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一粒のタイル2

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

神に向かってうめき、そして癒される(2021.10.21 祈り会)

2021-10-25 09:05:16 | 祈り会メッセージ
2021年10月21日祈り会メッセージ
『神に向かってうめき、そして癒される』
【詩篇5篇】

詩篇5:1 私のことばに耳を傾けてください。よ。私のうめきを聞き取ってください。
2 私の叫ぶ声を耳に留めてください。私の王、私の神、私はあなたに祈っています。

 前半では、岩手県の陸前高田市にある「漂流ポスト」を題材にした新しいドキュメンタリー映画(『歩きはじめる言葉たち』)が最近公開された話をしました。この漂流ポストには、震災などで亡くなった人に向けた手紙が送られます。肉親や近しい人を突然亡くした人々は、誰にも聞いてもらえない悲しみを抱え込んで苦しんでいます。東日本大震災の場合は、皆が同じ悲しみを抱えているので、なかなか話すことができない、ということです。そのような、どこにも持って行き場のない悲しみ・苦しみを漂流ポストは受け留めます。

 そういう、どこにも持って行き場のない悲しみ・苦しみを抱えている人は、今の日本に数多くいることと思います。ここ数年、急速に増えている豪雨によって洪水や土砂崩れの被害に遭って家族や知人を亡くした方々がたくさんいます。新型コロナウイルスによっても多くの方が亡くなりました。親しい人を亡くしていなくても、緊急事態宣言によって外出や外での娯楽が制限されて、鬱々とした日々を過ごさなければなりませんでした。人々が外での飲食や買い物、旅行をしなくなって経営が苦しくなったお店や宿泊施設もたくさんあります。今や多くの人々が重くてつらい苦しみ・悲しみを抱えています。

 ちょうど今、静岡では参議院選挙と衆議院選挙の両方が行われていますから、この思いを政治家に託して、少しでも良い方向に向かうことを願っている人も多いことでしょう。私も選挙では棄権はせずに必ず投票します。今の状況を変えてもらうために票を投じることは大切なことです。でも、投票によって心の奥底にある悲しみや苦しみが癒されるわけではありません。心の奥底までを癒すことができるのは神様だけです。

 神様に向けて心のうめきを注ぎ出すなら、神様は聞いて下さり、癒して下さいます。
 前半では詩篇22篇1節を開きました。

詩篇22:1 わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。私を救わず遠く離れておられるのですか。私のうめきのことばにもかかわらず。

 自分が苦しみのどん底にある時、自分は神様に見捨てられている、そんな風に感じることもあります。でも神様に向かってうめき続けるなら、次第に心が癒されていくことを感じます。後半は、詩篇5篇を開いて、この恵みに感謝したいと思います。もう一度詩篇5篇の1節と2節をお読みします。

詩篇5:1 私のことばに耳を傾けてください。よ。私のうめきを聞き取ってください。2 私の叫ぶ声を耳に留めてください。私の王、私の神、私はあなたに祈っています。

 まずは、「主よ」と呼び掛けることができるお方がいることに感謝したいと思います。「私の王、私の神」と呼び掛けることができるお方がいる幸いに心一杯感謝したいと思います。クリスチャンでなくても日本人の多くは苦しい時に神々に向かって祈ります。でも、それらの神々は本当にいるのかいないのか、定かではない神々です。

 一方、私たちの主は、いつも私たちと共にいて下さるということが聖書にはっきりと書かれていて、期待を込めて呼び掛けることができるお方です。祈りはすぐには応えられないかもしれませんが、主は私の祈りにいつかは必ず応えて下さる方だと、期待を込めて、祈ることができます。私の祈りはうめきの祈りです。このうめきの祈りを聞いて下さるお方がいることの幸いに感謝したいと思います。

 そして私たちは、神様に向かってうめくことで、次第に心が癒されることを感じます。どうして癒されるんでしょうか?とても不思議です。不思議ですが、理由の一つは、主イエス様もまた十字架で苦しまれたからではないでしょうか。イエス様は十字架で、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と、絶望的な叫び声を上げました。イエス様の苦しみは今の私の苦しみよりももっと大きなものです。そのイエス様の苦しみに心を寄せることで、私の苦しみは癒されます。イエス様は今の私よりももっと苦しんでおられたことを思うなら、不思議な癒しを感じます。そうして、少しずつ前向きになることができます。3節、

3 よ、朝明けに私の声を聞いてください。朝明けに私はあなたの御前に備えをし、仰ぎ望みます。

 「朝明けに」ということばに前向きさが表れていると感じます。少し前までは暗闇の中でうめいていましたが、朝明けに祈ることができる前向きさを主は与えて下さいます。そうして主を仰ぎ望むことで、うなだれていた私は顔を上げることができます。次に5節、

5 誇り高ぶる者たちは御目の前に立つことはできません。あなたは不法を行う者をすべて憎まれます。

 主に背いている人たちは、この恵みをいただけません。しかし7節、

7 しかし私はあなたの豊かな恵みによってあなたの家に行き、あなたを恐れつつ、あなたの聖なる宮に向かってひれ伏します。

 あなたの家、聖なる宮とは幕屋であり、神殿であり、教会です。暗闇の中でうめいていた私は、主にうめきを聞いていただくことで癒されて暗闇を脱し、朝明けに祈ることができるようになり、主を仰いで顔を上げることができるようになりました。そして今や外に出て主の家に行くことができるほどに回復しました。それは主イエス・キリストの十字架の死からの復活と重ねることもできるでしょう。イエス様が復活したように、私たちもうめきのどん底から復活します。そして11節、

11 どうかあなたに身を避ける者が、みな喜び、とこしえまでも喜び歌いますように。あなたが彼らをかばってくださり、御名を愛する者たちがあなたを誇りますように。

 今や自分のことだけでなく、他の人々のことも考えることができます。自分の苦しみを脱して、他の皆の喜びを考えることができるほどの回復が与えられました。そうして最後に主を賛美して終わります。12節、

12 よ、まことにあなたは正しい者を祝福し、大盾のようにいつくしみでおおってくださいます。

 自分が苦しみの中でうめく時、主イエス様はもっと苦しい中でうめいています。そのことで私たちは癒されます。岩手県の陸前高田市にある漂流ポストは、多くの人が持って行き場のない悲しみや苦しみを抱えていることを教えてくれています。神様はその人々のうめきを聞き、癒して下さり、前向きな心に変えて下さるお方です。この恵みに心一杯、感謝したいと思います。
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弱い者こそ強い礎石になる(2021.10.14 祈り会)

2021-10-18 05:52:44 | 祈り会メッセージ
2021年10月14日祈り会メッセージ
『弱い者こそ強い礎石になる』
【Ⅰペテロ2:4~8】

Ⅰペテロ2:4 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが神には選ばれた、尊い生ける石です。
5 あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。
6 聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしはシオンに、選ばれた石、尊い要石を据える。この方に信頼する者は決して失望させられることがない。」
7 したがってこの石は、信じているあなたがたには尊いものですが、信じていない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった」のであり、
8 それは「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからであり、また、そうなるように定められていたのです。

 きょうの箇所では、まず4節で、「主のもとに来なさい」とペテロは手紙の読者に呼び掛けています。そして、主イエスが人には捨てられたが神には選ばれた、尊い生ける石であることを伝えています。そして、その上で読者自身も生ける石となるように勧めています。この石は霊の家の基礎となる石です。それはつまり、教会の基礎となる石であると言って良いでしょう。要石はイエス様であり、私たちもまた揺るがない強固な教会を建て上げるための基礎の石になります。

 このように私たち自身も教会の基礎の石になるように招かれている今日の箇所は、この手紙の前の方に書かれていることを踏まえて読むべきであろうと思います。

 まず教会の基礎の石になる私たちは、朽ちないものでなければなりません。1章23節でペテロはこう書いています。

1:23 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。

 私たちは朽ちない、いつまでも残る神のことばによって信仰に導かれて新しく生まれ、永遠のいのちが与えられました。永遠のいのちが与えられた私たちは草や花のようにしおれることはありません。だからこそ、教会の霊的な基礎の石になることができるのですね。

 ですから私たちは、2章1節にあるように、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てなければなりません。そのような悪いものを持ったままでは、教会の基礎の石になることはできません。仮になったとしても、すぐに朽ちて崩れてしまうでしょう。堅固な基礎の石になるためには、悪いものは捨てなければなりません。

 そして、ここがキリスト教の奥深いところだと思うのですが、堅固な基礎の石になるためには、弱い者でなければならないのですね。人の中で最も弱い者は、生まれたばかりの乳飲み子でしょう。ペテロは私たちに、この乳飲み子のようになることを勧めています。2章2節ですね。

2:2 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。

 霊の乳をいただくには、弱い者でなければならないとも、言えるのでしょう。自分の力で生きていけると思っている者に神様は霊の乳を与えることはしないでしょう。神様に力を与えていただかなければ生きていけないと神様にすがる者に、神様は霊の乳を与えて下さいます。そうして霊の乳によって成長した者が教会の霊的な基礎の石になります。

 弱い者でなければ教会の礎になれないのは、弱い者こそが強いからですね。パウロが第二コリントに書いている通りです。パウロは第二コリント12章9節で次のように書いています。

Ⅱコリント12:9 しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

 自分は強いと思っていると、自分で頑張ってしまいます。でも、どんなに自分が強かったとしても、しょせんは人間ですから、その強さは知れています。神様の強さには遠く及びません。それなのに、つい私たちは自分で頑張ってしまおうとしまいます。すると神様は力を与えて下さいません。神様の力は弱さのうちに完全に現れますから、自分の弱さを認めて、パウロのように自分の弱さをむしろ大いに喜んで誇りたいと思います。

 自分は生まれたばかりの乳飲み子のように弱い者であることを認めれば、神様は憐れんで下さり、大きな力を与えて下さいます。それでこそ、私たちは教会の基礎の石になることができるのですね。強く堅固な教会の基礎の石になるためには、生まればかりの乳飲み子のようでなければならない、この逆説にキリスト教の奥深さを感じます。

 今年も段々とクリスマスが近づいて来ていますが、イエス様もまた最初は乳飲み子として、この世にお生まれになりました。母のマリアは身重なのにベツレヘムまで旅をしなければならず、また宿屋に泊まることもできないで、イエス様は家畜小屋で生まれました。また、ヘロデ王によって殺される心配もありました。イエス様の周りは危険で一杯でした。イエス様は最初から最も弱い者として生まれ、命を落とす危険もありました。二千年前の昔のことですから、ベツレヘムに旅することなく普通に生まれていても、またヘロデ王に狙われなくても、病気で死ぬ危険は十分にありました。でも、神様が守って下さり、大人に成長してペテロを始めとする弟子たちを育てて、教会の要石となりました。第一ペテロ2章6節、

6 聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしはシオンに、選ばれた石、尊い要石を据える。この方に信頼する者は決して失望させられることがない。」

 イエス様は弱い者こそが強いことを、ご自身の身をもって示して下さいました。ですから、イエス様に信頼する私たちは決して失望させられることはありません。続いて7節と8節、

7 したがってこの石は、信じているあなたがたには尊いものですが、信じていない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった」のであり、
8 それは「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからであり、また、そうなるように定められていたのです。

 ペテロはこう書いていますが、信じていない人々を見捨てているわけではありません。少し先の12節には、こうも書いています。

12 異邦人の中にあって立派にふるまいなさい。そうすれば、彼らがあなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたの立派な行いを目にして、神の訪れの日に神をあがめるようになります。

 「立派にふるまいなさい」を実践しようとすると、ついまた悪い癖が出て、自分で頑張って立派にふるまおうとしてしまうかもしれません。でも、クリスチャンが立派にふるまうということはパウロが書いたように、弱さを誇ることだということを覚えたいと思います。困難な目に遭っている時には、キリストの力が完全に現れるように、弱さを誇りたいと思います。そうして私たちは弱い者こそが強いことを、この地域の中で示して行きたいと思います。

 お祈りいたしましょう。
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「きれいごと」を「きよいこと」にする霊の乳(2021.10.7 祈り会)

2021-10-11 13:03:45 | 祈り会メッセージ
2021年10月7日祈り会メッセージ
『「きれいごと」を「きよいこと」にする霊の乳』
【Ⅰペテロ2:1~3】

Ⅰペテロ2:1 ですからあなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、
2 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。
3 あなたがたは、主がいつくしみ深い方であることを、確かに味わいました。

 木曜夜の祈り会では今月も引き続き、ペテロの手紙第一を開きます。まず2章1節をお読みします。

Ⅰペテロ2:1 ですからあなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、

 きょうのこのメッセージを準備する中で、「聖書」或いは「クリスチャン」は、世間の人々からはどんな風に思われているんだろうかということを、ふと考えました。「聖書って、きれいごとばかりが書いてある書物だな」とか、「クリスチャンって、きれいごとばかり言っている人たちだな」と思われることもあるかもしれないなと思いました。

 そういう目で今の第一ペテロ2章1節を見ると、「あなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて」を読むと、確かにきれいごとが書かれているという気がしないでもありません。

 実は「きれいごと」という言葉は、今放送中の朝ドラの『おかえりモネ』の中で、ちょっとしたキーワードになっています。ヒロインのモネは、人の役に立ちたいという気持ちを強く持っている女性です。特に地元の気仙沼の人の役に立ちたいと思い、東京から故郷の気仙沼に戻って来ました。

 そうして、戻って来た時に、人の役に立ちたいとモネが思っていることを、「きれいごとにしか聞こえない」と、幼なじみに言われてしまいます。そして、もう一度、今度は年下の中学生の少女からも、「きれいごとっぽい」と言われてしまいます。それでふと、聖書も、世間の人から見れば、きれいごとが書いてある書物だと思われているかもしれないと思いました。

 確かに聖書には、きれいなことが書いてあります。でも、そのきれいなことは「きよいこと」であって、「きれいごと」ではありません。「きれいごと」と「きよいこと」とはぜんぜん違います。

