えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

本と読書のこと

2009年10月14日 | 雑記
今日見かけた「SPA!」で書痴を特集しているのを見て、ちょっとうなってしまいました。

そこで紹介している「本が好きな人」とやらは、本のために家を改装し、本を集め集めすぎてダンボールにつめた本の上で寝ていたり、床板を外せば本、壁には書棚、本で埋まった部屋に埋もれて自信げに笑う人々の写真と詰められた本たちが載っていました。

さすがにダンボールに詰めてその上に寝ている人へは編集者(あるいはライター)も「そりゃ本末転倒じゃないの」と裏拳つっこみを入れてはいたものの、どうも本好きと読書好きは違うんじゃあないかというモヤモヤが写真をみてはっきりしました。その人は本を手に捧げてにこやかにカメラに写っていたけれど、脇のことばに「表紙で買い、読んだこともないこともある」とあって、手にしていた本は白黒写真ながらもきめが分かるほど丁寧につくられた紙に、金を埋め込んだかのような文字が印字された表紙で、見るからにモノとしてすばらしい物であることはわかるのでしたが、手に取られたが故のへずれや汚れはどこにも見えなくて(白黒だからかもしれませんが)、あ、読まれてないのか、と感じました。

本を手に外出することが多い私はしょっちゅう本を鞄にいれて、薄いカバーだとずれたところから直ぐにくちゃくちゃさせてしまうのですが、そうした読み方はこうした人の対極にあって、こうした人から見れば「本がいたんで、お気の毒」ということになるのでしょう。ただ「本が読めなくて、お気の毒」ということではないことに思い至ります。ほんとに読んで理解しつくすまで読み込んで、活字を舌先で拾いこむように言葉を口にしている人達はいつでもそうしていたいので、本を抱え込む気持ちは分からなくも無いのですが、「奥付の印刷がひとつひとつちがうから」と個性の違う同じ本を抱え込んでにやけている笑顔には首をかしげてしまいました。

働き出して本が読めない、ということはそこまでなくて、満員電車のラッシュに押しつぶされながら人と人との隙間にはまった手に握られた文庫本のページをめくって読むことも出来ますし、考えて読みたければ自分で時間を作って読めばよいことなので、そうそう読書と人との時間は切り離せないのではないかと思います。
文庫本片手に過ごすか、書庫の中でモノという本に埋もれて悦にいるか。

楽しみ方はどちらとも。本で読むことが好きな人とモノとしての本がただ好きな人とを混同しないように、せいぜい気をつけたいものです。

孔子は4巻を切り、ページ数でいえば残りは40ページをきりました。
なんだかどんどんツンデ……いやいや。
ちょっと弟子につっこまれただけで「今のナシ。ちょっぴりからかっただけさ☆(前言戯之耳)」なんて言うのも深い考えあってのこと。
たぶん。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする