2022年4月7日祈り会メッセージ
『あらゆる民の祈りの家』
【マルコ11:15~19、イザヤ2:1~4、56:6~7】
きょうは4月7日で、17日のイースターの日まであと10日です。十字架の金曜日と復活のイースターに向けて、心を整えて行きたいと思います。
きょうの聖書箇所は先日の礼拝説教で開いた箇所と同じですが、礼拝では主に15節に注目しました。きょうは17節に注目したいと思います。17節をもう一度、お読みします。
この17節のイエス様のことばの中には旧約聖書からの引用が2箇所あります。二重の鍵括弧でくくってある箇所で、1つ目の『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』はイザヤ書からの引用、2つ目の『強盗の巣』はエレミヤ書からの引用です。きょうはイザヤ書のほうを見て、再来週、エレミヤ書のほうを見たいと思っています。来週は最後の晩餐の日ですから、別の箇所を開いて聖餐式を行いたいと願っています。来週の祈り会の司会は私ですから、前半に短く聖書を開いて心を整え、そして皆でお祈りをした後で、後半は聖餐式を行いたいと思います。
では、イザヤ書を開く前に先日の礼拝で注目した15節を簡単に振り返っておくことにします。15節をもう一度お読みします。
イエス様がこの15節でしたことは、随分と乱暴に見えます。でも、このエルサレムの宮の状態を私たち一人一人の心の中の状態であると考えるなら、これぐらい乱暴に片づけてもらわなければならないほど、私たちの心の中には余計な物がいろいろと運び込まれているのかもしれない、そういう話をしました。
エルサレムの宮は一番聖所に近い内側に①男子の庭があり、その外側に②婦人の庭、そして一番外側に③異邦人の庭があったそうです。そして商売人たちが商いをしていたのは一番外側の異邦人の庭であったということです。異邦人はここまでしか入ることが許されていませんでしたから、異邦人にとっては、ここが祈りの場です。その祈りの場に商売や両替をしている人たちがいたのでは、騒がしくて祈りに集中できなかったことでしょう。
一方、祭司長たちは男子の庭(或いはさらにその内側)で祈りに集中することができました。異邦人の庭と男子の庭の間には婦人の庭がありましたから、男子の庭は静かであったことでしょう。そうして、祭司長たちは自分たちは静かな場所で祈り、主を愛していると思い込んでいましたが、隣人である異邦人たちを愛することができていませんでした。しかも、祭司長たちは商売人たちに宮の中で商いをする権利を与えることで利益も得ていたということです。そうして祭司長たちはエルサレムの宮の異邦人の庭を自分たちの私腹を肥やすために利用していました。この罪に気付かずに、自分たちは主を愛していると思い込んでいました。
このことをイエス様は厳しく咎めて乱暴な形で商売人たちを追い出しました。でも、こういう祭司長たちの隣人を愛さない自己中心は私たちの中にも少なからずあるかもしれないと先日の礼拝では話しました。この後でイエス様は十字架に掛かって死にます。その十字架でイエス様が流した血によって私たちの罪で汚れた心はきよめられます。でも、イエス様の血によってきよめられる以前に、まず余計な物を取り除いていただかなければ、血によってきよめていただくことはできないでしょう。机の上のアルコール消毒にたとえるなら、机の上にいろいろな物が載っていたら消毒はできません。消毒する前に先ずは机の上を片付ける必要があります。
同様に、イエス様の血によって心をきよめていただくには、先ずは余計なものを取り除いていただかなければなりません。もし余計な物が多くあるなら、その取り払い方が少々乱暴になっても仕方のないことでしょう。
心の中がいろいろな物で占領されているなら、心が狭くなって隣人を愛することができなくなります。エルサレムの宮の異邦人の庭は余計な物で占領されていました。そして、それを許した祭司長たちの心の中もまた狭くなっていました。イエス様がイザヤ書を引用しておっしゃったように、エルサレムの宮はあらゆる民の祈りの家です。ですから、異邦人も静かに祈ることができる場に祭司長たちはしておかなければなりませんでした。それができていなかったので、イエス様は少々乱暴な方法で宮きよめを行いました。
イエス様が引用したイザヤ書56章を、ご一緒に見ましょう(旧約p.1263)。6節と7節を読みます。
