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一粒のタイル2

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

荘子と聖書 ~天上で安らぐ大鵬とイエスの弟子たち~

2024-01-15 06:34:11 | 荘子と聖書
荘子と聖書
~天上で安らぐ大鵬とイエスの弟子たち~

 『荘子』は紀元前300年頃に中国の思想家の荘子とその弟子たちによって書かれた書です。紀元前300年頃と言えば、聖書の「中間時代」の只中にあります。中間時代とは、旧約聖書の最後の書であるマラキ書が書かれてからイエス・キリストの誕生までの約400年間を指します。この時代は「空白の四百年」とも呼ばれていて、「神が沈黙していた」という言われ方もされている期間です。

 最近になって私は、聖書の中間時代に『荘子』が書かれたことに何か深い意味があるのではないかと感じるようになりました。別の言い方をすれば、『荘子』には旧約聖書と新約聖書の二つの書をつないで一書とするための重要な役割が与えられているのではないか、そんな気がしているのです。聖書の重要な舞台である西アジアからは遠く離れた東アジアの中国で神は秘かに荘子に語り掛けて、地上に居ても天上で安らぐことができることを教えたのではないか、だとしたら、こんなに面白いストーリーはありません。荘子はもちろん聖書を知りませんから、『荘子』は聖書とはまったく異なる書物です。しかし、二つの書には深い領域で共通する事柄も多くあります。この共通する事柄を明らかにして行くことが私に与えられた最後の使命ではないか、最近になって急速にそのような気持ちになっています。

 本ブログを通して私は何とかしてヨハネの福音書の主役は「天上のイエス」であることを伝えて、イエスと共に天上で安らぐことで心の深い平安が得られることを分かち合いたいと願っています。そうして、世界が平和に向かって行くことを心の底から望んでいます。しかし「天上のイエス」のことは、なかなか伝わりません。本ブログで何度も繰り返し書いているように、ヨハネ4章のイエスは明らかに天上にいます。

ヨハネ4:1 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、
2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──

 バプテスマを授けていたのは地上にいる弟子たちで、イエスは天上にいることがハッキリと読み取れるのに、それが伝わりません。どうして伝わらないのでしょうか?その理由を考え続ける中で思い至ったのが、学生時代の私の愛読書が『荘子』であったことです。このことは以前から薄々感じていたことで、沼津にいた頃に『荘子』について語っていた時期もありましたが、牧師という立場ではあまり声高に『荘子』の素晴らしさを語るわけにはいきませんでした。しかし、今は牧師職からは離れています。神様は今のような牧師職から離れた立場に私を置くことで、『荘子』が旧約聖書と新約聖書のつなぎ役になっていることを世に示すように働き掛けているのではないか、そうして「平和への道」を整えることが私に与えられた使命ではないか、そのように強く感じています。(つづく)
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ハイパー訳『ヨハネの福音書』プロローグ

2023-12-31 09:29:06 | 荘子と聖書
ハイパー訳『ヨハネの福音書』プロローグ(1章1~18節)

 はじめに神が天と地を創造された。地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。神は仰せられた。

「光があれ。」

 すると光があった。神は光を良しと見られた。神は光と闇を分けられた。神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。

 神は仰せられた。

「大空よ、水の真っただ中にあれ。水と水の間を分けるものとなれ。」

 神は大空を造り、大空の下にある水と大空の上にある水を分けられた。すると、そのようになった。神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日。

 神は仰せられた。

「天の下の水は一つの所に集まれ。乾いた所が現れよ。」

 すると、そのようになった。神は乾いた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを良しと見られた。

 こうして神は初めに、ことばによって天と地を創造された。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。それゆえ「光があれ」、「大空よ、水の真っただ中にあれ。水と水の間を分けるものとなれ」、「天の下の水は一つの所に集まれ。乾いた所が現れよ」などの神のことばを発したのは、この方である。旧約聖書に記されている神のことばはすべて、この方のことばである。

 この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

 すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

 神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。この人は証しのために来た。光であることばについて証しをするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。彼は光ではなかった。ただ光であることばについて証しするために来た愛弟子である。ことばは愛弟子たちに言った。

「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」

 愛弟子はこの方について証しして、こう叫んだ。

「『私の後に来られる方は、私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。」

 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、旧約の律法の恵みの上にさらに新約の聖霊の恵みを受けた。律法の恵みはモーセによって与えられ、聖霊の恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。
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