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一粒のタイル2

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

1:43-51(ヨハネの福音書注解)ナタナエルは神と格闘したヤコブ

2017-10-16 22:27:07 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ1:43-51 ナタナエルは神と格闘したヤコブ

43 その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて「わたしに従って来なさい」と言われた。44 ピリポは、ベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。45 彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」46 ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」47 イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」48 ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」49 ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」50 イエスは答えて言われた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」51 そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」(ヨハネ1:43-51)


 43節の「その翌日」を境に「旧約の時代」は「イサクの時代」から「ヤコブの時代」へと移り変わる(1:29の注解参照)。そして47節でナタナエルがイエスのほうに近づいたのは、ヤコブが神に近づいたことを示す。
 既述した1:29ではイエスがヨハネに近づいたが、それは神のほうからアブラハムに近づいたのだと説明した。一方、47節はヤコブのほうから神に近づいた。これは創世記の次の箇所でヤコブが神に祝福を求めて近づき格闘したことを表す。

24 ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。25 ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。26 するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。」(創世記32:24-28)


 かつてヤコブは自分の名を偽り、父イサクに「エサウです」と言った。しかし、神との格闘を経てヤコブは正直に「ヤコブです」と答えた。このように自分を偽らなかったヤコブに神は「イスラエル」という新しい名前を与えた。ヨハネ1:47でイエスがナタナエルに「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない」と言ったのは、この創世記のヤコブの出来事と重ねられているのだ。
 このナタナエルの記事からは、記者のヨハネのユーモアが感じられる。本連載冒頭の1:1の注解では、イエスが宮の献金箱の中に去ると予告したユーモア(ヨハネ8:20-21)を紹介した。ヨハネの福音書にはユーモアがふんだんに含まれているが、「人間イエス」しか見えないなら、ユーモアも見えて来ない。「霊的イエス」が見えることで初めて味わえるユーモアだ。
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1:35-42(ヨハネの福音書注解)霊的な世界へと私たちを招き入れるイエス

2017-10-16 15:57:31 | ヨハネの福音書注解
●ヨハネ1:35-42 霊的な世界へと私たちを招き入れるイエス

35 その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、36 イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊」と言った。37 ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」39 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。時は第十時ごろであった。40 ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。41 彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った」と言った。42 彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンに目を留めて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」(ヨハネ1:35-42)


 35節の「ヨハネ」は「イエスの時代」においては「バプテスマのヨハネ」だが、「使徒の時代」においては、まずは「使徒ヨハネ」だ。「使徒ヨハネ」は弟子を「霊的イエス」のもとに連れて行く。その弟子がイエスを信じるなら「霊的にイエス」が見えるようになる。そして、その「霊的イエス」が見えるようになった弟子が新たな「ヨハネ」になって、次の弟子をイエスのもとに連れて行く。こうして「ヨハネ」のバトンリレーが現代に至るまで引き継がれて来た。21世紀の読者の私たちもまた新たな弟子であり、新たな「ヨハネ」の候補であるのだ。
 前項でヨハネの福音書は21世紀のテレビのような「参加型」であると書いたが、ここはそれが最も良く表れている区間であると言えるだろう。「霊的イエス」は読者の私たちに、

「あなたがたは何を求めているのですか。」(ヨハネ1:38)

と問い掛け、

「来なさい。そうすればわかります。」(ヨハネ1:39)


と招き、私たちにイエスとの旅への参加を促す。そうして読者はイエスを信じて付いて行くことで、初めて霊的な世界がわかるようになる。一方、この招きに応じないのであれば、霊的な世界のことは永遠にわからないであろう。
 以上は「イエスの時代」に重ねられた「使徒の時代」のことであるが、もう一つの「旧約の時代」は35節の「その翌日」を境にして「アブラハムの時代」から「イサクの時代」に移る(1:29の注解参照)。しかし、この35~42節の区間にイサクに関連した記述は見当たらない。アブラハムとヤコブに比べたらイサクはやや影が薄い印象があるので、記者のヨハネはここではイサクと重ねることを省略しているかもしれないが、単に私が見落としているだけかもしれないので、もしイサク関連の記述をこの区間に見出すことができた人がいたら、ぜひ教えていただきたいと思う。
 次の43節の「その翌日」から始まる「ヤコブの時代」においては、ヤコブが濃厚に描かれている。
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1:30-34(ヨハネの福音書注解)読者に「ヨハネ」になるよう招く参加型の福音書