ここには異邦人のことが書かれています。6節に「異国の民」とあり、異国の民もイスラエルの民と同じように安息日を守って主との契約を堅く保つなら、主は異国の民を聖なる山に来させて、主の祈りの家で楽しませて下さいます。なぜなら、7節の最後の文にあるように、主の家は、「あらゆる民の祈りの家と呼ばれるから」です。主はイスラエル人も異邦人も区別なく、エルサレムの宮をあらゆる民の祈りの家として下さっています。それなのに祭司長たちはエルサレムの宮の異邦人の庭で商売人たちに商売をさせて、その権利を与えることで利益を得て私腹を肥やしていました。隣人の異邦人を少しも愛しておらず、それでいて、自分たちは主を愛しているつもりでいました。このことをイエス様は厳しく咎めて乱暴な方法で宮きよめを行ったのですね。
イザヤ書は、いろいろな箇所で、主の救いがあらゆる民にもたらされることを預言していますね。例えば、イエス様の十字架を預言した有名なイザヤ書53章の直前の52章10節で、イザヤはこのように預言しています(旧約p.1258)。
このイザヤの預言の通り、主はすべての国々のすべての者たちが神の救いを見ることができるようにして下さいましたから、日本人の私たちも救いの恵みに与っています。それは、イエス様がすべての者の罪のため、私たちの罪のために十字架に掛かって下さったからです。その十字架がイザヤ書53章で預言されて、イエス様の時代に成就しました。その十字架の直前に、イエス様は少々乱暴な方法で宮きよめをしました。乱暴にしなければ片付かないほど多くの余計な物が置かれていたからです。そして、余計な物が置かれているのは私たちの心の中も同じかもしれません。もし余計な物が置かれているとしたら、イエス様の血によるきよめが妨げられて、隣人を愛することができなくなります。
今、ロシアが隣人のウクライナを愛することができずに悲惨なことが起きています。イエス様はこのことをどんなに悲しんでおられることでしょうか。最後にイザヤ書2章1節から4節までをご一緒に見たいと思います(旧約p.1169)。
イザヤ書は2章という非常に早い段階で、すべての国々が主の家に流れて来ると預言しています。2節にありますね。「そこにすべての国々が流れて来る」と。そして3節、
エルサレムの宮にはすべての国々の民族が集って、主の平和のメッセージを受け取ります。そうして4節にあるように彼らはその剣を鋤(すき)に、槍を鎌に打ち直します。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学びません。そういう平和な世になるとイザヤは預言しました。
それなのに、今なお戦争が絶えることがありません。ウクライナでは残虐な方法で多くの人々の命が奪われました。イエス様は、このことをどんなに悲しんでおられることでしょうか。こういうイエス様を悲しませる悲惨な戦争を繰り返す限り、終わりの日の平和は決して訪れないのではないでしょうか。
皆が隣人を愛することができる世になるように、祈らなければなりません。隣人を愛することを妨げる余計な物を心の宮からイエス様に取り除いていただいて、そうしてイエス様の血によってきよめていただき、皆が隣人を愛することができるようにしていただきたいと思います。
お祈りいたしましょう。
『あらゆる民の祈りの家』
【マルコ11:15~19、イザヤ2:1~4、56:6~7】
きょうは4月7日で、17日のイースターの日まであと10日です。十字架の金曜日と復活のイースターに向けて、心を整えて行きたいと思います。
きょうの聖書箇所は先日の礼拝説教で開いた箇所と同じですが、礼拝では主に15節に注目しました。きょうは17節に注目したいと思います。17節をもう一度、お読みします。
マルコ11:17 そして、人々に教えて言われた。「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」
この17節のイエス様のことばの中には旧約聖書からの引用が2箇所あります。二重の鍵括弧でくくってある箇所で、1つ目の『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』はイザヤ書からの引用、2つ目の『強盗の巣』はエレミヤ書からの引用です。きょうはイザヤ書のほうを見て、再来週、エレミヤ書のほうを見たいと思っています。来週は最後の晩餐の日ですから、別の箇所を開いて聖餐式を行いたいと願っています。来週の祈り会の司会は私ですから、前半に短く聖書を開いて心を整え、そして皆でお祈りをした後で、後半は聖餐式を行いたいと思います。
では、イザヤ書を開く前に先日の礼拝で注目した15節を簡単に振り返っておくことにします。15節をもう一度お読みします。
15 こうして彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮に入り、その中で売り買いしている者たちを追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。
