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一粒のタイル2

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

3:22(ヨハネの福音書注解)ヨシュア記の「ヨルダン渡河」の出来事

2017-10-24 17:56:38 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ3:22 ヨシュア記の「ヨルダン渡河」の出来事

その後、イエスは弟子たちと、ユダヤの地に行き、彼らとともにそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。(ヨハネ3:22)


 この22節の「ユダヤの地に行き」は、イスラエルの民がヨシュアに率いられてヨルダン川を渡り、カナンの地に入った出来事(ヨシュア3章)が重ねられている。
 ヨルダン川を挟んでの「旧約の時代」の東西の動きは、このヨハネ3:22の他にもある。既に見たヨハネ1:28の「ヨルダンの向こう岸」(アブラムがカナンに向けて出立したハランの地を示す)の他、ヨハネ10:40でイエスは「ヨルダンを渡って」向こう岸の東側に行き、11:7で「もう一度ユダヤに行こう」と言ってヨルダンのこちら側に戻って来た。これは「バビロン捕囚」の出来事とバビロンからの「エルサレム帰還」の出来事が重ねられている。バビロンはエルサレムから見るとヨルダンの向こう岸にあるからである。
 さて、ヨハネ2:1から始まって前節の3:21までモーセの時代が長く続いたが、ここからの3章の残りの区間では時代が急速に進む。後述するようにヨハネ4章からの「旧約の時代」は列王記の時代に入る。それゆえ、この3章22節から36節までの短い区間でヨシュア記、士師記、ルツ記、サムエル記の時代が慌しく過ぎて行くことになる。
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3:17-21(ヨハネの福音書注解)「すでにさばかれている」とは?

2017-10-23 13:36:12 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ3:17-21 「すでにさばかれている」とは?

17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。19 そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。20 悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。21 しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。(ヨハネ3:17-21)

 18節に、「信じない者は・・・すでにさばかれている」とある。「すでにさばかれている」とは、どういうことだろうか?
 その答が19節以下に書かれている。御子イエスが神の子キリストと信じる者は聖霊を受けて、霊的な目が開眼する。しかし、信じない者は聖霊を受けないから、霊的な目が開眼しない。そのように霊的な目が開眼しないなら神が照らす光が見えないから、光のほうに来ることができない。光のほうに来なかった者は救われないから、滅びることになる。
 信じない者には滅びの道しか残されていない。これが「すでにさばかれている」ということであろう。
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3:15-16(ヨハネの福音書注解)重層的な「永遠」の中でこそ感じられる豊かな神の愛

2017-10-21 06:13:18 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ 3:15-16 重層的な「永遠」の中でこそ感じられる豊かな神の愛

15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。


 ヨハネ3:16は時に「聖書の中の聖書」とも呼ばれる聖書の中心メッセージである。この聖句の背後には前項の3:14で見たように、荒野を放浪しているイスラエルの民の姿があることを覚えておきたい。イスラエルの民は何かあればすぐに不平不満を言った。モーセが蛇を上げた時もそうであった。

民は神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」(民数記21:5)

 このイスラエルの民の姿は大半の私たちの姿でもある。中途半端に神を信じ、神についたり離れたりしている。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、神を愛するということがなく、何かあればすぐに神に不平不満をぶつける。このような私たちは、ノアの洪水の時のように滅ぼされてもおかしくはない。しかし、神はこんな私たちを愛してくださり、「ひとりとして滅びること」がないように、御子を遣わされた。ヨハネは第一の手紙に次のように書いている。

9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(Ⅰヨハネ4:9-10)


 この神の愛の豊かさは、

→ 使徒の時代(霊的イエス) →
→ イエスの時代(人間イエス) →
→ 旧約の時代(霊的イエス) →

という重層的な「永遠」の時間観の中でこそ、たっぷりと感じることができる。一方、もし「過去→現在→未来」という一方通行の流れの時間観に束縛されたまま、聖書の時代を

→ 旧約の時代 → イエスの時代 → 使徒の時代 →

という直線的な時間の中でしか理解していないのなら「霊的イエス」の存在にも気づくことがないであろうし、神の愛も少ししか感じることができないであろう。
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3:13-14(ヨハネの福音書注解)ヨハネ3:14はジグソーパズルの「角」のピース

2017-10-20 14:58:49 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ 3:13-14 ヨハネ3:14はジグソーパズルの「角」のピース

