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どこ吹く風

旅のことを主に書く。

まず一歩

2007年05月28日 19時18分13秒 | 懐かしい旅の記録
 西安為陝西省省會,轄七區六縣。西安位于關中平原中部,北跨渭河,南依秦嶺,氣候温和,雨量充足,土壤肥沃,物産富饒。
 西安(古稱長安)是中國六大古都(西安、洛陽、南京、開封、杭州、北京)里建都時代最早、朝代最多、歴時最久的城市。曾經有西周、秦、西漢、隋、唐等十多個王朝建都,作為中國古代政治、軍事和經濟文化中心達上千年之久

 西安の観光地と中国語を一挙に学ぼうと観光サイトで見つけた文章です。何となく意味は分かる、それをお気に入りに入れてある四声付きのピンイン変換ソフトに入れると一時に変換できるのは12文字だけだ。ちょっと長い文章だとメンドウだな。
それに読み方は何とかできたとして意味が分からない単語はどうする・・・四声付きの辞書で、読み方の音声が出る電子辞書で適当なものを探そう。

xi1 an1 wei2/wei4 shan3/xia2 xi1 sheng3/xing3 sheng3/xing3 hui3/hui4/kuai4
西 安 為 陝 西 省 省 會
xia2 qi1 ou1/qu1 liu4/lu4 xian4/xuan2
轄 七 區 六 縣
xi1 an1 wei4 yu2 guan1 zhong1/zhong4 ping2 yuan2 zhong1/zhong4 bu4
西 安 位 于 關 中 平 原 中 部
bei3 kua4 wei4 he2 * nan2 yi1 qin2 ling3
北 跨 渭 河 , 南 依 秦 嶺
qi4 hou4 wen1 he2/he4/huo/huo2/huo4 * yu3 liang2/liang4 chong1 zu2
氣 候 温 和 , 雨 量 充 足
tu3 rang3 fei2 wo4 * wu4 chan3 fu4 rao2
土 壤 肥 沃 , 物 産 富 饒


西安〓〓西は〓を省、〓7〓6〓。西安は〓中等のもとの中部に位置して、北は渭河にまたがって、南は秦〓に従って、〓5日ごとの平均温度と、降雨量は十分で、土壌は肥沃で、物〓富んだ〓。
 西安(古い〓〓安)がな中に〓六大古都(西安、洛河が〓、南京、〓、杭州、北京を閉じます)の中で都を定めるのが〓代わります一番早いです、時代が最も多いです、〓〓最も長い都市。かつて〓西周、秦、西〓、隋、唐などの10余り〓王朝は都を定めて、〓の中で〓の上で〓古代の政治、〓事と〓〓の文化センター1千年の長期を行います

 翻訳された結果の日本語だが、このような日本語ならむしろ原文が分かり易い。(笑) 翻訳ソフトは中国語に限らずロクなものは無いというのが私の感想です。フリーソフトの限界でしょうか。

ガイドブック スイス

2007年05月25日 16時47分45秒 | 懐かしい旅の記録
 先日図書館へ行ったついでに旅行関係の棚を覗いて見ました。予算が限られているので新刊は少なく”地球の歩き方”は10年も前の本が並んでいたので期待はしていなかった。ところがこのところの旅行ブームが影響しているのか「るるぶ」の昨年度版が並んでいる、珍しいことだ。

 あの本は写真中心で見る、泊まる、食べるをコンパクトに纏めているので深い知識は得られない。まあ通り一遍の有名どころに美味しい食べ物それに快適なホテルが載っていて夢を与える書きかたがしてあると考えて良い。それを承知でスイスを取り出して捲ってみた。地域別に魅惑を誘う言葉と写真が目に付く、やはり美しい国だ。捲っていきながら気付いたが、紹介されている地域・場所の8割がた行った事がある場所だ。

 スイスはドイツやフランスと違って都市部だけを廻る観光ツアーは殆んど無い。ドイツのロマンチック街道やパリ・モンサンミッシェルのようなルート設定が無く、必ずアルプスが入っている。スイス観光の目的はアルプスが主で、都市部も美しい街並みがあるが移動の途中でチョボチョボと寄るのが多い。
 アルプスもチェルマット、グリンデルワルド、サンモリッツの三ヶ所へ行けば大方有名な場所は見て廻ったことになる。またスイスではないがシャモニ・モンブランも交通の便やアルプスとの関連でスイスと一緒に紹介されるのも多い。

 るるぶを見ていると殆んどが見覚えのある場所であった。ページを捲りながら、私もたいしたものだと笑みが零れた。威張れるほど見て廻ったわけではないが、一般の人が行くスイスは大概見たことになる。
この次行く機会があったらもう一歩踏み込んだ計画を立てよう。

