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樋口了一さんの『手紙』に思う

2009-11-09 16:25:00 | Weblog
 姑の命日の二日ほど前に
「今回は体調が悪いのでお参りには行けません。ごめんなさい。」
とN嬢から電話がかかってきた。

 N嬢は亡き姑の友人で、年齢は私とふたつしか違わない。
昔から実母のように姑を慕い何かと気遣いをみせてくれていたが、50代半ばで脳梗塞で半身不随となり、若くして介護生活を余儀なくされた。
現在は在宅でご主人の介護を受けている。

 N嬢がまだ健在だった時は、度々姑を伴なって近隣へのドライブや温泉に誘ってくれ、姑を大変喜ばせてくれていた。
私は感謝の気持ちを抱くとともに、なにやらちょっと言葉には出来ない複雑な思いをしたものだ。
(姑は私がどこにも連れて行かないのをN嬢に訴えているのだろうか?)
(ふたりで私の悪口を言っているのではないだろうか?)
......嫁というものは常に姑に対して、沈着冷静ではいられない理不尽で得体のしれないものを増幅させているものだ。

 そのN嬢、電話口で切々とご主人の介護への不満を述べ、自由にならない身体機能を悲観し絶望し、何度も「早く死にたい」と口走る。
何もかもが思うようにならないこと、快適ではないこと、大事にされていないことを涙ながらに訴えてくるので、私も身につまされてやりきれなくなる。
介護経験がある私には、ご主人の苦労もN嬢の苦悩も手に取るようにわかるのだが、在宅介護が抱える深い闇へのアドバイスなどは絶対に出来ない。
ただ一緒になって泣きながら聞いてあげるだけだ。

 俳優長門裕之さんが、認知症の妻南田洋子さんを献身的な態度で介護したということが話題になっている。
夫婦の情愛を伝えることが趣旨であったにしても、一世を風靡した銀幕の美女の老いて痴呆となった姿を、テレビを通して見せつけられたのは衝撃だった。
N嬢は長門さんの著書を買って読んでみたものの、妻が認知症になっても仕事を辞める必要など全くなかった恵まれた介護環境に
「これはいわゆるお金持ちだけに許されている介護の形だ!」
我が身と比べるとますます辛くなり、到底最後まで読み続けることは出来なかったと言っていた。

 樋口了一さんが歌う【手紙~親愛なる子どもたちへ~】←(歌詞にリンクされます。読んでみてください。)という、今までタブーとされてきた介護の精神の本質を赤裸々に表現している歌も話題になっている。
確かにこの歌詞の言いたいことはよく解るし、このような歌を作った作者の勇気を讃えたいと思う。
しかし子育てと介護の精神を、ギブ&テイクの条件で語ってよいものだろうかという疑問がどうしても私には残るのだ。
私はこの歌のような心情を自分の子どもたちには絶対に言いたくはない(やせ我慢だろうか?)
子の立場にしても、この歌の持つ介護の押し売りのような望みを、親から聞かされたくはないだろう(異論はあろうが)

 「私からの遺書だと思って聞いて欲しい。」
N嬢は、この歌のCDを用意してふたりのお子さんにプレゼントしたと言う。
N嬢の切実な気持ちは解らないではないが、はたしてお子さんたちはどのように感じただろう。
このような手段でしか自分の気持ちを託すことが出来ないのが、ただ悲しい。