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一粒のタイル2

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

あらゆる民の祈りの家(2022.4.7 祈り会)

2022-04-10 12:40:37 | 祈り会メッセージ
2022年4月7日祈り会メッセージ
『あらゆる民の祈りの家』
【マルコ11:15~19、イザヤ2:1~4、56:6~7】

 きょうは4月7日で、17日のイースターの日まであと10日です。十字架の金曜日と復活のイースターに向けて、心を整えて行きたいと思います。

 きょうの聖書箇所は先日の礼拝説教で開いた箇所と同じですが、礼拝では主に15節に注目しました。きょうは17節に注目したいと思います。17節をもう一度、お読みします。

マルコ11:17 そして、人々に教えて言われた。「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」

 この17節のイエス様のことばの中には旧約聖書からの引用が2箇所あります。二重の鍵括弧でくくってある箇所で、1つ目の『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』はイザヤ書からの引用、2つ目の『強盗の巣』はエレミヤ書からの引用です。きょうはイザヤ書のほうを見て、再来週、エレミヤ書のほうを見たいと思っています。来週は最後の晩餐の日ですから、別の箇所を開いて聖餐式を行いたいと願っています。来週の祈り会の司会は私ですから、前半に短く聖書を開いて心を整え、そして皆でお祈りをした後で、後半は聖餐式を行いたいと思います。
 
 では、イザヤ書を開く前に先日の礼拝で注目した15節を簡単に振り返っておくことにします。15節をもう一度お読みします。

15 こうして彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮に入り、その中で売り買いしている者たちを追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。

 イエス様がこの15節でしたことは、随分と乱暴に見えます。でも、このエルサレムの宮の状態を私たち一人一人の心の中の状態であると考えるなら、これぐらい乱暴に片づけてもらわなければならないほど、私たちの心の中には余計な物がいろいろと運び込まれているのかもしれない、そういう話をしました。

 エルサレムの宮は一番聖所に近い内側に①男子の庭があり、その外側に②婦人の庭、そして一番外側に③異邦人の庭があったそうです。そして商売人たちが商いをしていたのは一番外側の異邦人の庭であったということです。異邦人はここまでしか入ることが許されていませんでしたから、異邦人にとっては、ここが祈りの場です。その祈りの場に商売や両替をしている人たちがいたのでは、騒がしくて祈りに集中できなかったことでしょう。

 一方、祭司長たちは男子の庭(或いはさらにその内側)で祈りに集中することができました。異邦人の庭と男子の庭の間には婦人の庭がありましたから、男子の庭は静かであったことでしょう。そうして、祭司長たちは自分たちは静かな場所で祈り、主を愛していると思い込んでいましたが、隣人である異邦人たちを愛することができていませんでした。しかも、祭司長たちは商売人たちに宮の中で商いをする権利を与えることで利益も得ていたということです。そうして祭司長たちはエルサレムの宮の異邦人の庭を自分たちの私腹を肥やすために利用していました。この罪に気付かずに、自分たちは主を愛していると思い込んでいました。

 このことをイエス様は厳しく咎めて乱暴な形で商売人たちを追い出しました。でも、こういう祭司長たちの隣人を愛さない自己中心は私たちの中にも少なからずあるかもしれないと先日の礼拝では話しました。この後でイエス様は十字架に掛かって死にます。その十字架でイエス様が流した血によって私たちの罪で汚れた心はきよめられます。でも、イエス様の血によってきよめられる以前に、まず余計な物を取り除いていただかなければ、血によってきよめていただくことはできないでしょう。机の上のアルコール消毒にたとえるなら、机の上にいろいろな物が載っていたら消毒はできません。消毒する前に先ずは机の上を片付ける必要があります。

 同様に、イエス様の血によって心をきよめていただくには、先ずは余計なものを取り除いていただかなければなりません。もし余計な物が多くあるなら、その取り払い方が少々乱暴になっても仕方のないことでしょう。

 心の中がいろいろな物で占領されているなら、心が狭くなって隣人を愛することができなくなります。エルサレムの宮の異邦人の庭は余計な物で占領されていました。そして、それを許した祭司長たちの心の中もまた狭くなっていました。イエス様がイザヤ書を引用しておっしゃったように、エルサレムの宮はあらゆる民の祈りの家です。ですから、異邦人も静かに祈ることができる場に祭司長たちはしておかなければなりませんでした。それができていなかったので、イエス様は少々乱暴な方法で宮きよめを行いました。

 イエス様が引用したイザヤ書56章を、ご一緒に見ましょう(旧約p.1263)。6節と7節を読みます。

イザヤ56:6 また、に連なって主に仕え、の名を愛して、そのしもべとなった異国の民が、みな安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、
7 わたしの聖なる山に来させて、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のささげ物やいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。なぜならわたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ。

 ここには異邦人のことが書かれています。6節に「異国の民」とあり、異国の民もイスラエルの民と同じように安息日を守って主との契約を堅く保つなら、主は異国の民を聖なる山に来させて、主の祈りの家で楽しませて下さいます。なぜなら、7節の最後の文にあるように、主の家は、「あらゆる民の祈りの家と呼ばれるから」です。主はイスラエル人も異邦人も区別なく、エルサレムの宮をあらゆる民の祈りの家として下さっています。それなのに祭司長たちはエルサレムの宮の異邦人の庭で商売人たちに商売をさせて、その権利を与えることで利益を得て私腹を肥やしていました。隣人の異邦人を少しも愛しておらず、それでいて、自分たちは主を愛しているつもりでいました。このことをイエス様は厳しく咎めて乱暴な方法で宮きよめを行ったのですね。

 イザヤ書は、いろいろな箇所で、主の救いがあらゆる民にもたらされることを預言していますね。例えば、イエス様の十字架を預言した有名なイザヤ書53章の直前の52章10節で、イザヤはこのように預言しています(旧約p.1258)。

イザヤ52:10 はすべての国々の目の前に聖なる御腕を現された。地の果てのすべての者が私たちの神の救いを見る。

 このイザヤの預言の通り、主はすべての国々のすべての者たちが神の救いを見ることができるようにして下さいましたから、日本人の私たちも救いの恵みに与っています。それは、イエス様がすべての者の罪のため、私たちの罪のために十字架に掛かって下さったからです。その十字架がイザヤ書53章で預言されて、イエス様の時代に成就しました。その十字架の直前に、イエス様は少々乱暴な方法で宮きよめをしました。乱暴にしなければ片付かないほど多くの余計な物が置かれていたからです。そして、余計な物が置かれているのは私たちの心の中も同じかもしれません。もし余計な物が置かれているとしたら、イエス様の血によるきよめが妨げられて、隣人を愛することができなくなります。

 今、ロシアが隣人のウクライナを愛することができずに悲惨なことが起きています。イエス様はこのことをどんなに悲しんでおられることでしょうか。最後にイザヤ書2章1節から4節までをご一緒に見たいと思います(旧約p.1169)。

イザヤ2:1 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見たことば。
2 終わりの日に、の家の山は山々の頂に堅く立ち、もろもろの丘より高くそびえ立つ。そこにすべての国々が流れて来る。
3 多くの民族が来て言う。「さあ、の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。」それは、シオンからみおしえが、エルサレムからのことばが出るからだ。
4 主は国々の間をさばき、多くの民族に判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。

 イザヤ書は2章という非常に早い段階で、すべての国々が主の家に流れて来ると預言しています。2節にありますね。「そこにすべての国々が流れて来る」と。そして3節、

3 多くの民族が来て言う。「さあ、の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。」それは、シオンからみおしえが、エルサレムからのことばが出るからだ。

 エルサレムの宮にはすべての国々の民族が集って、主の平和のメッセージを受け取ります。そうして4節にあるように彼らはその剣を鋤(すき)に、槍を鎌に打ち直します。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学びません。そういう平和な世になるとイザヤは預言しました。

 それなのに、今なお戦争が絶えることがありません。ウクライナでは残虐な方法で多くの人々の命が奪われました。イエス様は、このことをどんなに悲しんでおられることでしょうか。こういうイエス様を悲しませる悲惨な戦争を繰り返す限り、終わりの日の平和は決して訪れないのではないでしょうか。

 皆が隣人を愛することができる世になるように、祈らなければなりません。隣人を愛することを妨げる余計な物を心の宮からイエス様に取り除いていただいて、そうしてイエス様の血によってきよめていただき、皆が隣人を愛することができるようにしていただきたいと思います。

 お祈りいたしましょう。

「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。」
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誓ってはいけません(2022.3.17 祈り会)

2022-03-18 15:06:31 | 祈り会メッセージ
2022年3月17日祈り会メッセージ
『誓ってはいけません』
【マタイ5:33~37】

マタイ5:33 また、昔の人々に対して、『偽って誓ってはならない。あなたが誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
34 しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。天にかけて誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。
35 地にかけて誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムにかけて誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。
36 自分の頭にかけて誓ってもいけません。あなたは髪の毛一本さえ白くも黒くもできないのですから。
37 あなたがたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているのです。

 先週から、天の考え方に馴染むことを始めています。平和のために私たちはもっときよくなる必要があると思います。その場合、きよくなるとは、きれいになることだと考える人が少なくないかもしれません。しかし、きよくなるとはきれいになるとは少し違って、天の考え方に馴染んで身に着けて行くことではないか、そういう話を先週の祈り会と礼拝でしました。

 天の考え方はいろいろな点で私たちのこの世の常識とは異なります。この天の考え方を身に着けるなら、私たちは平和をつくる者へとつくり変えられていくのだと思います。

 さてしかし、平和のために天の考え方を身に着けるとしたら、避けて通れないのがマタイ5章の38節から48節に掛けてではないかと思います。イエス様は39節でおっしゃいました。

マタイ5:39 「あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。」

 或いはまた、イエス様は44節でおっしゃいました。

44 「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」

 平和をつくる者にされるためには、これらのイエス様のことばは避けて通れず、しっかりと向き合う必要があると思います。それで、次の20日の礼拝では39節と向き合いたいと願っています。そして27日の礼拝では44節と向き合うことを考えています。その前に、きょうの祈り会ではそれらの手前の33節から37節までをご一緒に見てみたいと思います。

 きょうの箇所でイエス様は「誓ってはいけません」とおっしゃっています。33節と34節、

33 また、昔の人々に対して、『偽って誓ってはならない。あなたが誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
34 しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。天にかけて誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。

 この、「~と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います」というフレーズは、前のページの21節から繰り返し使われているものです。そして、イエス様はきょうの箇所では「誓ってはいけません」とおっしゃっています。どうして誓ってはいけないのでしょうか。

 先ず思い浮かぶことは、誓う人は自力で何とかしようとするタイプの人たちであろう、ということです。そうして失敗を繰り返す傾向があるように思います。「もう二度と〇〇はしません。誓います。」と言っても、すぐにまたしてしまいます。人間は弱いですから、誓っても守れないものは守れません。モーセの時代のイスラエルの民も、「主の言われたことはすべて行います」(出エジプト24:3)と言いましたが、できませんでした。

 自力で何とかするのは無理です。ですから、誓ってでもやり通したいことがあるなら、それを誓うのではなく、それができる者へと変えられるように、神様に祈るべきでしょう。イエス様も言っておられますが、私たちは髪の毛一本さえ白くも黒くもできないほど無力な者です。ですから自分で自分を変えることはできません。神様に祈って変えていただかなければなりません。そうして天の父が完全であるように、完全な者へと変えられて行かなければなりません。48節のイエス様のことばの、

48 「ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。」

は、この直前のことばだけを受けているのではなく、きょうの箇所を含めたもっと前の箇所からのことばを受けているのでしょう。それは21節からかもしれませんし、もしかしたら山上の説教の最初の5章3節からのことばがすべて48節に掛かっているのかもしれません。

 天の父のように完全になることは、自力であればもちろん無理です。でも天の父に不可能なことはありませんから、それを信じて天の父のような完全な者へと変えられますようにと祈るべきだと、イエス様はおっしゃっているのではないでしょうか。

 次に、もう一つ、どうして誓ってはいけないのか、考えられることがあります。それは、私たちは明日にはどうなっているか分からない、ということがあるように思います。例えば、「私は明日から毎朝必ず1時間以上祈ります」と誓ったとします。でも明日の朝、自分がどうなっているのかは神様しかご存じないことです。「これからは教会の集会にはすべて出席します」と誓ったとしても、コロナで集会に出席できなくなるかもしれません。或いはまた、大きな地震が起きるかもしれません。あってはならないことですが、戦争が起きてしまうかもしれません。

 明日、自分がどうなっているのかが分からないということを示す恐ろしい箇所がルカの福音書にありますね。ご一緒に見てみたいと思います。ルカの福音書12章16~21節です(p.141)。お読みします。

ルカ12:16 それからイエスは人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。
17 彼は心の中で考えた。『どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。』
18 そして言った。『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。
19 そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」』
20 しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
21 自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」

 この箇所を初めて読んだ時、ぞっとしたことをよく覚えています。このように、私たちには、自分の身が明日はどうなっているのかまったく分かりません。神様だけがご存じです。但し、これは恐ろしい例であって、反対に素晴らしいことだって有り得ます。自分では予期していなかった良いことが起きることもあるかもしれません。御霊の実が少し結ばれて、イエス様に似た者に少し近づくことも有り得ます。そうして、段々とイエス様に似た者へと変えられて行きます。自分の身に明日何が起きるか私たちには分かりませんが、それは悪いことばかりではなく、良いことが起きるかもしれません。それを知っているのは神様だけです。ですからすべてをご存じの神様にすべてをお委ねして、祈りつつ、一日一日を生きて行くべきではないでしょうか。