 では、どう違うのでしょうか。それは、2節にヒントがあるように思います。

2 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。

 私たちは霊の乳、すなわち聖霊によってきよめられます。霊の乳によって、きよめられるなら、「きれいごと」ではなくなります。神様はきよいお方です。ペテロの手紙も、ペテロという人間が書いたことばであっても、聖霊を通して語られたことばを手紙に書いたものですから、神様のきよいことばです。

 聖書に書いてあることは、きよい神様のことばですから、聖書に書いてあることは「きよいこと」であって、「きれいごと」ではありません。つまり神様に関わることは皆、「きれいごと」ではなくて、「きよいこと」です。

 でも、心に様々な痛みや、闇を抱えている人から見ると、「きよいこと」も「きれいごと」に見えるのかもしれません。今の朝ドラの『おかえりモネ』で、モネが人の役に立ちたいと思っていることを、「きれいごとにしか聞こえない」と言った人も、心の痛みや深い悩みを抱えている人です。そのような悩みを抱えてもがいている者から見ると、人の役に立ちたいと思っている者は確かにきれいごとを言っているように見えるのだろうなと思います。

 心の中に闇を抱えていると、どんなに素晴らしい行いも、善い行いも、みんな「きれいごと」に見えてしまうということはあるでしょう。イエス様がおっしゃっていることも皆、「きれいごと」にしか聞こえないでしょう。私もイエス様を信じる前は、そういうイメージを持っていたと思います。

 しかし、イエス様の十字架は、「きれいごと」を遥かに超えています。イエス様でなくても、溺れている人を助けたり、火事の現場に入って行ったりして、命を落とす方々がいます。そういう人々の行動を私たちは決して「きれいごと」とは言いません。まして、イエス様は神の御子です。神の御子であるイエス様が闇の中で罪に支配されていた私たちを十字架によって、救い出して下さいました。そうして、霊の乳を与えることで私たちをきよめて下さいます。

 もう一度、第一ペテロ2章1節をお読みします。

Ⅰペテロ2:1 ですからあなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、

 もし、私たちがまだイエス様の十字架を知らずにいて、聖霊も受けていないなら、この第一ペテロ2:1を読むと、ここには「きれいごと」が書いてあると思うかもしれません。でも、イエス様を信じて聖霊を受けた私たちは、このみことばを決して「きれいごと」とは思いません。

 そのような悪いものを捨てて、きよい者になりたいと思います。イエス様は十字架の死からよみがえって、悪の支配に打ち勝ち、私たちに霊の乳を与えて下さいましたから、私たちにはきよいイエス様のように変えられたいという思いが与えられています。
 もう一度2節、

2 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。

 そうして、この霊の乳を与えて下さる主がいつくしみ深い方であることを、確かに味わいます。3節ですね。

3 あなたがたは、主がいつくしみ深い方であることを、確かに味わいました。

 私たちは子供から大人になる過程で、人の世のドロドロした汚い面を知るようになります。しかし、神様のきよさを知ることで、もう一度、そういうドロドロに汚されていない子供のような純粋な者へと変えられる希望があることは、何と素晴らしいことだろうかと思います。ですから、多くの方々に、このことの恵みを知っていただきたいと思います。

 イエス様を信じたことで私たちは新しく生まれ、神の子どもとされて、霊の乳をいただけるようになりました。この「霊の乳」という表現は、とても良いなあと感じます。聖霊とか御霊とか言うよりも、もっとずっと分かりやすく感じますね。

 イエス様を信じて新しく生まれた私たちは、もう一度、子どもからやり直すことができます。そうして、霊的に成長して、イエス様に似た者へと変えられて行きます。霊の乳が私たちを成長させて下さいます。

 この霊の乳の恵みがいただけていることを、心一杯感謝したいと思います。
 お祈りします。

2 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。
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永遠の神に新しくされる(2021.9.23 祈り会)

2021-09-26 12:23:00 | 祈り会メッセージ
2021年9月23日祈り会メッセージ
『永遠の神に新しくされる』
【イザヤ46:1~7、Ⅰペテロ1:22~25】

(前半)
 前半では、先日の敬老感謝礼拝の前半の聖書交読の箇所であったイザヤ46章を短く味わいたいと思います。

 ここには、ただの物のでしかない偶像と、私たちが信じる生ける神との対比が描かれています。まず1節と2節、

イザヤ46:1 「ベルはひざまずき、ネボはかがむ。彼らの像は獣と家畜に載せられる。あなたがたの荷物は、疲れた動物の重荷となって運ばれる。
2 彼らはともにかがみ、ひざまずく。重荷を解くこともできず、自分自身も捕らわれの身となって行く。

 ベルもネボも、バビロンで礼拝されていた偶像の神だそうです。イスラエルの南王国を滅亡させたバビロニアはその後、キュロス王が率いるペルシャに征服されてしまいました。このイザヤ46章は、その時に偶像が運び出される時の情景が描かれているとのことです。

 ベルもネボも家畜に載せられて運び出されました。彼らはただ家畜を疲れさせるだけの重荷でしかありませんでした。家畜に縛られてもその縄を解くこともできずに、捕らわれの身となって運び出されて行きました。

 先に6節と7節を見ておきます。まず6節、

6 袋から金を惜しげなく出し、銀を天秤で量る者たちは、金細工人を雇って、それで神を造り、ひざまずいては、これを拝む。

 先週開いた第一ペテロの1章には、金や銀は朽ちると書いてありましたね。純度の高い金は朽ちませんが、昔の金は純度が低くて朽ちたようです。偶像を礼拝する者たちは、そういう朽ちる物を使って偶像を造って拝んでいました。7節、

7 彼らはこれを肩に担いで運び、それがあったところに安置すると、それはそこに立ったままである。これはその場所から動かない。これに叫んでも答えず、苦しみから救ってもくれない。

 偶像は自分で動けません。運ばれた場所に置かれれば、そこから動きません。偶像に叫んでも、偶像は人々を苦しみから救ってくれはしません。しかし、私たちの主は違います。3節、

3 ヤコブの家よ、わたしに聞け。イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。

 偶像は家畜に運ばれるだけの「物」であり、人々を救うことなどできません。しかし、私たちの主は私たちを運んで下さり、救って下さるお方です。主は私たちが生まれる前から私たちを運んで下さり、最善の方向へ連れて来て下さいました。続いて4節、

4 あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。

 主は、私たちが年をとっても、私たちを背負って運んで下さいます。白髪になっても、背負って救い出して下さいます。

 私が初めてイザヤ書のこの箇所を読んだのは、まだ高津教会の一般の信徒の時でした。その頃の私の髪はまだそんなに白くはありませんでした。でも、今は大部分が白髪になってしまいました。その私の黒髪が白髪に変わって行く間中も、主はずっと私を守って下さいました。川崎の高津から横浜の神学院に移り、そして、京都、姫路、沼津と転々として今は静岡にいます。その間、ずっと主は私を背負って来て下さったんだなと改めて感謝しています。

 主はイエス様を信じる私たちはもちろんのこと、今はまだ信じていない方々も主は運んで下さっています。主はそれほど憐み深くて大きなお方です。5節、

5 わたしをだれになぞらえて比べ、わたしをだれと並べて、なぞらえるのか。

 主は誰とも比べられない絶対的なお方です。誰とも並べることはできません。すべてのものはやがては朽ち果てますが、永遠の中におられる主は、朽ちることはありません。だから私たちが生まれる前から、そして白髪になるまで、さらには私たちが地上生涯を終えてからも、ずっと寄り添って下さっています。そのような素晴らしい主に守られていることに、心から感謝したいと思います。

(後半)

 後半はいつものように第一ペテロを開きます。きょうは1章の最後の22節から25節までです。

Ⅰペテロ1:22 あなたがたは真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、きよい心で互いに熱く愛し合いなさい。
23 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。
24 「人はみな草のよう。その栄えはみな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。
25 しかし、主のことばは永遠に立つ」とあるからです。これが、あなたがたに福音として宣べ伝えられたことばです。

 まず22節、

22 あなたがたは真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、きよい心で互いに熱く愛し合いなさい。

 いま私たちは礼拝でヨハネの福音書のイエス様のことばに耳を傾けています。イエス様は何度も何度の「互いに愛し合いなさい」とおっしゃっています。この礼拝メッセージで引用することの多い、ヨハネの手紙第一でもヨハネは「互いに愛し合いなさい」と書いています。そして、この第一ペテロで、ペテロもまた「互いに愛し合いなさい」と書いています。「きよい心で互いに熱く愛し合いなさい」と書いています。それは私たちが真理に従うことによって、聖霊を受けて魂が聖められて、偽りのない兄弟愛を抱くようになったからです。さらにはパウロも、ローマ人への手紙などで互いに愛し合うべきことを書いていますね。

ローマ12:10 兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。

 このように、イエス様がおっしゃった「互いに愛しなさい」ということばは、ヨハネもペテロもパウロも手紙に書いていますから、本当に基本中の基本のことだということが分かりますね。続いて23節、

23 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。

 私たちは聖霊を受けて、新しく生まれました。それは朽ちる種からではなく、朽ちない神のことばによって新しくされました。24節と25節、

24 「人はみな草のよう。その栄えはみな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。
25 しかし、主のことばは永遠に立つ」とあるからです。これが、あなたがたに福音として宣べ伝えられたことばです。

 このみことばはイザヤ書40章からの引用ですね。先ほど前半にイザヤ書46章を開いた時、バビロンがペルシャに滅ぼされたことを話しました。

 そのペルシャも、その後はギリシャに征服されて、ギリシャはまたローマに征服されました。人の世の栄えは決して長続きしません。みな草のようです。草はしおれ、花は散ります。

 しかし、主のことばは永遠に立ちます。この永遠の中の主のことばによって私たちは新しくされて、私たちにもまた永遠の命が与えられました。

 ですから私たちは、どんなに世の中が変化しようとも、永遠の主のことばに支えられて、日々を生きて行くことができます。

ヘブル 13:8 イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。

 ですから、変化が激しい現代においても世の中に翻弄されることなく、変わることがないイエス様に導かれながら私たちは信仰の道を歩むことができます。

 私たちは、この素晴らしい恵みを何とかもっと多くの方々に伝えたいと思います。でも、今はそれがとても難しい時代だと感じています。それは、人々の多くがスマホを偶像のように崇拝しているように感じるからです。もはや多くの人々がスマホなしでは生きて行けなくなっています。

 スマホはとても便利で役に立つ道具です。お得な買い物情報や、知っていると便利な知識を提供してくれ、また常に友だちとのやり取りもできますから、寂しさを紛らすこともできるかもしれません。でも、神様の恵みは、それらのことをすべて手放したところにあります。世の中の情報や友だち関係からでは得られないことを与えて下さるのが神様です。スマホに依存し過ぎている現代人は、そういうことに益々気付きにくくなるのではないかと危惧します。

 でも、そんなことは言っていられませんね。日本でスマホのiPhoneが発売されたのが2008年ですから、もう13年になります。ということは、今の中学1年生は生まれた時から既にスマホがあったことになります。物心がつくのが3歳ぐらいだとすれば、今の中2や中3も物心が付いた時には既にスマホがあったことになります。これからは時が経てば経つほど生まれた時にはスマホが身近にあったスマホ・ネイティブの若者たちが増えて行きます。

 そういう若者向けへの情報の発信も考えていかなければなりません。とは言え、50歳、60歳を越えた私たちにはなかなか難しいことですから、もう少し下の世代に何とか引き継いでもらって、私たちよりは下の世代に、さらに下の世代への引継ぎを託す必要があるのだろうな、とそんなことを思わされています。

 そんなことを考えながら、きょうの夕方は安倍川の堤防の上を散歩しました。今の安倍川は水が涸れた冬とは違って、かなり水量があり、なかなか良い感じで流れています。こういう教会の近所で良いなあと感じる風景の写真をたくさんホームページやブログに使うのも一つの手段かなと示されました。スマホを手放せない現代人には、もっと写真を多用すべきなのかなあと思わされています。

 そのようなことを、助け主の聖霊に教えていただきながら、永遠の中におられる神様のことを、スマホを手放すことができない現代の人々にお伝えしできたらと思います。

 お祈りいたしましょう。

23 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。
24 「人はみな草のよう。その栄えはみな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。
25 しかし、主のことばは永遠に立つ」とあるからです。これが、あなたがたに福音として宣べ伝えられたことばです。
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キリスト教の精髄(2021.9.16 祈り会)

2021-09-20 08:06:04 | 祈り会メッセージ
2021年9月16日祈り会メッセージ
『キリスト教の精髄』
【Ⅰペテロ1:17~21】

17 また、人をそれぞれのわざにしたがって公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、この世に寄留している時を、恐れつつ過ごしなさい。
18 ご存じのように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
19 傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。
20 キリストは、世界の基が据えられる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために現れてくださいました。
21 あなたがたは、キリストを死者の中からよみがえらせて栄光を与えられた神を、キリストによって信じる者です。ですから、あなたがたの信仰と希望は神にかかっています。

 きょうの箇所は、5つの節という短い中にキリスト教の教えの精髄がコンパクトに納まっている箇所だと感じます。それゆえ、この箇所によって信仰の基本をしっかりと確認できます。私たちクリスチャンはキリスト教の教えがどのようなものかは、分かっています。でも、信仰生活を送る中では正しい信仰から微妙にずれることもあるでしょう。その微妙なズレを正してくれる、そんな箇所であるように感じます。

 いまメジャーリーグのエンゼルスの大谷選手がスランプに陥っています。ホームランが何試合も出ていませんし、ヒットも出なくなっています。何かが微妙にずれているようです。回転の軸がずれているのでしょうか?私たちの信仰も同じです。信仰生活を送っている間に、自分でも気づかないうちに微妙に信仰の軸がずれるということは大いに有り得ることです。その信仰の軸のずれを正すのに、きょうの第一ペテロの箇所は有効であろうと思います。

