日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

(修正版)私の説く「人としての命と暮らしを守る」(「人としての安全保障」(論))と、いわゆる「人間の安全保障」(論)との見解の相違について述べるとき

2021-04-19 | 日記

(修正版)私の説く「人としての命と暮らしを守る」(「人としての安全保障」(論))と、いわゆる「人間の安全保障」(論)との見解の相違について述べるときー目まぐるしく変わっていく「状況」を的確に位置付け理解するためには、しっかりとした羅針盤が必要・私の語る「システム」論がその一助となればとの思いは募るばかり(2)プラス(3)


(最初に一言)

前回記事(2)は、途中でやめてしまったので、今回はそれをたたき台としてその続きを書こうとした次第。

少し以前までの記事を振り返ってみた時、私は「迂闊(うかつ)なこと」(のように誤解されかねない)を述べていることに気が付く。すなわち、もうこれからは、日本国とか日本人、中国国とか中国人、米国国とか米国人、ミャンマー国とかミャンマー人といった「古い考え」を捨てて、「人として」云々と言っていたが、それこそ、中国政府やミャンマー政府、北朝鮮政府等の「神経を逆なでする」と同時に、「システム」にはとても都合のいい、「システム」を利するだけの「物言い」であった。

そもそも、「システム」の中で、私も生きてきたくせに、勝手に、もう自分たち先進国を構成したAグループは、国家、国民とかの鎧を着て「国家・国民のために」云々と、たとえ、それが恥ずかしくなるような「嘘」に満ちた主張であっても、そうした呼びかけに従って生きるように熱中して演じた時期・時代というか段階を卒業してしまったので、私たちはもう、そんな「古い生き方」はしませんよ、と私は述べていたのである。国民国家の鎧は不要とされても、なお主権国家の、そしてその下での国民の鎧は身につけさせられたままであることを、銘記しておく必要があるのだ。

本当に勝手な物言いであるのは確かなのだ。そのくせ、今の「システム」の維持と発展に与りながら、呑気(のんき)にそんな戯言を語っていたのだ。昔の先進国が辿った歩みを、今また同じような形で必死に演じている中国や北朝鮮、ミャンマー等の政府が、国家建設と国民形成に向かう歩みを辿っている。そしてそのためには国境線を固め、異なる多数のエスニック・グループを一つの民族へと団結・統合させるといった「荒業」が必至となる。

そのために、人権「抑圧」とか「弾圧」と非難・批判されても仕方のないような、「システム」の「歴史的制約」の檻の中で、B・Cグループの政府は、悪戦苦闘するところとならざるを得ないのだ。そうした政府に対して、他人事みたいに、Aグループを構成する政府とその御用メディアは、やれ抑圧政権だ、自由・民主主義・平和・法の支配といった普遍的価値を受容しない無法な振舞い等々の糾弾を、嬉々としてやっている始末ではなかろうか。

今の「中国包囲網」を展開する米国や日本、そしてそれと共同歩調を取るかつてのAグループ政府の中には、それこそ「平和に対する(平和を脅かす)罪」、「人道に背くジェノサイド(大量虐殺)の歴史と無縁ではない国も含まれている。そうした自らの歩みを忘却したかのように棚に上げながら、そして同時にそうした平和や人道を裁く歴史の法廷から遠ざかることによって、自分たちだけはその非難・批判を免れる安全な地点に身を置きつつ、一方的にかつ嬉々として、中国政府やミャンマー政府をやり玉に挙げる行為は、やはりおかしいとしか言いようがないのである。

確かに、そうした主張というか反論はその通りで、私自身も、そうした私自身が問いただしたすぐ上の議論の前で、すぐさま、二の句を継ぐのは容易ではないのも確かなことだが、やはり、そうした議論の応酬を踏まえた・認めた上で、それでもなお、そこから進めなければならない話があるということを、言わざるを得ない。それが前回までの話で論述していたシステム人としての自覚を云々に関した者である。