13 だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。(ヨハネ3:13-14)

 このヨハネ3:14の「モーセが荒野で蛇を上げた」記事は、

→ 使徒の時代(霊的イエス) →
→ イエスの時代(人間イエス) →
→ 旧約の時代(霊的イエス) →

の三層構造になっているヨハネ1~11章の区間においては唯一、「旧約の時代」の出来事が表側に明示されている箇所だ。この「モーセが荒野で蛇を上げた」という旧約の記事は民数記21:9にある。
 その他の「旧約の時代」の出来事は、すべて背後で暗に示されているだけだ。それゆえ表に現れている「イエスの時代」の記事が旧約のどの出来事と重ねられているのか、わかりづらい箇所も多い。例えばヨハネ1章のナタナエルが創世記のヤコブであることは気づきにくいであろう。或いはまたヨハネ2:11の「最初のしるし」が、神がエジプトに与えた「最初の災い」であることにも、すぐには気づきにくいだろう。そんな中で、このヨハネ3:14は民数記21:9に対応していると明示されているおかげで、この前後の記事も容易に「旧約の時代」の出来事と照合することができる。この記事の前のニコデモの箇所は出エジプト記とレビ記の「律法の授与」の出来事と重ねられていると容易にわかるし、この記事の後の「その後、イエスは弟子たちと、ユダヤの地に行き」(ヨハネ3:22)はヨシュア記3章の「ヨルダン渡河」の出来事と重ねられていると容易にわかる。
 このようにして、ヨハネ4章でイエスがサマリヤ地方に行ったことは北王国の預言者エリヤの時代と重ねられているということもわかり、順次まるでジグソーパズルのピースの全体が嵌まるようにして、重なりの全体像が明らかになるのだ。そういう意味で、このヨハネ3:14の「モーセが荒野で蛇を上げた」記事は、ジグソーパズルの四隅の「角」のピースであると言えるだろう。
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3:9-12(ヨハネの福音書注解)不信仰なイスラエルの民とユダヤ人を嘆き、叱責する神

2017-10-20 11:29:17 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ 3:9-12 不信仰なイスラエルの民とユダヤ人を嘆き、叱責する神

9 ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。11 まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。12 あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。

 ここでイエスはニコデモを叱責している。記者のヨハネは「旧約の時代」のイスラエルの民が神と共に歩まずにすぐに神から離れてしまうことを、この箇所に重ねているのだろう。彼らは水や食べ物のことで不平不満を言い、またモーセを通して律法が与えられた時には声を一つにして「主の仰せられたことは、みな行います」(出エジプト24:3)と誓ったにも関わらず、モーセが四十日間シナイ山に上っていた間に金で子牛の像を造り、それを伏し拝む有様であった(出エジプト32章)。そんなイスラエルの民に対する神の嘆きと怒りの表れが、ニコデモへの叱責ではないか。
 そして、この不信仰は「使徒の時代」のユダヤ人たちも同様であった。イエスを信じたユダヤ人も少なくはなかったものの、多数派になるには至らず、ユダヤ人の多くは信じなかった。これではユダヤ人たちは聖霊を受けることができず、聖霊の恵みもわからない。「使徒の時代」の「霊的イエス」は、このこともまた残念に思っていたであろう。
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3:1-8(ヨハネの福音書注解)「律法の恵み」と「聖霊の恵み」とを重ねたヨハネ

2017-10-19 22:13:43 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ 3:1-8 「律法の恵み」と「聖霊の恵み」とを重ねたヨハネ

1 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」


 3章に入ってパリサイ人のニコデモが登場する。ニコデモはマタイ・マルコ・ルカには登場しない人物だ。パリサイ人はモーセの律法を重んじて厳格に守る人々であったので、ここでヨハネは「旧約の時代」における「律法の授与」を、この箇所に重ねている。また、イエスはニコデモに聖霊について教えているので、「使徒の時代」の「聖霊の授与」をも重ねている。これは「律法の恵み」と「聖霊の恵み」とを重ねているということだ。
 従来、律法は恵みなのか恵みでないのか見解が分かれていた。律法を神の愛の表れであると考えるなら恵みであるが、律法は人を拘束する縄や鎖のようなものであると考えるなら恵みではない。パウロのローマ人への手紙を読んでも、どちらとも取れるので判然としなかった。しかし、ヨハネの福音書が三つの時代の三層構造を持つことがわかったことで、「律法は恵みである」ということがはっきりとした。ヨハネの福音書は、