 きょうの箇所の17節から21節は一つの段落になっています。段落の始めは一文字分引っ込んでいます。17節と22節の始めが一文字分引っ込んでいますから、17節から21節までが一つの段落です。まず17節、

17 また、人をそれぞれのわざにしたがって公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、この世に寄留している時を、恐れつつ過ごしなさい。

 ペテロはこの17節の最後で「恐れつつ過ごしなさい」と書いています。どうして「恐れつつ過ごしなさい」なのかは、21節までを読んでから話したいと思いますから、次に進みます。18節と19節、

18 ご存じのように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
19 傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

 私たちは先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されました。贖うとは、代価を支払って買い戻すということです。その買い戻しの代価はキリストの尊い血でした。金や銀ではなくて十字架で流されたイエス様の尊い血でした。

 銀は長い間には変色して劣化します。金は純度が高ければ劣化することはありませんから、ペテロの時代には純度が低かったのだろうかと思います。それでも、どんなに純度が高くて高価な金であっても、イエス様の血よりも高価で尊いものはありません。

 神様はイザヤ書で、私たちのことを「高価で尊い」とおっしゃって下さっていますね。

イザヤ 43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにする。

 神様は私たちのことを「高価で尊い」とおっしゃって下さっていますが、でも私たちは先祖伝来のむなしい生き方をしているような者たちでした。そんな私たちを、神様はイエス様の血という、正に本当に高価で尊い代価を支払って罪の中にいる私たちを買い戻して下さいました。

 それは、私たちが神を信じたからです。20節、

20 キリストは、世界の基が据えられる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために現れてくださいました。

 イエス様はヨセフとマリアの子として、この地上に生まれて下さいました。そうして人々に、父なる神について説き明かして下さいました。それだけでなく、キリストは十字架に掛かって死に、三日目によみがえりました。そのキリストをよみがえらせた神を私たちは復活したキリストによって信じます。21節です。

21 あなたがたは、キリストを死者の中からよみがえらせて栄光を与えられた神を、キリストによって信じる者です。ですから、あなたがたの信仰と希望は神にかかっています。

 この21節が、信仰の軸と言えるでしょう。私たちはイエス様を信じるとか、復活を信じるとか言いますが、それだと少し曖昧な気がします。曖昧だと信仰の軸が微妙にずれていってしまうことにつながりかねません。私たちは、キリストを死者の中からよみがえらせた神を信じます。

 それはつまり、神は全能のお方であることもまた信じるということではないでしょうか。神には不可能なことはない。死んだ者さえ生き返らせることができる。それを神は十字架で死んだキリストよみがえらせることで示しました。

 神を信じるには、やはり何らかの“しるし”が必要です。旧約の時代の人々も、しるしを求めました。モーセやギデオンは、神にしかできない奇跡を見せてもらうことで、それが全能の神が共にいて下さるという心強い励ましになりました。そうしてその心強さがありましたから、神のために働くことができました。そのしるしという意味ではキリストの復活は、最高のしるしですね。このしるしによって私たちは全能の神が共にいて下さるという心強い励ましを受けて、信仰の道を歩み続けることができます。

 ですから、イエス・キリストの十字架の死と復活は、いくつもの重要な目的が重なっているのだなと改めて思います。

 一つは、最初話した通り、最初に話した通り、十字架によって流された尊い血の代価を支払うことで罪の中にいた私たちを買い戻すという目的、そしてまた今話した通り、神は死んだ者をも生き返らせることができる全能者であることの“しるし”を示すという目的、さらには尊い血によって私たちをきよい者へと新しく生まれ変わらせるという目的もあります。そうしてキリストの尊い血によってきよめられた私たちは聖霊を内に迎え入れることができます。罪に汚れたままではキリストの霊である聖霊に住んでいただくわけにはいきません。キリストの血は私たちの内に聖霊が内住するようにして下さり、私たちはキリストに似た者にされていきます。そうしてイエス様の証人となって、周囲の方々も神を信じるように働きます。或いはまた、キリストの死と復活は、私たちが地上生涯を終えた後も復活の希望を持って生きることができるようにするという目的もあります。キリストと同じように私たちもまた復活するという希望が与えられています。

 このように、イエス・キリストはいくつもの目的ある中で十字架に掛けられ、神によってよみがえりました。これら、いくつもの目的があるから、信仰の軸が安定するのでしょうね。一つの目的だけであったら私たちの信仰はぐらぐら揺らぐかもしれませんが、このように何重もの目的がありますから、私たちの信仰は安定します。

 さて、これらを踏まえて、最初の17節を改めて見てみたいと思います。17節、

1:17 また、人をそれぞれのわざにしたがって公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、この世に寄留している時を、恐れつつ過ごしなさい。

 きょう読んだ部分や、前回、前々回までのことなども踏まえてこの17節を読むなら、ここに「父がさばかれる方である」と書かれていることには、私たちの生き方が周囲の人々のさばきにも関わっていることをペテロは意識させようとしている、ということを感じます。

 私たちは選ばれた者として先に救われて、他の方々を救いに導く役割を担っています。単に自分が救われれば良いのではありません。終りの時には、イエス・キリストを信じる者も信じない者も、誰もが公平にさばきを受けます。その時に一人でも多くの方が信じている側にいることができるようにすることが、私たちに期待されていることでしょう。そして、例え信じるに至らなくても、神と共に生きることが正しい生き方であることを周囲に示すことができるだけでも意味があるんだ、ということをペテロは書いているように思います。

 それは、この第一ペテロのシリーズを始めた時に最初に見た、3章の19節と20節に、このようにあるからです。

19 その霊においてキリストは、捕らわれている霊たちのところに行って宣言されました。
20 かつてノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たちにです。その箱舟に入ったわずかの人たち、すなわち八人は、水を通って救われました。

 キリストはよみに下っていって、ノアの時代に神に従わずに水に流された者たちの霊に福音を宣べ伝えました。この者たちはノアたちは正しいゆえに救われたということを知っていました。これを知っているのと知らないのとでは、ぜんぜん違うでしょう。なぜなら知っていれば自分たちがノアのようではなかったことを悔い改めることができるからです。

 ですから、私たちも、たとえ周囲の人々がキリストを信じるに至らなかったとしても、正しい生き方を周囲に見せることができるなら、後にキリストがよみに下って福音を宣べ伝えた時に救われる希望があるのだと思います。

 それゆえ私たちは心を引き締め、身を慎んで、神を恐れつつ、この世を生きていきたいと思います。私たちは魂の救いを得たことにより、大きな喜びが与えられています。この喜びの中で神を恐れ、神を賛美し、神を礼拝して、正しい信仰生涯を歩みたいと思います。
 お祈りいたします。
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ですから、聖なる者となりなさい(2021.9.9 祈り会)

2021-09-11 12:34:37 | 祈り会メッセージ
2021年9月9日祈り会メッセージ
『ですから、聖なる者となりなさい』
【ペテロの手紙第一1:10~16】
 
10 この救いについては、あなたがたに対する恵みを預言した預言者たちも、熱心に尋ね求め、細かく調べました。
11 彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もって証ししたときに、だれを、そしてどの時を指して言われたのかを調べたのです。
12 彼らは、自分たちのためではなく、あなたがたのために奉仕しているのだという啓示を受けました。そして彼らが調べたことが今や、天から遣わされた聖霊により福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。御使いたちもそれをはっきり見たいと願っています。

13 ですから、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。
14 従順な子どもとなり、以前、無知であったときの欲望に従わず、
15 むしろ、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。
16 「あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである」と書いてあるからです。

 きょうの第一ペテロ1章の10節から16節までの箇所は、2つの段落からなっています。1文字分へこんでいる所が段落の始まりですから、10節からの段落と13節からの二つの段落があります。きょうは10節からの段落を前半、13節からの段落を後半と呼ぶことにします。

 この前半と後半を大まかに眺め見るなら、前半には旧約の時代の預言者たちのこととペンテコステの日以降の使徒たちのこと、それから天の御使いたちのことも書かれています。すごくスケールが大きいなあと思います。そうして、このスケールの大きな前半を受けて13節からの後半では、「ですから、あなたがは…聖なる者となりなさい」という私たち一人一人への語り掛けのことばが記されています。

 この二つの段落を読むと、本当に身を引き締めて慎み、聖なる者とされなければならないと思わされます。私の救いのためにはイエス様が十字架に掛かっただけでなく、預言者たちや使徒たちや天の御使いたちのすべてが関わっていたのだということを教えられると、それでもなお聖くなることを拒んでいた自分は、いかにうなじが固くて頑固な者であったかということを改めて思い知らされた気がします。きょうはこのことを分かち合いたいと思います。

 では先ずスケールの大きな前半から見て行きましょう。10節、

10 この救いについては、あなたがたに対する恵みを預言した預言者たちも、熱心に尋ね求め、細かく調べました。

 「この救い」とは、前の9節の「たましいの救い」のことです。この手紙の読者たち、そして私たちはこの魂の救いを得て、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに踊っています。この救いには旧約の時代の預言者たちも関わっていました。彼らは、この救いについて熱心に尋ね求め、細かく調べたとペテロを書きました。

 なるほどなあと思います。確かにそうだったんだろうなと思います。なぜならイザヤやエレミヤたちの預言のことばは、ちゃんと文字になって残っているからです。彼らは人々に向けて主のことばを声で伝えただけでなく文字にしてイザヤ書、エレミヤ書などを残しました。文字として残すに当たっては間違ったことを書いてはなりませんし、人々にできるだけ正確に伝わるように調べる必要があったんだろうなと、教えられました。私たちも教会の50周年記念誌とか70周年記念誌に文章を書く時には、後々まで残ることを考えて、不正確なことを書かないように、ちゃんと調べて書きますね。11節、

11 彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もって証ししたときに、だれを、そしてどの時を指して言われたのかを調べたのです。

 イザヤたち預言者は聖霊を受けて、聖霊を通して主のことばを預言しました。それは例えば、下の脚注の引照にもあるように、イザヤ書53章で語られたようなことばです。イザヤ書53章から短く引用します。

イザヤ53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。
7 彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。


 そして12節、

12 彼らは、自分たちのためではなく、あなたがたのために奉仕しているのだという啓示を受けました。そして彼らが調べたことが今や、天から遣わされた聖霊により福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。御使いたちもそれをはっきり見たいと願っています。

 この12節はヨエルの預言を考えると分かりやすそうです。ヨエルは、このように預言しましたね。

ヨエル2:28 その後、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る。
29 その日わたしは、男奴隷にも女奴隷にも、わたしの霊を注ぐ。

 そして、このヨエルの預言はペンテコステの日に聖霊を受けたペテロによってエルサレムの人々に語られました。このペテロのことばを聞いて多くの人々が悔い改めへと導かれてイエス・キリストを信じ、聖霊が降りました。この時、天の御使いたちの間では大きな喜びが起こりました。イエス様はルカの福音書で、このように言っておられましたね。

ルカ15:7「一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。」

 或いはまた、イエス様はこうも言っておられます。

10 「一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」

 このように、私たち一人一人の救いには旧約の時代の預言者たちや使徒の時代のペテロやヨハネやパウロたちが関わっており、救われた時には天の御使いたちが大喜びしました。天の父とイエス様だけでなく、預言者たち、使徒たち、御使いたちと、本当に大勢が私一人の救いに関わっていました。それゆえ「ですから」、とペテロは書きます。

13 ですから、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。
14 従順な子どもとなり、以前、無知であったときの欲望に従わず、
15 むしろ、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。
16 「あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである」と書いてあるからです。

 前半を受ける形でこの後半を読むなら、聖くされることに逆らう気持ちがまだ残っている私でも、聖くされなければならないという気持ちになります。後半だけだと、逆らいたくなる気持ちがまだ自分の内にあることを感じますが、前半が前提としてあるなら、素直に頭を垂れるべきと思わされます。

 恐らく悪魔がささやいているのだと思いますが、誰にでも少しぐらいは悪ぶりたいという気持ちがあるのではないでしょうか。特に中学生ぐらいの男子にはそういう傾向があると思います。私は少し遅れて高校生ぐらいの時にそういう時がありました。親や学校の先生の言うことを聞いて真面目にしているのは、ちょっとカッコ悪くて、少しぐらい悪ぶったほうがカッコいいと思う時期は、特に男子には誰にでもあると思います。そのように表立って悪ぶることは多くの場合、大人になればなくなって行きますが、やっぱり少しは残るんですね。そういう悪ぶりたい気持ちが残っていると、聖められることに、どうしても抵抗を感じます。

 イエス様がこんな私のために十字架に掛かって下さったんだと知った後でも、なお悪ぶりたがり、聖めを拒む気持ちが抜きがたくあります。本当に自分はどうしようもないなと思います。

 こんなどうしようもない自分の救いのためにイエス様が十字架に掛かって下さっただけでなく、旧約の時代の預言者たちも新約の時代の使徒たちも関わり、聖書にことばを残してくれて、それによって私が救われた時には天の御使いたちが大喜びしてくれたんだと思う時、素直にペテロのことばに従って頭を垂れ、聖なる者にして下さいと主に祈らなければならないと思わされます。

 ペテロがこれらのことを書き残して、私たちの時代にも伝えられたことを、心から感謝したいと思います。

13 ですから、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。
15 あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。
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魂の救いを得て喜び踊る私たち(2021.9.2 祈り会)

2021-09-03 09:36:11 | 祈り会メッセージ
2021年9月2日祈り会メッセージ
『魂の救いを得て喜び踊る私たち』
【Ⅰペテロ1:3~9】

 木曜夜の祈り会では先月から第一ペテロを開いています。1回目は1章の1節と2節のみことばを見て、その後、2回目は3章、3回目は4章のみことばに注目しました。時間の関係で、それらを振り返ることはしませんが、1章1節だけは簡単に振り返っておきたいと思います。1節1節、

