徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

山名屋浦里 と 法界坊

2016-09-27 18:41:39 | 音楽芸能
 このブログのアクセス解析によれば、この数ヶ月、検索キーワードで一番多いのが「山名屋浦里」。たしか、3、4回「山名屋浦里」をネタに記事をアップしているが、今話題の落語や歌舞伎の演目なので検索も多いのだろう。
 それはさておき、ブラタモリの吉原ロケの時にタモリが仕入れてきた話を笑福亭鶴瓶が新作落語として発表し、さらにそれをもとに新作歌舞伎として公演されるという一連の展開は早かった。中村勘九郎、七之助の兄弟による歌舞伎座「八月納涼歌舞伎」における新作歌舞伎「廓噺山名屋浦里(さとのうわさやまなやうらざと)」は概ね好評だったようである。
 さてその「山名屋浦里」だが、実は勘九郎、七之助兄弟の父、十八代勘三郎や祖父の十七代勘三郎が得意とした古典歌舞伎「法界坊(隅田川続俤)」と意外な繋がりがある。法界坊は若い娘に横恋慕したりする破戒僧で、滑稽みのあふれる小悪党なのだが、この法界坊のモデルとなったのが江戸時代後期、 彦根上品寺の僧、法界坊了海。この了海は破戒僧でもなんでもなく、父の後を継いで上品寺の住職となり、上品寺を再興させた立派なお坊さん。諸国を托鉢しながら勧進を行い、江戸吉原では遊女たちからの寄進を受けて梵鐘を鋳造したと伝えられる。この吉原での最大の協力者が、当時吉原随一の花魁、扇屋の花扇だった。
 実は「廓話山名屋浦里」のもとになった原話、いなか侍の江戸妻になりすまし、窮地を救ったという花魁は、この花扇だったのである。
 明治22年に出版された「法界坊実説鐘建立」(柾木素堂著)には、その花扇の人となりについて次のような記述がある。

――当時新吉原の某楼に花扇という娼妓ありけるが、容貌最も麗しくその性信ありて情ふかく、愛敬ある質にて召し使う雛妓は更なり。若者内芸者幇間出入茶屋の小厠にまで懇ろに附合いて心くばりの行届かぬ所なければ知るも知らぬも花扇の事を賞めざるはなく・・・――

 その美しさはもちろんのこと、どんな人にもわけへだてなく接し、細やかな心づかいをする素晴らしい人間性の持ち主だったようである。



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