日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

(再論)私の語る「システム」論から「新型コロナはフェイク」論?を捉え直すとき

2020-06-23 | 日記
(再論)私の語る「システム」論から「新型コロナはフェイク」論?を捉え直すとき

先ほど投稿した記事を少し訂正・加筆した。先の記事では、やはり誤解を生むと同時に、私の意図する内容が、読者に伝えられない、と判断したからである。ご寛恕お願いしたい。なお、先の記事は、削除させてもらった。

もし、私が「戦争はフェイク」と主張するとしたら、そこで私が伝えたい「真意」とは、
「戦争は故意に仕掛けられた(前もって、そうした事態となるように準備・用意された)」、本来はする必要のなかった「モメゴト」やそれを導く「出来事」を、恣意的につくり出すとの話として、私は理解している。

問題は、そうした愚かなことで、大勢の命が奪われるということ。と同時に、そうした戦争を引き起こすことにより、巨万の富を得る者がいるということ。

こうした戦争と、その犠牲者とそれにより巨万の富を得る者とがつくり出される仕組みが存在しているということ。私は、こうした関係が「システム」によってつくり出されてきた、と論及してきた。その際、私たちも、そのシステムの中で、システムが提供する「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為に与りながら生きらえていることから、あまりエラそうにそうした仕組みの存在を批判することができないのが、もどかしい限りなのである。

こうした文脈から、改めて「新型コロナ騒動はフェイク」だとする見解は、以下のように解釈できる。

すなわち、わざわざそのようなことを引き起こす必要もないのに、「ウイルス」をつくり、それを「新型」だとして世界中に蔓延させることで、死ななくてもよかった多くの人々が犠牲となると同時に、おびただしいウイルス感染者のために、今度は「ワクチン」の開発が必要だとして、世界中の製薬会社がその開発にしのぎを削りだすこととなり、その開発に成功した製薬会社が巨万の富を得るという構図が出来上がる。そこには、あらかじめウイルス騒動とワクチン開発が「セット」として組み込まれていることになる。

その意味では、私には、「新型」かどうかの問題は、あまり重要なそれではない。むしろ、「新型」かどうかにこだわり過ぎて、目の前で苦しんでいる感染者や既に亡くなってしまった者たちの存在を看過するかのように、私たちの関心が向けられることが、私には重大な問題なのだ。どうして、彼らは死ななきゃならなかったのか、それに関する論及こそが、今まさに求められているのではあるまいか。

ところで、先述したように、新型かどうかは別にして、とにかく「コロナ」という名のウイルスがつくり出され、それが世界中に蔓延して最終的にはワクチン開発というサイクルの流れを、私は何ら疑うものではないし、むしろ当然なことだと考えている。上述した戦争の話と同じである。つまり、戦争や紛争をその都度、兵器産業とその意を酌む政府・国家が仕掛けることから、死ななくてもよかった多くの戦死者と負傷者と、その関連の戦争犠牲者を生み出すと同時に、次の戦争に備えるために、より万全な防衛システムの構築を図らなければならないとの名目のもとに、さらなる巨額の防衛費が捻出され、それがまた兵器産業へと流れる構図である。

「システム」がこうした流れをつくり出すのだが、それは「金の成る木」としての「システム」の宿痾である。残念ながら、ここでも私たちの「システム」批判は弱くなる。というのも、私たちは、「金の成る木」としての「システム」の提供する、上述したような「営為に」与り飯を食らってきたからである。

その意味では、すべてが「やらせ」ということなのだ。そのやらせを仮に「フェイク」と呼ぶとすれば、そんなことのために、かくも多くの感染者と死者を生み出す私たちの社会は、当然問題であるのは間違いないのだが、どういうわけなのか、感度がとても鈍いと、言うか、悪すぎるのだ。この理由の大本は、先に指摘した「衣食足りて(足りず)---」の営為に与り生きている私たちの「現実」の中にある。

