしかして私たちもこの病人のようになってはいないだろうか?と問い掛けました。私たちも様々に個人的な問題を抱えており、また教会も次の世代への継承がなかなか展望できない病気の状態にあります。この病気を私たちはイエスさまに癒していただきたいと願っています。しかし、私たちはどれくらいイエスさまのことを知っているでしょうか?もしかしたら「38年も病気にかかっている人」のようにイエスさまのことを良く知らずにいて、「良くなりたいか?」と聞いて下さっているイエスさまに頓珍漢な受け答えをしている、というようなことはないでしょうか?という問い掛けをしました。

 そこで祈り会と礼拝では、これからしばらくの間、父・子・聖霊の三位一体の神としてのイエスさまがどのようなお方であるかを、共に学びたいと願っています。この祈り会では主(おも)に父と子との関係について学びたく願っています。

イエスと天の御父とは「同一の本質」
 きょうは聖書を何箇所か開きます。まずヨハネ10:30をご一緒に読みましょう。

30 「わたしと父とは一つです。」

 下の脚注の*印の所を見ると、「あるいは『同一の本質』」とあります。イエスさまと天の御父との関係を学ぶに際して、「イエスさまと御父とは同一の本質である」ということを、しっかりと心に留めておきたいと思います。これがどういうことなのか、今の段階では良く分からなくても、とにかく「イエスさまと御父とは同一の本質なのだ」ということを意識して聖書を読むなら、次第に分かって来るだろうと期待して学びを進めたいと思います。

 さて、この「イエスさまと天の御父とは同一の本質である」ことについて、新改訳聖書の2017年版は第3版までと比べてかなり大胆に踏み込んでいる箇所がありますから、きょうはその箇所をご一緒に見ようと思います。その前に旧約聖書を一箇節見ておくことにします。

 旧約聖書の出エジプト記3:14をご一緒に読みましょう。

14 神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」

 天の父である神様はモーセに「わたしは『わたしはある』という者である。」と仰せられました。

イエスもまた「わたしはある」という者
 この「わたしはある」という表現が、新改訳聖書の2017年版からはヨハネの福音書においても使われています。ヨハネ8章の24節、28節と58節です。まず8章24節をご一緒に読みましょう。

24 「それで、あなたがたは自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。わたしが『わたしはある』であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになるからです。」

 イエスさまは、「わたしが『わたしはある』であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになるからです」とおっしゃいました。イエスさまはご自身が「わたしはある」であるとおっしゃいました。これはつまり、イエスさまが天の御父と一つであり、「同一の本質」であるということです。この24節の下の脚注を見ましょう。

*「エゴー・エイミ」。出エジプト3:14の「わたしは『わたしはある』という者である」という神の自己顕現に由来。28節、58節も同様。

とありますね。ヨハネの福音書には「エゴー・エイミ」という表現がたくさん使われています。この「エゴー・エイミ」に関しては次回、説明をしたいと思います。

 さてヨハネ8章で「エゴー・エイミ」が使われている箇所ですが、第3版では8章24節を次のように訳していました。

24 「それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」

 前半の部分は同じですが、後半を第3版では「もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです」となっています。第3版は単に「わたしのことを信じなければ」となっていました。それを2017年版では「わたしが『わたしはある』であることを信じなければ」としましたから、比較して見ると非常に踏み込んだ訳になっていることが分かるでしょう。

 第3版までのヨハネ8章の訳では、イエスさまが天の御父と同一の本質であることが分かりませんでしたが、2017年版ではハッキリとさせましたから、私はとても感謝に思っています。

アブラハムが生まれる前から「わたしはある」
 28節と58節もご一緒に読みましょう。まず28節、

28 そこで、イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げたとき、そのとき、わたしが『わたしはある』であること、また、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたことを、あなたがたは知るようになります。

 ここでも「わたしはある」が使われていますね。もう一つ、58節をご一緒に読みましょう。

58 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」

 この箇所は第3版では「アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです」とイエスさまはおっしゃっていました。単に「アブラハムが生まれる前から私はいるのです」と訳すのと2017年版のように「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです」と訳すのとではぜんぜん違いますね。2017年版ではイエスさまが天の御父と同一の本質であることを、非常に踏み込んだ訳で表現していると思います。

おわりに
 今週の20日の礼拝の聖書交読ではパウロのピリピ人への手紙を読みました。パウロは書きました(ピリピ2:6~8)。

6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。

 イエスさまは神の御姿であられるお方であり、天の御父と同じく「わたしはある」というお方であるのに、人となって十字架に付かれました。私たちの中にある神様への「背きの罪」がいかに重いものであるか、きょうのみことばを通して学びたいと思います。教会学校で子供たちに教えるような分かりやすい罪よりも、もっと根深くて重たい「背きの罪」が私たちの中にあり、それらが赦されているということを覚えておきたいと思います。

 先週読んだヨハネ5章の「38年も病気にかかっている人」は、イエスさまがどのようなお方かを知りませんでした。私たちはそうではなくイエスさまがどのようなお方であるかをしっかりと知りたいと思います。私たちは父・子・聖霊の三位一体の神様としてのイエスさまの学びを深めていき、「良くなりたいか」とおっしゃって下さっているイエスさまと共に歩んで行きたいと思います。

 お祈りいたします。

「わたしと父とは一つです。」
「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」
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良くなりたいか?(2019.10.17 祈り会)

2019-10-18 06:46:05 | 祈り会メッセージ
2019年10月17日祈り会メッセージ
『良くなりたいか?』
【ヨハネ5:1~9】

1 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。
2 エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があり、五つの回廊がついていた。
3 その中には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。
4 【本節欠如】
5 そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。
6 イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」
7 病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」
8 イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」
9 すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。

はじめに
 先週の祈り会では「長血の女」の記事に目を留めました。長血の女は群集に囲まれているイエスさまに向かって真っ直ぐに果敢に進んで行き、懸命に手を伸ばしてイエスさまの衣に触れました。

 また13日の礼拝では、ルカ10章の「マルタとマリア」の箇所を開き、もしかしたらマリアもまた長血の女のようにイエスさまの足元に懸命に進んで行ったのではないか、という話をしました。ルカ10章のマリアは既にイエスさまの足元に座っていますが(39節)、そこに至るまでは手伝いを頼む姉を振り切って行ったのかもしれない、そんな話をしました。いずれにしてもマリアは長血の女のようにイエスさまだけを見ていました。

 一方、姉のマルタはイエスさまの方を見ずに、自分を手伝わない妹の方を見て心を乱していました。このマルタのように比較する対象があれば、私たちは自分がどちらに近いだろうかと自らを省みることができます。

イエスがどのようなお方か分かっていなかった病人
 きょうはもう一つの比較対象としてヨハネ5章の「38年も病気にかかっている人」に目を留めます。この病人はイエスさまが「良くなりたいか?」と聞いているのに、イエスさまの方を真っ直ぐに見ないで他の人を当てにしていました。私たちは自分がこの病人のようになってはいないだろうか、と自らを省みたいと思います。

 まず、簡単にこの箇所を見ておきましょう。特に4節が欠落していますから、そこを補っておきたいと思います。

 1節にあるようにイエスさまはエルサレムに来ていました。前章までは北方のサマリアとガリラヤにいましたが、5章では南のエルサレムにいます。ここにはベテスダと呼ばれる池があり、池のほとりには病人や体の不自由な人々が大勢いました。

 なぜ、そのような人々がここに大勢いたかについては、新改訳聖書の第2版までは「4節」があったので分かりましたが、第3版以降では4節の記述は下の脚注に書かれています。その部分を確認しておきましょう。ここで「彼ら」というのは病人たちのことです。

彼らは水が動くのを待っていた。それは、主の使いが時々この池に降りて来て水を動かすのだが、水が動かされてから最初に入った者が、どのような病気にかかっている者でも癒されたからである。

 どれくらいの間隔で水が動くのかは書いてありません。1時間に1回なのか、1日に1回なのか、1週間に1回なのか、いずれにしても水が動いたら最初に入った者だけが癒されたということです。ですから、水が動き始めたら皆、先を争って水に入って行ったことでしょう。

 しかし、この38年間病気に掛かっていた人は自分では素早く水に入ることができませんでしたから、誰かの助けが必要でした。それでイエスさまが「良くなりたいか?」と聞いた時に答えました。7節ですね。

「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」

 この病人は、「主よ」と言いながら、実はイエスさまがどんなお方か分かっていませんでした。分かっていれば「良くなりたいか?」と聞いたイエスさまに「はい、良くなりたいです」と答えて、「主よ、癒して下さい」と懇願したことでしょう。それなのに、この病人はイエスさまを真っ直ぐに見ないで、自分を池の中に入れてくれる人がいないことを嘆いていました。

私たちの病気
 では、私たちはどうでしょうか?私たちはそれぞれが個人的な問題・課題を抱えていますが、きょうは教会の問題を考えたいと思います。

 私たちの教会には今、新しい方がなかなか来ません。教会員の高齢化は進む一方です。その割に若い人が少ないですから、このままでは教会の状態は悪くなる一方です。これが私たちの教会の病気です。そんな私たちの教会にイエスさまは、「良くなりたいか?」と聞いて下さっているのでしょう。そのイエスさまに対して私たちは、38年も病気であった人のように見当違いの受け答えをしている、というようなことはないでしょうか?

 この病人は、イエスさまがどんなお方であるかが分かっていませんでした。私たちもイエスさまのことを知っているようでいて実はそんなに知らない、ということはないでしょうか?イエスさまが何を言い、何をしたかは福音書を読めば分かります。そういう意味では私たちはイエスさまがどんなお方であるかを知っています。しかし、私たちはそのイエスさまの言動の深い所にあるものを、どれくらい知っているでしょうか?三位一体の神様としてのイエスさまがどんなお方であるかを知っているでしょうか?そんなには分かっていないのではないでしょうか?

 私たちは皆もちろん、病気が良くなりたいと思っています。しかし、イエスさまがどのようなお方がよく分かっていないとしたら、38年も病人であった人のように、「良くなりたいか?」と聞くイエスさまに、きちんとした受け答えができていないかもしれません。

「御霊に属する人」として三位一体の神のイエスを理解する
 それゆえ、イエスさまとはどのようなお方なのか、特に三位一体の神様としてのイエスさまがどのようなお方なのかを、これからご一緒に学んで行けたらと思っています。この学びは、できるだけ分かり易いものになるように心掛けたいと思います。

 14日の月曜日の静岡聖会では、午前中にコリント人への手紙第一が開かれました。午前の聖会で講師の梅田先生によって語られた第一コリント3章の中から1節と2節を交代で読みましょう。

1 兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。
2 私はあなたがたには乳を飲ませ、固い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。

 イエスさまを信じる私たちは聖霊を受けていますから、私たちは「御霊に属する人」です。しかし御霊に属してはいても、御霊に関する固い話を自分で噛み砕いて消化するには、まだ少し難しいかもしれません。ただし御霊に関する固い話を理解できるようにならなければ三位一体の神様としてのイエスさまがどんなお方かは分かりませんから、固いものを食べられるようになりたいと思います。

 例えば、ヨハネ5章17節のイエスさまの言葉、

「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」

ということばを、「肉に属する人」は、紀元30年頃の地上生涯のイエスさまの言葉として読むでしょう。しかし、「御霊に属する人」である私たちは、この言葉を、イエスさまが現代の私たちに向かって語り掛けている言葉として聞きたいと思います。「肉に属する人」は聖書に書かれたイエスさまの言葉を文字として読みますが、「御霊に属する人」である私たちは文字として読むのでなく、イエスさまの声として聞きたいと思います。

 そうしてイエスさまと父との関係に思いを巡らしたいと思います。そしてさらには、ヨハネの福音書の他の箇所や聖書の他の書と結び付けて思いを巡らすことができるようになりたいと思います。それが「御霊に属する人」である私たちの聖書の読み方です。