 39節の「あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」と44節の「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」も同じように、すべてを神様にお委ねしてそのような者に変えられるように祈りつつ日々を過ごすべきなのかもしれません。それは礼拝でまた改めて、ご一緒に思いを巡らしてみたいと思います。お祈りいたしましょう。
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神様の考え方に馴染んできよくなる(2022.3.10 祈り会)

2022-03-14 09:23:01 | 祈り会メッセージ
2022年3月10日祈り会メッセージ
『神様の考え方に馴染んできよくなる』
【マタイ18:1~5】

 今、ウクライナで起きていることを私たちは毎日テレビやネットで見て、平和の重要性を改めて感じているところです。そして同時に、「きよめ」という言葉についても改めて考え直してみる必要があるのではないかと思わされています。

 平和をつくるためには、きよくなる必要があります。この、「きよくなること」に関しては「心がきれいになること」と考える人が少なくないかもしれません。もちろん、「心がきれいになること」で大きな間違いはないと思いますが、誤解を招きやすい表現であるという気がします。きよくなることが、心がきれいになることだとすると、自分には無理だとあきらめてしまう人もいるかもしれません。それは、とても残念なことです。

 誤解を招きやすい他の呼び方の例を挙げると、キリスト教とは関係ありませんが、たとえば「認知症」のことを昔は「痴呆症」と呼んでいました。これは、かなり誤解を含んだことばだと思います。「痴呆になる」とは、あまり使いたくないことばですが「馬鹿になる」と言っているに等しいと思います。しかし、「認知症」は決して馬鹿になる病気ではないですね。

 或いはまた、「生活習慣病」のことを昔は「成人病」と呼んでいました。「成人病」を「生活習慣病」と呼ぶことにしようと提案したのは日野原重明さんだそうですね。高血圧や糖尿病などを「成人病」と呼んでいた頃は、大人になったら掛かっても仕方がない病気だという誤解がありましたが、食事や運動などの健康管理に気を配って良い生活習慣を身に着けているなら掛かりにくい病気であると認識が改められました。

 「きよめ」或いは「きよくなる」も誤解を招きやすいことばのように感じます。「きよめ」或いは「きよくなる」ということば自体を変える必要はありませんが、誤解を解く必要はあるのだろうと思います。

 ですから、これから少しの期間、祈り会と、そして礼拝でも分かち合って行こうかと思っています。それは私たちがきよくならなければ、平和をつくることができないからです。

 結論から先に言うと、「きよくなる」とは、神様の考え方に馴染んで、それを身に着けて行くことではないかと思います。まずは聖書によって神様の考え方に馴染んで行くことから始めるなら、きよめへのハードルもそんなに高くはならないだろうと思います。

 聖書を見て行きましょう。マタイ18章の1節、

マタイ18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか。」

 この箇所は、マルコとルカの福音書では、弟子たちの間で誰が一番偉いか論じ合っていたと書かれています。また、マタイはこの後の20章でゼベダイと息子のヤコブとヨハネの母親がイエス様に、「私のこの二人の息子があなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、おことばを下さい。」と頼んだことを書いていますから、18章1節の、弟子たちの質問の「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか」は、「弟子たちの中で誰が一番偉いのですか」ということなのでしょう。

 しかし、そもそも神様の中には、誰が一番偉いのか、というような考え方はないのだろうと思います。4節でイエス様は「だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです」とおっしゃっていますが、これは弟子たちの質問に付き合っただけで、そもそも誰が一番偉いなどという考え方は神様はしないのだと思います。

 「誰が一番偉いか」は、とても人間的な考え方です。こういう考え方を私たちは幼子から大人へと成長するに連れて、だんだん身に着けていってしまいます。それゆえイエス様は一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて(2節)、3節でこう言われました。

3 「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。」

 これが神様の考え方です。私たちが幼子から大人に成長する過程で身に着けてしまった人間的な考え方を、私たちは手放して幼子のようにならなければなりません。ただし、私たちが身に着けたものの全てが天の御国にふさわしくないということはないでしょう。全部手放して皆が全くの子どもになったら、社会は混乱するでしょう。大人として身に着けるべきことは当然あることと思います。そこら辺が、とても難しい点だと思います。何を手放し、何は手放さなくても良いのか、それが分かるようになって行き、身に着けて行くことが、きよめられて行くということではないでしょうか。人間的な考え方ではなく、神様の考え方に馴染んで少しずつ身に着けて行くこと、と同時に不必要な人間的な考え方は手放して行くこと、それがきよめられていく、ということではないでしょうか。

 神様の考え方がどのようなものかは、難しいですが、自分を低くすることが大切であることが4節から分かります。4節、

4 「ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。」

この4節のことばからは、最後の晩餐でイエス様が弟子たちの足を洗った場面を思い起こしますね。ヨハネの福音書13章には、次のように書かれています。

ヨハネ13:4 イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
5 それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。

 そうして、イエス様はこの最後の晩餐の後、十字架の受難へと向かって行きました。これも人間の常識では考えられないことです。ピリピ人への手紙でパウロは書きました。

ピリピ2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。

 ここまで自らを低くするのが神様の考え方だということですね。きよくなることが、きれになることとは少し違うということが、この十字架からも分かることと思います。心がきれいであれば十字架に付くことができるかと言えば、それは難しいことではないでしょうか。

 最後にマタイ18章5節、

マタイ18:5 「また、だれでもこのような子どもの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。」

 自分を低くしたイエス様を受け入れるには、大人の人間の常識にとらわれていては難しいことです。まして、イエス様と似た者にされることは、もっと難しいことです。でも、それができないから、この世はいつまで経っても平和が訪れないのでしょう。
 私たちは平和をつくる者とされたいと思います。ですから、私たちは大人の常識を少しずつでも手放して、自らを低くされたイエス様に似た者へときよめられて行きたいと思います。お祈りいたしましょう。

3 「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。」
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主の山に登って得られる深い平安(2022.3.3 祈り会)

2022-03-04 10:22:41 | 祈り会メッセージ
2022年3月3日祈り会メッセージ
『主の山に登って得られる深い平安』
【詩篇24:1~6】

 2週間前のこの祈り会では、その少し前に開かれた静岡市の牧師会でのヨーロッパの宣教師の話を紹介しました。その先生は、ウクライナの危機は第3次世界大戦の引き金にも成りかねない大きな危険をはらんでいる。日本人はもっとウクライナの問題を深刻に受け留めるべきだと話していました。そして、1週間前の24日の木曜日にロシアは本当にウクライナへの侵攻を始めました。正直のところ2週間前の私はこの問題の深刻さが、まだよく分かっていませんでした。しかし、戦争になってウクライナの人々が苦しむ様子が報道されるようになって、この事態の深刻さがようやく分かりました。

 私たちが直ちにすべきことは、まずは祈ることです。きょうの夕方、メールで日本福音同盟(JEA)からの祈りの要請の文書を教会の皆さんに送り、会堂の掲示板にも掲示しました。また、祈るだけでなく、人道支援のための募金に協力することも良いことでしょう。或いはまた、現地からのSNSの発信に応答して精神的に支援することも、日本にいながらできることだと思います。その他にも緊急にできることがいろいろあることでしょう。

 以上のことは緊急に必要なことです。そして、これらに加えて私たちには時間が掛かってでも、どうしてもしなければならないことがあります。それは、互いに愛し合うことができるようになることです。イエス様は最後の晩餐で弟子たちに「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34他)とおっしゃり、十字架に掛かって神様の愛を示して下さいました。

 そうして十字架の死から復活した後で、「平安があなたがたにあるように」と三度もおっしゃいました。平安がなければ互いに愛し合うことはできません。不安があると相手を信用できませんから、互いに愛し合うことができません。サウル王がそうでしたね。サウル王はダビデが人々の人気を得たことで、ダビデが自分の王位を奪うのではないかと不安になり、ダビデが信用できなくなりました。そうしてダビデを殺そうとしました。

 イエス様は、最後の晩餐で弟子たちに「互いに愛し合いなさい」と言った後、次のようにおっしゃいました。

ヨハネ14:27 わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。

 イエス様が与えて下さる平安に満たされるなら不安からは解放されますから、互いに愛し合うことができるようになる筈です。それなのに十字架から二千年が経った今もまだ、依然として私たちの住む世界では人々が互いに愛し合うことができずにいて、戦争が繰り返されています。イエス様はこのことを、どれほど悲しまれていることでしょうか。ですから私たちは互いに愛し合えるようになり、戦いのない平和な世界が実現できるようにならなければならないと思います。

 それを実現するためのヒントが、きょうの詩篇24篇には示されているように思います。特に3節です。3節、

詩篇24:3 だれがの山に登り得るのか。だれが聖なる御前に立てるのか。

 2月20日の礼拝説教では、「キリストは森林限界の上の天へ私を導く」という説教題で福音書の変貌山の箇所から話をしました。イエス様に出会う前の私たちは、富士山のふもとの暗い樹海の中をさまよっていたようなものです。光が届かない暗い森林で自分がどこから来たのかも分からなくなり、どちらへ向かったら良いのかも分からず、不安の中でさまよっていました。そんな私たちにイエス様は声を掛けて下さり、共に歩いて下さるようになり、やがて森林を抜けて見晴らしの良い場所に連れて行って下さいます。そうして、さらに高い所に連れて行って下さり、イエス様は神としての御姿を私たちに見せて下さいます。この変貌山の上にはペテロとヤコブとヨハネだけではなく、私たちの皆が招かれています。

 そして、きょうの聖書箇所の詩篇24篇3節でも、私たちは主の山の上に招かれていますから、これは変貌山への招きと同じです。この山の上に立つこととは、主の御前に立つことです。それは天国にとても近い場所ですから、心の深い平安が得られます。

 きょうは、この主の山に登るとは、どういうことかに、さらに思いを巡らしたいと思います。皆さんご承知のように、信仰とは自分で頑張ればその高みに行けるというものではありません。信仰の道とは自分で頑張って進むものではなく、自分が握っているものを少しずつ手放して、段々と神様にお委ねできるようになって行くことです。自分中心から神様中心になって行くことです。そうして身軽になって行くなら、イエス様が主の山の上の方へ連れて行って下さいます。

 そう言うと、それは随分と難しいことのように思えるかもしれませんが、教会に集う私たちは、ある程度の所までは来ている方々が大半でしょう。このことを詩篇24篇の1節から6節までを見ながら、確認したいと思います。まず1節、

詩篇24:1 地とそこに満ちているもの 世界とその中に住んでいるもの それはのもの。

 主は万物を創造して、私たちの命も主によって造られました。このことは、イエス様を信じて洗礼を受けた教会員であれば、私たちのほとんどが共有できていることでしょう。私たちは主のものであり、主によって生かされています。そして2節、

24:2 主が海に地の基を据え 川の上にそれを堅く立てられたからだ。

 主が天と地を創造されたことも教会の私たちは皆信じていますから、主が海に地の基を据えられたことも知っています。そして主は、私たちが住む場所を与えて下さいました。人が住む場所の多くは豊かな川の流域です。山や荒野の中に住む人もいますが、人口の多くは川の流域に集中します。人が住むには水が必要であり、また川は上流の山から豊かな養分を運び、土地を肥沃にしますから、作物を育てることができます。こうして、人は川のある所に住みます。それは主が堅く立てられた場所であり、主が与えて下さった場所です。

 ここまでは教会である程度の期間を過ごした教会員の間では共有できていることでしょう。ここまでの所まででも神様を信じる人と信じない人との間では随分と大きな違いがあります。神様を信じない人は、天と地と命を神様が造ったとは考えません。一方、私たちは神様が万物を創造して神様が私たちの命をお造りになったと信じますから、すべてのものは神様によって与えられたものであることが教会生活を送る間に、分かるようになります。

 教会に通うようになったばかりの頃、私は教会の人たちのことば使いに私はとても違和感を覚えていました。受身が多くて変な言葉遣いだなと思いました。「与えられる」とか「守られる」とか「用いられる」とか、とにかく受身が多いという印象がありました。それは神様中心の考え方をするから、そういう言葉遣いになるのですが、最初のうちはそれが分かりませんから、変な言葉遣いだなと思っていました。それが教会生活を送るうちに、いつの間にか自分でも受身の言葉を多く使うようになりました。

 私たちはお天気が良ければ、「良い天気が与えられた」と言い、ストーブを設置すれば「ストーブが与えられた」と言います。神様を信じない人は決してこういう言葉遣いはしませんから、この言葉遣いをしているだけでも私たちは既に森林限界の上の高い所まで上がって来ていて、山の頂上が見渡せる所まで来ていると言って良いのだろうと思います。

 但し、そこから先が難しいのかもしれません。3節と4節、

3 だれがの山に登り得るのか。だれが聖なる御前に立てるのか。
4 手がきよく心の澄んだ人 そのたましいをむなしいものに向けず偽りの誓いをしない人。

 ここから先が、インマヌエルの言葉で言えば、聖潔(きよめ)の信仰に立って、全き聖潔への道を歩み始めるということなのでしょう。イエス様は山上の説教でおっしゃいました。

マタイ5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。

 心がきよめられていくなら、神様の御姿が見えるようになります。ペテロたちは変貌山の上で神の御姿のイエス様を見ました。でも、それは一時だけのことでした。それは、この変貌山の出来事がまだイエス様の十字架の前のことだったからなんでしょう。ペテロたちが本当にきよめられるためには、イエス様の十字架が必要でした。イエス様が十字架で流した血によってペテロたち、そして私たちはきよめられます。この場合のきよめられるとは、きれいになるというよりは、この世の常識から解放されて神様の常識に従う者にされるということです。そうして山の上に連れて行っていただき、神の御姿を見ることができるようになるなら、それは天国に近い場所まで来たということですから、素晴らしい平安が得られます。

