徒然なか話

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土手券 ~町芸者の歴史~

2024-04-11 22:51:56 | 音楽芸能
 「土手券」と呼ばれた町芸者のことをこれまで何度か記事にしてきたが、きちんと残しておかないと歴史の彼方に消えてしまうように思えたので加筆修正をしてまとめてみた。


坪井川・庚申橋付近

 父が小学六年生の頃、祖母と二人で街を歩いていると向う側からやってきた七十歳前後と思しき老女が急に立ち止まり、「お人違いかもしれませんが阿部さんのお嬢さんではありませんか?」。祖母も一瞬驚いたが、それからなんと1時間にもおよぶ立ち話が続いたという。酒盛りのこと、火事のことなど話題は尽きない様子だったが、その老女は阿部家の酒宴の時によく呼んだ町芸者で「土手券」と呼ばれていたそうである。祖母がまだ娘だった頃、曽祖父が大江村の村長をやっていて、酒宴を開くことも多かったらしく、その時によく呼んだ町芸者が「土手券」と呼ばれて人気があったという。その名の由来は彼女たちは「流長院」の脇を流れる坪井川にかかる「庚申橋」のたもとの土手沿いに住んでいたことから「土手券」と呼ばれるようになったらしい。「券」とは「券番(検番)」のこと。明治から昭和初期にかけて熊本のお座敷文化を支えたのである。
 「熊本県大百科事典」によれば
――明治初期、寺原町(現壺川1丁目)に始まった町芸者は同町土手付近に住んでいたことから「土手券」と総称し、全盛時は市内各所に散在し、数々の人気芸者も生み、手軽で便利なことから一時隆盛を極めたが、これは「やとな」(雇い女の略。臨時に雇う仲居の女)の前身というべきものであろう。――
と説明されている。
 また、昭和4年に発行された松川二郎著「全國花街めぐり」によれば、当時熊本には、熊本券番(塩屋町):101名 旭券番(練兵町):90名 二本木遊廓:60名(娼妓650名)の芸妓がおり、その他町芸者(土手券)という芸者とやとなの中間の存在があると書かれている。
 当時は坪井川の舟運が盛んだったので町芸者も普通に舟を操っていたらしい。地区の祭では坪井川に舟を浮かべ、舟上では土手券たちが音曲を奏でて賑わったという。「土手券」は昭和前期には消滅したと考えられ、その存在を知る人はもうほとんどいないので彼女たちがどんな芸を披露していたか知る由もないが、曽祖父の家で盛んに宴会が行われていたのは明治40年前後と考えられ、明治30年代前半に永田イネによって作られた「おてもやん」はかなり普及していたと考えられる。それはこの唄が明治40年に出版された紀行文「五足の靴」の中で二人の町芸者によって唄われることでもわかる。そして、その数年後に流行ったのが「自転車節」。熊本では「おてもやん」人気にあやかったのか、熊本弁の歌詞を付け加え、花柳界では「おても時雨」と呼んだ。おてもやんが山の向こうに住む恋人「彦しゃん」になかなか逢えない悲哀を唄うので「時雨(しぐれ)」と名付けたのだろう。この「おてもやん」と「おても時雨」は一対の唄として「土手券」たちによって唄われ、お座敷では人気を博したと思われる。