えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

:読書感『赤い魚の夫婦』 グアダルーペ・ネッテル

2022年02月12日 | コラム
 南米の作家の書いたものは日本語に訳されていても日本でも見かける人間模様の泥沼を描いていても、不思議と強烈な陽光の白い明るさと暑熱を本の底から感じるが、グアダルーペ・ネッテルの短編集『赤い魚の夫婦』はそれらから逃げるように関係性の檻へ引きこもっている。ジョルジュ・シムノンの『猫』や『メグレと老夫婦』のようにある部屋で始終顔を突き合わせている夫婦や家族といった中途半端に血のつながっていない人間同士が、かつては繋がるために繋げていた関係性の縄が徐々にくたびれてゆくに従って、ゆっくりと暗がりの中で人間の感情が腐食する過程の倦怠感を覚える。どの作品も沈鬱で手足を広げれば壁に突き当たるような狭さで息が詰まる。

 表題作『赤い魚の夫婦』では妊娠をきっかけに休職した「わたし」と夫の、それこそ日本でもそこらの手近なマンションを覗いてみれば同じ問題に顔を顰めている夫婦がいくらでも見当たりそうなすれ違いを書いていく。生まれたばかりの赤ん坊を挟む若い夫婦をよそにペタの夫婦は象徴的に仲がよい、ということはなく、問題をすり替えるように「わたし」が聞きかじりの知識で得た攻撃性を避けようと大きな水槽へ二匹を移して環境を変えたことでかえって互いを攻撃しだすようになる。魚の色彩のアクセントが文章を色づける。魚を観察しながら「わたし」は自分と夫を観察する。

「闘魚のように現状に満足できない、不幸にとりつかれた者にとって水槽は、いくら広くても川や行けと比べればあまりにも狭かった。(中略)赤ん坊がいることのすばらしさも十分に喜べず、日がのぼることや自分たちが健康なこと、共にいられる幸運といった、無数のささやかな幸せにも気づかなかった。」

 彼女たちを取り囲む不幸もまたささやかで、たとえば赤ん坊をうまくあやせずに苛立つ夫へ「わたし」が手を貸そうとするとその手は夫のプライドに触れてしまい、子供よりも夫をあやす羽目になったり、「わたし」の母親に育児を手伝ってもらうことを夫が過剰に嫌がったり、まだ夫婦としてこなれていない他人同士のへずればかりが積み重なっていく。そして幸せごとひとつの家庭を埋め尽くし、夫婦は夫婦をやめることになる。この破綻を感情的な台詞回しを使わず劇的なものともせず、朽ちかけの廃墟を毎日スケッチするような観察で必要な線だけを残す手際の良さが珍しい。

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