えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・きみは今こいし

2018年04月14日 | コラム
「引き取った頃はすごく太っていて、ゆでキャベツで1.5kgもダイエットさせました」
「そりゃ苦労ですね」

 駅までの道中で散歩中の犬を撫でた。黒いロングコートのチワワで品の良い少女のような顔立ちをしていた。飼い主の女性に伺うと名前は「アンジュ」で、保護したのだという。何でも前の飼い主の若夫婦が、子どもを二人産んだことを切欠に世話を放棄され、現在の飼い主が引き取った頃にはトイレの時以外にケージから出してもらえず、折角の長い毛並みもフケだらけの有様だったそうだ。

「女の子が欲しかったそうなんですけどね、二人とも男の子で予定通りいかなかったせいなのかなあ。奥さんがノイローゼのようになってしまったんですよ」
 この子は女の子だから、長女として可愛がってあげれば良かったのに、と、「アンジュ」の顔をくすぐりながら現飼い主は言った。「天使」という意味の名前をつけられて溺愛されながら、急に態度と生活をひっくり返された様子へ『山椒大夫』の「安寿」を思い浮かべて口に出すのはやめた。「そのご夫婦も余裕がなくなってしまったのでしょうね」と返す私へチワワはすっかり背中を預け、いい加減に毛を梳いたり小さな背中を揉んだりと好き放題させていた。

 犬のくせに他の犬が苦手で、周囲の空気にも敏感な安寿は撫でられている間も人が通ると首をもたげて緊張した面持ちになっていた。現飼い主の尽力でかなり心は落ち着いたそうだが、忙しくて安寿をかまえない時にはあからさまに不安な様子を見せ、夜も突然起きて、まるで「まだ自分は前の家にいるのだろうか」と怖がるようにきょろきょろする。現飼い主に「大丈夫だよ」と撫でられ、宥められて眠るのだという。
「時間をかければもっと落ち着いてくれると思うけれど、一度受けた経験をゼロにはできないでしょうね」
 撫でるのがへたくそなのを見抜かれたか、現飼い主の膝元へ安寿は戻って座り込み、頬から喉にかけてゆるゆると撫でられていた。

 ケージの一件から安寿は家では絶対に用を足そうとはせず、一度我慢できずに粗相をしたところへ置かれた犬用のトイレも使わない。そのため毎日の散歩は絶対で、安寿を理由に外出ができる、と飼い主は冗談交じりに言った。「家でトイレをするとケージに閉じ込められて出してもらえない」という安寿の思い込みは強く、用を足さないのではなく足せないのではないか、と飼い主は言った。家でもケージは使わずに好きにさせているが、いたずらもせず大人しいとのことだ。

 この話の間、安寿は一度も吠えなかった。私に背を預けたのも、背中を掻いてくれろとくつろいだ気分になっているのだそうだ。最初に近寄ってきたのは安寿からで、手の匂いを嗅いで軽く撫でられても声を上げなかったところ、そういう解釈でよいのだろう。真意は安寿の胸の中だが、欅木立を歩き去ってゆく安寿はどことなく穏やかに見えた。

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