Ⅰペテロ1:1 イエス・キリストの使徒ペテロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアに散って寄留している選ばれた人たち、

 この手紙は、ポントス・ガラテヤなどのクリスチャンに宛てられた手紙です。この地域は現在のトルコの北部に当たり、パウロが伝道旅行を行った地中海沿岸に近い地域とはだいぶ様相が違うようです。地中海沿岸では船による交易で比較的都会化されており、クリスチャンも少ないながらも、そこそこはいた地域です。しかし、このポントス・ガラテヤなどの地域はクリスチャンは少数者中の少数者であり、迫害も受けやすい、そういう地域だったようです。迫害の恐怖に耐えながら信仰生活を守っていた少数者のクリスチャン宛てにペテロは励ましの手紙を送りました。

 きょうは3節から見て行きます。3節と4節、

3 私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。
4 また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。

 この2つの節を読むと、イエス様が天から地上に遣わされてペテロやヨハネたちに教えを説いて下さったことへの感謝の思いが改めて湧いて来ます。この手紙の「あなたがた」とは、私たちのことでもあります。神様は私たちのために朽ちることのない資産を受け継ぐようにして下さり、その資産は天に蓄えられています。

 イエス様はマタイ・マルコ・ルカの福音書に記されているように、いろいろなたとえ話を使って、天の御国がどのような所かを教えて下さいました。また、ヨハネの福音書のイエス様は、ご自身が父のもとから遣わす助け主の聖霊が、それらの教えの理解を助けて下さるとおっしゃいました。イエス様の天の御国についてのたとえ話は少し分かりづらい面もありますが、聖霊が理解を助けて下さいますから、感謝です。

 このような、天の御国についての教えは、旧約聖書では語られなかったことです。イエス様が地上に遣わされて、初めて説き明かされたことです。旧約聖書には、神様のみ教えを守る者の幸いが語られる一方で、悪者は滅びることが語られています。神様から離れないでいる者には終わりの日に素晴らしい恵みが与えられます。でも神様の教えを守った者が終わりの日の前に死んだ場合はどうなるのでしょうか?旧約聖書では表立っては語られていないように見えます。神様から離れないでいたのですから、悪いようにはならないと思いますが、天のことは語られていませんから、不安もあったかもしれません。もしかしたら、その不安が旧約の人々の不信仰の原因にもなっていたのかもしれません。

 しかし、2千年前にイエス様が天から地上に遣わされて、天の御国のことを語って下さいましたから、私たちは希望を持って生きることができます。この希望はイエス様が死からよみがえった復活の事実によってもたらされます。3節ですね。「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。」

 この復活したイエス様を信じることで私たちは新しく生まれる、「新生」の恵みをいただきました。このことを深く感謝したいと思います。5節、

5 あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いをいただくのです。

 この5節も味わい深いなと思います。神様は私たちに信仰が有るか無いかを問わず、守って下さっています。神様が守って下さっていたからこそ、私たちは信仰にたどり着くことができました。そうして、神様を知った時にそれまで神様が自分を守って下さっていたことと、これからも守って下さることが分かって大きな平安を得ます。そして、その平安によって救いの確信を得ます。終わりの時に現される救いをこの世にいながらにして得ますから、ますます深い平安を得ることができます。6節、

6 そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、

 救いの確信によって深い平安が得られることは大きな喜びです。でも、ポントス・ガラテヤの人々は、激しい迫害におびえ、周囲の無理解に悲しんでいました。私たちも、迫害はありませんが、周囲の無理解には悲しい思いをしています。どうして分かってもらえないのかなあ、と悲しく思います。でも自分が信仰を持つ前のことを考えれば当然のことのようにも思います。信仰を持つことを勧めて下さった方々を私は冷たく突き放して悲しい思いをさせました。本当に申し訳なかったなあ、と思います。いま、私はそれらの方々と同じ悲しい思いをしています。でも、そんな私たちにペテロはこう書いて励まします。

7 試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。

 信仰は試練で試されることで、いっそう強固になるんですね。試練の時、私たちは神様に守って下さいと祈ります。そうして神様の御守りを感じて試練の中にあっても平安を感じます。このことによって私たちの信仰はますます磨かれて金よりも高価なものになって行き、イエス・キリストが現れる時、称賛と栄光と誉れに包まれて、喜びで満たされます。そして8節、

8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。

 この手紙を書いたペテロはイエス様から直接教えを受けることができました。でも、ポントス・ガラテヤの人々は人間のイエス様に直接会ったことはありませんでした。それでもイエス様を信じており、ことばに尽くせない栄えに満ちた喜びに踊っています。「喜びに踊っています」とは、すごい表現ですね。

 ペテロは「最後の晩餐」でのイエス様のことばをしみじみと思い出したのではないかなあ、と思います。「最後の晩餐」でイエス様は、ペテロたちにこうおっしゃいました。

ヨハネ16:7 わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。

 ペテロは助け主の助けによって、イエス様を見たことがない人々に対してイエス様を証ししました。そうして、ペテロの証しを信じた人々にも助け主の聖霊が入って、救いの確信を得させて下さいました。9節、

9 あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。

 ポントス・ガラテヤの人々、そして私たちは魂の救いを得て喜びに踊っています。魂の救いは、神様の御霊によってしか、もたらされません。音楽を聞いたり、散歩をしたりすることで束の間の休息を得ることはできますが、心の奥底にある魂のやすらぎは、永遠の中におられる神様の御霊によって初めて得られるものです。その魂の救いを得た喜びは踊り出すほどの喜びであることは、決して大袈裟ではありませんね。それほどの大きな喜びを私たちにもたらします。

 この喜びは一過性のものではなく、朽ちない喜びです。でも、試練があまりに過酷だと、その喜びを忘れそうになることもあるでしょう。ペテロはそういう過酷な試練の中にある人々に向けて、この手紙を書き、励ましました。

 この手紙が今日まで伝えられて、現代の私たちのことも励ましてくれていることに、深く感謝したいと思います。お祈りします。

8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。
9 あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。
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悪魔が仕込む目の中の梁(2021.8.25 午前の祈り会)

2021-08-26 08:43:04 | 祈り会メッセージ
2021年8月25日午前の祈り会メッセージ
『悪魔が仕込む目の中の梁』
【マタイ7:3~5】

 マタイ7章の3節から5節がきょうの聖書箇所です。時間の関係で1節と2節は飛ばしますが、この1節と2節は次の3節から5節をヒントにすれば理解しやすくなるのだろうと思います。きょうは「目の中の梁」に集中します。

マタイ7:3 あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。
4 兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。
5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。

 この箇所は、8月8日の朝の教会学校で開かれた箇所ですね。この自分の目にある梁については、私は前から気になってモヤモヤしていましたが、じっくり思いを巡らしたことはありませんでした。そういう中で教会学校でこの箇所が開かれましたから、とても興味深い思いで教会学校での皆さんの話を聞かせていただきました。

 自分が罪人であることは分かっているつもりですが、それにしても梁とは、あまりにも大きすぎるという気がします。もちろん、自分の罪はそれほどまでに大きいのですが、どうも引っ掛かります。それで皆さんの話を聞きながら、そのことに思いを巡らしていました。でも短い間でしたから、依然として梁に関するモヤモヤは残りました。

 しかし、その日の礼拝の後の午後、オリンピックのマラソンの録画放送を見ていて、この目の中の梁へのヒントが与えられた気がしました。その日の朝はオリンピックの男子マラソンがあったのですが、教会学校があって私は途中までしか見られませんでした。マラソンは北大の構内を3回通るということで注目していましたから、その日の午後に放送された録画を見ました。そして、沿道に多くの観衆がいる様子を見ました。前日の女子マラソンよりも、もっと多くの人が出ているように見えました。そして、2週目、3週目と周回を重ねるごとに沿道の観衆は増えているように見えました。コロナの感染防止のために、沿道での応援は控えるようにということが言われていたにも関わらず、多くの観衆が密になって声援を送っている様子がテレビの画面に映し出されていました。

 このテレビ画面を見ながら、この沿道に出ている人々の背後に強大な悪魔がいて、人々がそれに動かされているように感じました。エデンの園のアダムとエバが食べてはならないという木からの実を蛇にそそのかされて食べてしまったことからも分かるように、人は「してはならない」と言われていることでも、悪魔にそそのかされるとやってしまうのですね。そして、その日の朝の教会学校に出て来た「目の中にある梁」とは、悪魔と関係があると思いました。兄弟に向かって、「あなたの目からちりを取り除かせてください」と言う人は、悪魔にそそのかされて言うのだと思いました。悪魔の力は強大ですから、イエス様が梁という大袈裟とも思える表現を使っていることと良く合うと思いました。梁が悪魔に仕込まれたものであるなら、決して大袈裟ではありません。

 悪魔は人々が対立する方向に上手く導いて仲たがいをさせます。「あなたの目からちりを取り除かせてください」と言われたほうは気分がよくありませんから、仲が険悪になるかもしれません。

 この夏、オリンピックの開催を巡って日本の世論は大きく二つに割れました。これも悪魔によって巧みに誘導された分断であると感じます。コロナ対策や温暖化対策がなかなか進まないのも、人々が一つにならないように悪魔が対立をあおるからだと感じます。聖書には悪魔のことがしっかりと書かれていますから、私たちはもっと悪魔の策略に乗せられないように注意を払う必要があるのだと思います。

 ヨハネの福音書では1章5節という早い段階で悪魔の存在を示唆しています。1章5節、

ヨハネ1:5 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

 この闇を支配しているのは悪魔ですから、ヨハネは非常に早い段階で悪魔の存在を読者に意識させようとしていることが分かります。そして今私たちが礼拝メッセージで開いている「最後の晩餐」でも、この「最後の晩餐」の記事が始まった13章の2節という段階で早くもヨハネは悪魔に言及しています。13章2節、

ヨハネ13:2 夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。

 ですから、このヨハネの福音書の背後には「神vs悪魔」の対決の構図があると礼拝メッセージでは話していますが、それはヨハネだけでなくマタイも同じなのですね。ご承知のようにマタイの福音書の4章にイエス様が悪魔の試みを受けたことが書かれています。4章1節、

マタイ4:1 それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。

 或いはまた、マタイの福音書のイエス様はペテロにこう言われました。

マタイ16:23 「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

 このように悪魔はヨハネだけでなくマタイの福音書の背後にもいますし、マルコの福音書とルカの福音書の背後にもいます。ですから目の中にある梁とは悪魔によって入れられたものであると見たいと思います。アダムとエバやユダとペテロもそうであったように、人は悪魔にそそのかされて大きな罪を犯すことになります。

 私たちの背後に常にいる悪魔は、人が罪を犯すように仕向けます。悪魔は現代のコロナ禍や温暖化を絶好の機会ととらえて人々を混乱に陥れようとして悪霊たちを動かしていると感じます。

 そして、私はここに日本宣教への糸口があるように感じています。礼拝メッセージでも話しましたが、この悪霊の動きはキリスト教だけでなく神道や仏教に携わる人々も感じているからです。大きな神社の前では厄払いの看板をよく見掛けます。静岡浅間神社の前にも厄払いの看板が出ています。徳川家康が幼少期に学問を学んだ場所として有名な大岩の臨済寺の前には仁王像が二体置かれていますね。恐ろしい形相の仁王像は、悪霊が寺の中に入らないように守っていると言われています。

 このように、悪霊の存在はキリスト教だけでなく神道でも仏教でも、広く意識されています。この共通点に、日本宣教への糸口があるように感じます。神様に関しては、キリスト教と神道と仏教とでは、ぜんぜん違いますね。共通点は見出せません。共通点がない聖書の神様の恵みだけを話しても、伝えるのは難しいように感じています。でも、世の人々が悪霊に苦しめられている点では共通点があります。その共通点から出発して、キリスト教は命を与えていただけることを上手く伝えていけないでしょうか。

 今は温暖化とコロナ禍で、戦争でもないのに私たちは命の危険にさらされています。その中でイエス・キリストを信じる者には命が与えられます。そうして世が与えるのとは違う平安が与えられます。

 最初のみことばに戻ります。

マタイ7:3 あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。
4 兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。
5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。

 けさのニュースを見ていたら、昨晩パラリンピックの開会式が開かれた東京の国立競技場の周辺には多くの人々が集まっていた様子が報じられていました。首都圏では医療崩壊が現実のこととして起きている中でのことですから、やはり背後にある巨大な悪に人々が動かされているという気がしてなりません。巨大な梁が私たちの目の中に仕込まれて、目が歪まされているような気がしてなりません。

 そういう中で私たちは命の危険にさらされています。この世の命は本当に儚いことを感じます。草はしおれ、花は散ります。しかし、私たちの神様のことばは永遠に立ちます(イザヤ40:8)。ですから、私たちはイエス様にとどまり、みことばにとどまりたいと思います。「わたしがいのちのパンです」(ヨハネ6:35)、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14:6)とおっしゃるイエス様にとどまりたいと思います。そうして、このイエス様を証していきたいと思います。お祈りします。
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幅広い解釈を許す懐が深いキリスト(2021.8.19 祈り会)

2021-08-22 12:41:31 | 祈り会メッセージ
2021年8月19日祈り会メッセージ
『幅広い解釈を許す懐が深いキリスト』
【ペテロの手紙第一4:6】

 きょうはペテロの手紙第一4章6節に注目します。(新約p.470)

【新改訳 2017年版】
Ⅰペテロ4:6 このさばきがあるために、死んだ人々にも*生前、福音が宣べ伝えられていたのです。彼らが肉においては人間としてさばきを受けても、霊においては神によって生きるためでした。(*生前は補足)