おわりに
 私たちは「良くなりたいか?」と聞くイエスさまに、「御霊に属する人」としてイエスさまがどんな方であるかを理解し、イエスさまにしっかりと受け答えができるようになりたいと思います。そうしてイエスさまに病気を癒していただき、地域の多くの方々にイエスさまがどんなお方であるかを、お伝えして行きたいと思います。

 お祈りいたします。
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「完全な大丈夫」をつかみ取る(2019.10.10 祈り会)

2019-10-11 06:57:02 | 祈り会メッセージ
2019年10月10日祈り会メッセージ
『「完全な大丈夫」をつかみ取る』
【マルコ5:25~34】

25 そこに、十二年の間、長血をわずらっている女の人がいた。
26 彼女は多くの医者からひどい目にあわされて、持っている物をすべて使い果たしたが、何のかいもなく、むしろもっと悪くなっていた。
27 彼女はイエスのことを聞き、群衆とともにやって来て、うしろからイエスの衣に触れた。
28 「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と思っていたからである。
29 すると、すぐに血の源が乾いて、病気が癒やされたことをからだに感じた。
30 イエスも、自分のうちから力が出て行ったことにすぐ気がつき、群衆の中で振り向いて言われた。「だれがわたしの衣にさわったのですか。」
31 すると弟子たちはイエスに言った。「ご覧のとおり、群衆があなたに押し迫っています。それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」
32 しかし、イエスは周囲を見回して、だれがさわったのかを知ろうとされた。
33 彼女は自分の身に起こったことを知り、恐れおののきながら進み出て、イエスの前にひれ伏し、真実をすべて話した。
34 イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」

はじめに
 きょうのメッセージのタイトルは『「完全な大丈夫」をつかみ取る』としてみました。
 「完全な大丈夫」とは、戸塚先生がおっしゃっていた「何があっても大丈夫だという確信」のことです。「何があっても大丈夫だという確信」だと少し長いので、試しに「完全な大丈夫」と短くしてみました。

 戸塚先生をお招きしての6日の午前の伝道礼拝と午後の講演会は本当に良かったと思います。特に講演会の最後に戸塚先生が話された、子供の教育の問題における「教会の役割」は福音を伝えることで、「福音」すなわち「良い知らせ」とは突き詰めるなら「何があっても大丈夫だという確信」ではないか、という話を聞いて、「これこそが、私もまた伝えたかったことだったのだ」と気付かされました。きょうはそのことを話します。

 当たり前のことですが、「完全な大丈夫」は「気休めの大丈夫」とは違います。「気休めの大丈夫」も時には必要でしょう。不安に陥っている人をともかくも救い出すには、一時的な慰めであっても、不安から救い出すことを優先する必要があります。しかし「気休めの大丈夫」は長続きしません。少し経てばすぐにまた不安が襲って来ます。ですから「完全な大丈夫」が必要です。

神様とのやり取りの積み重ねで深められる「大丈夫」の確信
 では、「完全な大丈夫」は、どうしたら得られるでしょうか。それは、神様とのやり取りの積み重ねの中で得られるのではないでしょうか。神様に何かを求めて、もしそれが与えられれば神様への信頼が生まれて「神様を信頼すれば大丈夫」という気持ちが芽生えます。そうして、この「求めたら与えられた」という経験を積み重ねることで大丈夫感が深まり、やがて「完全な大丈夫」感に至るのだと思います。ですから、先ずは求めることが必要です。イエスさまはおっしゃいました。「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます」(マタイ7:7~8)。

 このように、先ずは求めることが大切ですが、それと同時に神様から「与えられた」という実感を得ることも必要です。いくら祈り求めても、祈りが応えられたという実感が得られないでいると、不安が生じます。すると大丈夫感はなかなか深まりません。信仰を持っても、やがて教会から離れている方々がおられます。そのような方々は神様からの答を受けた実感が得られなくて、やがて離れて行ってしまうのではないかと思います。

 きょうの聖書箇所の「長血の女」の記事は、病気が癒されることを求めてイエスさまに近づいて行きました。そうしてイエスさまの衣に触れました。すると、29節に「すぐに血の源が乾いて、病気が癒されたことをからだに感じた」とあります。自分が求めたことに対して、こんなにもすぐに答が得られたら素晴らしいですね。このようなすごい経験をすれば、神様とのやり取りをたくさん重ねなくても一発で「完全な大丈夫」感を得ることができるのだろうなと思います。

祈りよりも早く答が与えられる「聖書の探求」
 しかし、祈りの場合は、なかなか答が得られない場合が多いです。だからと言って私たちが祈りを止めることはありません。毎週の祈祷会に皆さんは毎週集まって下さいますから感謝です。しかし、祈りの場合は、神様がいつ私たちの祈りに応えて下さるのかがなかなか分かりませんから、そこが何とももどかしいです。

 一方で、「聖書の探求」の場合は、祈りに比べれば神様からの答を得やすいと私は感じています。聖書の記事の中で良く分からない箇所があれば、先ずは本や注解書を調べますが、納得できる解説が書かれていない場合には自分で考えます。そうして、答が得られたなら、それは神様が教えて下さったということです。私のような足りない者が自分で答に辿り着ける筈がありませんから、それは神様が答を与えて下さったということになります。「神様のことをもっと知りたい」、「聖書のことをもっと知りたい」という私の求めに神様が答を与えて下さるのですね。求めてから答が与えられるまでの時間は、長血の女ほど短くはありませんが、祈りよりは短いです。私はこうして「聖書の探求」によって神様からの答を得るという経験の積み重ねによって「完全な大丈夫」に近づいて行っています。このことを皆さんと分かち合いたかったのだと、戸塚先生の講演を聴いて気付かされました。

エネルギーをチャージして下さるイエスさま
 この話には、また後で戻って来ることにして、きょうの聖書箇所の「長血の女」の記事を簡単に見ておきたいと思います。実は今日の祈り会でこの記事を開くことは戸塚先生の講演を聴く前から決めていました。皆さんの多くが、「疲れている」ということをおっしゃるので、どうしたものかと思っていました。それで、「長血の女」の記事を開こうと思いました。この記事では、30節にイエスさまの内から力が出て行ったことが書いてありますね。この、イエスさまから出て行った力が長血の女に流れ込んだわけです。つまり、長血の女はイエスさまにエネルギーをチャージしてもらいました。

 ですから、私たちが疲れている時には、イエスさまに向かって手を伸ばせば、イエスさまは私たちにエネルギーをチャージして下さって疲れを癒して下さる、そんな話をしようかと思っていました。それが戸塚先生の「何があっても大丈夫という確信」を伝えるのが教会の役割であるという話を聴いて、「長血の女」の記事を「完全な大丈夫」の話に用いさせてもらおうと思ったわけです。

癒しを求めてすぐに与えられた長血の女
 さて「長血の女」ですが、25節に彼女が十二年の間、長血を患っていたことが書かれています。この「長血」が、現代で言えばどんな病名の病気なのか、はっきりしたことは分かりません。しかし、いずれにしても血の漏出がある病気だったようです。下の脚注を見ると、レビ記15章25節が引照として示されています。このレビ記15章25節をお読みします。

女に、月のさわりの期間ではないのに、長い日数にわたって血の漏出があるか、あるいは月のさわりの期間が過ぎても漏出があるなら、その汚れた漏出がある間中、彼女は月のさわりの期間と同じように汚れる。(レビ記15:25)
 
 つまり、彼女は「汚れている」とみなされていました。汚れた者に触れれば、触れた者も汚れてしまいます。ですから女が群集の中に入って行くことなど、とんでもないことでした。もし周囲の人々に気付かれたら大変なことになります。殺されてもおかしくないかもしれません。それでも彼女はイエスさまの方に向かって行きました。人に気付かれないように群集の中に紛れ込んで、イエスさまに後ろから近づきました。イエスさまの周りには人垣ができていて容易には近づけなかったでしょうから、彼女は必死になって手を伸ばしたことでしょう。そうしてイエスさまの衣に触れて彼女の病気は癒されました。

 そのあと、彼女としては、すぐにそこを立ち去りたかっただろうと思います。何しろ汚れた者であるのに群集の中に紛れ込み、イエスさまの衣に触れたのですから。しかしイエスさまがすぐに気付きましたから、彼女の存在が人々に知れることとなってしまいました。彼女は恐れおののきながら進み出てイエスさまに真実を話しました。するとイエスさまはおっしゃいました。34節です。

「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」

 イエスさまは長血の女がしたことを咎めずに、彼女の信仰を称えました。こうして、長血の女は自分が求めたことに対して、すぐに答を得ることができました。彼女は群集の中に入ってはいけない者であったのに、人々をかき分けてイエスさまの元に近づき、必死で手を伸ばして求めていたものを得ることができました。十二年掛かって得られなかった病気の癒しを、イエスさまに近づくことですぐに得ることができました。

 私たちの祈りも、こんな風にすぐに応えられたら、どんなに素晴らしいでしょうか。そうして祈りが応えられる経験を重ねるなら、「完全な大丈夫」へと私たちは近づいて行くことができます。しかし、はじめにも言ったように、祈りはそんなにすぐには応えられない場合が多いです。

「祈り」より答が早く与えられる「聖書の探求」
 一方、「聖書の探求」は「祈り」よりも早く答が与えられると私は感じています。聖書の記事でよく分からない箇所があり、注解書を調べても納得できる解説が書かれていない場合、自分で考えます。すると神様が答を与えて下さいます。私はこのような経験の積み重ねによって「完全な大丈夫」へと近づいて行っています。特に姫路教会に滞在中にレビ記1章を読んで涙を流す体験をしてからは、神様からの答を頻繁にいただけるようになりました。

 この「完全な大丈夫」へと近づいて行く素晴らしい経験を、私は皆さんと分かち合いたかったのだなと、今回、戸塚先生の講演を聴いて気付かされました。だから私は皆さんにとっては聞き慣れない話を多くしていたのですね。しかし、その答は皆さんが求めていたものではなくて私が求めていたものですから、皆さんが違和感を覚えたのは当然です。説明不足で申し訳なかったと思います。

 ただ、この「違和感」はぜひ大切にしていただきたいとも思います。なぜなら、この違和感に思いを巡らすことによっても、神様から教えを受けることができるからです。

 例えば、戸塚先生の伝道礼拝の説教のタイトルは「イエスさまって、あったかい」で、聖書箇所はペテロがイエスさまを三度「知らない」と言った場面でした。このタイトルと聖書箇所の連絡を戸塚先生から受けた時に私は軽い違和感を覚えました。なぜなら、それまでの私はこの場面でイエスさまが悲しい目をしてペテロを見たと思い描いていたからです。悲しい目をしたイエスさまが「あったかい」とはどういうことだろうか?と思いました。

 そうしてメッセージを聴いて分かったことは、戸塚先生はイエスさまが温かい目でペテロを見ていたと感じているということでした。私は依然として悲しい目をしたイエスさまを思い描いていましたから、どうして戸塚先生はイエスさまが温かい目をしていたと感じているのだろうかという疑問が残りました。

 それで私はこのことを思い巡らしました。そうして神様が教えて下さったことは、戸塚先生も私も感じ方にほとんど違いは無いということでした。戸塚先生の言う「温かさ」とは、単純な「温かさ」ではなく、悲しみを多く知っている人からにじみ出て来る温かさなのだと示されました。

 例えば先月まで放送されていた朝ドラの『なつぞら』に登場していた北海道の開拓者たちは、多くの悲しみを体験していました。そんな彼らからは、悲しみを知っているからこその温かさがにじみ出ていました。

 戸塚先生がおっしゃっていた「イエスさまって、あったかい」はそういう温かさなのだ、そのように神様は私に教えて下さったと感じましたから、感謝でした。もし私が違和感を覚えた時に、それは戸塚先生と私との感じ方の違いだと割り切ってしまって思い巡らすことをしなかったら、この神様からの教えを逃してしまうところでした。