 るるぶを一般向けの本とちょっと小馬鹿にして見ていたが、食べるとホテルに関しては全く分からなかった。あんな物価の高いスイスで郷土料理をどのレストランで食べる、なんて記事は全く参考にならない。それにホテルもハイクラスらしく私たちには縁が程遠い感じがした。小ばかにしたツモリなのに大馬鹿扱いされそうだ。(笑)

 どのような本であれ見覚えのある風景を見るのは気持ちが良いもんだ。

鵜の目鷹の目

2007年05月11日 17時02分12秒 | 懐かしい旅の記録
 毎月送られてくるツアー案内を見るがこの時期、5月の連休から夏休みに向けての案内なので設定料金が高いのでただ眺めているだけだ。私はもう一度トルコへ行きたい、その旨を妻に言うと”トルコの前にいきたいところがある。”とのこと。

 私がトルコの最大の魅力はツアー料金が安いからだ。一昨年参加した時は15日間だったが、昨年から16日間になっている、しかし料金は据え置きだ。何の都合か知らないが私の取っては良い方への変更だから問題ない。
5月号の料金設定は149.800円となっている、やはり5月は高い。出発時期を選べば2万円安くなる。この金額に航空燃料税の約25.000円と我が島ウチナーから出発地の関空若しくは成田までの運賃と前泊料約35.000円が掛かることになるので、18万円から20万円で16日間のトルコ旅行が楽しめる。
トルコの魅力というよりも格安料金の魅力というところだ。(笑)

 案内書の「遙かなるチベット 天空列車の旅 6日間」のページが折られている、妻が行きたいのは正月頃NHKの特別番組で放映された青蔵鉄道に乗ってチベットへ行きたいのだ。あの時二人して一度は行ってみたいと話したところである。
 勿論私も行きたいので検索して調べているところです。しかし・・しかしです、ツアーの内容に不満がある。極論すると汽車に乗ってラサへ行って帰るだけで289.000円は高い。せっかくチベットまで出かけてラサ2泊で帰るのでは物足りない、もっと見て廻りたい。その金額に上記諸々の費用が6万円追加されると35万円になる、シーズンを選べば安くなると思われるがそれでも期待する料金までは下がらないだろう。

 そう考えて個人旅行を模索しているです。幸い上海までは週何便かの直行便が出ている。オープンチケットでも7万円程度だと思われるので個人旅行を計画した方が楽しめるのではなかろうか。
チベットへ行くならカイラース山を見たい、周回したいと思って方法を探っているが難しいようだ。でも諦めきれないのでもっと方法を探すツモリだ。もしカンポリンチェが無理なら九寨溝や黄龍辺りを見てもいい。費用もツアーで行くより安いのではなかろうか。

 カイラース山(カンリンポチェ)は行きたいな~、気長に個人旅行でいける方法を探そう。

旅へのおもい

2007年04月08日 09時29分16秒 | 懐かしい旅の記録
 当面旅行の計画が無いので漠然と[旅]全般について書きます。

 阪急交通社からトラピックの4月号が送られてきた。春から連休さらに夏に掛けての案内が満載だ。でもこのシーズンの料金は高めなのでただページをパラパラ捲るだけ、それでも旅への想いが沸き立ってくる。

 世界は広くれ魅力的な所は多い、自然、街、美術館と数え上げれば切りが無い、でもそれらを手当たり次第廻ることはできないのでテーマを絞らざるを得ない。絞ろうがどうしようが今頃案内が来るのはゴールデンウィークから夏休み向けが多いので、料金設定が高いと思うのでチラチラ見るだけにしている。

でも旅に出たいな。
では何処へ? 
う~ん直ぐには出てこない。
行きたい場所はある、青蔵鉄道・チベット鉄道に乗ってラサへ行きたい。ラサで引き返すのではなくてカイラース山を一周したい。容易なことではないが夢です。カイラース行きを諦めれば夢ではなくて容易く行けるが、ただラサ往復だけでは物足りない。だから夢の部類に属する。

********

 さてあるサイトに池澤夏樹が紀行文を書いていて今回はシャモニであった。シャモニは去年の夏に行った場所なので興味を持ち、かつ懐かしみながら読んだ。今様の話題地球温暖化を織り交ぜながらシャモニ風景主に氷河のことを書いている。メール・ド・グラスやモンタンヴェールは池澤夏樹が書いているように登山電車に乗り、ケーブルカーに乗り換えて氷河の洞窟を見て廻ったので、書いてあることがそのまま頭の中に浮かんだ。エギーユ・ドゥ・ミディも然り。