マタイ5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。

 このイエス様のことばはマタイ5章8節のみことばです。続いてイエス様はおっしゃいました。マタイ5章9節です。

マタイ5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。

 心がきよめられて山の上に行き、神の御姿を見ることで心の深い平安を得るなら、平和をつくることができる者となれるのでしょう。その人たちは神の子どもと呼ばれます。神の子どもと呼ばれることは、素晴らしい祝福です。詩篇24篇5節と6節、

詩篇24:5 その人はから祝福を受け自分の救いの神から義を受ける。
6 これこそヤコブの一族。神を求める者たち あなたの御顔を慕い求める人々である。

 私たちは神様の御顔を慕い求めます。でも、神様の御顔を近くで見るには、主の山の上までイエス様に連れて行っていただかなければなりません。森林を抜けたばかりの場所では、まだまだ主の山の上からは離れています。森林を抜けることができただけでも感謝ですが、私たちはなお上を目指したいと思います。そうでなければ平和をつくることができないからです。神の御姿のイエス様が見える所まで連れて行っていただき、平和をつくる者とされたいと思います。お祈りいたしましょう。
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恐れつつ主に仕えよ(2022.2.17 祈り会)

2022-02-19 11:33:16 | 祈り会メッセージ
2022年2月17日祈り会メッセージ
『恐れつつ 主に仕えよ』
【詩篇2:1~12】

 きょう詩篇2篇を開くことにしたのは、今の世が詩篇2篇の状況に、良く似ていると感じるからです。

 いま、ウクライナの情勢が緊迫しています。ロシアがウクライナの国境付近に軍隊を派遣して、北、東、南の三方からウクライナを包囲しているとのことです。ロシア軍はいつでもウクライナに侵攻できる体勢が整えられているとのことです。これを受けてアメリカもウクライナの西側のポーランドとルーマニアに今月に入って兵士を送ったことが報じられました。このことで、ウクライナで戦争が起きる危機が高まっていると言われています。ここ一両日の報道ではロシアは軍隊を撤退させるとのことですが、アメリカなどはまだ撤退を確認していないとも報じられています。

 今週の月曜日に、市内の教会の牧師の集りがありました(先週のとはまた別の集りです)。この月曜日の会に参加したヨーロッパからの宣教師が、ヨーロッパの人々はとても心配していると話していました。下手をしたら、ここでの戦争が発端になって、もっと大きな戦争、たとえば第三次世界大戦にも発展しかねないぐらいの事態で、そうなったら日本も巻き込まれるのだから、日本人はこのウクライナ問題を離れた地域のことと考えずに、自分たちの問題としてもっと深刻に受け留めるべきだと話していました。

 私たちは平和のために祈らなければなりません。どのように祈れば良いのか、詩篇2篇が良い参考になると思いますから、見て行きましょう。

 1節から3節には、もろもろの国民や王たちが基本的に主と主に油注がれた者に対して不信仰であることが書かれています。まず1節、

詩篇2:1 なぜ国々は騒ぎ立ち もろもろの国民は空しいことを企むのか。

 国々が騒ぎ立って戦争が始まることは、いつの時代にもありますが、今のウクライナ情勢にも、その危険を感じます。2節、

2 なぜ地の王たちは立ち構え 君主たちは相ともに集まるのか。と主に油注がれた者に対して。

 主に油注がれた者とはメシアです。新約の時代においてはイエス・キリストです。そして3節、

3 「さあ彼らのかせを打ち砕き 彼らの綱を解き捨てよう。」

 この不信仰は、聖書の時代の不信仰ですが、現代においても多くの人々の間で信仰心が薄れていますから、この詩篇2篇の状況によく似ていると感じます。アメリカではここ十数年の間にキリスト教離れが加速しているという記事が教報の2月号にも掲載されていました。先ほど話したヨーロッパの宣教師の母国では、もっとキリスト教離れが甚だしいとのことです。日本も、少ないクリスチャンがますます少なくなっています。

 どうして、こういうことになったのか?3節が良いヒントになると思います。特に欧米では聖書が道徳の教科書という目で見られて来た結果、深い信仰が育って来なかったということがあるように思います。何が正しくて何が正しくないのか、それを聖書は教えるので、特に子供の教育に良いとされて来ました。私が若い頃に親しくしていた欧米人の友人は、結婚して子供ができた後、子供の道徳教育のために子供と一緒に教会に通っていました。その友人はクリスチャンですが聖書の神様を本気では信じていませんでした。信じていないけれど、聖書は子供の道徳教育に役に立つという理由で子供を連れて教会に通っていました。聖書をそのように道徳の教科書として見ているのであれば、信仰が深まらないだけでなく、律法主義的になって人を縛ってしまいます。「礼拝しなければならない」、「献金しなければならない」、「お祈りしなければならない」、「これをしてはいけない」、「あれをしてもいけない」などと規則だけを押し付けられたなら、誰でも不自由に感じて、縛られていると感じるでしょう。すると、3節のように

3 「さあ彼らのかせを打ち砕き 彼らの綱を解き捨てよう。」

という考え方にもなり、教会から自由になりたい、教会に行くのはもうやめよう、ということにもなってしまいます。

 聖書のことばは人を縛って自由を奪うと考える人々が少なくないことは、本当に残念なことです。特に21世紀に入ってからは価値観の多様化が進んでいます。聖書のことばに縛られたくないと若い人たちが思うのは無理もないことかもしれません。

 しかし、聖書のことばが人を縛り、人を不自由にすると考えるとしたら、それは聖書を道徳の教科書として見てしまっているからです。ここに根本的な過ちがあります。聖書のことばは私たちを不安と恐れから解放して自由にします。神様のことばは私たちを縛るのではなく平安を与えて下さり、自由を与えて下さいます。人々の魂が、水が涸れた川のようにカラカラになって荒野のようにしまっているために、魂が神の霊の水に潤される喜びを感じることができなくなっています。神様の霊を感じることができないので、聖書を単なる道徳の教科書と見てしまいます。このことは、本当に残念に思います。でも、この状況は神様もご存じですから、やがて、この状況がくつがえされる時が必ず来るでしょう。4節から6節、

4 天の御座に着いておられる方は笑い 主はその者どもを嘲られる。
5 そのとき主は怒りをもって彼らに告げ 激しく怒って彼らを恐れおののかせる。
6 「わたしがわたしの王を立てたのだ。わたしの聖なる山シオンに。」

 天の神様はイエス様を王の王として立てて下さいました。そして7節から9節、

7 「私はの定めについて語ろう。主は私に言われた。『あなたはわたしの子。わたしが今日あなたを生んだ。
8 わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与える。地の果ての果てまであなたの所有として。
9 あなたは鉄の杖で彼らを牧し 陶器師が器を砕くように粉々にする。』」

 この世においてか、さばきの時においてか、それ以外の時か人によって違うと思いますが、私たちは粉々に砕かれます。それゆえ10節から12節、

10 それゆえ今 王たちよ 悟れ。地をさばく者たちよ 慎め。
11 恐れつつ に仕えよ。おののきつつ震え 子に口づけせよ。
12 主が怒り おまえたちが道で滅びないために。御怒りが すぐにも燃えようとしているからだ。幸いなことよ すべて主に身を避ける人は。

 それゆえ、今の世界の国々の指導者たちが皆、慎み、恐れつつ主に仕えるようになることを、祈りたいと思います。単にウクライナの平和、世界の平和を祈るだけでなく、国の指導者たち、そして国民が慎み、恐れつつ主に仕えるようになることを、お祈りしたいと思います。お祈りします。

10 それゆえ今 王たちよ 悟れ。地をさばく者たちよ 慎め。
11 恐れつつ に仕えよ。おののきつつ震え 子に口づけせよ。
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人知を超えた平安を与えて下さる神様(2022.2.10 祈り会)

2022-02-12 09:12:38 | 祈り会メッセージ
2022年2月10日祈り会メッセージ
『人知を超えた平安を与えて下さる神様』
【イザヤ11:6~10】

 先週の祈祷会では、このイザヤ書11章の1節から5節までを見て、ここにはイエス様のことが書かれていることを分かち合いました。イエス様はエッサイの息子のダビデの家系に生まれましたから、エッサイの根株から出た若枝です。また2節にあるように、イエス様の上には主の霊がとどまっています。この2節は、イエス様がガリラヤで宣教を開始した頃にナザレの会堂でイザヤ書の巻物を開いて朗読したルカ4章を思い起こすという話を先週はしました。

 そして3節から5節からは、イエス様が正義のお方であることが語られます。3節から5節、

イザヤ11:3 この方はを恐れることを喜びとし、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、
4 正義をもって弱い者をさばき、公正をもって地の貧しい者のために判決を下す。口のむちで地を打ち、唇の息で悪しき者を殺す。
5 正義がその腰の帯となり、真実がその胴の帯となる。

 この、正義のお方であるイエス様によって、地上に平安がもたらされます。その平安は、私たちの常識とはまったく異なる人知を超えた平安です。きょうの聖書箇所を見て行きましょう。まず6節と7節、

6 狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さな子どもがこれを追って行く。
7 雌牛と熊は草をはみ、その子たちはともに伏し、獅子も牛のように藁を食う。

 狼も豹も獅子も動物を食べる肉食獣です。熊は植物も食べる雑食ですが、動物や人を襲って肉を食べることもあります。これらの狼、豹、獅子、熊の肉を食べる獣たちが、草食の動物たちと一緒に草をはみ、藁を食べます。ここには平和な世界が広がっています。さらに8節と9節、

8 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。
9 わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼさない。を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである。

 8節には毒蛇であるコブラもまむしも幼子に害を加えることがないことが記されています。蛇というと創世記3章でアダムとエバを誘惑して、エデンの園の善悪の知識の木の実を食べさせた蛇を思い出しますね。この蛇は罪という猛毒をアダムとエバの心の中に注入しました。この創世記3章の蛇こそ、猛毒を持つ毒蛇であったと言えそうですね。しかし、イエス様が与えて下さる平安の中では、毒蛇も人を襲わずに幼子と戯れます。何と平和な光景でしょうか。

 主の聖なる山のどこにおいても猛獣や蛇たちは人や動物たちに害を加えることがありません。主を知ることが海をおおう水のように地に満ちるからであると、9節にはあります。主を知ることは、助
け主の聖霊の助けによって出来ます。「最後の晩餐」でイエス様は、こうおっしゃいましたね。

ヨハネ14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
27 わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。

 イエス様は、助け主である聖霊がすべてのことを教えると弟子たちに話した後で、「私はあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません」とおっしゃいました。世が与えるのと同じようではない平安とは、まさにきょうの聖書箇所のイザヤ書11章6節から9節までのような平安なのでしょう。

 私たちは、何事も人間の考え方を基準にして考えがちです。すると、

6 狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さな子どもがこれを追って行く。
7 雌牛と熊は草をはみ、その子たちはともに伏し、獅子も牛のように藁を食う。

なんて、そんなこと有り得ないと思ってしまいがちです。でも、イエス様は世が与えるのと同じようではない平安、人知を超えた平安を与えて下さるお方ですから、世の中の常識に囚われないでいたいと思います。世の中の常識に囚われているなら、イエス様が与えて下さる平安の恵みに与ることができないでしょう。イエス様はおっしゃいました。

8 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。
9 わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼさない。を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである。

 イエス様は、こうおっしゃっていますから、私たちは世の中の常識から解放されて、イエス様の与えて下さる平安の恵みに与りたいと思います。

 おとといの火曜日の晩に、市内の福音派の教会の牧師の会合がありました。この会合では、いつも最初に短い礼拝があって、この会の会長が短くメッセージを取り次いで下さいます。会長はヨハネ4章から「労苦しない刈り取り」というタイトルでメッセージを取り次いで下さいました。ヨハネ4章でイエス様はおっしゃいました。

ヨハネ4:35 あなたがたは、『まだ四か月あって、それから刈り入れだ』と言ってはいませんか。しかし、あなたがたに言います。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。

 人間の考えに囚われていると、今は刈り入れの時ではないと考えてしまいます。でも、神様の目から見ると、色づいて、刈り入れるばかりになっています。特に今のようなコロナ禍の中では、私たちは刈り入れの時ではないと思ってしまいがちです。でも、神様の目から見たら、そうではないのではないかと、会長は語って下さいました。そして、さらにイエス様はこうおっしゃっています。

37『一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる』ということばはまことです。
38 わたしはあなたがたを、自分たちが労苦したのでないものを刈り入れるために遣わしました。ほかの者たちが労苦し、あなたがたがその労苦の実にあずかっているのです。」

 今の私たちの前に、既に多くの種蒔きがされているから、私たちは労苦せずに刈り入れることができる状態になっている、それを人間の考えに囚われてしまっているから、伝道を難しいものにしているのではないか、神様の目から見れば、伝道はそんなに難しいものではないのではないかと会長はおっしゃいました。

 確かにその通りかもしれないと思いました。そうして、きょうのイザヤ書11章のイエス様のことばのことを思いました。

8 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。
9 わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼさない。を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである。

 このイエス様のことばを本気で信じないで人間の考えに囚われているから、私たちの世にはいつまで経っても平和が訪れず、伝道を難しくしているのでしょう。イエス様は人間の常識を超えた方法で平安を与え、また収穫を与えて下さいます。人間の考えずに囚われずに、イエス様のおっしゃることを心の底から信じて、付き従って行く私たちでありたいと思います。そうしてイエス様の栄光を仰ぎ見たいと思います。お祈りいたしましょう。
 
9 わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼさない。を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである。
10 その日になると、エッサイの根はもろもろの民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のとどまるところは栄光に輝く。
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正義と罪はイエスを見なければ区別できない(2022.2.3 祈り会)

2022-02-05 11:31:54 | 祈り会メッセージ
2022年2月3日祈り会メッセージ
『正義と罪はイエスを見なければ区別できない』
【イザヤ11:1~5】