おわりに
 長血の女が近づいて行ったイエスさまは人垣に囲まれていましたから容易に近づくことはできませんでした。それでも彼女は果敢に近づいて行きました。聖書の真理も容易に近づくことはできません。それでも真理の探究に果敢に挑めばイエスさまは答を与えて下さいます。聖書の記事に疑問を持ったり、牧師の説教に違和感を覚えたりしたら、ぜひ果敢に近づいて行っていただきたいと思います。忙しいかもしれませんが、長血の女に習って果敢にイエスさまに近づいて行っていただきたいと思います。そうして自ら求めることで「何があっても大丈夫という確信」に近づいて行きたいと思います。

 戸塚先生の伝道礼拝のメッセージと講演を聴くことができて本当に良かったと思います。戸塚先生を送って下さったことを神様に心一杯感謝したいと思います。

 お祈りいたします。
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神様の太くて分厚い愛(2019.9.19 祈り会)

2019-09-23 06:04:35 | 祈り会メッセージ
2019年9月19日祈り会メッセージ
『神様の太くて分厚い愛』

【マタイ1:1~6】
1 アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。
2 アブラハムがイサクを生み、イサクがヤコブを生み、ヤコブがユダとその兄弟たちを生み、
3 ユダがタマルによってペレツとゼラフを生み、ペレツがヘツロンを生み、ヘツロンがアラムを生み、
4 アラムがアミナダブを生み、アミナダブがナフションを生み、ナフションがサルマを生み、
5 サルマがラハブによってボアズを生み、ボアズがルツによってオベデを生み、オベデがエッサイを生み、
6 エッサイがダビデ王を生んだ。

【歴代誌第一2:1~15】
1 イスラエルの子は次のとおりである。ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルン、
2 ダン、ヨセフ、ベニヤミン、ナフタリ、ガド、アシェル。
3 ユダの子はエル、オナン、シェラ。この三人は、カナンの女シュアの娘から彼に生まれた。しかし、長子エルはの目に悪しき者であったので、主が彼を殺された。
4 ユダの嫁タマルは彼にペレツとゼラフを産んだ。ユダの子は全部で五人。
5 ペレツの子は、ヘツロン、ハムル。
6 ゼラフの子は、ジムリ、エタン、ヘマン、カルコル、ダラで、全部で五人。
7 カルミの子は、聖絶の物のことで主の信頼を裏切り、イスラエルにわざわいをもたらす者となったアカル。
8 エタンの子は、アザルヤ。
9 ヘツロンの子として生まれた者は、エラフメエル、ラム、カレブ。
10 ラムはアミナダブを生み、アミナダブはユダ族の首長ナフションを生み、
11 ナフションはサルマを生み、サルマはボアズを生み、
12 ボアズはオベデを生み、オベデはエッサイを生んだ。
13 エッサイは、長子エリアブ、次男アビナダブ、三男シムア、
14 四男ネタンエル、五男ラダイ、
15 六男オツェム、七男ダビデを生んだ。

はじめに
 きょうの聖書箇所は、いま交代で読んだように新約聖書の『マタイの福音書』1章の系図の一部と旧約聖書の『歴代誌第一』2章の系図の一部です。

 ここ1~2週間ほど私は礼拝メッセージに備えて旧約聖書の『士師記』を読み、また注解書の助けも得ながら、この『士師記』の時代について思いを巡らしていました。そして、その思い巡らしの中で神様の太くて分厚い愛について改めて気付かされましたから、きょうはそのことを分かち合いたいと願っています。

『士師記』の時代はどこに行ったのか?
 礼拝メッセージでは旧約聖書の各書を1つの書を2週間で終えるというペースで『創世記』から順に開いています。今週は敬老感謝礼拝でしたから『ルツ記』のナオミに注目しましたが、次の聖日では『士師記』を開くことにしています。そうして改めて思ったのは、私は『士師記』からの説教を一度もしたことがなかったということです。神学生の時も牧師になってからも一度も『士師記』から説教をしたことがありませんでした。

 理由の一つとして、神学生の頃から『マタイの福音書』1章の系図のことで私がずっとモヤモヤを抱えていたことが挙げられると思います。マタイ1章5節には、「サルマがラハブによってボアズを生み」とありますね(ちなみに新改訳第3版では「サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ」でした)。ラハブは『ヨシュア記』に登場する人物で、ボアズは『ルツ記』に登場する人物ですね。「じゃあ、『ヨシュア記』と『ルツ記』の間の『士師記』はどこに行っちゃったの?」というのが私のモヤモヤでした。

 今まで私はこのモヤモヤにきちんと向き合っていませんでした。それが今回、礼拝メッセージで『創世記』から順次開いて行くことにして、いよいよ向き合わなければならなくなりました。そうして『士師記』を読み、思いを巡らすことでモヤモヤが解消して大変に恵まれました。きょうは、その恵まれたことをお分かちしたく願っています。

 まず、『ヨシュア記』のラハブによって『ルツ記』のボアズが生まれたのなら『士師記』の時代はどこへ行ってしまったのか?という問題ですが、結論から言えば『士師記』の時代は見た目よりも期間がかなり短いようであることと、さらに『ルツ記』の時代全体が『士師記』の時代の中に含まれると考えれば解決します。『ルツ記』の1章1節には、「さばきつかさが治めていたころ」と書かれていますから、『ルツ記』は時代的には『士師記』に含まれると考えると良いでしょう。また『士師記』の時代にはイスラエルは四方から敵に攻められていました。これら四方からの敵の攻撃に関しては、同時多発的に起きていたと考えたほうが自然でしょう。それゆえ『士師記』の時代は見た目ほどは長くないと考えられます。このことについては、後でまた話します。

 この結論を得て、私は自分がまだまだ直線的な時間観に縛られていたことを思い知らされました。旧約聖書の『ヨシュア記』、『士師記』、『ルツ記』、『サムエル記第一』に記されている出来事は一つ一つ時間順に起きていたと私は完全に思い込んでいました。常々私は、聖書の読者の多くが「昨日、今日、明日」というカレンダー順の時間に縛られすぎていることをやや批判的に語っていました。時間に縛られていると、時間に縛られていない神様のことを理解しづらくなるからです。その私自身がまだまだ時間に縛られていたのだということを思い知らされて、反省しました そうして反省しながらも、神様の愛を感じるとはどういうことかについて、また少し理解が深まったと感じて非常に恵まれました。 
 
太くて分厚い神様の愛
 では改めてマタイ1章の系図を眺めてみたいと思います。ここにはアブラハムからイエス・キリストに至る系図が一つの線で表されています。この系図は非常に直線的です。ここからも神様の愛を感じることはできますが、線ですから細いです。5節に「ボアズがルツによってオベデを生み」とありますね。私たちは『ルツ記』の話を良く知っていますから、そこに神様の愛をたっぷりと感じます。それゆえ、それで満足してしまっているように思います。しかし、実は神様の愛はもっと太くて分厚いものであるということを分かち合いたいと思います。

 歴代誌第一の系図をも開いたのは、そのためです。もう一度、旧約聖書p.705の歴代誌第一2章を開いていただきたいと思います。1節と2節をお読みします。

1 イスラエルの子は次のとおりである。ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルン、
2 ダン、ヨセフ、ベニヤミン、ナフタリ、ガド、アシェル。

 ここにヤコブの十二人の息子たちの名前が記されています。ご承知のように、この十二人の息子たちがイスラエル十二部族の祖先に当たります。そして、『士師記』では、この十二部族のさばきつかさたちのことが書かれているということです。ギデオンやサムソンのように、多くのページ数が割かれているさばきつかさもいれば、名前が挙げられている程度の少ししか書かれていなさばきつかさもいますが、とにかく一応は十二部族のことが書かれているということです。『士師記』はそういう分厚い広がりを持った書です。今後の礼拝メッセージで、この『士師記』の分厚さを共に味わうことができたらと願っています。

 ヨシュアに率いられてカナンの地に入ったイスラエル民族は、ヨシュアの晩年には平和な時がありましたが、ヨシュアの死後は四方から敵に攻め込まれました。これらの四方からの敵の攻撃は単発の時期もあったと思いますが、同時多発的な時期もあったはずです。文章で書くと一つ一つの戦いについて一つずつ書くことになりますから、書いてある順番に戦いが一つずつあったように見えます。今までの私はそう思い込んでいました。それは、今まではただ単に文章を読んでいただけだったからです。しかし、今回は地図を見ながら記事を読んだことで、それが東西南北の四方からの攻撃であったことを知り、これは同時多発的にあったと考えるほうが自然だろうと思いました。南の敵との戦いが終わるまで北の敵が攻撃を待ってくれていたなどと考えるのは不自然でしょう。今までの私はそのことに気付かずにカレンダー順の時間に縛られていました。今回、この縛りから解放されたことで神様の分厚い愛をまた一層感じられるようになったと思います。

一つになることを望んでいる神様
 さて『士師記』では、いま話したようにイスラエル十二部族に神様の目が向けられています。一方で聖書は次第にユダ族のみに目を向けるようになって行きます。サウル王の時代にはベニヤミン族、またイスラエルの王国が北と南に分裂した時には北の十部族にも目を向けますが、時代が後になるほどユダ族へと収束して行きます。

 今回の思い巡らしの中で私が思ったことは、聖書の記述はユダ族の子孫のイエス・キリストへと焦点を絞って行きますが、神様の視線はいつの時代においても、すべての民族に万遍なく注がれているであろうということです。ここで歴代誌第一1章も見ておきたいと思います(旧約p.703)。

 1章1節の最初にアダムの名があり、4節にノアの名前、そしてノアの三人の息子のセム、ハム、ヤフェテの名前があります。そのうちカナンの子孫の名前が13節から16節に掛けてあり、このうちのヒッタイト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人たちは『ヨシュア記』・『士師記』の時代にカナンに住んでいた民族です。13節の手前の12節にはペリシテ人の名前も挙がっていますね。ペリシテ人とイスラエル人との間には長い間、戦いがありました。そしてアブラハムはセムの子孫に当たります。24節から28節をお読みします。

24 セム、アルパクシャデ、シェラフ、
25 エベル、ペレグ、レウ、
26 セルグ、ナホル、テラ、
27 アブラム、すなわちアブラハム。
28 アブラハムの子は、イサク、イシュマエル。

 28節にあるようにアブラハムにはイサクの他にもイシュマエルという子があり、それだけでなく32節には側女(そばめ)のケトラとの間にも多くの子がいたことが記されています。しかし聖書はイサクに焦点を当て、イサクにもヤコブとエサウの双子がいましたがエサウにはほとんど注目せずにヤコブに焦点を当てて、さらにユダ族へと焦点を当てます。そしてユダ族のダビデにもたくさんの息子がいました。サムエル記第二にはこの息子たちのことが書かれていますが、ソロモンに王位が引き継がれたことで列王記はソロモンに注目しています。

 このようにノアの子孫たちはどんどん枝分かれして行きますが、聖書はその枝分かれした民族には少し触れるだけで、ほとんど脇道にはそれずにイエス・キリストの時代へと向かって行きます。しかし聖書がイエス・キリストに収束して行く一方で神様の目は異邦人を含めた全ての人類に注がれていますから、どんどん広がって行きます。私たちも、その中の一人です。ノアの子孫たちは無数に枝分かれして行って多くの民族が生まれ、その民族の中で多くの家族が生まれ、一つ一つの家族にまた子供たちがいます。私たちはその中の一人に過ぎませんが、神様の目は私たちの全員に注がれています。

 では神様の視線は全人類へと広がっているのに、聖書がイエス・キリストへの一本の単純な系図へ焦点を絞って行くのはどうしてでしょうか?