 私もその時の印象を書いた。しかしさすが文筆家は違う、同じ場所同じ景色を見て受ける感動は同じだと思うもそれを表現する力が違う。いや表面的に見れば同じ感動といえるが感動の受け止め方や深さが違うというのを実感した。
大作家に対して不遜な言い方であるが私はそのように本当に思ったのです。

 同じものを見ても見る視点が違う、深い洞察力と共に見ている。こうありたいものだと思った。見る視点とはどういうことなのだろうか、何を考えながら見るのかということなのか。自然を見るときはその風景だけで感動する、その感動を伝える時に自分の感情・印象だけでなく一歩引いてスケールを大きくすることが大きな違いだ。
池澤さんの文章を読み返してみると、山、谷、氷河、ケーブルカーなど普通の言葉がキーワードとなっている、私と同じじゃないと思うもこの後の広がりが違う。文章にの広がりを持たせるというのが如何に大事かというのを知りました。知らされました。さすが・・です。

 旅へ出たとき参考にしたいと思います。

能登半島

2006年12月31日 22時23分16秒 | 懐かしい旅の記録
 エジプトツアーは、ここオキナワから参加するには前泊・後伯が必要になる。
幸い関空発なので妻の妹の家にお世話になることにした。それで帰りを2・3日ずらして二夫婦で能登半島付近へ行こうということになった。
その計画案を送ってきた。

あの辺りは縁が無く全く不案内なので地名がまるっきり分からない。ただ和倉温泉の名は聞いたことがある。これもまた調べねばならない。雪を楽しみにしておこう。
とは言うものの、寒さ対策が出来るほどの衣類は無い。エジプトもそれほど寒くないと思うので、防寒はどうしよう・・・

明日の正月は曇りで雨も落ちるでしょう、気温は例年並の動けば汗が出る程度と思われる。
どなた様も良い年をお迎えください。
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永平寺・東尋坊・金沢・能登半島旅行

1. 日 程   1月21日(日曜日)から1月23日(火曜日)

2. 1月21日(日曜日)の旅程 
l JR新大阪駅8時46分発(サンダーバード7号)→JR福井駅10時30分着
l 越前鉄道・福井駅10時47分発→永平寺口11時15分着
l 永平寺見学と昼食(多分そば)2時間くらい掛ける。
l 越前鉄道・永平寺口14時15分発→三国港15時15分着
l 東尋坊見物と夕陽を見る(雨天の場合如何)
l 東尋坊17時発→17時20分芦原温泉着
《芦原温泉の旅館に泊まる》

3. 1月22日(月曜日)の旅程
l 芦原温泉9時13分発→福井駅9時50分着
l JR福井駅10時12分発(しらさぎ1号)→JR金沢10時48分着
l 金沢市内の観光で、約4時間。
l 昼食は、金沢市内で、簡単に済ませましょう。
l JR金沢駅15時24分発(サンダバード)→JR和倉16時28分着
《和倉温泉の旅館に泊まる》

4. 1月23日(火曜日)
l バスで「能登半島観光バス」で一日観光。
l 和倉温泉8時30分発(あさいち号)→JR金沢駅西口15時50分着
(和倉温泉→輪島駅→輪島漆器会館・朝市→道の駅「とぎ海街道」→厳門「昼食」
     →妙成寺→千里浜なぎさドライブウェイ→金沢駅西口)
l JR金沢駅16時52分発(サンダバード40号)→JR新大阪駅19時32分着
    <夕食は、駅弁と缶ビールです。本当は、有名な居酒屋「かねき屋」で
     一杯飲みたいのですが、翌朝早いので、断念。>
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 春の剣岳早月尾根からみたくっきり見えた能登半島、そこから剣岳は見えるか・・
寒そうだな~ でも楽しみ。

迷子はつづく

2006年12月16日 09時27分45秒 | 懐かしい旅の記録
 迷子騒ぎはあったものの空港待合室では迷子騒ぎが笑い話となり、またオプションで観劇したハーフショウーの面白さに話が弾んだでいた。私たちはタイ在住商社マンの後輩に連絡を取り、一時離団して夕食をご馳走になり本格的なタイ料理に満腹してシンハビールで喉も滑らかに語って空港まで送ってもらい一行と合流し、楽しかった思い出とともに深夜空港を飛び立った。