 先週は第一ペテロ3章の18節から21節までを見ました。19節と20節には、キリストがノアの時代に神から離れていた人々に宣教したことが書かれていました。神から離れていたノアの時代の人々の霊は陰府で捕らわれていました。キリストは陰府に下って、その捕らわれていた霊にみことばを語り、神へと導きました。

 そして先週は、これはノアの時代に神から離れていた人々の霊だけが対象ではなくて、すべての時代において神から離れていた霊が対象なのだ、という話をしました。キリストは、21世紀の私たちの家族や周囲でイエス様を信じないまま亡くなった方々の霊にもみことばを語って神に導いたという話をしました。

 さてしかし、実は新改訳聖書では、そういう立場は取っていないようです。キリストが陰府に下って宣教したのは、あくまでノアの時代の人々に対してだけで、その他の時代の人々には「生前」に福音が宣べ伝えられていただけなのだと、新改訳の2017年版は解釈しているようです。「生前」という所に*(アステリスク、星印)が付いていますから、下の脚注を見ると、<*「生前」は補足>と書いてあります。つまり、「生前」ということばを補足してまで、キリストが陰府に下って宣教したのは、ノアの時代だけなのだということを強調したいようです。

 そのような解釈は既に第3版の頃からされていたようですが、2017年版では、より一層強調した形になっています。第3版には、このように書かれていました。

【新改訳 第3版】(2003年)
Ⅰペテロ4:6 というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、それはその人々が肉体においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神によって生きるためでした。

 ここに、「死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていた」と書かれています。これは、「生前」が無いのを除けば2017年版と同じ訳ですから、第3版でもキリストが福音を宣べ伝えていたのはノアの時代の人々を除けば、生前の人々に対してだけだという立場を取っていたことを示していると思います。但し、この書き方だとちょっと曖昧で、死んだ「後」の人々にも福音を宣べ伝えられていたと読むことも可能です。この曖昧さを回避するために、2017年版では「生前」を補足したようです。

 そこまでして、「生前」にこだわるのはどうしてなんでしょうか。いわゆる「セカンド・チャンス」説を明確に否定するためなのでしょうか。「セカンド・チャンス」説とは、生前にイエス・キリストを信じないまま死んでも、死後に救われるチャンスがあるという説です。
 一方、新共同訳と聖書協会共同訳は、キリストが死んだ者にも福音を告げ知らせると訳しています。その福音を聞いた者が救われるかどうかまでは書かれていませんが、生前だけでなく死後においても福音が告げ知らされたと訳しています。まず新共同訳、

【新共同訳】(1987年)
Ⅰペテロ4:6 死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。

 そして、2018年に刊行された聖書協会共同訳も、この新共同訳を踏襲しています。

【聖書協会共同訳】(2018年)
Ⅰペテロ4:6 死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、肉においては人として裁かれても、霊においては神のように生きるためです。

 そしてインマヌエルのeラーニングの講師の石田先生も、キリストが生前だけでなく死者にも福音を宣べ伝えたことを支持しています。その理由として先生は、このペテロの手紙第一はポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアというクリスチャンが少数者中の少数者だった地域の人々に宛てられた手紙であるからとしています。この手紙は少数者中の少数者のクリスチャンの立場に立って読むべきで、彼ら彼女らは、周囲の人々がイエス・キリストの福音を知らずに死んでいくことに心を痛めていたことを覚えて読みたいと説いています。1世紀のクリスチャンは、しばしばローマ帝国から激しい迫害を受けていましたから、表立った伝道はできませんでした。エルサレムやアンティオキアにおいてさえクリスチャンは少数者でした。ましてポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアにおいてクリスチャンは少数者中の少数者です。私たち日本のクリスチャンも、その少数者中の少数者の気持ちが分かりますね。ですから、私は石田先生のeラーニングを受講して、本当に感動しました。これまで私は新改訳の立場しか知りませんでしたから、eラーニングを受けて、初めて共同訳の立場を知って、これからの伝道に明るい光と大きな希望を感じました。

 ただし、きょう話したいことは、新改訳と共同訳のどちらの訳のほうが良いのか、というような話ではありません。新改訳も共同訳も、どちらも多くの読者がいます。大部分の箇所においては細かい訳が違う程度で立場が異なるほどの大きな違いはないでしょう。でも、きょうの箇所のようにかなり違う解釈をしている箇所もあります。その違う解釈の聖書の出版を、私たちの主イエス・キリストは許しています。ここに私はイエス・キリストの懐の深さを感じます。多様な解釈があるから、多様な人々がイエス様を信じて、イエス様につながっているのですね。

 少し前まで、私はキリスト教が解釈の違いによって分裂を繰り返して来たことを残念に思っていました。それは、分裂した教派がしばしば激しく対立して来たからです。ヨーロッパではカトリックとプロテスタントとの間で戦争に発展したこともあります。

 でも、このように対立し合うのでなく、互いを認め合って互いに愛し合うこともできるはずです。異なる考えを持つ人々でも主にあって一つになるなら、それだけ多くの人々がイエス・キリストとつながることができます。例えば、パウロたちの時代のローマの教会には、多様な人々が集っていました。そのローマ人たちにパウロは書いています。

ローマ12:10 兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。

 ローマ人への手紙を読むと、多様な信徒が混在していた様子が伺えます。コリントの教会にも、多様な人々がいた様子が描かれています。キリスト教会は、そういう多様な人々が主にあって一つになっている教会です。もし、同じような考えを持つ人々しかイエス様を信じないのであれば、クリスチャンはこんなにも増えなかったでしょう。いろいろな人々がイエス・キリストを信じているのがキリスト教です。ユダヤ人だけでなく、アジアの人々、ヨーロッパの人々もイエス・キリストを信じました。そうして日本人の私たちもイエス・キリストを信じています。同じ日本人でも、実にいろいろな人々がいます。私たちの静岡教会だけを見ても、田町で生まれ育った人もいれば、市内の他の地域で生まれ育った人もいますし、県外で生まれ育った人もいます。そういう多様な人々が集っているのがキリスト教会です。

 多様な人々が信じているのですから、聖書の解釈に違いが生じるのは、むしろ当然のことなのかもしれません。それゆえ、これを分裂とか対立の種とかと考えるのでなく、間口が広がったと考えるのが良いのでしょう。多様な教派があることで、必然的に教会の数が増えます。静岡にもいろいろな教派の教会があります。そのことで、静岡の人が教会を訪れるチャンスが増えます。そのことを喜ぶべきなのでしょう。

 ペテロの手紙第一4章6節の、新改訳と共同訳との解釈の違いも、これを対立の種にするのではなくて、互いが、そういう考え方もあるんだね、ということで良いのでしょう。そうして、イエス・キリストが両方の立場からの聖書の出版をお許しになっていること、その懐の深さを賛美すべきでしょう。多様な解釈があるから、多様な人々を引き付けて、イエス・キリストを信じる人々が増えて行きます。

 そういう中にあって、eラーニングの講師の石田先生は、このペテロの手紙第一は、少数者中の少数者という観点から読みたいという新しい解釈を示されました。私は、この解釈にとても引き付けられています。私たちの周囲にはイエス・キリストの福音を知らないままで死んだ方々がたくさんいます。それらの亡くなった方々の霊のところにもキリストは行って福音を宣べ伝えるとしたら、私たちにとっては大きな慰めであり、希望になります。聖書の解釈は伝統的な解釈にとらわれる必要はなく、こういう新しい解釈が出てくるところも、また大きな魅力だと思います。それをもイエス・キリストはお許しになっています。

 使徒信条という枠がありますから、使徒信条を逸脱しない解釈であれば、対立の種にしないで、互いに認め合って、互いに愛し合うなら、キリストの福音は広がって行くことだろうと思います。この懐の深いイエス・キリストを賛美して、感謝したいと思います。

 お祈りいたします。
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死者にも福音を宣べ伝えるキリスト(2021.8.12 祈り会)

2021-08-13 10:05:30 | 祈り会メッセージ
2021年8月12日祈り会メッセージ
『死者にも福音を宣べ伝えるキリスト』
【Ⅰペテロ3:18~21】

Ⅰペテロ3:18 キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。
19 その霊においてキリストは、捕らわれている霊たちのところに行って宣言されました。
20 かつてノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たちにです。その箱舟に入ったわずかの人たち、すなわち八人は、水を通って救われました。
21 この水はまた、今あなたがたをイエス・キリストの復活を通して救うバプテスマの型なのです。バプテスマは肉の汚れを取り除くものではありません。それはむしろ、健全な良心が神に対して行う誓約です。

 先週から、第一ペテロのみことばを開いています。先週は1章の1節と2節に目を留めました。実は先週はきょうの聖書箇所の3章18~19節も併せて読みたいと当初は思っていました。しかし、やはり15分という時間内では欲張り過ぎだと分かり、1章1節と2節だけにしました。

 今年の5月から7月に掛けてのインマヌエルeラーニングでの第一ペテロの学びで、私はきょうの3章の箇所に深い感動を覚えました。この感動を皆さんと分かち合いたいと思いますから、1章の2節からいきなり3章18節に飛びますが、ご容赦願いたいと思います。
 さっそく見て行きます。

Ⅰペテロ3:18 キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。

 キリストは十字架に付けられて肉においては死に渡され、霊においては生かされました。それは、私たちを神に導くためでした。ここにある「あなたがた」とは、この手紙の宛先のポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの地域の人々であると同時に、日本の私たちのことでもあります。先週は、後ろの地図をご一緒に見て、このポントス、ガラテヤなどの地域が今のトルコの北部にあり、パウロが伝道旅行を行った地中海沿岸に比較的近い地域とは異なって、周囲にクリスチャンがほとんどいなかったであろう地の果てのような地域であることを確認しました。それは、日本も同じですね。エルサレムから見れば日本は正に地の果てであり、私たちの周囲にクリスチャンはほとんどいません。つまり私たちは少数者、マイノリティです。

 eラーニングの講師の石田学先生は、このペテロの手紙第一を「少数者・マイノリティ」の観点から読むことにしたいということを強調しておられました。そして、この手紙を少数者の観点から読むことで、次の3章19節、20節、21節から素晴らしい感動が得られます。まず19節、

19 その霊においてキリストは、捕らわれている霊たちのところに行って宣言されました。

 捕らわれている霊たちのところとは、神を信じなかった者たちの霊が捕らわれている陰府(よみ)です。キリストは陰府に下って神を信じなかった人々に宣教しました。新改訳聖書の2017年版では「宣言されました」となっていますが、下の脚注を見ると別訳として、「宣べ伝えられました」とあります。また新共同訳と聖書協会共同訳では「宣教されました」となっています。或いはまた、同じ新改訳でも第3版では「みことばを語られた」となっていました。新改訳第3版で、19節をお読みします。

19 その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。(第3版)

 きょうはこの第3版の「みことばを語られた」を使います。キリストがみことばを語った相手の捕らわれている霊たちとは、例えばノアの時代に洪水で流されてしまった人たちの霊です。20節、

20 かつてノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たちにです。その箱舟に入ったわずかの人たち、すなわち八人は、水を通って救われました。

 キリストは、神から離れていたために洪水で流されてしまった人たちの霊にみことばを語られました。それは、その人たちの霊を神に導くためです。肉体は水に流されてしまいましたが、霊は捕らわれて陰府にありました。キリストはその陰府に行って、捕らわれている霊にみことばを語り、神に導きました。そして、それはノアの時代に神から離れていた人々の霊だけが対象ではありません。どの時代に生きていた人々であっても、神から離れたままで死んだ人々の霊にキリストはみことばを語ります。なぜなら21節にこのように書かれているからです。

21 この水はまた、今あなたがたをイエス・キリストの復活を通して救うバプテスマの型なのです。バプテスマは肉の汚(けが)れを取り除くものではありません。それはむしろ、健全な良心が神に対して行う誓約です。

 イエス・キリストは聖霊のバプテスマをお授けになる方です。聖霊のバプテスマはイエス・キリストを信じる者なら誰にでも授けられます。それは旧約の時代の人々も新約の時代の人々も問わないことを21節は示唆しています。ノアの時代の人々だけでなく、アブラハムやモーセの時代に生きていた人々に対しても、キリストはみことばを語りました。そして、それは21世紀の私たちの家族や周囲の人々にも及びます。私たちの家族や周囲の方々の多くがイエス様の福音になかなか耳を傾けようとしません。そうして、イエス様の福音を知らないまま亡くなることも少なくありません。しかし、イエス様はそのようにして死んだ人々のところにも行って、みことばを語るのだと、この第一ペテロは書いています。この第一ペテロがこんなに素晴らしいことが書かれている書だったとは私は知らないでいましたから、インマヌエルのeラーニングでこのことを聞いて、本当に感動しました。

 但し聖書の解釈としては、これはノアの時代の人々に限られているという立場の人たちもいるということです。しかし、それはキリスト教が広く浸透した時代以降の西欧的な解釈であろうと解説されています。西欧においては周囲の者のほぼ全員がクリスチャンです。近年はクリスチャンでない人も増えましたが、少し前まではほとんどの西欧人がクリスチャンでした。そのようなクリスチャンの社会では、イエス・キリストにつながらずに死ぬことが周囲にいることは稀です。幼子であっても生まれてすぐに洗礼を授ければイエス・キリストとつながります。そのような大多数がクリスチャンである社会にいると、クリスチャンが少数者であった時代の人々の心の痛みに気付きにくいであろうということです。

 1世紀はまだクリスチャンが迫害されていた時代ですから、表立っての伝道はなかなかできませんでした。地中海沿岸の地域でさえ、そのような状況ではクリスチャンは少数者であり、ましてポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの地域ではクリスチャンは少数者中の少数者であったであろうということです。それゆえ、人々大半はイエス・キリストの福音を聞くこと無しに死んで行きました。そのことに、この地域のクリスチャンはとても心を痛めていたことでしょう。