 冬になると安倍川の水は、まったく涸れてしまいます。この涸れた川のように、人々の魂には潤いがなく、荒野のような状態にあることを感じます。ここ2ヶ月ほどの間に起きた事件、大阪の医院にガソリンをまいて火を付けた事件、東大の前で受験生らを高校2年生が刃物で刺した事件、亡くなった母親を診ていた医師らを猟銃で撃って殺傷した事件だけを見ても、人々の魂にまったく潤いが無いことを感じます。或るいはまた国際的にも、今朝のニュースでは、緊迫するウクライナ情勢に対応するため、米軍が三千人近くを東欧に派兵するということが報じられて、緊張が高まっています。北朝鮮も着々と核ミサイルの配備を進めているようです。コロナ禍もいつになったら終息するのか、まったく見通しが立ちません。私たちを取り巻く状況は国内的にも国際的にも、いろいろと心配なことがたくさんあります。

 このように世の中が不穏な中にある時、人は何が本当に正しいことなのかが分からなくなりがちです。何が正義なのかが分からなくなりがちです。しかし、聖書にはイエス・キリストこそが正しいお方であり、正義をもってさばくお方であることが書かれています。ですから私たちは、いつもイエス様から目を離さずにいなければなりません。特に今のような不穏な時期にはイエス様から目が離れやすくなりますから、しっかりとイエス様の方を向いていなければなりません。

 きょうはイザヤ書11章の1節から5節までを、ご一緒に読みたいと思います。

イザヤ11:1 エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。
2 その上にの霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、を恐れる、知識の霊である。
3 この方はを恐れることを喜びとし、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、
4 正義をもって弱い者をさばき、公正をもって地の貧しい者のために判決を下す。口のむちで地を打ち、唇の息で悪しき者を殺す。
5 正義がその腰の帯となり、真実がその胴の帯となる。

 1節から見て行きましょう。1節、

1 エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。

 エッサイはダビデの父です。そのダビデの子孫のヨセフの家からイエス様が生まれました。ですから、エッサイの根株から出て実を結んだ若枝とはイエス様のことです。次に2節、

2 その上にの霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、を恐れる、知識の霊である。

 この2節からは、ルカの福音書4章のイエス様を思い起こします。およそ30歳で宣教を開始したばかりの頃、イエス様は故郷のナザレの会堂でイザヤ書の巻物を開いて朗読しました。イエス様が朗読したイザヤ書の巻物には、このように書かれていました。

ルカ4:18 「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、
19 主の恵みの年を告げるために。」

 1節と2節から分かるように、このイザヤ書11章は、イエス様についての預言です。そして続く3節から5節からは、イエス様が正義と真実のお方であることが分かります。

3 この方はを恐れることを喜びとし、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、
4 正義をもって弱い者をさばき、公正をもって地の貧しい者のために判決を下す。口のむちで地を打ち、唇の息で悪しき者を殺す。
5 正義がその腰の帯となり、真実がその胴の帯となる。

 このようにイエス様は正義をもってさばいて下さるお方です。イエス様が地上に来て下さったので、私たちは何が正義なのか、何が正しいことなのかを、はっきりと知ることができるようになりました。何が正しいのかは、旧約の時代にも天の神様が預言者たちを通して示して下さいましたが、天の神様は目に見えないお方ですから分かりづらくて、人々は正しい方向をしばしば見失ってしまっていました。一方、新約の時代の私たちにはイエス様がいて下さいますから、正しい方向が分かります。しかし、もしイエス様の方を見ていないなら、やはり正しい方向を見失うことになります。

 静岡県の伊豆市に、伊豆ベロドロームという自転車競技場がありますね。去年はオリンピックの会場として使われましたから、特に静岡ではローカルニュースなどでテレビで見る機会が多くありました。このベロドロームのカーブには傾斜が掛かっています。傾斜角度は最大で45度だそうです。

 自転車でカーブを曲がる時には外側へ飛び出す方向に遠心力が掛かりますね。ですから私たちが自転車やバイクで普通の道のカーブを曲がる時には、外側に倒れないように、少し内側に車体を傾けて曲がります。一方、ベロドロームでは車体を倒すのではなくて床に傾斜を付けることで、自転車は床に対して車体が傾くことなく、そのまま垂直を保って走ることができます。しかし、本来の地面からは最大で45度も傾いて走ります。

 この、カーブを曲がる時の横向きの遠心力を罪にたとえると、罪は私たちが本来の地面の方向を向かないように仕向けます。罪は私たちがイエス様の方向からそれて倒れるように仕向けます。真っ直ぐ前に進むだけならカーブを曲がる必要はありませんが、私たちの人生で最初から最後まで曲がり角を曲がらずに真っ直ぐ進むことなど有り得ません。いろいろな事情で必ず道を曲がる必要が生じます。そういう時に罪は働いて、私たちを倒そうとします。それに対して私たちは体を内側に傾けて外側に倒れないようにしますが、結果的にイエス様からは傾いてしまいます。

 普段の私たちは、こんな感じで傾いていることが多いのではないでしょうか。イエス様から傾くことなく真っ直ぐでいられる人は、そんなに多くはいないでしょう。大半の人は、イエス様から傾いています。でも、自転車なら正しいイエス様の方向である地面が見えていますから、自分が罪に引っ張られてイエス様から傾いている者であることが自覚できています。

 さてしかし、私たちが飛行機に乗客として乗っている場合はどうでしょうか。空を飛ぶ飛行機も、旋回する時には機体を内側に傾けて旋回します。もし自分がパイロットなら、旋回中に地面から傾いていることが自覚できます。でも、乗客として乗っている場合は、窓の外を見ていないと、旋回中に地面から傾いていてもそれに気付くことはできません。

 たとえば国の政策で進路が変わる場合などには、国民の多くはパイロットではありませんから、しっかりと窓の外を見ていないと自分が本来の地面に垂直な方向から傾いていることに気付きません。戦時中は、国が誤った方向に旋回していたことに多くの人々が気付かないことになってしまっていました。

 このように、私たちは正しいイエス様の方を見ていないと、自分が罪で傾いてしまっていることを自覚できません。イエス様の時代で言えば、律法学者やパリサイ人たちは、隣人を愛することができない罪に陥っていましたが、そのことをまったく自覚できていませんでした。

 飛行機の中にいて窓の外を見ていないと自分が地面から傾いていることに全然気付かないということを、私は高校3年生の時に受験で飛行機に乗った時に体験しました。私にとっては新鮮な驚きでしたから、今でもその時のことを良く覚えています。羽田空港から千歳空港へ向かうジャンボジェットに乗り、席は両側の窓から離れた真ん中の辺りでした。一列に十席ずつ座席があるジャンボジェットでしたから、真ん中の辺りだと、窓からは遠く離れています。ですから、離陸してからの飛行中は窓の外を見ることはありませんでした。しかし、千歳に近づいて、「間もなく着陸します」というアナウンスがあったので窓の方を見たら、窓の外に傾いた地面が見えたので、驚きました。そうして、空港に近づいた飛行機が旋回していることを知りました。窓の外を見ていない時には自分が地面に対して傾いていることに全然気付いていませんでしたが、窓の外を見て初めて自分が傾いていることを知りました。

 縦方向の重力と横方向の遠心力が全く区別できないように、神様の正しさも横向きの罪も私たちには区別ができません。エデンの園の蛇がアダムとエバを巧妙に罪に引きずり込んだように、罪は正しさを装って私たちに忍び寄ります。そんな私たちにイエス様は正しい方向を示して下さいます。ですから、私たちはイエス様から目を離さないようにしていたいと思います。世の中の情勢が不穏な今は特に、様々に方向が変わる時でもありますから、罪の力も働きやすくなります。私たちはいつも目を覚ましていて、しっかりとイエス様の方を見ていたいと思います。お祈りしましょう。

3 この方はを恐れることを喜びとし、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、
4 正義をもって弱い者をさばき、公正をもって地の貧しい者のために判決を下す。
5 正義がその腰の帯となり、真実がその胴の帯となる。
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戦いの中の平安から真の平安へ(2022.1.20 祈り会)

2022-01-21 09:13:38 | 祈り会メッセージ
2022年1月20日祈り会メッセージ
『戦いの中の平安から真の平安へ』
【詩篇23:1~6】

 きょうは詩篇23篇を開きます。教会の大切な役割の一つに、神様が人々に与えようとしている心の平安をお伝えすることがあると思います。そのために、この詩篇23篇も用いられていると思います。1節から6節までを交代で読みましょう。

詩篇23:1 は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
2 主は私を緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われます。
3 主は私のたましいを生き返らせ 御名のゆえに私を義の道に導かれます。
4 たとえ死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖 それが私の慰めです。
5 私の敵をよそに あなたは私の前に食卓を整え 頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。
6 まことに私のいのちの日の限り いつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでもの家に住まいます。

 きょうの説教のタイトルには、『戦いの中の平安から真の平安へ』というタイトルを付けてみました。私たちは、多くの方々に心の平安を得ていただきたいと願っています。多くの方々が心の平安を得て互いに愛し合い、赦し合うことができるようになることを、イエス様も望んでおられます。

 しかし、教会が真の平安をお伝えすることができて来ただろうかということを、改めて考えさせられています。浅いレベルの平安ではなくて、心の奥底からの深い平安をお伝えすることができて来たでしょうか?

 きょうの詩篇23篇を読む時、私たちの心には確かに平安が与えられます。特に1節と2節ですね。

1 は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
2 主は私を緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われます。

 自分自身が羊になった様子を想像して、緑の牧場に伏しているところを思い浮かべると、心が落ち着いて心の平安が得られます。そして、喉が渇いたなら主は憩いの水際に伴って下さり、渇きを癒して下さいます。この水とは、主の霊の水、すなわち聖霊であろうということが3節から分かります。3節、

3 主は私のたましいを生き返らせ 御名のゆえに私を義の道に導かれます。

 主の霊の水は、私のたましいを生き返らせて下さり、平安を与えて下さいます。しかし、ダビデの人生はペリシテなどとの戦いの人生でした。いつ戦場で命を落とすか分からない戦いの中にいつもダビデはいました。4節です。

4 たとえ死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖 それが私の慰めです。

 このように、戦場の中でも主はダビデと共にいて下さり、平安を与えて下さっていました。そして5節、

5 私の敵をよそに あなたは私の前に食卓を整え 頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。

 この香油もまた聖霊でしょう。ダビデは聖霊に満たされて、敵がいる戦場においてもなお主によって平安が与えられていました。そして6節、

6 まことに私のいのちの日の限り いつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでもの家に住まいます。

 このように、主は戦いの人生の中にあったダビデに平安を与えて下さいました。しかし、これは戦いの中の平安であって、真の平安とは、もっともっと深いものではないか、ということを考えさせられます。

 10日後の30日の教会総会の日の礼拝では、今年の標語聖句の聖書箇所の歴代誌第二5章13節に、もう一度目を留めようかと今、思っているところです。しかし歴代誌第二5章だけだと元旦礼拝と同じになってしまうので、関連する箇所を読んでいます。そうして、列王記第一5章の次のソロモンのことばに目が留まりました。

 列王記第一5章でソロモンは、いよいよ神殿の建設に着手しようとしています。そこで木材のレバノン杉を調達するためにソロモンは隣国のツロの王ヒラムに人を遣わして、次のように言いました。

Ⅰ列王記5:3 「ご存じのように、私の父ダビデは、周りからいつも戦いを挑まれていたため、が彼らを私の足の裏の下に置かれるまで、私の父の神、の御名のために神殿を建てることができませんでした。
4 しかし今や、私の神、は、周囲の者から私を守って安息を与えてくださり、敵対する者もなく、わざわいを起こす者もありません。
5 今私は、私の神、の御名のために神殿を建てようと思っています。が私の父ダビデに、『わたしがあなたの代わりに王座に就かせるあなたの子、彼がわたしの名のために家を建てる』と言われたとおりです。

 ソロモンが言ったように、父のダビデは周りからいつも戦いを挑まれていました。そんな戦いの中でも主はダビデに詩篇23篇のような平安を与えて下さっていました。しかし、それは戦いの中での平安であったことが、列王記第一5章から分かります。そして主は、息子のソロモンの代になって本当の平安を与えて下さいました。その真の平安の中で初めて、主の家である神殿の建設が許されました。幕屋と違って神殿は、真の平安の中にある者にしか建てることが許されていないということなのでしょう。

 1月9日の新年聖会で藤本満先生が、昔のインマヌエル教会では年末年始に掛けて大晦日の晩には除夜祈祷会が行われ、元旦には元旦礼拝、そして1月2日からは新年聖会が行われていたと語っていましたね。そうして、みことばから平安を得ていたのだと思いますが、その平安はまさに戦いの中の平安という感じがします。社会全体が成長している中で教会も成長し、信徒の方々は普段の仕事においても伝道においても戦っていて、まさに戦いの中の平安だったのだと思います。しかし、コロナ禍を経験してスローダウンしたこれからの世では、もっと深い平安、真の平安が必要とされているのではないか、そのことを列王記第一5章のソロモンのことばは私たちに示唆しているように感じます。列王記第一5章をもう一度お読みします。

Ⅰ列王記5:3 「ご存じのように、私の父ダビデは、周りからいつも戦いを挑まれていたため、が彼らを私の足の裏の下に置かれるまで、私の父の神、の御名のために神殿を建てることができませんでした。
4 しかし今や、私の神、は、周囲の者から私を守って安息を与えてくださり、敵対する者もなく、わざわいを起こす者もありません。
5 今私は、私の神、の御名のために神殿を建てようと思っています。が私の父ダビデに、『わたしがあなたの代わりに王座に就かせるあなたの子、彼がわたしの名のために家を建てる』と言われたとおりです。