 それは、すべての者がイエス・キリストにあって一つとされるためでしょう。

おわりに
 最後にヨハネの福音書12章の32節と33節(新約p.209)をご一緒に読んでから、きょうの話したことを短くまとめて終わることにします。

32 わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。」
33 これは、ご自分がどのような死に方で死ぬことになるかを示して、言われたのである。

 きょうはマタイ1章の系図の「サルマがラハブによってボアズを生み」という箇所から話を始めました。マタイはユダ族に焦点を絞っていますが、その周囲にはもっと分厚いイスラエル十二部族がいて『士師記』にはその十二部族のさばきつかさたちのことが描かれています。そして、イスラエル十二部族の周りには多くの外国の民族がいました。そしてさらにその周囲には無数の民族がいて、私たち日本人もそこにいます。

 神様の愛はそのすべての人類に注がれています。そして聖書のヨハネの福音書は、イエスさまが「わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます」とおっしゃったことを記しています。そうしてイエスさまは私たちが一つになることを望んでおられます。

 無数に枝分かれして行った民族の一人一人に注がれている神様の愛は無限です。私たちはその無限の愛を感じたいと思います。そうして、この無限の愛を注いでいる神様を知らないでいる方々にこの愛の素晴らしさをお伝えしたいと思います。私たちが一つになることを望んでおられるイエスさまの愛をお伝えしたいと思います。

 お祈りいたしましょう。
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私の神(2019.9.12 祈り会

2019-09-13 10:42:55 | 祈り会メッセージ
2019年9月12日祈り会メッセージ
『私の神』
【列王記第一17:17~24】

はじめに
 きょうはAさんの回復のために、皆さんと共に祈りたいと思います。その心備えのために聖書のどこを開くのが良いか思いを巡らしていて示されたのが、列王記第一の預言者エリヤがツァレファテのやもめの息子を生き返らせた場面です。エリヤとやもめに関しては先週、ヨハネの福音書との関連を指摘しましたが、きょうは列王記第一に集中して最後に心を合わせて共に祈りたいと思います。

「私の神」と言って祈ったエリヤ
 では始めに、エリヤがやもめの息子を生き返らせた場面を見ておきましょう。列王記第一17章の17節から24節までを交代で読みましょう(旧約p.632)。

17 これらのことの後、この家の女主人の息子が病気になった。その子の病気は非常に重くなり、ついに息を引き取った。
18 彼女はエリヤに言った。「神の人よ、あなたはいったい私に何をしようとされるのですか。あなたは私の咎(とが)を思い起こさせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。」
19 彼は「あなたの息子を渡しなさい」と彼女に言って、その子を彼女の懐から受け取り、彼が泊まっていた屋上の部屋に抱えて上がり、その子を自分の寝床の上に寝かせた。
20 彼はに叫んで祈った。「私の神、よ。私が世話になっている、このやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか。」
21 そして、彼は三度その子の上に身を伏せて、に叫んで祈った。「私の神、よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに戻してください。」
22 はエリヤの願いを聞かれたので、子どものいのちがその子のうちに戻り、その子は生き返った。
23 エリヤはその子を抱いて、屋上の部屋から家の中に下りて、その子の母親に渡した。エリヤは言った。「ご覧なさい。あなたの息子は生きています。」
24 その女はエリヤに言った。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にあるのことばが真実であることを知りました。」

 17節の女主人というのはツァレファテのやもめのことです。このやもめの息子が息を引き取ってしまいました。そこでエリヤが主に叫んで祈ったところ、息子は生き返りました。このエリヤの祈りでは、「私の神、よ」(20節、21節)と呼び掛けているところに私は目が留まりました。「私の神」ということばから、エリヤが神様と強い個人的な関係を築いていることが分かります。「私たちの神」ではなく「私の神」なんですね。私たちも天の父に祈る時には「私の神」という気持ちで祈るべきであろうと思いました。

頭抜けて不信仰だったアハブ
 では次に、この場面に至った状況を簡単に見ることにしましょう。このエリヤの時代の北王国の王はアハブでした。不信仰な王ばかりであった北王国の王たちの中でもアハブは頭抜けて不信仰な王でした。そのことを記している場面を見ましょう。列王記第一16章の29節から34節までを交代で読みましょう。

29 オムリの子アハブは、ユダの王アサの第三十八年に、イスラエルの王となった。オムリの子アハブはサマリアで二十二年間、イスラエルの王であった。
30 オムリの子アハブは、彼以前のだれよりもの目に悪であることを行った。
31 彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった。それどころか彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻とし、行ってバアルに仕え、それを拝んだ。
32 さらに彼は、サマリアに建てたバアルの神殿に、バアルのために祭壇を築いた。
33 アハブはアシェラ像も造った。こうしてアハブは、彼以前の、イスラエルのすべての王たちにもまして、ますますイスラエルの神、の怒りを引き起こすようなことを行った。
34 彼の時代に、ベテル人ヒエルがエリコを再建した。彼は、その礎を据えたとき長子アビラムを失い、門を建てたとき末の子セグブを失った。ヌンの子ヨシュアを通して語られたのことばのとおりであった。

 アハブは外国の王の娘イゼベルを妻として外国の神々を礼拝していました。主はヌンの子ヨシュアを通じて、もしイスラエルの民が異国の神々に仕えるなら災いを下して滅ぼし尽くすと仰せられたことがヨシュア記には記されています(ヨシュア24:20)。その通りに主は34節にあるように災いを下しました。しかし、それでもアハブは懲りずに不信仰を改めようとはしませんでした。

信仰深かったやもめ
 預言者エリヤが召し出された時代は、そのような時代でした。17章の1節をお読みします。

1 ギルアデの住民であるティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私が仕えているイスラエルの神、は生きておられる。私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない。」

 これから何年もの間、北王国には雨が降りませんでした。これもまた主が下した災いでした。北王国の王たちがいずれも不信仰であったため、北王国の民の信仰も育っていませんでした。主はそんな北王国に災いを下して雨を降らせないことにしました。王たちの不信仰に庶民も巻き添えになってしまったのですね。

 そしてエリヤ自身もまた飲み物と食べ物に困るようになっていました。そんなエリヤに主はツァレファテのやもめの所に身を寄せて養ってもらうように言いました。北王国の民の多くが不信仰であった中で、やもめは敬虔な信仰を保っていました。やもめが信仰深い女性であったことはエリヤとのやり取りから分かります。その箇所を交代で読みましょう。7節から16節までを交代で読みます。

7 しかし、しばらくすると、その川が涸れた。その地方に雨が降らなかったからである。
8 すると、彼に次のようなのことばがあった。
9 「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしはそこの一人のやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」
10 彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、薪を拾い集めている一人のやもめがいた。そこで、エリヤは彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」
11 彼女が取りに行こうとすると、エリヤは彼女を呼んで言った。「一口のパンも持って来てください。」
12 彼女は答えた。「あなたの神、は生きておられます。私には焼いたパンはありません。ただ、かめの中に一握りの粉と、壺の中にほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本の薪を集め、帰って行って、私と息子のためにそれを調理し、それを食べて死のうとしているのです。」
13 エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。その後で、あなたとあなたの子どものために作りなさい。
14 イスラエルの神、が、こう言われるからです。『が地の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない。』」
15 彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。
16 エリヤを通して言われたのことばのとおり、かめの粉は尽きず、壺の油はなくならなかった。

 雨が降らないことで、ツァレファテのやもめの暮らしも困窮していました。12節にあるように、残っているのは一握りの粉とほんの少しの油だけで、それを食べてしまったら、あとはもう死ぬしかありませんでした。

 そんなやもめに対してエリヤは、その粉と油でパンを作り、まずエリヤに振舞うように言いました。主はかめの粉は尽きず、壺の油は無くならないと仰せられるから、その主のことばを信じなさいというわけですね。そうしてやもめは主のことばを信じて、最後の粉と油でパンを作ってエリヤに振舞いました。この信仰によってやもめの家は祝されて16節のように、かめの粉は尽きず、壺の油はなくなりませんでした。

エリヤの祈りに応えた主
 しかし最初にご一緒に読んだように、そののち17節でやもめの息子が病気になり、息を引き取りました。その時のエリヤの祈りが20節と21節です。エリヤは「私の神、よ。」と叫んで祈りました。20節と21節を交代で読みましょう。

20 彼はに叫んで祈った。「私の神、よ。私が世話になっている、このやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか。」
21 そして、彼は三度その子の上に身を伏せて、に叫んで祈った。「私の神、よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに戻してください。」

 そうして主は「私の神」と叫んだエリヤの祈りに応えられました。これから私たちもAさんの回復のために共に心を合わせて祈りたく思います。
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時間と空間に縛られていない自由なイエス(2019.9.5 祈り会)

2019-09-05 22:36:06 | 祈り会メッセージ
2019年9月5日祈り会メッセージ
『時間と空間に縛られていない自由なイエス』
【ヨハネ8:31~32、他】

31 イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。
32 あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

はじめに
 9月1日の日曜日の礼拝の冒頭の招きのことばはヨハネ8章31節と32節で、礼拝メッセージの中でもご一緒に開きました。32節でイエスさまは「真理はあなたがたを自由にします」とおっしゃいました。

 イエスさまは何にも縛られていない自由なお方です。イエスさまがいかに自由な中にいるかを今日は分かち合いたいと思います。「自由な中にいるイエスさま」のことを、これまで私は「時空を超えた永遠の中にいるイエスさま」と言って説明して来ました。しかし「永遠」というと、既に自分の「永遠」のイメージが固まっている方が少なくないようです。それで「自由」と言い換えたほうが分かっていただけるのではないかと思いました。

自由を知ることで気付く不自由
 次の聖日の礼拝で詳しく話したいと思っていますが、昨日私は、東京オペラシティコンサートホールに行ってデア・リング東京オーケストラ(西脇義訓・指揮)のコンサートを聴いて来ました。このオーケストラがまた実に「自由」でした(次のリンクで、このオーケストラの特徴が説明されています。→①「統制ではなく自発性。理想のオーケストラを求めて ~独自の配置、演奏者の意識改革……自らオケをつくった男の70歳の挑戦~」、→②「西脇義訓(指揮) インタビュー ~果敢で新たなチャレンジ!従来の常識を覆すオーケストラ公演再び!~」

 伝統的なオーケストラでは同じ楽器は隣り合って座ります。しかし、このデア・リング東京オーケストラの楽器はバラけるように配置されていました。例えば昨日のコンサートではコントラバスが4人いましたが、全体の四つの隅にいました。二人ずついたフルート、クラリネット、オーボエ、ファゴットも左右別々にかなり離れたところにいました。ホルン、トランペット、トロンボーン、チューバもバラけていました。大勢いるバイオリン、ビオラ、チェロも全体的に分布するような配置になっていました。同じ楽器が一箇所に固まっていないために音に広がりがあって響き合い、その音に包まれていることに幸せを感じました。そして、この自由な配置からの音を体験することで、これまでのオーケストラが既存の配置にいかに強く縛られて来たかということも思わされました。

 同じようにヨハネの福音書のイエスさまがいかに自由なお方であるかが分かると、それまでの自分がいかに時間と空間に縛られていて、霊的に不自由であったかがよく分かるでしょう。きょうは皆さんと是非、このことを分かち合いたいと願っています。自由な中にいるイエスさまを知るなら、私たちはイエスさまの弟子になり、霊的な不自由さから解放されます。

自由な「聖書のことば」としてのイエス・キリスト
 それでは本題に入って行きます。

 ヨハネの福音書のイエスさまはどうして自由なのでしょうか?それはヨハネが「ことば」としてのイエスさまを描いているからです。ヨハネ1:1には「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」とありますね。ヨハネはこうして冒頭で、この福音書は「ことば」としての自由なイエスさまを描くと宣言しています。「ことば」とは「聖書のことば」のことです。

 続いてヨハネは14節で「ことばは人(直訳は肉)となって、私たちの間に住まわれた」と書いています。人(肉)となったイエス・キリストは肉体をまとっていますから時間と空間に縛られていて不自由です。

 ここで皆さんには頭を切り替えていただく必要があります。ヨハネは肉体をまとったイエスさまを描いているのではありません。肉体をまとっていない自由な「聖書のことば」としてのイエスさまを描いています。自由なイエスさまは御父と共に天にいて、聖霊を通して預言者たち、そして弟子たちに御父のことばを伝えています。