 早朝インチョン空港に着き、夕方福岡便に乗るまでの間ソウル観光が組まれていた。案内は日本語の話せるガイドさんで、タイでは2台のバスに分乗していたが、ソウルでは1台の大型バスに全員が乗った。
 一人のガイドで40名弱の人員を案内するのは通常行なわれている。しかしタイのガイドは30名では負担が多すぎるとJTBにクレームをつけて20名以下にさせたと話していた。それでJTBは急遽追加募集をして2台分の40名を確保しようとしたようだ。

 博物館見学のとき又迷子騒ぎが起った。つい昨日迷子で大騒ぎしたばかりなのに性懲りも無くというか教訓が生かされずに又起きたのである。構内が広くて迷うのもムリは無いがガイドか同行の者を見失わないように気をつければいいののに。韓国は服装も顔立ちも日本人と似ているから遠目には区別できないので、見失ったのだろう。

 別のツアーの万里の長城でも迷子事件があった。
ロープウェイで登り、帰りは長城を10分ほど歩いて下ったお寺ということで三々五々見物しながら歩き始めた。私の目には横路なんて目に付かなかったが、曲がった人がいたのだ。集合場所に現れずちょっとした騒ぎになった。50前の夫婦者だったが、辿り着いた時は日ごろの饒舌も消えて蒼ざめていた。きっと旦那さんの所為にされてひと悶着あったと思われる、そういう感じがする奥さんだった。
無事合流した後は笑い話になるが、言葉の通じない異国では心細いだろう。

 他人のことは言えない、笑えないが自分としては気をつけているツモリだ。集合時間はギリギリでその場所へ行き、バスに乗り込むのは何時も皆が席に坐っている中をアタマを下げ下げ自席に着く。でも時間に遅れて迷惑をかけるようなことはしていない。ましてや迷子になるようなことはしない。
集合場所と時間はアタマに入れている。(ツモリ・・)
でも気をつけねば・・・

迷子

2006年12月11日 09時34分34秒 | 懐かしい旅の記録
 ツアーで迷子、大人を迷子という言い方はヘンだが他の表現を知らないのでそう使う。ツアーメンバーが移動中にはぐれてしまった事件が起きた。
タイのエメラルド寺院から次の寺院へ移動する為に船着場まで行く途中で数名が逸れてしまった。あのツアーは日本からの添乗員は無しだった。福岡空港でチケットを渡され、釜山、インチョンではこの券を出して・・・と説明されタイへの到着は夜中、現地ガイドの迎えがあり、翌日から1週間日本語が話せるそのガイドさんとバス旅行をした。バスは2台で各々20名近くの人員だった。

 イサーンやカンナチャプリの田舎では遅れる人がいてもそれほど問題は出なかった。その日は最終日で、午後にバンコクに入り市内の寺院を何個所か廻って夕食を済ませて飛行場から帰路に着くスケジュールであった。
エメラルド寺院から船着場へ向かう時に迷子事件が勃発した。あのような雑踏の中を歩くのならもう少し事前の注意とか目印の旗なりを準備しておけばよかったのに、しかも三々五々という感じで歩き出した。列は長くなり通行人はその列に割り込んでくるし、道路を横断する時に車やバイクで遮られたりと一行はバラバラにされた。私もガイドを見失わないように気をつけていたがそれでも曲がり角でどの方向へ行ったのか迷ったほどだ。迷いながらも桟橋に着いた。他のメンバーもボチボチと到着する。しかし数名の顔が見えない、遊覧船に乗り込んで暫らく待っても来ないので皆で探しに行く。

 こちらも迷ったら困るので角々に一組づつ立ってもらい見える範囲での行動とした。大勢の人が行き交い立っているだけで邪魔になるほどの人出だ。逸れただろう地点から筋道を手分けして入ったが見つけられない。もしや別ルートで船着場に行ったかもしれないと皆に合図して戻る。しかしいない。船着場は他の船が出たり入ったりして我々の船が泊まりっ放しでジャマになっているからと、そこにいったん沖に出てで待つことになった。現地ガイド兼添乗員だけが探しに行くことになった。待つこと数十分船が桟橋に戻ったら、添乗員と迷子になった方々の顔が見えた。

 やはり角を曲がり損ねて真っ直ぐ進んだようだ。迷子になったグループはイチバン元気の良い人がいたのでそれなりに心強かったであろう。だいぶ時間をロスしたのでそれから見れたのは一ヵ所だけになってしまった。それでも宝石屋には連れ込まれた。
あとで聞くと合流できなかった場合は飛行場へ行って待つツモリだったとの事。正しい選択だろう。荷物はバスに乗っているので身一つで飛行場へ行けばいいので若干のバーツさえあればいい。他人事だからそのように冷静さを持って話せ笑えるけど、私が逸れたらどうしていたか、右往左往していたのか。