2017-10-16 10:30:29 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ1:30-34 読者に「ヨハネ」になるよう招く参加型の福音書

30 私が『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ』と言ったのは、この方のことです。31 私もこの方を知りませんでした。しかし、この方がイスラエルに明らかにされるために、私は来て、水でバプテスマを授けているのです。」32 またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。33 私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『御霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』34 私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」(ヨハネ1:30-34)

 この箇所の「ヨハネ」もまた、一見するとマタイ・マルコ・ルカが描いた「バプテスマのヨハネ」と同じように見える。しかし、よく見ると二つの点で大きく異なる。それゆえ「人間イエス」の時代の「バプテスマのヨハネ」はここでも脇役であり、主役は「霊的イエス」の時代の「ヨハネ」である。この箇所の「ヨハネ」とは「使徒ヨハネ」であり、さらには「1~21世紀のクリスチャン」でもある。
 マタイ・マルコ・ルカが描く「バプテスマのヨハネ」と異なる第一の点は、31節と33節で「ヨハネ」が「私もこの方を知りませんでした」と言っていることだ。ルカの福音書によれば「バプテスマのヨハネ」の母エリサベツとイエスの母マリヤとは親類で、母親同士で交流があったから、彼がイエスを知らなかったことは有り得ない。従って「私もこの方を知りませんでした」と言った「ヨハネ」は「バプテスマのヨハネ」ではない。
 第二の点として、「ヨハネ」が32節で「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました」と「証言」していることもマタイ・マルコ・ルカとは異なる。マタイ・マルコ・ルカは「聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった」(ルカ3:22)というようにイエス自身が見たと書いていて、「ヨハネ」が見たとは書いていない。一方のヨハネの福音書は32節に加えてなお34節においても「私はそれを見たのです」と「ヨハネ」が見たという「証言」を繰り返している。
 なぜヨハネの福音書はマタイ・マルコ・ルカにはない「ヨハネの証言」を繰り返すのだろうか?それはヨハネの福音書が書かれた1世紀末においては「人間イエス」を直接見た生き証人の大半がいなくなり、もはや福音書の証言を通してしか「人間イエス」を知る手段がなくなりつつあったからではないか。そうして福音書の「人間イエス」に関する証言を信じた者は聖霊を受けて「霊的イエス」と出会うことが可能になる。マタイ・マルコ・ルカの福音書の主役が「人間イエス」であったのに対してヨハネの福音書の主役が「霊的イエス」であるのは、読者に「霊的イエス」と出会って欲しいとヨハネが願っているからだ。
 サマリヤの女の証言を信じたサマリヤ人たちがイエスと出会った出来事(ヨハネ4:28-42)を記者のヨハネが描いたのは、この福音書の読者にも同じように「人間イエス」に関する証言を信じて「霊的イエス」と出会って欲しいと願っているからだ。サマリヤ人たちが女に言った、

「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」(ヨハネ4:42)

という言葉は、彼らが「人間イエス」に会ったのではなく「霊的イエス」に会ったことを表したものだ。
 或いはまた、疑い深いトマスが他の弟子たちの証言を信じなかった出来事(ヨハネ20:24-29)を記者のヨハネが描いたのは、この福音書の読者には信じない者にならないで信じる者になって欲しいと願っているからだ。そうして読者の私たちがイエスを信じることで聖霊を受け、「霊的イエス」に出会った証言を次は他の者たちに伝えていって欲しいと記者のヨハネは願っている。その願いの表れが、この福音書の締めくくりの文だ。

24 これらのことについてあかしした者、またこれらのことを書いた者は、その弟子である。そして、私たちは、彼のあかしが真実であることを、知っている。25 イエスが行われたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。(ヨハネ21:24-25)

 私たちも、この証言者の弟子の一人に加わるように招かれている。つまり21世紀の私たちも「ヨハネ」になるように招かれているのだ。
 20世紀のテレビが見るだけの「一方通行型」であったのに対して、21世紀のテレビは視聴者も参加できる「参加型」だ。同様に「人間イエス」が主役のマタイ・マルコ・ルカの福音書が「一方通行型」であったのに対して、「霊的イエス」が主役のヨハネの福音書は「参加型」の福音書と言えるだろう。
 さて、29節の「ヨハネ」は創世記の「アブラハム」であると説明したから、この福音書は「旧約の時代」と「イエスの時代」と「使徒の時代」の三つの時代が同時並行して進んでいることがわかる。すなわち1:16-17の注解で説明したように、この福音書は