 ヨハネ1章28節に、「このことがあったのは、ヨルダンの川向こうのベタニアであった」とありますね。ここで注目すべきは「ヨルダンの川向こう」です。ベタニアには注目しません。「ベタニア」に注目すると肉体をまとったイエスさましか見えて来ません。しかし「ヨルダンの川向こう」に注目するなら、アブラハムがまだカナンの地に入る前に東方にいた時の姿が見えて来ます。アブラハムだけでなくアダムとエバ、カインとアベル、箱舟を作ったノアたちも皆、ヨルダン川の東の地域に住んでいました。そして彼らに対して「ことば」であるイエスさまが語り掛けていました。つまり旧約聖書の神の声はイエスさまの声です。

 こうして聖書の創世記の時代が始まり、聖書はマラキ書で一旦閉じられます。マラキ書は旧約聖書の一番最後の書です。そのことが書かれているのがヨハネ11章54節です。「イエスはもはやユダヤ人たちの間を公然と歩くことをせず」と書いてあります。「聖書のことば」としてのイエスさまは聖書の記事が書かれていた時代にはユダヤ人たちの間を「公然」と歩いています。しかし聖書の記事が書かれていない時代にはイエスさまは潜伏していて「公然」と歩いていません。55節で再びイエスさまが姿を現したのは、ここから新約聖書の時代が始まったからです。

使徒8章のピリポの時代にいるイエス・キリスト
 さて、ここからはヨハネ4章に注目することにします。肉体をまとっていない自由なイエスさまを分かち合うにはヨハネ4章が最適だと思うからです。4章のイエスさまはサマリアにいます。サマリアは北王国の首都でした。ですから「ことば」としてのイエスさまは北王国を描いた列王記の時代にいます。そしてまたピリポがサマリア人に伝道した使徒の働きの時代にもイエスさまはいます。イエスさまはこの二つの時代を自由に行き来しています。

 ヨハネ4章の1節と2節をお読みします。

1 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、
2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──

 1節にはイエスがバプテスマを授けていたと書いてあり、2節にはバプテスマを授けていたのはイエスではなくて弟子たちであったと書かれています。しかし、マタイ・マルコ・ルカの福音書はイエスさまや弟子たちがバプテスマを授けていたとは一言も書いていません。ですからヨハネがここで描いているのは使徒の働きの時代に弟子たちの中にいたイエスさまです。弟子たちは聖霊を受けていましたから弟子たちの中にはイエスさまがいました。2節の「バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであった」は、そのことを説明しています。読者の私たちが霊的に不自由だと地上生涯のイエスさまが弟子たちにバプテスマを授けさせていたと受け取りがちですが、霊的に自由になれば、このヨハネ4章は使徒の働きの時代を描いていることが分かります。

 続いて3節と4節、、

3 ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。
4 しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。

 この3節と4節は、ステパノ殉教に端を発してエルサレムから散らされたピリポがサマリア伝道を行った状況を書いています。ピリポも聖霊を受けた弟子ですからピリポの中にもイエスさまがいました。

預言者エリヤの時代にもいるイエス
 さてしかし、自由なイエスさまは7節からは旧約の時代の預言者エリヤの中にいます。イエスさまはサマリアの女に「わたしに水を飲ませてください」と言いましたが、これは預言者エリヤの中にいたイエスさまがツァレファテのやもめに「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に水を飲ませてください」(列王記第一17:10)と言った状況を描いています。

 8節には「弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた」とありますが、使徒の時代にいる弟子たちは肉体をまとっていてイエスさまのように自由に旧約の時代との間を行き来できませんから、ここでは一旦、表舞台から退場しています。

 さて列王記第一によればエリヤの時代の北王国の王様はアハブ王でした。そしてアハブ王の前には五人の王たち(ヤロブアム、ナダブ、バアシャ、エラ、オムリ;在位7日間で民が王と認めなかったジムリを除く)が北王国にいました。五人がやもめの時代の前にいましたから、イエスさまはサマリアの女に「あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではない」と言いました。女はやもめですから今一緒にいるアハブ王は夫ではないのですね。

 北王国の王たちはいずれも不信仰でした。初代のヤロブアム王も不信仰でしたし、やもめが今一緒にいるアハブ王はもっと不信仰な王でした。そのような不信仰な王たちの支配下で暮らさなければならない、やもめのような庶民は不幸でした。イエスさまは不幸な民を哀れんでいた様子が女との会話から見て取れます。

労苦したピリポと労苦しなかったペテロとヨハネ
 少し先へ進みます。27節で弟子たちが戻って来ましたから、時代はもう一度使徒の働きのピリポがサマリア伝道をした時代に戻ります。使徒の働き8章によればサマリア人たちはピリポのことばを信じましたが、聖霊は受けていませんでした。サマリア人たちが聖霊を受けたのはエルサレムからペテロとヨハネがサマリアに来て、彼らの上に手を置いた時でした。

 ヨハネ4章の35節から38節までは、その状況を描いています。35節でイエスさまは「目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています」と言いました。それはサマリア人たちがピリポの話を聞いて聖霊を受けるばかりになっていたことを示します。そして37節の『一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる』はピリポが種を蒔き、ペテロとヨハネが刈り入れたことを示します。38節でイエスさまは「ほかの者たちが労苦し、あなたがたがその労苦の身にあずかっている」と言いましたが、それはピリポが労苦をしてペテロとヨハネは手を置くだけで労苦せずに刈り入れたことを示します。このイエスさまの弟子たちへのことばは、ペテロとヨハネの中にいるイエスさまのことばです。

おわりに
 細かい話をしましたが、きょう分かち合いたかったのはイエスさまがいかに自由な中にいるかということです。肉体をまとったイエスさまは時間と空間に縛られていますから不自由です。しかし御父と共に天にいて御父のことばを聖霊を通して伝えているイエスさまは自由な中にいます。この自由なイエスさまがヨハネの福音書を通して見えて来ると、それまでの自分がいかに時間と空間に縛られていて霊的に不自由であったかが分かるでしょう。この縛りから解き放たれて霊的に自由になるなら、私たちはイエスさまの弟子になり、心の平安を得ることができます。

 是非この素晴らしい心の平安を、多くの方々と分かち合いたいと思います。
 お祈りいたします。

31 イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。
32 あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
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神様の愛を感じていますか?(2019.8.28 午前の祈り会)

2019-08-29 11:36:18 | 祈り会メッセージ
2019年8月28日午前の祈り会メッセージ
『神様の愛を感じていますか?』
【イザヤ43:4、マタイ3:16~17】

はじめに
 はじめにイザヤ書43章4節をご一緒に読みましょう。
 
4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにする。

 このイザヤ書43章4節の「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」は、礼拝や聖会の説教で、とてもよく開かれる箇所です。説教する牧師先生はここを引用して、「神様はあなたを愛しておられます」と熱く語ります。神学生だった頃、私はこの箇所からの説教を何度も聞きました。

 さてしかし、神学生の2年生の頃までの私は、神様が自分を愛して下さっているという実感がまだ十分には得られていませんでした。自分は神様に守られているということは強く感じていましたが、牧師先生が説教で熱く語る「神様はあなたを愛しておられます」が、私にはあまり響いていませんでした。

他者に注がれている神様の愛が自分にも注がれている
 そんな風に神学生の時を過ごしていたある日、これは神学生の3年生の秋頃でしたが、神様の愛を感じる経験をしました。聖日の実習先の教会で、教会の皆さんが賛美歌を歌う様子を横から見ていた時、「神様は確かにこの教会の皆さんを愛しておられる」と感じました。そして、その場に私もいますから、神様は私のことも愛しておられると感じました。

 このように、先ずは第三者的に神様の愛が他の人々に注がれていることを感じるなら、その中に今の自分も含まれていると思うことで、神様の愛を感じやすくなるのではないかと思います。

 皆さんの中で、もし自分が神様に愛されていると感じることに困難を覚えている方がいましたら、まずは他の方々に注がれている神様の愛に目を向けて見ることをお勧めしたいと思います。そうすればご自身にも神様の愛が注がれていることが感じられるようになるのではないかと思います。

 一昨日と昨日、私は聖宣神学院で持たれた「卒業生リトリート」に参加して来ました。このリトリートは神学院の教室で行われましたから、この教室で授業を受けていた時の3年間のことをずっと思い出しながら先生と卒業生の話を聞いていました。当時の授業のことだけでなくキャンパス内の清掃や厨房での食事作りなど、このキャンパスでしていた色々なことを懐かしく振り返りました。当然のことですが、私は神学院で学びや奉仕に真面目に取り組んでいました。将来は牧師になることを目指していましたが、そこに至る道のりの遠さもまた強く感じていましたから、とにかく真剣に取り組むしかありません。それゆえ目の前のことの一つ一つに真面目に取り組んでいた、そのような神学生であったと思います。

 これは別に私の真面目さを自慢しているわけではありません。なぜなら、いちおう真面目に取り組んでいたものの、私はいつも早くここから出たいと思っていたからです。神学院の寮に入る前の私は一人で気ままに暮らしていましたが、寮では団体生活でしたし、外出も自由にはできませんでしたから息苦しさを感じていました。そういうわけで、早くここから出たいということばかり考えながら神学生時代を過ごしていました。

 しかし、いま当時を振り返ってみると、それはとても祝福された日々だったと思います。聖書について深く学び、いろいろな先生から毎日のように説教を聞くことができました。神様に守られて、とても良い学びができました。つまり私たち神学生は神様からとても愛されていました。当時の私はモーセの時代に荒野を放浪していたイスラエルの民のように、この生活に満足しておらず神様に失礼なことばかりを考えていて、神様から愛されているという実感が持てていませんでした。

 しかし現代から過去を振り返ってみると、当時の私たち神学生が神様からとても愛されていたことを、今回の卒業生リトリートで感じました。そう感じることで今の私のことも神様は同じように愛して下さっていることを感じます。

 先ほどの例で話したように、神様が他の人々を愛していることを先ず感じるなら、自分もその中に含まれていることを感じることができます。同様に過去の自分も客観視し易いですから、神様が過去の自分を愛して下さっていたことを感じるなら、今の自分も愛して下さっていることを感じることができます。

 今の自分の心の中にはきよくないものがたくさんありますから、こんな自分のことを神様は愛して下さっているだろうかと心配になることもあります。しかし、こんな私でも神様は愛して下さっているのですね。

私たちの教会もまた愛されている
 もう一箇所、みことばを開きたいと思います。マタイの福音書3章の16節と17節を交代で読みましょう。

16 イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。
17 そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」

 この箇所はリトリートの夜の祈り会で引用されました。17節の「これはわたしの愛する子」は釈義としてはイエスさまへの天の父からのことばですが、その夜の私たちは、この「わたしの愛する子」を私たちのこととして味わいました。

 そうして神様はこの静岡教会のお一人お一人のことも、もちろん愛して下さっていて、この午前の祈り会や俳句の会も祝福して下さっています。少し離れた横浜の神学院にいながら、私はそのように思いました。やはり神様の愛は少し離れた場所からのほうが感じやすいようです。

 前回の俳句の会は多くの方が参加して下さり、本当に感謝でした。25日には次の秋の会のための季語も発表になりましたから、次の会に向けて、また新たに俳句を考え始めた方も多いと思います。私も考え始めています。秋はさわやかな季節ですから、秋の俳句を考えていると心もさわやかになり、きよめられるような気がします。教会の活動と俳句の会とは、とても相性が良いように感じます。神様は次の会もきっと祝福して下さるでしょう。

おわりに
 神様は私たちの教会を愛していて下さり、私たちの一人一人を愛して下さっています。この神様の愛に感謝したいと思います。そして、この静岡教会のお一人お一人が今よりももっと神様の愛を感じられるようになるよう、お祈りしていたいと思います。
 お祈りいたします。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」
「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」
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もっと語り合いたい霊的な世界(2019.8.22 祈り会)

