えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・『エフィー・グレイ』雑感

2020年09月12日 | コラム
 顔だけを別のモデルに差し替えたという青いドレスの女は胸の下で手を組み合わせ、分厚い天蓋の奥のベッドを眺めている。窓から差し込む光が床を水色に染める中、女の赤銅色の髪が昼の光のように輝いている。ふっくらした胸元からコルセットに絞めつけられたウエストに流れる体の線はまろやかながら、緊張に張りつめているようにも思える。ジョン・エヴァレット・ミレイの『聖アグネス祭前夜』が発表された当時の彼女はこれでも「痩せている」という評価を受けたそうだが、彼女の体は豊かに豪奢な部屋の真ん中の空間を文鎮のように占めている。その、体のほうのモデルを務めた女性は妻のエフィー・グレイだ。

『エフィー・グレイ』は、ジョン・ラスキンの元妻でありジョン・エヴァレット・ミレイと連れ添った女性の伝記である。片や著述家で批評家、片やイギリスを代表する画家の偉業は彼女の人生と重なり合い、彼女は彼女の目で二人と暮らしてゆく。著者はエフィー・グレイが家族や友人たちと交わした膨大な書簡から一人の女性を確実に浮かび上がらせる仕事に成功し、なおかつ二人の男性の仕事を彼女を通して批評して見せる。

 スコットランドの広大な敷地を持つ家と多くの弟妹に囲まれたエフィー・グレイがジョン・ラスキンに見初められたのはわずか十二歳の頃だ。一回り以上歳の離れたラスキンはあけすけな言葉を使えば少女が趣味で、一人っ子の育ちが災いしたのか両親とは異常に仲が良く、妻となる人間には過剰な理想を抱いていた。結果、十九歳で彼に嫁いだエフィーは彼のお眼鏡にかなわず、義理の両親たちは過剰な干渉を続けたあげくに妻を残して夫を長い旅行へ連れ出す始末で、五年もの間不幸な結婚生活を送ることとなる。そこから脱出することをエフィーと彼女の家族は選び、裁判所へ離婚を訴えたことが彼女の人生に大きな影響を及ぼした。

 二人目の夫ミレイはラスキンの紹介でエフィーと出会った。けれどもその出会いは単なる友人の紹介ではなく、あわよくばエフィーへ汚名を着せるために用意されたいけにえとも呼べるものだった。ラスキンの妻であるエフィーに恋したミレイはラスキンの思惑を薄々感じ取りつつ……と、エフィーの離婚はここだけで一冊を使い切りそうなほど複雑な時代背景と人間関係のしがらみに満ちているが、著者はエフィーの辿った道筋から脱線することなく人生航路の前半として相応しい分量にとどめている。彼らの生きた十九世紀では女性側から離婚を申し立て、それが受領されることがきわめてまれなことであり、エフィーはその先陣を切った女性だった。

 劇的な離婚ののちミレイと結婚したエフィーは母親として、子どもが大人になれば祖母として役割を変えてゆく。かつての離婚が尾を引きヴィクトリア女王から謁見を拒まれるという不名誉を与えられた彼女が、夫ミレイの最後の懇願により謁見を許され、社交界にデビューして以来数十年を経て女王に謁見する場面は圧巻のひとことだ。そして夫を失った彼女はロンドンの自宅を売り払い、幼き日を過ごしたスコットランドに帰郷する。誰にも手紙を送ることのなくなった余生を後世に残すことなく、静かに息を引きとり、静かにグレイ家の墓所へ埋葬された。

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