→ 使徒の時代 →
→ イエスの時代 →
→ 旧約の時代 →

という三層構造になっている。このような重層的な時間は、私たちが感じている「過去→現在→未来」の直線的な時間とは大きく異なる。読者の私たちは、このような「永遠」に招かれているのだ。この「永遠」の中に私たちも入ることで、私たちもまたイエスを証言する「ヨハネ」になることができるのだ。
 私たちが日常生活で感じている

→ 旧約の時代 → イエスの時代 → 使徒の時代 →

という一方通行の時間の中では21世紀の私たちがイエスの証言者になることは難しいが、三つの時代が同時並行で進む「永遠」の中においては私たちもまた「ヨハネ」となってイエスの証言者になることができる。
 もう一つ付け加えるなら、「ヨハネ」になるよう招かれているということは、「水でバプテスマを授ける」者となるようにも招かれている、とまで言えるかもしれない。さすがにそれは言い過ぎであったとしても、牧師不足の21世紀の日本にあってヨハネの福音書の「永遠」が、もっと注目されるようになって欲しいと、私は心の底から願っている。
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1:29(ヨハネの福音書注解)イスラエルの歴史の始まり

2017-10-15 02:39:30 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ1:29 イスラエルの歴史の始まり

その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。(ヨハネ1:29)


 もし脇役の「人間イエス」に注目するなら、この29節で重要なのはヨハネの「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」という言葉であろう。しかし主役の「霊的イエス」に注目するなら、重要な情報が含まれているのは前半部分の「その翌日」と「ヨハネのほうにイエスが来た」のほうである。「その翌日」は時代が変わったことを表し、「ヨハネのほうにイエスが来た」は神である「霊的イエス」が人のほうに近づいて来たことを表す。
 マタイの福音書1章の系図がアブラハムから始まることからもわかるように、イスラエルの歴史はアブラハムから始まる。神はヨルダン川の向こう側のハランの地にいたアブラハムに近づいて次のように言った。

「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」(創世記12:1-2)


 この神の声を聞いたアブラハムがハランを出立してカナンの地に入った時からイスラエルの歴史が始まった。それゆえヨハネ1:29の「その翌日」は「アブラハム以前の時代」から「アブラハムの時代」に移ったことを表し、「ヨハネ」は「アブラハム」を、「イエス」は「神」を表す。これが神である「霊的イエス」に注目したヨハネの福音書の読み方だ。
 さて、1章には29節の他にも35節と43節にも「その翌日」がある。この二つの「その翌日」はそれぞれ「イサクの時代」と「ヤコブの時代」に移ったことを示す。ヨハネ1章の29節以降の深層部には、創世記のアブラハム・イサク・ヤコブの三代の時代のことが描かれているのだ。
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1:22-28(ヨハネの福音書注解)旧約聖書の舞台移動と同期しているイエスの東西南北への移動

2017-10-13 14:44:49 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ1:22-28 旧約聖書の舞台移動と同期しているイエスの東西南北への移動

そこで、彼らは言った。「あなたはだれですか。私たちを遣わした人々に返事をしたいのですが、あなたは自分を何だと言われるのですか。」彼は言った。「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫んでいる者の声です。」彼らは、パリサイ人の中から遣わされたのであった。彼らはまた尋ねて言った。「キリストでもなく、エリヤでもなく、またあの預言者でもないなら、なぜ、あなたはバプテスマを授けているのですか。」ヨハネは答えて言った。「私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。」この事があったのは、ヨルダンの向こう岸のベタニヤであって、ヨハネはそこでバプテスマを授けていた。(ヨハネ1:22-28)

 ここで一気に28節まで駒を進めることにする。28節の「ヨルダンの向こう岸」が極めて重要な情報を含むのに比して、22~27節はそれほど重要な情報は含んでいないように見えるからだ。22~27節は脇役の「人間イエス」の時代のバプテスマのヨハネに関する情報が中心だ。脇役に注目し過ぎると、主役の「霊的イエス」が見えなくなる。それゆえ、22~27節はスキップして28節の説明に移ることにする。
 28節で「ヨハネ」はヨルダンの向こう岸、すなわち東岸にいた。そして次の29節でイエスは、このヨルダンの東岸にいた「ヨハネ」に近づいて行く。ヨハネの福音書のイエスは東西南北に頻繁に移動している。これはマタイ・マルコ・ルカの福音書のイエスが北方で宣教活動を行い、最後に南方のエルサレムに移動しただけであったのと著しく異なる。
 実は、ヨハネの福音書のイエスの東西南北への移動は下図のように、旧約聖書の舞台の移動に同期している。



