日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

私の語る「システム」論から、〈田原総一朗氏 支持率でハリス副大統領がトランプ氏をリードに「世界の平和

2024-07-27 | 日記
私の語る「システム」論から、〈田原総一朗氏 支持率でハリス副大統領がトランプ氏をリードに「世界の平和はアメリカが守るんだ、というプライド」
7/24(水) 19:46配信 東スポWEB〉を再考するとき


(最初に一言)の前に


*本論に入る前に気になっていたこ戸を先ずは述べておきたい。それはいつもその時は思っているのに、ついつい忘れてしまっている大事なことなのだ。昨日?の金曜日?の早朝のNhKの大雨情報で思い出したので、それについて述べてみたい。「できるだけ命の助かるように行動してください。」云々のメッセージが緊急被害時に流されるのだが、これを聞くたびに、私は何かズレているというか、おかしいのでは?と感じてしまうのだ。と言うのも、私たちの命と暮らしを守るどころか奪い尽くそうとしてきた政治とそれが体現する社会であるにもかかわらず、なんでこんな時に、今更を、私は痛感してしまうからだ。誤解のないように、ニュース報道関係者にとやかく言うつもりはない。むしろ、お疲れさまと言うばかりだ。


 そもそも、できるだけ命の助かる行動を!するのは政治の大仕事ではないのか。それがさっぱりなのだ。誤解のないように、これはあくまでも「こちら側の私たち」の側からの物言いである。とは言え、その私たちも、私一人の物言いでしかないかもわからない。私には本当にこんなメッセージを流すのはやめてほしいと切に願うのだ。これはまさに自己責任の論理を、それが取れそうもないそんな時に直面しているにもかかわらず、まるで追い打ちをかけるような突き放した言葉であると私は感じるからなのだ。何か条件反射の訓練というか教化のためのメッセージであるかのように、私には思われて仕方がない。これまた過敏症のなせる業なのか。


*さて、話は変わるのだが、今日の「朝までーーー」の冒頭で田原総一朗氏が強調していた「民主主義は暴力とは相容れない」云々の「大嘘」を、「こちら側の私たち」は議論の入り口で門前払いをしなければならない。それにしても、こんな御仁が未だに跳梁跋扈しているのかと思うと、やはり日本は危ない!と思うしかあるまい。先のたとえ話として、米国でのトランプ銃撃と日本での安倍元首相のそれを紹介していたが、イスラエルのパレスチナに対する銃撃を含む暴力には言及していない。


*それにしてもなのだが、イスラエルが建国されるその前後から今日に至るイスラエルの民主化の歩みは暴力と切り離しては語ることのできない歴史であったはずだが、これを番組出演者はどのように話したのか。またいわゆる英米仏の市民革命の母国とされるそれら諸国の自由化・民主化の歩みには、いつも暴力が結びついていたはずなのに、それはどのように語られたのか。残念ながら、私はすぐ番組を見るのをやめてしまったので。




(最初に一言)


 米国はトランプの登場以降、何か激しく分裂・分断してしまったとか、トランプが大統領に再選されるならば、世界の平和は遠のく云々の記事が後を絶たない。今回記事は今更ながらの思いで、私の語る「システム」論からそうした見方を再考してみたい。




 私の語る「システム」論から世界を俯瞰するとき、世界はいつも自己決定権の獲得とその実現をめぐる差別と排除の関係から構成されており、それゆえ分裂・分断はつきものであり、そこでの平和とは戦争と背中合わせの関係にあると言うしかあるまい。こうした私の見方からすれば、どうしてかくもトランプは嫌われているのだろうかと思うのだ。勿論嫌われる理由は私なりにわかるのだが、それならばバイデン大統領も、オバマ元大統領もトランプと同等に嫌われても当然だと私はみているのだが、そんな風にはメディアの情報は流れていない。私からすれば、元々おかしな話の連続なのだ。そこに来て、今回記事で紹介する田原氏のーーー田原総一朗氏 支持率でハリス副大統領がトランプ氏をリードに「世界の平和はアメリカが守るんだ、というプライド」ーーーであるから、これはもう異常気象の性で思考それ自体もおかしくなったのかと思う始末なのだ。


 毎日毎日メディア情報の洪水の中にいると、「まあ、そんなものか」とあまりこだわりもなくなってくるからこれまた恐ろしいのだが、私たちの思考の平衡感覚は相当におかしくなってしまったというしかあるまい。おかしなどころではなく相当に危うくなっているのだが、もうそんなことにも私たちはこだわることさえしないかのように、私には思えて仕方がないのだ。トランプを持ち上げて英雄視する人たちが一方にいれば、逆にそうした見方を全否定してトランプの人格も含めて滅多切りに批判・非難する人たちもいる。これはトランプ氏個人だけに限られない。


 とにかく極端なのだ。それと感情的というか情緒的すぎるのだ。それもあるのだろう。田原氏の記事も鵜呑みにすることはできない。今日のテレビでの田原氏の発言を聴いていると、いつものことだが、この人には核となる話というか思考の軸は不在であるように思われる。それでいてジャーナリストを自認できるのだから、私には「もうさっぱりわからん」となる。勿論、その理由はよくわかっている。氏だけではない。飯のための、その飯を食う・買うための銭のために、私も含めてほとんどのものは生きているから、ある限度を超えての批判・非難は必ず自分自身に跳ね返ってくるから、慎みは大事であると私も自分を律してはいるつもりだが、そんな私から見ても、それは「やはりないよなあ」と思われる人たちが多すぎるのも否定できないのだ。


 それにしても、どうでもいいような情報が多すぎて、身動きが取れなくなってしまうのもおかしな話といえばそれまでだが、私たちの社会を動かしている情報はほとんどがそのどうでもいい話ばかりであるとすれば、それはそれで相当に恐ろしくなるのではあるまいか。ここでの「どうでもいい」とは、話し手もそうだが、聴き手もその意味を真剣に問い返そうとはしない内容を指している。その意味において、話の内容がどれほど重大であったとしても、その真偽それ自体が不問に付されたままで、その挙句には、あたかもそれが社会のど真ん中に居座り続けてしまうとすれば、結局は社会の茶番を問い質すことさえできなくなってしまうのだ。


 今回記事での「民主主義は暴力とは相容れない」云々の話など、その代表的などうでもいい話とされてきたのではあるまいか。それゆえ、こちら側の私たちは、そろそろ私たちの生きている社会に向かって、警戒注意報を発令した方がいいのである。いや、もう警報レベルかもしれない。その際、大事なことは、「命の助かるように、今すぐにできるだけのことをしてください」云々では勿論ないのは当たり前である。そうではなく、「大丈夫ですよ。安心してください。そんなまさかのために、私たちは何日も前から準備万端あらゆることを想定して対応・対処してきましたから。あわてる必要など少しもありませんよ。」なのだ。




(最後に一言)


 「こちら側の私たち」というとき、「こちら側」の中にもいろいろ名「側」があり、また「私たち」にもいろいろな個人なり集団がある。大事なのは、私がそのどこに属しているのかについて、いつも問い続けることではあるまいか。勿論、「あちら側の彼ら」に属する場合でも、やはりそうした方がいい、と私はお節介ながらみている。とにかく、なんとかして、私自身を納得させることのできる「システム」論をまとめたいとの思いで、今回記事にチャレンジしたのだが、やはりうまくはいかないものだ。


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