わが家から5~60メートル西に、昔、「柳川小路」と呼ばれていた南北に走る道路がある。熊本市の資料には「柳川小路(やながわしゅうじ)」とルビをふってあるが、これは明らかに熊本の訛りを採用したもので、本当は「しょうじ」だったのだろう。僕の祖母は普段「柳川丁」と言っていたので、「柳川丁」と呼ばれた時代があったようだ。「柳川」というのは筑後の柳川のことで、関ヶ原の戦で西軍に与し、関ヶ原後改易となった柳川(柳河)藩の家臣団を、柳川藩主だった立花宗茂と親しかった加藤清正が預かり、この地区に住まわせたことからこの名がついた。しかし今ではかろうじてバス停「京町柳川」の名にその名残りが残るのみとなっている。
この加藤清正に召し抱えられた柳川藩家臣団のリーダーが、戦国時代に勇名を馳せた小野和泉(おのいずみ)こと小野和泉守鎮幸(おのいずみのかみしげゆき)という武将だ。加藤清正にもその豪胆かつ周到で率直なところを高く評価され、知遇を得ていたと言われる。立花宗茂はほどなく肥後を離れ、浪人となって京に上り再起を期す。そして、その実力を高く評価していた徳川家康のバックアップや大坂の陣での働きなどもあって、柳川藩主へ奇跡のカムバックを果たす。一方の小野和泉はその朗報を聞くこともなく熊本で没した。時に62歳。柳川藩復活後、家臣団は柳川へ戻ったが「柳川小路」の名は残った。
小野和泉が没して360年後、その子孫がトンデモナイところで世界の耳目を集めることとなる。それがビートルズのジョン・レノンと結婚したオノ・ヨーコ(小野洋子)だった。わが家の近くの小さな通りにもゆかりをたどって行くと面白い物語があるものだ。
この加藤清正に召し抱えられた柳川藩家臣団のリーダーが、戦国時代に勇名を馳せた小野和泉(おのいずみ)こと小野和泉守鎮幸(おのいずみのかみしげゆき)という武将だ。加藤清正にもその豪胆かつ周到で率直なところを高く評価され、知遇を得ていたと言われる。立花宗茂はほどなく肥後を離れ、浪人となって京に上り再起を期す。そして、その実力を高く評価していた徳川家康のバックアップや大坂の陣での働きなどもあって、柳川藩主へ奇跡のカムバックを果たす。一方の小野和泉はその朗報を聞くこともなく熊本で没した。時に62歳。柳川藩復活後、家臣団は柳川へ戻ったが「柳川小路」の名は残った。
小野和泉が没して360年後、その子孫がトンデモナイところで世界の耳目を集めることとなる。それがビートルズのジョン・レノンと結婚したオノ・ヨーコ(小野洋子)だった。わが家の近くの小さな通りにもゆかりをたどって行くと面白い物語があるものだ。
誾千代様を調べていらっしゃるのですね!
玉名の腹赤は時々通ります。
柳川は友人もおりますし、息子が最近柳川に転勤しましたので、これからも度々行くことになりそうです。
立花誾千代を調べていて、ここに参りました。加藤清正と立花宗茂との事も知りたいと
思っております。ありがとうございました。
誰も聞いてないようで、聞いてますよ。
私の子供の頃は南北の坂は石をまばらに敷いた坂で、瀬戸坂も石畳でした。そこをカランコロンと下駄の音を響かせながら歩いたものです。昔の地図を見ると、現在、道がクロスするところから瀬戸坂が始まっており、西側の台地から急な階段を降りていたようです。瀬戸などという呼び名からも坪井川や湖沼地帯が迫っていたことをうかがわせます。
マンション横の階段から撮られたものですね。
熊本地方気象台跡地からの緩やかな下り、
そして階段を降り、瀬戸坂を横切ったら
今度は上り坂。
ほぼ真っ直ぐな道なのに、
もの凄い高低差があって面白い地形なので、
いつか全体像を写真に撮りたいと思っていますがなかなか上手くいきません。
京町柳川の由来が今になって分かりました。
有り難うございます。