徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

たそがれ清兵衛と下級武士のくらし

2020-02-12 22:31:11 | 日本文化
 BSテレ東で映画「たそがれ清兵衛」を放送していた。初公開を電気館で見てからやがて18年経つ。その後もレンタルビデオで観たり、テレビ放映も何度か観ているのだが、初めて観た時の感動はいささかも失われていない。
 この映画を観ると必ず気になるのが幕末の頃の下級武士のくらしぶり。清兵衛は自ら五十石取りと言っているが、老母や二人の娘を抱えてぎりぎりの生活のようだ。
 明治十六年に生まれた僕の祖母は一番被分町の士族の家に生まれ育った。この地区は家督相続できない次男や三男らが住んだ地区だが、祖母の生家は資産家だったらしく裕福な少女時代を送ったという。しかし、嫁いだわが家はまさに貧乏な下級士族の家で、しかも夫(僕の祖父)が早世だったので、寡婦として二人の子と祖父の姉を苦労して養ったらしい。若い時に覚えた機織りで生計を支え、そのせいで年を取ってからは膝が曲がらなくなっていた。この映画を観ると、いつもそんな祖母の苦労がダブって見えるのである。


坪井川と清正公の腰掛石

2020-02-11 21:37:52 | 熊本
 春の温かい日差しに誘われて、母の入院先から自宅まで約4㌔の道を歩いて帰った。コースのほとんどが坪井川の土手道。僕らが子供の頃、広がっていた田畑は今では遊水地となり、足を踏み入れるのを憚る原野となってしまった。高校時代の通学に毎日渡っていた永康橋は当時は小さな木橋だったが今では立派な鉄筋コンクリート製。昔の風景を思い出しながらちょっと複雑な想いも。瀬戸坂の登り口にある眞光寺には昨年御堂ができた。ここは加藤清正公が訪れて境内の庭池に咲くハスを眺めた時に腰かけたと伝わる腰掛石が残る。御堂の中には腰掛石とともに加藤家、細川家から拝領した地蔵尊三体が納められている。約1時間半の行程の中でいろんな時代に思いを馳せた。


遊水地に咲く菜の花


坪井川と永康橋


眞光寺の御堂


御堂の内部(清正公の腰掛石と地蔵尊)

熊本市歌

2020-02-10 20:54:12 | 熊本
 僕らが子どもだった頃よく聞いていたが、最近ほとんど聞く機会がない歌が「熊本市歌」。
 制定された昭和5年(1930)の翌年には、天皇陛下をお迎えして陸軍特別大演習が行われたり、昭和10年(1935)には、国内外から約106万人(当時の熊本市人口の5倍)を集めたという「新興熊本大博覧会」が水前寺公園北郊で行われるなど、官衙、学都、軍都として栄えていた九州の中心都市・熊本市の勢いを感じさせる。

 作詞 / 東岡正治 作曲 / 鳥飼哲夫 編曲 / 坂本英二




花童ゆりあ 卒業公演!

2020-02-09 22:04:49 | 音楽芸能
 舞踊団花童の中心メンバーとして活躍してきた花童ゆりあさんが、高校2年生となるこの春、お師匠さんから名取を許され、花童を卒業することになりました。
 ついては、卒業公演が日に行われます。会場や時間などは未確定ですので確定次第あらためてお知らせいたします。なお、名取式は2月29日に身内だけで行われるそうです。

 思い出に残るゆりあさんの写真を掲載してみました。


2019.5.12 山鹿八千代座「山鹿をどり」


2011.10.16 熊本城竹之丸「秋のくまもとお城まつり」


2012.4.7 熊本城本丸御殿中庭「桜の宴」


2013.9.7 本丸御殿「秋夜の宴」


2013.10.27 南阿蘇村「神楽の里・神楽殿 花童舞踊公演」


2014.9.28 城彩苑わくわく座「くまもと四季めぐり」


2016.9.21 熊本県立劇場 漱石記念年特別舞台「アイラブくまもと 漱石の四年三ヶ月」

機織唄(はたおりうた)のはなし。

2020-02-08 19:28:16 | 音楽芸能
 YouTubeの東海風流チャンネル(水野詩都子さん&本條秀五郎さん)に新たにアップされた曲は「一宮機織唄(いちのみやはたおりうた)」。
 かつて一宮市は織物の街として 栄えたが、それは 多くの若い女工たちの手によって支えられていた。 田舎から 集団就職で一宮に来て 日々機織りに励んでいた女性たちが、少しでも楽しく仕事をしようと口ずさんだ作業唄が機織唄と云われている。こうした「女工音楽」は、教育機会に恵まれない女工たちの情操教育の面でも役立ったという。
 一宮出身の水野詩都子さんの唄はいつにもまして活き活きとしていて、本條秀五郎さんの三味線は、繰り返し作業である機織を表して同じフレーズをリフレインするという独自の手付を工夫されたそうだ。





 同じ「機織唄」でも、福岡県久留米市の民謡「久留米機織唄(久留米そろばん踊り)」は色彩を異にする。久留米特産品の久留米絣は江戸時代末期から織り専門工場の機屋ではなく、農家の副業として家内制手工業で織られた。最盛期の昭和初期には筑後地区で年間250万反を生産したという。従って「久留米機織唄」には女工哀史的な背景はない。作業唄としてよりも花街や料亭などの宴席で芸者たちが歌うお座敷唄として唄い継がれてきた。そしていつからか、機織の音を表現するためにそろばんが使われるようになった。現在歌われているのは、作詞:石本美由起、編曲:レイモンド服部によるもの。