2019-08-23 11:10:23 | 祈り会メッセージ
2019年8月22日祈り会メッセージ
『もっと語り合いたい霊的な世界』
【マタイ4:23~5:10】

4:23 イエスはガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされた。
24 イエスの評判はシリア全域に広まった。それで人々は様々な病や痛みに苦しむ人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人など病人たちをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らを癒やされた。
25 こうして大勢の群衆が、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、およびヨルダンの川向こうから来て、イエスに従った。
5:1 その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。
2 そこでイエスは口を開き、彼らに教え始められた。
3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。
5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。
6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。
7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。
8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。
9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。
10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。

はじめに
 月曜日から水曜日に掛けて姫路と広島を訪問して来ました。きょうは、この三日間に思いを巡らしたことについて話したいと思います。

霊性を育むのに抜群の環境
 月曜日は姫路教会を訪問して来ました。ここには今、私と同じ高津教会出身の神学生4年生の兄弟がインターン実習生として滞在しています。姫路には私も2011年から2013年までの2年間滞在しました。最初の1年間はやはりインターン実習生として、そして次の1年間が牧師としてでした。

 今回、久し振りで姫路教会を訪問して、周囲に田んぼが広がっている風景を見て、のどかで静かなこの環境が霊性を育むのには抜群の環境だなと改めて思いました。私の場合、横浜の神学院も霊性を育むのに良い環境でしたが、集団生活ゆえの大変な面もありました。姫路では静かな環境の中で一人暮らしをしていましたから本当に神様との深い交わりの中に入れていただき、良い霊的修練ができました。いま姫路に滞在している兄弟も、きっとここで良い学びができることと思います。

世界中から人々が集まる広島
 そして一昨日と昨日の火曜日と水曜日は広島の平和公園に行って来ました。火曜日の午前は、雨が降っていました。最初はそれほど強い雨ではなかったので平和公園の中を巡っていました。すると急に雨が強まって土砂降り状態になりました。それで公園内にいた人々は雨を避けるために続々と平和記念資料館(原爆資料館)に向かいました。私も靴の中まで雨水が入る状態でしたから原爆資料館に移動して、資料を見ることにしました。

 多くの人が短時間に原爆資料館に押し寄せましたから、館内はラッシュ時の駅のホームのような状態で、なかなか前へ進むことができませんでした。数えたわけではありませんが、印象としては来館者の半分以上が外国人です。学校が始まった秋に行くと校外学習の小学生・中学生・高校生がたくさんいますが、夏休みの時期は日本人よりも外国人のほうが多いように思います。

 広島の平和公園には世界中から本当に多くの人々が訪れます。ここを訪れる人の多くは原爆の惨禍を目の当たりにして平和を希求する心を持ってそれぞれの場所へ帰って行くことと思います。世界中の人々が広島に集まって平和のために祈り、それぞれの場所へ帰って平和の大切さを周囲の人々に伝えます。それなのに世界がなかなか平和にならないのは何故なのでしょうか?平和公園に集う多くの人々を見ながら私はそのことに思いを巡らしました。

 今日は次の三つのパートに分けて、「世界がなかなか平和にならないのは何故なのか」について考えてみます。

 ①人はどうして悲しみの現場に集まるのか
 ②霊的に語られていない聖書
 ③霊的なことが語られてこそ作られる平和

①人はどうして悲しみの現場に集まるのか
 被爆地の広島や長崎に限らず、悲しい事故や事件、災害があった現場には多くの人々が訪れます。京都アニメーションの放火事件の現場や川崎の小学生殺傷事件の現場、また交通事故の現場や自然災害の被災地にも多くの人々が集まって祈りを捧げます。

 今回、このことに思いを巡らしていて示されたのがマタイ5:4です。

「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」(マタイ5:4)

 悲しんでいる人がいる時、神様は慰めを与えて下さいます。広島のように1945年だけで約14万人が亡くなり、その何倍もの人々が火傷(やけど)や放射線障害で苦しみ、また身体的な苦痛だけでなく、いつ原爆症が発症するか分からない恐怖や差別を受けるなどの精神的な苦痛も大きく、広島には大きな悲しみがありました。その悲しみは74年が経った今も癒えていません。

 そのような悲しみの大きな場所には神様の慰めもまた豊かにあります。その神様の慰めが重力のように働いて、人はそこに引き寄せられて行くのだと思いました。大きな悲しみの現場には神様の慰めもまた、太陽の巨大な重力のように働いているように感じます。悲しみの現場では神様の霊がギュッと濃縮されていて、神様が人々を引き寄せているとも言えるでしょう。



 私は平和公園へ行くと、いつも必ず原爆ドームがよく見えるベンチに座って、ずっと同じベンチで長い時間を過ごします。そうして原爆ドームを眺めていると何故か心が平安になります。悲惨な原爆被害の象徴である原爆ドームがなぜ心に平安を与えるのか、それは十字架と同じなのだろうと思いました。悲しみの現場には神様の慰めもまた豊かにありますから、平安を感じるのだろうと思いました。

②霊的に語られていない聖書
 悲しみの現場に人々が多く集うのは何故かについて、上記のような霊的な考察が為されることは一般にはあまりないでしょう。特に現代では霊の世界の話をすると世間は怪しげなカルトのような目で見ますから、古い伝統を持つ宗教は霊的な領域の話を表向きにはあまり発信していないように思います。しかし、実はキリスト教は極めて霊的な宗教です。「世界がなかなか平和にならないのは何故なのか?」について考える時、霊的な世界のことが表向きにはあまり語られていないことも関係している気がしています。神様の霊に包まれる時、人の心は平安で満たされます。しかし、一般の人々が霊的な世界に触れる機会が減っていることで、深い平安が得られる機会が減ってしまっている可能性があります。

 それは聖書が語られる時も同様のように思います。例えば先ほどのマタイ5:4の「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです」で、人たちを慰めるのは神様の霊です。それは説明が不要なくらいに当たり前のことです。しかし霊的な世界に慣れていない人々にとっては、慰め主が誰なのかは曖昧なままで終わってしまいます。

 このマタイ5章から7章に掛けての「山上の説教」は霊的なことが中心ですから、もっともっと霊的な観点から語られる必要があると私は個人的に思っています。山上の説教の第一声の3節の「心の貧しい者は幸いです」も、下の脚注を見ると直訳は「霊において貧しい者」であるとなっています。だったら何故、この「霊において貧しい者」の訳を採用しないのでしょうか?私は「心」ではなくて「霊」にしたほうが良いと思います。

 マタイの福音書はペンテコステの日以降の、人々が聖霊を受けるようになってから書かれた書です。記者のマタイももちろん聖霊を受けています。聖霊を受けたマタイが、天からの霊感を受けて書かれたのがマタイの福音書です。そのマタイに霊感を与えたのは誰かと言えば、それは天にいるイエスさまです。ですから私はマタイ5章から7章の「山上の説教」は「天上の説教」と呼んでも良いぐらいだと考えています。つまり山上で説教しているのは実は天のイエスさまだという読み方です。そうしてマタイの福音書の読者は天のイエスさまのことばを信じて聖霊を受けます。

 しかし、マタイ・マルコ・ルカの福音書が、上記のような霊的な読み方がされることはありません。それには理由があります。イエスさまが神であることを重視して肉体を持った人間であることを軽視してしまうと、十字架の苦しみが無かったのではないかという異端の説がはびこることになってしまうからです。十字架の苦しみはキリスト教の教えの根幹にありますから、これを揺るがす危険は避けるべきでしょう。またイエスさまは人間であったからこそ私たち人間の悲しみや苦しみが分かるのですから、イエスさまの神性を強調することは控えるべきなのでしょう。

 イエスさまは肉体を持っていなかったという異端の説は「仮現説」と呼ばれます。この仮現説はキリスト教にとって深刻な問題でした。それゆえキリスト教が人間のイエスさまを強調するようになったのは仕方がないことだったと思います。しかし人間のイエスさまをあまりに強調し過ぎると、福音書の霊的なメッセージを受け取り損なってしまいます。私はマタイ・マルコ・ルカの福音書から霊的なメッセージがあまり語られなくなったことが、ヨハネの福音書の霊的な世界が気付かれずに来たことの大きな原因だと考えています。

 そのようにしてマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四つの福音書から豊かに湧き立つ霊的なメッセージを受け取り損なっている結果、世界には未だに平和がないということにつながっているのではないかと思いました。

③霊的な世界が語られてこそ作られる平和
 最初に言ったように、人々は悲しみの現場に続々と集まって来ます。これは事実です。私は毎年広島の平和公園に行って、世界中から人々が続々と押し寄せている様子を自分の目で見ていますから、これは事実です。なぜ悲しみの現場にそんなに人が集まるのか、そこには神様の慰めが重力のように働いているからではないか。これは事実ではなくて私の推測です。この推測はどれぐらい合っているのでしょうか?或いは間違っているでしょうか?多くの人々がもっと霊的な世界に関心を持って、皆で語り合えるようになると良いなと思います。そうすれば多くの人々がもっと神の霊に包まれて、世界は平和な方向に向かうのではないかと思います。

 しかし、霊的な世界のことが表立って語られることはほとんどありません。それゆえ、本当は神様がとても身近な所にいるのに、人々の多くは神様の霊を身近に感じることはありません。これはとても残念なことだと思います。

 マタイ4章25節には大勢の群衆が、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、およびヨルダンの川向こうから来て、イエスさまに従ったと書かれています。この大勢の群衆とは私たちのことでもあります。イエスさまはいつも私たちと共にいて下さいます。私たちはそのイエスさまに付き従います。そして私たちはイエスさまの「天上の説教」を聞きます。

 幸いな者たちに与えられるものは、すべてイエスさまが与えて下さるものです。天の御国も慰めもイエスさまが与えて下さいます。満足もあわれみも、イエスさまが与えて下さいます。そして5章9節、

「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」(マタイ5:9)

 「神の子ども」と呼ばれるのは聖霊を受けた者だけです。ですから真の平和をつくることができるのは聖霊を受けて霊的な目が開かれた者です。多くの人々の霊的な目が開かれるためには、普段から霊的な世界のことがもっと表立って語られる必要があると思います。

おわりに
 もう一度、最初に戻って悲しみの現場に集う人たちのことを考えたいと思います。神様は悲しむ者を慰めて下さいます。悲しむ者が多いほど、そして悲しみが大きいほど神様の慰めは大きくなります。その神様の霊による慰めに多くの人々が引き寄せられているのだと私は考えます。そのように神様の霊に引き寄せられる人は、もし霊的な世界のことが表立って語られていたなら聖霊を受ける可能性が高い人だとも言えると思います。しかし霊的な世界が語られる機会が多くないために、霊的な世界に気付きがないままに終わってしまうという残念なことになっていると感じます。

 日本では第二次世界大戦が終わってからキリスト教ブームが起こり、多くの人々が教会に集いました。私たちの教団も戦後すぐに創立されて急速に成長しました。それは日本人の多くが戦争によって大きな悲しみを経験したことが深く関係しているでしょう。私自身も教会に通い始めたのは父が死んだ悲しみへの癒しを求めてのことでした。

 悲しみを抱えている人は近隣にもたくさんいます。そのような方々に、この教会に集っていただきたいと思います。そして神様の慰めの霊に包まれてほしいと思います。そのようにして、この教会が豊かな霊性を育む場としても用いられれば幸いですね。

 お祈りいたしましょう。

「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」(マタイ5:4)
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8月15日(木)の祈り会は行いません

2019-08-13 08:12:14 | 祈り会メッセージ
 台風情報によれば接近中の台風10号の大きさが超大型になりました。
 8月15日(木)の祈り会の頃は風雨が最も強まると予想されます。
 静岡への影響がどの程度になるか今の段階ではまだ分かりませんが、休暇期間中ですから祈り会をお休みにすることを早めに決定することにしました。
 今週の祈り会は行いません。
 よろしくお願いいたします。
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御霊によって得られる平安(2019.8.8 祈り会)

2019-08-09 14:01:16 | 祈り会メッセージ
2019年8月8日祈り会メッセージ
『御霊によって得られる平安』
【ガラテヤ5:16~23】

このブログを読んで下さっている皆さんへ
 今回も前回と同じ問い掛けから始めたいと思います。
 皆さんは、いま心に平安を感じていますか?毎日を心穏やかに過ごすことができていますか?
 私の場合は教会に通うようになって、聖書の神様が私を守って下さっていることを確信し、聖書を読むようになってから心の平安を感じるようになりました。前回は、ここまでを話しました。
 きょうからは、なぜ聖書を読むと心の平安が得られるのかについて、何回かに分けて考えてみたいと思います。

子犬や子猫の癒し動画からも得られる平安
 先ずはいきなり聖書から入るのではなく、他の事例から考察を始めることにしたいと思います。テレビやネット上ではかわいい犬や猫の動画が大はやりです。特に子犬や子猫のかわいいしぐさは見ている者の心を癒してくれます。人間の場合も赤ちゃんやよちよち歩きの幼子の動画は心を癒してくれ、平安な気持ちにしてくれます。もちろん動画ではなくて、実際に子犬や子猫をなでてあげたり、赤ちゃんを抱っこしたりすれば、もっと心は癒されて平安になることでしょう。動物の世話や子育ては大変で苦労も多いと思いますが、もらえる平安の恵みもまた大きいので苦労を厭わず世話をすることができるのだろうと思います。

 それでは何故、かわいい子犬や子猫、赤ちゃんたちは人の心に平安を与えてくれるのでしょうか?考えられる理由の一つとして、幼い者たちには邪心が無いことがあるのではないでしょうか?