まっ、そうならないように気をつけよう。
なにせ私は金を持たずに動いているのだから。

旅先での日本食

2006年11月05日 06時16分16秒 | 懐かしい旅の記録
 10日間も2週間も旅をしていると現地食に飽きて日本食が恋しくなるのか、食事どきにグチを漏らす人がいる。それを見越して旅行社も現地の受け入れ旅行社やホテルに日本食をリクエストすることもあるようだし、あるいは現地の好意で日本食が出る場合もある。
 私は食事に拘らないタイプなので日本食が出なくても一向に困らない。これまでの経験上むしろ出ない方が良い。現地の日本食なんてマガイモノが多くて日本風にもならないシロモノが殆んどだからだ。あんな日本食なら出してもらいたくない。

 これまででいちばん最悪な日本食はタイのカンチャナブリ、戦場にかける橋で有名な地方でそこの近くのリゾート地と説明されたホテルでのことです。
ゴルフコース脇に建てられたバンガロー風な部屋からは池で泳ぐ白鳥が見え、なだらかな起伏は芝生や緑に覆われて山まで続いている。素晴らしいロケーションだった。部屋もふた間ありそれぞれが広く都市型とは全く違う造りなので大満足だった。

 タイ最後の夜だったので、添乗員からそろそろ日本食が恋しくなった頃でしょうから、今夜は日本食を用意してありますと説明があった。
時間になったのでディナーバイキングへ行ったら、ご飯に味噌汁、煮付けなどが並んでいる。それぞれをお盆に載せて席に着きビールで喉を湿らせてから味噌汁を口にした。
マズイ、ソーメンは我が故郷のソーミン・プットゥルーがはるかに美味しい。その他のモノもダメ。
食事が美味しいといわれ、また美味しく頂き満足してきたこのタイ旅行の最後の夕食に何故日本食を出すのか、しかも口に出来ないほどマズイものを、私が作ってもアレ以上の味になる。

 あの時もモニターツアーと銘打って募集していたので、直ぐ飛びつきたくなる価格だった、それで少々の事には文句を言わない、言えないと考えていたがアレにはひと言文句を言うた。フツーのタイ料理が良かったのに。
 現地の受け入れ会社は日本側からのムチャな価格設定に対応する為に食事の質を落としたのだろうと考えざるを得なかった。

 全てを含んで1日1万円以下であれほどの旅行が出来たのだから大満足です。惜しむらくは郷に入らば郷に従えを貫いて欲しかった。

会報の原稿

2006年10月30日 07時41分55秒 | 懐かしい旅の記録
 学生時代に山岳部に所属していた。勿論今はOB会のメンバーである。
私は卒業以来殆んど山歩きをしていない、山歩きどころかハイキングすらしていない。ところがOB会の面々は大方の人が今でも山の現役である。山を楽しむ内容は万バーそれぞれだが山の現役なのだ。

 会報の原稿募集通知が来た、原稿用紙4枚程度とのこと。
さて何について書こうか、卒業以来山に登っていないので山登りについては書けない。皆さんは適当に登っているので、山行やハイキングその帰りの温泉三昧のことなど題材が豊富だろう。

 ところが私は山登りをしていない、ハイキングもしていないので山に関連したことを書くとなるとスイス旅行のことしかない。でもスイスはロープウェイやケーブルカーなどの乗り物で山頂近くまでヒョイと行き、チョコッと歩いて頂を踏むので山登りとは言いがたい。
観光旅行なので日程をおって書いても山行記録にならない。それでもスイスの事を書くとなると視点を変えて、構成を変えて何か別のスタイルの旅日記若しくは紀行風にするしかない。

 私が始めてスイスへ行った前年に学士会としてスイスへ出かけ、しかもほぼ同じ地域なので、フツーの書き方をしてもツマラナイ。
どのような組み立て方をするか・・、主題、クライマックスは何にするか。基本的なことが思いつかない。

 スイスの山の美しさ、里の美しさ
 スイスに嵌まってしまった理由
 個人旅行が容易に行える事
 駅に佇む女性
 汽車、登山電車、船、ロープウェイ、リフト等の交通システム
 山岳ホテル、宿について
 食事
 
 これらの事をどのように1本の線で繋ぐか。締め切りは年内なのでまだ時間はある、もっと練ってそれらしいものにしよう。
構成、主なテーマ、芯になるモノは何か・・・
無限ループに陥りそう。