 コロナ禍によって、却って忙しくなった方々もおられますが、社会全体としてはスローダウンしています。コロナ禍が終息すれば、忙しさはまた戻って来ると思いますが、教会が急成長していた高度成長時代のモーレツな働き方に比べれば、もっと緩やかな働き方である筈です。過労死や過労による自殺などが起きて今は「働き方改革」ということも言われていますから、必然的にそうなります。そういう中で、教会がお伝えする平安もまた、戦いの中の平安ではなくて、真の平安でなければならないと思います。

 昔も今も、多くの人々が仕事に疲れ、様々な不安の中で過ごしています。その点では、昔も今も変わりません。しかし、昔は社会全体が成長して上り坂の中にある疲れと不安であり、今は上り切った後、或いは下り坂の中にある疲れと不安と言えるでしょう。そういう中にあって教会がお伝えすべき平安は、戦いの中の平安ではなく、真の平安であろうと思います。次の戦いに備えるための平安ではなく、本当の深い平安です。

 そういう真の平安をどうしたら分かち合えるのか、主からの語り掛けをいただくことができたらと願っています。真の平安について、これからの祈祷会と礼拝の説教の中で深めていくことができたらと願っています。一人一人が異なる感性や霊性を持つ私たちが、どうしたら真の平安を共有できるでしょうか?私たちの皆が、真の平安の恵みに与ることができますように願い、お祈りしたいと思います。
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イエス様と共に豪勢な食事を楽しむ(2022.1.13 祈り会)

2022-01-14 10:14:41 | 祈り会メッセージ
2022年1月13日祈り会メッセージ
『イエス様と共に豪勢な食事を楽しむ』
【黙示録3:20~22】

黙示録3:20 「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
21 勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせる。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。
22 耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。」

 先聖日の9日の新年聖会ではイエス様と共に食事をするとは、どういうことかについて、今一度考えてみることを藤本満先生を通して示されて、とても感謝に思いました。そこで今週の前半は、私もこのことに思いを巡らしてみました。きょうはそのことを分かち合いたいと思います。
 
 20節の、「彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」は、とても冗長な表現だと藤本先生はおっしゃいました。「彼と一緒に食事をする」でも、十分に意味は通じます。それを敢えて、「彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」とすることの意味を考えるように促されました。そうして、自分は本当にイエス様と一緒に食事をしているのだろうかと改めて考えさせられています。

 そして、たまたま次の聖日はCSの教師を担当することになっていて、開く箇所がルカ15章の「放蕩息子の帰郷」ですから、黙示録3章とルカ15章を重ねて考えることができました。このことは、とても感謝でした。どう感謝であったかを、これから話します。

 きょうは祈祷会ですから、この祈祷会への参加メンバーは皆、イエス様が叩いて下さる心の扉へのノックに応答して扉を開き、イエス様を招き入れた者たちですね。礼拝の出席者でしたら、まだイエス様のノックに応答していない方も含まれています。それゆえ、先ずは心の扉を開けて、イエス様に心の中にお迎えしましょうとのお勧めも為されました。

 でもきょうのメンバーは皆、イエス様を信じて洗礼を受けていますから、私たちの心の扉は開かれていて、イエス様を招き入れています。さてしかし、イエス様を招き入れたところまでは良いとしても、自分は果たしてイエス様とちゃんと食事をしているのだろうか、ということを考えさせられます。たとえ食事をしていても、もしかしたら貧弱な食事しかしていないかもしれません。イエス様との食事は、とても豪勢なはずです。でも、自分で貧弱な食事にしてしまっているのではないかと考えさせられます。

 たとえば放蕩息子の父親は、息子が家に帰った時に肥えた子牛をほふって祝宴を開きました。イエス様との食事とは、この祝宴のように豪華なもののはずです。いや、そんなにいつも豪華な食事ではないでしょう。祝宴は特別な時だけで、普段はもっと質素でしょうと思うとしたら、それは自分がそうしてしまっているだけで、イエス様のほうでは毎回豪華な食事を私と取るつもりでいらっしゃるのではないかと思います。

 私はせっかくイエス様を心の中にお迎えしておきながら、マルタのようにバタバタと忙しくしていて、イエス様のみもとに座ることができていないのかもしれません。イエス様との豪勢な食事とは霊的な食事のことであって、イエス様のみもとで御声に耳を傾けていた妹のマリアは、イエス様と霊的に豊かな食事を共にしていたことでしょう。

 藤本先生は説教の中でイエス様が扉を叩く聖画の話をしていましたね。ウィリアム・ホルマン・ハントの「世の光」という絵です。この絵のイエス様は「世の光」であるランプの光を手に持っていますから、この会堂の入口にある絵とは少し違います。しかし、いずれにしてもハントの絵のイエス様も、この会堂の入口の絵のイエス様は食べ物の材料を持って扉を叩いているわけではありません。

 では、何の食べ物も持たずに、共に食事をしようと言っておられるイエス様は、どうやって食べ物を調達しようとしているのでしょうか。私たちの家には、いつも豪勢な食事をできるほどの材料を蓄えているわけではないでしょう。そんな私たちの家にイエス様は何の食べ物も持参せずに訪れて、共に食事をしようとおっしゃいます。

 それは、私たちの側に扉を開けるほんの少しの信仰さえあれば、イエス様はそれを豊かに増やして下さる」お方だからです。イエス様はたった五つのパンと二匹の魚で五千人のお腹を満腹にすることができたお方です。ですから私にほんの少しの信仰さえあれば、私はイエス様と豪勢な食事、放蕩息子の父親が祝宴を開いた時のような豪勢な食事を毎回楽しむことができる筈です。でも、もし食事が貧弱であったとしたら、それは私の側でイエス様としっかりと向き合えていないということなのかもしれません。マルタのように、イエス様から離れたところでバタバタと忙しくしている者なのかもしれません。そうではなくて妹のマリアのようにイエス様のみもとに座り、イエス様が語るみことばに耳を傾ける時、イエス様は私たちの内にあるわずかな信仰を増やして下さり、私たちはイエス様と共に豊かな食事をすることができるのでしょう。

 そうして、そのことで、私たちは勝利を得る者となります。21節です。

21 勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせる。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。

 この21節からも、放蕩息子の父親のことばを連想することができます。父親は言いました。

ルカ15:22「急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。」

 父の家の一番良い衣を着るということは父の御座に着いたのと同じことでしょう。つまり、救われた時点で私たちは素晴らしい勝利を得ています。ですから私たちは、いつも最初に救われた時の大きな喜びを持ち続けて、いつもイエス様と豪勢な食事を楽しむ者たちでありたいと思います。そのためには、霊的な耳を整えて、御霊の告げることを聞かなければなりません。22節、

22 「耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。」

 「耳のある者」とは、霊的な耳が開かれている者のことです。イエス・キリストを信じて御霊を受けているなら、霊的な耳が開かれていますから、御霊の声を聞きながら御霊に満たされて日々を過ごしたいと思います。御霊に満たされることがイエス様と共に豪華な食事を楽しむということでしょう。

 では、どうすれば私たちは、より御霊に満たされて、イエス様と共に豪華な食事を楽しむことができるのでしょうか。先週、お証したように、私は多くの方々と神の子どもとされていることの幸いを分かち合いと願っています。神の子どもであることをより強く実感できるなら、心の深い平安が得られて、平和をつくる者、平和を実現できる者にされて行きます。心の深い平安を得ている者は御霊に満たされている者ですから、豪華な食事をしている者です。イエス様と共に豪華な食事をしている者が増えれば増えるほど平和つくりが進みます。そうなることを私は願っていますし、イエス様も願っています。そのためには、御霊に満たされるとはどういう状態なのかを、もっと分かりやすい形で分かち合えるようになりたいと思います。

 そこで、こんなたとえはどうでしょうか。冬の一番寒い今のような時期、小鳥たち、たとえばスズメたちは羽毛を立てて体全体を目一杯膨らませます。そうして羽毛の間に空気がたくさん入るようにして体温が外に逃げるのを防いで寒さから身を守ります。この、小鳥たちが羽毛を立てて温かい空気に包まれている様子を思い浮かべて、御霊に満たされてみたいと思います。羽毛の一つ一つは私が身に着けたみことばです。そうしていくつものみことばの羽毛を身に着けてそれらを立てるなら、私は御霊に満たされます。一つのみことばだけでは、なかなか御霊に満たされないと思いますが、二つ、三つとみことばを身に着けて行って、それらを立てるなら、みことばの羽毛の間に御霊が満たされて行きます。

 たとえば今日は黙示録3章のみことば以外にも、ルカ15章の放蕩息子の帰郷の場面にも言及し、或いはまたルカ10章のマルタとマリアの箇所にも言及しました。このようにしていくつかのみことばの羽毛を立てるなら、その間が御霊で満たされます。

 また、きょうの箇所の黙示録3章21節には、「わたしの座」と「父の御座」ということばが出て来ます。きょうは引用しませんでしたが、これらは黙示録の最後の21章と22章の新天新地の章で天から降って来る新しいエルサレムにある御座とつながっています。すると黙示録21章と22章という新しいみことばの羽毛も加わって、さらに御霊に満たされるようになります。

 礼拝の説教で私が週報の2ページ目にいくつか他の箇所からのみことばを添えるのは、そういう意図があってのことですが、説明の仕方が悪かったために、皆さんの中で羽毛が立たずにいたようです。これからは体全体の羽毛を立てて、目一杯膨らんだスズメを想像しながら、御霊に満たされる恵みを共有できるようになれたらと思います。そうして、共に御霊に満たされて、イエス様との豪勢な食事を楽しむ恵みを分かち合いたいと思います。

 お祈りいたします。

黙示録3:20 見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
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あなたはわたしの愛する子(2022.1.6 祈り会)

2022-01-09 17:07:45 | 祈り会メッセージ
2022年1月6日祈り会メッセージ
『あなたはわたしの愛する子』
【マタイ5:9、ルカ3:22】

マタイ5:9「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」

ルカ3:22 聖霊が鳩のような形をして、イエスの上に降って来られた。すると、天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」

 きょうの祈祷会では、この年末年始に与えられた聖句についてお証をさせて下さい。私に個人的に与えられた聖句ですが、皆さんと分かち合える部分も多くあると思っています。ですから、できるだけ分かち合える形で、お話しするようにしたいと思います。

 結論から先に言うと、この二つの聖句が私の中で結び付いて一つになりました。そして、天の父のイエス様へのことばの「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」が、私自身へも向けられたことばであると少しずつ感じるようになりました。そうして、そう実感できるようになればなるほど、平和をつくる働きにも寄与できるようになるであろう、と示されています。但しそのためには、もっとイエス様に似た者にされて行き、天の父に喜ばれる信仰の歩みをしなければならないと、示されています。

 一つめの聖句のマタイ5:9は、17年前の2005年に与えられた聖句ですが、今回それが初めてルカ3:22と結び付いたことに大きな意味を感じています(ちなみに、ルカ3:22と同様の聖句はマタイとマルコにもあります。しかし微妙に表現が違っていて、ルカ3:22が一番しっくり来ると感じています)。

 去年は、いくつかの大きな出来事が教会にも個人的にもありました。個人的に大きかったなと感じていることの一つに、藤本満先生が講師のeラーニングでウェスレーを学んだことがあります。この学びを通して、「神の子ども」とされるとは、どういうことだろうかと考える機会が改めて与えられました。その結果、冒頭のマタイ5:9とルカ3:22の二つの聖句が私の中で結び付いて一つになりました。

 まず17年前の話をします。17年前の2005年に私はクリスチャンになって初めて広島の原爆資料館を訪れました。それまでにも2度原爆資料館を訪れていて、その時は3度目でしたが、洗礼を受けてクリスチャンになってからは初めてでした。その時、それまでの2度の訪問とは全く違う経験をしました。原爆資料館の中で資料を見ている間中、ずっと心の中でマタイ5:9の前半の「平和をつくる者は幸いです」が響いていました。クリスチャンになってから3年半の時で、この聖句の後半は曖昧でしたが、前半の「平和をつくる者は幸いです」は覚えていました。原爆資料館の中にいたのは1時間ぐらいだったと思います。その間、ずっと「平和をつくる者は幸いです」が響いていましたから、たぶん百回以上は、ずっとこの聖句が心の中で響いていたと思います。

 そして原爆資料館を出た後で平和公園のベンチに座り、持っていた携帯用の小さな新約聖書で、この箇所を確認しました。新改訳の第2版で「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」とありました。資料館の中では前半部分だけが響いていましたが、それからは後半部分の「その人は神の子どもと呼ばれるからです」も響くようになりました。またこの時、平和公園のベンチで「私を平和のために用いて下さい」と長い祈りをささげました。そして翌年の2006年もその次の2007年も広島の平和公園で「私を平和のために用いて下さい」と長い祈りをささげました。結局、この祈りによって牧師として召し出されました。私自身としては牧師になることはまったく考えていませんでした。牧師以外で何らかの平和の働きをして用いられたいと考えていました。しかし、神様は牧師として平和の働きに加わるようにと、私を召し出しました。

 そんな私でしたが、実はマタイ5:9の意味はよく分かっていませんでした。なぜ平和をつくる者が神の子どもと呼ばれるのか、長い間よく分からないでいました。注解書の解説をいろいろ読みましたが、どれもあまり納得できずにいました。それが、eラーニングでのウェスレーの学びを通して「神の子ども」について考える機会が与えられたことで、今回分かるようになった気がします。

 ウェスレーの説教の中に「御霊の証し」という説教があります。この説教では、ローマ8:16の、

ローマ8:16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかしして下さいます。(新改訳第2・3版)

というパウロのことばを冒頭に掲げています。この説教を読みながら、私自身は果たして御霊の証しによって自分が「神の子ども」であることの確証を得ているのだろうかと思いましたから、検証しました。この検証の内容まで話すと長くなりますから省略しますが、私自身は確かに御霊の証しによって、自分が「神の子ども」とされているとの確証を得ています。