イエス様がこの15節でしたことは、随分と乱暴に見えます。でも、このエルサレムの宮の状態を私たち一人一人の心の中の状態であると考えるなら、これぐらい乱暴に片づけてもらわなければならないほど、私たちの心の中には余計な物がいろいろと運び込まれているのかもしれない、そういう話をしました。
エルサレムの宮は一番聖所に近い内側に①男子の庭があり、その外側に②婦人の庭、そして一番外側に③異邦人の庭があったそうです。そして商売人たちが商いをしていたのは一番外側の異邦人の庭であったということです。異邦人はここまでしか入ることが許されていませんでしたから、異邦人にとっては、ここが祈りの場です。その祈りの場に商売や両替をしている人たちがいたのでは、騒がしくて祈りに集中できなかったことでしょう。
一方、祭司長たちは男子の庭(或いはさらにその内側)で祈りに集中することができました。異邦人の庭と男子の庭の間には婦人の庭がありましたから、男子の庭は静かであったことでしょう。そうして、祭司長たちは自分たちは静かな場所で祈り、主を愛していると思い込んでいましたが、隣人である異邦人たちを愛することができていませんでした。しかも、祭司長たちは商売人たちに宮の中で商いをする権利を与えることで利益も得ていたということです。そうして祭司長たちはエルサレムの宮の異邦人の庭を自分たちの私腹を肥やすために利用していました。この罪に気付かずに、自分たちは主を愛していると思い込んでいました。
このことをイエス様は厳しく咎めて乱暴な形で商売人たちを追い出しました。でも、こういう祭司長たちの隣人を愛さない自己中心は私たちの中にも少なからずあるかもしれないと先日の礼拝では話しました。この後でイエス様は十字架に掛かって死にます。その十字架でイエス様が流した血によって私たちの罪で汚れた心はきよめられます。でも、イエス様の血によってきよめられる以前に、まず余計な物を取り除いていただかなければ、血によってきよめていただくことはできないでしょう。机の上のアルコール消毒にたとえるなら、机の上にいろいろな物が載っていたら消毒はできません。消毒する前に先ずは机の上を片付ける必要があります。
同様に、イエス様の血によって心をきよめていただくには、先ずは余計なものを取り除いていただかなければなりません。もし余計な物が多くあるなら、その取り払い方が少々乱暴になっても仕方のないことでしょう。
心の中がいろいろな物で占領されているなら、心が狭くなって隣人を愛することができなくなります。エルサレムの宮の異邦人の庭は余計な物で占領されていました。そして、それを許した祭司長たちの心の中もまた狭くなっていました。イエス様がイザヤ書を引用しておっしゃったように、エルサレムの宮はあらゆる民の祈りの家です。ですから、異邦人も静かに祈ることができる場に祭司長たちはしておかなければなりませんでした。それができていなかったので、イエス様は少々乱暴な方法で宮きよめを行いました。
イエス様が引用したイザヤ書56章を、ご一緒に見ましょう(旧約p.1263)。6節と7節を読みます。
イザヤ56:6 また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった異国の民が、みな安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、
7 わたしの聖なる山に来させて、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のささげ物やいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。なぜならわたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ。
7 わたしの聖なる山に来させて、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のささげ物やいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。なぜならわたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ。