あれこれ(二) 火事

2006年10月23日 06時17分24秒 | 懐かしい旅の記録
マニラで中華街を見物したとき気付いたのだが、街角に消防車が停まっている。それも何ヶ所かに停まっている。案内してくれた方に聞くと、中華街は何時も混雑しているので消防車が来るのに時間が掛かるしマニラの消防士の質の問題もある。それに木造家屋も多いのですばやく対処する為に地域で消防を設立したようだ。車体に漢字で自警消防団のような意味の文字が書かれていた。

 ことあらば近くの人が飛び乗って消火活動をするのだろう。公的な消防活動に頼っておれない状況と中国人の団結の力を見た思いがした。

 ある時ハリソンプラザの斜め向かいの密集した住宅地で火災が発生した。真昼間の火事で家財道具を持ち出す人や消火活動する人それに野次馬で付近はごった返していた。私も野次馬の一人としてうろついていた。
消防車が何台も着た、そこへ中華街のあのボランティア消防車も来た。10t車の水用タンクローリーの上には数名の人間が坐っている、あのような場所に坐って出動するとはいかにもフィリピンの光景だ。到着すると飛び降りて野次馬を整理しながらタンクローリーを誘導している。バックするときは細い棒切れでタンクをリズム良く叩きながら運転手に合図している、確かに騒がしい中での合図にはピッタリだと感心した。

 乾季で乾燥した時期だったので次々と延焼していく、その日の前日にも近くで火災が発生したので不審火のようだ。住民同士で罵り合っている人もいたし、その横で半狂乱になった女性もいる。野次馬の目にはいつもの火事場風景だった。
被災者数で言えば日本の同程度の火事に比べて数倍の人数になるだろう。なけなしの家財を失った人はホントに気の毒だ。

 旅先で火事に遭い野次馬になるとは思いもしなかった。

旅 あれこれ(一)

2006年10月19日 13時36分55秒 | 懐かしい旅の記録
 トルコのコンヤで観光バスが横転する事故があり死傷者が出たとの報道があった。
原因はスリップ、雨、断食月の影響などいろいろ報じられているがどれも合っている様な気がする。
 いくらコンヤだからというてバスまでクルクル廻らなくてもいいのに、スーフィー教団のパワー恐るべし。(笑)

 去年の今頃その方面を旅した者としてちょっと複雑な思い出ニュースを見聞きした。コンヤはトルコの中央部にあり、アンタルヤからの山道が雪を被りバスの車輪にチェーン装備するのに手間取っていた。その間雪遊びをしたら”ホントにオキナワから来たの? 雪は珍しいでしょうネ。”とツアー仲間の皆さんと一挙に打ち解けた。
せっかくの旅で事故に遭われた方々に同情します。

 明日は我が身にならない事を祈るばかりです。

 分厚い戦史はヘブル人の項に入った、アビル人にヘブル人、カナーンの地、部族集団とイスラエルと出てくるが、旧約の出エジプト記を思い出しながら読むとユダヤの歴史がぼんやりと浮かんでくる。

 けっこう酷い連中だ初期のヘブル人は、今もその血が流れている気がせんでも無い、イスラエルの今現在続けている残虐な行為は有史以来の民族的な性格なのだろう。

 さてルクソールをGoogleEarthで見ると神殿まではっきり分かる、観光用の概念図とは違うものがある。未だ見ぬ神殿を空から眺めて楽しんだ。

サウナで臨検

2006年03月13日 10時01分07秒 | 懐かしい旅の記録
 フィリピンからの帰りに台北ー那覇の予約が出来ないまま台湾入りしたことがあった。金が無いので安宿を探さねばならない。
空港の宿泊案内所で探すとまあまあの値段のホテルを紹介してもらい、ホテルの送迎バスに乗った。

 市内に入りホテルに客を降ろしていく、ある通りに出たら見覚えがある。かつて宿泊した事のあるホテルに付近を走っている。そうだこの近くにサウナがあると突如閃いたので次ぎ止ったホテル前で降りた。
運転手はホテルが違う、と言うているようだが知っているので後から行くと日本語で言い強引に降りた。

 通りは森林北路だったのです、あの偽ブランドショップのあるところだ。もちろんその頃は偽ブランドショップなんてあったかどうかも知らなかったけど。
近くのバーによく行ったので覚えていた。

 その店に行くとホステスは既に出勤している、サウナまで案内してもらった。後で飲みに行くからと言うたが金の持ち合わせが無かったので行かなかった。
その夜はサウナに泊まるつもりだった。一番安上がりだろう。
風呂に入り英語の字幕入りの映画を見て時間を潰していると夜中に騒がしくなった。制服姿のオマワリか兵隊が集団で入ってきて何かを言いながら一人一人尋問を始めている。私は訳が分からないので長いすに寝そべったままでいた。