 そうして、「神の子ども」であることの確証と「心の平安」とが強く関係していることに気付かされ、それによって17年前に与えられたマタイ5:9についても、新たな気付きが与えられました。それは、「平和をつくる」者とは「神の子ども」である確証を得ていて、心の平安を得ている者であろうということです。つまり「神の子ども」の平安を得ている者こそが「平和をつくる」ための働きができるのではないか、ということです。

 そして、このことで「神の子ども」と「呼ぶ」のは神様であろうと示されました。それまでの私はマタイ5:9の後半の「その人は神の子と呼ばれるからです」では、誰が「神の子」と「呼ぶ」のかを考えたことがありませんでした。考えないまま何となく、周囲の人々がそう呼ぶように感じていました。実際、いくつかの注解書では、周囲がそう呼ぶのだという解説が書かれています。たぶん私は、この部分が引っ掛かっていたのだろうと思います。しかし今回の検証によって、「神の子ども」であることの「平安」は神様が与えて下さるものなのだから、「神の子ども」と「呼ぶ」のも神様であろうと示されました。

 考えてみると、マタイ5章の山上の説教の「~する者は幸いです」の後ろに書かれている恵みは、全て神様が与えて下さるものです。心の貧しい者に天の御国を与えて下さるのは神様です。悲しむ者を慰めて下さるのも神様です。柔和な者に地を受け継ぐようにして下さるのも神様です。義に飢え渇く者が満ち足りるようにして下さるのも神様です。あわれみ深い者にあわれみを与えて下さるのも神様です。心のきよい者に神を見せて下さるのも神様です。義のために迫害されている者に天の御国を与えて下さるのもまた、神様です。

 ですから、「平和をつくる者」を「神の子ども」と呼ぶのもまた、神様であろうと示されました。そして、そこからルカ3:22へと導かれました。

ルカ3:22 聖霊が鳩のような形をして、イエスの上に降って来られた。すると、天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」

 ここで天の父はイエス様を「あなたはわたしの愛する子」と呼んでいます。これは聖霊を受けた私たちにも向けられたことばである、ということを今回、マタイ5:9の「その人たちは神の子どもと呼ばれるからです」から示されました。

 ルカ15章でイエス様は「一人の罪人が悔い改めるなら、…大きな喜びが天にあるのです」(ルカ15:7)と天に喜びがあることを話し、「放蕩息子の帰郷」のたとえでは、父の家に帰って来た弟息子を出迎えた父親が次のように言って喜び、祝宴を開いたことを話しています。

ルカ15:22-24「急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。」

 この「天の喜び」と「父の喜び」もまた、ルカ3:22の天の父の「わたしはあなたを喜ぶ」ということばと重なるように思います。

 ただ、この天の父のイエス様へのことばが自分へのことばであると思うことは、かなり図々しいようにも思います。自分の至らなさを思う時、こんなことを思うのは身の程知らずのようにも思います。けれども、私が悔い改めて救われた時には天が大喜びして、父もまた喜んで祝宴を開いて下さったことを思うなら、天の父が「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」とおっしゃって下さったのだと、遠慮しないで思わなければいけないのではないか、とも示されています。

 ですから、この天の父のことばにふさわしい者とされるために、御霊の実を多く結んで、イエス様に似た者へとされて行かなければならないと思わされています。御霊の実とは、パウロがガラテヤ書に書いたように、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です(ガラテヤ5:22-23)。そうして、平和をつくる者として用いられるように願い、祈り続けたいと思います。

 証しは以上です。そして、きょう分かち合いたいのは、「神の子ども」とされていることが、いかに幸いなことか、いかに素晴らしいことであるかということです。「神の子ども」であることの実感の仕方は、人によって違うだろうと思います。パウロがローマ人への手紙に書いているように、「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかしして下さいます」から、これは霊的な領域のことです。霊的なことへの感じ方は個人差が大きいですから、うまく分かち合えない部分がかなりあります。しかし、「神の子ども」とされていることの素晴らしさは分かち合えます。「神の子ども」とされることの素晴らしさを多くの方々が実感して、そうして心の深い平安を得て、平和をつくることができるお互いであるなら、本当に素晴らしいことだと思います。

 お祈りいたします。
 
「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」
「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」
「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかしして下さいます。」
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神の子どもとされて、深い平安を得る(2021.12.16 祈り会)

2021-12-18 10:43:50 | 祈り会メッセージ
2021年12月16日祈り会メッセージ
『神の子どもとされて、深い平安を得る』
【イザヤ53:4~6、】

イザヤ53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
6 私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。

 アドベント第3週の祈り会では、イザヤ書53章に目を留めます。第1週の先々週はイザヤ書の9章、特に6節に目を留めました。イザヤ9章6節、

イザヤ9:6 ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

 そしてアドベント第2週の先週はイザヤ61章を開きました。このイザヤ61章は、イエス様がおよそ30歳で宣教を開始した時に、ナザレの会堂でイザヤ書の巻物を渡された時に読んだ箇所です。61章をご一緒に見ましょう(p.1271)。61章1節、

イザヤ61:1 神である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。

 主イエス様は貧しい私たちに良い知らせを伝えるため、心の傷ついた私たちを癒すために、天の父に遣わされました。また61章3節には「憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるために」とあります。この「賛美の外套」によって、暗闇の中で寒さに凍えていた私たちの心が温められて開き、神様の方を向くことができるようになりました。

 このことが神様に義と認められて、10節で「救いの衣」を着せられて「正義の外套」がまとわされて、私たちは主にあって大いに楽しみ、喜びます。イザヤ61章10節、

イザヤ61:10 私はにあって大いに楽しみ、私のたましいも私の神にあって喜ぶ。主が私に救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。

 この10節からは、放蕩息子が父親の家に帰った時の場面が連想されるという話を先週しました。父親は放蕩息子に一番良い衣を着せて指輪をはめ、そうして祝宴を始めました。放蕩息子も大いに楽しみ喜んだことでしょう。放蕩息子は自分が父親の子であることを実感して心の深い平安を得たことと思います。このイザヤ書61章とルカの福音書の「放蕩息子の帰郷」の場面とがつながったことで、十字架を見るとなぜ心の平安が与えられるかの不思議をようやく私は理解できた気がしました。きょう最初にご一緒に読んだイザヤ書53章にも描かれているように、十字架の場面は残酷です。イザヤ書53章5節、

イザヤ53:5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。

 そうしてイエス様は十字架で死にました。この残酷な刑罰である十字架がなぜ、人の心に平安を与えるのか、長い間不思議に思っていました。それは、十字架によって私の罪が赦されたからだと、言われます。それは分かります。確かに、自分の罪が赦されたことで、平安は得られるでしょう。でも、罪が赦されることだけで、ここまで深い平安が得られるだろうか、というのが私の疑問でした。

 なぜなら、たとえ罪が赦されたとしても、自分の犯した罪は決して忘れないからです。たとえ主ご自身がエレミヤ書にあるように「もはや思い起こさない」(エレミヤ31:34)とおっしゃって下さっても、自分は罪を覚えています。覚えているべきです。覚えていないと、同じ過ちを犯すかもしれませんから、覚えているべきです。ですから、たとえ主が罪を赦して下さったとしても、自分が犯した罪の記憶が残っている限りは、ある程度の平安は得られたとしても、心の底からの深い平安は得られない筈です。でも、私が得た平安は本当に心の底からの深い平安でしたから、この深い平安がどこから来るのか、いつも不思議に思っていました。

 十字架を見ると、本当に心の平安が得られます。私の場合は、特に高津教会の建物の上にある十字架と、会堂の中の十字架によって深い平安が得られていました。神学生の2年生と3年生の時は、東京・千葉方面の教会に遣わされていました。それで日曜日の朝には横浜の青葉台の駅から東急の田園都市線の快速電車に乗って渋谷方面に向かいました。その際、高津教会のすぐそばを通りますから、必ず高津教会の十字架を見るようにしていました。見れば心の平安が得られるからです。神学生の生活は私にとってはストレスが多かったですから、高津教会の十字架には本当に癒されました。たまに、電車の中で考えごとをしていて、いつの間にか高津を通り過ぎていた時は、とてもガッカリしました。

 また、年に1回程度でしたが神学生としての証しをするために高津教会を訪れた時には、会堂の中の十字架に見とれていました。どの十字架を見ても心の平安は得られますが、やはり私にとっては救われた教会である高津教会の十字架は格別であり、見る度に深い平安が得られます。そして、なぜ十字架はこんなにも平安を与えてくれるのだろうか、といつも不思議に思っていましたが、それは自分が神の子とされたからなんだ、ということがようやく分かって来ました。私の場合は、十字架を見る度に自分が神の子とされていることの確証が得られる、それゆえ十字架を見ると深い平安が得られるようです。そのことを放蕩息子が父の家に帰った場面から教えられました。

 私はSNSのツイッターをよく見ていて、最近は、保護された野良の子猫を育てている人たちの動画を興味深く見ています。野良の子猫は、保護されたばかりの頃はほとんどの場合、人を警戒していて、近づくと牙をむき出しにしてシャーッと威嚇の声を出して敵意を顕わにします。しかし、人が優しく接して愛情を注ぎ続けると、何日かすると牙をむき出すシャーッをしなくなり、顔がだんだん穏やかになります。そうして、さらに何日か経つと甘えるようになり、優しい顔になり、何週間かすると幸せそうなデレデレの顔になります。私たちが神の子とされて得られる平安とは、この保護された子猫たちの平安に似ているのではないかなと思います。

 宗教を警戒していた時の私は、まさにシャーッと牙をむき出して威嚇する子猫のように、自分で自分を守ろうとしていました。たいして強くないのに強がって神様を拒否し、反抗していました。しかし、そんな私に神様は愛情を注いで下さいましたから、やがて私は神様に反抗しなくなりました。そうして神様のほうを向くようになり、そんな私を神様は義と認めて下さったのでしょう。やがて自分が平安の中にいることを感じるようになりました。以前はいつも漠然とした不安の中にいたのに、いつの間にか、その不安が取り去られていました。それは私が神の子とされたから得られた平安であり、その平安が得られたから、イザヤ書53章も心に響くようになったのだと思います。イザヤ書53章5節と6節、

イザヤ53:5 彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
6 私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。

 教会に導かれる前の私たちは羊のようにさまよい、自分勝手な道に向かっていました。私の場合は羊というよりも野良猫だったのでしょう。若い時の私は外国人の宣教師を冷たく突き放したこともありました。まるで子猫が牙をむき出しにしてシャーッと威嚇しているようでもあり、それはつまり私自身がイエス様を十字架に付けたのと同じことです。そんな私を神様は憐れんで下さり、重い罪を赦して下さり、神の子どもとして下さいました。そしてさらに、御霊の実を結んで聖められるようにと導かれています。御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。かつて野良の子猫のように牙をむき出していた者でしたが、人を癒すことができる者へ変わるようにと導かれています。

 先聖日、ある方がカレンダーをプレゼントしていて、私もいただきました。そのカレンダーには犬と猫の写真が印刷されていました。犬や猫は人の心を癒す大切な働きをしていますね。私も神学生の時は神学院で飼っていた犬に癒されていました。でも、いくら犬や猫が人を癒す存在だとしても、野良犬や野良猫のように、人に向かって牙をむき出しにして威嚇している間は、人を癒すことはできません。私たちも同じですね。ですから、私たちは御霊の実を結びたいと思います。

 かつて私はイエス様を十字架に付けた、人を威嚇する野良猫でした。そんな私を天の父は憐れんで保護して下さり、父の家の子どもとして下さり、平安を与えて下さいました。そのことに感謝して、御霊の実を結ぶ者にされたいと私は願っています。御霊の実によってイエス様に似た者にされて、人を癒すことができる者へと変えられたいと願っています。天の父は、そのためにイエス様を地上に遣わして下さいました。そうしてイエス様はヨセフとマリアの子としてお生まれになりました。クリスマスを目前に控えた今、このことに改めて感謝したいと思います。そして、私たち教会員の皆が共に御霊の実を結んで行くことができる、お互いでありたいと思います。

 お祈りします。
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賛美と正義の外套をまとわせる主(2021.12.9 祈り会)

2021-12-10 07:48:09 | 祈り会メッセージ
2021年12月9日祈り会メッセージ
『賛美と正義の外套をまとわせる主』
【イザヤ61:1~3、10~11】

イザヤ61:1 である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、
2 の恵みの年、われらの神の復讐の日を告げ、すべての嘆き悲しむ者を慰めるために。
3 シオンの嘆き悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、嘆きの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるために。彼らは、義の樫の木、栄光を現す、の植木と呼ばれる。
10 私はにあって大いに楽しみ、私のたましいも私の神にあって喜ぶ。主が私に救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。
11 地が芽を出し、園が蒔かれた種を芽生えさせるように、である主が、正義と賛美をすべての国々の前に芽生えさせるからだ。

 今年のアドベントの期間中の木曜夜の祈り会ではイザヤ書を開くことにしています。先週は9章を開き、今週は61章です。

 イエス・キリストがおよそ30歳で宣教を開始したばかりの頃、ナザレの会堂で巻物を渡されて、この箇所を読んだことがルカの福音書4章に記されています。この10月と11月に行われた藤本満先生のeラーニング「ウェスレーを学ぶ・ざっくり・ガッツリ」では、ウェスレーが初めて野外説教を行った時の説教箇所がここであったことを学びました。炭鉱の町ブリストルで、およそ三千人の炭鉱夫たちが目を輝かせてウェスレーの説教に聴き入ったそうです。ブリストルはロンドンから西に約170kmの位置にありますから、ちょうど静岡と東京の距離と同じくらいですね。

