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暑中お見舞い申し上げます ~ 喜多條忠にまつわる話 ~

2012-07-09 18:13:34 | 音楽芸能
 珍しくNHK-FMを聴いていたら、「ミュージック・プラザ」という番組の中で作詞家・喜多條忠(きたじょうまこと)をフィーチャーしていた。僕ら昭和世代には懐かしい名前で、主な作品には、かぐや姫の「神田川」、「妹よ」、「赤ちょうちん」。キャンディーズの「やさしい悪魔」、「暑中お見舞い申し上げます」。柏原よしえの「ハローグッバイ」。梓みちよの「メランコリー」などがある。
 この喜多條忠氏、実はこのブログでも度々取り上げている少女詩人・海達公子の遠縁にあたる。喜多條家は徳島県旧阿部村(現美波町)の出身で大阪に出て海産物の問屋として成功した。この喜多條家と海達家との関係について「評伝 海達公子」の中で著者・規工川祐輔は次の様に述べている。
 
 もともと、松一(公子の父)の父親為吉は、阿部の名門喜多條家十三代島之助の三男俊蔵の子で明治24年6月、婿養子として海達キクと結婚している。喜多條一家は阿部でも有力な人材を輩出している。瑞穂(十八代)の父、中(あたる)は「海達公子嬢遺稿集」(昭和8年5月刊)の序文を書いている。文学に理解のある方で「同じ血潮の流れから傑出した児を見出して将来に多大の待望をしていたそれも儚なき泡と消えていまは記念の追憶のみに泣くより外なき仕末転々同情に堪えず(以下略)」と格調高い文章で草している。中は明治42年から阿部郵便局長に就任、大正元年から阿部尋常小学校長を兼務している。・・・(中略)・・・松一が、文学に関心を抱き、後に童謡や短歌を創作する資質を持っていたことは、中などの影響や刺激が多分にあったことにかかわるものと思わざるを得ない。喜多條家一門の中には、大阪で海産物の大きな問屋を営んでいた者もいる。阿部出身の行商者たちは行動範囲も広く、経済的にも豊かな家庭が多く、都会の空気に触れ、情報を早く摂取する気風を持っていた。

 また、徳島の民俗学者・岡田一郎はその著書「阿波のいただきさん」の中で喜多條家の出自について次のように述べている。

 藩政時代にはいり、代々この村(阿部村)の庄屋をつとめた喜多條氏は、北条早雲の後裔で、喜多條の姓は北条の変形したものであると伝えられている。

 そんな縁がある海達公子にはもう一つ、不思議な縁があって、彼女に強い影響を与えた児童文学者・詩人の輿田準一(よだじゅんいち)の息子・準介は橋本淳というペンネームで「ブルー・ライト・ヨコハマ」など数々のヒット曲を世に出した作詞家である。やっぱり「才能に故あり」ということなのか。



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