 何か問いかけてくるが全く分からないので、日本人だとト言うとパスポートを見せろと言う。これは全て英語に日本語ジェスチャーでの会話です。パスポートは貴重品ボックスに預けてあるのでフロントで開けてもらい提示する。
問題は無く直ぐ終わった、しかし暫らくすると別の憲兵(?)が来てまた何かを言う、もう既に終わったと言いたいが言葉が通じない、しょうがないので預けたパスポートを又受け取って見せる。
 このような臨検が時々あるらしい様子だった。十数年前の台湾はこういうこともあった。

 裸になったらウチナーンチュもヤマトゥも台湾人も分からない。湯船が暑いとかぬるいとかで話しかけられたこともしばしばある、ただ肩を上げて手を広げる仕草しか出来ないけど。
台北はサウナが多いのでホテル代わりに利用できる。

ビザ

2006年03月11日 15時53分21秒 | 懐かしい旅の記録
 一昔前は台湾へ行くのにビザが必要だった。
市内のビルの一角にあった中琉友好協会へ出かけてビザを発行してもらった。その日に発行されず必ず二度足を運ぶのである。
ビザはパスポートに直接スタンプで押すのではなくてB5用紙1枚の証明書のようなスタイルだった。

 ある時マニラ空港で中華航空カウンターのフィリピン人スタッフが台湾のビザを見せるようにいうので那覇で取ったビザを見せた。ところがそのスタッフが言うには、ビザとはパスポートにスタンプで押されている、この紙切れでは乗れないという。
オキナワで申請するとビザはこのスタイルで発行されるのだ、と説明しても聞いてくれない。私も説明したい事を英語で言えるほどの力が無い、なんやかんややり合って台湾に入国できなくていいからと強引に捻じ込んだことがあった。

 またマニラで台湾のビザを申請したことがある、大勢のフィリピン人がロビーで待っているので私も順番を待っていたら、係員風のオバチャンが近づいてきて「ジャパニーズ?」と聞くので"yes”と答えた。
付いて来いという仕草をするので後から付いていった、窓口の一番前に連れて行かれて割り込みさせてもらった。
素直に喜んでいいのかと複雑な気持ちになった。フィリピン人は出稼ぎなので審査に時間が掛かるから観光か通過客を優先したのだろう。


 その頃仕事で数回フィリピンへ出かけたことがある。フィリピンへ行くにはノースウェスト航空の直行便があったが路線廃止になり、台北か香港経由で行くしかなかった。
当時は台湾からの団体観光客が多くて毎便満席状態で、キャンセル待ちをしても団体客からキャンセル組みがでることは殆んど無いので席の確保に苦労した。行きは取れても帰りが取れずに帰りはオープンで出発することもまま在った。

 マニラでの滞在延長手続きをイントラムルスの入管でやったことがある。旅行者に任そうと思ったが、残りの滞在日数が短過ぎて旅行社経由では間に合わないので自分で申請した。
訳も分からず窓口で申請用紙を貰い書き込もうとしたが要領を得ずマゴマゴしていると受け付けた係官がオレに任せろと言い、ブローカーらしい人を紹介した。
ブローカーは私の滞在先を尋ねて手数料は申請量が幾らで謝礼が幾ら、翌日の何時に滞在先に届けると言いパスポートを持って行った。

 さて私は彼が何処の誰かも知れない、係官は「のープレブロム」とだけ。
ホントに大丈夫だろうかと心配したが後の祭り、指定された時間に待っているとブローカーらしき男が来た、所定の費用を支払いパスポートを受け取った、ちゃんと滞在延長のスタンプがあった。
交通費とかチップを要求されたが金が切れ掛かっていたので断った。

 もしパスポートを持ち逃げされても、[アホなことをして・・」を言われてもしょうがないやり方だった。
しかしフィリピンで騙された事は無い。言われているほど悪い所ではないですよ。たぶんヨコシマな考えを持って何かしでかそうと考えたら騙されるのだろう。

写真はイントラムルス サンチャゴ要塞の堀の蓮

匂い 風貌

2006年03月09日 07時18分01秒 | 懐かしい旅の記録
 人にはそれぞれ個人を現す何かが出ているのだろうか。
ある年の瀬に趣味のグルーぷの食事会があった。食事ワイン酒に満ち足りて店を出て松山の繁華街を通り抜けようと歩いていると、そこはマツヤマ客引きが大勢いる。オニイチャンに可愛いオンナの子がチケット風なモノを渡しながら話しかけている、中には袖をつかまれている人も目に入る。