 そして、その心の痛みを私たち日本のクリスチャンも共有しています。私たちの家族や周囲の人々の多くがイエス様の福音に耳を傾けることなしに、亡くなって行きます。私たちが語ろうとしても、スルーします。そのことは私たちにとって、とても心が痛むことです。でも、ペテロの手紙第一は、キリストが死者の霊にもみことばを語ると書いています。素晴らしい恵みだと思います。このことを知って私は、本当に感動しました。

 このように、このペテロの手紙第一の宛先の人々がその地域にあって少数者中の少数者のクリスチャンであり、周囲の人々がイエス・キリストの福音を知ることなしに死んで行ったことに心を痛めていたという観点からこの手紙を読むなら、イエス・キリストの聖霊のバプテスマは、ノアの時代に死んだ者たちに限らず、21世紀の日本で福音を知らずに死んだ者たちにも授けられると読み取れます。

 この、キリストが死者にも福音を宣べ伝えることについて、第一ペテロではもう一つ書かれている箇所別の箇所がありますから、来週はそこを開くことにします。

 最後に、注意点を一つ述べてメッセージを閉じます。

 注意しなければいけないのは、「全員が救われる」とは書かれていないことです。陰府でキリストが語るみことばを聞いても、相変わらず耳を傾けない者もいるかもしれません。でも、「死」という厳粛な門を通って、天の御国には行けずに陰府で捕らわれている霊であるなら、地上にいた時よりもずっとキリストの語るみことばに耳を傾けやすいでしょう。これは私たちにとっては大きな希望であり、慰めだと思います。

 地上でイエス様を信じなかったら、それでおしまいというのではなくて、イエス様はどの時代の死者に対してもみことばを語って下さいます。このことに、心一杯感謝したいと思います。

 お祈りいたします。

19 その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。(第3版)
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家族と周囲の救いのために選ばれた少数者(2021.8.5 祈り会)

2021-08-06 13:28:46 | 祈り会メッセージ
2021年8月5日祈り会メッセージ
『家族と周囲の救いのために選ばれた少数者』
【Ⅰペテロ1:1~2】

 木曜夜の祈り会では4月4日のイースター聖日を越えた4月8日から7月中旬までの3ヵ月ちょっと、サムエル記第一を開いて来ました。前回は初めてダビデに注目して、ダビデがゴリヤテと戦った箇所を開きました。ここで一旦サムエル記を離れて、新約聖書に目を移すことにしたいと思います。空気を入れ替えて新鮮な気持ちで別の書と向き合い、その後でまたサムエル記に戻って来たいと思います。その方がダビデのこれからの波乱万丈の生涯を、新鮮な気持ちで見ることができるだろうと思いました。

 今月からしばらくはペテロの手紙第一を開くことにします。まず第一ペテロ1章の1節と2節を交代で読みましょう(新約p.465)。

Ⅰペテロ1:1 イエス・キリストの使徒ペテロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアに散って寄留している選ばれた人たち、すなわち、
2 父なる神の予知のままに、御霊による聖別によって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人たちへ。恵みと平安が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。

 このペテロの手紙第一は、インマヌエルのeラーニングで5月の半ばから7月の初めまでの8週間、学んだ書です。講師は石田学先生でした。石田先生は日本ナザレン教団の牧師であると同時にナザレン神学校の校長先生を務めておられます。2018年の12月発行の『聖書 聖書協会共同訳』の刊行にも委員として尽力されて、今年の1月には聖書協会の理事長に就任されました。
(以上のプロフィールはネット上で公開されている情報です)

 石田先生が牧会しておられる教会は栃木県小山市にある教会です。小山市の人口は約17万人ということですから、19万人の沼津市と同じくらいの規模ですね。クリスチャンの割合は日本全体の平均の0.8%よりも遥かに低くて、マイノリティー中のマイノリティー(少数者中の少数者)であるということです。石田先生は日本人のクリスチャンがマイノリティー、すなわち少数者であることに関心を寄せていて、eラーニングでの第一ペテロの学びもそのマイノリティーという観点から読むことが試みられていて、とても興味深いものでした。この祈祷会でも、私たち日本人クリスチャンは日本の中で少数者であることを意識しながら、この第一ペテロを読んでみたいと願っています。

 今年の4月から私は町内会の役員の総務部長になったことは既に何度か話していますが、役員として出席したほうが良い奉仕の多くが日曜日の午前にあります。田町公園に花の苗を植える作業や、やはり田町公園にある防災倉庫の整理、またこれも田町公園に置いてある防災ポンプの定期的な試運転など、大体が日曜日の午前にあります。そういう奉仕のほとんどを私は欠席しています。日本人は日曜日に教会に行く習慣がありませんから、日曜日にそれらを行うのが一番良いのですね。ですから、つくづくクリスチャンは少数者であることを実感しています。

 さて、ここから、聖書に目を向けます。石田先生によれば、ペテロの手紙第一の宛先のポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの地域のクリスチャンはまさに、マイノリティ中のマイノリティであるということです。2017年版の聖書の後ろの地図を見ていただくと、この地域は今のトルコの北部に当たることが分かります。

 まず地図1を見ていただいて、現代のトルコの位置を確認しておいていただいて、次に地図13のパウロの第一次、第二次伝道旅行の地図で、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地域を見て下さい。ポントスとビティニアは地中海からずっと離れた北部にあることが分かります。ガラテヤは南北に長いですが、パウロが伝道旅行で立ち寄ったガラテヤ地方は南端のほうであることが分かります。ポントスはその遥か北方にあります。また、ビティニアは使徒の働きによればパウロたちが向かおうとしていたらイエスの御霊がそれを許しませんでした(使徒16:7)。それでパウロたちはヨーロッパ方面に向かうようになりました。このように、ポントスやビティニアはパウロの時代には伝道がまだ及んでいなくて、もう少し後になってから教会ができた地域のようです。

 そうして、この北部の地域は南部の地中海沿岸とは異なり、だいぶ田舎だったようです。地中海沿岸は船で大きな都市と行き来ができましたから、かなり栄えて都会化されていたようですが、北部はもっとずっと田舎で、そのような中でクリスチャンは本当に少数者であったと言えるようです。

 そして、この少数者であるクリスチャンのことをペテロは1節で「散って寄留している選ばれた人たち」と書いています。「散って」と書いてあると、この人たちはエルサレムから散らされてここに辿り着いた人々なのかなと一瞬思いますが、そうではありません。それは、1章の18節と19節から分かります。

1:18 ご存じのように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
19 傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

 18節の、「あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出された」から、この手紙の宛て名の人々は、エルサレムから散らされて来た人々ではなくて、先祖伝来の土地に元から住んでいた人々であることが分かります。そのような土地で新たにクリスチャンになった人々ですから、本当に少数しかいない者たちでした。静岡の私たちも同じですね。ですから、同じ少数者のクリスチャンとして、このペテロの手紙第一を読むことにしたいと思います。

 もう一度、1節に戻ります。「散って」の後でペテロは「寄留している」と書いています。寄留しているとは、ここは本当の住処ではないということです。ヘブル人への手紙が、アブラハムと妻のサラ、そして二人の子孫たちについて書いていましたね。ヘブル人への手紙のその箇所をお読みします。

ヘブル11:13 これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。
14 そのように言っている人たちは、自分の故郷を求めていることを明らかにしています。
15 もし彼らが思っていたのが、出て来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。
16 しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。

 同じように、ペテロの手紙第一の読者たちも、地上では旅人であり寄留者であり、本当の故郷は天の故郷でした。それは静岡の私たちも同じです。

 もう1回1節に戻って、ペテロは「散って寄留している」の後で、「選ばれた人たち」と書いています。それまでイエス・キリストの福音が伝わっていなかった地域でイエス様を信じて救われたクリスチャンのことを、ペテロは「選ばれた人たち」と書いています。

 きょうは最後に、この「選ばれた人たち」に目を留めたいと思います。このペテロの手紙第一はその地域では少数者であったクリスチャンに宛てられた手紙であるという観点で読みたいと最初に話しました。そして静岡のクリスチャンである私たちも少数者ですから、この手紙は私たちに宛てられた手紙であるとも言えます。

 ということは、私たちもまた「選ばれた人たち」なんですね。「いえいえ、私は選ばれるような器ではありません」と思う方もいるかもしれませんね。私自身も自分をそう思います。私は選ばれるような器ではありません。第一、神様はすべての人を愛しておられるはずです。神様は人を選ぶようなことはしないのではないか、そんな疑問も湧きます。

 でも、考えてみると、確かに選ばれているという気もします。自分の場合で言えば、私は父の死がきっかけで教会を訪れました。しかし、同じ病室で父を看取った家族は特に教会を訪れることはありませんでした。そうすると、やっぱり選ばれたのかなという気がします。

 ただし、それは父を看取った家族の中で私だけが救われるために選ばれたのではなくて、先に救われた私を通して、家族の他の者たち、さらには周囲の方々が救われるために、先に選ばれたということなのでしょう。ペテロも、2章9節で書いています。

2:9 しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。

 私たちはイエス様を告げ知らせるために、選ばれて救われました。今はコロナで積極的な伝道はできませんが、今のこの時期は賛美と祈りとみことばに集中して整えられて、やがての時に用いられるように備えたいと思います。

 一言、お祈りします。

1:1 イエス・キリストの使徒ペテロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアに散って寄留している選ばれた人たちへ
2:9 あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。
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イスラエルの恥辱を憂うダビデ(2021.7.15 祈り会)

2021-07-19 13:51:14 | 祈り会メッセージ
2021年7月15日祈り会メッセージ
『イスラエルの恥辱を憂うダビデ』
【Ⅰサムエル16:13、17:21~24、26、45~47】

 第一サムエルの学びでは、先週はサウルの息子のヨナタンの信仰を見ました。今週からダビデに注目します。ダビデが登場する前のサウルとヨナタンに関する記事をいくつか飛ばすことになりますが、サウルもヨナタンも第一サムエルではまだまだ登場しますから、ダビデを学ぶ中で随時サウルもヨナタンも見て行きたいと思います。聖書箇所が戻ることもあるかもしれません。

 きょうのメッセージのタイトルは『イスラエルの恥辱を憂うダビデ』です。お読みする聖書箇所は、第一サムエル16章13節のサムエルによってダビデに油が注がれて、その時に主の霊がダビデの上に激しく下った場面と、17章21節以降の、ダビデが巨人のゴリヤテと対戦することになった場面です。17章の場面は飛ばし飛ばしで読みます。私のほうでお読みします。

Ⅰサムエル16:13 サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油を注いだ。の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。サムエルは立ち上がってラマへ帰って行った。

17:21 イスラエル人とペリシテ人は、向かい合って陣を敷いていた。
22 ダビデは、父からことづかった物を武器を守る者に預け、陣地に走って来て、兄たちに安否を尋ねた。
23 ダビデが彼らと話していると、なんと、そのとき、あの代表戦士が、ペリシテ人の陣地から上って来た。ガテ出身のゴリヤテという名のペリシテ人であった。彼は前と同じことを語った。ダビデはこれを聞いた。
24 イスラエルの人はみな、この男を見たとき、彼の前から逃げ、非常に恐れた。続いて26節)
26 ダビデは、そばに立っている人たちに言った。「このペリシテ人を討ち取って、イスラエルの恥辱を取り除く者には、どうされるのですか。この無割礼のペリシテ人は何なのですか。生ける神の陣をそしるとは。」

45 ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と槍と投げ槍を持って私に向かって来るが、私は、おまえがそしったイスラエルの戦陣の神、万軍のの御名によって、おまえに立ち向かう。
46 今日、はおまえを私の手に渡される。私はおまえを殺しておまえの頭を胴体から離し、今日、ペリシテ人の軍勢の屍を、空の鳥、地の獣に与えてやる。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るだろう。
47 ここに集まっているすべての者も、剣や槍がなくても、が救いをもたらすことを知るだろう。この戦いはの戦いだ。主は、おまえたちをわれわれの手に渡される。」

 サムエルに油を注がれて主の霊が激しく下ってからのダビデを見ると、サウル王との大きな違いが見られます。

 サウルの場合は、サムエルに油を注がれて主の霊が激しく下った後でもなお、荷物の間に隠れているような者でした。しかし、ダビデは違いました。例えば、ダビデは17章26節に戦場にいた人たちに聞きました。「このペリシテ人を討ち取って、イスラエルの恥辱を取り除く者には、どうされるのですか。この無割礼のペリシテ人は何なのですか。生ける神の陣をそしるとは。」

 ダビデは、イスラエルがゴリヤテにののしられていることをイスラエルの恥辱と感じていました。主の霊が下ったダビデはイスラエル全体のことを考えていました。サウル王が荷物の間に隠れていたのとは大違いです。

 このサウル王とダビデの違いはどこから来るのでしょうか?それは出身の部族の違いから来るのかもしれません。サウル王はベニヤミン族に属し、ダビデはユダ族に属していました。サウル王のベニヤミン族はもともと小さな部族だった上に、士師記の時代に起きた内戦によってほとんど絶滅寸前になるまで討たれて、さらに小さな部族になってしまっていました。そんな小さなベニヤミン族出身のサウル王が全イスラエルの頂点に立つことは難しいことだったのかもしれません。

 一方のダビデはユダ族の出身でした。ユダ族と言えば、何と言ってもカレブですね。カレブはモーセの時代に、十二部族の代表としてヨシュアと共に約束の地のカナンに偵察に行きました。そうして、カナンの地の人々が強そうなのを見た偵察隊はおじけづいて「エジプトへ帰ろうと言い出しました。」しかし、カレブとヨシュアは主が共にいて下さるのだから恐れることはない、カナンの地を必ず攻め取ることができると主張しました。

 その後、ヨシュア記の時代に、カレブはヘブロンの地を相続しました。カレブがヘブロンの地を相続したことは、先日、教会学校で共に学びました。教会学校で共に学んだヨシュア記14章の12節と13節には、次のように書かれています。これはカレブがヨシュアにヘブロンの地を与えてくれるよう頼んでいることばです。