 しても良いことと、してはいけないことがまだ分からない幼い動物や子供たちは、大人たちを困らせます。しかし、そこに邪心はありません。彼らはその時、その時を懸命に生きています。子猫はイタズラがとても好きです。しかし、子猫はイタズラのつもりでしているのではありません。悪いことを企んでしているわけではありませんから、イタズラにもかわいさを感じて心が癒されます。

心がきよめられることで得られる平安
 この「邪心の無さ」は言い換えれば「無垢」ということであり、これは多くの宗教が大切にする「きよさ」と「心の平安」ともつながっているように思います。座禅を組む仏教の禅宗や険しい山岳を踏破する修験道も、方法は違っても邪心を追い払うという目的では通じるところがあるのだろうと思います。

 四国八十八箇所の霊場を徒歩だけで回るのも体力的にきつい修行だと聞きますが、そのことによって心がきよめられることを追い求めているのではないかと思います。また宗教に限らず、武道においても勝つことを意識せずに心を無にして無欲で戦うことが良しとされます。

 子犬や子猫や幼い子供の動画に心が癒されることは、「きよめ」という観点からは誠に些細なレベルのものでしょう。それでも通じるものがあって、ここが出発点に成り得るのかもしれないと思いました。動物の動画に癒されることも、神社で口と手をきよめてお参りすることも、剣道や四国八十八箇所の霊場めぐりで心を無にすることも、どれも「きよめ」という観点から通じるものがあるような気がします。そうして少しでも心がきよめられることを感じるなら、それに応じて心の平安もまた感じるのではないでしょうか。

キリスト教も追求する「きよめ」
 そしてキリスト教もまた、心のきよさを追い求めます。ここで、聖書を開いてみましょう。新約聖書のガラテヤ人への手紙5章の18節から23節までです。

18 御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。
19 肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、
20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
21 ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。
22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
23 柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。

 今読んだ19節と20節にある「淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興」は邪心です。そしてキリスト教では、単にこれらの邪心を無にすることを勧めるだけでなく、御霊に導かれて御霊の実を結ぶことを勧めています。御霊の実とはすなわち「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」です。つまりキリスト教は邪心を捨てて心を無にすることを勧めるのではなく、心の中に御霊に入ってもらって御霊に導かれた生活を送り、御霊の実を心の中に結ぶようになることを勧めています。
 御霊に導かれるとはどういうことかについては、中級以上のレベルのことになりますから、後日また説明することにしたいと思います。

原爆投下という邪悪な行為
 さて今日は8月8日です。おとといの6日は広島の原爆の日でした。そして明日の9日は長崎の原爆の日です。このアメリカによる二発の原爆投下は「邪心の無さ」という観点からは、まったくの対極にある邪心に満ちた行為であったと言えます。

 中でも邪心の最たるものとして私が挙げたいのは、アメリカ軍が原爆投下の候補とした都市には空襲を禁止していたことです。京都、広島、小倉、新潟を投下目標としていたアメリカ軍はこれらの都市への空襲を禁止しました。空襲で建物が焼失してしまうと、原爆の破壊力の効果を正確に知ることができなくなるからです。そうしてアメリカ軍は広島の建物を温存した状態で原子爆弾を投下しました。建物が残っていたのですから、当然そこには多くの人々が住んでいました。

 これほど邪悪な行為が他にあるでしょうか?原爆の威力を見せて威嚇することで戦争終結に追い込みたいなら、例えば日本の国土の多くは山林で覆われているのですから、山林に原爆を投下すれば人的な被害はずっと少なかったはずです。或いは既に空襲で建物が焼失した都市に投下すれば、建物のない区域に住んでいた人は少なかったでしょうから、人的被害を大幅に減らすことができたはずです。しかしアメリカ軍は最も被害を大きくする方法を選んで、戦闘要員ではない一般市民も多く暮らす広島の中心地に原爆を投下しました。

御霊によって歩まなかった原爆関係者
 アメリカの大統領の就任式では、大統領が聖書の上に手を置いて宣誓します。そのアメリカの軍隊がこれほどまで邪悪なことをするとは、一体どうなっているのでしょうか?ガラテヤ人への手紙5章の16節と17節で、この手紙の差出人のパウロは次のように書いています。

16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。
17 肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。

 結論から言うなら、原爆に関わったアメリカ人は聖書を読みはしているけれども、御霊によって歩んではいないということでしょう。御霊によって歩んでいなければ原爆投下という邪悪なことをしても、そのことの罪深さに気付くことはできません。これでは世界が平和になるわけがありません。心の平安を得て平和な世界をつくるためには御霊によって歩まなければなりません。

御霊によって歩むことで得られる平安
 きょうの話をまとめたいと思います。私たちはどういう時に心の平安を感じるか、まずは子犬や子猫の動画を見て彼らの邪心の無さに癒されて感じる心の平安から話を始めました。さらに武道や四国八十八箇所の霊場巡り、座禅や修験道で心を無にすることなどについても話しました。こうして心を無にすることは平安へとつながるでしょう。

 そしてキリスト教の場合は、単に心を無にするのでなく心の中に御霊が入っていただくようにすることを勧めます。このことによって他とは比べ物にならないくらいの深いレベルの心の平安が得られます。牧師の私はこの御霊による心の平安を得ています。このことは中級以上のレベルに属しますから、後日改めて話ができればと思います。

 そしてアメリカ軍の話もしました。アメリカ軍は広島と長崎に原爆を投下するという邪悪なことをしましたから、御霊によって歩んでいません。原爆に関わった人々は子犬や子猫から得られる程度の平安は得ていたかもしれませんが、聖書が勧める深いレベルでの平安は得ていませんでした。原爆に関わった人々を一くくりにするのは乱暴ですが、アメリカ人の多くが原爆投下は正しかったと考えているのですから、そのような人々は御霊によって歩んでいないと言って良いでしょう。核兵器を廃絶して平和な世界をつくるには、多くの人々が御霊によって歩み、深いレベルの平安を得る必要があると感じます。

 多くの方々が御霊によって歩むことができるよう、お祈りしたいと思います。

16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。
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自分の守り神に信頼を寄せて祈れる幸い(2019.8.1 祈り会)

2019-08-02 09:04:30 | 祈り会メッセージ
2019年8月1日祈り会メッセージ
『自分の守り神に信頼を寄せて祈れる幸い』
【詩篇16:1~2、23:1~6】

このブログを読んで下さっている皆さんへ
 皆さんは、いま心に平安を感じていますか?毎日を心穏やかに過ごすことができていますか?

 最近のテレビや新聞の報道を見ていると、心に平安が無い人が以前よりも確実に増えていると感じます。私はこのことを、とても心配しています。大多数の人の心に平安があるなら、平安を失った人がいても周囲の人々から平安を分けてもらって回復することができるでしょう。

 しかし、多くの人々の心から平安が失われてしまうなら、やがては社会全体から平安がまったく失われてしまうことになるでしょう。なぜなら人の心は周囲の影響を受けやすいからです。例えば牧師の私は概ね心の平安を保てていますが、平安が無い人への対応が続くと、自分の平安も失われていると感じることがしばしばあります。このように、個人の平安は周囲の平安と密接に関連しています。

 個人の心の平安は一時的に失われても、社会全体が平安であれば、また回復します。しかし、社会全体から平安が失われてしまうと個人の平安の回復も絶望的になります。ですから、人々の心から平安が失われつつある今の流れを止めなければなりません。

 そこで、この教会ブログの祈り会メッセージを利用して、私がどのようにして心の平安を得ているかを広くお伝えすることにしたいと思います。このことがどれほどの役に立つのか、まったく微々たるものかもしれませんが、人々の心の平安の回復を祈りつつメッセージを発信します。

自分の守り神を知っていますか?
 心の平安を得る上で第一に大切なことは、誰かが自分を守っていることを感じ、それが誰であるかを知ることではないかと思います。

 皆さんは自分を守っている存在があると感じていますか?感じている場合、それが誰であるのか確信を持って言うことができますか?

 ここで、私の体験を少し話すことにしたいと思います。

 私は40歳を過ぎて教会に通うようになってから初めて、真の心の平安を感じるようになりました。ただし20歳前後ぐらいの頃から、いつも自分が誰かによって守られていることを感じながら過ごして来ました。命を落としていてもおかしくなかったような目に遭ったことも一度や二度ではありません。大学一年生の時には交通事故に遭って一時は意識不明になり救急車で病院に搬送されました。また同じ大学一年生の時、住んでいたアパートの向かいの部屋でガス自殺が原因の爆発事故が起きて火災になり、焼け出されたこともありました。その他にも何度か危険な目に遭っています。しかし不思議と守られて来ました。

 或いはまた若者特有の悩みで学業を続ける気力が失せてしまい、しばらく大学に行けなくなった時期もありました。その時期が長引けば退学につながっていたことと思いますが、不思議と学業に戻ることができました。そのような学業の危機が一度ならず何度もありました。

 或いはまた就職してからも危機がありました。理工系の分野で大学に職を得ていながら、悩んだ末に私は退職してしまいました。そうして全く異なる専門分野の勉強をして、1年半後に留学生センターの教員に採用されて再び大学に職を得ることができました。これは本当に奇跡的なことだったと思います。

 これらのことがあって、私は自分が誰かに守られていることをいつも感じながら日々を過ごしていました。ただし、誰が自分を守ってくれているのかは、ぜんぜん分からないでいました。神社の神様なのか仏教の仏様なのか、或いはまたご先祖様の霊が守ってくれているのか、いろいろ想像してみるのですが、さっぱり分からないでいました。当時は教会とはまったく縁がありませんでしたから、キリスト教の聖書の神様が自分を守ってくれているなどとは、考えたこともありませんでした。本当にまったくの想定外のことでした。

 それが不思議な導きで近所の高津教会の礼拝に出席して何度か通っているうちに、これまで自分を守ってくれていたのはキリスト教の聖書の神様であったのではないかと思い、やがてそれを確信するに至りました。そうして洗礼を受けた私は心の深い平安を感じるようになりました。

 自分を守ってくれているのが誰なのか分からなかった頃は、私は神社でも熱心に祈りましたし、お寺でも熱心に祈りました。自分の守り神が分からないのですから闇雲に祈るという感じで、平安は得られませんでした。それが教会に通うようになってからは、聖書の神様が自分を守って下さっていたと分かりましたから、祈るべき神様が明確になりました。この、自分の守り神をはっきりと知った上で祈ることが、心の平安を得るためには、とても大切なことだと思います。