「新型コロナをフェイク」だとする論者が彼らの信念のもとに、そうした見解を発表するのを、別に悪いというのではないが、私には、フェイク問題以上に、それによって死ななくてもよかった者が、その生を全うできないのがつらいのである。換言すれば、「新型コロナ=フェイク」論から、先の大事な話へと、すなわちそれは私に言わせれば、「システム」の存在に他ならないのだが、展開することなく、フェイク論のままでとどまってしまうことになれば、その論がいかに疫学的、医学的観点から優れたもの?とされても、私には何か引っかかるものを覚えたのである。

それが前回の私のブログ記事に投影されたのだが、誤解のないようにここで付言しておくと、別に彼らフェイク論者がおかしいと決めつけているのではない。悲しいかな、素人の私には、新型コロナがフェイクかどうかの判断、判定のしようがないのである。せっかく、ごく少数の易学者がそうした「素晴らしい」とされる論を提示してくれているとしてもなのだ。

ただし、上述したような文脈での「やらせ」という意味での「フェイク」論議には、私は同意する。と同時に、死者数や感染者数をみるとき、「フェイク」論者が説くように、マスクは不要だとか、三密を避ける必要はないといった論には、正直ながら、私は同意しかねるのである。さらに、そこから先へと議論を進めないで済ますとしたならば、なおさら、私には「フェイク」論を額面通りには受け入れられないのだ。理由は、簡単なことだ。「フェイク」にもかかわらず、どうして大勢の人が死ななきゃならないのだ、ということである。たとえ、彼らがインフルのそれと比較した話をしてもそうであり、さらにそうした比較を、自説の根拠とするためにだけ、そのためにだけ語るとすれば、私にはなおさら従うことができないのである。

それを断った上で、またここでの私の言う「やらせ」といった脈略から、「新型コロナはフェイク」とする議論に対して、政治学という社会科学の研究者の端くれとして、私は当然ながら向き合うことを迫られるのだ。というのも、コロナ問題のために、あまりにも医学や疫学関係者の話で、ここ何カ月も私たちの言論空間が覆い尽くされてしまい、コロナに関連したもっと大事な、それこそ政治学や経済学、社会学等の分野から、コロナ関連で発信されてしかるべき重要な問題があるにもかかわらず、そうした話が締め出されている、隠されてしまっている、と私は考えるからである。

新型ウイルス問題も、戦争問題も、また世界各地で引き起こされている食糧問題、子供の人権問題も、戦争とそれに伴う女性の性暴力問題も、全てが相互に関係している問題ではなかろうか。私は、こうした一連の問題の背後に、「システム」の存在があることを論及してきた。とりわけ、私たちが社会の根幹を構成する必要不可欠な「ソフトな面での」根本原理として掲げてきた「自由」、「民主主義」、「法の支配」、「平和」といった「普遍的価値」とそれが実現される過程を、私は考察する中で、「システム」がそうした普遍的価値や普遍主義を自家薬籠中のものとしながら、存続していくことを突き止めると同時に、それに対して警鐘を鳴らしてきたのである。

ところが、社会科学の研究者は、右翼とされる論者も、また左翼とされる論者も、こうした問題を直視するのを避けてきたと言わざるを得ない。残念なことだが、これは私の言う通りなのである。既に、拙論や拙著において、私はこうした問題を語ってきたのだが、おそらく今後も「システム」とその宿痾の問題に果敢に切り込む研究者は出てこないだろう。これは、日本という国家が覇権国家の米国に対して、黙従・隷属してきた姿と相重なるのである。

親分である覇権国と、それが中心となって創造された覇権システムが提供する普遍的価値を、私たちは何ら疑うことなく受容してきた。これは、親分が子分との関係で行使してきたあらゆる「暴力」を、肯定することに他ならない。私たちの人権とその実現には、「暴力」が組み込まれているのだ。そうした暴力を批判しないで、「いかなる暴力も許されません」「人を殺してはいけません」「戦争は断じて駄目です」云々と繰り返し、私たちは語ってきたのだが、私にはどうにもし難い話ばかりである。

ところで、私の話は「フェイク」なのだろうか。そうかもしれないが、そうでもないかもしれない。頭がくらくらしてきたので、もうこのあたりで今日はやめておこう。

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