ヨシュア14:12 今、があの日に語られたこの山地を、私に与えてください。そこにアナク人がいて城壁のある大きな町々があることは、あの日あなたも聞いていることです。しかしが私とともにいてくだされば、が約束されたように、私は彼らを追い払うことができます。」
13 ヨシュアはエフンネの子カレブを祝福し、彼にヘブロンを相続地として与えた。

 ヨシュアがカレブにヘブロンを相続地として与えた時点ではまだ、ヘブロンはイスラエルの占領地ではありませんでした。そこには城壁がある大きな町々があるので、容易に攻め落とせる場所ではありませんでした。しかし、主が共にいて下さるから、追い払うことができるとカレブは信じていました。

 ダビデの中にも、カレブと同じユダ族の血が流れていました。歴代誌第一2章の系図によれば、カレブはヤコブの子ユダのひ孫です。ユダのひ孫のカレブにはラム(マタイ1:3ではアラム)という兄弟がいて、ダビデはラム(アラム)の子孫です。ラムの子はアミナダブ、アミナダブの子はナフション、ナフションの子はサルマ、サルマの子はボアズ、ボアズの子はオベデ、オベデの子はエッサイ、そしてエッサイの子がダビデです(歴代誌第一2:9-15)。ですから、ダビデはカレブと近い血縁関係にありました。歴代誌第一の系図は漠然と読むだけではつまらないですが、こういう血縁関係を探索すると、とても面白く感じます。

 ちなみにカレブが相続したヘブロンの地でダビデは王として即位しました。サウル王が死んでダビデ王が即位した時、エルサレムはまだ攻め落とされていませんでした。ダビデはヘブロンで即位した後でエルサレムに攻め入って、そこにダビデの町を建設しました。またダビデが即位したヘブロンは、アブラハムの妻サラが亡くなった時に購入した墓地に面した土地で、その墓地にはサラの後でアブラハム・イサク・ヤコブも葬られました。ヘブロンはこのように、とても由緒正しい土地でした。

 ダビデの中には、この由緒正しいヘブロンの地を相続したカレブと同じユダ族の血が流れていたのですね。ダビデが巨人のゴリヤテを恐れなかったのも、強大なカナン人を恐れなかったカレブと同じユダ族の血が流れていたからかもしれませんね。これがベニヤミン族出身のサウル王とダビデとの大きな違いだったと言えるのだろうと思います。

 第一サムエル17章に戻ります。26節にあるように、ダビデはゴリヤテにののしられるままになっていたイスラエルを、イスラエルの恥辱と感じていました。そうしてダビデはゴリヤテに向かって行きました。45節、

45 ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と槍と投げ槍を持って私に向かって来るが、私は、おまえがそしったイスラエルの戦陣の神、万軍のの御名によって、おまえに立ち向かう。

 ゴリヤテは剣と槍と投げ槍を持ってダビデに向かって来ましたが、ダビデは石投げと石だけを持ってゴリヤテと対戦しました。

 きょうの第一サムエル17章の箇所を読んでいて、私はどうしてもこの時のイスラエルと今の日本の状況とを重ね合わせてしまいます。頼りないサウル王の下でイスラエルはおろおろしていました。今の日本も、頼りないリーダーの下でおろおろしています。先週の7月9日から11日に掛けてのNHKと読売新聞の世論調査の結果では、今の内閣の支持率は発足以来最低となりました。NHKと読売新聞の両方ともが菅政権発足以来最低となりました。その中でコロナの感染者数は第5波に入り、来週はオリンピックも開催されます。いま日本は大きな危機の中にあります。

 でも私たちには万軍の主が共にいて下さいます。私たちは、剣や槍は持っていませんが、祈りという武器を持っています。石投げと石だけでゴリヤテに立ち向かったダビデと同様です。47節、

47 ここに集まっているすべての者も、剣や槍がなくても、が救いをもたらすことを知るだろう。この戦いはの戦いだ。主は、おまえたちをわれわれの手に渡される。」

 ダビデはゴリヤテにののしられるままになっていたイスラエルを恥辱と感じていました。今の日本の状態も、恥辱とまでは言わなくとも、極めて不名誉なことだと思います。緊急事態宣言が出されている東京に多くのオリンピック関係者を招き入れて大変危険な状態になっています。私たちは万軍の主の力を信頼して救いのためにお祈りしなければなりません。お祈りいたします。
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ヨナタンの信仰(2021.7.8 祈り会)

2021-07-09 11:39:24 | 祈り会メッセージ
2021年7月8日祈り会メッセージ
『ヨナタンの信仰』
【Ⅰサムエル14:6~13】

6 ヨナタンは道具持ちの若者に言った。「さあ、この無割礼の者どもの先陣のところへ渡って行こう。おそらく、がわれわれに味方してくださるだろう。多くの人によっても、少しの人によっても、がお救いになるのを妨げるものは何もない。」
7 道具持ちは言った。「何でも、お心のままになさってください。さあ、お進みください。私も一緒に参ります。お心のままに。」
8 ヨナタンは言った。「さあ、あの者どものところに渡って行って、われわれの姿を現すのだ。
9 もし彼らが『おれたちがおまえらのところに行くまで、じっとしていろ』と言ったら、その場に立ちとどまり、彼らのところに上って行かないでいよう。
10 しかし、もし彼らが『おれたちのところに上って来い』と言ったら、上って行こう。が彼らを、われわれの手に渡されたのだから。これが、われわれへのしるしだ。」
11 二人はペリシテ人の先陣に身を現した。するとペリシテ人が言った。「おい、ヘブル人が、隠れていた穴から出て来るぞ。」
12 先陣の者たちは、ヨナタンと道具持ちに呼びかけて言った。「おれたちのところに上って来い。思い知らせてやる。」ヨナタンは道具持ちに言った。「私について上って来なさい。がイスラエルの手に彼らを渡されたのだ。」
13 ヨナタンは手足を使ってよじ登り、道具持ちも後に続いた。ペリシテ人はヨナタンの前に倒れ、道具持ちがうしろで彼らを打ち殺した。

 今夜はサウルの息子のヨナタンに目を向けたいと思います。木曜夜の祈り会の第一サムエルの学びではここ何度かサウルに注目して、先週は10章を開きました。11~13節にもサウルの記事がまだまだ続きますが、あまり恵まれませんし、サウルばかり見ているとなかなか前に進まないので、きょうは14章のヨナタンに目を転じます。

 サウル王にはヨナタンという名前の息子がいました。ヨナタンは人気のある人物ですね。明治の初期に札幌農学校で信仰を持った内村鑑三はヨナタンというクリスチャンネームを自らに付けました。ファミレスのジョナサンはヨナタンの英語での読み方です。英語だとヨナタンはジョナサンになります。ジョナサンという名前は『かもめのジョナサン』という本もあるように、英語圏にはよくある名前だそうです。それだけ聖書のヨナタンは人気が高いということです。

 さて、14章6節でヨナタンは敵側のペリシテ人の陣営の先陣に攻め入ろうとしていました。前回開いたのは第一サムエル10章で、その頃のサウル王は荷物の間に隠れるような頼りない王でしたが、11~13章では、王としてイスラエルの軍隊を率いるようになっていました。イスラエルの相手の中でも強敵だったのがペリシテ人たちでした。そして、息子のヨナタンもペリシテとの戦いに参加していました。14章6節、

6 ヨナタンは道具持ちの若者に言った。「さあ、この無割礼の者どもの先陣のところへ渡って行こう。おそらく、がわれわれに味方してくださるだろう。多くの人によっても、少しの人によっても、がお救いになるのを妨げるものは何もない。」

 ヨナタンは主が味方をして下さると信じていました。主はイスラエルの全軍だけでなく、たった二人で戦いに挑む場合でも味方をしてくれるはずであるとヨナタンは信じていました。この信仰はダビデと同じですね。ダビデも巨人のゴリヤテと対戦する時には主が守って下さると堅く信じていました。後にヨナタンとダビデは堅い友情で結ばれますが、それは二人とも主を信頼する同じ信仰を持っていたからですね。

 そして、きょうの記事からはヨナタンが人のことばの裏を読むようなことをしない真っ直ぐな性格な持ち主であることも伝わって来ます。9節、

9 もし彼らが『おれたちがおまえらのところに行くまで、じっとしていろ』と言ったら、その場に立ちとどまり、彼らのところに上って行かないでいよう。

 ここでヨナタンは、敵のペリシテの言う通りにしようと部下の道具持ちに言いました。随分と真っ直ぐな性格だなと思います。もしヨナタンがことばの裏を読む人物であったなら、「じっとしていろ」ということは、相手の戦闘準備が整っていないと判断して攻め入ることにしたかもしれません。しかし、ヨナタンは相手の言う通りにしようと言いました。また10節、

10 しかし、もし彼らが『おれたちのところに上って来い』と言ったら、上って行こう。が彼らを、われわれの手に渡されたのだから。これが、われわれへのしるしだ。」

 敵が「上って来い」と言ったなら、何か罠があると疑うこともできます。私なら怪しいと思って上って行かないかもしれません。しかし、ヨナタンは敵が「上って来い」と言ったら「上って行こう」と言いました。ヨナタンは敵のことばであってもことばの裏を読むようなことをしない真っ直ぐな性格の人物であったことが伺えます。だからヨナタンは人気があるんでしょうか。野球のピッチャーで言えば、変化球をあまり使わないで直球だけでガンガン勝負していくような感じでしょうか。

 そうしてヨナタンと道具持ちの二人が敵のペリシテ人の先陣の前に姿を現した時、敵は彼らに言いました。「おれたちのところに上って来い。思い知らせてやる。」それゆえヨナタンは敵の所に上って行くことにしました。ヨナタンは道具持ちに言いました。「私について上って来なさい。がイスラエルの手に彼らを渡されたのだ。」ヨナタンはいつも主のことを考えていました。

 こうしてヨナタンは13節にあるように部下の道具持ちと二人で敵の先陣を攻撃しました。この時にヨナタンと道具持ちが最初に討ち取ったのは約20人であったと14節に書いてありますから、そんなに多い数ではありません。しかし、このことで、ヨナタンの奇襲攻撃で敵のペリシテの大軍は大混乱になりました。そうして、23節に書かれているように、その日、主はイスラエルを救いました。

 主はヨナタンの信仰を義と認められたのですね。そうして後にヨナタンはダビデを助けることになります。ヨナタンは自分の父のサウル王がダビデを殺そうとしていることをダビデに教えて、ダビデを助けました。この場面は、いずれまたこの祈り会で見ることにしたいと思います。
 
 さて、このヨナタンがわずか二人で果敢に敵陣に攻撃を仕掛けた場面について思い巡らしている中で、今の日本の悪い状況から主が救って下さるように、もっと祈るべきだと示されています。いろいろな方面で、いま日本は悪に支配されていることを感じます。熱海の土石流の災害は、違法な盛り土が被害を大きくした可能性が強まっています。業者は15メートルの盛り土を申請しておいて実際はもっと高く土を盛っていたらしいということです。しかも、土だけではなくて廃棄物が違法に混入していたらしいとも言われていますから、メチャクチャな話です。こういう違法行為が行われていたことに恐ろしさを感じます。

 千葉県の八街市で下校途中の小学生の列に飲酒運転の車が突っ込んだ死亡事故も、運転手は恐らくは飲酒運転の常習者だったと思われます。酒を飲んで運転したのは、この日だけだったということはないでしょう。悪に支配されていることを感じます。

 東京オリンピックも緊急事態宣言下で行われようとしています。いろいろな意見があるかもしれませんが、私はこれも悪いことだと考えます。外国から来日する選手たちと一般市民が接近することのないように対策するとのことですが、実際は既に一般市民と選手がすぐ近くをすれ違うということが起きています。これもまたひどい話です。これらの悪い状況から、この世が救われるように、もっと祈るべきだと思わされます。

 このところ私は、礼拝メッセージで最後の晩餐の学びを始めてから、以前よりも祈りが深まって来ているように感じています。祈る時に御父と御子との交わりを感じながら祈れるようになったからです。イエス様は天の御父と一つのお方であること、またイエス様が御父の内にいて、御父がイエス様の内にいることを以前よりも意識するようになったことで、お祈りの最初の天の父への呼び掛けの時にもイエス様を意識できるようになりました。

 以前は祈りの最初に天の父に呼び掛けて、最後に「イエス様のお名前を通してお祈りします」と言うまでに間(ま)が開くと、父と子がバラバラであるような感じが何となくしていました。しかし、今は天の父とイエス様が一つであることを感じながら祈っていますから、天の御父とイエス様とのバラバラ感がなくなりました。祈る時に御父と御子との交わりを感じることができるようになったことで、神様を一層近くに感じることができるようになった気がします。そうして、その中で、この世が悪から救われるように、祈って行く必要を示されています。

 ヨナタンは主を信頼して、わずか二人で敵陣を果敢に攻撃しました。そうして主はヨナタンの信仰を義と認めてイスラエルを救いました。私たちも、小さな者たちですが、ヨナタンのように祈りで果敢に戦いたいと思います。そうして世がこれ以上悪に傾いて行くことがないよう、イエス様に救っていただきたく願います。お祈りします。

6 ヨナタンは道具持ちの若者に言った。「さあ、この無割礼の者どもの先陣のところへ渡って行こう。おそらく、がわれわれに味方してくださるだろう。多くの人によっても、少しの人によっても、がお救いになるのを妨げるものは何もない。」
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他人の評価に反応し過ぎたサウル(2021.7.1 祈り会)

2021-07-02 08:43:45 | 祈り会メッセージ
2021年7月1日祈り会メッセージ
『他人の評価に反応し過ぎたサウル』
【Ⅰサムエル10:20~27】

