毎日少しづつコースを変えながらの散歩。その道すがらを物語ってみた。
わが家を出て京町柳川から瀬戸口へ階段坂を降りる。垣根に絡みついたテイカカズラの甘い香りが鼻腔をくすぐる。坂を降り切り、瀬戸坂を横切ると今度は真っすぐ三年坂を登る。30㍍ほど登ったところの「むくり屋根の家」をしばし眺める。ここはもう住まいとしては使われていないが、江戸時代、知行取りの熊本藩士だった藤掛氏の邸だ。益城町の知行地から移築した建物で床柱には西南戦争時の弾痕が残っているらしい。坂を登り切った後、真っすぐ京町本丁の裏道を通って稗田町に入る。稗田町の公園でひと休みしようと入って行くと高齢の女性が箒で清掃奉仕をしていた。「お疲れ様」と声を掛けベンチに座る。そこへ犬を連れた高齢の女性がやって来て、中腰で清掃作業中の女性に声を掛けた。
「奥さんな腰の痛うなかですか」
「腰ゃ痛うなかですばってん、膝がいかんですたい。サポーターば着けとります」
どっかで聞いたような会話だなと思いながらベンチから腰を上げた。
公園から県道303号を渡って往生院に入る。境内の通路を本院に向かう。通路脇の江戸時代の蘭方医奥山静叔の墓にいつものように目礼して通り過ぎる。静叔の墓を示す白い標柱を熊本市が立てているが、たしかこの寺には他にも名のある人の墓があると聞くが標柱は他には見当たらない。やはり静叔は特別な存在なのだろうか。本院と放牛地蔵に手を合わせて裏口から出る。裏道をぐるっと回るとわが母校熊大附中のグラウンドの前に出る。2クラスほど体操の授業が行われていた。もう60年以上前になるが僕らの頃は、まだ師範学校だった時代の名残りか、トラックと芝を張ったフィールドが残っていた。今は完全なベアグラウンド。今の生徒たちがちょっと可哀想な気がした。県道へ戻り肥後銀行京町支店の交差点で左折する。正善寺の掲示板の前で足を止めた。ここを通る時は掲示されている格言などを読むことにしている。今日目についたのは
「また明日」言葉の重みを今知った 明日は当たり前じゃないから(気仙沼高校文芸部員)
とあった。おそらく東日本大震災で被災された方の作品なのだろう。ぐっと胸に迫るものがあった。

むくり屋根の家
わが家を出て京町柳川から瀬戸口へ階段坂を降りる。垣根に絡みついたテイカカズラの甘い香りが鼻腔をくすぐる。坂を降り切り、瀬戸坂を横切ると今度は真っすぐ三年坂を登る。30㍍ほど登ったところの「むくり屋根の家」をしばし眺める。ここはもう住まいとしては使われていないが、江戸時代、知行取りの熊本藩士だった藤掛氏の邸だ。益城町の知行地から移築した建物で床柱には西南戦争時の弾痕が残っているらしい。坂を登り切った後、真っすぐ京町本丁の裏道を通って稗田町に入る。稗田町の公園でひと休みしようと入って行くと高齢の女性が箒で清掃奉仕をしていた。「お疲れ様」と声を掛けベンチに座る。そこへ犬を連れた高齢の女性がやって来て、中腰で清掃作業中の女性に声を掛けた。
「奥さんな腰の痛うなかですか」
「腰ゃ痛うなかですばってん、膝がいかんですたい。サポーターば着けとります」
どっかで聞いたような会話だなと思いながらベンチから腰を上げた。
公園から県道303号を渡って往生院に入る。境内の通路を本院に向かう。通路脇の江戸時代の蘭方医奥山静叔の墓にいつものように目礼して通り過ぎる。静叔の墓を示す白い標柱を熊本市が立てているが、たしかこの寺には他にも名のある人の墓があると聞くが標柱は他には見当たらない。やはり静叔は特別な存在なのだろうか。本院と放牛地蔵に手を合わせて裏口から出る。裏道をぐるっと回るとわが母校熊大附中のグラウンドの前に出る。2クラスほど体操の授業が行われていた。もう60年以上前になるが僕らの頃は、まだ師範学校だった時代の名残りか、トラックと芝を張ったフィールドが残っていた。今は完全なベアグラウンド。今の生徒たちがちょっと可哀想な気がした。県道へ戻り肥後銀行京町支店の交差点で左折する。正善寺の掲示板の前で足を止めた。ここを通る時は掲示されている格言などを読むことにしている。今日目についたのは
「また明日」言葉の重みを今知った 明日は当たり前じゃないから(気仙沼高校文芸部員)
とあった。おそらく東日本大震災で被災された方の作品なのだろう。ぐっと胸に迫るものがあった。

むくり屋根の家