昨年11月、「熊本藩高瀬米蔵跡」が国史跡として指定された。この史跡は、高瀬御蔵跡・高瀬船着場跡・晒船着場跡の3つの文化財で構成されている。このニュースを聞いてとても残念なことがあった。それは史跡の中に大浜の名前がないことである。
菊池川流域で獲れた米は、藩政時代は年貢として平田舟で高瀬に集められた。いったん高瀬御蔵に収められた後、再び船着場から積み出され、菊池川河口で大きな五百石船に積み替えられ大坂へ運ばれた。「高瀬米」とよばれた上質な肥後米は、全国の基準米としてその年の米相場を左右したといわれる。高瀬港は、熊本藩で最大の蔵米積出し港で、取り扱われた米は25万俵にも達した年もあったという。しかし、江戸中期以降、河川の堆積などのため、高瀬は港としての機能を徐々に失い、3キロ下流の大浜がその役割を担うようになった。
下の大浜外嶋宮住吉神社に奉納された絵馬も大浜港が一番栄えていた頃の風景である。歴史上、大浜の果たした役割は極めて大きいものがある。にもかかわらず、大浜の名がないのは数年前の護岸工事で港の跡が埋められてしまったからである。大浜港の歴史が抹消されたような気がして残念でならない。
大浜外嶋宮住吉神社奉納絵馬
大浜の船着場跡が残っていた頃
大浜の船着場跡が残っていた頃
▼高瀬蔵から米俵を積み出す風景を唄った「肥後の俵積出し唄」
菊池川流域で獲れた米は、藩政時代は年貢として平田舟で高瀬に集められた。いったん高瀬御蔵に収められた後、再び船着場から積み出され、菊池川河口で大きな五百石船に積み替えられ大坂へ運ばれた。「高瀬米」とよばれた上質な肥後米は、全国の基準米としてその年の米相場を左右したといわれる。高瀬港は、熊本藩で最大の蔵米積出し港で、取り扱われた米は25万俵にも達した年もあったという。しかし、江戸中期以降、河川の堆積などのため、高瀬は港としての機能を徐々に失い、3キロ下流の大浜がその役割を担うようになった。
下の大浜外嶋宮住吉神社に奉納された絵馬も大浜港が一番栄えていた頃の風景である。歴史上、大浜の果たした役割は極めて大きいものがある。にもかかわらず、大浜の名がないのは数年前の護岸工事で港の跡が埋められてしまったからである。大浜港の歴史が抹消されたような気がして残念でならない。
大浜外嶋宮住吉神社奉納絵馬
大浜の船着場跡が残っていた頃
大浜の船着場跡が残っていた頃
▼高瀬蔵から米俵を積み出す風景を唄った「肥後の俵積出し唄」