Ⅰサムエル10:20 サムエルは、イスラエルの全部族を近づかせた。すると、ベニヤミンの部族がくじで取り分けられた。
21 そして、ベニヤミンの部族を、その氏族ごとに近づかせた。すると、マテリの氏族がくじで取り分けられた。そして、キシュの息子サウルがくじで取り分けられた。人々はサウルを捜したが、見つからなかった。
22 人々はさらに、に「あの人はもう、ここに来ているのですか」と尋ねた。は「見よ、彼は荷物の間に隠れている」と言われた。
23 彼らは走って行って、そこから彼を連れて来た。サウルが民の中に立つと、民のだれよりも、肩から上だけ高かった。
24 サムエルは民全体に言った。「がお選びになったこの人を見なさい。民全体のうちに、彼のような者はいない。」民はみな、大声で叫んで、「王様万歳」と言った。
25 サムエルは民に王権の定めについて語り、それを文書に記しての前に納めた。それから、サムエルは民をみな、それぞれ自分の家へ帰した。
26 サウルもギブアの自分の家へ帰って行った。神に心を動かされた勇者たちは、彼について行った。
27 しかし、よこしまな者たちは、「こいつがどうしてわれわれを救えるのか」と言って軽蔑し、彼に贈り物を持って来なかった。しかし彼は黙っていた。

 木曜日の夜の祈祷会では4月から第一サムエルを学んでいて、今はサウルがイスラエルの王様になろうとしている箇所に差し掛かっています。前回は、第一サムエル9章の17節と21節に注目しました。まず9章17節、

9:17 サムエルがサウルを見るやいなや、は彼に告げられた。「さあ、わたしがあなたに話した者だ。この者がわたしの民を支配するのだ。」

 主はサウルをイスラエルの王とすることをサムエルに告げました。それで、サムエルはそのことをサウルに伝えました。するとサウルは答えました21節です。

21 「私はベニヤミン人で、イスラエルの最も小さい部族の出ではありませんか。私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、取るに足りないものではありませんか。どうしてこのようなことを私に言われるのですか。」

 サウルは自分が小さい者に過ぎないと言って、とても戸惑っていました。しかし、主はこのように小さな者を大きく用いるお方だということを前回は話しました。ダビデもエッサイの息子たちの中では一番末の小さい者でした。イエス様の母マリアもナザレという小さな田舎町の小さい女性でした。ペテロも北のガリラヤ湖で漁師をしている小さな者でした。主は、これらの小さい者たちを大きく用います。

 サウルもまたベニヤミン族という小さな部族の小さな者でした。そして、主はこのサウルを大きく用いようとしていました。しかし、結局サウルは主とサムエルの期待に応えることができませんでした。

 ここ1ヶ月ほど、サウルが登場する場面に差し掛かって来て、私はサウルについて考えています。これまで私はサウルについてじっくりと思いを巡らしたことはありませんでしたから、サウルは、ダビデを殺そうと追い掛け回した悪い王だというぐらいのイメージしか持っていませんでした。しかし今回、サウルについて思いを巡らすうちに段々とサウルに同情する思いが湧いて来ました。サウルの生涯は気の毒な生涯だったなという気がしています。

 サウルは何しろイスラエルの初代の王でしたから、前例を知りません。王とはどのように振る舞うべきかの帝王学の教育は一切受けていません。一方のダビデは2代目でしたから、サウルを反面教師として王はどのようにあるべきかを多少は学ぶことができました。ペテロも初代教会のリーダーになる前には、イエス様からいろいろなことを学ぶことができました。しかし、サウルの場合はいきなり王に抜擢された訳ですから、何が何だか分からないうちに失敗を重ねてしまいました。

 先ほど、10章の20節から27節までを交代で読みましたが、10章の1節からをざっと見ておきたいと思います。

10:1 サムエルは油の壺を取ってサウルの頭に注ぎ、彼に口づけして言った。「が、ご自分のゆずりの地と民を治める君主とするため、あなたに油を注がれたのではありませんか。

 この10章1節で、サウルはサムエルから油を注がれました。次いで9節でサウルは神様から新しい心を与えられ、10節では神の霊が彼の上に激しく下りました。9節と10節をお読みします。

9 サウルがサムエルから去って行こうと背を向けたとき、神はサウルに新しい心を与えられた。これらすべてのしるしは、その日のうちに起こった。
10 彼らがそこからギブアに行くと、見よ、預言者の一団が彼の方にやって来た。すると、神の霊が彼の上に激しく下り、彼も彼らの間で預言した。

 このようにサウルはサムエルから油を注がれ、神の霊も激しく下っていましたから、イスラエルの全部続の前でくじで取り分けられた時に、荷物の間に隠れている場合ではありませんでした。20節から22節をお読みします。

20 サムエルは、イスラエルの全部族を近づかせた。すると、ベニヤミンの部族がくじで取り分けられた。
21 そして、ベニヤミンの部族を、その氏族ごとに近づかせた。すると、マテリの氏族がくじで取り分けられた。そして、キシュの息子サウルがくじで取り分けられた。人々はサウルを捜したが、見つからなかった。
22 人々はさらに、に「あの人はもう、ここに来ているのですか」と尋ねた。は「見よ、彼は荷物の間に隠れている」と言われた。

 サウルはサムエルによって油が注がれ、神様から霊が激しく下っていたにも関わらず、まだ王としての自覚が十分にできていませんでした。いきなり王に担ぎ上げられた訳ですから、戸惑うのも当然ですが、ではサウルはどうすれば良かったのでしょうか?サウルの何が悪かったのでしょうか?

 サウルは他人の評価を気にし過ぎた人物だったと言えるでしょう。他人の自分への評価の高低にいちいち反応して、自滅してしまった気がします。サウルは人の評価の声ではなく、もっと神様の声に耳を傾けるべきでした。神様が彼を用いようとしているのですから、その神様にすべてをお委ねして、人間の評価に一喜一憂することをやめるべきでした。

 でも、王に立てられたサウルは早速、人々の評価の渦の中に投げ込まれてしまいました。その点で、とても気の毒に思います。荷物に隠れていた22節の後の23節と24節をお読みします。

23 彼らは走って行って、そこから彼を連れて来た。サウルが民の中に立つと、民のだれよりも、肩から上だけ高かった。
24 サムエルは民全体に言った。「がお選びになったこの人を見なさい。民全体のうちに、彼のような者はいない。」民はみな、大声で叫んで、「王様万歳」と言った。

 この「王様万歳」は、何の実績もないサウルに対しては高過ぎる評価だと思います。でも、この「王様万歳」を聞いたことで、サウルは舞い上がってしまったかもしれません。荷物の間に隠れていた時は自信が無かったのが、急に自信が湧いて来て、「自分は小さい者」だということを忘れてしまったかもしれません。続いて25節と26節、

25 サムエルは民に王権の定めについて語り、それを文書に記しての前に納めた。それから、サムエルは民をみな、それぞれ自分の家へ帰した。
26 サウルもギブアの自分の家へ帰って行った。神に心を動かされた勇者たちは、彼について行った。

 この26節の勇者たちがサウルに付いて行ったことも、サウルにとってはとても心強いことだったと思います。それが、次の27節で、突き落とされます。

27 しかし、よこしまな者たちは、「こいつがどうしてわれわれを救えるのか」と言って軽蔑し、彼に贈り物を持って来なかった。しかし彼は黙っていた。

 主がサウルを王として立てたのですから、サウルは民を救うことができます。サウルは人の評価を気にせず、主の御声を聴いて主に委ねていれば、良かったんですね。しかし、人の評価を気にしていたサウルは最初は荷物の間に隠れるほど自信がなく、それが「王様万歳」と人々が言ったことで舞い上がり、「こいつがどうしてわれわれを救えるのか」と言われた時には再び自信を失い、人々の評価に激しく反応してしまいました。

 サウルが他人の評価をとても気にする人であったことは、後にダビデが活躍するようになった時に、女たちが「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」(Ⅰサムエル18:7)と笑いながら歌い交わした時に彼が激しく怒ったことからも、よく分かります。

 私も他人の評価が気になるほうですから、サウルの気持ちはよく分かります。でも、他人の評価に振り回されていては、神様を失望させることになります。どのような立場でも、信徒として主に仕えるにしても、牧師として主に仕えるとしても、どのような立場でも、主にお委ねして、主に用いられやすい者として、他人の評価に一喜一憂することなく、淡々と主にお仕えしたいと思います。

 サウルには神様に心を動かされた勇者たちが付いていました。神様の配慮で、サウルの周りには心強い勇者たちが近くに付けられました。ですから神様を信頼して、勇者たちと共に神様の御心に従い、神様に仕えるべきでした。

 私たちにも、心強い教会の兄弟姉妹方がいます。この兄弟姉妹方は皆、神様に心を動かされた勇者たちです。この勇者たちと共に私たちは神様にお仕えして行きたいと思います。周囲の状況に一喜一憂することなく、神様を信頼して歩んで行きたいと思います。お祈りいたします。

26 サウルもギブアの自分の家へ帰って行った。神に心を動かされた勇者たちは、彼について行った。
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ヨハネの福音書とヨハネの手紙第一の補い合う関係(2021.6.23 祈り会)

2021-06-24 08:31:52 | 祈り会メッセージ
2021年6月23日聖書と祈りの会・勧話
『ヨハネの福音書とヨハネの手紙第一の補い合う関係』
【Ⅰヨハネ1:1~4】

Ⅰヨハネ1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。
2 このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。
3 私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。
4 これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。
5 私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。
6 もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。

 先日の日曜日の礼拝で、ヨハネの福音書とヨハネの手紙第一は互いに補い合う関係にあるという話をしました。きょうは、そのことを少し補足しておきたいと思います。

 いまご一緒に読んだ、第一ヨハネ1章の始めの1節と2節には、イエス・キリストが人の姿でヨハネたちの前に現れたことが記されています。

「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。このいのちが現れました。」

 このように、イエス様は肉体をもって現れましたから、ヨハネたちは見ること、そして触ることができました。そして、この人として現れたイエス様のことを見たので証ししてあなたがたに伝えますと2節の後半に書いていますが、その証しはこの手紙には書かれていません。ということは、この証ししてあなたがたに伝えますというのは、福音書のことを指しているのでしょう。それゆえ、この手紙は福音書を補完するものであると考えられます。そして、福音書もこの手紙を補完しています。ヨハネたちが見たイエス様はどのようなお方であったかを福音書は書いていますから、福音書はこの手紙を補完していると言えると思います。

 ヨハネの福音書とヨハネの手紙第一は、このような関係にありますから、手紙を読むと福音書のことが、より良く分かるようになります。例えば、手紙の1章3節を読むと、

3 私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。

とありますから、福音書もまた御父また御子イエス・キリストとの交わりを持つようになるための書なのだなということが示唆されます。そういう目線で福音書を読むと、確かにそうなんですね。

 ヨハネの福音書の17章では、イエス様が「最後の晩餐」の終盤に天の父に祈っています。21節を見ましょう。

ヨハネ17:21 父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。

 御父と御子との関係はここにあるように、御父が御子の内におられ、御子が御父の内にいるという関係です。つまり、父と子は一つです。この一つである御父と御子の交わりの中にヨハネはいて、ヨハネは手紙と福音書の読者を、この交わりの中に招いています。

 第一ヨハネに戻ります。4節、

4 これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。

 この御父と御子との交わりの中に入れられると、喜びが満ちあふれます。ヨハネは、この交わりの喜びの中に多くの人々に加わって欲しいと願っています。そうしてヨハネは、この交わりの中で人々に光の中を歩んでもらいたいと願っています。5節、

5 私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。

 そして、きょうもう一つ分かち合いたいのは、次の6節にある「真理」ということばについてです。6節、

6 もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。

 この6節は、ヨハネが「真理」ということばをどういう意味で使っているかを、分かりやすく示してくれていると思います。ヨハネの福音書と手紙には、「真理」ということばがたくさん使われています。例えば、ヨハネの福音書の有名な14章6節です。

ヨハネ14:6 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」

ここで「真理」が使われています。

 この「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」の中で使われている「真理」には、何だかとても格調が高い雰囲気が漂っています。でも、その格調の高さのゆえに難解さを感じます。しかし、ヨハネの手紙1章6節は、この「真理」をそんなに難しく考える必要はないことを教えてくれています。第一ヨハネ1章6節でヨハネは、もし「私たちが…闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません」と書いていますから、ここで「真理」は「偽り」の反対語として使われています。この「真理」は英語では「truth」です。つまり「嘘か本当」かの「本当」が「truth」です。

 聖書の日本語訳は「真理」ということばで格調の高い雰囲気が漂っていますが、それが却って「真理」の意味を分かりにくくしているように思います。「真理」ではなくて、「真実」にするか、或いはもっとくだけて「嘘か本当か」の「本当」ということばを使うなら、もっとずっと分かりやすくなるように思います。

 第一ヨハネ1章6節で言えば、こうです。

Ⅰヨハネ1:6 もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは「嘘」を言っているのであり、本当のことを行っていません。

 或いは、ヨハネ14章6節は、こう言ったらどうでしょうか。

ヨハネ14:6 「わたしが道であり、本当であり、いのちなのです。」

 「本当」だとあまり格調が高くないのであれば、「真実」でも良いと思います。

ヨハネ14:6 「わたしが道であり、真実であり、いのちなのです。」

 このヨハネの福音書の「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」は、次の礼拝で改めて学びたいと思います。

 きょうは、ヨハネの手紙第一を読むと、ヨハネの福音書のことがもっと良く分かるようになるという話をしました。

 ヨハネは私たちを御父と御子との交わりの中に招いて、私たちが嘘であふれた闇の中を歩むのでなく、本当のお方、真実なお方であるイエス・キリストと共に光の中を歩むよう招いています。

 今はオリンピックのことなどでも、この世が闇に支配されていることを感じます。イエス様と共に光の中を歩むことができるように、御父と御子との交わりの中に入れていただきたいと思います。お祈りいたします。

3 私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。
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