先日、県立図書館に行った時、いつものように江津湖畔を散策した。加勢川沿いに歩いていくと図書館の南側に「旧砂取細川邸庭園」がある。肥後熊本藩10代藩主・細川斉護公の正室・顕光院の隠居屋敷跡である。ここはその後変遷を重ね、「五足の靴」に登場する「勢舞水楼(せんすいろう)」、料亭「江津花壇」、井関農機保養所「江津荘」(わが父が利用したことがあるらしい)などと変遷した。
「五足の靴」というのは、明治40年7月から8月にかけて、歌人与謝野寛が、まだ学生だった木下杢太郎、北原白秋、平野万里、吉井勇の4人を引き連れ、九州を中心に各地を旅した時の紀行文「五足の靴」のことである。その中で江津湖の屋形船で涼を楽しむくだりがある。そこに二人の芸妓がやって来て民謡「おてもやん」を披露するのだが、この二人が当時「土手券」と呼ばれていた町芸者だ。「おてもやん」について肥後の古い土謡と書かれているが、この唄が永田イネによって作られたのは、明治30年代前半と言われているので、「五足の靴」の時点ではそんなに古い唄ではない。「おてもやん」の歌詞はほとんど耳コピーと思われるので不正確な部分もあるが、この時代には既に「おてもやん」が熊本でかなり普及していたことがうかがえる。
昔の上江津湖(現在の県立図書館裏辺り)
「五足の靴」というのは、明治40年7月から8月にかけて、歌人与謝野寛が、まだ学生だった木下杢太郎、北原白秋、平野万里、吉井勇の4人を引き連れ、九州を中心に各地を旅した時の紀行文「五足の靴」のことである。その中で江津湖の屋形船で涼を楽しむくだりがある。そこに二人の芸妓がやって来て民謡「おてもやん」を披露するのだが、この二人が当時「土手券」と呼ばれていた町芸者だ。「おてもやん」について肥後の古い土謡と書かれているが、この唄が永田イネによって作られたのは、明治30年代前半と言われているので、「五足の靴」の時点ではそんなに古い唄ではない。「おてもやん」の歌詞はほとんど耳コピーと思われるので不正確な部分もあるが、この時代には既に「おてもやん」が熊本でかなり普及していたことがうかがえる。
昔の上江津湖(現在の県立図書館裏辺り)
今日あたり行ってみようかなと思っていたところでした!(^^)!
今日、味取観音に行って来ました。紅葉は丁度見頃でした。自転車くま
「土手券」につきましては弊ブログで何度か取り上げていますが、下記の記事をご覧いただければと思います。
2018年10月5日
「土手券」発祥の寺原を歩く
何だか、優雅な人生を送ったのかと想像してしまいます。
「土手券」とはまた初めて聞いた言葉ですね。
検索しても出てきませんでした。
いやはや、学生に屋形船で涼を楽しませて芸妓を二人呼ぶなんて想像もつかない時代ですね。
有難うございました。