日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

「魔闘気」によって自分の立ち位置さえもつかめなくなった「私」から構成される「公的空間」ー「国家」それ自体が「私」から構成された「私的=民営化」機関であるー

2018-12-11 | 社会 政治
「魔闘気」によって自分の立ち位置さえもつかめなくなった「私」から構成される「公的空間」ー「国家」それ自体が「私」から構成された「私的=民営化」機関である。その国家が水道事業の「民営化」を推進するのは当然のことだ。問題は、こうした「公」と「私」の関係がこれまで見えにくくされていたことではないのか。最初から、「私」と「私」の関係であったのだ。

「マネー・ロンダリング(資金洗浄)」という言葉がある。いかがわしい出自のお金がその出元というか最初の構成物(お金)の「素性」が見分けられないほどに変貌してしまい、あたかも高家の品のいいお金として通用するほどに、私たちの目を眩ませるほどに、それこそ何十回、何百回、何千回も転がされるお金の状態を指している。

同じことは、「公」と「私」の関係にも該当する。水道の民営化問題が喧(かまび)すく論議されているが、その根本にあるのは、民営化が悪で公営化は善だとする先入観があるのだろう。もっとも、悪というか庶民の金をふんだくるという点では相当に悪である。

それでは庶民は悪ではないのか。あくどい庶民もたくさんいる。私も相当にあくどい。議論を「悪」対「善」で片付けてはならないだろう。もっと大切なことを見なければならない。

それは、公的存在とされるものも、私的なものをロンダリングしてできているということだ。私的な存在も公的な装いがなされるように、またロンダリングされているのだ。その最たる例が、米国のFRBではあるまいか。米国の中央銀行と呼ばれているので、簡単に中央=公的機関=中立=悪さをしないイメージと理解されそうだが、これも誤解である。

逆に、日本の中央銀行である日本銀行は一応は政府の株が過半数を超えているが、このように、日本銀行は株式会社である。その意味では、民間銀行である。さらに、日本銀行の株主には、米国のFRBの株主も含まれていることから、日本政府(日本国家)の株を、もしこのような表現が可能であればの話だが、米国の株主が所有していることになるのだ。

ということは、「日本」対「米国」といった二項対立的位置づけ方が許されないことを物語っているのではあるまいか。同じことは、「米国」対「中国」に関しても言えるのではあるまいか。同様に、「ゴーン問題」で世間を騒がせている「日産」と「ルノー」の対立問題も、「日本政府」対「フランス政府」の二項対立的図式で語ってはならないことを意味しているかもしれない。

日産もルノーも確かに最初の出自は日本であり、またフランスではあったが、それが今ではその最初の素性さえも確認できないほどに、多国籍の株主による所有形態により、ロンダリングされているのだ。もっとも、最初の日本とかフランスという物言いさえも本来ならば、おかしな言い方だ。それらも元々はロンダリングの、すなわち幾十、幾層の「ヒト・モノ・カネ」の関係から構成されていたのではあるまいか。

私が思うに、目の前で展開されている「公的空間」における二項対立的報道の在り方は、民営化問題の是非を巡る論議以上に、危なっかしい話なのだ。それこそ、NHK対民間(私的)放送の二項対立的図式の見方にも該当する話だ。

NHKの会長は民間会社の会長や社長ではないのか。そんな放送局がどうして「中立」的な報道を可能とさせるだろうか。そもそも「中立」とは何を意味しているのか。こんな当たり前のことさえも、もう理解できないくらいに、私たちの頭の中も、ロンダリングされてしまったのかもしれない。

「公おおやけ」対「私わたくし」の問題が昔は盛んに議論されていたが、これも今から思えばおかしな愚かなものでしかなかった。それこそ、論者に共通していたのは、公は善であり、私は悪だという見方であった。彼らは、その公の背後に控えている株主の話は決してしなかったのだ。

もしそれをしていたならば、「私」の中の力の強い者が「公」をつくり出していくことに気が付いたはずであるのに。なんでこんなだれにもわかる話を以前の論壇で行わなかったのか。彼らも御用学者であったのだ。その意味では原発推進学者だけが御用学者なのではない。原発反対論者の学者も、相当に御用学者であったのだ。私から見ると、彼らの存在の方が危険なのだ。

もっとも、世間というか世の中というか、公的空間においては、こうした危険性に気が付く私的存在としての「私」はその「公」によってつくられてこなかったのだ。というのも、「公」を構成したのが、そもそもそんなことに背を向けた「私」であったからなのだから。

ところが、そうした私的存在である者たちが、驚くことに、自由、民主主義、人権、法の支配といった普遍的価値を世界の済み済みに広めるという普遍主義を掲げたのだから、公的空間が「私」の欲望で充満されていくのも当然なのだ。

そうした普遍的価値を何ら疑うことなく支持し肯定する者たちが、郵政民営化、水道民営化はけしからん、新自由主義反対云々と叫ぶのだから、これこそまた本末転倒の議論の繰り返しとなるのだ。いやはや、すさまじい「公ー私関係」のロンダリングではあるまいか。
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