カーク・ダグラスさんを偲ぶ

2020-02-06 20:08:36 | 映画
 ハリウッドの往年の大スター、カーク・ダグラスさんが亡くなった。少年時代から青春時代にかけて数々の作品で楽しませてもらった。出演作は大作、名作目白押しである。しかし、訃報を聴いてまず思い出したのは、小品とも言える「脱獄(Lonely Are the Brave)」(1962)という映画なのである。カーク・ダグラスさんが演じる時代遅れの孤高のカウボーイの背中には寂寥感が漂う。最初に観たのが高校生の頃だからもう50数年も前だが、この映画を観たという人に出会ったことがない。ところが10数年前、この作品がアメリカでは高い評価を受けているということを知って驚いた。60年代に一世を風靡したアメリカン・ニューシネマの先鞭をつけたとも言われているらしい。ご冥福と合わせ、この映画の再評価を祈りたい。


「脱獄」のカーク・ダグラス

ブラタモリの???

2020-02-05 21:36:11 | テレビ
 先週土曜日に放送されたブラタモリ「四万十川(前編)」のことをその日、このブログに書いたが、書きながらなんか変だなぁと思ったことがあった。それは放送の中で出た「四万十川という名前が付いたのは25年前…」という話のことだ。僕の記憶が確かならば、もう40年以上も前に放送されたNHKの「新日本紀行」でたしか「四万十川」編があった。その頃も、普通に「四万十川」という名前で呼んでいたはずだ。何か25年前に正式に河名がオーソライズされた出来事でもあったのだろうか。

 そろそろ、NHKアナの人事異動の時期がやって来る。現在のアシスタントを務める林田理沙アナが就任後やがて2年。前任の近江友里恵アナは2016年に桑子真帆アナの後を受けて2年務めたので、林田アナもそろそろ卒業かなという気もする。後任が誰になるのか気になるところだが、アッと驚く交代劇が見られるかもしれない。


四万十川

北岡神社の舞殿再建

2020-02-04 16:26:48 | 伝統芸能
 NHKの熊本ローカルニュースで、北岡神社(熊本市西区)の神楽殿再建の起工式を伝えていた。再建される神楽殿は、舞台のまわりに回廊を設けた構造で、神楽や能・狂言のほか、地域のイベントの芸能などにも使えるようにし、名称を「舞殿」(ぶでん)と呼ぶという。
 承平四年(934)に祇園社(八坂神社)が京都より勧請されるのに伴い、六人の楽人が供奉して肥後に定住し、やがてその子孫が祇園社(北岡神社)専従の能楽師となったという。その系譜に連なる家の一つが、現在、能楽界のリーダーの一人である能楽師・友枝昭世さん(人間国宝)の友枝家。
 現在は、正月の松囃子などの奉納は拝殿で行われているが、参拝者からは見にくかった。舞殿が完成すれば見やすい舞台での能や狂言を楽しむことが出来るだろう。喜ばしい限りだ。
 「新熊本市史」には、北岡神社の松囃子能について次のように記されている。
▼北岡神社の松囃子
 一月五日。元は境内に能舞台があり、そこで松囃子能が奉納された。今は拝殿で演じられる。喜多流が本座で、金春流が新座とされ、その舞う順番が決まっている。喜多流から金春流、そして喜多流となる。これは昔も今も同じである。


現在は拝殿で行われている能舞の奉納


8月の祇園まつりでは特設舞台が設えられていた

第55回熊本県邦楽協会演奏会

2020-02-02 19:38:51 | 音楽芸能
 熊本県邦楽協会演奏会も今年で55回目を数える。節目の会であるとともに、今年は郷土の偉人・長谷幸輝検校の没後百年に当たり、特別プログラムが組まれた。長谷検校が遺した秘曲「尾上の松」や地歌「越後獅子」などが披露され、フィナーレは杵屋五司郎さんの編曲による長唄「越後獅子」が舞踊団花童の舞踊付きで出演者全員による演奏が披露された。



   ▼長唄 連獅子(花と誠の会)


   ▼俚奏楽 伊勢土産(秀美会)

ブラタモリ 四万十川(前編)

2020-02-01 23:29:43 | テレビ
 今夜のブラタモリは高知県の四万十川。12年前、妻と二人、車で四国旅行をした時の記憶がよみがえった。朝6時半に熊本の自宅を出発し、阿蘇の山越えをして佐伯港に着いたのが10時。11時過ぎにフェリーが出航、宿毛港に着いたのは午後2時半だった。フェリーの船上から降りだした雨はだんだん強くなり、最初の目的地、足摺岬に着いた4時前には傘なしでは歩けない状態となった。足摺岬を早々に切り上げ、四万十川を目指して出発した。四万十川に着いたのが5時半。雨は降り続き、車のライトを点灯しなければならないくらい暗くなっていた。そんな中を四万十川の上流に向かって右岸沿いの道を遡上して行ったが、目的地の佐田の沈下橋に着いた時、川が増水していて、左岸へ渡るのがちょっと恐かったことを思い出す。タモリさんが沈下橋を車で渡ったのは昼間だがそれでも怖がっているのを見て、12年前の恐怖がよみがえった。
 興味深かったのは「最後の清流」といわれる四万十川が意外と透明度は低く、清流といわれる所以は他に類を見ない生物多様性にあるらしいということや、四万十川という名前が付いたのは何と25年前であるということだ。来週の後編が楽しみだ。



2008年10月 四万十川・佐田の沈下橋を渡る