神様に全幅の信頼を寄せて祈っていたダビデ
 ここで聖書を開きたいと思います。旧約聖書の詩篇16篇です。これはダビデの詩です。1節と2節、

1 神よ 私をお守りください。私はあなたに身を避けています。
2 私はに申し上げます。「あなたこそ私の主。私の幸いはあなたのほかにはありません。」
(詩篇16:1~2)

 ダビデは「あなたこそ私の主」と告白し、神様に全幅の信頼を寄せて「私をお守りください」と祈りました。

 これこそが深い平安を得るために必要なことではないでしょうか。自分を守ってくれているのかいないのか分からない存在に向かって半信半疑の状態で祈っても、少しも平安は得られないでしょう。しかし全幅の信頼を寄せて祈るなら、神様の側が祈る者に対して豊かな恵みを注ぎ、深い平安を与えて下さいます。

 ダビデは人生の多くを戦場で過ごした戦士でした。ダビデの詩で最も有名な詩篇23篇を次に開きましょう。

1 は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
2 主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。
3 主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。
4 たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。
5 私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。
6 まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでもの家に住まいます。
(詩篇23:1~6)

 激しい戦闘の場である戦場で、ダビデはいつも死と隣り合わせの中にいました。しかし、ダビデはどんなに過酷で危険な場においても主が共にいることを感じて心の平安を得ていました。4節の「たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから」という言葉からは、そのことが感じられます。また戦場で敵が前にいてもダビデは食事を取ることができるほど、主から平安を与えられていたことが5節から分かります。

危険に囲まれている私たち
 21世紀の日本で暮らしている私たちは戦場の中にいるわけではありません。しかし私たちもまた、危険に囲まれています。いつ災害や事件、事故に巻き込まれるか分かりません。突然の病に倒れることもあるでしょう。そのことによって命を落とすこともあるかもしれません。ですからダビデと異なる時代を生きる私たちも、決して日々を安全に過ごすことができているわけではありません。それゆえ私たちもまた、ダビデのように祈ります。その時、ダビデのように神様に信頼を寄せて祈るなら、神様は私たちに平安を与えて下さいます。

 このようにして私自身もまた、自分を守って下さっている神様に信頼を寄せて祈ることで、心に平安を得ています。その他にも、私が平安を得ることができている理由が複数あります。来週以降も、これらのことを祈り会で順次お話しできたらと思います。

 お祈りいたします。

1 神よ 私をお守りください。私はあなたに身を避けています。
2 私はに申し上げます。「あなたこそ私の主。私の幸いはあなたのほかにはありません。」
(詩篇16:1~2)
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奥深い自分に忠実であることの学び(2019.7.18 祈り会)

2019-07-19 09:44:30 | 祈り会メッセージ
2019年7月18日祈り会メッセージ
『奥深い自分に忠実であることの学び』
【ヨハネ1:35~39、14:26】

はじめに
 祈り会では「祈り」について何回か取り上げて来ました。このテーマは一旦終わりとして、きょうから別のテーマでしばらくの間、話をしたいと思います。

イエスに付いて行くことで分かる人生の目的
 先日の伝道委員会では、誰でも持っているような人生に関する根本的な悩みの問題について聖書はどう答えているか、そのようなメッセージを望みたいということが話されていました。そのことについて答えている箇所の一つとして、私はヨハネ1章35節から39節を挙げたいと思います。交代で読みましょう。

35 その翌日、ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた。
36 そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊」と言った。
37 二人の弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。
38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊まりですか。」
39 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすれば分かります。」そこで、彼らはついて行って、イエスが泊まっておられるところを見た。そしてその日、イエスのもとにとどまった。時はおよそ第十の時であった。

 「自分は何のために生きているのか」という類の人生に関する根本的な問題は、どんなにたくさんの本を読んで思いを巡らし、考え続けても永遠に分からない問題でしょう。これはイエスに付き従って行くことでしか解決しない問題です。私はそのように考えます。これは私自身の個人的な体験に基づく結論です。ですから、一般性がどれほどあるか実のところ分かりませんが、私はかなり一般性があるだろうと考えています。

 イエスさまは、ご自分のほうに歩いて来た二人の弟子に言いました。

「あなたがたは何を求めているのですか」(ヨハネ1:38)

 私たちは自分が何のために生まれて、何のために生きているのか本当のところ、何も分かっていません。そんな私たちにイエスさまは、

「来なさい。そうすれば分かります」(ヨハネ1:39)

とおっしゃって下さっています。そうしてイエスさまに付き従って行くなら、やがてイエスさまを信じて聖霊を受けます。そうすると聖霊が私たちにすべてを教えて下さいます。

 今度はヨハネの福音書14章26節をご一緒に読みましょう。

「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14:26)

 これが私自身が体験的に得ている、人生の根本問題に関する結論です。ただし、このことだけを言っても分かっていただけないでしょうから、私が出会った、ある本を用いながら、これから何回か話をすることにしたいと思います。

奥深い自分に忠実であること
 その本は、『自己愛とエゴイズム』(ハビエル・ガラルダ著、講談社現代新書)です。この本の著者のハビエル・ガラルダ先生はスペイン生まれのスペイン人ですが、カトリックのイエズス会の宣教師として日本に来て上智大学の教授も務めていた先生です。
 私はこの本に、まだ教会に導かれる前の名古屋にいた時に出会いました。そして、この本との出会いがあったからこそ、教会に辿りつくことができたと思っています。

 この本は「奥深い自分に忠実であること」を勧めています。この本の勧めに共感した私は、何とか「奥深い自分に忠実であること」を実践したいと願い、そうすることで高津教会に辿り着くことができたと思っています。
 私がいつ、この本に出会ったのか正確な年は覚えていません。私が名古屋にいたのは1989年から1993年までの4年間でした。仮に真ん中の1991年にこの本に出会ったとすると、私が川崎市の高津教会に導かれたのが2001年でしたから、この本と出合ってから10年間掛かって高津教会に導かれたことになります。

 これから何回か、この本に何が書かれていることを紹介しながら、「奥深い自分に忠実であること」について共に考えてみたいと思います。

 「奥深い自分」とは言い換えれば「良心の声」のようなもので、多分、「イエスさまの声」、或いは「聖霊の声」と言って良いのだろうと思います。ただし、この本に出会った頃の私はまだイエスさまのことを何も知りませんでしたし、この本にもイエスさまのことはほとんど何も書いてありません。ですから、その頃の私はもちろん聖霊を受けていませんでした。まだ聖霊を受けていない私がどうしてイエスさまの声を聞くことができたのか、私自身もまだよく分かっていません。それゆえ、この祈り会のメッセージのこれからの準備を通じて、この問題が分かるようになることも期待しています。そんな期待を持ちながら、これからしばらくこのシリーズを続けてみたいと思います。

「幸せな王子」のつばめは幸せだったか?
 さて私たちは様々な思い、願望の中で、この世を生きています。それらの願望を少し乱暴ですが大きく二つに分けるなら、心の表面に近い場所にある願望と、心の奥深い場所にある願望ということになるでしょう。そして、この『自己愛とエゴイズム』という本では、その二つを見分けるためのヒントがいろいろと書いてあります。ごく簡単に言ってしまうと、奥深い場所にある願望を追い求めることが「自己愛」で、表面に近いところにある願望を追い求めることが「エゴイズム」です。

 「自己愛」、すなわち本来あるべき自分を愛することとは、奥深い自分に忠実であることだと、この本は説きます。ただし、奥深い自分に忠実であることが、必ずしもその人の幸せにつながるとは限りません。そこに私たちが人生を生きる上での難しさがあります。
 例えば、この本で挙げている例の一つに、皆さんも良くご存知のオスカー・ワイルドの『幸せな王子』があります。この本から引用します。

(ここから引用)
 幸せとは一体何であろうか。・・・あのつばめは幸せであったといえるであろうか。暖かいエジプトに行こうと思って、王子様の銅像の足下でひと休みしていたところ、「つばめさん、つばめさん」と王子様に呼ばれ、窓から見えるお母さんが大変な病気の娘のために薬と食べ物を買うお金がないので、自分の刀のルビーを取って飛んで持っていってくれるようにつばめは頼まれる。しかし、エジプトはつばめの幸せであった。仲間が向こうで待ってくれているし、イギリスの秋は寒いので、つばめは断る。でも、「つばめさん・・・」と言われて、「それでは、今夜だけね」。

 でも、あくる日また、肺結核にかかっている貧しい大学院生に、目のダイヤモンドを持って行ってあげるように言われる。その翌日もまた、雨の中でマッチを売っている可哀相な女の子に、もう一個の目のダイヤモンドを持って行ってあげるように頼まれて・・・。
 ところで、このつばめは、私たちのことだと思う。奥深い自分はその王子様にあたる。私たちは、仲間、健康、出世、まともな理想、つまり自分の幸せだと思われるエジプトを犠牲にするように頼まれることもある。身体をこわした親とか、不幸に遭った友人とかいうような出来事は、私たちのエジプトを妨げる奥深い自分からの呼びかけになりうる。

 でも、この童話のつばめは、そのあと町中を飛んで困っている子供たちの上に王子様のマントからの金を一枚ずつ落としながらだんだん寒さに弱ってゆく。最後の一枚を配ってから戻ってきて、子供たちが皆大変喜んでくれたことを報告した。「今度こそエジプトに行ってらっしゃい。本当に有難う」。「いや、もう帰ってこられない旅に出かける」と言って、王子様にキスをして、その足下でつばめは静かに死んだのである。

 可哀相といってよいのか、羨ましいといったほうがよいのであろうか。つまり、そのつばめは奥深い自分に忠実であったために、幸せだと思ったエジプトを犠牲にしたので、確かに、自己愛は十分にあったといえるけれど、その自己愛ははたして、彼女の幸せであったのか、あるいは不幸であったのか。いずれであっただろうか。

(引用ここまで、p.59-60、聞きやすくするために一部を改変)

どうしたらイエスさまに出会っていただけるか?

 この『自己愛とエゴイズム』という本は、イエズス会の宣教師が書いた本でありながら、「聖書を読みなさい」とも「イエス・キリストを信じなさい」とも一言も書いていません。そればかりか聖書に関することもほとんど書いてありません。ほんのちょっと「一粒の麦」のことに触れている程度です。でも、それだからこそ、教会に導かれる前の私の心の琴線に触れたのかもしれません。「聖書を読みなさい」とか「イエス・キリストを信じなさい」とか書かれていたら警戒感を持ってしまっていたかもしれません。

 しかし、そうは言っても私たちはイエスさまに出会わない限り、何が本当の幸せなのかを知ることはできません。イエスさまに出会わずにいくら色々と思いを巡らしたところで、結論に導かれることはないでしょう。ですから、私たちは何とかして周囲の方々がイエスさまとお会いできるように、この本のような工夫をしたいと思います。どうしたらイエスさまに出会っていただけるでしょうか?

 8/6に予定している俳句の会は、その工夫の一つとして意外と良いかもしれません。私はこれまで俳句を作ったことがありませんでした。しかし、今回与えられた季語の蝉、花火などで俳句を作ることを考えていて、自分はこれらの季語と人生とを重ね合わせようとする傾向があることに気付きました。例えば、蝉にもそれぞれの蝉の生き方があるな、などというようなことを思っています。そんな風に俳句がそれぞれの人の生き方に関わっているとしたら、イエスさまと出会うことへとお導きするための一つのきっかけになるかもしれません。そんな風に思いました。

おわりに
 これから祈祷会ではしばらくの間、この『自己愛とエゴイズム』をガイドブックにして、「奥深い自分に忠実であること」について考え、そして、どうしたらその奥深い自分に導かれてイエスさまと出会うことができるかについて、ご一緒に考えて行きたいと願っています。

 この学びが祝されますように、お祈りしたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

「あなたがたは何を求めているのですか。」(ヨハネ1:38)
「来なさい。そうすれば分かります。」(ヨハネ1:39)
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