●ヨハネ1:43-51 ナタナエルは神と格闘したヤコブ
43節の「その翌日」を境に「旧約の時代」は「イサクの時代」から「ヤコブの時代」へと移り変わる(1:29の注解参照)。そして47節でナタナエルがイエスのほうに近づいたのは、ヤコブが神に近づいたことを示す。
既述した1:29ではイエスがヨハネに近づいたが、それは神のほうからアブラハムに近づいたのだと説明した。一方、47節はヤコブのほうから神に近づいた。これは創世記の次の箇所でヤコブが神に祝福を求めて近づき格闘したことを表す。
かつてヤコブは自分の名を偽り、父イサクに「エサウです」と言った。しかし、神との格闘を経てヤコブは正直に「ヤコブです」と答えた。このように自分を偽らなかったヤコブに神は「イスラエル」という新しい名前を与えた。ヨハネ1:47でイエスがナタナエルに「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない」と言ったのは、この創世記のヤコブの出来事と重ねられているのだ。
このナタナエルの記事からは、記者のヨハネのユーモアが感じられる。本連載冒頭の1:1の注解では、イエスが宮の献金箱の中に去ると予告したユーモア(ヨハネ8:20-21)を紹介した。ヨハネの福音書にはユーモアがふんだんに含まれているが、「人間イエス」しか見えないなら、ユーモアも見えて来ない。「霊的イエス」が見えることで初めて味わえるユーモアだ。
43 その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて「わたしに従って来なさい」と言われた。44 ピリポは、ベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。45 彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」46 ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」47 イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」48 ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」49 ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」50 イエスは答えて言われた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」51 そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」(ヨハネ1:43-51)
43節の「その翌日」を境に「旧約の時代」は「イサクの時代」から「ヤコブの時代」へと移り変わる(1:29の注解参照)。そして47節でナタナエルがイエスのほうに近づいたのは、ヤコブが神に近づいたことを示す。
既述した1:29ではイエスがヨハネに近づいたが、それは神のほうからアブラハムに近づいたのだと説明した。一方、47節はヤコブのほうから神に近づいた。これは創世記の次の箇所でヤコブが神に祝福を求めて近づき格闘したことを表す。
24 ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。25 ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。26 するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。」(創世記32:24-28)
かつてヤコブは自分の名を偽り、父イサクに「エサウです」と言った。しかし、神との格闘を経てヤコブは正直に「ヤコブです」と答えた。このように自分を偽らなかったヤコブに神は「イスラエル」という新しい名前を与えた。ヨハネ1:47でイエスがナタナエルに「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない」と言ったのは、この創世記のヤコブの出来事と重ねられているのだ。
このナタナエルの記事からは、記者のヨハネのユーモアが感じられる。本連載冒頭の1:1の注解では、イエスが宮の献金箱の中に去ると予告したユーモア(ヨハネ8:20-21)を紹介した。ヨハネの福音書にはユーモアがふんだんに含まれているが、「人間イエス」しか見えないなら、ユーモアも見えて来ない。「霊的イエス」が見えることで初めて味わえるユーモアだ。