 参ったな~、私はああいうのに弱いのだ。断るのに苦労する、なんと言うて断ろうかと考えながら歩く、他のメンバーは少し遅れて付いて来る。ちょっと身構えながらオンナの子の横を通り過ぎる、が、何の反応もしない。遠目に見たときは確か客の袖を掴んでいたのに、今掴まれるか何か言葉を掛けられるかと身体を硬くしながら歩く私に全く反応しない。通り過ぎて後ろを振り向くと私のメンバー達は声を掛けられているようだ。

 ”ナンでだヨ~”どうして私に声を掛けないのだ、袖を引っぱらないのだ! オカシイと思い引き返してもう一度その子の前を歩くも全く反応しない。
オモシロク無い、私の尊厳がいたく傷つけられた感じがした。せっかく身構えていたのに無視するとは。
こういう連中は迷惑防止条例で検挙しろ、と心の中で思った。

 台北での話、例の偽ブランドショップを出てから皆さんは飲みに行くという、私はホテルまで歩いて帰れそうだったので散歩する事にした。近くにルイヴィトンの専門店があったので独りで笑った。
 裏通りを歩いていると女性が歩いてくる、すれ違いざまに声を掛けてきた「可愛いオンナのがいるヨ。」取り合わずにそのまま歩くと、付いて来てしきりに話しかける。メンドウと思ったので相手にしなかったが突然「お兄さんはオキナワから来たでしょう。」と言う。

 突然言われたので”そうだ”と答えた。何で知っているのだ、あの暗がりの中でどうして私がウチナーンチュと分かるのか不思議だ。その理由を聞くと「だって分かるもん。」程度の答しか聞けなかった。
東京とか京都の人には見えないのだろうか。
そう見て欲しい~!

 私は自分では極フツーの人間と思っているのに、傍から見ると文無しのシマーグァーに見えるか・・・
知性が発散するような雰囲気を醸し出したいのに。
40才を過ぎたら自分の顔は自分で責任を持たねばならない、とはリンカーンの言葉だったと思う。
直すにはもう遅すぎる、手遅れか・・・

流行り廃り

2006年03月08日 07時44分27秒 | 懐かしい旅の記録
 むかし流行った所だが今は寂れてしまい見る影も無いというのは多い。
桜坂が前島に移りさらに松山へというのと同じ、那覇の飲み屋のことです。同じようなこと、話しは何処にでもある、台北にもあるその代表例が園環だと思う。

 かつてのガイドブックには紹介記事が載っている。ロータリーの中に店がゴチャゴチャとありおもしろい場所だと書かれている。
私も始めて台湾へ行った時同行の(というより連れて行った貰った人)にエンカンへ行きたいとお願いして寄ってもらった。しかしその頃から衰退の様子がありありとあった。その後も行ったが今の桜坂状態になっていた。

 この小父さん達の一員に台湾に詳しいという方がおられた、その方が”台北にきたら園環だ、エンカンへ行こうとしきりに皆んなを誘う。"居候の状態で参加した私だが始めて訪れるメンバーもいるので反対して士林夜市へと強引に変更させた。
 台北は任せておきなさいという話し振りだが今頃園環なんていう知識の古さには閉口する、何回も来ているはずなのに。 
不満ありありの顔だったが私には自信があった、タクシーに分乗し私はその方と一緒に乗り士林へ。

 士林夜市の雑踏道路を占拠して品物を並べて客の相手をする人を見るだけで熱気が伝わってくる。駄菓子にペット、雑貨に屋台、若者向けグッズから用途不明のモノまで何がなんだか分からないほどの賑わいだ、逸れない様に気をつけながら一軒の店に入り軽く食べた。
 みなさん喜んでいた。フロクで参加して小さくなっていた私は一躍面目躍如だった、まあこんな事でもお返しが出来て私も良かったです。

 ついでというか、誰しもが一応に閉口する臭豆腐を買って皆さんに振舞った。金の無い私だが屋台で臭豆腐を買う程度は持っている、アツアツに揚げられた豆腐を持っていくと臭さが全く無くなっているのにオドロキ、物珍しさで口に運ぶ、先ほどの店ではエビを奢られたが私の臭豆腐の方が話題性があった。

 私のビンボウ旅行、何でも見てやろう食ってやろうの経験が役に立った時でした。おかげで金も出さなかったのに精神的にラクになった。

写真は 臭豆腐を揚げている場面です。
   台北で異様な臭い、クサイと感じたら近くに臭豆腐の屋台があるはずです。