→ 使徒の時代(霊的イエス) →
→ イエスの時代(人間イエス) →
→ 旧約の時代(霊的イエス) →

という構造を持つ。イエスは恵みに溢れた方であるから、律法もまた恵みでなければならないことが、この構造からわかるであろう。律法を守ることで人は神と共に歩むことができる。そうして神の御守りの中で生きることができる。それゆえ律法は神の愛の表れなのだ。
 神の愛は、イエスを信じて聖霊を受けることでわかるようになる。ヨハネは第一の手紙に次のように書いている。

13 神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。14 私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。15 だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。16 私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。(Ⅰヨハネ4:13-16)

 ヨハネの福音書の読者は、この書の主役が「霊的イエス」であることを理解するなら、上記の旧約・イエス・使徒の三つの時代の重なりによって神の愛もまた重なり合い、恵みが満ち溢れている様子を感じ取ることができるであろう。しかし、もし「人間イエス」の姿しか見えないのであれば、やせ細った神の愛しか感じることができないであろう。
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2:24-25(ヨハネの福音書注解)不平不満をつぶやく人の心の内を知っている神

2017-10-19 16:55:30 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ 2:24-25 不平不満をつぶやく人の心の内を知っている神

24 しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。すべての人を知っていたので、25 人についてだれの証言も必要とされなかったからである。イエスは、人のうちに何があるかを知っておられたのである。(ヨハネ2:24-25、新改訳2017)


 記者のヨハネがこの箇所を何に重ねているのか少しわかりづらいが、恐らくはエジプトを脱出したイスラエルの民がモーセに不平不満をつぶやいたことを重ねているのだと思う。彼らは水を飲めないと「私たちは何を飲んだらよいのですか」(出エジプト15:24)とつぶやき、空腹になると次のようにつぶやいた。

「エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは主の手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。」(出エジプト16:3)


 このつぶやきはモーセとアロンに対するものであり、イスラエルの民は神に直接不平不満をぶつけたわけではない。しかし、神は人の心の内をすべて知っていた。そのことを表したのがヨハネ2:25の「イエスは、人のうちに何があるかを知っていた」なのであろう。
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2:23(ヨハネの福音書注解)神を信じたイスラエル人とイエスを信じたユダヤ人

2017-10-19 13:47:48 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ 2:23 神を信じたイスラエル人とイエスを信じたユダヤ人

イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。(ヨハネ2:23)

 前項で述べたように、この箇所は「使徒の時代」の五旬節の日にペテロのことばを受け入れたエルサレムのユダヤ人たちがバプテスマを受けた出来事に重ねられている。使徒2章には次のように記されている。

40 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。41 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。(使徒2:40-41)


 この五旬節の日のエルサレムでの出来事は、ヨハネ4章でも再び取り上げられている。イエスがサマリヤを去ってガリラヤに行った次の箇所だ。

43 さて、二日の後、イエスはここ(注:サマリヤ)を去って、ガリラヤへ行かれた。44 イエスご自身が、「預言者は自分の故郷では尊ばれない」と証言しておられたからである。45 そういうわけで、イエスがガリラヤに行かれたとき、ガリラヤ人はイエスを歓迎した。彼らも祭りに行っていたので、イエスが祭りの間にエルサレムでなさったすべてのことを見ていたからである。(ヨハネ4:43-45)


 この場面は主役が「人間イエス」だと思っていると、とても奇妙な場面だ。なぜ故郷のガリラヤでは尊ばれないはずのイエスが歓迎されたのか?、とても不思議だ。しかし主役が「霊的イエス」だとわかっていれば、何の不思議もない。ここでガリラヤに行ったのは「使徒の時代」のクリスチャンの内にいる「霊的イエス」だ。ガリラヤ人たちもまた「使徒の時代」にいて、五旬節の日の出来事(使徒2章)をエルサレムで見ていたので、イエスを歓迎したのだった。
 さて、このヨハネ2:23には「旧約の時代」も重ねられている。神は海を二つに割る奇跡によってイスラエル人をエジプトから脱出させた。かわいた海を渡ったイスラエル人たちは、この神の偉大な力を見て、神を信じたのだった。出エジプト記には次のように記されている。