ここには異邦人のことが書かれています。6節に「異国の民」とあり、異国の民もイスラエルの民と同じように安息日を守って主との契約を堅く保つなら、主は異国の民を聖なる山に来させて、主の祈りの家で楽しませて下さいます。なぜなら、7節の最後の文にあるように、主の家は、「あらゆる民の祈りの家と呼ばれるから」です。主はイスラエル人も異邦人も区別なく、エルサレムの宮をあらゆる民の祈りの家として下さっています。それなのに祭司長たちはエルサレムの宮の異邦人の庭で商売人たちに商売をさせて、その権利を与えることで利益を得て私腹を肥やしていました。隣人の異邦人を少しも愛しておらず、それでいて、自分たちは主を愛しているつもりでいました。このことをイエス様は厳しく咎めて乱暴な方法で宮きよめを行ったのですね。
イザヤ書は、いろいろな箇所で、主の救いがあらゆる民にもたらされることを預言していますね。例えば、イエス様の十字架を預言した有名なイザヤ書53章の直前の52章10節で、イザヤはこのように預言しています(旧約p.1258)。
イザヤ52:10 主はすべての国々の目の前に聖なる御腕を現された。地の果てのすべての者が私たちの神の救いを見る。
このイザヤの預言の通り、主はすべての国々のすべての者たちが神の救いを見ることができるようにして下さいましたから、日本人の私たちも救いの恵みに与っています。それは、イエス様がすべての者の罪のため、私たちの罪のために十字架に掛かって下さったからです。その十字架がイザヤ書53章で預言されて、イエス様の時代に成就しました。その十字架の直前に、イエス様は少々乱暴な方法で宮きよめをしました。乱暴にしなければ片付かないほど多くの余計な物が置かれていたからです。そして、余計な物が置かれているのは私たちの心の中も同じかもしれません。もし余計な物が置かれているとしたら、イエス様の血によるきよめが妨げられて、隣人を愛することができなくなります。
今、ロシアが隣人のウクライナを愛することができずに悲惨なことが起きています。イエス様はこのことをどんなに悲しんでおられることでしょうか。最後にイザヤ書2章1節から4節までをご一緒に見たいと思います(旧約p.1169)。
イザヤ2:1 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見たことば。
2 終わりの日に、主の家の山は山々の頂に堅く立ち、もろもろの丘より高くそびえ立つ。そこにすべての国々が流れて来る。
3 多くの民族が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。」それは、シオンからみおしえが、エルサレムから主のことばが出るからだ。
4 主は国々の間をさばき、多くの民族に判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。
2 終わりの日に、主の家の山は山々の頂に堅く立ち、もろもろの丘より高くそびえ立つ。そこにすべての国々が流れて来る。
3 多くの民族が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。」それは、シオンからみおしえが、エルサレムから主のことばが出るからだ。
4 主は国々の間をさばき、多くの民族に判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。
イザヤ書は2章という非常に早い段階で、すべての国々が主の家に流れて来ると預言しています。2節にありますね。「そこにすべての国々が流れて来る」と。そして3節、
3 多くの民族が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。」それは、シオンからみおしえが、エルサレムから主のことばが出るからだ。
エルサレムの宮にはすべての国々の民族が集って、主の平和のメッセージを受け取ります。そうして4節にあるように彼らはその剣を鋤(すき)に、槍を鎌に打ち直します。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学びません。そういう平和な世になるとイザヤは預言しました。
それなのに、今なお戦争が絶えることがありません。ウクライナでは残虐な方法で多くの人々の命が奪われました。イエス様は、このことをどんなに悲しんでおられることでしょうか。こういうイエス様を悲しませる悲惨な戦争を繰り返す限り、終わりの日の平和は決して訪れないのではないでしょうか。
皆が隣人を愛することができる世になるように、祈らなければなりません。隣人を愛することを妨げる余計な物を心の宮からイエス様に取り除いていただいて、そうしてイエス様の血によってきよめていただき、皆が隣人を愛することができるようにしていただきたいと思います。
お祈りいたしましょう。
「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。」