 さてルカ4章によれば、イエス様はこのイザヤ61章を朗読した後で、このようにおっしゃいました。

ルカ4:21 「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」

 つまり、このイザヤ61章の主に油を注がれて遣わされた者とは自分のことであると、イエス様はおっしゃいました。イエス様は貧しい人に良い知らせを伝えるため、また心の傷ついた者を癒すために、地上に遣わされて、ヨセフとマリアの子としてお生まれになり、およそ30歳になった時に、宣教を開始しました。

 きょうは、このイザヤ書61章を共に味わいたいと願っていますが、時間が限られていますから、特に3節にある「賛美の外套」ということばと、10節にある「正義の外套」ということばに注目したいと思います。イエス様は私たちに「賛美の外套」、そして「正義の外套」を着けてまとわせて下さるお方です。では、「賛美の外套」、「正義の外套」とは、一体どんな外套なんでしょうか?(実は「賛美の外套」は新改訳2017の訳で、聖書協会共同訳では「賛美の衣」となっています。「外套」と「衣」では少し印象が異なりますが、「外套」ということばが私の目に留まりましたから、きょうは「外套」のイメージで話をして行きます。)

 3節を見ましょう。3節に「シオンの嘆き悲しむ者たちに」とあります。これは私たちのことでもあります。イエス様は私たち嘆き悲しむ者たちに灰の代わりに頭の飾りを、嘆きの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに「賛美の外套」を着けさせるために油注がれて遣わされました。

 救われる前の人は闇の中にいます。光の届かない闇の中で人の心は寒さで凍えて固く閉じています。その凍えている人を主は光で照らして「賛美の外套」を着けて下さいます。そうして温めて下さいます。この「賛美の外套」ということばから、私は初めて韓国人の教会に連れて行ってもらった時に聖歌隊の賛美に心が癒されて温められたことを想い出しました。このことは既に何度も証ししていますが、私が教会に続けて通うようになった最初のきっかけは父が死んだすぐ後に連れて行ってもらった教会で聖歌隊の賛美歌によって心が癒されて温められたからでした。

 音楽の力は本当に大きいと思います。英和のハンドベル演奏会を広いホールで地元の自治会の主催・共催で開催したら大勢の参加者があったことからも音楽の力の大きさを感じます。教会の葬儀では賛美歌を歌いますから、多くの方々が良い印象を持って下さいます。1995年の阪神淡路大震災の時には、テント生活をしている人たちがいる公園で森祐理さんが歌った賛美歌を聞いてクリスチャンになった方もいたそうです。私自身も含めて、音楽がきっかけでイエス様を信じることにつながった方は数多くいます。

 「賛美の外套」は先ず、闇の中で寒さに凍える人を優しくおおってくれます。すると、体温によって外套の中が温まって来ます。温まるなら、それまで神様に心を閉ざしていた心が開いて来ます。そうして神様に心を閉ざしていた罪に気付いて悔い改めへと導かれます。そのようにして自分の罪を認めるなら神様はそれを義(正しいこと)として下さり、その人に「正義の外套」をまとわせて下さいます。それはつまり救われるということであり、同時に「救いの衣」が着せられるということです。

 人にはもともと温かい体温が神様によって与えられているのですね。しかし、闇の中に裸でいると体温が奪われてしまいます。そうして凍えている者に主は「賛美の外套」を着せて下さいます。

 すると、この「賛美の外套」とは、ウェスレーが説いた「先行的恵み」とも言えるのではないでしょうか。先行的な恵みの「賛美の外套」によって心が温められて神様に心を開くなら「救いの衣」を着せられて、さらに「正義の外套」でもっとぽかぽかと心が温められるなら、本格的な救いの確証が得られることでしょう。この順番はウェスレーが説く「救いの確証」の順番とも一致します。ウェスレーは「御霊の証し(Ⅰ)」というタイトルの説教で(『ジョン・ウェスレー説教53』説教10)、ローマ人への手紙8章16節を引用しながら救いの確証がどのようにして得られるかについて語っています。

ローマ8:16 御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。

 このパウロのことばを引用しながらウェスレーは次のように説いています。まず御霊ご自身が十字架の赦しの愛によって証しして下さり、その愛によって私たちの内に御霊の実が結ぶようになり、神の子どもであることが証しされます。この御霊の実が私たちの内で結ばれることが、私たちの霊の証しです。御霊の実とは、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22-23)です。まず神様の側が愛を示して下さり、その愛によって私たちもまた互いに愛し合うことができるようになり、御霊の実が結ばれて、自分が神の子どもとされていることの確証が得られます。つまり救いの確証が得られます。

 この説教の準備をしていて、ふと「放蕩息子の帰郷」(ルカ15章)の物語を思い出しました。放蕩息子の父親は、弟息子に財産の半分を与えるという大きな愛を示しました。弟息子はこの父親の愛に気付くことはありませんでしたが、すべてを失った時に我に返って父親の方を向きました。この時点でもまだ父親の愛には気付いてはいなかったのでしょうが、それでも父親を目指して家に帰りました。そうして帰郷した弟息子に父親は駆け寄って彼の首を抱き、口づけして、しもべたちに言いました。

ルカ15:22 「急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。」

 この一番良い衣を着せられた時、弟息子は自分が父親の子どもであることを実感したことでしょう。この時の弟息子の気持ちは書かれていませんが、弟息子の心は、父の子とされていることの喜びに溢れていたに違いないと、今日の聖書箇所のイザヤ61:10を読んで思いました。イザヤ61章10節の「私」は、まさに神の子どもとされていることの確証を得て喜びに満ち溢れているのだと思います。

イザヤ61:10 私はにあって大いに楽しみ、私のたましいも私の神にあって喜ぶ。主が私に救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉(ほうぎょく)で飾ってくださるからだ。

 このイザヤ61:10には、救いの衣を着せてもらい、指輪をはめてもらった放蕩息子の喜びが表されていると感じます。主の民は長らく父の家を離れていましたが、御子が遣わされたことで父の家に帰ることができました。

 きょうはイザヤ書61章3節の「賛美の外套」と10節の「正義の外套」に注目して、さらに10節の「救いの衣」にも目を留めて、放蕩息子に着せられた「一番良い衣」にも思いを巡らしました。それで、ふと創世記3章で主がアダムとエバに「皮の衣」を作って彼らに着せたことを思い起こしました。

 神様はアダムとエバを憐れんで、エデンの園から追放する前に「皮の衣」を彼らに着せました。この神様の憐れみによる「皮の衣」で心が温められて、二人は神様にささげ物をするようになったのだなと思いました。その、主にささげ物をする信仰がカインとアベルの兄弟にも受け継がれて行きましたが、やがて「皮の衣」が失われて、ノアの時代には人々の心はすっかり神様から離れてしまったということではないでしょうか。

 この失われた「衣」を「救いの衣」として再び私たちに着せるために、天の父は御子イエス様はこの世に遣わされました。この衣が着せられることで、私たちの心が温められて、神の子どもとされていることの確証をいただくことができます。このことを、心一杯感謝したいと思います。お祈りいたします。

イザヤ61:10 私はにあって大いに楽しみ、私のたましいも私の神にあって喜ぶ。主が私に救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。
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私たちのために生まれたみどりご(2021.12.2 祈り会)

2021-12-06 10:08:33 | 祈り会メッセージ
2021年12月2日祈り会メッセージ
『私たちのために生まれたみどりご』
【イザヤ9:1~7】

 今夜はイザヤ書を開きます。イザヤ書9章1~7節を交代で読みましょう。

イザヤ9:1 しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。
2 闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。
3 あなたはその国民を増やし、その喜びを増し加えられる。彼らは、刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜ぶ。
4 あなたが、彼が負うくびきと肩の杖、彼を追い立てる者のむちを、ミディアンの日になされたように打ち砕かれるからだ。
5 まことに、戦場で履いたすべての履き物、血にまみれた衣服は焼かれて、火の餌食となる。
6 ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍のの熱心がこれを成し遂げる。

 アドベントの期間に入った今、聖書の時代の人々が救い主の到来を待ち焦がれて祈っていたように、私たちもまた救い主が来て下さるように熱心に祈りたいと思います。

 私たちの周囲にはまだイエス様にお会いしたことがない方がたくさんいますから、その方々がイエス様にお会いできるように祈ることはもちろんのこと、私たち自身もまだイエス様のすべてが分かっているわけではありません。イザヤ書9章6節にあるように、イエス様は不思議な助言者であり、力ある神、永遠の父であり、平和の君です。このように多様な顔を持つイエス様のことを私たちはまだ少ししか知りません。ですから聖書の時代のイスラエルの民がまだ見たことがない救い主の到来を待ち焦がれたように、私たちも新たな気持ちで救い主の到来を待ち、新鮮な気持ちでイエス様との交わりを持って、イエス様のことをもっと深く知る者たちにしていただきたいと思います。

 先ずはこのイザヤ書9章の時代背景を簡単に見ておきましょう。イザヤ書1章1節を見ます。1章1節、

イザヤ1:1 アモツの子イザヤの幻。これは彼がユダとエルサレムについて、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に見たものである。

 イザヤは南王国のユダの預言者ですが、イザヤの時代は北方の北王国イスラエルがまさに滅びようとしていた時でした。いまお読みした1章1節に出て来るウジヤ王とヨタム王の時代にはまだ北王国は存在していましたが、南の王がアハズ王の時代に北はアッシリヤによって滅ぼされて、ヒゼキヤ王の時にはもはや北王国はありませんでした。この間、イザヤが預言していた南王国もまた、いつ攻め滅ぼされるか分からない危機の中を通っていました。

 去年の静岡聖会では岩上祝仁先生が、イザヤ書6章からメッセージを取り次いで下さいましたね。6章1節にはウジヤ王が死んだと書かれています。王が死んで国が不安定になった隙に攻め滅ぼされてしまう心配がありましたから、当時の南王国は大変な危機の中にありました。先生はこの南王国の危機の時代を、現代の私たちのコロナの危機と重ねて語って下さいました。

 この6章の8節でイザヤは主が言われることばを聞きました。「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。」この主のことばを聞いてイザヤは言いました。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」

 そうして南王国ではウジヤの子のヨタムが王になり、さらにヨタムの子のアハズが王になりました。きょうの9章はアハズ王の時代のことです。北王国のイスラエルはほとんど滅びかかっていて、南王国のユダもますます危機の中にありました。そんな中でイザヤは救い主が私たちのために生まれるという希望のメッセージを語ります。まず9章の1節と2節、

イザヤ9:1 しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。
2 闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。

 このイザヤ書9章の1節と2節は、マタイの福音書4章で引用されています。マタイ4章でイエス様は悪魔の誘惑に遭いますが、それを退けます。そのすぐ後で、このイザヤ書9章1節と2節で引用されます。マタイ4章のその箇所を私のほうでお読みします。少し長くなりますが、悪魔がイエス様から離れた箇所からお読みします。

マタイ4:11 すると悪魔はイエスを離れた。そして、見よ、御使いたちが近づいて来てイエスに仕えた。
12 イエスはヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤに退かれた。
13 そしてナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある、湖のほとりの町カペナウムに来て住まわれた。
14 これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。
 そうして今のイザヤ書9章の1節と2節が引用されます。
15 「ゼブルンの地とナフタリの地、海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦人のガリラヤ。
16 闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る。」
17 この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。

 このイエス様のことを、イザヤは9章6節で、「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と預言しました。

 「不思議な助言者」を、英訳では「ワンダフル・カウンセラー」と訳しています。英訳にもいろいろありますが、調べた範囲ではほとんどの英訳が「ワンダフル・カウンセラー」と訳しています。このワンダフル・カウンセラーである不思議な助言者とは、まさに助け主である聖霊ですね。イエス様はヨハネの福音書の最後の晩餐でおっしゃいました。「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」聖霊は私たちの内に入って適切な助言をして下さるカウンセラーです。

 また、イエス様は父と一つのお方ですから、力ある神、永遠の父です。そして、イエス様は平和の君です。つまり、イザヤはイエス様が三位一体の神であることを旧約の時代に預言していました。この救い主が来ることを、ユダヤの人々は待ち望んでいました。二千年前のユダヤはローマ帝国に支配されていました。ローマに支配される前にはギリシャに支配され、ギリシャの前にはペルシャに、ペルシャの前にはバビロニアに支配されていました。このように大国に支配され続けて来たユダヤの人々は、ダビデのような強い王が現れて大国の支配から救い出してくれることを待ち望んでいました。

 イザヤもまた救い主は王であることを、9章7節で預言しています。

7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍のの熱心がこれを成し遂げる。

 しかし、実際に地上に来られたイエス様はダビデのような強い王というイメージのお方ではなくて、病人を癒す癒し主であり、弱い人々に寄り添って慰めて下さる慰め主でした。そうしてイエス様も弱い者として十字架に付けられて死にました。この弱いイエス様が復活して天に帰られた後には一人一人に聖霊を遣わして下さり、私たちの一人一人を強めて励まして下さいますから、この素晴らしい恵みを私たちはお伝えしています。

 でも、7節でイザヤが預言した強い王としてのイエス様のほうは、一体どうなってしまっているのでしょうか?