29 イスラエル人は海の真ん中のかわいた地を歩き、水は彼らのために、右と左で壁となったのである。30 こうして、主はその日イスラエルをエジプトの手から救われた。イスラエルは海辺に死んでいるエジプト人を見た。31 イスラエルは主がエジプトに行われたこの大いなる御力を見たので、民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。(出エジプト14:29-30)


 このようにヨハネ2:23には「旧約の時代」と「使徒の時代」の二つの時代が「イエスの時代」に重ねられている。「旧約の時代」のイスラエル人たちは神を信じ、「使徒の時代」のユダヤ人たちはイエスを信じたのだった。
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2:18-22(ヨハネの福音書注解)使徒の働きに忠実なヨハネの福音書の「使徒の時代」

2017-10-19 06:11:04 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ 2:18-22 使徒の働きに忠実なヨハネの福音書の「使徒の時代」

18 そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」19 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」20 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」21 しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。22 それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。(ヨハネ2:18-22)


 ヨハネの福音書に重ねられている旧約・イエス・使徒の三つの時代の中の「使徒の時代」の流れは、使徒の働き(使徒言行録、使徒行伝)の記事の流れがかなり忠実に反映されている。すなわち、ヨハネ1章には使徒1章の五旬節の日以前の弟子たちの様子が重ねられており、ヨハネ2章には使徒2章の五旬節の日の様子が重ねられている。そしてヨハネ3章には使徒3~6章のエルサレム教会の成長期が重ねられており、ヨハネ4章には使徒7~8章のステパノ迫害で散らされたピリポによるサマリヤ伝道と使徒10章の異邦人が聖霊を受けた出来事が重ねられている。
 さて本項のヨハネ2:18-22では「イエスの復活」について述べられている。ここに重ねられている「使徒の時代」は、五旬節(ペンテコステ)の日にガリラヤ人たちが聖霊を受けた後でペテロがエルサレムの人々に向けて語った説教である。この説教の中でペテロは「イエスの復活」について次のように語っている。

22 イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行われました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。23 あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。24 しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。(使徒2:22-24)


 この日、ペテロのことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた(使徒2:41)。このことをヨハネは次の節のヨハネ2:23で重ねている。
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2:17(ヨハネの福音書注解)海の水に飲み込まれたエジプトの王の軍勢

2017-10-18 08:22:07 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ 2:17 海の水に飲み込まれたエジプトの王の軍勢

2:17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。

 「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」は詩篇69篇9節からの引用だ。下に7節から9節までを示しておく。

7 私は、あなたのためにそしりを負い、侮辱が私の顔をおおっていますから。8 私は自分の兄弟からは、のけ者にされ、私の母の子らにはよそ者となりました。9 それは、あなたの家を思う熱心が私を食い尽くし、あなたをそしる人々のそしりが、私に降りかかったからです。(詩篇69:7-9)

 さて、この詩篇69篇は次のように始まる。

1 神よ。私を救ってください。水が、私ののどにまで、入って来ましたから。2 私は深い泥沼に沈み、足がかりもありません。私は大水の底に陥り奔流が私を押し流しています。(詩篇69:1-2)

 この詩篇69篇の1節と2節は、まるでイスラエル人たちを追って来たエジプトの王の軍勢が海の水に飲み込まれた時を描いているかのようだ。私も確信はないが、記者のヨハネは恐らくは2:17で詩篇69篇を引用することで、神が海の水を二つに割ってイスラエル人たちが歩いて海を渡れるようにした出来事を描いたのではないかと思う。ヨハネは極めて巧妙に「旧約の時代」と「使徒の時代」を「イエスの時代」の背後に重ねているので、ここでもその手法を用いていると思われる。そうして目に見えない「霊的イエス」を「人間イエス」を通して見えるようにしてくれているのだ。
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2:13-16(ヨハネの福音書注解)過ぎ越された十番目の災いの「初子の死」

2017-10-18 06:31:28 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ 2:13-16 過ぎ越された十番目の災いの「初子の死」

13 ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。14 そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、15 細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、16 また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(ヨハネ2:13-16)

 九つの災いを与えても、エジプトの王はなおイスラエル人がエジプトから出て行くことを許さなかった。そこで神は十番目の災いの「初子の死」をエジプトに与えた。出エジプト記には次のように記されている。

真夜中になって、主はエジプトの地のすべての初子を、王座に着くパロの初子から、地下牢にいる捕虜の初子に至るまで、また、すべての家畜の初子をも打たれた。それで、その夜、パロやその家臣および全エジプトが起き上がった。そして、エジプトには激しい泣き叫びが起こった。それは死人のない家がなかったからである。(出エジプト12:29-30)