 これはヨハネの福音書を理解する上で最も重要な情報であると言っても、過言ではないだろう。
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1:20-21(ヨハネの福音書注解)マタイ・マルコ・ルカとは異なる書だというヨハネのサイン

2017-10-13 11:19:39 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ1:20-21 マタイ・マルコ・ルカとは異なる書だというヨハネのサイン

彼は告白して否まず、「私はキリストではありません」と言明した。また、彼らは聞いた。「では、いったい何ですか。あなたはエリヤですか。」彼は言った。「そうではありません。」「あなたはあの預言者ですか。」彼は答えた。「違います。」(ヨハネ1:20-21)


 19節からの本編の開始早々のこの箇所で記者のヨハネは、この書がマタイ・マルコ・ルカの福音書とは異なる書であるという重要なサインを読者に示している。なぜならマタイ・マルコの福音書のイエスは「バプテスマのヨハネ」こそがマラキ4:5で預言された「エリヤ」であると語っているからだ(マタイ17:12、マルコ9:13)。ヨハネ1:20-21で「ヨハネ」が自分はエリヤではないと否定しているということは、この書の「ヨハネ」は「バプテスマのヨハネ」ではないということだ。つまりこれは、ヨハネの福音書が注目しているのは「人間イエスの時代」ではなく、「旧約の時代」と「使徒の時代」であるということの宣言だと取れる。
 既に書いたように、このヨハネ1章の「ヨハネ」は「使徒の時代」の「使徒ヨハネ」と「1~21世紀のクリスチャン」であり、「旧約時代」の「アブラム」でもある。記者のヨハネは「人間イエス」に「霊的イエス」を重ねることで神を可視化する手法を用いているので、「人間イエスの時代」の「バプテスマのヨハネ」に注目し過ぎると、この福音書の重要なメッセージを読み落とすことになる。
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1:19(ヨハネの福音書注解)21世紀まで引き継がれた来た「ヨハネ」の証言リレー

2017-10-12 07:01:11 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ1:19 21世紀まで引き継がれて来た「ヨハネ」の証言リレー

ヨハネの証言は、こうである。ユダヤ人たちが祭司とレビ人をエルサレムからヨハネのもとに遣わして、「あなたはどなたですか」と尋ねさせた。(ヨハネ1:19)

 前節まででプロローグが終わり、ここから本編が始まる。
 この注解の連載で既に何度か書いたように、「ヨハネ」は単に「バプテスマのヨハネ」であるだけでなく「使徒ヨハネ」でもあり、「1~21世紀のクリスチャン」のことでもある。また後続の節で明らかにするが、「ヨハネ」は創世記の「アブラム」の役も担っているし、サムエル記の「サムエル」の役をも担っている。
 ヨハネの福音書を読む時には、この書がマタイ・マルコ・ルカの福音書と同類の書であるという先入観から自由になる必要がある。マタイ・マルコ・ルカの福音書の主役は「人間イエス」だ。一方、ヨハネの福音書の主役は「霊的イエス」だ。ヨハネの福音書の主役が一見すると「人間イエス」であるかのように見えるのは、ヨハネが「人間イエス」に「霊的イエス」を重ねる手法を用いているからだ。私たちはこの「霊的イエス」を見落とさないようにしなければならない。
 21世紀のクリスチャンの私たちもまた「ヨハネ」であり、イエスについて証言を次世代に引き継いで行く。それは、イエスが次のように言ったからだ。

「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)

 このことばを伝えられた最初の弟子たちは「人間イエス」を証言し、新たな弟子たちが加えられた。そして彼らの証言によってイエスを信じた新たな弟子たちは聖霊を受けて「霊的イエス」と出会い、「霊的イエス」の弟子となった。この新たな弟子たちは彼らが出会った「霊的イエス」について証言し、この証言を信じた者たちが次の新たな弟子となった。こうして1世紀から21世紀まで脈々と「ヨハネ」の証言のリレーが引き継がれて来たのだ。
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1:18(ヨハネの福音書注解)私たちにも神を見せてくれているヨハネの福音書