 それは、こういうことではないでしょうか。二千年前はまだイエス様が世界を一つにして治められるまでには、時が満ちていなかったということではないでしょうか。イエス様の福音が地の果てまで届けられて、ようやく時が満ちたと言えるのではないでしょうか。

 そうして、今やいよいよイエス様の福音が地の果てまで送り届けられようとしています。インターネットの普及によって世界中で情報が瞬時に行き交うようになりました。独裁的な指導者が支配している国では、インターネットの利用が制限されて、情報が国民に十分に届いていないところもあると思いますが、今や技術的には世界中の人々が情報を瞬時に共有できるようになりました。それは21世紀に入ってようやく実現したことです。そして、2年前からのコロナ禍が用いられて、教会の礼拝に家庭からでも参加できるようになりました。それ以前からインターネットで礼拝に参加できる環境はありましたが、コロナ禍によって、さらに技術が進んで一気に前進しました。そうして、いよいよイザヤ書9章7節の預言が成就する時が満ちて来たのだと思います。

 いま世界は、コロナウイルスの世界流行と温暖化による気候変動に苦しんでいます。これらは世界が一致協力しなければ克服できない問題です。そのために力強い王としてのイエス様の到来を待ち望みたいと思います。21世紀になって技術的には世界が一つになれるところまで発展しましたから、いよいよ時が満ちて来たのだと思います。

 イエス・キリストは弱い私たちの一人一人に寄り添って下さるお方であると同時に、世界を一つにまとめて下さる王でもあります。イエス様の十字架によって罪赦された私たちは、この一人一人に寄り添って罪から救い出して下さるイエス様と、世界を一つにまとめて世界を救って下さる王としてのイエス様の両方を宣べ伝えて行きたいと思います。

 お祈りいたします。
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聖霊のような音楽の働き(2021.11.18 祈り会)

2021-11-19 04:55:36 | 祈り会メッセージ
2021年11月18日祈り会メッセージ
『聖霊のような音楽の働き』
【使徒16:25~34】

使徒16:25 真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた。
26 すると突然、大きな地震が起こり、牢獄の土台が揺れ動き、たちまち扉が全部開いて、すべての囚人の鎖が外れてしまった。
27 目を覚ました看守は、牢の扉が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。
28 パウロは大声で「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と叫んだ。
29 看守は明かりを求めてから、牢の中に駆け込み、震えながらパウロとシラスの前にひれ伏した。
30 そして二人を外に連れ出して、「先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。
31 二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」
32 そして、彼と彼の家にいる者全員に、主のことばを語った。
33 看守はその夜、時を移さず二人を引き取り、打ち傷を洗った。そして、彼とその家の者全員が、すぐにバプテスマを受けた。
34 それから二人を家に案内して、食事のもてなしをし、神を信じたことを全家族とともに心から喜んだ。

 きょうのメッセージのタイトルは『聖霊のような音楽の働き』です。21日のハンドベル演奏会を控えて、音楽の力の大きさを改めて感じています。音楽はまるで聖霊のようだ、と感じます。音楽は聖霊と同じように、人に力を与え、皆を一つにし、また心をきよめてくれます。このように音楽には、とても不思議な力があります。

 特に、皆を一つにする力には聖霊を上回る力すら感じます。聖霊には、「御霊の一致」ということばがあるように、聖霊を受けた者たちを一つにする力があります。それに対して音楽の場合には、聖霊を受けている・受けていないに関わらず、皆を一つにする力があるように思います。葬儀に参列した方がキリスト教の葬儀に良い印象を持って下さるのは、仏式と違って奏楽があり、賛美歌があるという要因が大きいのだろうと思います。音楽には悲しみを癒す力もありますから、キリスト教の葬儀では信者も未信者も一つになります。

 20年前に父が死んだ時、私は韓国人の留学生に教会に連れて行ってもらって礼拝に参加しました。その時、聖歌隊の合唱にとても心が癒されました。韓国語の賛美歌でしたから歌詞はぜんぜん分かりませんでしたが、父が死んでからまだ1週間も経たずに悲しみの中にいた私の心を音楽が癒してくれました。まだイエス様を信じる前のことでしたから、もちろん私は聖霊を受けていませんでしたが、音楽が私の心を癒してくれました。

 21日のハンドベル演奏会では、私たち聖霊を受けた信徒と、信徒でない方とが同じ一つの場所でハンドベルの音楽の恵みに与ります。神様が会場のホールを聖霊で満たして下さり、皆が一つとなることができるように、お祈りしていたいと思います。

 この演奏会を町内の方がとても楽しみにしていて、あちこちに声を掛けて下さっています。音楽が好きということで、毎月、合唱の練習をしているそうです。教会で歌ったこともあると言っていました。いま木遣りの練習もしているそうです。その合唱や木遣りのメンバーにもハンドベルの案内をして下さったそうです。その他にもいろいろと声を掛けてくれているみたいです。これもまた、すごいことだなと思います。音楽の力の大きさを感じます。

 そんなこんなで今私は、来年の教会の標語聖句は、音楽に関係するみことばにすることを示されています。それで「歌」という漢字が使われている節を調べてみたところ、新改訳2017では、旧約・新約合わせて331の節で使われています。1つの節で何度も「歌」という漢字があっても1つとしてカウントされていますから、実際にはもっとあるのですが、節の数で言えば331です。この331節のうち、旧約聖書は何節あって、新約聖書は何節あると思いますか?旧約聖書の方が多いであろうことは想像が付くと思いますが、新約聖書はびっくりするぐらい少ないです。なんと331節中、新約聖書ではたったの14節でしか使われていません。

 黙示録が一番多くて5つの節、次がマタイで2つの節で「歌」という漢字が使われています。他の書は1つの節だけで、マルコ、ルカ、使徒の働き、ロマ書、ガラテヤ書、エペソ書、コロサイ書です。これで全部です。ヨハネには1回も「歌」は使われていません。ルカが1回だけというのは意外ですが、マリアの賛歌やザカリヤの賛歌には「歌」という漢字が出て来ませんから、こうなっています。イエス様がベツレヘムで生まれた時、羊飼いたちの頭上に天の軍勢が現れて賛美したとありますから、天の軍勢は賛美歌を歌っていたわけですが、「歌」という漢字は使われていませんから、カウントされていません。ですから、「賛美」ということばを含めれば新約でももっと回数が増えますが、それでも旧約に比べれば「歌」に関する記述が新約では圧倒的に少ないことには変わりありません。

 どうしてなんでしょうか?はっきりしたことは分かりませんが、私はこんな風に考えてみました。新約の時代には聖霊を受けることで、御霊の一致が得られますが、旧約の時代には限られた預言者たちにしか聖霊が注がれませんでしたから、その代わりに音楽で皆が一つになっていた、ということがあるのではないでしょうか。音楽には聖霊を受けた人と受けていない人を一つにする力があります。

 きょうの聖書箇所の使徒の働き16章からも、音楽が聖霊を受けた者と受けていない者を一つにしていたことが伝わって来ます。25節からご一緒に読みましたが、その前を見ると、これはピリピでの出来事であったことが分かります。ピリピでパウロとシラスは占いの霊に憑かれた女性に付きまとわれます。困ったパウロは18節にあるように、この霊に「イエス・キリストの名によっておまえに命じる。この女から出て行け」と言いました。すると占いの霊は出て行きました。このことで占いで金儲けしていた者たちの恨みを買って、パウロとシラスは捕らえられ、牢屋に入れられることになってしまいました。そうして25節、

使徒16:25 真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた。

 この時にパウロとシラスが歌っていた賛美の歌が、大きな役割を果たしたように感じます。賛美歌を歌っていた囚人たちは地震で扉が開いて鎖が外れても逃げなかったんですね。28節でパウロが「私たちはみなここにいる」と言ったとありますから、皆が一つになっていて、散り散りになることはありませんでした。パウロたちはまだピリピに来たばかりで囚人たちは信者ではありません。それなのに、まるで御霊の一致が得られたかのように、祈りと賛美歌によって一つになっていました。

 パウロとシラスが賛美歌を歌っていた時、看守は寝ていたようです。27節に「目を覚ました」とあるからです。でも、歌声は寝ていた看守にも届いていてはずですから、やはり歌が不思議な働きをしたのではないでしょうか。看守は30節でパウロとシラスに聞きました。

30 「先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。

 二人は答えました。

31 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」

 そうして、この看守と家族の全員が救われました。地震が起きる前に、もしパウロとシラスが賛美歌を歌っていなかったら、囚人たちは散り散りになって逃げ、看守は自害していたのではないかと思います。パウロとシラスの賛美歌が皆を一つにして、看守と家族の救いへとつながったのだと思います。

 21日のハンドベル演奏会では賛美歌もまた演奏されます。賛美歌はイエス様を信じている・信じていないに関わらず、皆を一つにする不思議な力を持っています。賛美歌でなくても音楽は不思議な力で人に力を与え、また励まし、悲しみを癒し、また心をきよめます。21日は、この音楽の大きな力を信じて、ハンドベル演奏会に臨みたいと思います。

 お祈りします。

使徒16:25 真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた。
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霊はこれを与えた神に帰る(2021.11.11 祈り会)

2021-11-15 08:06:22 | 祈り会メッセージ
2021年11月11日祈り会メッセージ
『霊はこれを与えた神に帰る』
【伝道者の書12:7~8、13~14、ローマ7:19~20、24~8:3】

 きょうは先ず、伝道者の書12章を開きます。後でロマ書7章を見て、その後、また伝道者の書12章に戻ります。まず伝道者の書12章7節と8節を読みましょう(旧約p.1154)。

伝12:7 土のちりは元あったように地に帰り、霊はこれを与えた神に帰る。
8 空の空。伝道者は言う。すべては空。

 何度か話しましたが、ここ1~2ヶ月ほど、私は不十分ながらも、これまでの自分の強いこだわりを手放すことを試みています。特に沓谷の朝祷会に出席して解き放たれる恵みに与ってからは、自分を縛っている強いこだわりを手放すことで、さらに解き放たれる恵みがいただけることを学びつつあります。もちろんすべてを手放すことは不可能です。でもイエス様はご自身が神であることを手放して人となり、さらに人として持っていたものも全て手放して十字架に付かれたことを思うなら、イエス様にならって、不十分ではあっても自分のこだわりも、せめてもう少し手放すべきことを示されています。

 すると最近、伝道者の書が心に通うようになって来ました。実を言えば、これまで伝道者の書は、私にはあまり響いていませんでした。それは、伝道者がこの世の空しさを延々と述べて嘆いているからです。3章のみことばのような素晴らしい箇所もあります。よく引用される3章11節の、

伝3:11 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。

などは、確かに素晴らしいみことばだと思います。でも、空しさを延々と述べる伝道者にそう言われても、今ひとつ響かないと思っていました。

 ところが、自分の強いこだわりを手放すことを試みるようになってからは、この伝道者もまた知恵や知識へのこだわりを手放して、空しさからは抜け出していることを感じるようになりました。伝道者が空しさの中にあったのは過去のことで、この書は既にそこからは抜け出しているからこそ書くことができたのだ、ということを感じるようになりました。それはそうですよね。本当に「空の空」の中にいたなら、何かを書こうという気力も湧かないことでしょう。「空の空」から抜け出すことができたからこそ、書くことができたのだと思います。そう思い至ってからは、とたんに伝道者の書が心に通うようになりました。そんなことは皆さんにとっては、もしかしたら当たり前のことかもしれませんが、私にとっては新しいことでした。

 さて、きょう私が何を言いたいかは、パウロのロマ書7章のことばを読めば、一層分かっていただけると思いますから、今度はロマ書7章をご一緒に見たいと思います(新約p.308)。まず7章19節と20節をお読みします。

ローマ7:19 私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。
20 私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。

 パウロは自分の内に住んでいる罪によって、したくない罪を行い、したいと願う善を行うことができないことを嘆いています。少し飛ばして、次に24節を読みます。

24 私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

 自分の内に住む罪によって悪を行っているパウロは自分のことを「私は本当にみじめな人間です」と書いています。ではパウロは、この手紙を書いている時も依然としてみじめな中にいたのでしょうか?そうではないですよね。自分のみじめさに絶望した状態では、ローマ人への手紙というこれだけの書はとうてい書けなかったでしょう。パウロは、イエス・キリストの十字架によって既にみじめさのただ中からは救い出されていました。25節、

25 私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。

 さらに8章の1~3節も読みます。

ローマ8:1 こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
2 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。
3 肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。

 3節の最後の文は十字架のことですね。「神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。」こうしてイエス様の十字架によってパウロ、そしてイエス様を信じる私たちも罪から解放されています。それゆえ、みじめな自分は、もはや過去の自分です。それなのに7章のパウロは今の自分のことのように書いています。それは、この手紙の読者の共感を得るためでしょう。ローマの教会には、まだ御霊に従って歩むことができていない人々もいたことでしょう。それは、とてもみじめなことです。パウロはそのみじめさを、今なおみじめな中にいる人々と同じレベルに立ち、「私は本当にみじめな人間です」と書くことで、どうしても伝えたかったのではないでしょうか。

 伝道者の書12章に戻りたいと思います。この伝道者の書も同じなのだと思います。伝道者自身は多くを手放し、知恵と知識への強いこだわりもその大半を手放すことで、神様から平安を与えられているのだと思います。でも、いまだに多くの人が空しい中にいますから、その空しさの中にいる人たちと同じレベルに立って、空しさから抜け出せるように励ましているのではないでしょうか。

 この書のしめくくりの12章13節と14節をお読みします。

伝12:13 結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。
14 神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。

 以前の私は、この締めくくりのことばも、あまり素直に受け取ることができないでいました。「空の空」と言っている伝道者にそう言われても、何だかなあという気がしていました。でも今は違います。伝道者はパウロと同じように神様から平安を与えられていたのだと思います。

 伝道者は13節で「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」と書いています。ここからは、アダムとエバが神の命令に背く前のエデンの園の様子を思い浮かべることができます。7節には「霊はこれを与えた神に帰る」とあるようにそこは私たちの霊の故郷であり、伝道者は私たちにこの生まれ故郷に霊的に帰るように勧めていることを感じます。蛇の誘惑に遭う前のアダムとエバは神を恐れ、神の命令を守っていました。何も持たず、衣服も着けずに、神様の御守りの平安の中で日々を過ごしていました。

 神を恐れ、神の命令を守ることで、私たちもまた、エデンの園の平安をいただきたいと思います。何も持たずにいて神様に守られていた頃のアダムとエバの平安を、私たちもまたいただきたいと思います。お祈りいたしましょう。

伝12:13 結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。
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