 このようにエジプト全家の初子が死んだ。しかし、かもいと門柱に羊の血で目印を付けたイスラエル人の家は神が災いを与えずに過ぎ越したので、初子の死を免れることができた。そしてエジプトの王は、この十番目の災いの後でついにイスラエル人に出て行くように命じた。ヨハネ2:13にある「ユダヤ人の過越の祭り」は、この過越の出来事を忘れないようにするために毎年必ず行うよう神が命じたものである。
 ヨハネ2:13-16にはこの過越の出来事が重ねられている。そして記者のヨハネは、この2章という早い段階でイエスが「わたしの父の家を商売の家としてはならない」と神殿で言って商売用の金を散らして動物を追い出した「宮きよめ」の出来事を描いている。マタイ・マルコ・ルカが終盤に描いている「宮きよめ」をヨハネが早くに描いたのは、「旧約の時代」と「使徒の時代」を重ねるために必要な構成であったからだろう。ヨハネの福音書は「霊的イエス」を描いた書であるから、「人間イエス」を描いたマタイ・マルコ・ルカとは異なる大胆な構成になっているのだ。
 この「宮きよめ」の記事ではマタイ・マルコ・ルカの福音書のイエスが「商売人たち」を追い出しているのに対して、ヨハネの福音書のイエスは「いけにえの動物たち」を追い出している。「世の罪を取り除く神の小羊」(1:29)であるイエス自身がいけにえの動物たちに代わって十字架で犠牲になることを、記者のヨハネは2章という早い段階で予告していると言えよう。
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2:12(ヨハネの福音書注解)二番目~九番目の災い

2017-10-17 22:33:14 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ 2:12 二番目~九番目の災い

その後、イエスは母や兄弟たちや弟子たちといっしょに、カペナウムに下って行き、長い日数ではなかったが、そこに滞在された。(ヨハネ2:12)


 「長い日数ではなかった」とは、恐らく神がモーセの時代にエジプトに与えた二番目~九番目の災いの期間のことだと思われる。これらの災いは、②カエル、③ブヨ、④アブ、⑤家畜の疫病、⑥腫れ物、⑦雹、⑧イナゴ、⑨暗闇であり、出エジプト記の8~10章に記されている。
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2:5-11(ヨハネの福音書注解)出エジプトと聖霊授与の「最初のしるし」

2017-10-17 11:58:12 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ 2:5-11 出エジプトと聖霊授与の「最初のしるし」

5 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」6 さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。7 イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。8 イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。9 宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、──しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた──彼は、花婿を呼んで、10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」11 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。(ヨハネ2:5-11)


 ヨハネ2章の「旧約の時代」ではモーセの時代の「出エジプト」の出来事が重ねられている。神はモーセをリーダーに任命して奴隷として苦しんでいたイスラエルの民をエジプトから脱出させた。その際に神はエジプトに十の災いを与えた。十の災いとは①ナイル川の水を血に変えた、②カエル、③ブヨ、④アブ、⑤家畜の疫病、⑥腫れ物、⑦雹、⑧イナゴ、⑨暗闇、⑩初子の死だ。
 この2章前半のカナの婚礼の場面でイエスが水をぶどう酒に変えた奇跡は、第一の災いの神がナイル川の水を血に変えたことと重ねられている。婚礼という祝福の場面に災いが重ねられていることに違和感を覚える読者もいるかもしれないが、出エジプトの恵みにつながるのだから、災いといえども良い事なのだろう。
 もう一つの「使徒の時代」には、ペンテコステの日にガリラヤ人の弟子たちが聖霊を受けた出来事が重ねられている。このガリラヤのカナの婚礼にはイエスの弟子のガリラヤ人たちも招かれていたことが2節に書かれている。そしてペンテコステの日に最初に聖霊を受けたのは下記のようにガリラヤ人の弟子たちであった。

1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。3 また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。5 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、6 この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。7 彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。(使徒2:1-7)


 ぶどう酒はイエスの血だ。きよめのしきたりの水では体の表面の汚れしかきよめることができない。しかしイエスの血は心の中の汚れ、すなわち罪をきよめる力がある。イエスを信じて聖霊を受けた者の内にはイエスが入る。それゆえ、その者はイエスの血によって心の内がきよめられるのだ。ヨハネはこの新約の聖霊の恵みが最初に授与された出来事を「最初のしるし」(ヨハネ2:11)と名づけた。
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2:2-4(ヨハネの福音書注解)イエスの母ではないマリヤ

