二日遅れの朔日詣りに藤崎八旛宮へ行った。帰りは参道から横道に入り、北千反畑町の「夏目漱石第六旧居」前を通った。ここは熊本市が買い取ったらしいが、その後何の動きもない。さらに内坪井の「夏目漱石第五旧居」の前を通る。ここは熊本地震で被災したが、建物の修復は終わり、現在内装工事が行われており、今年度中(~2023年3月)にはすべての復旧工事が終わる予定だそうだ。
漱石は五高教師として明治29年4月に熊本にやって来て、明治33年7月、文部省の命を受けて英国留学のために熊本を離れるまで4年3ヶ月熊本に滞在した。その間、転居を繰り返し、旧居は6ヶ所にわたる。そのうち第一旧居の「光琳寺の家」、第二旧居の「合羽町の家」、第四旧居の「井川渕の家」は現在残っていないが、第三旧居、第五旧居、第六旧居の3ヶ所が残っているのはとても貴重だと思う。五高在学時に漱石に英語を学び、また漱石を俳句の師と仰いだ寺田寅彦の随筆「夏目漱石先生の追憶」の中に第四旧居と第五旧居での思い出が書かれており、とても興味深い。
水前寺成趣園の東隣に移築されている第三旧居「大江村の家」。ここから「草枕」の旅へ出発した。
第五旧居「内坪井の家」では漱石の長女筆子が生まれた。ここから「二百十日」の旅へ出発した。
英国に旅立つ前に住んだ第六旧居「北千反畑町の家」
漱石は五高教師として明治29年4月に熊本にやって来て、明治33年7月、文部省の命を受けて英国留学のために熊本を離れるまで4年3ヶ月熊本に滞在した。その間、転居を繰り返し、旧居は6ヶ所にわたる。そのうち第一旧居の「光琳寺の家」、第二旧居の「合羽町の家」、第四旧居の「井川渕の家」は現在残っていないが、第三旧居、第五旧居、第六旧居の3ヶ所が残っているのはとても貴重だと思う。五高在学時に漱石に英語を学び、また漱石を俳句の師と仰いだ寺田寅彦の随筆「夏目漱石先生の追憶」の中に第四旧居と第五旧居での思い出が書かれており、とても興味深い。
水前寺成趣園の東隣に移築されている第三旧居「大江村の家」。ここから「草枕」の旅へ出発した。
第五旧居「内坪井の家」では漱石の長女筆子が生まれた。ここから「二百十日」の旅へ出発した。
英国に旅立つ前に住んだ第六旧居「北千反畑町の家」
観光資源になったら維持費も出るかもしれませんが、なんだかその経費もばかにならないような気もします。
寺田寅彦の随筆を興味深く読ませていただきました。
「朝顔や手拭掛けにはい上がる」ってユーモラスに聞こえます。
ぱっと私がイメージすると、漱石は、とても気難しい人な気がします。
私が対面したとするとベラベラしゃべり過ぎて、一言二言胸にぐさっと刺さるような言葉で私を黙らせてしまいそうな漱石さんな気がしてきました(笑)
苦手だけど、そのような人が青年である私に大きな指針を与えてくれそうなことを想いました。
すみません、こんなことしか書けません。
有難うございました。
寺田寅彦の随筆はどれも面白く、特に漱石を客観的に見た随筆は出色だと思います。
漱石のイメージはご想像のとおりだと思います。以前、漱石とハーンの英語の教え方の違いを紹介した話を記事にしたことがありますが、実際に教わった方たちの話だけになるほどと納得したものです。
修繕などの経費も要るでしょうが ぜひとも
このまま残してもらいたいです。
若き日の寺田寅彦は夏目漱石から 大きな影響を受けました。
寅彦の↑の随筆からも 漱石を尊敬し慕っていたことがよく分かります。
漱石はこの熊本時代のできごとを 舞台を松山に置き換え
『坊ちゃん』を書いたのですね。
漱石の住んだ家に行きたい と思いました。
漱石を取り巻く人々、寺田寅彦や高浜虚子を始め多くの文化人が漱石を見る目が温かいですよね。どちらかというと扱いづらい人だと思うんですけどね。
来春には内坪井の漱石記念館(第五旧居)が再開しますので是非一度お越しください。