2017-10-11 23:50:43 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ1:18 私たちにも神を見せてくれているヨハネの福音書

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。(ヨハネ1:18)


 この18節まででヨハネの福音書のプロローグが終わり、いよいよ次の19節から本編が始まる。このプロローグは予告編であり、18節はその締めくくりだ。記者のヨハネはここで、神は霊であるので目には見えないが、イエスを通してなら私たちも神を見ることができることを説いた。現代の私たちもイエスを信じて聖霊を受けるなら、霊的イエスが私たちの内に入り、神が霊的に見えるようになるのだ。
 ヨハネの福音書は実際に神が霊的に見えることが21世紀の私たちでも実感できるようになっている書だ。ヨハネは「人間イエス」に「霊的イエス」を重ねることで私たちにも神が見えるようにしてくれた。そうして21世紀の私たちもまた、イエスの証人となる。次の19節の「ヨハネの証言は、こうである」の「ヨハネ」とは私たちのことでもあるのだ。この福音書の締めくくりの21章24-25節でヨハネは次のように記している。

これらのことについてあかしした者、またこれらのことを書いた者は、その弟子である。そして、私たちは、彼のあかしが真実であることを、知っている。イエスが行われたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。(ヨハネ21:24-25)

 21世紀の私たちもまた、イエスの証言をした「弟子」だ。私たちもまたこの証言を書き足して行くのだ。1世紀から続く弟子たちの証言をいちいち書き記すなら、世界も書かれた書物を入れることができないだろう。
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1:16-17(ヨハネの福音書注解)「律法の恵み」の上に「聖霊の恵み」を重ねたヨハネ

2017-10-11 06:53:36 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ1:16-17 「律法の恵み」の上に「聖霊の恵み」を重ねたヨハネ

私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。(ヨハネ1:16-17)

 私たちは「恵みの上にさらに恵みを受けた」と記者のヨハネは書いた。これは「律法の恵み」の上にさらに「聖霊の恵み」を受けたということだ。1章19節以降、ヨハネは11章の終わりまで「イエスの時代」に「旧約の時代」と「使徒の時代」とを重ねている。つまりヨハネの福音書の1~11章は下記のような三層構造になっている。

 → 使徒の時代 →
 → イエスの時代 →
 → 旧約の時代 →

 ちなみに「イエスの時代」とは紀元1年頃~30年頃の「人間イエス」がいた時代であり、「旧約の時代」と「使徒の時代」には「霊的イエス」が存在している。このような重層構造でヨハネは「人間イエス」と「霊的イエス」とを重ねている。「霊的イエス」は目に見えないが、目に見える「人間イエス」によって見えるようにしているのだ。
 「旧約の時代」には「律法の恵み」があった。律法には神の愛がたっぷりと含まれている。そして「使徒の時代」の私たちは「聖霊の恵み」をたっぷりと受けている。聖霊は神の愛そのものだと言っても良いだろう。そしてまた「イエスの時代」の人間イエスは十字架に掛かることで神の愛を示した。この三層構造では神の愛が重なり合って満ち満ちている。
 それゆえヨハネの福音書の三層構造を理解するなら、私たちがいかに豊かな神の愛の中で日々を過ごしていることがわかるようになるであろう。しかし心の自由が縛られていて、時間とは川のような

 → 旧約の時代 → イエスの時代 → 使徒の時代 →

直線的な流れになっていると思い込んでいるなら、せっかくの豊かな神の愛を十分に感じることができないであろう。
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1:15(ヨハネの福音書注解)ヨハネは「再臨のイエス」をも重ねているだろうか?

2017-10-10 09:07:24 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ1:15 ヨハネは「再臨のイエス」をも重ねているだろうか?

ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことです。」(ヨハネ1:15)

 この「ヨハネ」は普通に読めば単に「バプテスマのヨハネ」のことだけで、「霊的イエス」の時代の他の人物が重ねてあるようには見えない。しかし、一つ手前の14節の説明で書いたように、この福音書の記者のヨハネが「人間イエス」と「霊的イエス」とを重ね合わせる手法を用いていることを考慮に入れるなら、この15節にもまた重ね合わせがあると考えても良いかもしれない。
 すると6節の「ヨハネ」と同じように「使徒ヨハネ」と「1~21世紀のクリスチャン」も重ねられている可能性も見えてくる。その場合、「私のあとから来る方」とは「バプテスマのヨハネ」のすぐ後に登場した「人間イエス」ではなくて、21世紀の現代でも未だ来ていない「再臨のイエス」ということになる。この15節で記者のヨハネが「再臨のイエス」までをも重ねているのか私も確信は持てないが、その可能性はあるのではないだろうか。
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1:14(ヨハネの福音書注解)「人間イエス」に「霊的イエス」を重ねるヨハネの手法

2017-10-10 06:25:12 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ1:14 「人間イエス」に「霊的イエス」を重ねるヨハネの手法

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネ1:14)

 人となったことばとは、マタイ・マルコ・ルカの福音書に記されている「人間イエス」のことである。人となる以前のことばは、「霊的イエス」であった。「霊的イエス」は天の父のみもとにいたひとり子であったが、ナザレの町のヨセフとマリヤの子としてこの世に遣わされたのだ。
 このように、ヨハネの福音書は「人間イエス」に「霊的イエス」を重ねる手法を用いている。このことでヨハネは、イエス・キリストがマタイ・マルコ・ルカの福音書が記しているような「人間イエス」だけではないことを読者に教えてくれている。「人間イエス」のことを知りたいならマタイ・マタイ・ルカの福音書を読めば、ことは足りる。ヨハネがマタイ・マルコ・ルカの後で第四の福音書を書いたのは、「霊的イエス」の存在を読者に知らせたかったからであろう。
 御子イエスは天の父と一つ(ヨハネ10:30)であったから、人々はイエスに神の栄光を見た。イエスが恵みとまことに満ちていたのも、イエスが聖霊に満たされていて天の父と一つであったからこそである。
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1:12-13(ヨハネの福音書注解)神の子どもとされる特権とは?

2017-10-09 23:44:19 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ1:12-13 神の子どもとされる特権とは?

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。(ヨハネ1:12-13)


 基本方針にも書いたが、本注解の連載は学術的なものではなく平和の働きの一環として行っている。「神の子どもとされる特権」(12節)についても、平和のために必要と思われる解釈をしたい。
 では、「神の子どもとされる特権」とは、どのような特権だろうか。私は「御父および御子イエス・キリストとの交わりに入れられる特権」と解釈したい。ヨハネの手紙第一でヨハネは次のように書いている。

私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。(Ⅰヨハネ1:3)

 御父と御子との交わりに入れてもらえることは、まさに特権だ。この交わりに入れられると、私たちも天の神を「父」と呼ぶことができる。つまり神の子どもとされるのだ。
 また「神によって生まれた」(13節)とは、聖霊によって新しくされたということだろう。聖霊を受けて霊的な目が開眼するなら、その者はまったく新しい者にされる。イエスを信じる者には誰でも聖霊が注がれるようになったのはペンテコステの日以降で、それは人間イエスが十字架で死んだ後のことだ。神によって生まれ、神の子とされるという極めて重要なことは「使徒の時代」のことであり、「人間イエスの時代」のことではなかった。このことからも、ヨハネの福音書が読者に伝えたいことは、マタイ・マルコ・ルカの福音書のような「人間イエスの時代」のことではなかったことがわかるであろう。
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1:9-11(ヨハネの福音書注解)世界を平和に導くヨハネの福音書

2017-10-09 07:48:08 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ1:9-11 世界を平和に導くヨハネの福音書

すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。(ヨハネ1:9-11)


 この1章9~11節もまた、前の6~8節と同様に1~21世紀の私たちを含めて考える必要がある。イエスを受け入れなかった「民」を人間イエスが生きていた時代の人々に限定してしまうなら、私たちの心は全く自由になっていない。
 ヨハネ1章1~18節のプロローグには、21章までの全編が凝縮されている。ヨハネの福音書のイエスは「旧約の時代」(紀元前)、「人間イエスの時代」(紀元1年頃~30年頃)、「使徒の時代」(紀元30年頃以降~現代)の三つの時代の全てに遍く存在しているから、プロローグのイエスも全ての時代に存在していると考えるべきだ。
 これまでの私たちはヨハネの福音書のイエスをマタイ・マルコ・ルカのイエスと同じ「人間イエスの時代」に閉じ込めて来た。このことで私たちの心の自由は著しく狭められてしまっていた。聖書は「世界のベストセラー」と呼ばれているほど、世界中で多くの人々に読まれているから、このことの影響は計り知れないほど大きい。
 世界に平和がなく、戦争が繰り返されて来たのは、この心の自由度と関係があると私は考えている。心に自由があるなら、もっと寛容になれるはずだ。それゆえ私は、多くの人々に心の自由を獲得して欲しいと願っている。あらゆる時代に遍く存在するヨハネの福音書のイエスを深く理解するなら、心は束縛から解放される。そうして心の平安を得た寛容な人が一人ずつでも増えていくなら、世界は一歩ずつ平和に近づくであろう。聖書は古臭い書物ではなく、現代においても依然として大きな可能性を秘めた書物だ。
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1:6-8(ヨハネの福音書注解)私たちの心の自由さ加減を試すヨハネ