2017-10-17 09:31:17 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ 2:2-4 イエスの母ではないマリヤ

2 イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。3 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」(ヨハネ2:2-4)

 4節の「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方」というイエスのことばには冷たい響きがあり、とても母に対することばとは思えない。母を敬わないイエスは読者の目には無礼者のように映るかもしれない。しかし、これはヨハネ流のユーモアだ。なぜなら「人間イエス」の母のマリヤは「霊的イエス」にとっては母ではないからだ。この連載で再三にわたって述べているように、ヨハネの福音書の主役は「霊的イエス」であって、「人間イエス」ではない。記者のヨハネはこのことをユーモアを交えて読者に伝えているのだと思う。
 そしてヨハネは「旧約の時代」のモーセが育った家庭環境をもここに重ねている。モーセはヘブル人であったが、エジプトの王女の息子として育てられた。従ってモーセの母はエジプト人の王女であり、ヘブル人の実母ではなかったのだ。
 或いはまた使徒の働き1章では下記のようにイエスの母マリヤが登場する。

この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。(使徒1:14)

 しかしヨハネ2章の「イエスの時代」に重ねられた「使徒の時代」においては、マリヤはイエスの母ではない。なぜならヨハネ19章において十字架に付けられたイエスは、下記のように母と子の関係を絶ったからだ。

25イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。26 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた。27 それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。(ヨハネ19:25-27)

 以上のように、ヨハネの福音書の主役は「旧約の時代」と「使徒の時代」の「霊的イエス」であって「イエスの時代」の「人間イエス」ではないことに注意して、この福音書を読まなければならない。「霊的イエス」は聖霊を受けた預言者(旧約の時代)とクリスチャン(使徒の時代)の内にいる。
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2:1(ヨハネの福音書注解)「それから三日目に」とは?

2017-10-17 06:39:03 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ 2:1 「それから三日目に」とは?

それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。(ヨハネ2:1)

 「三日目に」は、イエス・キリストの十字架と復活の日の日数の数え方だ。イエスは一日目の金曜日に十字架に掛かって死に、二日目の安息日を挟んで三日目の日曜日に復活した。マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四つの福音書とも一日目と三日目の出来事についてはたっぷりと書いているが、二日目の安息日に何があったかは何も書いていない。
 ヨハネ2:1の「三日目に」も、これと似ている。ヨハネ2:1の「三日目に」は1:29、1:35、1:43の三つの「その翌日」と連動している。すなわち1:29の「その翌日」で「アブラハムの時代」になり、1:35の「その翌日」で「イサクの時代」になり、1:43の「その翌日」で「ヤコブの時代」になり、2:1の「三日目に」では「ヨセフの時代」をスキップして「モーセの時代」に入る。省略された「ヨセフの時代」は二日目の安息日と同じ扱いだ。
 上記は「旧約の時代」との重なりだが、ヨハネは「使徒の時代」とも重ねている。「使徒の時代」においてはイエス・キリストが復活した日から五十日目の五旬節(ペンテコステ)の日に、弟子たちが聖霊を受けた。この五十日をヨハネは三つの「その翌日」と「三日目に」で表している。すなわち1:29の「その翌日」が「十日目」、1:35の「その翌日」が「二十日目」、1:43の「その翌日」が「三十日目」で、「四十日目」はスキップして2:1の「三日目に」で五旬節の「五十日目」を迎えた。
 従って、ヨハネ2章には「モーセの時代」の出来事と「ペンテコステの日」の出来事が重ねられている。このようにしてヨハネの福音書においては下記のように「旧約の時代」と「イエスの時代」と「使徒の時代」の三つの時代が同時並行で進んで行く。

→ 使徒の時代 →
→ イエスの時代 →
→ 旧約の時代 →

 この重層構造を用いて記者のヨハネは「イエスの時代」の「人間イエス」に「旧約の時代」と「使徒の時代」の「霊的イエス」を重ねている。「旧約の時代」の「霊的イエス」は聖霊を受けた預言者の内にいる。同様に、「使徒の時代」の「霊的イエス」は聖霊を受けたクリスチャンの内にいる。
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