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徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

漱石と邦楽

2016-01-09 19:41:02 | 音楽芸能
 今年は夏目漱石没後100年および来熊120年「漱石記念年」。これにちなんで、漱石とゆかりのある邦楽を、舞踊団花童の演目の中から選んでみた。まだ他にもあると思うが、とりあえず今回は次の4曲。
※下の写真はいずれもクリック→動画再生

■新民謡「祇園小唄」
 漱石が初めて祇園を訪れたのは明治40年の春。「虞美人草」を執筆するため下鴨の狩野家に逗留していたが、その折、友人の高浜虚子に誘われて「都をどり」を見たり、料亭一力で一夜を明かしたりしたことが、虚子の「漱石氏と私」に書かれている。また、大正4年の春に再び祇園を訪れた際には、祇園白川沿いのお茶屋「大友」で体調を崩し、数日間寝込んでしまうという出来事があった。この時、かいがいしく看病した女将の磯田多佳との交流は、漱石の死後も鏡子夫人と多佳との間で続いたという。「祇園小唄」は漱石の時代にはまだできていないが、今日では祇園を象徴する唄として広く知られている。


■俗謡「さのさ」

 「坊っちゃん」の中で、「うらなり」が宮崎の延岡へ飛ばされる時の送別会の場面に出てくるのが「さのさ」
――向うの方で漢学のお爺さんが歯のない口を歪めて、そりゃ聞えません伝兵衛さん、お前とわたしのその中は……とまでは無事に済ましたが、それから? と芸者に聞いている。爺さんなんて物覚えのわるいものだ。一人が博物を捕まえて近頃こないなのが、でけましたぜ、弾いてみまほうか。よう聞いて、いなはれや――花月巻、白いリボンのハイカラ頭、乗るは自転車、弾くはヴァイオリン、半可の英語でぺらぺらと、I am glad to see you と唄うと、博物はなるほど面白い、英語入りだねと感心している。――



■謡曲「熊野」
 漱石は熊本時代の明治31、32年頃に謡を始めたという。明治38年に発表した処女作「吾輩は猫である」の中で、吾輩のご主人である苦紗弥先生(漱石自身がモデル)が、いつもトイレの中で呻るのが「平の宗盛にて候」の一節。
――後架の中で謡をうたって、近所で後架先生と渾名をつけられているにも関せず一向平気なもので、やはりこれは平の宗盛にて候を繰返している。みんながそら宗盛だと吹き出すくらいである。――
 「平の宗盛にて候」というのは謡曲「熊野」の一節で、この「熊野」をもとに作られたのが長唄「桜月夜」



■謡曲「羽衣」
 「永日小品」の中では、漱石と高浜虚子との一調のやりとりが面白おかしく書かれている。
――虚子はやがて羽織を脱いだ。そうして鼓を抱込んだ。自分は少し待ってくれと頼んだ。第一彼がどこいらで鼓を打つか見当がつかないからちょっと打ち合せをしたい。虚子は、ここで掛声をいくつかけて、ここで鼓をどう打つから、おやりなさいと懇に説明してくれた。自分にはとても呑み込めない。けれども合点の行くまで研究していれば、二三時間はかかる。やむをえず、好い加減に領承した。そこで羽衣の曲(くせ)を謡い出した。春霞たなびきにけりと半行ほど来るうちに、どうも出が好くなかったと後悔し始めた。はなはだ無勢力である。けれども途中から急に振るい出しては、総体の調子が崩れるから、萎靡因循のまま、少し押して行くと、虚子がやにわに大きな掛声をかけて、鼓をかんと一つ打った。――
 この謡曲「羽衣」をもとに作られたのが長唄「羽衣三番叟」