日中友好協会京都府連・行事案内
甦(よみがえ)れ歴史の記憶
―中国人強制連行写真展―
―中国人強制連行写真展―
とき:7月10日(金)~7月14日(火) 10:00~17:00
*10日は13:00から、14日は15:00まで
*10日は13:00から、14日は15:00まで
入場無料
ところ:ひとまち交流館京都1階展示スペース
(京都市下京区河原町五条下る東側)
主催:中国人戦争被害者の要求を支える京都の会
電話:075-642-3152(桐畑)e-mail; sasaerukai_kyoto@yahoo.co.jp
https://sasaerukaikyoto.wixsite.com/website
https://sasaerukaikyoto.wixsite.com/website
太平洋戦争中の1942年11月、日本政府は「華人労務者内地移入に関する件」を閣議決定し、約4万人もの中国人が甘言や強制的手段で日本に連行され、炭坑や建設現場など135ヶ所の事業所で、賃金も支払われず、長時間の奴隷労働を強いられました。命を落とした人も沢山いました。こうした問題は、戦後、日中国交正常化を経て、90年代にようやく裁判などで明らかになりました。
京都でも、大江山のニッケル鉱山に200人の中国人が連行されており、1998年、被害者のうち6人が、日本冶金と日本政府を提訴しました。裁判所は被害を認定し、日本冶金との和解が成立しています。しかし大半の被害者とその家族にとって、戦争に傷はいまだ癒えることはありません。
どのような歴史があったのか、被害者や遺族を支えてきた日本の支援者たちが、平和への祈りを込めて撮った写真をぜひご覧ください。
甦(よみがえ)れ 歴史の記憶
――中国人強制連行写真展―― を開催するにあたって
中国人戦争被害者の要求を支える京都の会
代表 斎藤 敏康
中国人戦争被害者の要求を支える京都の会
代表 斎藤 敏康
日本に連行され厳しい労働の末に犠牲になった中国人労働者
日本政府は太平洋戦争による徴兵によって国内の労働力不足を招来します。これを解消するために昭和17年「華人労務者内地移入」を閣議決定し、中国人労働力を国内に移入しました。拉致連行による調達が国策によって行われました。これが「中国人強制連行・強制労働事件」です。
日本政府が官製の徴発組織「華北労工協会」を使って集めた中国人労働者は38,935人に上ります。これら中国人は日本国内の鉱山、発電所、港湾など135の事業所へ連行され、過酷な労働に従事させられました。事業所の内訳は鉱業、土木建築業が最も多く、鉱業は15社・47事業所、連行した労働者は16,368人、土木建築業は15社・63事業所、連行した労働者15,253人に上り、合計で総人数の81,8%を占めます。その他に港湾荷役業が1社・21事業所、連行された労働者6,099人、造船業は4社・4事業所、連行された労働者は1,215人です。中国人労働者は食料不足、不衛生、虐待などの環境の下で過酷な労働に従事することを強いられた結果、事業所内で5,999人が死亡しました。
「労働力移入」は先ず当時植民地であった朝鮮において行われ「募集」「斡旋」「徴用」などによって多くの朝鮮人が半ば強制的に日本に連れてこられました。さらに戦局が悪化するにいたって中国からも大量の労働者が連れてこられることになったのです。
これらの中国人・朝鮮人を使役した企業は大きな利益を上げ、戦後も多くが存続してさらに発展しましたが、日本政府ともども戦時中の強制労働に対しては口をつぐみ、事実をひた隠しにして一片の反省や謝罪も公にしませんでした。
こうした戦後未解決問題に取り組んだのは民間の平和団体や宗教者、ジャーナリスト、弁護士、教師たちでした。草の根の市民たちの努力によって50年代に犠牲になった中国人労働者の「遺骨返還運動」が進み、60年には「中国人強制連行に関する報告書」も出されます。しかし冷戦下の国際情勢において日本政府は「中国敵視」政策を取り続け、中国もまた「文化大革命」の動乱のさなかにあって、中国人強制連行事件が両国の国民に広く知られ、政治の焦点となることはありませんでした。
第二次世界大戦中の戦争犯罪に対する追求は世界的には1970年代に入って本格化します。ドイツでは戦後世代の若者によって国民の戦争への加担と責任が問われました。80年代には日本でも戦争被害の側面だけではなく、国民のアジア諸国民への加害の事実にも目が向けられ、歴史教科書にも侵略戦争という規定が現れました。中国は文革後、経済・社会制度の改革開放が叫ばれ、日中貿易は拡大の一途をたどるなかで、中国残留孤児の帰国事業も始まりました。
こうして冷戦後の東アジア情勢が協調と共存へ大きく転換するとともに、未解決の戦後処理問題も取り上げられるようになり、戦争で被害を受けた人々が声を上げ始めました。日本軍「慰安婦」問題や、中国・朝鮮人の強制連行、徴用問題が解決を必要とする政治、社会問題としてクローズアップされたのです。
20年に及ぶ裁判を経て加害企業に「救済に向けた努力を尽くす」よう命令
中国人強制連行事件に関しては、90年代から中国の被害者及びその遺族が日本政府と加害企業を相手取って全国16の裁判所に提訴しました。裁判は前後20年近くに及びましたが、公判では「人狩り」とまがうような強制連行の事実や、無権利で過酷な作業現場での労働実態が明らかになり、社会的にも大きな反響を呼びました。そうした実態が歴史的事実として認められたことは大きな成果でしたが、しかし判決そのものは「時効」や、国家が応える責任はない(国家無答責)、「日中共同宣言」で個人請求権は放棄されたといった理由によって原告・中国人被害者敗訴の判決が続きました。そして最高裁においてもこの判断は覆りませんでした。しかし最高裁判決は日本政府と共に特に企業側に強制労働によって肉体的精神的苦痛を被った被害者に対して真摯に救済に向けた努力を尽くすことを求めました。この判決附言を基礎に中国人被害者と裁判を支援した日本の弁護士・市民は企業に謝罪と賠償・慰謝料を求めて交渉し、西松建設、三菱マテリアルなどで和解が成立したのです。
大江山強制連行事件では画期的な「和解」が
京都でも裁判が取り組まれました。大江山でニッケル鉱山を経営する日本冶金工業に対して6人の中国人強制連行被害者が京都地裁に提訴した裁判と大阪高裁における和解交渉は、和解の内容と賠償金の金額において際立った特徴を持っていたといえます。つまり京都地裁判決は被害者に対する「企業と国の共同不法行為」、「企業の安全配慮義務違反」、「企業が得た不当な利得の返還義務」などを認め、それを事実上受け入れる形で日本冶金は一人当たり350万円の賠償金を支払ったのです。
その後、大江山強制連行・労働事件は、2014年、74人中国人の元労務者・遺族が中国の裁判所に日本冶金上海支社に対する賠償を求めて提訴を試みています。愛知県の大府飛行場強制事件では愛知と北海道の企業との話し合いを求めて運動が取り組まれています。
アジアの人々との真の和解のために
中国人労働者の強制連行事件は韓国人の徴用問題などと並んで、日本政府にとって第2次世界大戦後に残されたいわゆる戦後処理問題の一環であり、この問題の正当な解決を図らなければ本当の意味で東アジアの平和的な共存は実現しがたいといっても過言ではありません。
「甦れ歴史の記憶―中国人強制連行写真展―」を通じて、市民やマスメディアの間でこの問題に対する関心と理解が深まることを念願しています。