2017-10-08 15:22:15 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ1:6-8 私たちの心の自由さ加減を試すヨハネ

神から遣わされたヨハネという人が現れた。この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。(ヨハネ1:6-8)


 このヨハネ1章6~8節は、私たちの心がどれだけ自由であるかを記者のヨハネに試されているかのような箇所だ。「ヨハネという人」の「ヨハネ」を単に「バプテスマのヨハネ」と考えるだけなら、私たちの心は全く自由になっていない。しかし、心が自由を獲得するなら、この「ヨハネ」は「使徒ヨハネ」でもあり、「1~21世紀のクリスチャン」のことでもあることが見えて来るであろう。
 既に述べた通り、記者のヨハネはこの福音書で「霊的イエス」を描いた。その手法は、「人間イエス」に「霊的イエス」を重ねるというものである。従って、霊的な目が開いていない者には「人間イエス」しか見えないが、霊的な目が開いた者には「霊的イエス」も見える。ただし、心の自由が十分に得られていないなら「霊的イエス」はあまり見えないかもしれない。
 「ヨハネ」も同様だ。霊的な目が開いていない者には「バプテスマのヨハネ」しか見えないが、霊的な目が開いて心の自由を獲得した者には「使徒ヨハネ」や「1~21世紀のクリスチャン」が重ねられていることが見えるだろう。ただし心の自由が十分に得られていないなら、「バプテスマのヨハネ」以外にはあまり見えないかもしれない。
 21世紀のクリスチャンの私たちもまた「ヨハネ」だ。私たちもイエスの証人になるために神から遣わされた者たちだ。それは、私たちの証言によってすべての人が信じるためだ。21世紀の人々に対しては、21世紀の私たちがイエスの証人にならなければならないのだ。
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1:5(ヨハネの福音書注解) 私たちの心を自由にしてくれるヨハネの福音書

2017-10-08 15:15:15 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ1:5 私たちの心を自由にしてくれるヨハネの福音書

光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。(ヨハネ1:5)


 この「光はやみの中に輝いている」は霊的な世界における光景だ。霊的な目が開かれた人にはイエス・キリストが放つ光が見える。しかし、神との関係が絶たれたままの人には、この光は見えない。
 霊的な目が開かれるためには、御子イエスについての証言を信じる必要がある。他者が語るイエスについての証言を聞いて、イエスが神の子キリストであると信じるなら、その人は聖霊を受けて霊的な目が開かれる。
 マタイ・マルコ・ルカの福音書には、このイエスについての証言が書かれているから、霊的な目が開かれるためにはマタイ・マルコ・ルカの福音書を読んでイエスが神の子キリストであると信じれば良い。ヨハネの福音書には、信じた後の、さらにその先のことが書かれている。
 イエスを信じたユダヤ人たちにイエスは次のように言ったとヨハネは書いている。

そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:31-32)


 ここにいるイエスを信じたユダヤ人たちとは、この福音書の読者の私たちのことでもある。私たちがイエスを信じてイエスのことばにとどまるなら、私たちはイエスの本当の弟子になる。そして、私たちは真理を知り、真理は私たちを自由にする。この自由を獲得するなら、私たちは心の深い平安を得ることができる。
 ヨハネの福音書の「霊的イエス」はあらゆる時代を自由に行き巡っている。この自由な「霊的イエス」を理解すればするほど私たちの心も自由になる。「霊的イエス」を描いたヨハネの福音書が「人間イエス」を描いたマタイ・マルコ・ルカの福音書とはまったく異なる書であることのサインは、最初の段階から随所で示されているので、私たちはそれらのサインを見落とさないようにしたい。
 次の6節の「ヨハネ」もまた、そのサインの一つだ。
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