私がここでいう「平和」や「人道」は、「システム」を前提として生きている人間たちが国民となることによって発明・創造した「平和」や「人道」ではない。すなわち、市民革命以降のそれではない。いや、それ以前の歴史も含めた「自己決定権」を巡る争奪戦における「親分ー子分」の、そして同時にまた、その親分ー子分関係の下でつくられる「差別と排除の関係」と密接不可分である暴力関係を基につくり出された覇権システムと何ら矛盾しない共存共栄の関係にある平和・人道ではない。

それを前提とした時、私たちが第二次世界大戦後に戦争の罪を裁いた国際軍事法廷で宣告された平和や人道に対する罪」の平和や人道も、その例外ではない。連合国も、その後の国際連合もその憲法である国際連合憲章も、同様に、覇権システムを前提としてつくられたものであり、その意味では、親分ー子分関係に依拠した平和や人道(の概念)をつくり上げてきたのである。

私たちがこれまで当然のことのように語っていた「平和に反する」とか、「人道に背く」云々の真の意味は、歴代の親分である覇権国が中心となって、その他の中心国、半周辺国、周辺国の子分たちとの間でつくられた親分ー子分関係を害する、それに都合の悪い、妨害するとの意味であり、親分の考える平和に反したり、人道に背くとの意である。そんな平和や人道を後生大事にしている私たち自身も誠に情けなく恥ずかしい存在としか言いようがないのである。

さらに、ここで私が強調しておきたいのは、「東京裁判」で平和に反する罪で裁かれた(その意味では、当然ながら人道に背く罪でも裁かれたとも考えてもいい、と私は理解しているのだが)「日本国」の「日本人」の一員というかその末裔であるのならば、「あの戦争」を直接間接に体験しているか否かに関わらず、そうした平和や人道(概念)とそれを現実化してきた構造というか仕組みの解明作業に真正面から向き合い、その平和と人道の抱える問題を告発することは、とても大事なことではあるまいか。

もし、私と一緒になって、そうした「無謀な挑戦」を試みようとする者がいれば、無論のこと、私は大歓迎だが、どうしてもシステム人としての自覚が何よりも必要となるのだ。そのためには、どうしてもシステム人とならなければならない。日本「国民」の次元に踏み止まる限り、たとえその論者が、どんなに良心的であろうとも、その平和や人道に関する論は、覇権システムに対して、そして普遍的価値や普遍主義に対しても、なんら向き合うことのできない中途半端な論とならざるを得ない、と私は言わざるを得ない。


(最後に一言)

すぐ上で、「日本国民の次元に踏み止まる限り」云々と述べたが、小泉元首相安倍前首相、菅現首相等は、もう既に見本国民」の次元を等に卒業されて久しい人たちだとお見受けする。ただし、彼らがそれではシステム人としての自覚をするに至ったかは、言うまでもなく論外。それでは彼らはどこを漂っているのだろうか。

それにしても、ファイザー社からワクチン供給を「口約束」されたとのことで、メディアは報道していたが、「国民の命と暮らしを守る」とやかましいほどに言う首相が、わざわざ米国にまで出かけて、直接出向いてきちんと「契約書」を交わしての供給話?ではなく、現地の米国からの電話してどうの「こうの」との話。そんな二人の話など誰が信じようか。契約書がないのなら、どうにもならないだろうに、本当にお粗末な日本のリーダーたち。それと大手メディア。なお、これに関しては、〈阿修羅・総合アクセスランキング(瞬間)〉に掲載されている「日刊ゲンダイ」の記事を参照されたい。

菅首相が米ファイザー直接交渉で赤っ恥 CEOとの対面が頓挫
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/288076
2021/04/17 日刊ゲンダイ

そもそも、私には最初から日本政府とファイザー社との間で取り交わしたワクチンの日本に対する供給話がわからないのだ。その総数とそれに費やされた費用(税金)の総額はいくらで、その支払いは前払いなのか、またその都度に支払うのか等々から含めて、わからないのだ。国会で、そうした話を裏打ちする、保証する契約書の写しでも公開したのなら、まだしも。また野党議員らがそれを要請して、その内容が国民に知らされていたならば、話は別なのだが、すべてが「タラ話」?ではないのか。勿論、そんなことはもう国民の知るところとなっていて、私だけが知らないのであれば、何も問題はないのだが。

 

 

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